無有日記

 

12/28

自然界は、自然に生じるものであればどんなことも受け入れ、それを次への原因に、ありのままに、さりげなく自然体の様を維持し続ける。だがしかし、自然とは程遠い、否定感情(不安、嫉妬、差別、支配etc.)発の人間世界での争いや、環境汚染(破壊、衰退)に繋がる、重く流れない原因の物質や行為が生じれば、当然のこととして、反発と修正の時を創り出す。

変異という言葉が天地と結びつくと、天変地異の四文字が生まれるが、天変と地異は、全くの別次のものである。太陽を嫌い、自然界の健全な変化を拒もうとする、蛇ガラス(神社)系(ほら穴軍団)の原因は、太陽の輝き(仕事)を阻もうと、厚い雲でそれを遮り、不穏な雨風の力で、自分たちが住みやすい環境を作ろうとする。それに耐えながらも、どうにもならない時を経験し続けると、地は、変動を起こし、それへの正直な反応を見せる。

暴風雨や豪雪の多くは、重たい存在たちの原因と繋がる、太陽への抵抗であり、地震は、基本的に、柔らかな自然界を基とする、地球の安心とも言える。結果ではない、その原因のところから観れば、天変は、人間世界発の病みであり、地異は、地球自然界にとっての、健全な反応である。

太陽は、数か月前の、ずっと雲に隠れていた(隠されていた)時の経験を、ここに活かす。同じことは、繰り返さない。太陽の輝きと、その大きな愛情。地は、それに応え、そのままであってはならない時へと向かう。時は、これまでの負の原因を切り離そうとし始める。

さて、2017年。まだまだこれから。みんなの時代の本編は、この辺りから。

12/25

…というわけで、2016年も、あと7日程。人々が初めて経験する、動植物たちのそれまでには無かった異様な(悲惨な)姿は、当然、その原因のところで、人間社会の、形無き部分の様々なところと繋がっていて、この時期の、イルミネーションの気狂い振りは、人の心の(原因の)野蛮化を如実に現す。

それは、多くの心ある人が常識とする、LED化がもたらす、未来への負の原因の風景。それは、この先どこまでも悪影響を及ぼし続け、自然界は、段々と自浄力を高めるべくそれへの反発を強め、修正・修復の時を迎える。

なぜ、この時に、LEDの本当の姿(嘘の原因)とその悪影響が表面化(現実化)したかは、「LED感染(7)」の他にも、別の路線(理由)が在る。そして、2017年、その理由となるエリアでの、全く別次の(地球規模の)ある原因の集合体が、じわじわと具体化する。それは、地球(大自然)が、本来の姿に戻ろうとする、新たな永遠の始まり。人間の智が永遠に及ぶことのないそれは、地球の安心の時となって、本当の太陽(黒点の影響を受けない元気な太陽)を迎え入れる。

人間は、その時、一生命としての人間ならではの普通(真の進化へのプロセス)を経験する。生命としての人間からかけ離れてしまっている人は、どこまでもあり得ない厳しさ(異常)を経験する。2017年は、地球感覚の「再生」の時とも言える。

今、この時に、すべきことを淡々と行えることが、その時の柔軟さと力強さへと繋がっていく。この今、自然界を守る(LED化から離れていることを普通に、本来の普通を生きる)ことは、自らを守り、未来へと確かな原因を繋ぐことになる。「LEDの影響(映像)」も、2017年春で、一周を回る。そこから、その時から、生命の息吹と、躍動の時を、全てと共に、人は経験する。

12/22

2.感性の健全さは、人が人として生きる上での、重要な要素。そこには、健康があり、平和がある。そこでの普通には、不健康(病気)や争い(衝突)の裏返し(対極)のそれではない、ありのままの人の生き方がある。

感性の健全さには、健康的な食環境が欠かせない。健康的な食環境には、食物の安心・安全が必須となる。そして、それらの元となる、作り手の健康的な暮らしと、それを支える、受け手の平和な心。そのひとつひとつの自然な関わりが、不健全さを知らない健全さを、人の感性に染み込ませていく。

感性が健全さを無くすと、何気ないその実践から離れた、言葉による理解でのみ通用する形ばかりの感性が力を持つ。感じることではなく、考え、抱え込むこと(意見、認識)が事を動かし、それによって生み出される世界に、人々の思考は、引き寄せられるようにして参加する。

作り手や受け手の中で、その経験が蓄積すると、不安や不穏に対する安心・安全が重要視され、怖れや心配を材料とするそれらへの姿勢が、幅を利かせるようになる。そして、健康も平和も、自らがそうである原因のそれではない、求め、期待する結果の、思考を忙しく、感情を働かせやすい性質のものとなる。

一度無くした感性の健全さは、知識世界を離れた、体験的知識をもってでしか取り戻すことは出来ず、そうではない知識や情報が先になる、思考を基にした直線的な体験を重ねてしまえば、どこまでもその不健全さに気づくこともなく、疑うこともない自らの(思考型の)健全さの中で、不健康と争いの原因を拡大させていく。

その極みが、自然界に生きる動植物たちへの不自然な感覚と、人間主体の歪な正しさである。感性が健全さを無くせば、その危うい普通は、安心・安全を狭い経験枠に止め、その気もなく、簡単に、生き物たちの生きる力を奪う。その不健全さが外れないままだと、無自覚に心ある人の自然な感性を病ませ、自然界と繋がる健康的な暮らしの基本形は、崩されていく。

感性の不健全さは、病み世の姿無き媒体であり、混乱と衰退の計り知れない負の原因となるもの。その不健全さ(感性の無さ)とフィットし、食物の安心・安全からも、健康的な食環境からも程遠いLED照明は、それが存在し続ける限り、不健全さを普通に、不健康に無感覚でいる人を増やしていく原因。その有ってはならない現実の中では、何をしても、どこへ行っても、健康・健全は経験できないまま。LED空間では、どんな人も、感性という、(生命としての)感覚世界を経験することはない。

12/20

1.悲しみの現実を知った時、人は、それをどうにかしたいと思う。その原因に、自分が何らかの関わりを持っていることを知った時、尚更それをどうにかしなきゃと思う。そして、それまでとは違う自分を選択し、そうである悲しみの現実を、その原因から変えていく。

悲しみの中に居る存在と、その想い(切なさ、苦しみ)を共有する経験は要らない。それは、ごまかし。それは、そう思うことで良しとする、心の無さ。人としてすべきことは、その悲しみを終わらせること。その原因を生きること。そして、互いにそこから自由でいて、そうではない現実を淡々と過ごす。人は、それを普通とする。

悲しみの風景ひとつとっても、それへの対応がどんなかで、その人の内面の性質がオープンになる。永い歴史の中で、無くてもいいはずの悲しみの感情を繰り返し感じ、感じさせてきた人間。悲しみは、それがどんな原因のものであっても、そうではなくなる時へと流れて行くもの。悲しみを前提とした優しさ(愛情)も、悲しみの果ての安心(平和)も、その原料は、悲しみである。

今の時代における、LED関わりの悲しみは、それがどんな場所の、どんな様子のものであっても、その全てを、確実に終わりへと向かわせるべく責任を、誰もが担う。その理由は、すでに「LED感染(1〜9)」の中で書いてきている。悲しみの質が、生命世界の基本的な営みの、その多次元的な原因にまで及ぶ、LEDによる災い(悪影響)。それをそのままに出来る経験を、自然界は望まない。それを放って置ける感覚も、人間の心の世界には無い。

人は、悲しみを知らないところから始まり、どんな悲しみも、そのままにすることもなく、何も無いところへと、その全てをいざなう。ただそれに添い、その意思を具現化させる。LED化の舞台で、人間世界の真が試され、人間本来の基本形が、力強くなる。

12/18

23.形が無くとも、生きていく上での基本要素として大切にされる心や魂のように、人は、全ての存在の中に絶えず息づいている原因の世界を、感覚的に知る。その感覚を感覚のままに、思考を働かせず、そのままを生きる。始まりも終わりも無いその世界に居て、時を癒す風になり、互いの生命を生かす水になる。そして、自らが、地球の原因となる。

原因は、どこまで行っても、どれだけ遡っても、何をしても、何があっても、ありのままの原因である。それは、あらゆるものが、生命としての望ましい姿へと瞬時に変わり得る原因とも繋がり、どんなことも同じままではいられない原因にも、どんな人も変化・成長せざるを得ない原因にも、多次元的に繋がっている。

だから、あたり前に原因を生きる。「無意識」のテーマを普通に、原因の世界の性質を、成長・進化させていく。ふと気づけば、自然界と人間世界との違いが分からない程、愛溢れた優しい世界になっている。誰もが普通に、健康と平和の原因の中に居る。

12/17

N 次の世代にも、次の時代にも繋いで行きたい、皆が自然体でずっと大切にしてきたもの。それがかなわなくなることの悲しみは、誰にとっても耐えられない。植物にも動物にも自然と伝わる、人の心の、その性質。彼らがそれを避けるようになることだけは、決して経験したくない。だから、LED照明を無くす。そのための今を、次の世代に、次の時代に経験させてはならない。

僕らは皆、この地球に一生命として生きる、人間という生き物である。自然環境も社会環境も、そこでのその本質は、誰(何か)のためでもなく、みんなにとっての、ありのままの全体であり、どちらでもなく、どちらでもある、変化そのものの中庸である。そこに、平和と健康のエッセンス(原因)はあり、未来へのさりげない責任も、みんなの地球感覚もある。それを外して、人が人を生きることは出来ず、当然のことながら、環境のことも、エネルギーのことも、語れない。

LED化は、その人間の、本来の在り様を否定することから始まる。LED照明は、その人間らしい人間の姿を避けるようにして、負の原因の仕事を担う。「LED感染」を自らの体験的知識に重ねたら、人としての当然の義務としての、未来への責任ある原因(の選択)を実践する。次の時代の子供たちのために、この今、すべきことをする。

LED感染(9)」は、自然界発の、ありったけの愛情を形にする。そこにある厳しさも、鋭い指摘(辛辣な表現)も、自然界の包容力のひとつでしかなく、そのどれもに、生命世界の喜びと安心がある。

人間が、これからも真の人間であるために、形(文章)になろうとする彼ら自然界の意思に、余裕で思考を預けてみた。難しいことは、何も無い。ただ、さりげなく真剣に、未来が喜ぶ原因を選択し、本来を生きる。それだけ。地球は、みんなのこの時代に、みんなの地球になる。

12/14

22.原因は、生命の本質、生きることそのもの。それを避けて、人は生きることは出来ず、意識するまでもなくそうである(原因を生きる)自分でなければ、生命としての人間ではなくなる。

だから、頭の中にだけ存在する結果は、この今に繋がるその時の(それまでの)、結果という名の次への原因として捉え、ただ淡々と、新たな次の、柔らかで確かな原因でいる。求めず、探さず、事の手前の原因(の性質)に正直に引き寄せられる現実を通して、その(原因の)質を高めていく。そのことで、争いも衝突も、不健全も不公正も皆、その元から崩れ出す。

生命としての原因の無い証である、二者択一的価値観から離れ、自然界との融合の基本材料となる、中庸の世界に自らを重ねる。生命世界の原因の根源は、中庸であり、全体である。そこに居れば、全てがあり、何も要らなくなる。悲しみ嘆く風景も、昔話になる。

元来、人は、問題事とは無縁であるのだが、やむ無くそうである現実の中に居れば、さりげなく真剣に、心が望む原因を選択し、そのまま原因を生きる。ただそれだけ。その実践無くして、生きているとは言えない。そして、自らが、安心と平和、健康と調和の原因となる。それは、何でもないこと。それは、人間の普通。

そんな時を、私たちは生きている。原点回帰からの新たな原因の時を、ここで生きていく。

12/10

M LEDの車両(電車、バスetc.)には乗らない。LEDの光を浴びた食物は摂らない。LEDの画面は見続けない。そして、LED街灯の通りやLED照明の店舗には行かない。

それまでに染み込ませてしまったLEDの負の原因がキレイに浄化されるには、それなりの時間がかかるが、LEDから離れることで、いかにこれまで本来の自分ではなかったかを、切に思い知らされる。それはそのまま、要らない(有ってはならない)時間の、その負の蓄積の現れ。不健康でいたことにも、不健全さに馴れてしまっていたことにも、心身のこれまでにはない変化を通して、気づかされる。

健康でいることの大切な基本条件は、LED照明から離れていることとなる。LEDの光を浴びれば、人も空間も、農作物も動植物たちも皆、普通ではいられなくなることを考えれば、それは当然と言えば当然の話である。それを外して、健康は語れない。

原因不明の不調を抱えていたり、理由も無く精神(気持ち)が不安定であったりする人がいれば、LED照明との接点をたずねてみる。気力・体力を低下させたり、気持ちにムリ・ムラが生じていたりすれば、LEDの影響を疑ってみる。気づけば、病みの原因が動き、負の連鎖から外れる自分がいる。その理由を知るのは、後からでもいい。まずは、健康で元気になること。そして、健康で元気になったから分かることを大切にする。もちろんそこには、LED照明は無い。

LED照明を浴びれば、健康的な人ほど、代謝は乱れ、精神も不安定になる。感性の柔らかい人の目や鼻は不調になり、皮膚(顔面)は荒れ、髪の毛も元気を失くす。その因果関係の構図から遠いところで、負の影響力を及ぼし続けるLED。そこを離れ、外し、避けることで、身をもって、人はそれを実感する。

健康は、みんなのものである。病気や問題事から縁遠くにいることも、ひとりひとりの本来の普通である。その普通を退け、人知れずその原因を押し潰そうとする意思が具現化した、現代のLED化。だからこそ、思考(頭)を働かせ過ぎず、LED化が始まってから生み出された、それまでには無かった様々な負の現実(以前には見られなかった、不自然で不幸な出来事)を、余裕で観察する。そこに、隠しようのない、LEDの病みの(危うい)要素がある。

12/06

21.言葉になるまでもなく、全ての存在がそのままで原因でい続ける、生命世界の基本形。永い時を経て、恐ろしい程に変わってしまったその性質を本来へと浄化するために、この時があり、これからへの力強い原因としての、この今がある。

そして今、生きる基本である原因の質の大切さに抵抗する姿を通して、自らの本性(無意識)の危うさを顕にする存在たちは、どんなことがあっても無知・無感覚であるべく対象であるはずの、自分たちのその無生命の意思(人としての原因の無さ)の支え役でいる別次の存在の性質を、その気もなく流れさせて(させられて)しまう。心の無い本心を思考でごまかし、流れない価値観を支えつつ隠し(抑え)続けた自らの無意識が表に出るというのは、そういうこと。心ある人の原因に簡単に負荷をかけてその動きを止めてしまう存在たちのその無意識(の意思)が力を失くすと、彼らの負の燃料源でいる存在も、焦り、あがき、不安定と恐怖心を経験する。それは、地球大自然の安心の時。

12/02

L 近くにLEDの街灯か防犯灯が設置されていると、そのことで周辺の植物や小動物たちが異常な状態へと引き込まれるように、人も、何らかの負の影響を被り、理由の分からない不自然な現実や、そのせいだとは誰も気づけない、不調や不健全さを経験する。LED仕様の街灯(防犯灯)は、決して未来には持っては行けない不穏な原因の代名詞でもあるゆえ、「LED感染(映像)」を材料に、実体験を踏まえて撤去(交換)を促し、自らの(家族やみんなの)健康と平穏を守る。事実を事実として伝え、人としての良識ある行動を応援する。

LED街灯は、健康的な人々の暮らしよりも、名目や立場が優先されて始まった、恐ろしい現実。そのための体の良い理屈が並べられ、その危うい本質をごまかし進められた、生命への破壊行為。そのどこにも、健全さの原因は無く、将来への責任も、自然環境への優しさも、皆無である。どんな顔をして、それを進められるというのだろう?それ自体、世にも珍しい、不思議で野蛮な行為と言える。

LED街灯(防犯灯)は、人や空間を病ませ、動植物たちの生きる力を奪う。それを否定することは、まともな人間であれば、出来ない。事実から学ぶという、人としての最低限の知恵を持っていれば、街灯に、LEDは使用できない。その事実(LEDの危うさ)は、いくらでもあり、目をそむけ、逃げても、そこにも事実はある。それでもLEDを街灯(防犯灯)に使おうとする人がいるとすれば、もはやその存在は、人間とは呼べない。実に愚かしい、オカシナ世である。

LED街灯の近くで、生命力を無くして朽ちていく植物は、自身の姿である。苦しみ喘ぎながら逃げ惑う小動物も、自身の姿である。LED街灯一つで、失われるものは、際限が無い。その流れを止め、縁ある人や空間を本来にする。動植物たちへの思いやりを失わず、健康と平和の原因を次へと繋ぐ。責任は、LED街灯(防犯灯)を外すことから始まる。

12/02

20.この「原因」は、その地球の異物(無生命の意思の固まり)を、廃棄・処分する。「原点」から「LED感染」までの間に、ふと気づけば、少しずつ(無意識を抑え込んでいた)蓋にひびが入り、ここに来て、それを何より恐れていた、人としての然るべき原因を持たない存在たちの本性(の遺伝子)は、その無意識が意識に何度も触れるようになる中で、外に出始める。無有日記は、それらを集め、この時を引き寄せる。その場所に引き寄せられるようにして姿を見せたそれらの否定感情の原因(エネルギー)は、自然界にも、人間世界にも、要らないものとして扱われる。

経験から不自由でいる思考を働かせないことで、何気に感じる焦点(視点)の質が変わり出す、原因の世界からの観察。そして分かり出す、有ってはならない現実のその理由となる場所で、その自覚もなく人々の暮らしに負荷をかけ続ける存在たちの、動きの無い(動きを止める)原因。そのどれもに風は吹き、水も流れて、それらは力を無くし、自然の中で溶ける。

12/01

K 作為的に世を煽り、人を巻き込み、作り出される時流は、時に、酷い人間味の無さをそれに乗せて、環境のことなど全く感知させない程の無責任振りを、人々の思考に植え付ける。その代表とも思えるものが、LEDライトによるイルミネーションである。

人工的に生み出されたその光景を、人工的な喜びに浸る人(の思考)が支え、その不自然な環境で、不自然に、人やお金は動く。そのことによる木々や草花への悪影響には全く意に介せず、素朴で柔らかな感性が侵されることにも、彼らは無感覚である。それ程の無責任さにも、人はそうとは気づけず、「楽しければいい」「キレイだから嬉しい」と、低下させた普通の中で、その歪な感覚(悪質さ)を安定させていく。

LEDライトのコードを巻き付けられた木は、なぜ経験させられるのかも分からずに、その痛みに嘆き、苦しむ。その想い(感情)は、心優しい人の何気ない感性に届き、切なさを重ね合う。人間としての責任も、人間らしい感性も持たない人たちが作り上げる、その異常な(非生命的な)楽しみ方に、涙を流す。(※木々の悲しみは、映像としても、実際の姿としても、数限り無く目に入れることが出来る)

LEDライトのイルミネーションは、健全な感性を無くし、人間らしい感覚的判断が困難になると、人はこんな風な(愚かな)状況を生み出すことになるという、その一つの典型となる負の実例である。自然界の生き物が辛くなる(生きて行けなくなる)LEDを利用して、人間がそれを楽しむ風景は、実に気味が悪く、悍しい。そのことに(そうであり続けることに)、どんな言い訳も理屈も通用しない。思いやりの無い風潮を作り出し、それに経済や文化の色を染み込ませて、身勝手に満足に浸ろうとする人々の姿は、お先真っ暗の原因そのものと言える。

感度が鈍くなると、喜びの質は表面的になる。感得する世界が、原因のそれから離れると、楽しみも、個のままの直線的(平面的)なものになる。そして、責任は、心と重なり得なくなり、心の風景では、作り物の嘘の心が活躍する。その道沿いに、LEDライトのイルミネーションがある。

人生の無駄遣いの原因には、大きな勘違いがあり、その勘違いの材料には、無自覚の心の無さがある。その心の無さがそのまま形になり、多くの人が、人生とは呼べない道を歩まされることになる、LEDライトのイルミネーション。心ある人の、心ある人生に、その次元のものは存在しない。

12/01

2016

19.そんな時を重ねる中、変化そのものであり、確かな原因でい続ける、文章であって文章ではない無有日記は、形無き抽象世界の本来の姿を次々と具現化させ、共に歩む生命たちと、「健康と平和、友愛と調和」の原因となるピースをほぼ完成に近いところまで集め、溶かし、それら全てを皆でひとつにする時を、ここに迎える。

そして、ふと周りを見渡すと、決して嫌悪の対象として闘うことをせず、ただそのままを受容し、淡々と思考を自由に、次なる時の原因を大切にして来たからこそ目に出来る、実に珍しいものに出会う。それは、不自然と不調和、差別と優越といった、この地球自然界には存在しなかった否定感情の、多種多様なそれらの、いくつもの集合体。無くてもいい無意識の世界がそのままではいられなくなるというのは(「無意識」より)、原因が、その奥深くから大きく動くということ。原因が動くというのは、動きの無い思考型の世界(価値観、教え)が崩れる(姿を無くす)ということ。それは、奇跡という名の普通。普通だから、ひとりひとりの原因は更に変化し、進化する。

 

11/30

J 悪徳振りを地で行く、大手ショッピングセンター(スーパー、モール、デパートetc.)の経営幹部は、利益優先思考(志向)には格好のその頭の鈍さで、率先してLED照明を使い、人々の心身に、直接・間接的に犠牲を強いる。

頭の鈍さは、その多くが狡さを秘める。分からないことを巧く武器にし、分かってもいいはずのことに無頓着のまま、無責任でいられる場所で、責任ある自分を演じ続ける。LED被害の事実を知らされても、何もせず、個の利益のために、その全てを無視する。人の健康よりもお金、環境のことよりもお金である。

そんな状況が世間的に危うくなるまで、彼らはその路線を曲げない。つまり、知らないままでいられれば(知らない振りが通用すれば)、どこまでも偽善を通し、お金儲けを第一とするということ。仮に、追い詰められそうになれば(責任を覚えざるを得なくなれば)、都合良く身を守るためだけに、彼らは、「そうとは知らなかった」と、善人の顔をする。そして、「消費者のために…」と、見映えの良いポーズづくりが始まる。それが、LED照明を使用し続けようとするスーパーやデパートの素の顔である。知ろうとすれば知り得ることも、知らないでいることで利する立場を優先させるために、簡単にそれら(LEDにまつわる負の事実)を退け、演者になる。LED照明の店の本心は、人や環境のことより、「売れればいい」「得すればいい」である。そのための無知・無感覚は、店(責任者)にとって、大事な大事な性分である。

誰もが分かるLEDの害について、店舗の経営者が知らないはずはない。本当にそれを知らないのだとしたら、経営者失格である。人々の健康的な暮らしと、安心・安全な環境に様々に関わり続ける店が、LEDの負の原因(影響力)に無感覚であるとすれば、その店(小売店)の存在価値は無い。心(原因)の嘘は、幼子が最も嫌う(見たくない)大人の姿である。

知っていても、知らなくても、そして、知りたくても、知りたくなくても、LED照明は、直ぐにでも外さなければならない。そのまま使い続けようとすれば、そのスーパー(ショッピングセンター、デパート、コンビニetc.)は、いつまでも嘘を通して、偽りの経営をし続けようとする店の典型となる。社会や環境に影響を及ぼす店を持つ社会人の一人としてやらなければならないことは、身を正し、心を純粋に、非LED化を実践することである。後手になれば、偽善・偽装の代表として、言い訳も無くす。

大型スーパーやデパートは、その経営を通して、何をしたいのだろう?もしそこに、人々の健康的な生活を少しでも支える(社会貢献の)意識があれば、それに見合ったことをする。LED照明(の設置)は、それとは真逆の行為である。それを実体験できない程頭が鈍っていれば、他(外)の人の体験と動植物たちの現状を謙虚に受け止め、生き直しをする。それも出来なきゃ、店を閉じる。人として、それは当然の責任である。そして、どれ程の危うい原因を作り、どれだけ人々の心の風景に負荷をかけていたかを知る。そこから、健康・健全の普通が、外へと広がり出す。店を通して人へと伝わる物の、その作り手も、その環境も、安堵する。みんなで、安心と平和の原因を共有する。

11/30

18.友愛と調和という名のパズル(ジグソー)のピースを、ひとつひとつその原因のところから埋め続けて来たこれまで。いつ完成するのかも分からず、何も見えなくても、ただひたすら歩み続けてその質を変化させて来た、ひとつひとつの原因の時。

いつしか、そのことに頭では合わせながらも、本心は強い抵抗を見せる存在の、その秘められた無意識の意思が、それに反応するようになった人の違和感によって動き出し、彼ら自身の思考の域に触れ始める。それは、固められた負の連鎖の更なる負の材料になろうとする彼らの、否定感情そのものでいる原因の性質。人知れず世を病ませ、暗躍する彼らの意思は、どういうわけかそれが人に伝わることで、世を病ませにくくなる状況を経験する。この文章の存在も、その現れである。

原因の成長は、普通の質が、過去(結果)に居続けようとする世界との接点を持たない程の、その分母の拡大。理由の分からないきつさを他に与えていた、重たい無意識(本性)を潜める存在は、変化し続ける原因の世界の広がりに触れ、融合し、理由の分からない厳しさの中へと案内される。

11/29

➉ 普通に人を想い、ものを大切にする感覚を持ち合わせていれば、誰もがあたり前に分かる、LEDの害。その情報が公に流れ、伝わって行かない今の現実が顕にするのは、それだけ、要らない情報がこの社会には溢れ、その影響下に人々が居るということ。つまりそれは、人を想い、ものを大切にすることが難しい、良心欠如の、危うい人たちが情報世界に関わっているということ。情報社会の、その薄っぺらで醜い性格(本質)が、時代にさらけ出されている。

LED化の社会環境がこのままだと、地球環境に恐ろしい程の悪影響を及ぼすという事実は、自然環境の中でありのままに生きる動植物たちのそれまでには無かった姿を通して、思考を働かせるまでもなく、人は理解する。しかし、情報は、そうはさせない思惑を全開に、次々とその事実を都合よく抑え込み、捏造し、焦点をぼかして、内実をごまかす。その時の情報は、まさに凶器である。人々は、不安とその裏返しの安心を巧く操られ、その意識も無く感性を鈍くさせていく。

本来の光(照明)の要素を持たないその負の原因で、心ある人の心身は無自覚に病まされ、動物は住む場所を失くし、移動できない植物は、そこで生命力を無くす。そのことを物語る体験談や映像はいくらでも在るのだが、心無い情報(の送り手)が、執拗にその伝わりをジャマする。地球に住む生き物の将来にとって最も重要な(危惧されるべき)ことが流されないままでいるという、この今の情報媒体の、余りの悪質振り。それは、人間であって、人間ではない(人間とは呼べない)時を刻んでいる、世も末の精神編である。

車両事故やライフラインのトラブル、人との要らない軋轢や食環境の悪化。その他、心身の不健全さ(不調、不自然さ)や心の無さなど、そのどれもに、LEDの形無き負の原因が大小様々に絡んでいる。LED照明が姿を消せば、世の問題事は、その元から動き出し、望むべく流れ(好転反応を伴った自浄作用)を経て、本来へと変わっていく。情報は、そのための機会でなければならない。平和で健康的な自然環境の原因を支えずして、情報とは言えない。LED化に乗った情報は、全て、自然界の悲しみ、未来地球への破壊行為である。(いつの時も、さもしい人間は、ガラクタ同然の情報(知識)を利用し、弱者を作って、得する立場を維持しようとする)

11/29

17.経験枠内の思考や価値観が全く通用しない、否定感情とは無縁でいる動物や植物たちの、そのありのままの生命の意思活動。彼らのそれは、一千年前も、数万年前も同じで、その素朴さとその純粋さは、力強く地球環境を守り、自然界の調和を支えて来ている。

そんな彼らの意思が、「LED感染」の処方も手伝い、多くの人の原因と融合する。それは、時空を自由に透過する程のEW(原因の性質の働き)を可能とする、自然界の望み。人間の、形無き無意識(本性、本質)の性質も要らないものとして扱われる中、それに瞬時に反応する動植物たちは、そのEWを普通とする人たちの進化(普通)に安心を覚える。

それによって為される原因の仕事は、無限である。これまでの歴史の、どの時の、どんな性質の負の原因も、自然界と普通に融合する人の何でもない日常のその原因の中で、きめ細かく、多重・多層で浄化されていく。そのことは、未来が喜ぶ新たな原因として、さりげなく具現化され、広がり、伝わり、次へと繋がっていく。

11/28

➈ 何世代にも渡って生き続け、これからもずっと自然界の一部として健気に生きようとしていた木々が、枝を切り落とされ、無残な姿を見せる。幹が酷く病んでしまった木は、根元近くからその姿を無くして切り株状態となり、根が深く張ってなければ、根こそぎ抜き取られる。それは、余りに悲しい風景。そのあり得ない現実に、彼らも、何が起きているのか理解できない。

車や自転車が多く通る道沿いに植えられた木々は、増え続けるLEDライトの影響により、日々、耐え難き苦しみを経験し続ける。内側の水分を異質なものへと汚染・破壊され、枝葉の部分から生命力(活力のある姿)を無くしていくもの。芯の部分の生きる意思を削がれ、形状や色まで変えてしまうもの。自浄・修復力を限り無く奪い取ろうとするLED(の原因)に、木々は、その源から崩れ(溶け)、乾燥し、表面は剥がれ落ち、異様な姿(表情)を見せて朽ちる。キノコが付いたり、こぶのようなものが出来たり、代謝を狂わされて胴ぶきしたり。苦しみの余り、幹の部分に穴を開け、その極限の様を差し出す木もある。

イルミネーションや街灯、店舗の照明などのLEDは、植物にとっては辛いばかりであるが(もちろん人間も動物も様々な悪影響を被っているが…)、車と自転車のLEDライトとなると、その度合い(破壊力)の次元は全く異なる。それに無感覚のままでいたり、その状況を放って置けたりする人が居るとすれば、同じ人間として、この地球自然界に生きる生命として、彼らは、最も恥ずべき存在(恥人)となる。

人は思う。なぜ、ここに至るその手前で、修正・浄化出来なかったのかと。そこまで私たちの精神は退化し、堕落していたのかと。LED化は、自らの心の性質と、これまでの生き方を顕にする。LED照明を通して、人は、在るべき真の普通を経験する。木々の悲しみは、心ある人間の切なさの極み。そうであってはならない原因の時を選択し、自然界を元気にする。そのためのこの今、この時を大切にする。

11/28

16.年月の長さが、不可解な現実の材料である時、それへの理解は、どう頑張っても、時を超える原因にはなり得ない。脳の働きの要素となるそれまでの価値観や環境が、その現実の土台と深く密に重なり合っているため、何気ない違和感も思考の域を出られず、その自覚もなく、人は、負の歴史の内側で生きる。

しかし、ここに集う人たちは、思いがけず、経験の外側(の世界)の意思が主導するという、これまでにない変化の時を過ごす。思考が一切触れられない自らの(多次元的な)体験的事実を通して、形にならない想いが時を漂うようにして辿り着いた、この今。そうである望むべく事実がそこに在れば、なぜそうであるかの理由は知らなくてもいい。だからこそ持ち得る、理由の分からない不穏な現実への対処という機会。いつの時も、原因は正直である。次を引き寄せる原因が、どこまでも本来であれば、その分、どこまでもそれは、それまでの原因を修正・浄化し得る力となる。

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G LED照明の部屋を借りたり、購入したりしてしまったことは、それはそれは悲しい出来事。お店や通りの場合は、避けることも出来るが、住むところとなると、日夜、LED漬けである。LED化は、無責任の原因が形になったものだから、誰もその責任は取ってはくれない。そんな未熟な社会に、私たちは生きている。

LED照明の部屋に居ても、何でもなく過ごせる人は、それだけ、異常が普通になっていると考える。全くそれに平気であれば、その分、その不自然さで、自然体でいる人にその気もなく影響を及ぼしていると考える。人の心の健全さと健康的な生活環境とは融合できないLED空間(部屋)に居ることで失われるものは、真っ先に人間らしさである。

LEDは、自然に生まれ、自然に育つものを破壊する。果物も野菜も、酷く農薬漬けであったり、添加物を多く含むものであったりすれば、(害を及ぼすものとして)それなりに平気だが、作物そのものの良さが大切にされたものだと、LEDの負の影響を受けやすい。人間も同じで、頭忙しく、心を忘れた、不自然な精神を普通とする人は、普通の人が心を重くさせられるその(LEDの)異常さが、心地良い。そこでは、電子レンジと冷凍庫が活躍する。

LEDの光は、細胞活動に負荷をかけ、安心を奪い、余裕を無くさせる。人の感度は鈍り、心の意思も抑え込まれる。それに平気でいられるというのは、素朴で心優しい、柔らかな人の生き方をジャマするということ。LED照明は、普通の質を成長させる人間にとって、要らないものというより、有ってはならないものである。

照らされた空間のもの全てが、何らかの負の影響を被ることを考えれば、LED照明を室内に設置してはならないことは、言うまでもない。他者への影響を思えば、庭や玄関にも使用できない。LEDの負の影響力に無感覚であれば、そのことの意味(理由)を見つめて、LEDを外し、健全な道を歩む。人間は、LEDの光を普通に扱える(愚かで、危うい)脳を持たないから。

LED照明の部屋を借りたり、購入したりしてしまったら、蛍光灯のものを新たにセットするか何かして、LEDは使わないようにする。蛍光灯のスタンド一個でも、心身の調整役を担ってくれる。感情を動かせば、疲れるだけ。どこに、どんな風に話をしても、責任を取ってくれる人は居ない。その原因が嘘のままの、LED化とLED照明。何よりも、自身の健康と本来の普通を大切にする。

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15.そして、この今に繋がる、これまでの全ての原因。それらは皆、この文章「原因」という次への原因を通して、その質を本来へと変えていく。いつまでも重たいままではいられない、動きの無い幾多の原因も、気づけば、どこにも見えなくなっている。

限り無くシンプルで、自然で明確な生命の姿、原因。言葉での描写が全く不要であるはずのその普通が、ここに形になるのは、それを以て為されるべく、自然界を背景とした生命世界の必要性が、時を経て、人間社会に生じ出したから。そのことが意味するのは、生命としての原因を持たない(原因が無い)形無き存在の出現と、それと同一化した人間の誕生。そうであったことは誰も知り得ず、そうである理由にも人は近づけず、そのために、永いこと、人の心は力を失くす。

心ある想いを普通に、原因を生きる(原因でい続ける)ことは、人間の基本的な在り様。この国の歴史における奇妙な負の連鎖(蓄積)の様は、人としてのあたり前のその原因が力無く消されてしまう程の、滞りそのものの意思が、それに影響を及ぼしていたことを表す。全体の原因が、全体から切り離されてしまう、個のままの動きの無い原因。それは、水や空気の流れを簡単に止める粘土質の堆積物や配慮の無い建物のように、生命たちの健全な営みを抑え込んでいく。

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F たくさんの人たちが、日々移動の手段に利用する、電車やバス。乗り降りの場所(駅、ホーム、バス停etc.)も含め、それらがLED照明になることの、人の健康や環境に及ぼす悪影響は、直ぐにそれが形に現れにくい分、現代の形無き恐怖の原因の最たるものである。

LED照明から離れた生活を送ることで、(人としての)健全な感性を取り戻した人は、そのことに心身が反応するなどして、LEDの危うさは、よく理解する。そうではない人でも、「LED感染(映像)」等を通して、身近なところでのLEDの負の影響力を知り、その判断が後手であっても、身を守るために、理解と認識の質は変わっていく。そして、LED照明への違和感も、普通となる。

旅行や出張などに利用される、長距離バスや新幹線。長いこと親しまれ、愛されてきたそれらが、なぜ健康的な細胞活動を削ごうとするLED照明を使用するのか、人は理解できない。普通感覚を持ち合わせていれば、どんな人もそのことに疑問を抱く、LED照明。この地球に存在しなかったものは、この先も地球に異物として残り続け、自然破壊の強力な原因でい続ける。それをサービスと称して進めていく、気が狂ったとしか思えない、電鉄やバスの経営。地球規模の災い(殺人級の行為)へと走るその姿は、人間とは思えない。

数時間もの間、LED照明の車両内で(LED漬けになった空間で)じっとしている姿は、拷問を受けている状態と言える。この自然界で人間を生きる私たちは、自然界に自然に在るものを通して、生きる姿を安定させることが出来る。そうではない場所に否応無く居させられれば、人間は、その質を限り無く低下させてしまう。LED照明の新幹線(バス)は、自然界の自然な営みを尽く嫌う、野蛮で危険な(人喰い蛇のような)存在が主導していると思ってよい。

新幹線は、幼い子にとっては夢の乗り物であり、大人にとっても、どこか嬉しさを覚えるものである。スピードと心地良い椅子、外の景色を見るのも、居眠りするのも自由で楽な、快適な空間。その全てがLED照明でゼロになり、人の心身はいつのまにかマイナスになるという、辛く切ないその悲惨な姿。LED照明の新幹線や長距離バスは、全額返還しても足らない程の負の原因を、乗客(の未来)にもたらすものである。

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14.原因には深さがあり、さりげなく普通に原因でい続けることで、その大きさと密度は自由に姿を変え、その中で、余裕で、瞬間の多次元的な営みを、その自覚もなく実践することになる。思考はどこまでも自由になり、時代の意思に連れ添うようにして、原因の世界の核の一部となり、同質の存在と融合しながら、時を浄化し続ける。何もせず、何かの原因を変え、それまでと違う(変化に乗った)何かを確認し、さらりと次へ行く。行くべき場所を自らの原因の中に迎え入れ、向かうこともなくその場所を通り過ぎる。そして、どんなに強く固められた結果であっても、それへの然るべき必要性を変化に乗せ(進化させ)、結果という名の次への原因として、それまでの負の連鎖を砕く。それは、思考を忙しく、経験を引き連れて結果(過去)を生きる人には、限り無く意味不明な、原因の世界の普通。思考の質を成長させずに、覚えたことや知り得たことを大事に、人間だけを生きる人が永遠に近寄れない、生命世界のありのままの姿。

歴史には、頭の中でのみ存在し続ける、過去の事実が並べられた結果としての変化と、地球自然界の生命たちの中に息づく、原因のままのその質の変化(生命の歴史)が在る。後者を知る感性が育まれることで、人間は、真の平和を普通とし、真の人間を生きる原因と重なり合う。

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E 地方自治って、誰のためのものなのだろう?植物本来の姿を支える人の、LED照明への違和感を退け、心柔らかな人が憂える、小動物たちが住めなくなるLED空間を広げようとする。事の原因に触れれば簡単に行き着く、LED街灯の危うさも、人間味の無い感性でもって、安全なものにすり替えてしまう。そのために失われる心ある風景は、取返しのつかないもの。そのことで将来に及ぼす悪影響は、想像の域を軽く超える。

LED照明の眩しさとその刺すような冷たさは、実に病的である。それに心地良さを覚える人は、病気そのもの。それだけでなく、照らされた場所の生命活動が異常となり、それまでには無かった異様な風景がそこで生み出されることを考えれば、LED化を進める地方自治の責任者は、その自らの心の無さを、LEDの原因の病み(凶悪な本性で世を病ませようとする存在の意思)に密に重ねていることになる。それは、信じ難い暴挙の典型である。

LED照明(街灯、防犯灯etc.)のある場所では、降る雨の水分まで異物化させ、人や動植物たちの生命に、恐ろしい程の非生命化の原因を流し込む。そしてもちろん、空気までがそこでは汚染され、人の普通は、どこまでも生命本来からかけ離れていく。心も優しさも、人間性も人格も皆、言葉による表現で済まされてしまう程、その本質は人間世界から遠ざかる。そのあり得ないはずの、重量級の災厄の原因。地方自治(市役所、役場etc.)は、まるで錯乱状態としか思えないその(人として)あるまじき行為を、意味不明な意味付けでもって、無責任に責任ある役目として実行する。

地方自治の在るべき本来の姿を、そこに関わる人は知るのだろうか?人々の手本となる健全な感覚(感性)と、健康的な生活スタイルは、その基本の基本となるもの。そして、常にあたり前の事実として実践されるべく、みんなのための真心と、みんなにとっての公正さ。その仕事に携わることで事を担うのではなく、事を担う自分がいることでその仕事が活かされる、みんなのためでいる自分を普通とする人による、地方自治。そこでのLED化への動きは、地方自治の本来の在り様が、悲しくも壊滅へと至る現れである。

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13.結果が重視される社会は、心ある原因が全く仕事が出来なくなる程、酷く重い原因をそのままに結果を固め続ける存在が、都合良くそうであり続けられる思考型の価値観を材料に、ずる賢く、巧妙に暗躍していると思ってよい。それゆえ、人は、物事がなぜそうであるかの理由には関与せず、多次元的な受容ではなく、直線的な義務として、与えられた(課せられた)ことをこなす。疑問や違和感から遠いところで、無くてもいい経験という発想すら持たずに、心の意思を無くし、原因を忘れる。

それは、平和を知らない、平和を求め続ける(求め続けさせられる)不幸な世。誰もそれに気づかず、人のためと頭を働かせ、その実、自分のためだけの人生を生きる(生きさせられる)。それにより、その中心に居る存在は、その残忍で凶悪な原因をどこまでも見えなくさせながら、好き放題、時代を停滞させる。心ある原因は、心ある振りの結果に汚染され、力を無くす。

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D 病気の原因が力を無くすことで、健康は普通へと向かうのであるが、その先には、健康の原因が力強く安定し、病気が姿を消す風景へと繋がり行く流れが生まれるため、病気の原因は扱いにくいものとしてしつこく存在し続けることを、医療機関は欲し、当然のごとくそこでは、その原因には決して触れない。(ポーズは見せるが…)

LED照明は、それを良しとする発想がすでに病みの原因であるのだが、その物自体が不調の原因として生き物(人間、動植物)に及ぼす影響は、計り知れない。ただしかし、その性質は、そこに在る負の部分が、分かりにくさの極みとも言うべき恐ろしいものであるため、病気を利用してお金儲けをしようとする医療関係者にとっては、それは絶好の道具(機会)となる。

病気にならない(病気にさせない)原因に関わっていてはやっては行けない、彼らの思惑。始まりが結果(病気)でなければ、存在意義も危うくなる、彼らの価値観。そんなだから、LEDにも無感覚になり、LED化を支え、LED照明を平気で(率先して)使う。LED照明が世に広まることで、自分たちの経営は、好き放題のレベルへと押し上げる。

LED照明を使用する病院の、その分かり過ぎる本音は、人の命よりもお金、健康よりも病気の、未来への無責任。「病気(の苦しみ)は無くなっていくことが重要。そのための原因として、そこへと向かう通り道として(ある期間の必要性として)、病院が在る」という、医療の本質を理解することはない。LED照明は、心無い医療と相性が良い。

心ある人たちの健康と安心のために、病院では、LED照明は使ってはならない。それを使うことの、心の貧しさと、生命への無理解(破壊行為)を、さりげなく自覚する。苦しみや悲しみの無い未来に繋がろうとするこの時代は、健康の原因を大切にする医師(病院)を応援する。病気を治し、病気を無くす、真のプロの力になる。医療人は、誰よりも、力強い健康の原因でいる人でありたい。

11/24

12.過去にとらわれ、結果を生きる姿勢を馴染ませると、人は、感覚的理解の質を落とし、思考を前面に、不自然な暮らしを普通とするようになる。原因への理解も表面的で、その中には入れず(居られず)、その気もなく引き寄せる不穏な風景への対処に頭を使い、そのための時間に価値を置くようになる。原因に対して、分からないままでいることも出来ず、その概念を避け、自らの、重く動きの無い原因で、無自覚に、生命世界の普通に負荷をかける。

どこにも無い結果に意味付けするという、結果を生き、過去に力を与える、あり得ない性質の原因づくり。そこで生まれ、広がる世界が力を持ち、それに人や動植物が付き合わされ、影響を受けることは、そのまま、地球の悲しみ。どんなに思考でそれに価値を見出しても、それ自体が嘘の世界である。

嘘を本当として生きる人たちの世は、‘形無き原因の影響力とそれへの責任’を著しく嘘であることとしてそこに(自分たちの正しさに)当てはめ、心の性質を無視した形ある行為(経験)や、原因を切り離した表面的な理解を良しとし、生命としての人間本来を尽く遠ざける。そこでの普通がどれ程の影響力を持つかによって、それまでに潰され、消されてきた生命(世界)の悲しみの原因の大きさが分かり出す。

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C 紅葉の季節に花を咲かせてしまう程の混乱状態を経験させられる、様々な植物たち。それは、朽ちる前の、抵抗と悲鳴。辛い現実である。

思考の満足のために心無いことも平気で行えてしまう人のその形無き原因に、植物たちは正直に反応する。イルミネーションや生育の操作など、LEDを通してのそれは、地球自然界の意思と繋がる彼らだからこそ、限界を超える苦しみである。現代の人間ほど、植物たちが奇異に感じる人間はいない。

LED照明に平気な人の存在(心、無意識)の性質は、そのまま、植物たちの悲しみである。どんな状況であっても、ありのままに生きる(生きて来た)彼らにとって、LED化を支える存在に覚える反応は、まさに恐怖とあきらめ。そこに在る、嘘で隠された本性(形無き原因)に、植物たちは、全てを狂わされ、生命を繋ぐ道を絶たれる。

植物たちは、いつも、人間の本質を観ている。そんな彼らを、地球は見守り、太陽は応援する。この地球で最も愚かな、LEDライトを中心に動こうとする人間。この時ほど、自然界から人間が離れた時は無い。それは、悲し過ぎる、自然界の怒り。

植物は、全てを転写し、全てになる。水や空気(風)の性質、人間や動物の在り様とその原因。自らの中に、それらを取り込み、そのままを反映し、伝え、流し、時を刻む。

彼らが季節感を失くすということの、惨事の始まりを、見失ってはならない。それは、人間の本質の、信じ難い非人間化。そのままであってはならないと、自然界からの反動も必至である。

11/23

11.身体活動の手前には、細胞活動があり、その手前には、細胞の意思と繋がる存在を存在させ得る、生命(エネルギー)の意思がある。身体レベルの原因は、形ある世界(次元層)での制約もあり、把握し得る限りのそれは期間限定となるが、細胞(分子)レベルの原因は、物理空間における様々な性質の原因と呼応し合い、影響を及ぼし合いながら、限定・限界とは無縁の働きをする。

そして、生命(エネルギー)の原因。それは、形の有無の次元を超えた、全ての存在の根源とその本質を重ねる、抽象世界の原点とも言えるもの(多次元的な表現体)であり、あらゆる次元層(枠)を透過するその意思は、地球自然界の原因とも常に融合する。

人間時間に参加する原因と、その材料となる、それ以前の形無き原因。そして、それら全ての元でい続ける、地球の意思とその質を同じくする、全てであるひとつの原因。人は、その中で、生命を生きる原因を以て、本来の存在を実践する。

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B 問題事は、お金を動かし、不健全さ(病気、不健康)は、特定の存在に富をもたらす。差別心は、心無い人に力を与え、同質の人たちは、その力にすがる。そのどの場所にも、LED化の原因が潜む。精神性の希薄さと心の貧しさは、そのための大切な燃料となる。

自然界の健全な在り様を応援する人は、問題事の原因を作らない。しかし、その原因を凝り固めた人や空間に出会すと、その気もなくそれに反応し、言動も不自然さを帯びてしまうため、他者の目には、問題事としてそれは(自身の姿は)映ってしまう。

動植物たちの気持ちになれる、彼らを愛する人は、病気の原因を作らない。しかし、その自覚もなく柔らかな人を病ませる原因(無意識の意思)を内に秘める人やものに出会すと、知らずうちに負荷をかけられて動きにくさを覚え、傍らからは、病気のように思われてしまう。

自然環境を大切に、問題事や病気の原因からも縁遠い人は、LED照明の危うさに、あたり前に反応する。人知れず問題事を作り出し、不穏で不健全な価値観を力に世を病ませようとする人が、そのLEDの原因と密に絡み合っていることも、感覚的に知る。そして、LED照明に平気な人と、そうではない自分たちとの、そこに在る感性(次元)の違いにも、唖然とする。

先の風景に、問題事も病気も無い世界を望めば、そのための頑張りは、そうと意識する(される)こともなく、普通で、自然なもの。安心や喜びの質が、何かの裏返しではないそのままのものであれば、そうである原因でい続けること程の尊さは無い。それらの基礎となる世界が強まることを何より嫌がる、LED化の原因と自らを重ねる存在たち。問題事と不健全さの原因が具現化したLEDの、そこでの感性の違いには、あり得ない程の本性の違いがそこに潜んでいることを教えてくれる。

11/22

10.原因は、自覚できない無意識の世界で活躍し、形無き多次元世界で影響を及ぼしながら、具現化される現実の材料でい続ける。その現実が新たな原因となってどんな次を引き寄せるかは、その現実に接する人の、それとの有形無形の関わり方が大切な要素となる。

やむ無く要らない感情を刺激されるものであっても、その経験への自らの原因の責任は、重要な役を担う。現実がどんなであれ、関わっているのは、自分。それまでと、これからの間での(間に居て)、その原因の力強さと柔らかさは、浄化し得る時を癒し、変え得る次を創り出す。その原因の薄さと粗さは、滞ったままでいようとする意思を固め、変化しにくさを強めていく。

現実は、それ自体、善悪も正邪も無い、自らの姿である。新たに経験することも、それまでの経験の蓄積のその原因の反映であり、その性質(の意思)の投影である。なかなか変わろうとしない、変えたい現実も、いつのまにか変わってしまう現実も、そこに在る原因と自らの原因が融合して形になった、正直な自分であり、その集まりの具体化である。

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A 植物たちの目線で環境を観、動物たちの気持ちを考えて事を進める知恵があれば、人間が決して触れてはならない場所にLED照明が在ることを、人は理解する。しかし、人間社会枠内の、平面的で、直線的な知恵に止まることでしか存在意義を見出せない人たちの、その非生命的な(まるで暴力行為のような)愚かな生き方により、ここにLED照明の広がりが作り出されてしまう。

未来が望むこの時代の意思を感じ、地球から観た価値観(地球感覚)を馴染ませる生命本来でいる時、当然の常識として、そこにはLED照明の地球環境への悪影響振りがあるのだが、地球感覚から程遠い思考で人間だけを生きる存在にとっては、それは、どこまでも無知・無理解のまま。LED化という、悍しい現実は、それだけ退化した人間が力を持ったことを意味する。

喜びも自由も、互いにとって、みんなにとってのそれであれば、それらの言葉の意味が忘れられてしまう程、世の平穏は普通となり、誰もが、優しさと愛情の中で、自然に生きることになる。そこでは、動植物たちの素朴な望み(意思)が抑えられるということも無くなり、彼らの気持ちを大切に、彼らと共に、人も環境の一部となる。

そう、LED照明の広がりは、互いにとって、みんなにとっての発想を内に持たず、動植物たちの気持ちになって生きることも全く出来ない、恐ろしく粗末な人が主になって進められているということ。地球感覚を普通に、人としての本来であれば、それは、誰もが分かること。人間は、動植物たちの生きる環境が侵されることを望む生き物ではない。

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9.意識するしないに拘わらず、そこには原因があり、意識してもしなくても、その状態が新たな原因としてそれに加わり、その先へとそれまでを流れさせる時を創る。原因には意思があり、その意思は、もちろん原因である。絶えることなく変化し続ける原因と、その変化に乗る生命たちの原因。その時々での何気ない感覚と、この場所、あの場所での何でもない選択と行為。ふとした想いや発想は、そのままそのひとつひとつの原因を次へと繋ぎ、身体を行くべきところへと案内する。

変化に乗る普通と、ただありのままに、自らが全てに繋がる原因でいる本来。その普通の外(他)は何も知らない原因の中で、大切なことを意識するまでもなく、淡々と時を連ね、空間を癒す。それらのどの原因に触れても、そこからどんな風に観られても、人々の暮らしは、水や空気のように、一切の滞りを知らない。

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➀ 体の中の水分の性質が異常をきたすと、健康状態は大変なことになる。それは、地球に住む生物たち全てに言えること。だから皆、そうであってはならない現実の原因を、淡々と自らの普通に重ねて生きている。

地球をひとつの大きな生命体として考えてみれば、海の水が不自然になることだけは、地球に生きる全てにとって、永遠に避けたいところ。海に住む生命たちは、太古の昔から、地球環境の健全な姿を、その水と一緒に、見守り、支えて来ている。その尊さは、土の上でのその次元を大きく超える。

地球に存在してはならないLEDの光によって病み続けるこの国の土壌と空間は、健全な人間と動植物たちに犠牲を強いつつ、歴史的にも最も異常で不気味な様を、列島全体にもたらす。それは、周りを囲む海にも当然影響を及ぼし、それまでは一度も無かった、不調和な水(海中)環境を作り出す。

そのことに敏感に反応する海の生命たちは、長い距離を移動できる種は、遠くへと離れ、そうではない種は、連繋の意思を削がれて、姿を消す。サンゴも生きて行けず、海産物は(川や湖の物も)、壊滅へと向かう。灯台のLED光や船のLED照明の影響からも逃げるようにして、魚たちは、無くてもいいはずの混乱と闘いを経験する。

地球規模の災いの原因でい続けるLEDにより、その自覚もなく自然体で、永いこと地球を守り続けてきた生命たちが、生物史上初めて、存続の危機に瀕する時を経験する。土を侵し、水を破壊するLED。全てが、全体でいる調和から切り離されようとする。

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8.原因に、対極のものは存在しない。思考世界では、言葉上、結果という概念があるが、どんな結果も、結果という名の次なる原因のひとつ(の形)であることを知れば、全ては原因であり、その原因を直線的に捉えることも(直線上に設けることも)不可能となる。

そこには、人間であれば決して外すことの出来ない、生命としての普通、人としての本来の価値概念がある(とは言っても、概念という思考枠(次元)に収まるものではないが…)。それは、この世のどこにも存在しない結果(という世界)を、心に染み込ませないということ。思考を次々と形ある結果に使わされ、それが、それまでには無かった動きの無い負の原因として更なる重たい結果を生み出し、無くてもいいはずの争いや病苦に見舞われてきた、これまでの人々の暮らし。結果を求める思考や、それに囚われる感情は、人間世界には元々は無かったものであるゆえ、そのことは、心ある誰にとっても、安心の材料となる。

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7.変化しないものはどこにも存在しないという素朴な真実を基に、何気ない感覚を思考の域に上げてみれば、(人間も動植物も含む)この生命世界では、原因の質の変化・成長が自然な姿で大切にされていれば、あらゆる問題事がその居場所を無くし、誰もそれを意識することのない理由の要らないありのままの平和と喜びが、自然に時を包むようになることを、心は感じ取る。そして、その自然な姿を支え、繋ぐことのあたり前の責任を、人間が普通感覚で実践することの大切さも理解する。

人は、原因である。他の生命たちと同様、生きることが原因である。その成長は、争いを知らず、その進化は、平和の意味さえ忘れる。原因は、生命としてのそれぞれの真の姿であり、いつ、どこにいても繋がる、変化し続ける時空の意思でもある。

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6.原因を生きるという、人間本来の姿勢は、それを自覚すれば良しとする次元のものではなく、関わる現実や関係性を通して、そこに在るその手前の原因に直感的に感応(感得)出来る責任を普通とすることで、何をしても、何を考え、どこに向かっても、そこには、そのまま原因を生きている自分がいる。

原因に反応すれば、自らの原因はそのままでいることはない。それは本来の普通であるのだが、思考が先行すると、何も分からず(普通が限定的となり)、無責任さを重ねてしまう。

原因を生きる人の普通は、質を伴い変化し続け(変化に乗り)、さりげなく次に繋がる。責任はいつも、事の手前の、多次元的な営み。その分母(それを支える原因の細かさ)は、余裕で時(の原因)を癒す程、増えていく。

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5.不自然な姿を違和感として知覚した時、そこには、その性質が自らの原因に引き寄せられるように同調して生じるものと、その周りの自然の意思が突き(押し)出すようにして差し出した、自らの原因の中でその性質が新たに変わり得るものの、二通りある。前者は、違和感となるその不自然な原因と自分のそれとの融合。後者は、その(違和感の)周りの自然界の意思との融合。

空間に生まれ、出来事になるそれまでの原因の形は、それに接する(関わる)人の形無き想いを正直に反映し、その質に応じた次なる原因となって、様々に時を重ねていく。何でもない違和感の中身は、それ自体が、思考の外側での責任である。

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4.あらゆる性質の原因が入り込んだ感情や思考により、物事は作り出され、その物事が備える原因が更に人の感情を刺激し、思考を働かせることを考えれば、ひとつひとつの出来事は、形ある結果として捉えることは出来ず、そこに凝集されたそれまでの原因の質とその働き(影響力)を観察し得る感性をもってそれらに触れる(接する)ことが、生命にとっての普通で、基本的なことになる。

あらゆるものは変化し、その流れが自然で滑らかであることが、地球に生きる全ての生命たちにとっての(平和な営みの)何よりの要素であることを考えれば、人の暮らしは、重く流れない、滞りを生む原因から縁遠いことが望まれ、不安の裏返しの頑張りよりも、その不安の理由となる原因を浄化すること、それまでとは違う結果を求めるより、それまでの(不穏な)原因とは違う時を連ねることの大切さを理解する。そこに在り、次を引き寄せ、そしてそれに関わる様々な原因。衝突や停滞と無縁であることは、そのための重要な原因である。

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3.原因は、限り無く生命の仕事をし続ける大いなる意思のように、時に永遠の核となり、時に瞬時の粒となって、融合し得るその集合体の性質そのままに、方向性を創る。現実や時空の元となるそれは、それぞれが独特の力を持ち、影響力を高める。そこに在る物事の、変化を基とした動静は、人や動植物たちの感情にも密接に関わりを持とうとするのだが、その感情が未消化のまま新たな原因となる時、自然界でのそれは、生命源との繋がりを失くした不自然なものになる。何をもって不自然であるかという観点そのものが不自然である場合の感情は、自然界の意思を切り離してしまう程の原因にもなる。

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2.原因は、いつでも、どこでも、何があっても、そのまま原因でい続ける。その原因は、多次元的な影響力を備える抽象世界に存在するものであるが、形ある物でも行為でも、その全てが原因であり、そこから広く外へと向かうもの、繋がる動きを見せないまま内に向かうものなどの様々な性質の原因をその中に潜め、現象世界を動かしている。

現象世界のひとつひとつの出来事に含まれる原因は、どの時の、どの場所で、どんな風にそれを捉えようとしても、思考の域では不可能である。その原因は、そこに触れようとする人の意識までをも、次への原因の中にそれを抱え込み、溶かして、質を変えてしまうため、思考の手前の、意識するまでもない世界に漂う時間を自らに重ねられないと、それは、永遠に無知のものとなる。

11/07

1.原因という世界は、実に不思議である。それは、何をしても目に入れることは出来ず、どこまで行っても、感触としてつかみ取ることも出来ない。なのに、あらゆるものが原因であることを、人は本能的に理解する。それは、形が無くとも、生きていく上での基本要素として大切にされる心や魂のように、人は、全ての存在の中に絶えず息づいているその原因を、感覚的に知る。

原因という世界は、実に厳しく、尊いものである。それは、どんなに意識を向けても分かることはなく、分からないままでいることで、ふと意識を向けられるようになるものでもない。それでも人は、原因の中に居て、動植物たちと一緒に、更なる原因の中に居る。それは、同じ時を知らない水や空気のようでもあり、細胞(身体)活動の原点の風景のようでもある。

原因は、決して結果にはなり得ない。どんな結果も、全て結果という名の次への原因であり、その原因は、結果を知らない、変化そのものである。形ある結果としてある現象が生じても、それは、そのきっかけとなる原因に呼応した新たな原因の形。つまり、結果という言葉が在っても、本質的にその結果はどこにも存在せず、原因という言葉も、その真の意味を、人間の思考は知ることはない。

11/06

2016b

146.飲食の場で、10人中数人でも体調を落とす人がいれば、口にしたものの影響を考えてそれらを控え、原因の究明にあたる。LED照明に換えてから、不調を覚える人や不自然な様子を見せる(動植物たちの)出来事が次々と生じれば、まずはLED照明を外し、そこに含まれる原因を調べる。それは、基本中の基本。

147.LED照明(LED街灯、車のLEDライトetc.)で枯れてしまった植物を見ても何も感じられない人の、その精神と脳のおかしさ。頭が忙しいと出会せない風景もあるが、出会しても頭が動かない程だと、状態はかなり危ない。そんなこんなもLEDの為せる技であるが…。

148.罪の無い素朴な人たちの住む村の全てを(人も物も)破壊するように命令された時、それを拒否すれば自分の命が無くなるからといって、仕方なく実行するという次元の人間であってはならない。LEDの原因に触れ、負の連鎖は、ここで終わりにする。

149.権威・権力を持つ人にも、専門的な立場の人にも子供時代があり、その時に育んだ子供心がある。LED化は、それが歪で寒々しく、冷淡で子供らしくなかったこと(自分)をそのままに大人になった存在が、偽善・偽装の手管を磨いて始まったもの。事実は、個の思惑を刺激し、反発を生み出すこともあるが、それまでの原因の事実は、そんな思惑の中身をも砕いてしまう。

150.LED感染(8)」は、地球自然界の望み、生命世界での約束事。時代の意思は、心ある生命たちの想いをここに運び、言葉と映像を道具にその原因を具現化しようとする彼らの時を、深くから支える。(8)の登場に、(番外編)も動く。「心の遺伝子」の頃の太陽がここに遊び、自然界と時代の記憶(‘生命の歴史’の原因)が、地球と共に、LEDの負の土台を浄化する。心の意思(育み続けた原因)が、この(8)との出会いを引き寄せた今、この地球に生きるみんなにとっての自分のために、LEDを人生から外す。全ては、そこから。そこから、全てが動き出す。

 

11/28

136.どんな人の神経も鈍化させ、あらゆる生命体を停滞へと向かわせてしまう力を蓄積させた、実に恐ろしい空間。普通自然体の人の病みの下地は、LED電車の中で簡単に作られる。

137.目が辛くなる(見えにくくなる)、前を走る車のLEDブレーキランプ。見たくないけどそうも行かない、前を走る車のLEDブレーキランプ。分かりにくい、確かな事故の原因、前を走る車のLEDブレーキランプ。(何度も言うな! そうも行かないだろう! 軽薄、暴力、無責任、前を走る車のLEDブレーキランプ)

138.感覚中枢を不要に刺激され、その負荷に反発するようにして興奮状態に陥る生き物は、本来の普通(バランス)を崩して、成長プロセスが異常となり、変異や奇形を見せて、衰えていく。人間の場合、LEDに触れ続けると、普通感覚の人は、ある程度の不自然な元気(若さ、強さ)と意味不明な高揚感を経て、一気に活力を無くしていく。皮膚の色が変わったり、しみができたりして、見た目も変わる(老化が早まる)。不思議と(いうわけでもないが)、LED照明に全く平気な人の空間でも、それは起きる。

139.LEDライトの広がりにより、経験しなくてもいい現実の中に入り込んだ、世界の人々と動植物たち。その発信元は、この国。ルーツは、秘められたその危うい気質。地球自然界の生命たちのために、すべきことをし、責任を実践する。

140.感情や思考までが期間限定の価値観に汚染されて妙な力を持つ時のそこでの多数は、負の連鎖の強力な材料でしかない。LED化に、時代が安心する原因の風景は無い。

11/27

131.専門家が、プロ意識をもって、自らのその専門職でいる誇りと責任をそのまま表現すれば決して実現しなかったであろう、LED化。彼ら専門家が、災いの原因づくりに加勢する姿は、誰も見たくはなかった。

132.LEDの原因に潜む、破壊と崩壊の原動力となる恐ろしい意思。人の脳や空間がLEDの原因に反発できない程それに侵されれば、生命の源となる水も、暮らしを支える木(住居)も、その元から崩れ出す。LEDの原因は、あらゆる蘇生型の生命を破壊する。

133.他に種類が無いと言われれば、どうにも出来なくなる。でも、将来のために、伝え、お願いし、探してもらう。経済の質の健全化に、自らが参加する。まずは、自宅の照明。自転車のライトも、頼めばどうにかなる。そして、LED照明の場所から離れ、送り手(作り手)を動かす。

134.生命を生きる人間としての正しさ(本来の普通)が尽く潰され続けて来たことで成り立っていたこの国のこれまでの流れ(封建的な負の連鎖)が、意図せず頓挫しかけたことで一気に噴き出した、その不穏な原因のかたまり。それは、LED化という形を取り、その全てを顕にする。見かたを変えれば、その様は、まさに変革の時。

135.コンビニ食や電子レンジ食品を食べ続けても全く何でもない人は、LED照明のある空間で、妙に活動的になる。彼らの細胞はすでに、変化し続ける自然界とはかけ離れた、腐敗型の生命活動を普通とする(生命の意思が、成長・進化を阻む状態になっている)。それは、退化の象徴。

11/26

31.改めて、思考を自由にさせ、頭を働かせず、ありのままの心に思考を任せてみる。経験や知識世界の価値観からも自由になり、どちらでもあり、どちらでもない(中庸の)人間本来の感覚を活躍させる。無意識はそれを喜び、解放され、真の普通の中に溶けていく。心は、想いを湧き上がらせ、思考を包み、身体時間の主導権を握る。

無意識は、その人の本当の姿。でも元々無意識は無かったものだから、無くてもいい経験から離れることでその無意識が外れれば、そこから始まる新たな(自由な)心が、その人の真の本当の姿。その貴いプロセスを、「無有日記」はサポートする。どこまでも原因でい続けるその空間で、人は自らの無意識を癒し、その意味を忘れ、生命としての人間時間の経験を創る。あらゆる原因が本来となるそこでは、平和も健康も、友愛も調和も、あたり前の普通である。みんなの無意識が、心の風に乗って、遥か遠くへと消えていく。

11/25

ただ、見えなくさせられていたものが、見えるようになっただけ。そして、見えるようになったことで、それを見えなくさせていた力が分かり出しただけ。でも、考えてみると、なぜ、何百、何千年という間、人は、それが見えなかったのだろう?原因が潰されるということ。それは、さりげなく真剣に生命を生きようとする人間の世界に、崩壊(壊滅)の危機をもたらす。それは、歴史を操る程質の悪い、超ド級の形無き洗脳と思ってよい。

そんなだから、無有日記のコンテンツは、全て触れてほしい。何度人生を送っても(転生しても)経験できないことをこの時に実践できるわけだから、それを選択できない理由はどこにも無い。そのための、数千年分の数週間を費やすことに、躊躇は要らない。

ここに至るこれまでのムーセンテンスは、この先、どこにも無い。その場所を通って、全く新しい時へと、時代はスライドする。

11/24

無意識の浄化という世界を体験的知識として実感すると、将来、病気も争いも見ることがなくなることを理解する。そりゃそうだ。この世の全ての病みの原因の風景には、非道で非人間的な無意識の意思を持つ存在の影響力があるわけだから、そのことは、誰もが頷ける。永いこと、進化とは無縁の、愚かで貧しい人間という動物。この地球に、どれだけ借金を重ねて来たか…。ミミズたちが苦笑いしている。

人間は、人としての本来の生き方を普通とすることで、成長を経験できる。生命として、自然界との融合を普通とすることで、自らが変化の風となる。あれこれと、頭を使っている場合ではない。何かのための、何かであってもならない。無意識は、病気の下地、争いのフィールド。それをそのままに、人は、真の人間を生きることはない。

11/23

30.知っていることではなく、感じることを言葉にする時間が増えると、思考を忙しくさせることがなくなり、気づけば、未消化の感情(の記憶)に引っ張られずに、淡々と過ごす自分がいる。考えてから行動するのではなく、行動しながらふと何気に考えるスタイルを普通としていると、経験(過去)にこだわることもなくなり、その気もなく思考は自由になっている。

そして、自分の中にしつこく居場所を持ち得ていた不安や怖れ(の動き)を何気に観察できるぐらい心は元気になり、身体は以前よりも動きやすく、気持ちは先へと行く。何でもないことにも嬉しさを覚え、ふとした想いや感覚が、みんなの喜びへと繋がっていく。それは、無意識という埃が払われ、元気良く動き出した、生命(の中心)の意思の安心である。

11/20

29.人は、要らない感情を未消化のまま(無意識として)多く溜め込むと、心と感性に重しが付いたようになり、自分だと思っている自分が本来(本当)の自分からは大きくかけ離れた、全く別の(心が主導権を握れない)自分を生きてしまうことになる。(そうは言っても、重たい時代環境の影響もあり、殆どの人が、その無意識に対して何も出来ずに、ただ次々とそれを蓄積させるだけの人生を何度も送っているわけだが…)

感情の発端には、「なぜ?」や「そんなはずはない」などの素朴な違和感があり、その背景には、置かれた環境と、自らが選び、引き寄せてしまった関係性がある。その環境も関係性も、そこに至るそれまでの様々な原因の絡みとその影響力を考えれば、そこには(未消化のまま蓄積する感情の記憶には)、どうにもならない負の連鎖と、それを決して崩させない存在たちの、動きの無い(変化を止める)感情が関わっていることが分かる。心ある人の辛い感情の原因には、心無い人の、その燃料となる重たい感情と、それを支える非人間的な無意識が在る。

11/19

病んでいる姿の、その原因に向けて行われた癒し世界も、無意識(の意思)という、無くてもいいものが、そこに在り続けていたためのもの。今年ラストのこの時、その無意識が揺れ動き、それまでのように居場所を維持できなくなる経験の中で、何もかもが新しくなる。それは、「心の遺伝子」の頃の健康と平和(という概念も無かった頃)の、その原因の働き。

ある人の、その無意識が無くなるということ。それは、嘘のような本当の、とてつもない望ましい現実の原因の力。それは、数千年間の人生のムダづかいの、まさに終わりの時。そんな時を、皆で生きている。ず〜っと前から、皆でその中に居る。(すでにそのための原因となるこれまでを、皆で経験してきている)

11/18

28.無意識は、探しても見つからない。頭を悩ませば、その分奥深くに隠れ、妙な力で、それは不自然な意思表現の原因となる。ところが、記憶に残りにくい「無有日記」に触れるなどして、頭を不必要に働かせない(思考が自由な)時間が増えると、頭を悩ませていた(悩まされていた)原因と向き合える本来の自分が力を付け、いつのまにか無意識は、元の場所から少しずつ動き出す。分からなくても、経験すべきことが経験でき、感じ得なくても、ふと覚える現実への感覚的理解が、その変化を伝えてくれる。

心深くに無意識が居座ることで、その気もなく繰り返される、その無意識を原因とする、不穏で不調和な現実。そこから離れ、ムリなく自然な状況を引き寄せるためにも、無意識の浄化は、誰にとっても不可欠である。本来そこには無いはずのものが力を持ち、不本意な出来事や環境へと無意識に向かわされてしまう、辛く切ない風景。それがそのままでいる理由を感じ取り、そうではない原因を高め、心を元気に、次なる風景(の原因の性質)を変えていく。

11/16

‘無意識の意思’という言葉が日記に登場したのは、4年ほど前。そこから、文章も大きくリセットされ(それまでの殆どが無くなり)、次々と形になる新たなテーマと共に、「心の風」も「原点」も修正される。

そして今、‘無意識’が文章になり、そのことで、全く新しく、そして懐かしい真の普通世界が、ひとりひとりの人間時間に連れ添う。大阪Bで触れた、形無き続編も、そこから離れ、この場所に来る。‘無意識’の後、無有日記は、それを包み込む世界を形にする。それを以て、2016年とする。ある意味、それは、長〜い登坂車線が終わったような感覚。

11/15

27.永いこと、無くてもいい無意識を持ったまま、強力な無意識によって影響を受けて来た人たちは、いつの時代に生を持っても、真に生きることは出来ず、何を考え、どんなことを理解しても、事の本質や生命の真実は、思考止まりだった。それゆえ、厳しい話だが、今尚在り続けるその無意識を外せぬまま、事は語れない。さりげなく真剣に原因を生き、剥がれ落ちるようにそれが無くなる中で、その時の変化そのものの姿が、そのまま望むべく事になる。出来事や物事の事は、生命の中心が自由で元気になることで、その本質となる原因の意思を繋ぐ。真実は、そこから自然と感じ取れるものである。

それが体験的に分かり出すと、思考は、生命の意思と重なり合う。価値観は要らなくなり、自らの生き方と何気ない人としての在り様が、そのまま地球自然界が喜ぶ価値観となる。それをずっと忘れさせられてきた生命たち。この時は、まさにその時。力強くしなやかに、生命は躍動する。

11/11

26.心ある人の無意識は、生命の中心に幾層にも重なるようにして在るのだが、それが解放されると、かつて(その無意識が在ったために)やむ無く行ってしまったことや、どうにも出来ずに経験したことのそれらの原因が動き出し、ふと偶然を装って、(自分関わりの)様々な風景に触れ得る(思い出す)機会を持つ。そのことをきっかけに観察し得ることになる、歴史の内実。この場所の(地球感覚の)原因を通して容易に顕になる、かつての様々な出来事の原因。時代時代で姿・形(環境、価値観)は変わっても、そこに在る原因の性質の中身は同じである。歴史の本当の姿は、遠い昔から「生命の歴史」を大切に生きる人の無意識が外れることで、その原因が浄化されつつ、感得・理解されるものとなる。

「この国の病みの始まり」から「LED感染」までの文章は、全て、無意識をそのままに、心のままでいることで自然に形になった、原因の世界からのこの国の真の姿である。「無有日記」は、これからも続く。「心の遺伝子」が、人間の真(心)の普通であるから。

11/09

思考の外側を通って来るタイミングは、思考が自由になるこの無有日記を通してその広がりと深みを増し、どんな人も、この時に居ることの責任感覚がどこまでも自然で普通なものであれば、その人の中を通って、現実を、望むべく実践の時に変える。

ここまでの数か月を振り返るのもいい。この数年間の時の、自らの変化を観察するのもいい。その全ての、何気ない選択とさりげない感じ方が、この今の、このタイミングを創り出した。責任は、結果の中には存在しない。人として、この地球に生きる生命として、この今という原因を未来に放つ。みんなが愛する自然界は、それを受け取り、ひと足先に、次の時代と交流する。

11/08

25.無意識という存在の原因を元に人は人生を送っているのに、人間の智では到底理解の及ばない、その奇妙な意思世界。それであれば、無意識だけで生きてみようと、人間誰もが普通とする生き方と正反対のことを、無有は試みる。(とは言っても、ごく普通で、簡単なことなのだが…)もちろんその中に、否定感情は無い。ある必要性から、他者のそれに付き合うことはあっても、ただその原因の性質に反応し、それが顕になる(相手がそれと向かわざるを得ない)機会を創る。

そんなだから、頭で良い人を生きようとする、そうではない性質の無意識を持つ人の本性は、瞬時に分かる(という理解からも自由であるが…)。ずっと病んだ無意識を抱え込まされている、本当はそうではない心ある優しい人の本質は、それ以上によく分かる。そして、みんなにとっての次なる時のために、密度濃く、生命としての変化に乗せる。それは、無有日記の原因のままでいることによる、何でもない普通。普通だから、いつも自由で、始まりも終わりも無い。

11/06

映像の動きが活発化したのが、植物たちにとっての重要なタイミング、初夏の頃だったから、この秋は、自然界からのご褒美のような、ゆったりと、軽快に、元気な時を皆で過ごしている。そうではなかったそれまでの理由も、はるか後方へ。自らの要らない原因は、姿も見えない。

求めないから、通る道は間違えず、考えないから、考えるべきことは逃さない。何もせずに大切なことを引き寄せる想いは、当然動植物たちの望みも形にする。ふと行っていること、ふと訪れている場所が、みんなの喜びへと繋がっている。

この11月は、もうジャマは出来ないよ〜の11月。空の青さが、ひとりひとりのアホさと重なり合う。

11/05

24.無意識は、太陽を嫌う。無意識を持たされた心ある人のそれは、太陽の下で力を失くし、それを仕向けた(存在と同質の)心を持たない人の無意識は、太陽を避け、力を付ける。

歴史上の、どの時の、どの場所での悲しい出来事も、そこには、危うい無意識の力が作用する。誰かが苦しみ、誰かが人生(命)を奪われる場所では、それを作り出して利益を得ようとする存在の無意識が活動的に働き、それに付き合わされる様々な性質の人たちが、無くてもいい経験の記憶を、無意識として、心に溜め込む。

ひとりひとりがすべきことは、シンプル。淡々と責任ある原因を生き、それによる真の普通をさりげなく実践する。心配は要らない。(それをジャマする)不穏な無意識の持ち主は、自らの本性が思考にまで上がり、その内側から崩れる。無有日記は、心ある人の芯を強くし、そうではない作り物の心で思考だけで生きる人の危うい中心を溶かす。時代は安心し、未来は笑顔になる。

11/03

23.無意識は、心の嘘を燃料とする。心ある人は、無意識が異物であり、心の無い人は、無意識の力で狡く生きようとする。その無意識の本質に触れ得るこの文章を通して、人は、いつのまにか、生命本来という世界の原因を、その自覚もなく大切に生きることになる。ずっと知らないままだったその事実に縁し、人間社会は、心が主人公である世へと確実に成長する。

進化は、生命としての、その変化し続ける原因の連なり。求め、形づくるものではなく、ありのままに具現化される、心の意思。自然界の安心と、生命たちの躍動は、そこでの普通。不安や隔たりなどの否定感情は、初めから無い。人としての、そのための大切な要素は、全て、無有日記に在る。そこに在る原因との融合を重ね、自らの原因を成長させ、さりげなく全体でいる進化の基本を実践する。(それを思考で扱うという退化の原因で、要らない無意識を働かせてはならない)

11/02

…というわけで、今年もあと2ヶ月ほど。「LED感染(8)」も100個集まったので、まずはページとして登場させた。メモノートを見ると(ボツも多いが…)、まだまだある。気づけば、「LED感染(番外編)」も動き出す。

2015年ラストは、「LED感染(1)」で始まった。途中、他の文章もいくつか書いたけど、結局「LED感染」は、ほぼ1年間続いたことになる。それだけのことはある。LEDの本当の姿が形になった映像も、一周回るまでには、あと半年ほどある。これからが、何より大事な時。

次に持ち越せないものが、その原因深くから次々と顕になる今。それが意味するのは、全ての変化。要らないもの全ての表出。何もかもが溶け出し、何も無いところへと移り行くそれらを動かすのは、何でもない日常の、何気ない時間の流れ。この時の、自然界の意思との融合というかけがえのない原因が、大きなうねりを創り出す。

11/01

2016

22.思考の力を一切使わずに、書くべき(言うべき)ことが自由に言葉になるこの無有日記の原因となる世界(次元)は、無意識世界を余裕で包み込み、そこに生命ある風と水を通し、光を注ぐ。純粋な人たちの(無意識を操って)転生先まで支配下に置く程の、強力な負の影響力を持つ存在たちをここに集める(無有日記との接点を持つべき空間に引き寄せる)ということも、その原因は、喜んで行う。そして、そこで繰り広げられる、無有日記との融合を普通とする人たちと、彼らとの、質の異なる原因からなる現象世界での、形無き無意識の絡みと、心と思考の不必要な融合。

そこで生じるどんなことも、ムダにはしない。同じようなことが起きて(引き起こされて)いるようでも、常にその原因に触れ、同じことが繰り返されないために、その質を変え、そうではない現実の原因を高める。個人のままでいようとする世界を全体で包み、過去にしがみつく(引っ張られる)重たい原因を、未来に繋がる原因で癒す。全体発の原因でい続ける無有日記は、心ある原因を持たない現象の中に潜む、不穏な無意識の意思を浄化する。それは、この先どこまでも、普通に為されることである。

 

10/31

126.空間を非生命化(腐敗型の状態に)させて、健全な人や動植物の生きる力を日々奪っているのに、誰もそれがLEDのせいだとは分からないために(分かろうとしないために)そのまま存在し得てしまうというその姿を思う時、LEDは、この世で最も恐ろしい原因を備える物質であるということを知る。生命本来を生きる動植物たちの力を借りて、時代を、健全な原因のそれにする。

127.生命世界を酷く悲しませるLED化の旗振り役を担えるというのは、誰よりも影響力を持ちながら、誰にも負けない怯えを内に秘めている現れ。不安や怖れを強く持っている人ほど、その裏返しの、他を隔てる差別心と支配・権勢欲を強めていくもの。それが異常な程だから、狡賢く力を付け、LED化を率先しようとする。その旗は、(LED化が進行する)時の政権関わりの存在たちの頭に乗っている。

128.LEDの細胞や環境への負の事実を知れば、蛍光灯が無くなる必然性が全く無いことを理解する。その計り知れない悪影響から観れば、省エネも環境保護も全て、(その原因の)嘘の上塗りの材料でしかない。

129.生命の意思と生命体との繋がりが破壊されるようにして力を無くす、LEDの恐ろしい影響力。野菜(果物)が溶ける姿は、動物(人間)の体の中でも、その原因となる働きが生じていることを意味する。それでも、照明にLEDを使おうとする、農園やスーパーの経営責任者。その姿(本性)は、稀にみる気狂いである。

130.LED照明に馴れ、何の違和感もなくそれを普通としてしまう時、人間は、生きる基本形の全てを放棄する。それ程の危うい原因を潜めるLEDの世界。基本を無くせば、何をしても、隔たりと停滞を生み出すことになる。

10/30

106.LEDほどの災いの原因を、自然界は知らない。この地球での生を自覚してから今日まで、そんな経験は無かったから、どうしていいか分からない。ただ、LEDが存在してはならないということだけは、その原因が動き出した時から、自然界は知っている。

107.感性が無ければ、責任感も無い。心が無ければ、正直になれる自分も居ない。LED照明を通して、隠れていた性質が顕になる。

108.照明器具がLED仕様のものしか無いという状況は、人の健康(命)よりもお金が大事という、実に醜い本性の具体化。どんなにそうではない理由を並べても、心ある風景を壊すその事実は、心が無い原因そのままの現れ。人が使ってはならないLED照明のみを作ることへの驚愕。それは、決して言い過ぎではない、人間放棄(失格)の姿。

109.関連企業の利益になれば、環境破壊も環境保護に変わってしまうLED。不健全な人が何でもなければ、健全な人の健康は外されるLED。エコという風潮に乗ってしまえば、その危うさも見えにくくなるLED

110.人のための仕事に就くことで、全くその心(本心)が無いことをごまかしていた人たちが、LEDによってその姿を顕にする。LED照明(街灯)に困っている住民のその切なる気持ちに背を向ける地方自治(市役所etc.)の職員は、その仕事に就く前に、すでに自らに嘘をつくことを覚えた。

111.LEDの影響によるミカンのまずさ。それは、廻り回って健康的な人間社会の衰退へと繋がる、恐ろしい負の原因。生命の営みを支える田畑や果樹園は、LEDライトにより、あり得ないはずの最大級の悲しみを経験する。

112.危機感を覚えて発奮し、その後消耗し切って力尽きる植物のように、感覚神経を慢性的に鈍化させた、妙な高揚感と能面のような心を併せ持つ人間が、LED照明の仕事場で増えている。その姿は、まるで操り人形。

113.LEDの負の原因を、それと質を同じくするものを持つ人(専門家)が検証しても、何も分からない。しかし、そうではなければ(健全な原因を普通とすれば)、どんな人でも、特別に何もしなくても、それは分かる。見識とはそういうもの。

114.世を病ませ、時代を蝕むLED。これ程無い未来へのお荷物、恐ろしい程のその代償。作り手・送り手の本性は、歴史的凶悪さの原因の極み。

115.道路沿いの木々が教えるのは、人間による、自然環境の崩壊の始まり。彼らの痛みは、自然界の悲しみ、時代の落胆。LED化という愚挙(悪法)を通して、人は堕落を加速させる。

10/25

21.考えて話すことから離れ、想いが自然と言葉になる原因の中にいると、いかに要らない知識や経験の中に居たかを知ることになる。頭をヘンに働かせず、思考を自由に感じるままでいると、いつのまにか争いや衝突の原因とも縁遠くなり、余裕と安心の時が馴染み出す。経験は、残すものではなく、創るもの。記憶の中の自分も、それを思い出す(思い出せる)今の自分を支える、大切な原因である。

無意識は、それが無いと困る存在によって作られ、同質の人たちに支えられて、永いこと存在し得てしまった、停滞と不安定の形無き材料である。それを原因とする形ある結果(という名の次なる原因)は、人の本来の動きを止め、不健全や不公正に無感覚な人を活躍させて、時を曇らせる。それはまるで、見えない鎖のようにして人の心を縛り、それを操る凶悪な存在の無意識によって、オカシナ意思表現の道具に利用される。

改めて、その無意識を心から外すべく道を歩み、その道で、心を生きる。思考は、いつだって心の脇役である。心本来の働きをじゃまする無意識に燃料を与えず、それを浮き上がらせ、浄化する(切り離す)ためにも、思考を自由にさせる。それは、人間らしい生き方を望む、切なる心の意思である。

10/22

20.地球には存在しなかった無意識という世界が、人間の心の中に居場所を得てしまったことで、人間の負の歴史は始まる。思考を自由にさせながら、それを実感する人たちは皆、時代の担い手である。そこでは、意識と無意識、顕在と潜在という区分けも、一切意味の無いものとなる。

思考を自由にさせれば(自由な思考とは次元が違う)、自ずと経験からも自由になり、意識と無意識が、心の中で一つに溶ける。そして、その心をそのまま言葉にし、感じるままに動く。そうでなければ、人間が人間でいることも難しい。思考を忙しく、結果(過去)を生きれば、それは、本心をごまかし、心を偽り、嘘を生きることである。

無意識(の意思)の影響力というのは、実に危うい。それを知る機会を手にしたのならば、まずは、歴史認識を本来(原因)のそれにする。そして、その影響力によって残されたままの知識や価値観から自由になり、確かな原因を生きつつ、自らの中にくすぶる要らない無意識を浄化する。それは、この時代に生を持つ人間の重要な仕事である。それを未来は喜び、過去は安心する。

10/21

19.その能力の源泉は、地球には元々無かったものを自らの(多次元的存在の)中心に通す彼によって外から流し込まれる、人間の経験枠には決して収まることのない、全く次元の異なる世界の、破壊の意思である。(「連繋の意思」)それをより分かるように言葉を用いればその分意味不明度も増してその場所から離れてしまうことになるその本質を理解することは、自らの無意識の性質を余裕で知り得ることのない人間には、永遠に難しい。

ただ、そうであっても、永いこと操られ続ける自分の無意識が、それまでとは違ってその居場所を無くしてしまう程の新たな原因の動きをすれば、それを知るまでもなくその存在の影響から離れ、生命にとっての望むべく修正・修復は自然に為される。その大切な材料としての、人としての本来の在り様を確かなものにするために、有ってはならない現実のその原因への理解を、人間らしく変化・成長させる。原因でい続ける生命の歴史を基本とし、そうではなくさせられたこれまでの歴史での未熟な原因を、責任をもって浄化する。

そのひとつひとつの歩みは、彼自身の(無意識の)存在意義とその極負の能力を無きものにする力となる。それは、その影響下から確実に離れる、貴い道づくりとなる。生命本来の普通が形になった無有日記は、ひとりひとりの原因の分母を増幅させ、その姿(歩み)をどこまでも応援する。

10/18

何も要らないことの大切さを知る人は、知ることを知らず、ただそれそのものを生きるゆえ、何かを以て生きようとする人とは全く異なる道を、知らずうちに歩む。それは、人間本来の普通であるゆえ、何かをすることで通る道にあらず。思考の外側にあるその道を通ることでしかあり得ない現実をその気もなく引き寄せ、そのことによる今が、次なる現実(時空)をさらりと創り出す。

その普通をありのままに、今を生きることを普通とする日々を送り続ける、普通の人たち。時を共に、淡々と過ごす彼らの、心ある想いの広がり。その先に待つものを知らずに何も無い中を進むことの大切さを、何でもないこととして楽しみ、生命世界に、大きなうねりを創る。その流れが、大いなる真の変化となる。

10/16

91.植物の命をもらい、植物を大事にする、人間らしく生きる人。植物の命を操り、植物をないがしろにする、人間らしさを無くした人。それは、蛍光灯とLEDの違い。LEDの光は、不安発の支配欲と繋がる、無くてもいい病みの原因。蛍光灯の光は、人の安心を支える、さりげない優しさ。

92.LEDの危なさを知って、良心が動き、可能な限り、修正・修復へと動き出す人。それを知りながら、狡く居直って、どうにもならない(何もしない)理由に固執する人。前者は、人を大切にする、責任ある原因。後者は、経営者でいることがそもそもの間違いである、無責任な原因。

93.原因の分かりにくさは、どこまでも害を及ぼし続けられることと、その責任から逃げ通すことのための術。初めにその質を高めに高めた存在たちの、LED化への原因。それは、政治や経済、環境問題を道具に進行させようとする、彼らの本質、病み世の土台づくり。

94.まるで悪質な人間の陰湿な隠れ技のようにして設置される、LED防犯灯。空間を重くさせ、人間の脳にまで負の影響を及ぼすそのLEDの原因により、オカシナ事件・事故は増え、そのための要らないはずの仕事も増えていき、送り手の本性は喜ぶ。それがLED防犯灯。

95.舌が美味しさを覚えても、細胞が辛くなるものがあるように、物を照らす光でも、それ以外の負の作用で、生命体が損なわれる光がある。水や食物(植物)の性質まで変えてしまうLEDは、地球規模の災いの原因となり得る、光としては扱ってはならない生命世界の異物である。

96.暴利・暴走、飽くなき破壊。LEDのバスと電車(新幹線)は、隠れ暴挙の狡さの典型。

97.太陽の光を遮る仕事を担わされた、神社の木々。LED化の副作用により、その不自然さも変わり出す。

98.省エネの真意は、光の偽装品で、不当な利益を得るということ。LED化は、エコという言葉まで悪用して繰り広げられる、社会の不良品化である。

99.自然界が悲しむことも、生命活動に負担がかかることも、みんなで行えば誰も責任を負わなくて済むLED化。体に悪いことも、体に良いことになってしまう、実に不気味なLED化。

100.LED化は、場所を選ばずに進めてもいいものかどうか?それは、人間の頭を持っていれば、どんな専門家も最低考えるべき、シンプルな常識。「LEDは安全・無害」と一点張りの、LED化の後ろ盾でいる協会や団体の(専門家の)そのあやまちは、地球から落ちても、まだ償えない。

10/15

18.そんな状況を、彼(彼女)の無意識は簡単に作り出す。優しい言動に重たい原因を自在に乗せ、常に人の頭を忙しくさせて、心ある生き方を忘れさせる。他者に対する身勝手な厳しさも、「私のためを思って厳しくしてくれている」と人に思わせ、深い感謝と感動を彼らに抱かせる。人々にとっての正しさは、彼のところから生まれ、彼を通して、向かう場所やそのためにすべきことが形づくられていく。

それが可能となるのも、形無き彼の原因となる無意識が、信じ難い影響力をさらりと生み出してしまうから。知らずうちに生じさせてしまった(埋め込まれた)無意識を思うように刺激され、利用される人たちは、彼のそのあり得ない能力によって、脳の健全な働きと、自らに正直でいる素朴な感性を無くしてしまう。感じるままに自由に動くことも難しくなり、形に頼り、物に依存し、心が心でなくなる人生を普通としてしまう。

彼(彼女)は、神道絡みの原因の世界で、我が物顔に世を扱う。彼は、この国のキリスト教にも、親鸞繋がりの中にも居て、人々の健全さ(生命)を貪る。

(嘘から始まる作り物の正しさの世界で人々を支配するその存在の本性の遺伝子は、獰猛な蛇である。脳の(意外な)ある部分に、その本質を潜める)

10/14

17.人の心が活躍できなくなる、本来無くてもいいはずの無意識という世界を作り出した、人間とは思えない異様な存在。その恐ろしさを考えただけでも、彼(彼女)らが、常識を大きく超えたあり得ない力を発揮する無意識を持ち合わせていることは、容易に想像がつく。

いつの時代も、身体(経験)を選択したその存在は、その場所で、あたり前のようにして人の信頼を得、社会全般にとても強い影響力を持つ存在でい続ける。彼の言動とその雰囲気は、人々(特に女性)を魅了し、たくさんの人が、彼の意向に沿う生き方をしようとする。そうではない僅かの人たちは、追放され(迫害され)、人生を失う。

多数は、いつの時も彼に付き、事は、彼の思うままに進められる。その風景は、見た目は何事も無く静かで平和である。しかし、そこには、殆どの人が、不自然な自分に全く気付けない程(気付く力を持てない程)異常な様を普通のこととして生きている事実がある。

10/12

永いこと、この時の訪れを待ち望んでいた、姿無き多くの心ある生命たちが、太陽と共に、10月の心の風になる。この今だからこそみんなで出来ることが、ずっと大きな希望の仕事へと成長し、そのどれもが、次なる(未来の)風景の確かな原因となる。

自然界の正直さは、人間のそれとは次元が違う。ジメジメ、ベトベト、ムシムシは、動植物たちには似合わない。人は人らしく、秋は秋らしく、みんなで風を吹かせる。地球環境の主導権は、いつの時も、自然界である。

10/11

16.無意識の実際と、その成り立ち、そしてそこに在る本質とその作用。それがこうして文章になり得たというのは、普通に思考を使っていては決して感知できない無意識の世界が、ここに在る原因に反応して動き出し、その中心の、人間の知能では永遠に向かう対象にはならない存在の意思が、その姿(力)を見せたということ。だからこそ書けた(形になった)内容であり、それだからこそ人が経験できる、生命としての真実の具現化である。

この時の訪れを、ムダにはしない。手にしたこの機会を最大限に活かし、ここに至るそれまでの原因全てを、新たな原因に変える。そして、この地球に生きる生命たちの未来のために、形無き原因(エネルギー)の処方箋を、文章に乗せる。

無意識世界は、永遠と変化を拒否する意思(滞りそのものの存在の性質)が仕組んだ虚構(生命世界の異物)の類であるゆえ、いつまでもそれに付き合うことはない。どうにも出来ずに、重しのように心深くに居座っていれば(そう思えば)、頭を使わず、話をする。何も考えず、感じる想いをそのまま言葉にする。それだけでも、無意識は反応し、その性質は、外へと流れ、伝わり出す。そのプロセスは厳しくても、その全てが生命の望み。次第に要らないものが姿を見せ、そして、姿を消す。人間は、本心と思考の性質が別であってはならない。

10/10

自分の中に存在するうちは、その無意識が本当の自分であるゆえ、それとの重なり具合がそれなりに自然なものでないと(それに蓋がされたままだと)、言葉(思考)のひとつひとつが嘘となる。今、その無意識が居場所を無くす流れ(経験)を通して、永いこと経験し得なかった真の自分が、その作らされた(抱え込まされた)本当の自分を表に出す。不安、怖れ、嫉妬、優越、焦り、執着、怯え、逃避、小心etc.それを歓迎し、変化に乗る。生命としての人間を生きる心ある存在たちは、この時を、かけがえのないものにする。

知ることに怖れを覚える人ほど、頭(口)では妙に知りたいと思う、思考世界のからくり。知る知らないの世界から自由にさせられることを頑なに拒否するその本心は、狂暴な無意識を内に秘めている現れ。何が有っても無くても、何もかもを連れて変わり続ける自然界の営みに、生命本来の意思が呼応し始める。それは、抵抗・拒否できる次元ではない。

10/09

車のLEDヘッドライトで、長いこと人々の暮らしを見守ってきた大木が次々と生命力を無くしていく姿は、見るのも辛い。そんな恐ろしい現実を生み出した、この国の、人間とは思えない存在たち。そのままでは、先は無い。

甲州街道を歩くと、人は、唖然とする。それを放って置ける神経は、人間のそれではない。

10/08

「無意識」の原稿と「LED感染8」になるであろうフレーズ集が「LED感染(映像)」の原因と融合し、以前に何度か伝えていた、無意識の意思の浮き上がりが、そこかしこで始まる。自然界には無い、人間の嘘。人間世界には元々は無かった、無意識という名の本性(本質)。始まれば、何も要らない。ただそれを見つめ、受け止め、要らない思考を外す。(思考が働く分、その質に見合った厳しさが伴う)

同じことが繰り返されることはない。でもその理解が、その自覚もなく形ある結果にこだわる個人のものだと、この今の大いなる変化の時を前に、然るべき原因(想い)が自分の中に無いことに気づかされる。それも変化。それでも変化。それは、変化を知らない世界での、精一杯の、ほんの僅かの、それまでのようには行かない(力を出せない)という変化である。

10月に入ったあたりから急速に動き始めた、全性発の心の意思。ある意味、この今は、これまでの原因(自分)が集大成のようにして具体化する、それぞれの、シンプルな真実との遭遇の時と言える。

10/07

81.光のようで光ではないLED。照明のようで照明には値しないLED。その本質は、生命活動を衰えさせる、在ってはならない不気味な物質。環境のためにも、動植物のためにも(もちろん身体のためにも)、人間が決して使ってはならない、生命世界の汚染媒体。

82.LED照明の安全性を保証する、照明関わりの専門家集団。彼らほどの悪徳振りは、この先出会うことはない。

83.ウィルスのせいではなく、LEDライトの影響により、ウィルスが活動しやすくなっただけ。少雨のせいではなく、LEDライトの影響により、少雨でも持ちこたえられるはずだったのがそうではなくなっただけ。樹木の病気は、全てLEDを原因とする。

84.健康と環境のために直ぐにでも出来ること。それは、家のLED照明と自転車のLEDライトを従来のものに換えてもらうこと。まずはそこから…。

85.決められたことだからと結局は無視する、人の心の切なる望み。立場的な義務だからと心無く遠ざける、みんなにとっての安心と温もり。地域を支える地方自治までが、光の暴力、非道な行使。

10/05

2016

76.海を照らす灯台の光や船のライトがLEDになることで、海の水は、科学者の経験の外側を通って別次のものとなり、魚たちは居場所を無くし、サンゴは生き方を忘れる。LED化の負の影響は、人間の理解を飛び越えて、地球規模の悲しみへと繋がっていく。

77.決められたことだからと言っても、それは単に、間違ったことが、間違った人によって、間違わされた人たちを巻き込んで決められただけ。決められたことで正しさを得てしまった間違いへの対処は、この国の自浄力の質を顕にする。LED化は、正しさまでが捏造された、嘘の底力である。

78.植物たちが腐り、動物たちが命を削られるLEDライトが増え出すと、それを喜ぶ腐敗型の生き物が力を付け、不気味に動き出す。そのリーダーは、神社のしめ縄級の蛇。同質の本性を持つ人間と一緒に、心ある生命たちの生きる力を食べる。

79.店の照明がLEDになってから、行けなくなった店。街路灯がLEDになってから、利用するのを止めた通り。LEDのイルミネーションが好きだと聞いてから、会うのを控えた人。LEDって、どこまで危ない人や空間を作り続けるのだろう?

80.始まりは、いつもさりげない。終わりの始まりは、ずっとずっとさりげない。二度と無い性質の、非LED化(LEDの原因の浄化)への始まり。動きの無い結果を連ねる不穏な重しを、自然界の意思は確実に外していく。

 

 

9/27

65.送り手主導の情報から始まる、作られた真実、LED。なかなか情報にはなり得ない、ありのままの真実、非LED

66.体の中で健全な仕事をする、細胞が喜ぶ食べ物を手にするのが難しくなっている消費者。LED照明により、スーパーもドラッグストアも(デパートの食品売り場も)、そこに在るのは皆、摂ってはならないLED品。普通の人は、細胞の芯から崩れていく。

67.LEDが多用されれば、それだけ多方面で故障は増え、人は、事故(事件)に遭いやすくなる。その理由は、LEDの原因が滑らかさや柔らかさからかけ離れ、そのどこにも、安心と健康の要素が無いから。電車やバスはもちろんのこと、車両全般において、LEDライトの使用は考えられない。

68.異常事態に興奮状態に陥る植物たちは、生育のバランスを大きく崩し、季節色を無くしていく。夏に紅葉、秋に若葉という姿も、LEDライトによる危機状況(生命システムのマヒ)が続くため。その不自然さは、人間の脳にも伝染する。

69.1つ増えれば、10個無くなる平和の原因。子供たちの精神が狂暴化する、その破壊型の原因。LED防犯灯は、人間の脳から、健全さの原因を簡単に奪う。

70.所詮、損得の次元。従おうとするその方針にも、その見解にも、みんなの健康と平和の原因は無い。

9/25

53.あらゆる病みの原因を備えるLED化の、そのあり得ない影響力を観ていて人が学べること。それは、これまでの辛い現実も悲しい出来事も全て、本当のところは誰も経験しなくてもよかったということ。

54.木々や草花が初めて経験する、その内側の芯のところからの苦しみ。セミもバッタも、トンボもコオロギもダイレクトにそれを感じ、そのことで自らも傷を負い、生きる望みと繋ぐ力を無くしていく。LEDの悲劇。それは健全種の滅亡への道。

55.重要なのは、LEDの中に含まれる要素(原因)により、それを使い続けることで、何が生じ、どんな状況が作り出されるかの専門的な見解。LEDを使うため(使わせるため)の専門的な見解は要らない(ガラクタ)。

56.電球よりも体を長持ちさせたければ使ってはならないLED

57.LEDが怖れるのは、健康的な発想と健全な違和感。脳がおかしい人は、何ら問題は無い。LEDの性格は、優しい顔の恐い人。自分がそうであれば、何ら問題は無い。

58.「環境保護のために、LED化を推進しています」「LED照明で消費電力を削減し、省エネルギーに取り組んでいます」。生きる力(望み)を奪われた生命たちのことを思うと、「盗っ人猛々しい」となる。

9/24

15.自分に正直でいることが大切にされる世であると、気持ちと裏腹の言動が存在できなくなり、人は、何かをする手前の心の性質を、滑らかで柔らかなものとして安定させていく。始まりが他者への正直さであると、それは難しい。言葉にならない想いがそのままでいられる世であると、思考型の(二者択一的な)価値判断から自由になれ、ふとそれが形になる時の必要性は、常に未来への責任を備える。考えることから始まる作り物の想いだと、それは難しい。

そんな望ましい世の原因になれない存在たちは、その危うい本心を隠したまま、表面的な思考(知識)だけで生きられる自分たちのための世を巧妙に作り出し、それに人々を合わせさせようと、キレイ事や形式(建て前や対面)の世界に比重を置かせ、そのことで不自由になった彼らの心を、その本性の性質をそのままに、無意識の力で病ませていく。善悪や正邪の価値概念も、真実から遠いところで悪用される。

9/20

47.LEDの数値化できない負の因子は、腹黒さが体重計には反映されないのと同じ。LEDに秘められた形無き破壊力は、命令を下した人が、惨劇を知らずに済むのと同じ。

48.山の木々が枯れれば、雨や雪による予期せぬ災害が起きやすくなる。今まで居た虫たちが姿を消せば、微生物の世界も浄化作用を失くす。その原因であるLED化が放って置かれれば、人間も動物も、枯れたようになる。

49.LED照明は、作らない。売らない。使わない。そこから始まる、環境保護とみんなの健康。

50.LED感染した植物の姿を見れば、まともな人は購入できないLED電球。健全であれば使用は控えるLED電球。普通であれば、その異常さを遠ざけたくなるLED電球。

51.現代における政治的愚策の極み、LED化。それは歴史に残る、この国発の恐怖の蔓延。時の指導者も、時の専門家も、みんな揃って蛇化する。

52.空間が不健康になることで最初に力を無くすのは、移動することの出来ない植物たち。次は、彼らとの融合を密にする小動物たち。そして、その姿に敏感に反応する、心柔らかな人間。LEDライトがある不健康な空間が他のそれと重なり合う時、生命世界の悲劇は続く。

9/19

14.無意識で病みを作り出す存在は、自らの(置かれた)立場を利用し、縁する人の良心を食べる。感情を操って人の気を惹き、相手の心を支配する。そして、人の脳(意識)の中に居座り、彼らの生命力を奪う。関わる人は、次々と普通ではなくなり、親しい人や縁ある人に、その気もなく害も及ぼしてしまう。

どんな時も、そうである姿は見せないその存在は、もっともらしいことを大事そうに言い、心ある人の印象を人に植え付ける。相手が喜び、安心することを優先させ、優しい人でい続ける。そして、人は思考の満足と引き換えに、理由の分からない辛さと、いつまでも変われない原因を、無意識として抱え込むことになる。

誰もその理由を分かり得ず、どこにもその原因は見当たらないため、人は自分を責め、自己嫌悪に陥り、感情は否定的になる。引き寄せてしまう不本意な現実は、次なる不調和な風景の原因となり、どうにもならない中、心も想いも、力を無くす。そんなあり得ないことを難なく生み出す存在たちの無意識が、実に活動的だから、ここに、この機会(文章)が在る。

9/15

36.余裕が無くなり、安心が遠のくLED。そわそわ、ざわざわ、イライラ、サムザムのLED。空っぽの心と嘘の元気が活躍するLED

37.虫が近寄れないことの真意は、虫の命(生命力)が消されてしまうということ。人の住む場所でのLED照明(街灯)は、廻り回って、純粋な心の人が皆生きられなくなってしまうということ。

38.LED照明の完備を誇る(アピールする)、駅にモールに、スーパーにレストラン。何故にそこまで愚かなのか…。

39.とんだ不始末LED化。欲深さの現れLED化。このままでは未来が危ないLED化。

40.数世代に渡って優しさと温もりを人に与え続けてきた桜の木が、終わりの時を告げる。老衰(寿命)ではない、LEDライトによる辛く悲しい生命の終わりを前に、体全部でその苦しみを訴え、そして姿を消していく。

41.体内の水分(血液)が生命本来のそれではなくなるLED。その理由は、専門知識の次元さえ超えてしまうもの。負荷をかけられた生命力は、異常(活発)と停滞を繰り返し、次第に本来を無くしていく。

9/11

30.LED照明を手放せない理由。それは、桁外れの否定感情(差別、嫉妬、優越、恐怖etc.)を内に秘めているから。そのことによる影響。植物から動物へ、そして人間へと順に腐っていく。

31.「(LED街灯のことでしたら)環境課に行ってみてください」「道路保全課に行ってみてください」「地元の自治会にお願いしてみてください」「環境課に行ってみてください」「……」

32.それまでには無かったことが起きれば、それまでには無かったものの影響を考える、知恵の初歩の初歩。魚や鳥たちの苦しみも、お米や果物の悲惨さも、その全ては、それまでには無かったLED化のLED照明を原因とする。

9/08

13.期間限定の価値観から自由でいて、繋ぐ責任をさりげなく表現していると、自然に伝わり、流れるものも成長し、原因の性質も変わり出す。思考を自由にさせていることも普通となり、経験や記憶が過去に居座ることも無くなっていく。そんな時を重ねる中、無意識の中で、外すべきものは外され、要らないものは浮き上がり、浄化されていく。そしていつのまにか、今まで経験することのなかった(理由の要らない)安心の時が少しずつ訪れ出し、出会う風景も、感じる世界も、優しくなる。それは、無意識の世界が溶けて無くなって行くような、とても爽やかで、温かな、ほんのりとした喜びの経験である。

その喜びが苦痛でしかない、心ある原因を持たない(知らない)存在たちは、無意識のところで負の影響を及ぼし続けられなくなることを恐れ、その否定感情を燃料とする歪な思考の力で、心ある普通の人たちを、表面的で、個人的な満足の世界に誘い込もうと躍起になる。だが、無意識が変わるという経験の、そこに在る原因の力がどれ程かを、彼らは知らない。

9/07

12.現代にまでずっと心ある人の無意識を支配してきた存在たちは、それまでとは質の異なる状況の今、自分たちにとって最も不都合となる概念と出会すことになる。それが、形を創る、形無き原因の性質である。

自らの原因は、心が無いと、触れ得ることも出来ず、放って置くと、それは無責任なものになる。その原因の影響は、何気に感じる(湧き上がる)想いによって観察され、それが滞りを生むものであれば、余裕で調整される。その原因への感覚的理解を欠き、その大切さに対してどこまでも思考で拒否・抵抗する人は、それとは異なる(自分たちには無縁の)心ある風景で、心が無い自らのその姿を顕にする。(彼らの影響下にいて、同様の状態でいる純粋な人もいる)

人間には、あたり前に健全な原因を生きる意思が備わっており、それを外して生きることは、誰にとってもあり得ないこと。その原因を、その意識もなく無視できる存在たちの、その無意識の恐さ。その度合いは、普通感覚の域を大きく超えるものである。

9/06

11.人々の生きる自由と心ある選択を抑え込み、支配した存在によって生み出された無意識は、それらの行為を普通とする彼らの凶悪な意思によって永いこと操られ、その後の転生やそこでの環境的な経験にまで影響を及ぼすことになる。純粋な精神性を持つ人ほど、その活躍を嫌悪する彼らに自由を奪われ、無くてもいい無意識に、切なさを溜める。普通でいる人の要らない経験の殆ど全ては、未消化の感情が蓄積したままの無意識によるものであり、その奥には、その無意識に影響を与える別な存在の異常な無意識が在る。

思考(言葉)で扱われてはならない心は、そのままで仕事をする、人としてのありのままの力。それがムリやりそうではない世界に付き合わされ、心は、本来の意思表現を忘れる。そして、心無い存在が利用する形ばかりの心に、人の良心と正直な想いは押し潰され、心ある本心の住む無意識は、いつまでも病むことになる。

9/03

10.素朴で、心ある普通の人にとって、無意識は、形になり得なかった切なる想いとそのことの悲しみ。心の意思が力を無くしたままであったために存在する、抑え込まれた感情。そこには、その理由となる思考世界の力(封建的な価値観)があり、その変化をあらゆる方法で潰し切ろうとする存在の意図もある。無くてもいい経験と有ってはならない現実を作り出した存在と、それらを受け入れた(受け入れざるを得なかった)自分の、両極の感情が無意識には在る。

だからこそ、思考を自由にさせて、心を元気にし、想いをそのまま形にして、それに連動する無意識の質を見つめる機会を得る。そして、そこに在る、要らない感情との絡みを外し、本当の自分を活躍させる。それは、元々は、不安も怖れも無く、悲しみも辛さも知らない、心ある純粋な生命であるから経験できる、責任と喜び。無意識の意思と、心の意思を、ひとつに融合させる。

9/02

B「LED化。それは動物たちの変異、奇形、迷走。植物たちの不良、衰退、壊滅。そして人間たちの無感覚化、無責任化、犯人はおまえ化」

C「LED、みんなで使えば夜(世)も終わる」

D「LEDの影響に無頓着な、影響力を持つ著名人(有名人)。どこから見てもその本当の姿は、凡人以前の野蛮人」

9/01

2016

植物たちは、人間世界で生じる病みの原因を知らず、それゆえ、彼らのそのありのままに自然体でいる原因と普通に融合する経験が生まれると、その人の中で、いつのまにか、自浄力が高まり出す。そのプロセスにおいて、その人の性質に見合った厳しさが伴うこともあるが、それは、望んでも決して経験できない貴い機会であるゆえ、淡々とその全てを受容し、歩み続ける。面白いくらい、空間は流れ出す。

植物たちの悲しみがここまでオープンになる(なれる)時って、人は、これまで経験したことがなかったと思う。この夏は、数日でその姿を大きく変えてしまう草花がある。一気に元気を失くす木々にも出会う。自然界の生命たちの望みが、確かに伝わり、繋がり出したからこそ見せる、彼らの(見てもらいたい人の前での)切なる想いの形。それを感じ取る人たちの心は、植物たちの原因深くで繋がる、姿無き多くの柔らかな生命たちの想いをも癒す。

これまでとは全く異なる、かけがえのない経験。MEリンク(動植物たちの心の意思)の世界を自らに重ね、動いてみる。

 

8/31

9.人間が人間らしく生命を生きる時、無意識が意識とは別なところに在ることはなく、どちらもひとつであり、全部である状態を普通とする。目に映り、耳に入ることも、それが意識的でも無意識は動き、言動の手前の原因のところでは、無意識の意思がその大半を主導する。

ところが、風習やしきたり、古くからの価値観等に何の違和感も覚えず、自らへの正直さ(本心)を押さえることに馴れた(馴れさせられた)精神は、本当の自分を活躍させられないまま、思考に力を与え、見た目や力ある存在による評価に意識を向けるうちに、いつのまにか、心の不自由さに繋がる独特の世界を存在させてしまう。そして、その中に、本当はそうではないのにやむ無くそうである経験と感情が置き去りにされ、次第にある種の質感を帯びる中、不思議で扱いにくい無意識世界(空間)が誕生する。本音と建て前、本心と体裁といった、人間味の無い不自然な使い分けもまかり通ることになる。

8/29

LED照明によって害を被っていたことに気付いても、それを伝える(訴える)場所は無い。そんな不気味な時代環境を、人は生きている。LEDの悪影響に対して、責任を取る立場の人がどこまでも見えて来ないという、オカシナ現実。それだけ巧く、ずる賢い意思が暗躍していると思って良い。素朴で柔らかな人ほど、要らない思考を使わされて、いつのまにか病まされてしまう、LEDの世界。地球自然界に生きる生命たちの本来を、自らの実践で守る。未来は、それを力強く応援する。

8/27

8.元来、人間には無い不安や怖れであるが、それらの存在を前提に頭を働かせ、行動する人は、人を知らずうちに不安にさせ、怖れを抱かせる負の影響力をその無意識の中に秘める。多くの心身の不調が不安発のものであることを考えれば、人の不安を利用して生きる存在の無意識が、どれ程危ういかが分かる。不安の元となる世界への理解は、次に繋がる原因を責任あるものにする。

人は、本来、生きることが、生命としての原因であるのだが、それを無視して(形ある結果にこだわり)人間だけを生きる人の無意識には、人の心の動きを抑え、生きにくくさせてしまう力がある。感じる心を持たない彼らは、表面的な理解しか経験できず、学びも行為も個人発である。その分、無意識は暗く、重くなり、本能的にその意思を隠すように、思考を強く、良い人を生きる

8/25

LED化は、この世の珍事級の不祥事、最大級の未来への負の原因である。それは、LEDの悲劇とも形容される。

どんなにそうではないという思考が力を持っても、その事実は、心ある人から人へと普通に伝わっていく。否定すれば、その分、内に秘めた非人間的な本性が顕になる。

それにしがみつこうとする権威や専門的な知見があるとすれば、この時代にとって、それ程の愚鈍振りは無い。それ関わりの権威は、ミミズの直感にも劣る。(ミミズにわるいが…)

心を持たない人の権威や専門的な力は、いつの時代も、純粋な人の心の自由を奪う。この今のLED化を支える権威・権力は、軽く数百年の病み世の原因を作り出す程の力を持つ。それがなぜ力を持ち続けられるのか? この国の、恐ろしく未熟な精神性(病み)の縮図である。

8/23

6.長いことどうにもならなかった否定感情の類が、いつのまにか姿を消したり、力を落としたりするのは、生の基本プログラムである本当の自分、無意識が、健全・健康になり始めたからである。価値観は、中庸を基礎とした地球感覚(生命本来)を帯び、視野は広く、心は余裕を持つ。そこでは、その無意識がそのまま原因となる時が展開し、思考も、まるで鳥のように自由に時空を飛び交い、心と呼応しつつ、言葉になり、行為になる。何かをしようとするわけでもなく、為すべきことが自然と為され、心ある融合を次へと繋ぎ、時を癒す。

無意識が元気になると、心も元気になり、心が健康になると、無意識も健康になる。脇役である思考も、無意識と同一となって、必要に応じて主役になる。隔たりも違いも知らない個性ある生命の中で、意識も無意識も、顕在も潜在も大きなひとつになって、思考(感情)と遊び、心と戯れる。それが、人間である。

 

7.辛い話だが、屈折した精神をそのままに、その理由となる感情の記憶を密度濃く無意識深くに潜める人の、その悪影響は計り知れない。そんな人の場合、その影響力の度合いに見合った、重く厚い思考の蓋(本能的にそれとの接点を避ける術)がそれにされているため、心が思考で扱われてしまう社会では、その危うさは、どこまでも人には気づかれない。

なのだが、この世の人々の苦しみは、その(存在たちの)無意識によって作り出されていて、病気や不穏な関係性などの様々な問題事が存在するという事実も、全て、そこから始まっていることを思えば、その世界への理解と実践が何より重要であることを人は知ることになる。

あらゆる病みの、全ての原因。辛い現実も、悲しい出来事も、そこには、そうである状況を生み出す程の存在の無意識があり、それへの無理解・無感覚が、延々と続くそれらをその気もなく支えてしまうわけである。

8/21

5.思考と湧き上がる想いが重なると、現実を引き寄せる心の意思も繋がる世界を広め、何が有っても無くても、そこでは、理由の要らない喜びが普通となる。そして、ずっとそうではなかった時のその原因となる無意識が、なぜそこまで病んでしまったか、なぜこの時まで力を無くしたままだったのかを、本来を取り戻した無意識と心(感性)が感じ取り始める。その時は、感じつつも、それを新たな原因に変え得る、力強い余裕の働き。次のために、そのままであってはならない理由を砕き、二度と繰り返さないために、その理由の元となる存在の無意識を力無いものにする。

無意識は、その人の本質の素顔。心無い人のそれは、思考の力で蓋がされ、見た目や体裁を繕う際の嘘の燃料となる。それにより、重荷を背負わされたようになる心ある人の無意識は、要らない思考を忙しくさせられる中、力を失くし、心を支えられなくなる。形ある問題事の背後には、その原因となる、形無き無意識の存在がある。

8/20

4.本当の自分である無意識(の意思)と向き合う中、思考の質も自ずと生命本来のそれとなり、そのことで、それとは異なる性質の思考に微妙な違和感を覚えるようになる。その典型は、良いことや正しい言動であっても、その人から伝わるものがそうではないというもの。他にも、空間を共にするだけで、なぜか悲しくなったり、重苦しさを感じたり、頭や胸が辛くなり、動きにくくなることもある。

それらは皆、健全な違和感の対象から伝わる、人間本来から外れたその無意識の影響力。思考の自由な人は、自由な思考を強める人の本心が直ぐに分かり、経験から自由でいる人は、経験(過去)にこだわり、空間の流れを止める人の思惑に反応する。

心が元気でいると、考えることで始まることより、考えるまでもなく動き出すことの方に気持ちが向き、その気もなく行ってしまっていることへの観察を通して、無意識の調整もより確かなものになる。伝える(伝えられる)結果より、伝わる原因。生命そのものである原因の成長は、それを支える無意識の望みでもある。

8/17

昨年の今頃は、「1000年目の夜明け」の後に、「病み世の恋人」の原稿となる「おまけ」を書いていた。それが難なく書けたのも、(その分母が限りを知らない)原因の世界からだと、分かり過ぎるぐらいその醜さそのものの病み(嘘)のかたまりが観察できたから。

それから1年後の今、「自然現象」を経て、「無意識」に入る。誰にも分る簡単な言葉で、無意識(の意思)世界の普通の姿(真実)を形にする。リアルタイムで触れ続け、内なる変化を楽しんで欲しい。まだまだこれから。まだ何も書いてないのと同じ。自然界との融合を基本とする普通は、進化そのものである。

8/16

1.思考を自由にさせ、不必要に頭を働かせないことが何より重要なのは、それが為されていなかったことでずっと不自由だった心を元気にし、想いを形に、その原因への責任を普通に生きることになるから。それにより、心を離れた知識(偏重)世界からは自由になれ、本来在るべき体験的知識を基に、創られる現実は変わっていく。心が主導権を握るゆえに、何気ない想いは衝突を知らず、思考も感情も、みんなの安心に繋がるものになる。

いつしか、経験からも自由になり、過去は癒され、時は優しくなる。具体化される原因には、いつもありのままの自分が寄り添い、何をしても、どこに行っても、心ある想いが行き交う。真の自由の基本となる、思考を自由にさせる、人としての在り様。言葉は、心の性質がそのまま乗り、行為は、常に自然体のそれとなる。人が、生命としての人間を生きる時、そこでは、思考の使い方や言動の姿までが、あたり前に心と重なり合う。

 

2.不必要に頭を働かせない状態が馴染むと、人は、自らの無意識と出会う。それは、その意識もなく他者や空間に影響を与えてしまっていたその原因として心深くに潜んでいた、未消化の感情の記憶と、その経験の性質。不本意ながらもそうであった危うさの原因が、この時とばかり動き出す。見たくないものを見させられ、経験したくない感情を経験し、自らの、その無意識の負の影響力を浄化していく。湧き上がる想いが、浮き上がる重たさの支え役を担う。

何をしてもどうにもならない辛さや悲しみの理由は、何かをしてそれをどうにかしようとする、その原因がいつまでも動きにくい、直線的な思考を忙しくさせてしまうから。心は、思考を使うほど不自由になり、頭を働かせる分、想いは形になりにくくなる。さりげない優しさと思いやりは、無意識世界の風通しが良くなることで、普通となるもの。思考を暇にさせ、心を本来にする。そして、心がそのまま言葉になり、行為になる思考を活躍させる。

 

3.その無意識が、その自覚もなくいつのまにか病み、おかしなことになってしまった理由は、浄化し得る可能性が全く無い程の、重く、粗い、粘着性のある無意識に(期間限定の知識や世間の常識を道具に)蓋をして良い人を演じ続ける人のそれ(無意識)と融合してしまったから。特に時代背景が今とは異なるかつては、面目や体裁などの世間の目が力を持っていたため、融合も密である。それゆえ、人として要らない性質のものを溜め込まされて、要らない経験をし、その記憶を無意識に沈めたまま、どうにも出来ない(心が主導権を握れない)辛い人生を何度も生きた人は多い。

知っていることや考えていることでのみ生きられ、それを普通に良しと出来る人の多くは、その人間味の無い本心を隠すための思考を使い、良い人でいられる世間体や常識を大切にする。そこに在る無意識(本当の姿)は、強弱様々に、負の威力を発揮する。

8/15

2016

この数千年の歴史の中で人間が初めて経験する、この2016年という大いなる変革の時(その原因が具現化し始めた時)は、未来地球のあらゆる生命たちにとっての希望と安心の礎となるもので、その確かな原因づくりの真っ只中に、みんなは居る。ふと何気に動いていれば、それが力強い責任となり、全くそうでなければ、これまでのその人の全てが嘘となる。

永いこと、嘘から始まる作られた正しさ(神芝居)に付き合わされてきた、この世の人々。その負の(病みの)原因が集結し、暴走しようとするLED化を通して、ひとりひとりの中の未来に繋がる原因(心)の力が試される。「LED感染(7)」の原稿の登場を待っていたかのように、自然界もその身を現し始めた、この今のタイミング。昨年では、まだその時ではなく、来年では、何も変わらず力尽きてしまう。2016年のこの時、生命世界の変化に乗る人の心は、そのまま未来の風となり、そうではない人の思惑は、地上3cmの住人に過去われて、巻かれる。ん?)

 

 

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