無有日記

 

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8.彼女の本体となる、限り無く意味不明な、無生命とも言える闇そのものの存在と立ち向かうことは、その全てが人間の経験の世界には無いので、どこまでも難しい。と言ってる場合ではないので、まずは、彼女の無意識の意思表現によって具現化し得る全ての現象の、その礎となる部分を崩す。そのために、蛇が嫌うものと遊ぶ。そして、地球を元気にし、その本体が生きにくくなる時を促しつつ、自家中毒のような状態を経験させる。その時の基本要素は、理由の要らないハッピー感と、何の裏返しでもない平和と健康。それらは、日々力強く、大きくなっている。

この世に、争いも病気も無くてもいい。これまでがそうであったとしても、これからもそうであることはない。ここに、G-Boyを招き入れ、彼らが認める作物を、心の風景に馴染ませる。傷を負った仲間(海、天体etc.)も元気にし、太陽を安心させる。ここから、これからが始まる。

6/29

7.聖徳太子の妹であった存在は、蛇系の人間を上手く使い、世を病ませ続けることだけのために生きる。蛇使いのような彼女は、神社が在ることを病み化の土台に、どんな風にでも、その影響を受けた人の脳を操る。蛇(神道)の世界との関わりが自らの中に在るだけで、心ある人は皆、生きる自由を無くす。

神道の原因深くで恐ろしく獰猛な力を発揮する彼女の本性は、蛇の脳と同質の、心を持たない存在たちを手下のように扱い、人の世を蛇化させ、好き放題負の連鎖を固めていく。しかし、歴史の芯は、その全ての終わりの始まりである。

6/29

玄米餅を8個程のキューブに切り、それをトースターで焼いた後、パスタに混ぜて、食べる。全粒小麦と玄米との交流。オカシクて、面白くて、わりと美味しい(と思うのだが…)。子供心を全開に、食を楽しむ。具をたくさん入れると、‘おもち探し’も出来る。

6/27

6.神社(鳥居)の存在や神道の教えを通して、殆ど全ての人が、蛇の世界(動きの無い、重く、不健全な原因)との繋がりを密に、その性質を自らに染み込ませてしまっていることを考えれば、蛇(神社)が嫌うことを招き入れるだけでも、人間社会で起きる病気や争いなどの問題事の原因から離れられることを理解する。そして、その実践を通して、どこに居ても、自然体で、ムリなくありのままでいられる自分の姿と出会うことになる。

それは、病まなくてもいい経験(人生)の、本来の普通への通り道である。ずっと自分の中に在った病まされてしまう材料が、それまでのようには使われなくなり、本来が力を付けていく。誰もがみんな嫌う(避けようとする)生きものは、病みの原因である蛇と神社が何より嫌うものであるから、それへの抵抗と拒否を、解放してみる。

6/25

5.蛇と同質の脳を持つ蛇そのものの存在たちは、自らの本性のままに、神社という形を作り、人々は、そこでの嘘の神々を後ろ盾とする彼らの凶悪な力によって、蛇を崇めるという、その非人間的な行為にも違和感を覚えられない程、思考は自由を失くす。そして、殆どの人が、その蛇の世界(の不穏な原因)に汚染され、蛇化する。

心ある柔らかな人が不調を慢性化させたり、心身が思うようにならない状態を経験したりするその原因には、神社(の原因)との融合を密とする、残忍さを秘める存在たちがいて、彼らのその無意識の意思によって、すでに大小強弱様々に蛇の影響を染み込ませられてしまっている人たちの脳が、簡単に病まされ、要らない経験を強いられていると思ってよい。蛇や神社が嫌う、太陽や青空、海を身近に感じることは、心身が本来に戻る、大切な機会となる。

6/25

大阪滞在中、阪神デパート4階だったか…)の、年配者たちが大勢集まるカフェのカウンターで、文筆家に変身する。そこは、おかわりのコーヒーが102円。ワッフルの味もそこそこで、文章が進む。カウンターの奥は、お気に入り。昭和歌謡のような表情のかつてのお姉さんたちに囲まれ、歴史の芯も、捗る。美味しいコーヒーは、無有日記には欠かせない。

6/23

4.その際、思考の域に上げて、自らのそれへの反応と、その後の様子を観察してみたいその材料として、蛇が苦手とする(どうにも対処し難い)生きものが在る。自分たちと同質の感情を秘める人間を、今日に至り巧妙に生み出してきている、蛇絡みの神道と神社関わりの存在たち。その影響で、人は、彼らが苦手とするものを忌み嫌う習慣を常とし、彼らにとって好都合となるものを、生活に溶け込ませていく。

ふと感じるままに、この国の人々が異常な程に嫌い、遠ざけようとする生きものを思ってみると、それだけで、何かが動き出す。なぜなら、人が共通して抱く嫌悪感の背景には、そうであることで安心する蛇系の存在たちが居て、その影響下で、その気もなくあたり前としてしまっている本来はそうではなくてもいい風景が、そのことでその歪な普通から外れるわけである。病気も争い事も、それまでとは違う原因が、そこで動く。

6/20

3.そうであるための基本材料となるものをひとつここに挙げてみれば、この国の誰もがなぜそうであるかも分からずあたり前のようにして嫌悪するものを身近に感じてみるというのがある。

神道絡みの価値観に汚染され、神社関わりの風習の中に埋もれてしまったこの世の社会的事実の背景には、その世界の都合を前面に、その気もなくそうであると思い込まされ、馴染ませてしまったいくつものことがあり、誰もそのことを疑うこともなく、正しさや善として、それらを常識の域に収めてしまってきている内実がある。

そんな中で、人々の生活空間から嫌なものとして遠ざけられているもの、意識を向けることさえはばかられているものの、その存在意義を、さらりと受け入れてみる。頭の中に在るものが、他の誰の頭の中にも無いものである時、それだけで、人は経験から自由になれ、不必要な融合からも離れることになる。

6/19

2.そんな世で、素朴さを失わずに心ある想いをさりげなく表現する自然体の姿を維持するためにはどうするか…となるが、それは簡単である。ただ、これまでの全てから自由になり、そのことで感じ得るひとつひとつを大切にする。経験や記憶から自由でいることや、思考を自由にさせることも、普通に、生きる基本とする。それだけでも、それまでとは質の異なる原因は活動的になり、素朴さも心ある想いも、何ともぶつからずに(何にもジャマされずに)、そのままとなる。人々の記憶の中に在る固定された知識(観念)や形式の世界を、そうであろうと意識するまでもなく遠くに置くことは、自らに正直でいる自分を淡々と生きる上での、大切な燃料となる。

6/17

1.この時代の、この今の社会環境全般における、人間本来から外れた不自然な風景。正しさが結果から始まり、喜びが形から生まれるその歪な原因の具現化される様は、そのどれもが、連繋の意思を持たない、流れない負のかたまり。人は、考えることの何かに思考を使えても、考えるまでもなく自由に動き続ける心の世界に、思考を付き合わせることを知らない。そのために、価値観は、ある経験枠内の中でのみのものとなり、その気もなく先入観や固定観念を強め、隔たりや優越といった人間味の無い感情を普通としてしまう。そして、それらのこととは無縁であるかのように、人は本音(本心)と建て前(体裁)を使い分け、自らに嘘をつき、嘘を生きることを覚える。

6/15

8.神罰が下るとか、祟りに遭うとかのセリフが誰かの口から発せられる時、その存在は、人々に災厄を経験させようとする、極上の病み人と思ってよい。神話の中の神々を真面目に語り、自分が神の使いであるかのような振る舞いを平気でする人がいれば、その人は、人間の脳を持たない、蛇頭級の嘘人と言える。そして、そこに、動物(蛇、烏、狐etc.)を神(の化身)として祀る神社と神主が存在するとすれば、それ程の欺瞞はこの世には無いと思ってよい。もちろん、ある人間を神として奉ることも同様である。

人間が人間でいられなくなる封建的な構造のその真ん中で、人間を非人間的に(獲物のようにして)扱い続けてきた、神社(神道)に住む蛇系の存在たち。その始まりから現代までのその歴史的負の蓄積を段階を追って確実に浄化し得る原因(抽象的作用の力)として、それをここに乗せる。その仕事を淡々とこなす、歴史の芯。それに対して抵抗・反発する人たちの感情の熱量は、そのまま、この国に潜在する、非生命的な病みの原因の大きさを表す。

現代では、一生命としての責任も、人としての感性も持たない(神道を基とする蛇系の)存在たちが、自らの本性を最大限に具現化させようと、LED化を、その道具にする。地球規模の災いの原因であるそれがまかり通る世(現実)を生み出した彼らは、そのLEDの恐ろしい原因(要素、性質)を、自分たちが何より望む、世の非生命化に活かす。その内実を分かりやすく形にした「LED感染」と「LEDの影響」。それらは、人間であれば、どんな人も決して放っては置けない事実である。

「歴史の芯」は、この今に至るどの時もありのままでい続ける、自然界の生命たちの、その切なる意思の形である。彼らは皆、自分たちが生きる自然環境の原因が本来へと変わり得るこの時を喜び、そのタイミングの中で時を癒し続けるみんなのことを、祝福する。「歴史の芯」は、地球が安心する、生命たちの望みである。

6/13

7.不安の原因を辿ると、神社に行き着く。嫉妬や執着も、その大元の原因は神社である。となると、何かの裏返しではない、平和で健康的な自分を安定させていくには、神社の鳥居をくぐらなくても居られる生活を維持することが、その大切な要素ということになる。その場所と原因深くで密に繋がる密教や日蓮・親鸞の世界も、その基となる部分は不安発(不安の裏返し)の安心を望む形態となっているので、普通自然体の健康と平和からは、程遠い。それを感得すれば、ふといつのまにか、ありのままの安心の原因が、自らの中で元気に動き出す。

不安になる時、それが不安にさせられていると考えるのは珍しい。しかし、その殆どがそうである。不安には原因があるのに、そのことよりもその不安に蓋をするという結果で不安を処理することを、人は常とする。ものや形に依存し、ご利益心を煽られても、その蓋の役割を担ってくれる存在を有り難く思い、感謝の気持ちを抱く。そのために不安が蓄積するばかりであっても、それに無感覚でいられる程、要らない(安心を探し求める)思考は忙しくなる。その姿は、不安から逃げられなくなっている(いつも不安にさせられている)状態である。

その蓋の製造元は、神社であり、それによって押し込められ、見えにくくさせられている不安の材料も、神社である。嘘の神々に付き合わされ、そこでの儀式や風習に関わるというのは、その自覚もなく不安でい続けることと繋がる。

6/10

ふといつのまにか手にした細胞レベルの自浄力は、少しずつ、生き方の自浄力(作用)へと展開する。この時を、細胞たちは喜び、人生も、それを何より嬉しく思う。歴史の芯は、本来という人生の道となって、そこを歩く人たちを守る。心配も、ふと気づけば、みんなのための心配りになっていた。

6/10

6.蛇は、狡猾さ。烏は、腹黒さ。神社は、彼らをペットとして大切に飼っている、愛情の無さ。

蛇と烏は、神の化身になれたことで、神主(神官)の言う通りに、否定感情を人の心に植え付ける仕事を担う。そのお気に入りの仕事場は、たくさんの人が痛みに苦しみ、息も絶え絶えの、合戦の場。次の生の重要な原因の時に、人の生命(魂)の意思に入り込み、怖れの感情をそこに染み込ませる。

そのことで、感性の柔らかい人は、生まれながらに不安定な感情を普通とし、その力の無い思考は、狡賢く悪質な思惑の存在に簡単に操られてしまう。蛇と烏の感情との融合を強いられた経験は、想像以上に後を引き、鳥居や社を目にしただけで、心の内が不自然になるぐらい、本来の自分は姿を無くす。争乱の多い時代に初めて人間を経験した人は、その後の人生で、自分が不安でいることに全く自覚できない程の不安そのものの本性(本質)で、縁ある人の安心を奪ってしまう。

理由も分からず不安に苛まされたり、体が動きにくくなったりする状態の原因には、蛇が絡んだかつての経験があり、烏も、それに加わる。そして、そこにはまた、安心の風景が違和感になってしまう程の人間の、不安で固められた本性の影響もあり、それらの全てを後方支援するようにして存在する、不安と怖れの社会の基盤となる、神道(神社)がある。

6/08

5.蛇の居る場所で、安心する人はいない。蛇が視界に入れば、食事をすることも難しい。蛇ににらまれたら、平静ではいられなくなる。蛇に巻き付かれたら…。想像するのも恐ろしい。

ところが、神社との関わりの深いこの国の人たちは、いつも、どこにいても、蛇と一緒にいる。鳥居に何の違和感も覚えない人は、まるで蛇と同化しているかのように、その精神と脳は蛇化する。この国の蛇は、社会全般で、その負の主導権を握る。

蛇化した人間は、蛇と同質の感情を備え、狡さと心の嘘を普通とする。蛇化した思考は、他との隔たりを強め、優越心を大事にする。神社の形無き負の影響で、多くの人の脳が、その自覚もなく蛇のように生きている。知識偏重も形式主義も、蛇系の特徴である。

気持ちが不安になり、体が委縮する、蛇の姿。緊張を強いられ、生きた心地がしなくなる、蛇の目。それらは、心ある全ての人の未消化の感情の原因。神社(神道)の存在によって、人は、一生を通して、不安と緊張から自由になれない時を過ごすことになる。

蛇と一緒に居たくなければ、神社関わりの全てから離れる。蛇系の人間に取り込まれたく(絡まれたく)なければ、鳥居を視界には入れない。健全な感性を持つ人は、それだけで楽になり、本来を取り戻す機会を手にする。蛇(蛇系)がのさばる社会で、心が育まれることはない。

蛇と一緒に、新年を迎えたいと思う人はいない。子の成長を、蛇に祝ってもらおうとする人もいない。財を手に出来れば、来世は蛇でも構わないという人はいない。蛇のために、人生を捧げる人もいない。

6/05

4.普通に考えれば、どんな人も分かるはずの嘘が、普通に考える力を無くさせられた人たちのその不健全な思考により存在し得てしまうという、実に寂しく、哀れな、この国のこれまでの常識。人は皆、人間である前に、一生命であり、私たちは皆、この国に生きながらも、その本質は、地球人としての命ある存在である。要らぬ怖れを抱かされ、不安の裏返しの安心にすがらされ、滞りの中を生きる人間。神社が無ければ、どんなに自由で、平和で、心豊かな生活が普通となるか。普通に考える力を無くさせられても、人間本来の心(生命)の意思は、それをどこかで知る。

人は、嘘の原因を生きることは出来ない。その時の必要性で嘘と思われてしまうことを言葉にすることはあっても、嘘の心を持つことは出来ない。だから、人は、人でいられる。人が人として生きる上での、その原因(心)の大切さ。何があっても、どんな時でも失ってはならない、人の心。心のままに心で語り、心を通わせ、心ある風景を創り続ける。その原因は、鳥居の内側には無い。

6/03

「どうして涙を流しているの?」「大切な木が、LEDライトの影響で…」「彼らは、‘涙はいらない♪’って言ってるよby GARO。‘そのこと伝えてくれればいいから’って」「うん

6/03

3.時を経て、人は、不穏と不公正が次々と更新される状況に何の違和感も無く生活を営むことを覚えさせられ、この世に存在してはならない嘘の神々の教えが権威・権力の象徴のように扱われ、生き続けるという世の価値観に、一切の抵抗もなく、むしろそれを有り難く思う程に、人間らしさを無くしていく。

始まりが嘘である教えが力を持つと、それは終わりにくい。そこに誰も抗えない神という文字が利用されれば、消えにくく、癒されにくい記憶が、どんな場所にも残る。そのひとつひとつが、神聖なものとして形(場所)となった時、人の命は軽んじられ、その嘘のために、人は命を無くす。永いことそうであり、今も尚その嘘の土台の上で流れ続ける、滞りと消耗の原因。その原因が嘘である世界ほど、普通の人間にとって、恐ろしくも、不要であるものはない。

6/01

2017

ふといつのまにか変わってしまっている好転的な身体の状態は、それだけ、その原因となる形無き世界の負の部分が確実に浄化され、望むべく新たな場所へと、心身の中心が移行している現れ。頭(脳)の反応も、脚の運び具合の変化も、これまでの繰り返しの(繰り返させられた)性質のものではない。抽象と具象が同時に動き出し、その原因が重なり、回転し、自然界の生命たちの活動を巻き込みながら、全てが、本来の在るべきところへと向かって行く(戻って行く)。人の心身は、心が主人公になり、身体は、心のままの想いが表現される、その貴い人間時間の道具となる。ふといつのまにか、時代は、その、留まることを知らない変化の中に入る。

 

5/31

2.ある存在が、神として崇められるという、人間本来の在り様が完全に抑え込まれた形式がこの国に誕生した時、人々の暮らしは、どうにもならない方向へと進み出す。その状況に対して、実のある対応が為されることはない。どんなに厳しく辛い生活環境が蔓延しても、その神(とされる存在)に擦り寄る人たちは、何びともそれに抵抗できなくなる社会構造の手段を、事あるごとに編み出し、巧妙にそれを実行する。それは、人間が、人間とは呼べない存在たちの非人間的な環境の中で、その異常を普通として生かされる様。

その時に、その凶悪な意思そのものの存在たちが世の病み固めの手段として取ったのが、全国の至るところに設置した、鳥居と社である。人の世には存在しなかった神罰も災厄も、その内側から、人々へと、その判断と理由が届けられる。その嘘で、罪無き人は殺され、更なる生活苦を、人は強いられる。そのどうにもならない状況の中、何も知らない子供であれば当然反発・拒否するはずの酷く非情で醜いことにも彼らは何も感じないという、生まれながらにして洗脳状態であるような、実に恐ろしい時を、人は迎えさせられる。その光景は、神道の完成品と言える。

5/29

1.そもそも、祟りや罰と、神とされる世界が結び付くことはあり得ない。人は、一生命としての自らの分をありのままに生き、その質を自然界との融合を重ねながら、成長・進化させるのが仕事。その原因の働きを阻止することになる、元来人が持ち合わせることの無かった不安発のそれらの世界を、教えや法に人間が使うことは、あってはならない。

人は、神ではない。神は、人を神にはしない。人が神であることは永遠に無く、ただそうであろうとする人の非人間的な無知と欲望が、真を外して、その世界を作り出す。それは、嘘や偽りよりも劣る、人間性ゼロの作為。人が考えもしない、人ではないその発想と実行は、そのまま、自然界の摂理への抵抗。その歪の極みとなることがこの人間世界に居場所を確保する時、人は、停滞と消耗の時を生きることになる。

5/26

8.2017年という年の、月日のひとつひとつを大切にする。これまでずっと続いていたいくつものことが、自然界では終わりを告げ、抽象世界では、生まれ変わるようにして、新たな時を生み出す力が始動する。そこに、姿無き無数の生命たちも参加する。動植物たちも、区切りを付け、一足先に次の時代と合流する。

「歴史の芯」は、すでに整地作業のような段階は終えていて、安全で平和になったその場所を、ひとりひとりのかつての原因(生命の意思)が安心して歩く。そして、ここに次々と辿り着き、みんなの中で、ひとつになる。探し求めないからこそ続けられた歩みは、これまでの全てを癒せる程の原因になっている。

この今ほど、地球を愛しく思える時はない。地球も、この時を何より嬉しいに違いない。地球の表面から、重たさが姿を消していく。その終わりの時に、全ての負の原因は吸い込まれ、この今の始まりの時に、全く新しい生命たちの原因が、明日へと動き出す。太陽が、いつになく近い。

ここまで来たからやっと見え出した風景も、過ぎ行く景色のひとつになって、みんなのこれからを応援する。まだまだ歩みは続く。繋ぎ行く旅に、終わりは無い。どんな時も、この時を忘れない。

5/23

歴史の芯を読み進めていくと、自ずとそこに在る原因との融合が為されることで、心身の自浄作用は活動的になる。それは、身体細胞の域を軽く通り抜け、形無き生命体、意識体の次元へと進化する。

そう。進化って、とても簡単なこと。経験の外側との出会いを喜ぶ生命の意思が主導権を握れば、それ自体が進化となる。そして、地球感覚を普通とする。この今、この時、この無有日記に触れ得るみんなは、軽く数百年分の1年を楽しんでいる。

5/23

全粒粉パスタだと、何味にしても美味しい。全粒粉のパンだと、何を付けても、何も付けなくても美味しい。玄米は、重たい食文化(白米)から自由になる意味でも、チャーハンやピラフにして食べると、どこかがいい。その他、そば粉や玄米餅を買い置きし、そばがきやきな粉餅などを食べてみると、子供心が元気になるよう。全粒粉のパンケーキは、ミックス時に、少しの小麦胚芽とつぶあんを入れて混ぜてみると、間食がだいぶ減る。もちろん甘味はてんさい糖。全粒穀物の、日常的な摂取。それは、あたり前の健康・健全を、さりげなく、しっかりとサポートしてくれる。

5/23

7.箱の蓋の役割を担うこの文章も、このあたりに来ると、いかに下劣で愚かなことを人間とは思えない低次の存在たちが繰り広げて来たか、ということがよく分かり出す。実に情けない。それが、この国の歴史である。

聖徳太子を際立たせたのも、異常な性質(の原因)の持ち主を尊ぶことがどれ程危ういかということを、体験的知識として、心身の感応を通して経験させたかったから。彼は、心が無い。精神は、鉄であり、氷であり、獣である。原因の世界から覗けば、その(原因の)重たさと冷酷さが伝わり出す。様々な反応を通して、人は、そのことを実感・認識する。それは、未来への重要な責任である。

そして、彼の重たさそのものの原因を土台に、その後人々の脳に擦り込まれていく、神社の存在。嘘を本当として生きざるを得ない人生を重ねる心ある人たちの脳は、完全に人間らしい働きを無くしていく。それを放って置ける程、人間は愚かではない。少しずつ剥がれていく、無くても良かった経験の記憶を、自らの原因の中で癒していく。人々の不安と怖れの感情のルーツも、祟りと神罰大好きの、神社(鳥居、社)であるから。

柔らかで、健全な感性を持つ人は、聖徳太子と彼の妹、そして神道(神社)の原因との融合から自由になるだけで、心身は、本来の力を取り戻し始める。自然界の生命たちの活力を抑え込もうとするそれらの存在の意思を思えば、それは当然と言えば、当然である。心ある人たちの健康と平和な気持ちは皆、自然界の生命たちと繋がっている。

5/21

6.その人間本来の姿を淡々と生きることが、この時代に生を持つ人たちの、生命としての役割である。初めて人間を経験した時代がどんな時かでも、それへの姿勢に個人差が出ることもあるが、そうも言ってられない。これまでがどんなであれ、歴史の芯に触れた経験をムダには出来ない。生命を生き、人間をやることが夢物語になってしまえば、人間が地球に居ることも難しくなる。

そうであるべき自分を大切にする中で、神社に対する感覚も変わっていく。所詮、作り物である。蛇や烏までが神になってしまうような、その世界の恐ろしさと悍しさは、その嘘の原因が限り無く非人間的で、凶悪・凶暴な感情を備えているからである。余裕で、これまでの経験を、思考から外す。罰や祟りを怖れる自分がいれば、それは、それ程洗脳されていることを意味するゆえ、そのことを自覚し、自らの原因を変える。嘘が力を持つと、どうなるか…。LEDの悪影響への無感覚振りは、自分が、嘘の神々関わりの病みで、人間ではなくなってしまっている証のひとつである。ある存在(人間、蛇etc.)が神であるという嘘ほど、破壊力のある原因は無い。

5/19

5.心の基本形を外した(外された)まま、永いこと窓の無い歴史ビルで、歪な人間観を普通に時を連ねて来ているので、簡単にそうであると思考をそこに重ねることは難しい場合もあると思うが、人は、差別心を抱え持つことは出来ない。そうではない気持ちを前面に、内面にそれを潜めることも出来ない。それが人間であり、この地球で自然界に生かされる、人という名の生命である。差別心は、そのどこにも住み着くことは出来ず、それを許す感性も、人は持たない。

同じように、人を支配して思い通りに操ろうとする感情も、人間の世界には無い。権勢欲も支配欲も、人の世に入り込んだ異物であり、それを持つことを良しとする価値観で、自らの本質を低次化させることは、人間には決して出来ない。

そうではなくなってしまっている負の原因が、この歴史の芯で確実に崩れ、浄化されていくことで、人は、本来を取り戻し、シンプルな真実を思い出す。何をしてもどうにもならなかったことが、ふと気づけば、前からそうであったかのように、いつのまにか変わっている。大切なこと(大切さ)は、それ自体が意思を持っていて、みんなのこの時に次々と姿を見せ、共に、未来へ行こうとする。これまでの歴史も、この時に学ぶ。これまでの時代のためにも、人間でいることを忘れてはならない。

人間は、理由の要らないハッピー感を、生きる基本とする。そうであることで、自然界の生命たちと共に、あたり前に平和で、健康的な営みを普通とする。だから、人間は、誰もが優しく、誰もそれを知らない。誰と居ても、心は重なり、どんな人も、それを愛しく思う。独占欲も、執着心も、そこに入り込んだ異物である。

5/16

4.人としての本来の在り様を、その原因のところから確かな想いで実践する人が増えていくと、それだけで、世は変わる。自らの原因の性質への責任感覚が普通に為されていくそこでは、結果に留まる思考が力を持てないので、時は流れるように次なる時を引き寄せ、空間は、柔らかで、優しくなる。ひとつひとつの何気ない原因が、心の無い存在たちの動きの無い原因との融合から外れることで、そのままその自由な感覚が、平和と健康の力強い原因となる。心ある普通の人たちがそうであることで、何をしても、しなくても、時は変わっていく。

LED化の自然環境への負の影響力に無頓着のまま、人間が人間らしく生きることが不可能なように、この世の嘘の教えと歪な価値観のその原因に無感覚のまま、心や精神の世界を語ることは出来ない。全てが原因であり、変化し続ける生命であるから、それは、当然なこと。原因が嘘であるLED化をそのままにすることも、嘘を土台とする神道世界の影響下に身を置き続けることも、人間であれば、出来ない。

それを拒み、退けようとする姿勢は、そのまま、自らの非人間的な本性を顕にすることになるので、縁遠くあるべき存在として意識しやすくなるからそれでも良いのであるが、そうではない時を歴史的に初めて経験し得るこの機会を、逃すことはない。この今は、生き直しを可能とし、それを、自然界と全ての原因と繋がる全体がサポートする。生きることの、その質に、一生命として無感覚であってはならない。

人は、生命を生き、人間をやる以外の生き方を持たない。それまでの原因を切り離し、形ある結果のみを生きようとする姿勢は、それに逆らい、人間がしてはならないことを選んでいることであるゆえ、それを良し(可能)とする、不穏で無生命的な場所の中に居てはならない。その全ての変化の原因を、ひとつひとつ差し出していく。

5/16

この時代の、最も危険な発明品であるLEDは、そう形容されるように、日々、これ以上無いというそのきめ細かさで、自然を破壊し続ける。生命体の芯の部分を無きものにするそれは、何のためでもなく淡々と生き続ける植物や小動物たちの全てを壊す。人間も、人間らしく生きる原因を普通に備える人は、LEDのその非生命化の負の原因によって、徐々に、後戻り出来ない状態へと向かわされてしまう。それを、人間らしさとは無縁の存在たちが喜ぶ。

LED化という名のもとで、純粋な生命体の意思を残らず潰し切ろうとする、異常さ(凶悪さ)を内に秘める、人としての原因(心)を持たない存在たち。恐いほど、時代は崩れかけている。それに気づく機会を得ても、LED照明を外そうとしない不気味な人たちによって、人間の社会は、芯から腐敗していく。

5/15

3.心ある原因を生きるという、人間本来の普通を思い出し、それを少しずつ馴染ませながら、さりげなく淡々と自らの分を生きていると、今まで少しも疑問に思わなかったことに違和感を覚えたり、何気ない発想が人の心の風景を癒す透明感のある柔らかなものであったりと、思いがけない時を過ごすことがある。そして、ふと確認作業のようにして、以前から知っていたかのように、思考に上がって来ることがある。それは、原因の質を無視する存在というのは、その人の中に、人としての原因(心)が無いということ。そのことが意味するのは、原因の世界の性質(本質)がオープンになることを、その存在たちは恐れているということ。だから、無くてもいい差別や争いの原因は、いつまでもしつこく残り続け、平和や健康の原因は、力の無いままである。

求めることで、そのことをごまかす心無い存在たちは、平和を求め、そうではないそれまでの原因を放って置き、健康・健全をテーマに、そうではない原因の自分を無視する。そして、心の世界を思考(知識)で扱い、心の無い自らの本質に蓋をする。原因を生きられない、原因の無い人。彼らが、結果のみを大事に生きること以外の選択肢を持たないことが、この世のあらゆる争い事の元となっており、不公正で不平等な現実も、不自然で不健全な関係性も、そこには、負の影響力をその意識もなく及ぼし続けるその存在たちの、人としての原因(心)の無さによる作用がある。

有るもの(有ってはならないもの)を無いものとして生きることは不可能であるはずなのだが、この世は、生命の変化・成長を阻もうとする鳥居と社が建てられたことで、それが可能となってしまう。そのことを考えただけでも、嘘の神々を信じ込まされて生きてきた人たちの、無くてもいい経験がどれ程かを知ることになる。

その土台が固められた、大和・飛鳥時代のあり得ない現実。心ある原因を持たない、心ある振りの結果だけの世界では、それで良しとする人の数が増えることで、嘘は本当となり、それで得(利)する人たちの中で、嘘は、力を手にする。聖徳太子と彼の妹、そして彼らとの関わりを密とする不気味な存在たちの負の原因は、この国の、悪性の不燃物として、今も暗躍する。

5/13

気づけば、歴史の芯も6章に入っていて、どこまで行くのだろう?と、この先はムーも分からない。けど、段階を追って、確実に負の連鎖の土台は崩れていく。不要にその関わりを持たされた人たちは、これからの無有日記の性質に連動するようにして、要らないものが出ては、消えていく。2017年は、そんな年。これまでは普通に有ったものが、これからは普通に無い。動きにくさも、生きにくさも、その重たい原因がそのままであることはない。

歴史の芯は、その内容以上に、そのひとつひとつに触れることに意味がある。書く度に、その時々のEWで望むべく動きが生じ、読む度に、文章に乗ったそのEWの原因によって、細胞(心身)は、変化を経験する。そして、ふといつのまにか…と、いろいろなところが変わる。求めず、探さず、ただその(変化の)真っ只中に居て、淡々と歩き続ける。

5/13

2.そこにある嘘の原因を処理し、そうではない時の新たな原因のそれとして、その深くを浄化しようとする時、この世的な常識や期間(地域)限定の価値観は、一切不要となる。正しいとされることが言葉や知識(思考)から始まるものであれば、尚更、事の原因に触れ得ることは出来ない。そして、唯一それを為し得る手段、それは、知識世界や経験からあたり前に自由でいる中での、原因でい続ける生命としての思考(発想)。その力強い原因は、自ずと細かく柔らかなものでいて、嘘の原因という粒子の粗い世界は、そのままでいることは出来ない。言葉であって、言葉ではない、生命源と繋がるそれは、原因の仕事を淡々とこなし、あらゆる原因の性質を、本来へと変えていく。

原因が動き出し、変わる時、それまでのその原因に付き合っていた心身が、様々に反応する。それを促す原因の乗った言葉(文章)の生命力に触れ、心身の本来は、細胞の奥深くの意思活動を活発化させ、窮屈だった時の負の経験の記憶を、確実に浄化し始める。そこに理由は無く、その体験そのものが、かけがえのない時の理由でい続ける。原因の正しさは、二者択一的に存在する思考レベルの理由を寄せ付けない。

この歴史の芯が、本当だとか嘘だとかは、どうでもいい。大切なものを大切にするために、大切とされてきたもの全てから離れる必要性が生じた時、喜んで、世の常識から外れる。変えるべき原因がそこにあれば、そのために、結果を無視する。分かっても、何も変わらないより、分からなくても、変わるべきものが変わった方がいい。その原因が、歴史の芯である。

経験枠内の思考で分かろうとする、変わりたくない人からは、当然それは嘘である。そして、そうではない人は、嘘でも本当でも良いところで、それまでに経験できなかった、芯のところの変化を自らに生じさせる。それでいい。原因の変化に、思考は要らない(善悪や正否の判断は不要)。

5/11

1.この国の窓の無い歴史ビル、という描写で始まった、歴史的負の連鎖の、その堅固な基礎の部分への対応。どの章も、8個程の文節で仕上がったそれは、人の心を囲い込み続ける心の無い世界(神道と武力政治)を、その外側から、別次の心の世界が多面的に囲い込むような感じになっている。6つ目のこの文章が、箱の蓋の役割を担う。

言葉は正しくても、その元となる原因が不穏で不自然である時、伝えられることからではなく、伝わることから、その実は分かり出す。そして、そこに嘘がある。その原因の嘘をしつこく潜め、固めている人ほど、正しいとされることにこだわり、そのことを頼りに、正しく生きることに日々思考を使う。そこは、腹黒く、性根が曲がっていても、正しいことを言葉にしていれば良い人でいられる、心無い嘘の世。正しいこと(正しいとされること)を口にする人はいても、人としての正しさは無い。

形ある姿は、それまでの、それに繋がる原因が創り出し、その姿も、変化し続ける原因として次なる時を引き寄せ、次の形を支える仕事をしているわけだから、言葉や行為という形(姿)に比重を置く姿勢は、人間らしい普通が欠如した、異常なものと言える。形式を重んじ、儀式や因習を大切にする生き方自体、形を持たない心を無視した、嘘の人生となる。

5/10

8.神道は、自然界の活き活きとした営みを嫌う。生命の躍動とそのリズムを遠ざけ、太陽を遮り、海からも離れる。そのために作り上げられた嘘の神々は、その非人間的な考え方に反発する人の意思(命)を潰すために使われ、神社は、その恐ろしく惨い出来事の舞台となる。

 

嘘の神々を後ろ盾とする低次・低俗な政は、権勢欲の強い非道な人間を次々と生み出し、鳥居の内側に、彼らの思い通りになる世のその最も凶悪な材料としての、形式と体面だけが重視される、絶対的正義と神の意思を作り上げる。素朴で純粋な想いも、素直で正直な感覚もそこでは罪となり、その狡猾で残酷な蛇系の価値観と融合できずに異端扱いされる人たちは、手(腕)脚を折られ、縛られ、吊るされて、苦しみの中で命を絶たれる。

感じたままを言葉にし、湧き上がる想いのままに行動する自然体の生き方から、驚く程かけ離れてしまっているこの国の人間は、その意識もなく本音を抑え(本性を隠し)、身を繕い、体裁を整えることに力を注ぐという、嘘の人生を平気で生きている。その嘘のルーツを遡ると、そこには鳥居と社があり、神主(神官)や巫女、太子や天皇と呼ばれる存在もいる。そして、虐げられ、命を奪われた、罪無き大勢の人たちがいる。

現在でも尚、心ある想いを普通とする人たちは、神社の姿とその本質を通して、生きる力を無くしている。特に、自然界が喜ぶ原因を生きる女性たちは、そこに在る負の原因に反応し、理由の分からない怖れと不安に苛まされる。

歴史の芯は、人としての真をここに繋いだ彼らと、共に未来の確かな原因でい続ける人たちのためにある。そこからでしか始まれないものがある。LED化の原因深くに居座るその場所を通らずして、未来のために為し得ることは何も無い。みんなで、本来の元気を普通にする(取り戻す)。過去が癒され、未来が喜ぶ原因で、次の時代に、安心を繋ぐ。

5/09

7.その恐ろしく未熟で野蛮なことが、歴史ビル2階の真ん中あたりで密度濃く行われていたことは、男尊女卑をしつこく潜在させるこの国の人間の、その精神性の薄さを生み出す元となっている。それは、神道という、差別と迫害を良しとするその危うい路線を固めた、そこでの女性の性に対する非道な意識付けからも、容易に頷けるもの。

その世界に、病み世の重石のようにして存在し続ける、聖徳太子。奈良以降の、獣のような本性の権力者は、彼の冷血で非情な原因(遺伝子)を繋ぎ、素朴で、自らに正直でいる人たちをいたぶり、命を奪う。心優しい女性たちは、すがる人を殺され、純粋な男性たちは、大切な伴侶を守れずに苦しむ。

悪質で、冷酷な、力ある男たちの側では、心を持たない形(身体)ばかりの女たちが、人々の惨状とは対極の世界を、その凶悪さを同調させつつ、愉しむ。彼らの元で、蛇も神となり、人の世は、神社という薄気味悪い空間の中に閉じ込められてしまう。

5/08

LEDのライトがどれ程危ういものかは、自然界に住む動植物たちのことを大切にする人であれば、直ぐに分かる。全くそれに無感覚であるとすれば、その人の責任感覚は、ミミズ以下なのだろう(ミミズにはわるいが…)。街路樹や公園の木々の悲惨さを目にしても何も感じない人は、すでに、人ではない。

LEDの照明を浴び続けても平気な人の脳は、生命力を低下させる動物たちの存在を喜ぶ、カラスや蛇と同質ということになる。‘そうではない’と反発する彼らは、何を言うのだろう?

5/08

6.人としての生きる自由が守られていれば、様々な厳しい状況でも、協力し合い、助け合って、共に過ごしていくことが出来るが、そうではなく、生きることが辛くなる程のことを身に経験させられると、そのどうにも出来なくなる状況の中、人は、自分(命)を大切にする気持ちも失くしてしまう。権力を持つ存在の意向で、都合良く簡単に罪が作られ、心ある感性を普通とするたくさんの人たちが、毎日のように傷つき、人生を絶たれていた世。そこで女性たちに与えられる罪無き罪による罰は、酷い。それは、人として有ってはならない非人間的なこと。人間本来の意思を備える普通の人ほど、その対象となり、心を潰される。

生命への尊厳も、人としての配慮も無いそこでは、暴力と蹂躙が容赦なく為され、執拗で残忍に行われる酷い仕打ちによって、女性たちは、死の淵をさまよう。苦痛に悶え、寒さと孤独に震え、時に獰猛な蛇や烏との絡みを持たされて、その恐怖と痛みで、精神は壊される。彼女たちは、女性であるからこそ担える生命の役割(働き)までをも潰され、癒えない傷を背負い、悲痛な時を過ごす。

5/07

5.人としての、本来のあるべき姿と、そこで育まれるべき原因の大切さに気づいた女性たちの間で、理由も分からずに、子宮や卵巣、股関節や胸などの不調(痛み)が生じている姿のその原因の多くは、大和・飛鳥時代を中心とするかつてのいろいろな時代に、否応無く強いられ、被った、悍しく、惨たらしい心身の経験によるものである。その時の経験(の記憶)は、そこでのその性質を生命体(心の遺伝子)の意思に残し、時を経ても、癒されることもなくそのままであったが、限りなく中庸(全体)でいる世界に包まれるこの今、それらは(その原因は)、息を吹き返すようにして動き出し、段階的に浄化されている。

それまでであれば決してあり得ない不本意な経験が、次なる現実の原因となって、次々と辛く苦しい経験を生み出していく時、その延長上に居れば、その土台となる最初の(頃の)経験の原因は、いつまでもそのままで、そうではない性質(次元)の原因に触れ得るまで、不本意な現実は蓄積していくだけである。現代は、永いこと微動だにしなかった負の連鎖が途絶え、その重苦しい経験の土台が、内側から崩れ、浄化される、生命にとっての重要な変化の時と言える。

5/06

LED照明のホテルで使う蛍光灯のクリップライトが欲しいのですが…」「なるほど、そうすればいいのですね。私も、出張先のホテルでLED照明を点けられなくて、困っていたんです」「ありますか?」「うちには無いので、よかったら、心あたりのある他の店に一緒に探しに行きましょう!」「はい…×2」(ある電気店での若い男女の会話)

5/06

3.男性を生きる一生命として、男女が織りなす風景をさりげなく自然体で支えていた彼らが、女性に対して、それまでは一度も経験の無かった隔たりの感情を思いがけず抱き始めた時、すでにそこでは、不自然で不穏な関係性を男女間に生じさせて、彼らに苦しみの時を経験させようとする存在の意思が活動的になっていて、いつしか、要らないはずの経験の記憶(蓄積)が、人々の暮らしの、そのありのままの原因の力を、徐々に削いでいくことになる。

蛇のような(蛇も慕う本性を持つ)その存在は、自らの凶悪な本能の欲するまま、恐さに怯え、痛みに苦しむ人の姿をいつまでも維持させるために、繰り返し、女性を生きる。彼女によって、男性たちは変わり、男性たちによって、女性たちの性(宿命)までが変わる。

 

4.不安定な様を見せ始めた人の世は、時代を連ねる中、歴史ビル2階の時に、その歪な男女の在り様を人々の常識の域に収めさせてしまう。男性たちは、知らずうちに仕組まれた、支配し支配される構造の中、何もせずに利する立場に居る存在たちの権力に従い、他を隔てて、外に求め、形(結果)にとらわれ、男性本来の姿を忘れる。女性たちに対しての彼らの態度は、非人間的という言葉で形容される程となり、脳の健全な働きを無くした彼らによって、彼女たちの普通は、人としてのそれではなくなっていく。

女性たちは、ただひたすら耐える。男性の所有物のように扱われても、自分らしく生きる自由を完全に断たれても、そうであるしかない状況を受け止め、子を残し、生きていけるだけ生きる。子を身籠る度に呼び醒まされる、人間本来の感性(本能)までが潰されても、彼女たちは、男たちの生をもって(生き方に合わせ)、生を繋ぐ。

5/05

2.男性は、元来、母親となって子を産み、育てる女性を、温かく見守り、自然な気持ちで大切にする。自分たちには無い、特殊な生殖本能を潜在させる彼女たちの経験に、尊さを感じ、感謝を抱く。女性たちは、安心に包まれ、理由の要らない喜びを、子に伝える。男女は、優しさを普通に、支え合い、愛し合う。

男性の本分は、闘う(戦う)ことでも、争うことでもなく、生きることの(原因の)成長・進化への積極的参加である。親から伝わる、子供の頃からの柔らかな想いが、そのまま時を経ての子育てへと繋がり、それと同じことを次の子供たちも普通に経験するので、争い事(衝突、差別)の原因が生まれることはない。誰も、その意味も知らず、ありのままに、平和の時を過ごし、生かし合う。男女は、互いの生来の性質を尊重し合い、協力して、調和のある営みの様を分担する。

5/05

「もろい、かける、割れる、はがれる♪って、LEDの影響のことですか?」「それもあるけど、この場合は、胸のボタンひとつ外した人のマニキュアのことですby Hakudo」「何でも知っているんですね!」「いや、そんなことはないのだけれど…」

5/03

「最近、肌がキレイになりましたね」「実は、LED照明の職場を離れたんです」「えっ…。うちの店、今、人手が足りなくて…」「あっ、はい。私も実は…」「×2(蛍光灯オンリーのカフェで)

5/03

1.命を奪われたくなければ(殺されたくなければ)、言われた通りにしなさい、という不合理で理不尽な口上が、力ある存在たちによってあたり前に通用していた時代、人が人として普通に生きることは限り無く難しく、人生を全うするという自然体の姿も誰も望むことすら出来ない、とても厳しい時を人は過ごしていた。その中でも、若い女の人は余りに過酷な生活を強いられ、人々を支配する側に属する人以外の殆どの女性たちは、女性であるという理由だけで、言葉での描写が実に難しい、想像も出来ない惨たらしい現実を経験させられる。

それを欲し、満足に浸る存在たちの中に、同じ女性が居たことは、人々の悲惨さが恐ろしく拡大するその強力な原因となる。女性たちの嘆かわしい経験の背後には、妖気を醸し出す程の悪しき同性の妙な振る舞いと、女であることを武器に(その怪しい力で)操られた男たちの、彼女の本能に付き合わされるようにして強めていく、残虐さと冷酷さがある。

5/02

「庭の木、枯れちゃいましたね」「はい。今夜、LED街路灯を壊しに行きます」「それって違反ですよ」「わかっています」「お供します」「×2(年老いた男女の会話)

5/02

8.嘘(の原因)を生きる人間は、神社が好きである。彼らは、本音と建て前を上手く使い分け、キレイ事で、良い人を生きる。その嘘は、かの2人が好む性質であり、結果、その重く動きの無い原因で、心ある柔らかな人たちの生きにくさを作り出す。神社と関わりを持ちたがる人の本性は、自分が安泰であれば、人が苦しんでいても平気な、残忍さ。嘘の神々の中身を覗けば、普通人間は、近寄ることも出来ない。

この国の病みのルーツは、歴史ビル2階の床が崩れ、天井が無くなることから、その浄化が始まる。それにより、2人の今も影響力を失くし、そして自然界は、人間を迎え入れる。そんな面白い時を、私たちは生きている。これ以上無い、病みだまりの現代。「歴史の芯」は、人が人として、生命を生き、人間をやる際の、燃料源でい続ける。それは、この時を喜び、笑顔になる太陽と、それに安心する地球自然界の、人間への祝福の時である。

5/01

「車で送りますよ」「車のライトはLED仕様ではないですよね」「もちろんです」「遠回りしてもいいですか?」「はい。(あるパーティーの場で)

5/01

2017

7.「心の遺伝子」を内なる世界で躍動させる人は、鳥居の存在に、恐怖を覚える。かつてのそれは、罪無き心ある人たちの迫害(殺戮、拷問)と深く関わり、社は、嘘の神を人々の脳に染み込ませて、彼らに心(真)を捨てさせた、化け物の住み家である。

その実が曲げられたまま今に至り、そのままで居られるのも、人々の脳がオカシクさせられたまま、不安の裏返しの安心にすがり、耐え忍ぶ精神を生かされてきたからである。その中心辺りに居続ける、聖徳太子と言われる人物と、彼と同質の存在たち。歴史の芯が真っ黒になった歴史ビル2階での原因を浄化しないまま、時代が先へと行くことはない。どうにもならない現実も、何をしても変わらない関係性も、その全ての原因に、その存在たちが関わっているのだから、自らがまず原因を変える。無くてもいい経験から離れることは、人間の、真の普通の大切な要素である。

そうは言っても、どうにも出来ない、という姿勢ほど、危ういものはない。これまでがそうであったから、そうではない選択は難しい、という思考も、人間本来のそれではない。心優しく、素朴で純粋な人たちの苦しみがずっと固められたまま存在し続ける鳥居の内側に、生命としての原因は無い。それを普通とする(信奉する)自らの性根の奥底に何があるかを見つめ、それを外す。自らの原因が動かなければ、無くてもよかった悲惨さと残酷さの原因は癒されない。

人は皆、あたり前に支え合い、生かし合う、生命としての存在である。そうではなかった時の記憶の原因を本来へと変え、人としてそこから再スタートを切るためにも、確かな原因を生きる。原因の無い世界に付き合わされることはない。

 

4/30

6.形を持たない、目には見えない世界が、この今ほど揺れ動いている時は無い。この世界の本質であり、全ての現象世界の理由となるそこでの性質がそれまでと同じに行かない状態を、その存在たちは経験している。

この世は、その世界から見れば、とても小さく、どうにでもなるところである。ところが、この今が次へと繋がる新たな原因の場所に、その形無き世界の意思は入り込みにくくなっている。それは、その存在たちにとって、初めて経験する、危うさと緊張である。

この国の人間が、歴史上初めて経験する、人間本来の在り様と、その元となる世界の自浄作用。その原因の働きを確かなものにするために、この今の‘原因を生きる’という普通を高めていく。そして、その妨げとなるものを外していく。時代の意思が、自然界の生命たちの望みをここに集約させるかのようにして始まった、「LED感染/LEDの影響」と「歴史の芯」。それを基に、この国の、世界(未来)に向けられた負の原因を浄化していく。

その時、さらりと自然な感覚で、自由になり、離れる場所として在るのが、人間が人間らしく生きる原因の全てを破壊したその存在たちの凶悪さの通り道である、神社である。神道は、切り離された心ある人々の原因が閉じ込められ、動けなくなっている囲いであるゆえ、その世界との関わりを外し、自らの心深くの経験の記憶の中に、風穴を開ける。素朴で、自分に正直でいる人の脳の中に入り込み、彼らの人生を恐怖で潰し、楽しんでいた存在たちが、後世に渡りそれをし易くするために、飛鳥・奈良・平安…と、人間本来に対するくさびのようにして全国に増やしていった、神社(鳥居)。その場所は(神宮も大社も)、人間が嘘の世界につかまるきっかけとなる蛇(大蛇)や烏も関わっているゆえ、地球自然界の未来のためにも、真に生きる道を歩み出すためにも、その全てから、離れる。それらは、この世で、最も怪しく、不気味な、嘘の原因の産物であるから。

4/28

5.その存在は、どこにも居る。形を持たないから、‘どこ’という概念は通用しないが、どんな時も、扱いやすさの度合いに応じて、その対象にかける負荷を調整し、性分や性質の中身を見て、その人の感情に強力な負の燃料(否定的な原因)を注いだり、空間を重くしたりして、不安発の争いを作り出す。結局、人は、どうにもならない状況に居るにも拘わらず、それでどうにかなっていると思い込まされ生きているので、いつも彼らの思うままである。人のために何かをしても、調和はすぐに崩され、どんなに頑張っても、健康は安定せず、健全さは維持されない。それが人間の世であると、誰もが信じて疑わない。

この世の本当の姿(本質)を一言で言えば、姿を持つことも不要とするその存在たちによる、自由気ままな不穏な現実づくりと言える。身体を経験していても、普通一般の感覚でのそれではない状態でいる中、彼らは、余裕で、形無き危うい原因の仕事をし続ける。人の脳が経験する不安感や疲労感をより強めるために、好感と違和感の狭間(無礼・不遜ギリギリのところ)での微妙な言動を上手く振る舞い、縁する人の感情を抑え込む。理由も分からず、気落ちし、元気が無くなる状態を、人は、そうであって欲しくない時に経験させられ、知らずうちに不安を蓄積させていく。

身体経験の健全な原因が壊されて無くなり、そこに、鉛のような結果(という動きを止める原因)を埋め込まれて、どこまでも、その仕掛け役である姿無き存在によって人生を操作されるという恐さ。ただそれも、その存在の本質と融合することを普通とはしない本来の意思を、その人がずっと大切に持っているからであり、多数の人たちは、彼らの悪徳の材料となって、嘘を頑なに本当と信じ、けんめいに生きている。この時代は、その危うさによる、混乱の極みのような時である。

4/26

4.つまるところ、人間の住むこの世は、かの存在によって、その形を持たない(目には見えない)世界の全てを支配されていて、それを結果に(結果という名の動かし難い原因に)成り立たされている社会を、人は、人としての原因を放棄したまま、生きているということ。彼らは、生命が活動する際に欠かせない明暗の暗であり、動静の静の世界に居座り続ける(陣取っている)。もちろん、そこには、生命本来の性質(活動)は無い。人は、形ある結果をその気もなく生きる(生かされる)中、そうである原因を固め続ける存在の意のままとなる。

この今の、人間の居る世界全体を、その大部分を占める形無き原因を含めて多次元的に観察(感得)すれば、知識や経験豊富な人の誰もが否定するであろう、思考の域には収まらない様相がその実として形になる。価値観の性質が自浄され得る機会を遠ざけて安心を覚える人たちの中に、強い怖れと不安を生じさせる事実が、そこには在る。

極端な言い方でも何でもないが、この世に、本当の自分を生きている人は居ず、自分はそうであると思っている自身の意識(意思)も思考も全て、自分のものではない。それは、大いなるひとつの超越的な存在の意思によって生かされているといった次元のものではなく、ただ、人間の基となる部分の世界を仕切る非生命的な存在によって、彼らの思うままに生かされ、動かされているのである。それを知るという経験の元となる、知り得ないままであったこれまでの経験全てが、自分のものではないゆえ、その実のあり得なさ(恐さ)が、まさに超越的とも言える。

4/25

3.形ある人間時間での出来事は、形を創る、形無き原因の世界に支えられ、その性質が様々に重なり、融合し、衝突・分解・結合しながら、それにより、現実としての様が具現化され続けている。そのことを考えると、この今に至る歴史も含めた人間の世界は、何千年もの間、その原因が、(人が人の命(人生)を奪うという)非人間的なものとして連なり続けていたことを知る。そして、その生きる基本であるべき原因は、生命としての原因のそれではなくなり、人は皆、原因を生きることが至極困難になってしまう程、その不自然な普通の中で、触れることもはばかられる、不気味で無生命的とも言える妙な原因に支配されているということになる。そこに、その存在たちは居る。

人が人として、人間らしく原因を生きるという、生命の基本形からなる観点でこの現実世界を観た時、その人間らしく人として生きる人は、どこにも居ない。時を経て、人は、いつのまにか、生きる上で最も重要な原因の世界を切り離して、結果のみを連ね、人が経験できないはずのそれを普通とし、過ごすことを覚えてしまう。その際の、結果にい続ける不穏な(動きの無い)原因が言動へと形になる時の、その思考全般の下地の中にも、その存在たちは居る。

感情や感動も然り。心や優しさへの想いも全て、そこに在るべき人としての原因は無く、何もかもが結果(への反応)であるという虚構世界を、そうである自分を全く感知できないまま、根無し草のように(操り人形のように)人々は生きているのである。その結果の世界の嘘の原因の中に、その存在たちは居る。

4/22

2.心身の反応や変化を通して、聖徳太子とその妹の、野獣(化け物)のような本質を感得できるようになると、人間社会の人間像は、本来とは大きくかけ離れて、全くの異常な形態を取り、動いていることを理解する。自然界と一緒に変化に乗っているようでも、人々の内心は変化を拒み、他の生命たちと共に原因そのものでいても、生きる姿勢は、結果から離れない。それが、生命世界にとって、どれ程不都合で危ういことか。そんな歪な人間社会を、人は何の疑いも無く生きている。

それは、この国の殆ど全ての人が、どんなに身を繕っても(そうではない理由を並べても)、中身は、個の欲のためだけの個人主義を生きているということ。そんなだから、どこにも心ある原因は無く、経験から自由でいる自然な姿(生き方)も、経験できないでいる。病気の原因は無視され、健康の原因は語られない。困った人が減っていく(居なくなる)変化には背を向け、困った人の存在を前提とする実の無い変化に熱を注ぐ。その普通ではない世界に生きていることを普通とすることで、どんな人も、心は、自分のものではなくなっていく。

その歪な人間世界を、その元のところで我が物顔に操る、人としての原因を持たない存在。要らない無意識が意識を離れて存在するうちは、その無意識が真の生きる世界であるように(「無意識」より)、人間は、永いこと、人間本来から遠いところで、そう思うことで良しとする(それを疑うことのない)偽りの人生を生きている。

4/21

1.誰にもそうとは決して思わせず、それでいて、強弱を柔軟に誰の中にも居て、その人たちの痛みと苦しみの原因でい続ける存在。同質他の人たちも恐れるその存在は、その身体(姿)を単なる道具に、いくらでも好きなように人を問題事へと誘い込み、彼らの辛く悲しい現実を演出する。病みの蔓延の妨げになるであろう意思に出会せば、事の手前で、その人の生きる原因を潰し、体が思うように動かせない状態を、彼(彼女)に経験させる。それをどうにかしようとする気持ちすら誰も持てずに、世は、重く、粘っこく、普通に病み続ける。その存在の、身体としての(見た目の)姿は、その自覚もなく不自由の中にいる(いさせられる)人たちの間で、尊ばれ、愛され、大切な人として崇められる。

どんな人でもいとも簡単に病ませられる力を持つその存在は、人前で、都合よく(人の気を惹くために)調子を落とすことも、自らの身体に痛みを作り出すことも、上手い。融合しにくい人を思い通りに抹殺できた時代の暴力が利用できない現代において、その本性の働きが微妙に鈍くさせられる状況では、それは活躍する。人は意識を引っ張られ、感情をくすぐられ、彼女の犠牲になる。

何も目に映さず、耳に入れずに過ごせれば、その存在の危うさとの融合から本能的に離れ得る可能性も手に出来るが、そうも行かない。無有日記の原因と、自らのそれを重ね、経験に引っ張られず、経験を創る。その存在たちが嫌うことを、普通に高めていく。

4/20

何処にも向かわず、何も求めず、ただ普通に過ごす中でふと訪れる楽な感覚は、同じことが繰り返されない原因のある一つの力となって、少しずつ、確実に、本来へと変化に乗せてくれる。思考を不要に刺激され、また何かの拍子に気落ちしてしまうことがあっても、何も要らず楽になれた時の経験は、いつのまにか、いつもより早く回復している自分に出会わせてくれる。そして、細胞の意思が喜び、安心する頭の使い方を、その自覚もなく表現している自分がいる。

これから、そんな楽な感覚(時間)が増え、それでも落ちてしまうことはあっても、そのままそこに居る時間も少なくなり、何かが違い、どこかが変わっている、変化し続ける原因の普通が活発になる。

楽と楽しさは、同じ文字。ずっとその中に居着いていた(歴史的な)不穏な原因を切り離し、元気と快活を、それに足していく。歴史の芯は、喜んで、その土台となる。

4/19

完全なる嘘というのは、生きる理由となる原因が嘘である存在の、全ての言動に当てはまる。その嘘の中身は、非人間的な感情の性質であるゆえ、どんなに正しいとされることをしても、それは嘘である。つまり、正しさの手前にはすでに嘘があり、その嘘が全て正しさに塗り替えられて、信じて疑わない正しさとして言動になっているということ。

そんな存在たちは、言葉にしたことが正しいとかそうではないとかの次元にいつも居て、自らの本質である嘘を、本当として生きる。結果(形)で隠された原因(本心)の嘘は、悪質で凶暴である。自然界を病ませ続けるLED化も、その(それを主導する存在たちの)原因は、全て嘘である。

4/18

8.彼女が最も苦手とするのは、歴史ビル2階の時に兄(太子)だった、現在の息子であるが、自らの内実がこうしてさらけ出される現実は、これまでと同じようには行かない別次の原因が活動的であることを意味するゆえ、それへの憎悪は、彼女の中(無意識の意思)では、歴史的と言える。彼(息子)にとっても、それは恐れていたことで、2人とも、思いがけず、取り返しのつかない現実の真っ只中に居る。彼女の時を経て、彼の世界にも行く。

聖徳太子と呼ばれる存在の原因の性質(本質)は、何びとも感知できない、鉛のような非生命のそれであり、現代に至り維持されてきたその印象は、同質の存在たちが巧く作り上げ、その後脳をオカシクさせられた(洗脳された)人々が否応なく支持する(させられる)ことになった、まがい物である。その人間ではない本質(正体)は、精神疾患の何ものでもない神道の基礎を固め、殺害と迫害の道具となる嘘の神々を生み出していく。

生命としての原因の質を高め、人間らしさを普通に成長させていく中で、それは、普通に理解できる常識となり、この国の、この今に至る病みっ振りを、改めて把握することになる。そして、人は、生命を生き、人間をやる、生き直しの時を創り出していく。

数千年振りに、人間を生きる。この時代に、その病みの原因を更新させず、地球自然界の生命たちのために、LEDの世界を外す。そのための人生は、人が、この時に経験し得る、かけがえのない一生命としての、尊い在り様である。ただその原因でいて、それを未来に繋ぐ。未来は、過去が癒されるこの時を、ずっと待っていた。

4/15

7.妖術という言葉が可愛らしく思える程の力を普通とする彼女の能力を、思考レベルの理解に触れやすいよう表現すれば、彼女は、誰の脳の中にも居る。歴史ビルの地下階の頃から、あたり前にその力を行使していた彼女にとって、それは、常識的事実である。戦の度に生まれ、増えていった人間の、その原因となるところ(生命体の中枢)に深く関わり続けているので、誰も、彼女の力には抗えない。

その能力の原因のところからこの世を観た時、これがとても重要なのだが、人は、彼女の無意識世界(本体)の中で、彼女の操り人形のようにして生きている。生きる原因が牛耳られているというのは、そういうこと。人は皆、人間である前の、その手前のところから、彼女の意思のまま、成長・進化とは無縁の世界を生きる。その異常を、誰も異常とは思わず(思えず)、歴史は繰り返される。

身体は、仮の姿。(もちろん人は皆、本当の人間ではなくなっているが…)その本体は、想像することすら許さない、凶悪な意思だけを生きる、巨大な姿無き化け物。心ある自分に目醒めたことで、彼女の感情の対象(ジャマ)となれば、どこに居ても、逃げられない。異常なその能力で、生き血を吸い取られるようにして、人は、生命力を無くしていく。何もせず、ただ普通の人でいて、その本体となる恐ろしい意思が、勝手にそれをする。

自然界と自然に融合する人が、どうにもならない状況に陥り、気力・体力を無くしたり、原因不明の痛みや不調を抱え続けたりする時、そこには、その人の全てを見張るように様子を伺う、彼女の目がある。彼女は、そのエリアの存在たちが何より欲しがる力(術)を、いとも簡単に発揮し、その全ての痕跡を完全に隠す。恐ろしいという言葉も、そのどこにも当てはまらない。

4/13

6.言葉や行為を通しての身体活動に全く比重(価値)を置かず、その手前の形を持たない想いを手段に、ありのままに素の心で交流する時、人は、不安や怖れを知らない、隔たりの無い友愛と調和を普通とする。頭を働かせる意味も、頭から始まるものではなくなるので、その意識もなく人は生かし合い、心に思考を付き合わせ、支え合う。

人間本来の原因が変化・成長し続けるその場所での、その自然な営みが完全に潰されてしまったとしたら…。その決してあり得ないことが、邪馬台国を経て、大和時代の人間世界に生じた時、人の生きる世は、言葉から始まり、行為にのみ価値を置く関わりを主に、素朴な想い(心)が全く活躍できない時を連ねることになる。

人の心と心が通じ合うことも、優しさと思いやりを重ね合わせることも不可能となった時、人間が最も大切にすべく原因の、その抽象世界における創造の意思は、かの兄と妹の居る世界に完全に支配され、非人間的に(呪術的に)牛耳られてしまう。その内実は、その原因となる理由が全く分からないままその上に人は人生を重ねてきているゆえ、誰も理解できない。その気もなく嘘の世界(価値観)を永いこと支え、生きて来ているので、抱え持つ常識は、当然それへの拒否・抵抗の材料となる。

それ程のことが、あの時以来為され続けているのだが、今、細胞の意思からなる多次元的な変化を通して、この時ならではの新たな経験の質が、常識となっていく。内実は、知識世界の次元を超えて、この今の体験の事実の中に、その原因の性質のまま姿(意思)を見せる。

4/12

5.心に正直な想いをそのまま表現していた人は皆、この世の病みのルーツとなる場所での、嘘の神々を後ろ盾とする悪政や暴力(殺戮、拷問etc.)によって、その原因全てを失う。それでも、この現代、自然界で共に生きる生命たちのその健気な意思に抱かれ、純粋さを本質とするゆえに次々と脳に負荷をかけられてどうにもならなくなることが分かっていても、心ある存在たちは、自らの、それまでの原因と向かい合う(闘う)。

世の隅々まで嘘(偽善)で汚染され、その上に存在する歪な人間観から誰も出られなくなっている今、その元となる場所で人間性(心ある健全な感性)ゼロのくさびをこの世(の原因)に打ち込んだ存在たちの、その土台を崩す。そこに、滞りの原因の権化のようにして存在し続ける、聖徳太子と妹。偉いとされる人物の所有物(家畜)のようにして命を落としていった無数の罪無き人たちの、その切なる想いを解放する。彼らの心の意思を、2人から自由にする。

(それぞれに、同質の強者級の援者が集う、2人の空間であるが、彼女の場合、その嘘が完全であるよう、加害者的存在の演技がそこでは発揮される。あり得ない程の人間味の無さが、その原因深くの嘘から、人間味ある風に為されていく)

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4.放っては置けない存在として、人の心の中に簡単に居座る彼女は、その人の生活全般を監視するかのように、縁する心ある人の脳の中に居着き、自由にならない心身を慢性化させて苦しむ彼らの姿を、感知して、楽しむ。身を守るために、自分には無い、心を生きる人たちの空間に居ることを選んだ彼女。そのために、何人もの人が、当時と同じく、彼女の犠牲になる。

人の不幸(悲しみ、痛み)を生きる源とするその本性の欲望は、自らも不幸の材料となる(同情心を誘う)経験を溜め込むことでその質に磨きをかけ、本能的に、世の不幸の原因の中心でいる自分を生きる。人は、その場所に引き込まれ、自由(自然)な動きを止められて、彼女の餌食となる。

そんな存在が、この国の礎となる場所で、冷却鉄のような精神の兄と一緒に(その後の歴史の)重量級の負の原因となる仕事をし、今その彼と、互いにその意思(正体)のまま、本性のせめぎ合いを繰り広げるという、その恐ろしさ。シンプルな真実の、その原因となる様相が、形無き世界の奥深くで勝手に動き出す。

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3.無有日記に触れ続け得る人の、理由の分からない心身の不調は皆、この2人の本性(正体)の意思とどこかで繋がっている。そしてまた、この無有日記を通して、その人たちの、本当は無くても良かったその原因は、確実に癒されていく。

それまでの負の原因が一挙に一つの場所に集められ、それが固めに固められたことで、後に続くどの時代も、その時の負の影響力を受けずにはいられない時を経験することになる、その堅固な病みの土台となる、この国の歴史ビルの2階。そして、その場所で、(抽象世界の重石のようにして)中心となって自らの非人間の本性を形にしていた、歴史を異常化させていく存在たち。

その時も、今も、人間の営みの原型は同一であり、時代環境が違っても、人々が大切にするものが姿を変えても、存在(生命)の意思の元となる原因は、そのままである。その質が獣のような、凶悪・凶暴な存在たちの生きる原因。かつての経験の記憶とその性質を思考(見た目)で見えなくさせたまま、彼らは、ごく普通の人として、ここに生きる。大和・飛鳥時代の経験を本性に溶かし、その残酷な(人間世界には無い)無意識の意思で、心ある人の在り様を破壊していく。

2人の影響力は、これまでのどの時よりも強烈である。互いの思惑が日々ぶつかり合うだけでも、そのとばっちりは大きい。心あるひとりひとりのその事実への感応は、自らの生きる原因(経験の記憶の蓄積)の、歴史的修復の時と言える。その時のための、これまでの体験的知識は、これまでとは全く違った現実の、その原因の力となる。

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2.母と息子の関係は、それを仕組んだ彼と、それを重々承知していた彼女との、内に秘めた凶悪さのぶつけ合い。呪詛・呪縛の行使を本願とする彼女は、兄が居たために充分に満足を手に出来なかった時代の経験を払拭するために、同じ術を持つ発展途上の存在たちを従え、満を持して、現代に生を持つ。歴史的にも初めて訪れる、力で人の命を奪えない世での、その残酷な無意識の意思の発揮。脳を操られ、何度も人生を支配された人たちも、彼女自身が良い人でいられるための道具として、近くに集められる。

彼は、心が全く無くても(分からなくても)困らない価値世界を固め、そこで、好き放題人々の苦しみの風景を拡大させることを、本能のまま行う。思考を強めた理屈と理論で感覚的発想や直感の世界を退け、人の心が身動き出来なくなる形式主義を、神道をベースに蔓延させる。

心の世界に触れる意思を持たない彼は、心ある振りをしながら人の心を重く病ませる彼女の世界(スタイル)に、強い違和感を覚え、人間の感情の世界に踏み入れることによる、予期せぬ滞り(危機)の訪れを危惧する。心を持たない自分たちの本性(存在の意思)は、心ある人との原因の融合を不可能とするゆえ、形無き世界に危うさを招かぬよう、真っ先に潰したい存在として、彼女をその対象とする。

子を身籠った頃から、それを直感的に感じ取る彼女は、潰されかけながらも身を立て直しつつ、出産間もなく、彼を離れ、姿を消す。時を経て、やむ無く合流する流れが生じ始めた時、彼女は、彼が最も敬遠したがる、全体(中庸)という多次元的な価値基準の世界に、それまでの経験を活かして、形(思考)のみで接点を作る。その影響は、柔らかな感性を普通とする人たちへと及ぶことになる。

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1.兄と妹だった2人は、現代では、母と息子として生きる。人間的な感覚を一切持ち合わせない存在たちの生きる世界では、悲惨で不幸な現実へと人々を追い込んでいく方向性は同じであっても、互いは、都合よく他を利用し、時にいがみ合い、けん制し合いながら、それなりの住み分けを守りつつも、それぞれの欲深さと支配欲、凶悪さに応じて、いつ転覆してもおかしくない主従関係を維持したり、個の満足のために同質の他を潰し切ったりすることも、平気で行う。

人間であれば決してあり得ないその風景も、人間の命(脳)を思い通りに操り、支配するために身体を利用する本性を普通とするその存在たちにとっては、それは、ありのままの姿。それは、家族であっても、関わり深い間柄であっても、そこに仲間(?)が居れば、あたり前に為され、そこでの形無き力関係により、どちらかが動けなくなったり、病気になったり、また時間を奪ったり奪われたりして、傍らからは、その理由が分からない不自然な出来事が、日常的に繰り広げられる。

普通の人は、何の疑問も持たずに(持てずに)、その世界の思惑に直接・間接的に付き合わされ、いつのまにか病み、生命力を消耗し、要らない頑張りと忍耐を強いられる。そのどこにも、心を持たない存在の無意識の働きがある。

4/03

2017

10.「歴史の芯(1)(2)」を通して経験し得る反応の本質は、永いこと蓄積するばかりでどうにもならなかった、その元となる原因の、人としてのあり得ない経験の事実。状況(背景)把握や思考による理解・認識は不可能であっても、それまでにない感覚的反応は、その事実を、性質として伝える。生命としての理解は、頭(思考)を働かせるまでもなく感じ取る、そこに在る(潜む)原因への反応。成長・進化し、その分母を大きくするそこでの感性は、時を経て、病み世の土台を崩し得る原因の力を普通とする。

無有日記の世界に何の気なしに触れた経験が、この今に招かれる原因となって図らずも(そのエリアの代表のようにして)意思表示してしまった、彼女と彼。両者の、普通人を装う思考は、呪術系の隠れみの的道具であり、それで見えにくくさせられている冷血な目は、惨たらしく命を奪われた時の恐怖心を人々に思い起こさせる、不気味な力である。普通の人間は、縁するだけでも、恐ろしい。

しかし、人間らしい経験の原因全てを潰された、かつての普通の人たちの切なる想いを、ここに迎え入れ、繋いだ、普通の人間でしか出来ないことがある。無有日記の原因と融合しつつ、ふといつのまにかそうである今の姿を通して、歴史の芯を、本来へと変え得る時を創り出す。普通だからこそ経験するここでの反応は、無数の心優しき生命たちの希望と繋がっている。ずっとそのままでいる自然界の生命たちも、この時を喜び、安堵する。

 

3/31

理由も分からずに感じる生きにくさの、そのそうである原因が、何かに操られてしまっているかのように、何をしても変わろうとする力を持てずにいると、生きることが嫌になる感情までが度々生じ、どうにも出来なくなる。体の動きにくさが慢性化するという、普通ではない状況の中で精一杯生きている時に、突如、体が全く動かなくなってしまう状態が訪れると、その怖さに、負けそうになる。その理由となる世界の原因深くに徐々に入って行き、同時進行で行われるEWで、そうにはならない原因を高めていく。

ある非(無)生命的な存在の、そのあり得ない力によって、いとも簡単に体の全ての動きを止められてしまった、かつてのその時の、人々の恐怖と苦しみ。どうにもならない病み(不穏な状況etc.)の原因は全て、そこと繋がる。その背景に在る、獰猛な蛇と、その手前の、ある意味不明な悍しい出来事。化け物としか言いようのないその存在の原因(本体)を、歴史の芯で揺さ振り、ひとつひとつを処理していく。(←ん? 何のこと?)

3/30

9.原因が外された事実には、そのどこにも真実は無く、その原因となる事実が、真実という言葉を使うまでもない、それそのものとなる普通の事実である。原因が大切にされれば、心の嘘(心の無さ)は存在できず、真実という言葉も、そこでは要らなくなる。

ボタンのかけ間違いをそのままに、1500年もの間時を連ねて来た、この国の嘘の歴史。その間に否応なしに育まれた非人間振りと、そのことによる他の地域(国)への負の影響力は大きく、それは、地球規模の災いの原因である今のLED化に、この国の人々が総じて無頓着・無感覚でいるその姿からも、容易に頷ける。その様相は、健康も平和も、病気や争いの裏返しのそれとしてでしか扱えない人たちの、その不健全な原因の具現化。時代背景が、これまでとは全く異なる今だから、その動きの無い不穏な原因は、形になりやすい。どれ程深く、人々の精神(脳)が病まされて来たかも、心ある原因を生きることによるその原因への対処によって、確実に、余裕をもって分かり出す。

神社の鳥居(参道)は、ボタンを意識的にかけ間違えさせた存在たちの、その残酷な意思の通り道と言える。それを放ったまま、人は平和を語れず、未来への責任も、その世界の本質に背を向ければ、その原因を持ち得ないままである

3/29

8.事実は、事実である。ところが、いつのまにか、事実は、結果としてのそれとなり、なぜそうであるかの原因である事実は、時が経つ中で、姿を消してしまう。

不調や不安を抱く事実の背景には、必ずその原因となる経験や環境的な負の要素が事実として在るのだが、その全てが、嘘の事実から始まった、神道を元とする(生命としての)原因の無い歪な価値観によって、存在意義を無くす。

それを嬉しい、真(心)を持たない存在たち。そして、彼らが得意とする、結果(見た目)だけを大切にする生き方。それは、同じ原因が嘘である密教系や、親鸞・日蓮の世界を生み出し(「空と海」「1000年目の夜明け」etc.)、現代では、キリスト教まで巻き込んで、世の非生命化を安定させる。

変幻自在の呪術系(蛇系)の意思を、自らの本質とする彼女。冷酷な本性と鉛のような精神を一つに生きる彼。2人は、重量級の嘘の事実の原因を固めて、結果としての真実を作り上げ、それを力に、現在の(神道絡みの)病みのルーツを確固たるものにする。

そんな2人の今に、段階的に触れられるということ。自然体で普通に真を生きるために、自然界の普通を大切にするために、その機会を活かす。

3/28

7.兄の政治・政策上、あからさまに忌み嫌い、遠ざけることも出来ずにいた、その(彼が利用する)位のある女性への彼女の嫉妬と悪意は並外れたものであったが、その女性が備える普通感覚は、自分には無い健全さのそれであったため、思うように融合の主導権を握れないまま、悪感情ばかりを募らせることになる。その感情に含まれる、呪詛(呪縛)と破壊の意思の原因となるものは、その後に姿を見せた別の男性に集中的に注がれ、彼を通して、更なるあり得ない性質の負の土台がそこで誕生する。奈良以降も、ずっとその兄と妹の凶悪な原因は広がり、人の脳(心)に染み込み続け、人が人の命を奪うというオカシナ世が、非人間的に進行することになる。

幼い頃から、動物的な鋭い感覚と攻撃性を備えるその(彼女の負の原因を注がれた)男性が、権力を手にした時、人々の心は、恐ろしい程に消沈し、荒んでいく。しかし、そこには、そうであるしかない恐怖構造の作用が、そのずっと前の時代からの彼女との関わりの中で彼の中に植え付けられ、何をしても外せず、抗えないその力によって、操り人形のように脳の全てを支配され、そうであるように利用されたもの。心を持たない、人間とは思えない凶悪な本性そのものの存在が、最も好み、その手法を磨きたがる(得意とする)悪行は、純粋な感性をそのままに生きる人の脳の働きを支配し、世にも恐ろしいことを自分たちの代わりにさせること。歴史ビル2階の時の、聖徳太子と言われる人物と、彼の妹は、その前も、後も、同じことを行い続ける。

3/26

ずっとこの時を待ち望んでいたから、太陽も嬉しい。地上での自らの動きが無かったから、太陽も耐えるしかなかった。ひとつひとつの学びを力に、この時に合流できた、みんなの望み。だから、太陽も仲間。彼の安心は、みんなの力。地球の表面から、重たさが無くなっていく。

3/25

6.この世に、妖気(妖術)や妖女(妖怪)という言葉が存在する理由が彼の妹の中に在ると考えれば、彼女の姿無き醜さの凄さが分かる。容姿と表情は、いくらでも好きなように、愛らしさと気品を備えられる術を行使し、関わる誰もが自分のために生きることになる状況を作り出す。どんな人も理解できないその手法と、人の気を惹く仕草と言葉づかいで、彼女は、思い通りに人を操り、いつのまにか苦しみの淵に立たされる志ある彼らを憂い、そして、ほくそ笑む。心ある素朴な人たちが人生を絶たれようとする時、近くには、その心根の素晴しさを誰も信じて疑わない、清廉で慈悲深い彼女が居る。

人間であれば決して持ち得ないものが、彼女の中では普通であるため、その性質を言葉にすることは難しい。ただそこでは、彼女の嫌悪や不都合の対象となれば、その人は心身の全ての動きを支配されてしまい、感情に触れば、消えることのない不穏な意思の塊が、その人の中にいつまでも住み着くことになる。

兄の政の重要な部分(祭祀、祈祷)を補佐するように、その醜い感情を形にしていた彼女は、現代でも、気になる人の脳の中に簡単に入り、その人の見るもの、手にするものまで牛耳る(把握する)程の、気味の悪い(無意識の意思の)力を操作する。

3/24

5.兄のその本性は、冷酷非道という言葉もはね返されてしまう程の、氷のような冷たさ。心の機微への感応は当然無く、心通わせる経験も知らない。人間味のある世界の原因を持たない彼の居る場所では、ふと思う直感的な発想や、心が覚える何気ない感覚を、そこに居る人が言動にすることは一切無い。素朴で純粋な、自らの心に正直でいる人は皆、彼の殺害(排斥)欲求の対象となる。

彼は、軽薄な精神(理解)でもまかり通る、自分に都合の良い形式世界に固執し、それだけに思考を働かせ、それだけで良しとする関係性を固め、広げていく。その心の無さが基となって築かれた、彼の時代の権力構造とその影響力は、現代人の気質・性分の根底で、今尚生き続ける。別の位のある年配の女性の背後で、狡賢く、巧妙に彼が制定した(とされる)決まり事の本質は、その先どこまでも、心など一切要らない世を連ねるための、非生命的な原因のそれである。

3/23

動き出すと、太陽も動き出す。太陽が動くと、体の芯から活動的になる。まるで、その時を知っていたかのように、建物の間から姿を見せる。さて、そろそろ、と次へ行こうとすると、その時を待っていたかのように、すぐ傍に太陽がいる。

嬉しさが、行き交う。喜びが、時を超える。太陽がずっと、みんなの人生を照らしている。みんなの歩みも、太陽に力を与える。

3/22

4.2人の男女が、この世の、心ある人々の理由の分からない苦しみの原因に、自らがそのくさび役となって、関わり続ける。兄と妹の関係である2人は、冷血と強欲が衣を着たような、人の命を弄ぶことを何より好む、獣同然の存在。前の時代でも、互いにその悪質な感情を磨いた経験を持つ彼らは、歴史ビル2階で、後世に残る好印象の、その嘘のひな型を協力して作り出す。それは、神道全般の基礎固めの時と言える。

兄は、時の実力者。妹は、今で言う呪術使い。病的な感受性(霊媒体質)を神がかり的に上手く振る舞う彼女の、その神秘的とも思える異様な姿は、彼の政に悪用される。人の心が全く理解できない兄と、心ある振りの真似事に長けた妹。人々は、力で正当化された嘘の世界に引き込まれ、心を操られ、人として無くてもいい経験の下地を重ねていく。

3/20

厚い雲で姿を隠されてしまっていた太陽が、その雲の中から、当然のように、あるタイミングでさらりと顔を出す。天気予報では、曇りと雨で、晴れマークなど無いのに、そんなことお構いなしに、楽しそうに太陽は出る。

そんな日が増えているこのごろ。昨年の秋は、隠されたままだったけど、この春は、太陽も違う。冬の間、ずっと木々の姿を照らせたから、その間、何かを感得したよう。太陽の変化は、自然界みんなの変化。あんなことも、こんなことも、そういうことか!と、元気いっぱいの光と熱を届けてくれる。この春は、形を生み出す形無き世界での、激震級の洗い直し。

3/17

3.「歴史の芯(2)」の文章が始まったあたりから、思いがけず眠気や疲労感を覚えたり、その理由が全く分からない不安感(怖れ、焦りetc.)を抱いたりと、これまでとはどこか質の異なる反応とそのタイミングを感じる人がいるのではと思う。人によっては、震えるような冷え(寒さ)や体(頭)の痛みを経験する人もいる。そのひとつひとつの感覚は、その材料となるものが、心身の奥深いところにずっと何にも反応しないまま在ったことを意味する。

沈んだまま決して動こうとはしないその異様で異質な重たい固まりをそのままに、それでもどうにか動き、それを普通に(馴染ませ)生を営み、命を繋いできた、人間の歴史。それが、思いがけず旬の無有日記に反応し、これ程の経験は無いというぐらいのことが、経験の外側と重なる自らの原因の世界で生じ、進行する、この時の今。厳しく辛い側面もあるが、それは、生命の歴史(人間の真の在り様)の、尊い体験的知識。

心ある生命の意思が完全に抑え込まれるようにして病みの基の部分に埋め込まれた、その経験の記憶の危うい粒子は、邪馬台国での治世(=人間の生のリズムを持たない無意識の力で、人々の精神と心を支配し、操る、非人間的な政)を活かして始まった、大和・飛鳥時代の、恐ろしく獰猛な本性を持つ存在たちによって、人知れず、冷酷に、呪術的に為される。その時の原因の変化をここに招き、それを通しての新たな原因を、ここに創る。

3/16

2.この世の病みのルーツとなる、嘘の神々と、それに支えられた、野蛮な政。そして、その大元となる時代の、その基盤づくりを担った、恐ろしき存在たち。

彼らと本性の遺伝子を同じくする存在は、当然現代にも生を持ち、病み続ける世の先導役のような性質の原因で、心ある柔らかな人たちの無意識に負荷をかけ、彼らの動きにくさ(生きにくさ)の材料を供給し続ける。それは、細胞レベルでの不穏な動きを簡単に作り出し、それによる本来であれば経験しなくてもいい原因不明の不調や疾患などを通して、人は、生きる力を無くしていく。

そんな中、狂暴な獣が引いてしまう程の心の無さ(無意識の危うさ)を備え、その質の極度の重たさと冷たさゆえに、何もせずに、人の健全さを壊し、どこに居ても、心ある風景の原因を潰し得る存在のことを、ここで言葉にしてみる。それは、「歴史の芯(1)」を書き上げるタイミングが無ければ、姿を見せなかった存在の姿。「歴史の芯(2)」の原因(導線)となるEWが進行する中、無有日記のフィルターも、負の蓄積のより深層部の異物を鮮明に映し出す程になっている。

3/13

1.歴史の芯の世界に触れ得るという事実の普通は、自らの奥深くに(身体を借り物とする本体(生命体)にも)その気もなく染み込ませてしまった非人間的な価値感情に何の違和感も覚えられないまま本来ではない人生を繰り返し送るという姿の、その元となる原因の嘘の(無くても良かった)経験の蓄積が、細かく動き出す機会。

だがしかし、それが具体化する過程は、至極厳しく、苦難を伴うことも考えられる。何よりすべきことであっても、それは、これまでに誰も経験し得なかったこと。環境も価値観も、今尚その(神道絡みの)嘘に囲まれ、その上に人々は生きているゆえ、知ることが、どこまでも変化・成長し続ける原因のそれでなくてはならない。結果に留まれば、内側の動きは無く、結果を求めれば、要らない経験の記憶を引き連れてしまう。揺るぎない想いと柔らかな感性を、そのまま、何ものともぶつからない原因に重ねる。

3/12

8.それは、窓の無い歴史ビル。でも今は、傷を負った鳩や小鳥たちも癒されに来る、その面影を大きく変えた、風通しの良い優しいビル。その変わり様は、自然界のあらゆる生命たちに安心を運び、癒し色の雨を誘い、太陽の光を招く。全ての中で、ありのままの地球感覚が呼び醒まされていく。

地球感覚は、太陽の意思(光の多次元的原因の要素)との融合。それは、自らの分(真の自分)を自然に生きる、自然体の生命の姿。どこに居ても、何をしても、その原因は調和そのものであるゆえ、どんな時も、自然界は平和で、滑らかな時の流れを普通とする。全てが自らの原因(の性質)の反映であり、投影であるその風景の中で、人も動物も植物も皆、一切の頑張りや犠牲を知らない真の普通(本来の在り様)を、たださりげなく真剣に、楽しみ、遊び、生きる。

そこから尽くかけ離れていた、この国の歴史ビル。海を遠ざけ、山に入り、太陽を避けて、人の心に苔を住まわせた、そこでの歪さ。そのことが、地球自然界にとって、どれだけ負担になっていたか。神社(神道)の存在が、どこまで生命を蝕み続けていたか。そのどれもが、ビルの最上階での、この今の新たな変化に乗り、太陽の光が存分に注がれる中、表情は崩れ、溶け出していく。永いこと、思考型(恐怖・祟り系)の洗脳に侵され続けた人たちの目覚めに、動物も植物も、笑顔になる。

何かに向かって頑張ろうとする気力が無くなり、それに楽な気持ちを覚える自分がいれば、それは、やっと訪れた、人間本来の姿。頭を働かせ、考えることが難しくなっていれば、それは、心の意思の望みだった、喜びの時。永い時を経て、細胞たちは、ずっと忘れていた本来の意思活動を元気にする。何があっても無くても、心は嬉しくて、誰と居ても、どこに行っても、空間は温かく、時は優しい。要らないものがいつのまにか外れ、何も無くても、何かでなくても、ただそのままで、かけがえのない一生命でいる。その普通が、その真が、内なる進化を、太陽の意思(魂)と重ねる。

ここに居ること。こうして、この時を共にできること。それだけで、言葉は要らない。そこに太陽が在るだけで、心は、理由の要らないハッピー感で一杯になる。

3/11

結果(過去)を大事に生きる人を増やし、人としての原因(心)を持たない人の力を拡大させていくのが、獣のような本性を持つ存在たちの、昔からのスタイル。彼らは、神社(嘘の神々)というくさびを人々の精神に打ち込み、現代に至る永い時を経て、嘘を本当として従順に生きる、操り人形のような、心の無い人間の養殖に成功する。LED化の恐ろしさに無感覚でいる人の多さは、その現れである。

ただ、それも、自家中毒のように、自らがその原因に深く関わる(LED化の)その中で、崩れ出す。神社の木々の悲しみは、森や林の仲間たちがずっと気にしていたこと。この国は、朽ちていく神社(大社、神宮)や山々の木々を通して、その本質(病みの大元となる原因)を顕にする。

そういや、大阪から帰る時、いつもより近くに感じた富士山の表情は、かなり怒っていた。

3/10

7.時は、2017年、春。これまでの時の歴史が、その中に沈んだままの未消化の原因を外へと押し出す時を迎える。主人公は、ずっと生命としての人間を生き続けていた心ある存在たちと、いつの時も彼らを見守り、応援してくれていた、自然界の生命たち。「LED感染/LEDの影響」の元に集まり、想いをひとつに重ね、融合する存在たちは、この時に続くこれからの未来に、それまでとは全く違う原因を繋ぎ、ここに至るこれまでの全ての時を癒す。歴史は、歴史ではなくなり、歴史という名の望むべく原因の連なりが、新たに動き始める。それは、どんな言葉をもっても表すことの出来ない、自然界の意思そのものの、その時である。

他の人が出来ないことをしたがる危ない人間ではなく、誰もがあたり前に行って欲しいことをさりげなく主導する普通の人がそのままでいることで、世は、いつ、どこでも、平和の原因が力強く息づき、健康も、その意味さえ誰も知らない、ありのままの姿となる。どんなことも、理由の要らない喜びがその原因に溶けていることで、生きることそのものが喜びとなる時を、自然界の動植物たちと共有する。そんな時が、静かに、水や空気のように、淡々と流れていく。

ここまで来れたこと。ここまで繋ぎ得たこと。それだけで、ただ嬉しい。そして、そのことが、過去が癒され、未来が喜ぶ確かな原因であることも、この上ない喜びである。そして今、更なる次へと歩みを進める。経験から自由でいる本来を力に、そこに在る、かけがえのない原因をどこまでも細かくし、どんなところにも届く心の風に、それを乗せる。心も細胞も、安心と躍動を経験する。

3/07

大阪Bを終えると、歴史ビルの2階が突如騒ぎ出し、その中に入ったまま、じっとしていた。そしてその後、気づけば、続編のEWが進行していて、「歴史ビル(2)」の原稿が形になり始める。

偽善と冷血の貴公子、聖徳太子。いよいよ、その原因(本性)の中身が動き出す。さて、どんな…。

3/05

6.窓の無い日本歴史ビルの住人は、未だ自然を知らず、太陽の光も、そこに在る多次元的な原因の要素を経験しないままである。それは、太陽を避ける神社(神道)の形態からも理解でき、その世界を基に行われてきた儀式や風習からも、人々が永いこと不自然の中で不健全に生きてきた姿が伝わり出す。

そこに窓を開ける。そのために、要らない歴史認識を白紙にする。人殺しの達人や、我欲まみれの凶悪な人間が英雄視される歴史自体、地球の(生命の)歴史の異物である。その上に在るものは、皆風に吹かれ、太陽の光を浴びなければならない。事の本質を無視することは、異常人の証である。

覇権維持のために、悪質なことも平気で行われてきた政治。そこに居続けようとする存在たちの後ろ盾となる、嘘の神(神道)。そのビルの中で、どれ程の人たちが、太陽の心を経験できないまま、人生を潰され、命を絶たれてきたか。そのどの時も、そこには、鳥居と社があり、偉そうに嘘を信じ込ませて、人々を支配していた、役人や神主(神官)が居る。(「この国の病みの始まり」etc.)歴史の真を知り、嘘を外すことから、そのビルの修繕が始まる。

修繕が行われている間、そのビルの住人たちは、外に出なければならない。その同じ場所に住み続けていた蛇や烏も、自然界に抱かれ、太陽の光を浴びることになる。一度ビルの外に出て、風を感じ、心ある生命たちと共に過ごせば、戻る時は、名も無き無数の存在たちが、その時を歓迎する。出入り自由の扉。風の通る大きな窓。天井は吹き抜けとなって、それぞれの時代の原因は、行き来し、重なり合い、ひとつになる。その歴史ビルは、生命たちが集う憩いの場。みんなの調和と友愛を広げ、膨らませる、優しさの基盤へと姿を変えていく。

3/03

2017

5.ある人の無自覚の負の影響力が力を失くしたことで、何人もの人の心身が、それまでに経験したことのない元気を経験することがある。でも、そこには、そうなるまで、長いことずっと影響を被っていたことにも気づけず、そのことを普通に、不要な関わりを持ち続けていた歪な普通が在ったということ。そして自らも、そうである中で、その気もなく縁する人に負荷をかけることを行っていたということ。

だから、動く。それまで普通に出来なかったことを、次にすべきことの原因に変え、普通の質を向上させる。そのことで、内心被害者でいることに安住していた不穏な感情が癒され、二度と通らなくてもいい道を、後方に置く。他を隔てる感情を大切にしていたからこそ、そんな自分を人に責めさせず、何かあれば、責め得る人を設けて逃げ回っていた自分。そんな性質も返上し、そうであったために引き受け続けてきた負の影響力にも、終わりを告げる。

どんな出来事にも、原因がある。それが形無き抽象的な心の風景での、不本意な出来事である時、その原因は、とても複雑で、分かりにくい。そんな場所に、必ずと言って良いほど関わりを持ち、影響を及ぼし続ける存在。それは、神道と武力政治のルーツとなる世界に生を持ち、現代に至り、繰り返し何度もその質を非生命化させつつ更新していた、嘘を本当として生きる存在たち。その世界との融合を離れ、「生命の歴史」の原因そのものでいることで、どんな出来事の原因も、本来をテーマに修正・浄化されることになる。心の風景から、その確かな原因となる新たな出来事が生じ、心の望みが、普通となっていく。

中庸の世界に、人は抵抗することは出来ない。全体発の普通も同じ。地球自然界の、自然な営みそのものであるその中庸の世界に包まれ、支えられている、そこに生きる生命たち。そこでの普通が、これまでになく人間世界を包み、そこに在る原因を浄化しようとしている。

 

2/25

LEDの影響(映像)」の材料となる風景をみんなで記録し始めたのは、昨年の5月。自然界の、それまでの自然な営み(原因)が一気に圧をかけられ、身動き出来なくなり出した時、それにすかさず応じるようにして、彼らとの融合を普通とする存在たちが、未来への責任を担う。

あと2ヶ月程で、1周回る。「LED感染」も、自動制御となり、自由気ままに、好きな仕事をする。そうであってはならない現実が、そのまま進み行くことの恐さ(未来への極度の無責任)を外すために、この時のタイミングを力に変える。責任は、それが深ければ深いほど、その意識もなくいつのまにか行っていた(終わっていた)ことが、その原動力となる。

木々や小動物(微生物)たちは、この春、かなりボロボロな状態を経験するが、再生できないことの彼らの辛さは、まさに地球環境の悲しみである。空間が病み、土も水も非生命世界のそれへとなりつつある今、人間の体にもその影響はすでに及んでいて、次第にそれは、より分かりやすく形として現れ出す。それは、実に恐ろしい。

LED空間から、可能な限り距離を置く。それは、今、人間らしい人間が、何より大切にする選択であり、一生命としての本来を未来に繋ぐための、この上ない重要な時間である。動植物たちの切なる望みのためにも、彼らと共にここに(この地球に)生きる人間でいることを忘れてはならない。

さて、「LEDの影響」も(3)が登場。この先、その時が来るまで、どこまでも行く。繋がるところは、未来地球(環境)の安心と平穏であるから、要らない思考を働かせている暇は無い。なんせ、まともな人間であれば、LEDライトは使用できないわけだから。

2/24

16日の日記をUPした時、その存在が、次なる文章の流れの元となろうとは知らず、日にちが過ぎ、ふと言葉になりたがっている原因の風景(意思)をそのままに、任せていたら、その後、(2)(3)と続いていた。

新しく始まったその文章は、すでに終わっていて、今は、熟成の段の中にいる感じ。実際の日付と、無有日記の日付が重なり出す頃、(5)以降が登場する。その都度、包んでみて欲しい。タッチするエリアは、これまでになく深いから、細胞たちも、心の意思も、懐かしさを伴う、??な嬉しい体験の連続の中を漂う。そして、脚が変わる。

事実は、真実と同一となることもあるが、その理由となる、なぜそうであったかの事実は、真実というよりは、芯実となる。歴史の芯に在る、その事実。それが余りに危ういために病まされ続けた、人々の心の風景と生命の意思。どんどん元気になって欲しい。元気になれば、もう、その理由(そうであった事実、芯実)は、忘れてもいい。重く流れない不穏な芯が外れれば、それだけで、自らの何気ない普通が真になるから。

2/23

4.否定感情を知らない動物や植物たちの目線で、時の流れを観た時、そこには、人間の頭の中でのみ通用する、過去や未来の風景は無く、ただ淡々と変化し続ける原因の今が在るだけである。そのエッセンスを感覚的理解の世界に組み入れてこの国を思う時、どの時代の出来事も、そこでの暮らしも、そのどれもが、その時々の個性ある原因として、今この場所に在るということになる。つまり、今みんなが生活しているそれぞれの場所に、平安時代や江戸時代が重なるように存在し、当時の人々の姿も、全てこの今の原因の土台となって、多次元的に影響を及ぼし、繋がりを持っているということ。今住んでいる場所は、500年前も、1000年前も変わらずそこに在り、そこでのその時々の時間の流れがここにそのまま繋がり得ていることを考えれば、動植物たちの直感的な意思(理解)に触れるまでもなく、それは感じ取れるものである。

人間が、原因の世界に無頓着となる時、隔たりや争いの(感情の)原因を持たない自然界の動植物たちは、そのどうにもならない時の受容に、厳しさを覚える。それは、自然界を、そこに住む生命たちに犠牲を強いつつ、それを都合良く利用する、不自然の極みとなる非人間的な人間の、その負の影響力。それはまた、窓の無い歴史ビルの中での価値観に付き合わされた、自然界との融合を普通とする、心優しき人たちの悲しみ。

そのひとつひとつの負の原因の固まりが、ひとりひとりの思考の性質が本来となる時を経て、その内側に隙間が出来、動き、浄化される時を経験する。残し、残される歴史は、そのまま自然界が窮屈さを覚える、人間の欲からなる、人間だけの、低次の(成長・進化とは無縁の)お遊戯。共に生きる自然界の生命たちと共に、力強く柔らかな原因を、あたり前に生きる。創り、繋ぐ、生命としての経験(歴史)を、変化し続ける原因の中に、楽しみながら溶かしていく。

2/22

3.この世の病みのルーツには、2つのコースがある。1つは、嘘の神をあの手この手で真実にし、罰や祟りを道具に、人々の精神を、怖れと不安で不自由にさせるもの。もう1つは、身体的・物理的に危害を与え、人の脳(体)が覚える痛みや苦しみを通して、彼らの行動を支配するというもの。その2つは、現代に至り尚その姿(原因)を備える、神道と政治と考えてよい。別の時代では、その政治に、武力が普通に加わっていた。嘘の神と、それを利用する暴力により、人々は、人間として経験しなくてもいい経験を、永いこと送り続けている。

この国の負の歴史の重要な柱となるその2つの病みのルーツが誕生した理由は、その実行力をもって完全に抑え込まなければならなかった、ある存在たちの力が在ったから。その力は、正義感と友愛の情を基に、人々の心と暮らしの平穏さを大切に行動していた、どこか粗削りであっても、不正や不義には屈しない、優しき勇敢な人たち。時代環境からなる必要性で、武力も用いたが、その理由は、人としての真のためであり、心ある素朴な人々の命(人生)のためであった。

彼らの力が潰され、その生命の繋がりが根こそぎ絶たれたことで、恐ろしく動き出した、その後の真の無い歴史。だがしかし、この今のみんなの時を何より喜んでいるのは、彼らの、生命の意思(生命体の本質)。そのままであってはならない嘘を正し、未来に持っては行けない重しを外すという、人としての、何でもないあたり前の普通は、彼らの中のシンプルな真実の実践(の原因)と密に繋がっている。

そんなこんなも、歴史を、多次元的な生命の、その原因の蓄積(建物、空間)として捉えれば、容易に分かり出すこと。それを平面的な直線上で扱えば、自らも、嘘(真の外れた歴史)を生きることになる。

2/21

2.乱れる世を立て直し、それを治めるために重要な決まり事を作ったと言われる存在たちが、実は、乱れ行く世のその姿を何もせずに無責任に放って置き、自らもその負の原因と同調しつつ、否定感情を強め、誰も抗えない権力を是が非でも手に出来る時のために、狡く、巧妙に立ち回りながら、そのこと(決まり事)を制定・施行し得る立場を体よく保持していただけ、ということを知るだけで、あらゆる不穏なことが、その原因深くから浄化され出すという、時の理解がある。

それは、窓の無いこの国の歴史ビルの中の、2階のフロアでのこと。だるま落としのように、そのフロアをコツンと叩き、全体発の透明感のある原因で、大きくズレる(外れる)ぐらい、そこに在る嘘の重たさを刺激してみる。内なる意外な変化が、新たな普通の始まりを告げる。

2/17

京王線で、様々なトラブル(特に人身事故)による運行休止が度々生じるのは、そこに在る、経営の元となる原因の風景に、恐ろしい程の危うさが在るから。その部分に、本来そうではなくてもいい人や物が引き寄せられ、不要な融合を強いられて、姿(命)を失くす。

1つの負の(不気味な)特徴として、駅のトイレには、シャボンが無い。そのあり得ない不衛生の中で、不健全な原因は、日々増幅される。(新宿の京王モールのトイレにもシャボンは無く、その恥ずべき??な風景に、特に外国人が唖然となる)

京王線沿線の、京王グループ系のスーパーやパン屋さんもひどい。LED漬けの不健康そのものの空間に、神経がマヒしてしまった人(頭がオカシクさせられた人)が何の気なしに引き込まれ、そこに在るLED食品の摂取で、皆で人身事故の土台を支える。京王線は、稀に見る、危うい路線である。

京王線及び井の頭線の病的な車両に馴れさせられてしまった人たちの今後は、どんなになるのだろう?末恐ろしい現実である。今日も明日も、人身事故への即時対応をけんめいに学びながら、その重たい下地の上で、人としてあってはならない、生命に対する無責任・無感覚を、彼らは磨いていく。

そう、頭の中は、キレイ事とお金だけ。安心と安全(+省エネ、環境保護)のポーズで、事の本質(原因)をごまかし、LED化で人の命を削り、不潔な経営で金儲けに走る。ほら、また、人身事故…。(強力な負の原因にやむ無く巻き込まれた命は、形無きその真を語る)

2/16

1.それは、窓の無いビルの中。1階は、邪馬台国。2階は、大和・飛鳥。そして、3階は奈良と、上層に向かって時代は続いていく。場所は固定され、どの時も同じ。ただ天井の高さがそれぞれに違うだけ。動きも広がりも無いその場所でのテーマは、型に留まる(収まる)、結果のみ。繋がり、生まれ、創られる原因はゼロだから、生命を生きる人間としての変化は無い。太陽の光が注がれる機会さえ遠ざけるそのビルの最上階で、この現代も、それまでと同じように、時は非生命化されつつ、滞りを安定させる。当然、その窓の無いビルの中では、非人間の本質維持のために、LED照明が活躍する。人間が普通に人として大切にすべく栄養源、玄米や全粒穀物は(and 新鮮な生野菜も果物も)、そこには無い。

本来であれば無かったはずのその中に、永いこと取り込まれてしまっていた、自由な空間を自由に生きる、隔たりも争いも知らない存在たち。その中で完全に埋もれ、何もかも失うギリギリのところで、そうではない歩みの原因をこの地球時間にもたらした生命たち。自然界の摂理も、動植物たちの意思も、望みも、その真は、そのビルの中には無い。人間が人間でいるために、この地球に生きる一生命としての本来(責任、役割)を普通に実践するために、よりその原因を高めていく。歴史は、ある枠内に残されるものではなく、一切の枠の無い次元で、共に創り続けていくものだから。

2/15

体が借り物のように思える感覚を通して、病気など元々はどこにも無かったのだと、全く病んでいない本体(生命体)の意思が、そのことを脳や身体細胞に伝え、真に生きる道のようなものを差し出してくれる。

頭や肩に力が入ってしまう原因は、自然体で生きるという姿勢を尽く壊され、そこに有る(その理由である)価値観や風習に頭を不要に忙しく使わされてしまっていたから。思考を自由に、かつ経験(知識)からも自由でいる状態維持のそこでの原因は、成長を続ける中で、体の中の核となる生命の意思(真の存在)に主導権を握らせる。それは、それまで窮屈だった体がそうではなくなる、人間時間における原初経験の再開。腕を動かすというより、動かす腕がそこに付いているという感覚までがよみがえる。そして、そのままで、何の裏返しでもない健康・健全が普通となる。

ふと脚の運び具合がそれまでとは違い、滑らかで、どこかスムーズで、今まで無かったような軽快な感覚になる時を、ふとした時に(無有日記を通して)人は経験する。それが腕や首、腰へと移り、体が生まれ変わったような気分を覚える時、脳は相当改善されていて、心の意思表現も、自然な感覚を普通に、自由になる。

体(身体細胞)の状態の変化を切り離してのそれはあり得ず(あってはならず)、体の負の原因がかなり浄化されたからこそのそれまでに無いこの時の経験が、その真(核)の部分発の、不思議で嬉しい感覚を誘い込む。呆けているようで、それは本来で、痛みがそこにあるようで、実はその痛みの元と一体だった自分が解放されていて、ひとつひとつそうであるべく人間らしさの基本形を原因(エネルギー)の世界で体験し、確認する。そして、それは普通となり、その中で、全く新しい人間時間が創られていく。

体の中に在った妙〜な??なものを「何だこれ?」と抜き出してあげたら、それがずっと在ったことで普通に送っていた、本当は普通ではない身体活動のその中心に風穴が開いたような…。何かが落ち着かず、でもどこかが爽やかで、怠さがあっても、気持ちは晴れやかで、「これって何?」と、全く覚えの無い感覚を覚える。経験枠が外れると、経験の外側も内側も一つになり、経験することも創り続ける感が普通となって、そこでの原因は、無限の仕事をするようになる。

僕らは、人間である前に、生命。そして、生命である前に、有になり得る無の意思そのもの。地球感覚なんてことも、言葉にするまでもなく、生きる基本の基本となる。

2/14

浮き上がるもの、突如現れ出てくるもの、何でも歓迎。2017年の無有日記は、それがどんなテーマのものであっても、そのどれもが、これまでになく生命世界の源泉と繋がっているから、触れる度、融合する度に、(その人にとって)必要とすべく多次元的な変化が、様々な反応を通して始まる。ふと訪れる修正・修復の時を経て、人としての原因の成長・進化を、自然体で経験する。

それを担うために、ここに無有日記があり、この今だからこその仕事が、そのどれもから促され、細胞たちと共に、時をかける。本格的というより、本気モード突入の、そのひとつひとつに乗ったエネルギーとその意思。どこまで行っても発展途上のムーセンテンスは、限り無く初心者でいて、何も知らない中での全てを材料に、何もかもが収まるべく場所へと流れ出す時の乗り物となる。是非、その時々の無有日記を包んでみて欲しい。それだけでも、ここに身体を持っている理由が、奥深くから動き出す。真の人間がどんなものかを、知識や経験の外側からの真の自分によるアプローチによって、これまでの理解(思考)の次元を軽く超えて、ありのままに実体験する。

人間らしい人間生活が永いこと為されて来なかった理由の中身が崩れて行く流れに乗った今、やっと人は、人間らしさの原因を自らが生み出し、育て、連繋の意思にそれを重ねつつ経験を創造するという、シンプルな真実の世界のひとこまを、ごく普通に生きる時を迎える。その時は、今この時。すでにそれは始まっていて、永遠の生命世界に抱かれ、地球大自然の愛情に包まれ、水や空気のように姿形を常に変えながら、全てであるひとつを生きる。それは普通。どこまでも自然。太陽も、子の地球でのその営みを、微笑ましく思う。

2/13

山を登っている時は、すべり落ちそうになったり、疲れが溜まってきたりと、いろいろある。でも、その山が、一度登り切れば、それまでの全てが次への原因の中に溶けてしまうかけがえのない経験となる時、それは、とても嬉しい力となる。

そんな時の訪れを、皆で楽しむ。いろいろと大変なことが多々有ったはずなのに、今では何も無かったかのように、何もかもが以前とは違い、楽で、清々しくて、みんな仲良しで…。「大きな山を越えたのか…」と、安心と喜びが大きくなる。共に生きる他の生命たちの普通の中に、みんなの希望がそ〜っと入って行く。

人生をいくつもの山に例えれば、どの時のどんな山も、下ることは必要ない。変化と成長は、繰り返すことのない生命世界の原因そのもの。大きな山を登り切れば、同じような山を経験することもないから、次は、海風に吹かれながら、浜辺を歩いてみる。人生は、生命としての人間を生きる原因の創造である。

2/12

その必要性が、これ以上ない高まりを見せてこの時代に身体経験を選び、生を持った生命たちの意思は、そこに絶え間なく注がれる中庸(全体)の原因によってどんな時も変化し続け、やむ無く抱え込まされてしまっていたそれまでの不本意な経験の記憶によるどうにもならない此処での経験も決して繰り返すこともなくその奥から少しずつその負の原因が浄化されるという、人間時間の中では初となる、「生命の歴史」の逆転劇のような瞬間の時を、今こうして、日々過ごしている。通常と言われる域の実感とは質の異なる、理由の要らない喜びの解放(充実)。そこでの何気ないひとつひとつの経験は、その原因のところで、過去を癒し、未来を笑顔にする。

LED感染(7)」でも触れたように、LED化の原因の中には、あらゆる病気や問題事(災い)の理由となる性質が潜んでいる。だから、その自覚もなく心身を病まされ、その慢性化を新たな原因に人を病ませてしまった、永いこと要らない経験を強いられていた人は、この今のこの流れ(非LED化)にただ乗るだけで、その全てが変わり出す。LED化が強固になれば、その分、より深い負の原因が形になるゆえ、それへの対処によって、生命としての本来を備える人間は、きめ細かく深くから癒され、心身は、健全な未来のひな型になり得る程の状態を経験する。そして、どこまでもそうである時を経て、LED化は姿を消す。その時のその場所は、数千年分の力強い健康と平和の原因をそのままに時を繋ぐ、真の普通の、真の人間による生命の歴史の道。自然界の全てが歓喜する。

元気でいることに、特別な理由は要らない。優しさも思いやりも、どこまでも普通でさりげないもの。そんな普通を次に繋ぐために、そうではなかったこれまでの重たいだけの負の原因が噴出している今、みんなで、より元気に、より快活に、時を癒し、時と戯れる。心を持たない存在たちが、不健全さ(病み)そのもののLED化をしつこく進めようとすれば、それだけしつこく然るべく原因を高め、それをすり抜け、かき分けて、元気度を強めていく。どうせ崩壊するのなら、病みの原因ぜ〜んぶ巻き込んでしまえるぐらいまで付き合ってあげよう。注がれる全体発の(地球が喜ぶ)原因(エネルギー)は、どこまでも進化する。

2/11

言いたいことを何も言わない(言えない)時間の蓄積は、言うべきことまでその気もなく呑み込んでしまい、何も言わないことで未来に繋がる大切な原因には何も関わらないという、不穏で無責任な精神を作り出す。素朴に何かを感じることがあっても、そこに在る、言ったところで何も変わらない(変えられない)状況をそれを(感じることを)無視することで自らも支え、その姿勢が多数を占める病的な普通の中で、寡黙や無口が好印象となる不気味な環境を人は生きることになる。それは、人間が人間ではなくなっている、異常な姿。そこにも、この国の堅固な負の土台(材料)、「再生」や「復活への道」の材料となる存在たちが居る。

言うべきことは、そのタイミングでさらりと言葉になることで、ヘンに意味付けされることもなく、自然であたり前の本来を支える力となる。そこでは、一切の気負いも頑張りも無く、その手前での何でもない原因の時がさりげなくその時と重なり、調和と友愛の原因そのものとなる真の普通を安定させる。言うべきことも、その機会も、そのために用意されることは何も無く、意識を向けられる次元にそれらが居続けることもない。知ることから始まり、考えることから動き出す、作られた嘘の人間像の世界に、その普通は無い。

100人中99人が、素朴な感性を全く持ち得ない程、人として大切なことは何も言わず、何も見ず、何も聞こうとしない心無い状態を普通としていれば、そうではない心ある1人の人は、異端となり、非難の対象となる。その歪な多数によって動かされ(力を持ち)、展開する、この世の正義と常識。そして、その負の原因を支え、その質を固めてきた、これまでの歴史。この時代の、この時に経験する、形を創る形無き原因の性質は、この先の未来にとって、その重要度は地球規模級である。その原因が嘘の、結果のみの正しさは、原因でい続ける、正しさそのもののその原因によって、形を無くしていく。

2/10

偉い人だと(だったと)言われても、何をもってそうなのかと、その理由となる原因深くに触れてみれば、そこには、全くその資質を持たない(未来が喜ぶ力強い原因とは無縁の)存在が居て、皆にそう思わせ、皆がそう思うことで、普通ではあり得ない不気味な嘘芝居を、共通の(動きの無い)価値観からなる個の利益のためにみんなで(その気もなく)ただ演じているだけ、ということは多い。その類の話の極みとなるのが、「神」や「聖」という言葉が力を持つ、残酷さと凶暴さがその背後に隠れた、実に恐ろしい「偉さ」である。

この国の悲しみの歴史(悲惨な出来事)の原因を掘り下げてみれば、そこでは、神と称される病みの権化のような存在とそれと同質の人たちが、人々の不幸を嘲るかのように悪賢くそのどれにも関わっていて、彼らの、その非人間的な殺害欲求(人が苦しむのを喜ぶ本性)によって、罪の無い大勢の人たちの命(人生)が弄ばれ、絶たれたと考えてよい。それは、現代にまで尚影響し続ける、脳の自由が完全に抑え込まれてしまう程の特異なある力(策略)による、思考の質の洗脳とも言える。

凶悪さを普通とするある存在が、自分のことを、絶対的な地位に居る者として人々に尊ばせ、そして始まった、質の悪い新興宗教のような、変化(進化)とは無縁のこの国の歴史。偉い人のための殺人(殺戮)が美化される戦も争いも無い現代、その頃の悍しい負の原因が、表へと姿を出し始めている。ずっと偉い人(神と崇められる虚人)の下で人を苦しめてきた存在たちのその本性の遺伝子も、LEDに無感覚という、どうにもならないその不自然な(自然界が悲しむ)姿を通して、自らの性質(隠し続けてきた獣のような本質)をオープンにする。(但し、その世界の強者(嘘と変わり身を地で行く凶人)は、LEDに敏感に反応するという演技も徹底するが…)

2017年は、まさに、生き直しの原因の時。それが全く不可能な(初めから破壊そのものの)存在の周りで、面白現象が連発する。

2/07

停滞と強く結び付くこれまでの価値概念が通用しなくなる経験は、そうであって欲しくない存在たちに焦りと緊張をもたらし、それまでのそのためにその気もなくムリを強いられていた人たちの呼吸を楽にする。変化(成長)という名の姿無き悪循環を材料に力を付け、欲を満たしていた存在たちは、本質が嘘(悪質)である自らの性分を隠す手立てを無くし、それまでに通用させていた負のスパイラル的方向性を見失う。それを喜び、安心する、動植物たち。それを待ち望み、それを新たな原因に次へと歩み出す、心ある人たち。

まだ始まったばかりの2017年だけど、もうすでに数年分の変化の時を過ごしているようで、面白い。土台が動けば、そこに乗っていた物は全て不安定になる。不完全(不穏な原因の蓄積)の中でのこの今の不安定は、停滞の中での形ばかりの成長(安定)の終焉と、負の結び付きの希薄さを意味する。この時の抽象世界の変化は、まるで、大地を支える微生物たちの反乱のよう。シンプルな真実が、信じ難い現象の隙間から、外へとこぼれ出している。

2/06

LEDの影響(1)(2)」の内容が次々と更新される中、このペースだと、「LEDの影響(3)」が近く生まれるのでは、という気分になる。ただ、(3)が来る頃には、人々の鈍った頭と鈍った感度を本来にしておかなければならない必要性も併せて進行するので、やはり、「LED感染(2)」あたりで、人としてのまとも化を大勢の人が経験しなくては、と思う。

山が崩れすく、道や建物が壊れやすくなる状態へと事を悪化させるLED。海は、かなり危ない。土も地下水もアウト。この国の、超ド級の愚かさ(醜い感情)が、日々、世界の自然環境を食い潰している。

2/05

今は、拒否すれば関わる多くの人の人生(命)が奪われていた遠い昔の気味の悪い(未熟さそのものの)時代ではないのに、なぜ、自由に生きる権利が尊重されるこの時代に、地方の役所の人たちは、LED化を拒否しないのだろう?

健康的な想いと人の心を大切にする責任を持ち合わせていれば、どんな人も異議を唱えるはずの、災いを招くのが必至のLED化。それが何年も前から計画・実行されていたそのお粗末な姿は、彼らの精神が、自分だけが助かれば何でもする(立場や名分・名目のために酷いことを平気でする)かつての凶悪な性質そのままということになる。

となると、安倍総理やその取り巻き連中の精神はどんな? となる。

2/04

LED化の真実(本当の姿)が文章や映像を通して表現されているという、この今の現実がもし無かったら…。実に恐ろしいことである。原因不明の病気に見舞われても、木々が次々と朽ちて行っても、その原因であるLEDの悪影響振りは、誰も知り得ない。水は水でなくなり、土も力を失くす。山は山の仕事を担えなくなり、川も海も、衰退へと向かう。

その事実は、日々人から人へと伝わり、広がり出す。どんなに頭(性根)がヘンな奴がそれを阻止しようとしても、自然界は正直にLEDの負の原因に反応し、それを形にする。人間は、退化の象徴そのものであるLEDで、精神も感性も動物以下に退化していたことを自覚する。(動物にわるいが…)

無有日記は、LEDの原因そのままを形に暴走するエリアを文章にしていく。周りを見れば、それはそこかしこに在るから、自然界の仲間たちのために、そして彼らのこの春と夏の風景のために、具体的なことも添えて書いていく。

どれ程恥ずかしいことを、この国の人間は行っているか…。茶番以下の、低次で低劣なLED化は、それを平気で進められる存在の本性(性根の悪さ)をさらけ出し、そのどれも、歴史的異物(悪徳の標本)として、未来から観察される。それを、自然界と一緒に、みんなで見届ける。

未来の子供たちのために、そして地球環境のために何か具体的なことをしたいと思う人は(普通はそうであるが…)、「LEDの影響(1)(2)」のアドレスと映像を活かし、気になる企業や団体、スーパーや電鉄に、問い合わせをしたり、写真を持参したりしてみる。そこから新たに見えてくるもの、分かり得ることは多い。返答(返信)の??な様子からは、運営の嘘(責任感覚の無さ)や偽善(人間性の欠如)もよくわかり出す。中には、恐ろしい程危ない環境破壊企業(デパート、スーパー、鉄道、コンビニetc.)も在る。

みんなでそれを共有し、LEDの怖さを改めて理解する。そして、感性を本来に、自然界を元気にする。これって、ごくごく普通のこと。普通だから、動植物たちも、水も土も、それを喜び、元気になる。

2/01

2017

喜びには、質がある。平和にも健康にも、質がある。その望むべく本来は、何かの裏返しではないこと。そこへと向かわず、そのまま、そのものでいること。その時の力強い原因は、柔らかさと優しさを生み出し、どこまでも、どんな時のどの場所にも、そこに居る生命たちに、温もりと安心を届ける。

自然界の意思が、今、この時のみんなの想いと重なり合う。植物も動物も、その嬉しさをありのままに、無くてもいい経験を後方に追いやる力を付ける。土も水も、山も海も、地球大自然の中のかけがえのないその普通の中に、輝きを増した頼りある太陽を招き、そうではない時の流れから離れ、新たな時を創る。全てが、ひとつになって、それを応援する。

自然界が何より嬉しいのは、この数年間の自分たちの本気(人間による重量級の負の原因(LED)の受容)を、自分たちの代わりに、次に繋ぐ原因として、みんなが形(映像)に残してくれたこと。大地が嬉しいのは、ずっとどうにもならなかった地球規模の悪化が、この時のみんなの(生命本来の)動きによって、その大元の原因のところから確実に浄化される時を迎えられること。LED化の中に蓄積し、潜んでいる、これまでの人間の歴史における、負の部分全ての否定的な原因。ここでの、ひとりひとりの生命としての表現は、何よりも貴く、どんなものよりも愛しい。

自然界の喜びは、生命たちを元気にする。彼らの元気は、共に生きる人間の健康と快活を普通にする。これまでの負の連鎖が繋がる場所を持たずに崩れて行こうとする時、みんなの普通は、より活動的になり、身も心も軽く、優しさが溢れ出す。未来は、この時の原因(自然界を守る経験)をしっかりと受け取り、時を繋ぎ、道を差し出す。みんなで、その道を遊びながら歩いて行く。あれもこれも、それもみんな、喜びでしかない。

 

1/31

形から始まる結果としての(結果のみを望む)利益によって、形をつくるその手前の原因の損失が増大する(原因の質が低下する)、LEDの危うさ。そのことをどれだけ言葉にし、伝えても、原因を生きることを知らない存在たちは、何のことだか理解できない。常に原因でい続ける自然界と融合する生命たちと、それを根っこから否定し、拒否する、不自然そのものの生命もどきたち。その頭の中の違いは、真(心)の有無の様を、そのまま表す。

みんなにとっての普通の、その‘みんな’が、普通ではない不自然さを普通とする非生命的な価値観を元とするため、そこに居る人たちは、数の力の形ばかりの正義で欺瞞を押し出し(操り)、その原因が無視された見た目だけの善(偽善)を世の正しさとする。そこから誕生したLED化は、この国(社会)の普通が全くの異常であり、その異常が普通の顔をして乱暴に歩き出していることを意味する。LED化の環境の中での普通は、これまでで最も危うい普通という名の異常である。

それ程であるため、それが、本来の普通へと変わり行く道は、とても厳しい。殆どの人が、それを普通として生き、そのことで利する自分(の立場)を大切にしているため、人としての真も心ある想いも、力無いものとなっている。

だがしかし、その全てを本能的に知るからこそ、そんな気もなく育み続けた原因が在る。あらゆる現象世界の、その負の部分の変化(連鎖)から遠いところで歩み続けた、生命の歴史の現代版が在る。それを、ひとつずつ、確実に具現化させていく。その時が来るまで知らなくてもいい(原因の世界での)タイミングの中、全てを受容しつつ、ふと訪れるその時にはすでにすべきことを終えていた(そうである原因を創り出していた)ことを確認し、共に、余裕で時を癒す。

今は、そんな時。全ては、上手く流れている。

1/30

無くてはならないものが無くなった時のためではなく、無くなることもあり得るその時のために、用意する。起きては困る状況を回避するためではなく、起きても困らない状況に居られるために、準備する。そして、結果(という確かな原因の中で)、何事もなく、何の心配もなく、問題事とは縁遠い原因を、次なる自分に繋ぐ。

その用意(準備)の中に、何の不安も心配も(期待も依存も)無ければ、そのひとつひとつは、大変さや厳しさから離れた本来の普通をより高め、困ることも悩むこともなく、事は、滑らかに流れる。普通自然体での準備に、不安や怖れは入り込めない。未来が喜ぶ原因を生きることは、そのまま、何の用意も要らない、完全なる用意であるから。

1/29

心ある生き方は、人としての本来。心ある選択(判断)は、人としての普通。そして、心ある原因を大切にすることは、人が人でいる(いられる)ための基本。人は誰も、そこから離れることは出来ず、それを外して、事を進めることも出来ない。

地球規模の災いであるLED化がどれ程のものであるかは、人としての普通が自らに備わっていれば、どんな人も、この数年程のその負の原因の具体化の様に驚き、そのままであってはならない(進めてはいけない)と強く思う。気づかされる側に居たとしても、その気づきは、未来への大きな責任を伴う。それが、人であり、人間を生きる一生命の、あたり前の反応(判断)である。

中庸(全体)を基とする原因の確かさは、そのまま変化であり、真実であるから、ぶつかることを知らない。だから、ただ淡々とそれが流れて行くだけで、嘘は浮き上がり、偽りは砕かれて行く。そう、それは、これまでも、これからも、ずっと同じ。時間をかけさせられているようでも、心配は要らない。その中身(実)は、愚かさと逆恨み的反発の醜さが、性懲りも無くうごめき、どうにもならなくあがき続けているだけだから。

微生物の生きる世界から観た時、LEDは、まさに生命破壊兵器である。人間も動物も植物も皆、微生物と共に生きていることを考えれば、LED照明(LED化)に全く平気でいる人は(感度を壊されてオカシクなっている人もいるが…)、心ある生き方も、心ある選択も、心ある原因もゼロの、芯(本質、正体)の部分が非人間であるということになる。見た目ではどこまでも分からなかったそのことが、微生物たちの衰退を招くLEDで、容易に明らかになる。(病気や問題事の原因も、全てそこと繋がる)

ここから、LED化が気持ち良く頓挫する流れへと、みんなで歩み出す。(先延ばしは、生命(世界)にとっての犯罪である)

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その気もなく人や空間を病ませてしまっても、それはその気がない中での無自覚のことだからと、ずっとその(本性の)危うさをそのままに無責任でいられた彼らだけど、「LEDの影響1」を通して、自然界や街路樹が(畑も田も)自分たちの作り出したLED仕様の車でオカシクなっている事実を見させられれば、人間であれば、そのままで居られることはあり得ない。人間であれば。

トヨタやニッサンが、実に困っている。なぜなら、自分たちが、環境破壊の先頭をLED車で走り続けてしまったから。ただ、何があっても、どんなことが起きても、そのまま車のLED化を続行させることは、絶対にあってはならない。地球自然界を食い潰す非生命的なことを、人々が乗る車で実行するというのは、そこにどんな理由があったとしても、許されない。

利益のみを優先させ、事の本質を無視し、生命世界を破壊し続ける、LED車の製造元。個人的に(会社にとって)困るのではなく、自然界の生命たちのために困る輩であって欲しい。自然界(環境)は、待った無しである。

1/25

LED街道まっしぐらのそのモールは、「もうイ〜オン!」と人々に言われ、全くもってのそのセンス(健全な原因)の無さを見た目でごまかし、秘めた思惑全開のLED病み空間と生命力を潰し切るLED食品で、「世を病ませたイオン!」と吠える。

LED好きの蛇ガラスに汚染された黒いハトのように、普通の人々は、体の中から徐々に黒くなり、‘そんなのあり得なイオン!’と、病みのLEDビームを放出する力を手にしてしまう。そして、みんなで仲良く、LEDで、「環境破壊オン」状態をキープする。

LED完備のモール(スーパーetc.)。それは、‘あの素晴らしい闇夜をもう一度〜♪’と、かつての酷く重苦しい時代をここに具現化させる、その筆頭株主級の災い空間である。

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これまでの時代における惨たらしい歴史的出来事においてその醜さと悍しさを磨きに磨いたその存在は、天下一の残虐性とその形無き負の影響力をしつこくそれそのものとして備えているため、現在では、通称天ちゃんと呼ばれ、天かすの天こ盛りを好物とする。

その意識体(無意識の意思)の負のエネルギーの性質は、例えれば、人々の健全さの原因をいとも簡単に飲み込んでしまう、病みのブラックホール。理由の分からない生きにくさや動きにくさ(不調、痛み、違和感)の背景で、柔らかな感性を持つ人の心の意思を弄ぶ。

その存在は、この世の、無感覚・無感情(心の無さ)及び個人主義のお手本となる様を生き、その類の人たちの日常に支えられ、尊ばれて、癖のある日本人気質の負の動力源で居続ける。それはまた、この地球上で生まれ、成長し続ける、否定感情のお化けのようなもの。そんな場所の中心深くに、足を運んでみる。その時が来る前に(身体を離れてしまう前に)、もう一度めぐり逢いたい〜♪と、みんなで、大事な大事な原因創造のタイミングを手にする。

(暴風雨のあの時から1ヶ月…。この時を包み(and コピーし)、負っ荷負荷〜の負頓を手放してみる)

1/20

形無き原因の世界での、直感オンリーのボケボケワークは、日々変化していて、思考の域(次元)から遠く離れていることによるそこでのその抽象的な作用は、あらゆる価値感情のかたまりを砕き、身体表現の元となる、姿無き意識体(のエリア)のそのエネルギーの性質にまで、段階的に影響力を及ぼす程になっている。

それを、真の普通(生命本来)を自然体で生きる人たちが何気に実感したのが、16日。その日は、原因の嘘を無自覚に、形ばかり(結果だけ)本当であろうとするその嘘の具体化に明け暮れる人の思考が、支柱ごと確実に崩れ出した時。それは、負の連鎖(無生命化)の繋がりが途絶えた、これまでの終わりの始まり。気づけば、それは、余りにさりげなく進行し、意識させないくらい細やかに具現化されている。

そして、これから。人間が、人間らしく本来でいる風景を基に(中心に)、時の回転は速くなる。それにより当然生じるであろう、その原因がずっと異常だったことによる、この社会の、自らの性質に見合った諸々の好転反応。一度動き出せば、決して止まることを知らないその流れは、普通自然体を生きる生命たちの、本来の息吹、そして喜び。心ある存在たちは、そのありのままの意思(生命)表現をその流れ(原因)に乗せ、元気を普通に、楽しさと優しさと嬉しさを形にする。みんながひとつに、ひとつがみんなに、時代が笑顔を見せる。

さて、ここから。2017年は、実に面白い。

1/18

4.必要なものを簡単に手にすることが出来なくても、有るものだけでどうにか時をやり過ごしながら、身を保ち、気持ちを維持してきたこれまで。それが、そうではなくてもいい(よかった)原因に触れ、包まれ癒される中、気づけば、決して頑張らなくてもいい普通を過ごし得ることを覚え、その本来の体験を通して、次へと繋ぐことの意思とその性質をより力強くするために、外に求めず、他に期待もせず、ただ淡々と大きな流れの中の確かな原因のひとつでいることの大切さを知る。

山を守り、野を癒し、人々と共に自然環境を支え続けてきた生命たち。木々も土も水も、ずっとそうであったことの原因が崩されて行くことに抵抗し、踏ん張り、頑張ってきたけど、未来への種の確かさ(本来在るべき原因)のために、それを止める。そのまま、頑張らないことで、真の普通の原因を次へと繋ぎ、時の再生の礎となる。

LED感染(映像)」が一周するまでは、「LEDの影響」との約束の中、彼らも皆、その全てを受容する。その後(今現在も徐々にそうだが)、自由になる。苦しみは、もう要らない。辛さも悲しみも、残してはならないから、これ以上頑張らない。

この今ほど、自然界がキツサを感じている時は無い。LEDの原因に耐え続けることの厳しさは、これまでのどの時代にも経験したことの無かったもの。だから、リセットする。心ある人間に望み(普通の融合)を託し、そうではない存在たちに、それまでとは異なる姿を見せる。数百年先の地球が、全く心配は要らないことを彼らに伝える。

1/16

3.LED被害の実情を耳にすれば、それを知らなかった人は、それまでがどんなであれ、詳しくそれを知り、考え、次の風景のためにそのことを(自分なりに)役立てたいと思う。LED被害の実際の映像を目にしたなら、自分の周りにも同じようなことがあるにも拘わらず、それに気づけなかった自らのその原因の中で、これまでからこれからへと気持ちが動き、次の世代のために、そのことを無駄にはしたくないと思う。LEDの影響による、数限り無い災いの現実。それらの情報は、人が知り、新たに動き出すために在る。

そこに在るだけで害を及ぼし続けるLED照明のその本当の姿は、誰もが知る(知ることになる)事実であり、どんな人も背を向けることの出来ない、未来への災難である。知ることから始まっても、始まっていたから知り得ても、それへの違和感は、環境保護へと繋がり、人間生活(社会)を健全なものにする。次の時代を生きる(担う)人たちのためにも、知ることを力に、責任ある表現を普通とする。

農作物の生産者の嘆きは、相当なものである。海産物を扱う人たちの辛さも、尋常ではない。そして、LED街灯や、車や電車のLEDライトの影響で、理由も分からず精神を不安定にさせる(心身を病む)、心ある純粋な人たち。彼らは皆、健康的な社会環境を、その意識もなく自然体で淡々と支え続ける、健全な生命サイクルの基礎を生きる人たち。そこでの異変・異常を感知し、形ある情報からもそれを知り得るという機会は、一度でいい。二度と、それらに、悪化(低次化)への道を辿らせてはならない。

LED感染(映像)」と「LED被害の体験談」は、そのどれも、自然界の切なる希望を形にする。それらは、知るという次元を裕に超え、知ることで始まる経験を通して、ひとりひとりの‘知る’の質を進化させる。真に知るというのは、自らの普通の中で、その経験を、変化と実践の原因とすること。それがみんなにとっての健康と平和に繋がり行くものである時、逃避も無視も許されない。この今、この時のすべきことを外して、したいことを望む愚かな人間であってはならない。

LEDの悪影響の様を通してその本質を知れば、人は、その経験を活かし、自らの、人としての在り様を確かなものにする時を生きる。身の周りに在るLED絡みの負の現実を通してその原因に触れれば、人は、責任を人間らしさと重ね、あたり前に、新たな原因を選択する。それらの情報は、そのために使われ、活躍できることを望んでいる。

1/14

10000年前に始めた、1年間に1円ずつ貯金する仕事が2016年で終了し、貯まったそのお金10000円の力で10000年分の負の蓄積の原因全てが崩れて浄化され出すという、夢物語のスーパープレミアム版のような時をみんなでじっと待っていたら、12日の午後、それは突然始まった。そして今、それは続行中。明日も明後日も、来週も来月もずっと続いて行く。

無意識の意思の危うさ(本当の自分)を隠したまま、頭だけで(嘘の自分を)生きて来ている人たちって、これからどんな顔になるのだろう? 時間をどんどん無くさせる力をそこに感じれば、時間をかけずに、新たな時間を創る。人から植物へ、植物から土地(空間)へと時空を渡り、それらの記憶の中で、共に風を吹かせる(ん?)。そして、顔は変わる。

今回の人生での経験どれもから自由になり、その自覚もなく蓋をしてしまっている無意識(負の記憶)の中の感情の意思が少しずつ溶けて行くのを楽しむ。家賃も払わずにそこに黒い塊となって居続けようとするオカシナ自分(?)の正体は、蛇頭が可愛く思えてしまう程の次元のある存在と融合する、かつてのいろいろな時の自分。(今回も尚そうであったけど…)東京BSは、そんな冬物を一掃する、大バーゲンの時。

1/12

久々の雨の日は(8日の雨はどこかヘン)、東へと車を走らせ、途中、幕張PAのスターバックスで思いの外ゆったりと過ごしてしまい、そのうちにお腹が空いてきたので、チーバ君おすすめの千葉丼でも食べようかなと思っていたら、「ちょっと待った〜!」と、花束を持ったネーバ君(納豆の妖精)が現れ、彼と一緒に納豆せんべいを食べながら、ピーナッツ畑の惨状(LED被害)を見聞する。

東京の地(関東)が、人が普通に住める場所ではなかった遠い昔、現在の神道の嘘とその危うい影響力の土台となった存在たちの、その非道な動き(凶悪な行為・支配)は活発で、川の流れ(行く先)を頼りに道なき道を行き来しながら東へと力が及ぼうとする中、今の神栖辺りのある地に、実に恐ろしい負(恐怖、祟り)の基盤を作る。

そこでの風景で際立つのは、ある時代の、蛇(白蛇)たちの繁栄・繁殖。また別の時代では、獰猛な蛇烏そのものの怖面の男性たちと、気狂い系の能力(?)を持つ女性たち。そして、自由を奪われ、人生(命)を潰されていく、純粋な人たち。現代に至っては、他の2社がその(原因の風景の)偽装の役となり、何もかも普通の(何喰わぬ運営の)中、柔らかな感性の存在たちの活躍を封じ込める仕事をする。

さて戻ろうかというタイミングの、ほんの僅かの時間に、その殆どは(そこでの経験の性質と原因は)難無く取り込まれ、次に活かされる。強い風雨の中、車のライトで参道の中を照らし、そしてさらりと高速道へ。偶然という名の必然の、ほんの少しのひらめきの中で、ここまでの道のりが安堵する。

その人が、なぜ罰せられたか?なぜ、命を失くさせられたか?その理由の殆ど全ては、彼(彼ら)が、人としての心ある(生命の)意思と真(本来)の普通を大切にしていたから。人間であれば決して許されない(放っては置けない)事実のその原因に、あたり前に反応したから。生きることを、耐えることとし、否応なしの犠牲と結び付けた価値観で嘘の神々を祀らせ、支配(封建力)を強めた、現神道の基となる、悍しい負の歴史。そこで行われた、神聖とされる残酷な儀式で、どれほどの正直さと優しさが、苦痛へと引き込まれ、血となって流されたか。恐ろしく惨い仕打ちで、どれほどまで、その経験(記憶)は重石となったか。東国の、その地でのかつての幾多の経験(の原因)は、ここぞとばかり、うごめき出す(他の地での経験も、それに同調する)。それは、「生命の歴史」が一本に繋がろうとする時、崩れ、砕かれ、沙となり、溶ける。

1/11

喫茶店に入ると、ほぼ毎回のように、アメリカンブレンドを注文する。けど、ストレートコーヒーの価格がアメリカンとそんなに変わらない時は、コロンビアを注文する。もう40年以上も前から好みの味となっている、コロンビア。店によって(また時期によって)味も微妙に異なるけど、他のストレートコーヒーはなぜかフィットしない。これからもずっと、コロンビアコーヒーを飲み続けると思う。

何気にトーストを注文することもあるが、シナモントーストがメニューにあると、なぜか食べたくなってしまう。嘘のようにまずいシナモントーストを出す喫茶店を知っているので、いつ、どこで食べても、それなりに美味しい(?)。ホイップクリームが付いていると、目がたれ目になる。(とは言っても、自宅での手作りがベストだと思うけど…)

今日も、明日も、コーヒータイムを中心に、無有日記の原稿が形になる。

1/08

富士山近くの場所でボケボケタイムを取っている時(23時頃)、ふと、どういうわけか行こうと思い立った場所は、岐阜のある山の近く。けど、そこまでは、4時間30分もかかることが判り、また次の機会に。

「再生」のルーツであり、この国の病みの原点でもあるそのエリアがそうである状態になったプロセスは、まるで漫画。でも、事実は事実(とは言っても、思考の世界には全く登場することはないが…)。この今だから、ここに現れ、通るべき場所として、その頃の風景を伴って意思表示し始めた、そこでの原因。その理由は、人間の智では触れられないけど、辛さや重たさを知らない時(時代)の、あたり前に楽で、そうと思うこともない軽さをこの時代に経験することで、体験的に感じ取れればいいと思う。

そして、そろそろ、この無有日記の原因と普通に融合し得る人は、最近の太陽や自然界の意思(本来の姿、望み)などに、想いを向けてみる。そして、4000年程前のこの国のことを想う。

これまでは、思考でもタッチできる内容を先に差し出し、事を進めたけど、これからは、みんなの中の事(多次元的な変化の事実)を先に、後から、必要に応じて内容を記す。点がいくつも存在しても、それが線になり得ないと、時間ばかりが過ぎる。その線(体験)をより分かりやすく、この身体時間を大いに活かし、経験を創る。

2017年は、富士山と岐阜の地から始まった。まだ何〜にも無かった時代の風が、すでに、この今に吹いている

1/06

2017

ある場所に、ふといつの間にか来ていて、そこから次へと動き出そうとすると、突如思いがけない発想が生まれて全く予想外の新たな場所に行き着き、そこで、そのタイミングでその場所に居るからこそのEWが出来、いくつもの思考外の時を重ねてみた。

その場所は、富士吉田のファミレス(気味の悪い白黒のセブンイレブンの脇)。2日の夜は、カリカリポテトを食べながら、不自由を強いられたままの山の一部になる。

他と比べて標高が高いために、蛇系(神道)や念・密教系の存在たちから特別視(神聖化)されて、本来の姿を忘れさせられてしまった富士山。その病みっぷりは酷い。登山すれば、柔らかい人は、あっという間に脚と頭がオカシクなり、重たい人は、その重たい感情(本性)をより発揮できる力をつける。

木々は無く、石ころ(岩)ばかりの病気の山の、何が楽しくて、そこへと行こうとするのか。ずっと永いこと、山では無くなってしまっている、富士山。30年程登山を全面禁止にして、頂上付近の鳥居も、すそ野の宗教施設も皆解体しないと、山の一つでしかない富士山が、病気づくりの原因の一つになってしまう。

 

 

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