無有日記

 

11/30

7.人と争うことで手にする本当の満足(感情の本質)は、自分が勝つことではなく、相手が傷つき、苦しみながら倒れることであることを知るから、仏僧は、どこまでもその世界とは関わらず、平和の原因でい続ける。そして、争いの無い世を支える。

苦しい状況にいる人々のその存在を材料に、偽りの教えがはびこることを知るから、仏僧は、人々が苦しむその原因でもある、権力の世界とは当然のごとく無縁であり続ける。そして、その原因に働きかけ、苦しんでいる人たちを無くしていく。

その仏僧のあるべき姿が、奈良・平安期に在れば、その後の幾多の戦(争乱)は無かった。鎌倉期に、その本来へと立ち返る仏僧が多く居れば、この国の歴史は大きく違っていた。それが、この国の仏教の素顔である。

真の普通(仏心)は、言葉で知り、言葉で分かるものではないことを知るから、仏僧は、文字(文面)を語らず、心を言葉に、自らが真を実践する。そして、その原因を繋ぐ。彼らは、真実と繋がる本体(真の自分)を生き、仏陀を体現する。

11/30

7.その彼女の何倍もの能力を備える両親は、当時は形ある経験の足跡は残さず、不特定多数の心ある柔らかな人の脳をオカシクさせられる彼ら独自の呪術に浸りながら、後の時代も、何も残さず、それを愉しみ、世を重く、どんよりと暗いものにする。そんな二人であるが、当然ながら、現代、時代の意思は、彼らを、この無有日記の世界に快く招待する。父は、関西、母は、関東。せっかくなので、年齢も同じぐらい。またまたせっかくなので、いくつもの形跡を残してもらうことにする。そして、ムリのないよう、皆で、その形(物)から、その原因へと入っていく。

見方を換えれば、二人は、娘たち(という形)を残した。そして、彼女らを通して和歌(呪歌)を残し、壬申の乱という、この国最大の悲劇にも、その原因のところで仕事をした。だからこその彼らの今がここにあるわけだが、最も重要な痕跡は、この26章に、自分たちが登場したということになる。そして、娘たちの現在の姿も、知るべき人たちにはすでに伝わっているということ。それで充分。「歴史の芯」に触れ続けてきて、ここで出会すことになる二人の、凄過ぎる異常。この時を経て、心ある人の右脳は、より本来になり、これまでをこれまでのようには引きずらずに、みんなの原因は未来に届く。そんな時を、普通に、自然に楽しんでみる。

額田王の父だった彼女も、母だった彼女も、伊勢神宮より恐ろしく、出雲大社より不気味で、宇佐神社より悪趣味である。彼女たちへのEWが進行することで現れるのは、思考が忙しくなくなり、感情も自然に主導権が握れ、呼吸も楽で、ゆったりとした時間を過ごす自分。彼女たちの異常(呪術)が力を無くせば、全粒穀物食も力を取り戻す。そしてもちろん、嘘の神々も、嘘の歴史も、姿を消す。そのためのそのEWは、この「歴史の芯」と「仏陀の心」に触れる人が増えることで、力強くなっていく。始まったら、その原因が変化に乗るだけ。終わりは無い。

(壬申の乱関わりの原因を土台に人知れず暗躍する名も無き能力者(妖術師)は何人もいて、その中でも、心ある人の脳に不安(恐怖心、幻想)を植え付けてその人の心身の動きを不自由にさせるのを得意とする本体の、その意思をそのまま生きる存在の今の姿を、この26章は、無有日記との関わりを通して顕にし、対処する。内なる世界での動き(原因)の無さは、「歴史の芯」のその原因の進化により、不気味な動きをし始める)

11/29

6.心ある自分を生きるその原因は、形になる人の心のその原因を元気にする。そこでは、心ある原因でい続けることが普通となるので、考えるまでもなく感じられることが主導権を握り、考えることもなく(頭を働かせずに)話をする。言葉を選ぶ思考は要らず、心が自由に言葉になる。それは、人が人でいる時の、心の時間。互いが居る場所は、育まれ続ける心の風景。

大切なことの話をする時に、考えることは何も無く、考えることもなく話をしている時のその(原因の)性質が、大切なこととなる。心ある柔らかな想いは、そのまま人へと伝わることを望んでいる。ふと湧き上がる言葉が、さりげなくそれに連れ添う。

そこに、考えながら話をする必要性があるとすれば、それは、考えるまでもなく分かることの質を成長させて来なかったこれまでの現れ。大切に思えることを考えて話すことで、それをごまかす。そして、考えなければ形に出来ない大切なことの、その重たい原因を溜め込んでいく。言葉から始まる正しさは、言葉だけの(言葉にすれば良しとなる)大切なことを、好きなだけ作り出す。

このことが、自然で、ごく普通の理解として大切にされる時、その人は、仏心(仏陀)となり、そのままで時を癒す存在となる。仏陀もそうであり、道元もそうであった、思考の力を不要とする、生きた言葉。それは、どんな時も、次なる時の原因でい続ける。

11/29

6.化け物級の素顔を持つ斉明天皇と額田王のその家族は、それぞれが備える蛇同然の陰湿さと凶悪さを共通項に密に繋がり、親しい存在たちによる大化の改新と壬申の乱での謀略と蛮行を、その濃密な呪術(呪詛)で支援する。その時の嘘の原因の具現化に尽力したのが、額田王のその妖術の支え役を担った、彼女の両親である。

二人は、誦呪や呪歌を通して、人の動き(生きる力)を止め、その人の思考の質まで簡単に操る。その文字と言葉(歌)に、呪詛の念は普通に乗り(組み込まれ)、それに触れれば、どんな人も、思考は忙しく、感情は不穏になり、平静でいられなくなる。素朴で優しい人の心身は、辛い現実へと誘い込まれる。

その時代に詠まれ、現代に残る和歌の類を頭に入れると、それだけで、彼らの呪文(妖術)繋がりの非生命的な原因に包まれ、普通の人は、脳をオカシクさせる。そこに在る、生命のリズムを狂わせて破壊する、残酷な意思。それは、地を這う蛇の生き方と、重く動きの無い蛇の脳の世界に引き込まれる、その通り道。和歌は、かつて妖術で右脳を病まされた人のその経験の記憶を利用し、現代でも尚、人々の思考を、原因無視のそれにする。

念仏(浄土思想)も密教も、古典芸能(能、雅楽、神楽etc.)も、その根底には、人を呪う(呪い殺す)妖術の変形、呪歌・誦呪の原因が色濃く在り、それらを通して、心を持たない蛇系の存在たちは、何喰わぬ顔で、嘘を生き、人知れず世を支配する側で居続ける。壬申の乱のその原因に深く絡んでいる額田王の和歌(妖術)の類は、その時から千三百年以上も経つこの現代においても、人の脳(右脳)の働きに悪影響を与え続ける。

11/28

5.無有日記にも、その元となる形無き原因の意思があり、そこに、何を以てしても捉え切れない本体がある。その本体の性質をそのままに、そこでの原因は言葉になるのだが、それに対して、思考は使わず、それが思考を使う(通る)。心のままにが、あたり前になる。

思考を使わず、思考の本体(真の自分)を通すという姿を普通とすると、意識と無意識はひとつになり、心の性質は、常にオープンになる。感情の主導権はあたり前となり、重く、流れない原因を浄化するために、感情を活用する。そこに嘘の原因は無く、身を繕う不自然さも無い。自分に正直でいるという感覚も無く、心をそのままに、本来を生きる。

その姿を普通に生きる時、仏陀の本体と繋がる。彼自身がそうであったので、そのことで、彼の心が分かり出す。そして、普通の質は、進化する。思考を自由にさせ(自由な思考とは次元が異なる)、経験からも自由でいることは、その基本要素となる。

その状態は、ある意味、悟りという言葉で形容されてもいいと思う。元来、それは、人間の普通であるのだが、そうではない時を永く生きて来ている今を思えば、誰もが通るべき場所(感得)として、それは悟りと言える。その時、心に嘘を抱くことは出来なくなり、形(思考)から始まる生き方も無縁となる。成長し続ける中庸の世界に、あらゆる価値観は溶け、人としての望むべく在り様の、その原因を、人は生きる。そこに仏陀は居て、道元も寄り添う。思考は、心の脇役となって、心に使われる。

11/28

5.歴史上の戦や争乱で名を残した人たちは皆、壬申の乱及びその原因となる風景の中に居て、その時の経験のその元となる本体の意思をそのままに、同質の存在たちとの次なる時の生を繰り返し生き、現代に至る。それ程重要な7世紀。自らの、人には見られたくない(知られたくない)本性を見た目(形式)と思考で隠し、ごまかす人たちは、全て、その嘘の原因の重要な重石となる土台を、壬申の乱関わり(の経験)の中に置く。

身内の誰かが、地位や立場を利用してその時の時代環境に何らかの大きな影響を及ぼす出来事に関わると、その気が無くても、その存在と密接に繋がる人たちは、その名や立場(役)を形として後世に残す。そんなところから、EWの質の変化に合わせて、自動的にどこまでも深く入っていくと、誰も知ることのないある存在が、誰もが知らなければならない負の影響力を備えていることに触れ得、それがまさに壬申の乱の原因深くに関わる場所で、恐ろしく強力な呪術を行使していたことを知る経験に至る。それは、現代にまで影響を及ぼし続け、これから先も、そのことで、心ある柔らかな人たちが皆要らない経験を強いられて、辛く厳しい時を生きることになり得るという、そのどうにも処理し難い、非生命的な負の原因となるもの。壬申の乱関わりの、呪術系(蛇絡み)の存在たちのその経験の原因へのEWは、この世の全ての病みの理由が、段階的に確実に姿を無くしてしまう流れをつくり、争いも病気も無かった時代の原因を、ぐんぐん膨らませていく。

11/27

4.安心と余裕の原因ではなく、不安と焦りのそれと結び付く知識に埋もれる現代社会。そのため、人は、要らない時間を多く費やし、無くてもいい現実に付き合わされ、生かし合うのではなく、(命を)削り合う人生を生きる。そうである事実への理解も、対応も、人は知らない。

どの時も、自らの生命の意思を形に、柔軟に、真剣に生きた仏陀の、その想いは、3千年前も今も同じである。この今、形になろうとする、現代仕様の彼の意思(原因)は、そのまま、無有日記に流れ、こうして文章になる。その原因の世界には、道元の(いくつもの人生での)経験からなる切なる想いも溶けているので、より明確に、二人の真意は、ここで形になる。

これまでの全てを基に進化し得た、(言葉に乗る然るべき原因という)沙と羅(淘ぎと連繋)の手法は、受け手次第で、その人自身の心が、どこまでも深く浄化され(癒され)得るものとなる。専門的理解も歴史的背景の把握も要せず、実に平易な言葉と表現となって誕生することになる、仏陀と道元の普通。それは、まさに、彼らの優しさであり、誰もが読めて、誰もが実践できる、仏教である。この時代に想いを繋ぎ得た、二人の喜びが伝わってくる。ここでの知識は皆、安心と余裕の原因と繋がっている。

11/27

4.そこに至る原因の危うさと、後へのその悪影響を思えば、戦の神というものを存在させること自体、人間の堕落の何ものでもないことを人は知る。暴力と殺害を支援し、殺し上手の人間たちによる勝利を祝い、祀られる、動物以下の(動物にはわるいが…)八幡神。それが全国各地に在ることを考えると、この国は、どれ程人間本来からかけ離れた非道な歴史を連ねて来たかが分かる。

なぜ、傷つけ、殺し合う世界に、神という名が利用されるのか…。その正当性を証明できる人が居るとすれば、それは、脳の腐った(殺意満々の)化け物である。命(人生)の奪い合いの背景でくすくす笑う八幡宮の類は、この世に在ってはならない、自然界の異物。武道で使われる弓矢も、剣も、その原型(ルーツ)は、人の世に在ってはならない、殺人の道具である。

宇佐神社の負(破壊)の原因と容易に融合する、斉明天皇と藤原不比等の生を手にしたそれぞれの本体の意思は、鎌倉期に、その蛇頭級の呪術と権力で、仏陀の普通を通す存在たちを抑え込み、真の仏教を消滅させようとする。伊勢神宮と出雲大社に宇佐神社を足した三つを、EWでまとめて扱い出した辺りから、現代に生きるその二人の本性(本体)はうごめき始め、と同時に、彼らにずっと付きまとわれてきた(脳を支配されてきた)、時を変え得る力を備える存在たちも、それまでには無かった感触を覚え出す。

そこから、浄化し得る対象(原因)として、この時とばかり浮き上がってくるもの。決して外してはならない、壬申の乱の原因関わりの、二人の妖術の力。彼らは(現代は両者とも男性)、連れ添う女性に隠れるようにして、誰にもそれを分からせずに、現代の道元と大友皇子の生きる自由を抑え続ける。しかし、無有日記が宇佐神社まで来た時、彼らの本体(とその背後)は慌てふためく。非人間の代表のような中大兄皇子を難無く生み出し、大海人皇子を育てた斉明天皇と、中臣鎌足の性悪さを大きく上回る藤原不比等。歴史的悪行の上位に入る二人のその信じ難い妖術の腕前は、無有が、要らぬ遊び相手として、かなりの時間を割いた程である。

11/26

3.決められたことに従い、言われる通りのことをしていると、自分で決めることも、素朴に思うことを言葉にすることも難しくなる。与えられるものに満足し、求められることに応えていると、人に何を与え、求めていいかも分からなくなる。

決められたことに従うこと自体、そこには何の意味も無く、意味があることが決められていることで、その大切さを人は理解する。しかし、意味あることは、大抵、人が決められるところには無い。

求められることに応えるそのことに価値は無く、価値のあることが求められることで、人はその重要さを認識する。しかし、価値のあることは、大抵、人が人に求める次元には無い。

与えられることを良しとし、言われた通りのことをすることも、中身は同じ。そのことから始まることはあっても、そうであろうとすることが意義を持つことはない。

人は、いつの時も、体験的に知ること、体験的に手にすることを普通とする生き方を、身体表現の基本とする。そこに決められたことが在るとすれば、そのことを守り、支え、応援するものだけが在り、そこで求められるものが在るとすれば、そのどれもが、そのことに協力し、共に活かし合うものとなる。あとは、ただ体験するだけ。そこで手にし、生み出されるものは、全て、人間本来の自然な在り様の原因(材料)となる。

人間には、教えられなくても、分かっていることが多くある。他への優しさ、互いの尊重、生きることの喜び、繋ぐ責任etc.。それらのことに、決まり事は決して当てはまらず、それらを強いられる経験も要らない。人として大切な体験は、人との間で自然と為され、その意味も、その価値も知らずに、それらをあたり前に、人は表現する。人生は、生きる喜びではなく、生きる喜びが形になったのが、人生である。

11/26

3.問題事の存在を前提に始まる心配という行為は、そのまま争いや衝突の原因となり、無くてもいい戦や争乱を当然在るべきこととして肯定して、そこでの無事を、身内や知人に願う。対する側の人間の命は全て絶たせて、自分たちが勝利するために、人は、その心配を祈願に変える。そして、八幡神社が誕生する。それ系の神社は、人殺しの社であり、戦に勝利する以上に、相手方の人間が痛みに苦しみ死んでいくその姿を喜ぶ、変質的な嘘神を祀る場所である。

心配が、祈願の類に変わる時、人は、どこまでもその内なる非人間性を強め、精神は、野蛮になる。それをごまかし、体裁を整えて事を巧く進めるために、八幡神社(宮)は在る。その存在は、この国がいつまでも成長し得ない理由のひとつであり、夥しい数の人間がその嘘によって命を絶たれることになる、その醜い原因の力である。

人としての生に、さりげなく真剣であれば、どんな人も、それを普通に知る。そして、そうではなかったこれまでの時のその病みの原因を浄化するために、全粒穀物食で脳を健全にする必要性を切に感じる。白米も白い餅も、そして白蛇も、神社のお気に入りである。白米にこだわれば、その人の脳は、八幡神社と同じ、殺意と個の強欲を内に秘める、蛇のそれということになる。

11/25

2.人は、生きることが、その自覚もなく充実している時、暇であり、不安も無い。その意識もなく、その時々ですべきことをし、歩むべき道を歩む。思考はいつも自由で、心の自由に、それは連れ添う。訪れる風景は、要らないものが自然に砕かれ、次なる風景になるべく力を付けて、癒される。そんな普通を、日々連ねる。暇だから、(引き寄せられる)どんな時間も余裕で大切に出来、不安が無いから、思い悔やむ経験も知らない。ただ生きることに真剣でいる自分を、あたり前に生きている。

そうである境地になるべく行の類があるとすれば、それは、頭を忙しく、不安と闘うことになり、そこでの(不安の)原因は皆、自分らしく生きることを遠ざける。その理由を覗いてみれば、生きることへの不真面目さが見え出す。暇で、安心の中に居る人は、生きることに真剣だから、闘う忙しさ(という時間の浪費)とは無縁である。

11/25

2.心ある原因の選択・実践を難しくさせる白米食(白小麦のパン食)は、元から心を持たない蛇系の存在たちに力を与え、心が無くても、形や物だけで事が済まされる歪な世を支える。問題事も、そうにはならない原因を無視し、それをどう処理するかという結果優先の思考を活躍させる。そして、多くのそうである人が、その意識もなく心柔らかな人を病ませ、人のためと言いながら、自分(自己満足)のために心配し、気をつかう、心無い言動が普通となっていく。

その他者への心配(気づかい)の最たるもの(嘘)が、命への心配である。心無い異常な人は、心ある普通の人を心配し、彼らを戦場へと送る。立場的に(巧みに)命を守られようとする人は、そうではない人を心配し、その人たちの人生を終えさせる。心配する気があれば、心配する必要の無い現実のその原因を大切にすればいいのであるが、心の無い蛇系(神道絡み)の人間は、それが出来ない。残忍さと凶悪さを備える彼らは、心配や祈願という形式を人に尊ばせ、神社を作り、神の名のもとに大勢の命を奪う。その全てを善とする感情の力で、地位のある存在や神社に祀られる嘘の神を自分の命よりも大事と思わせ、その欺瞞の道具に、心配や気づかいを利用する。神社での祈願や参拝は、白米文化の完成品と言える。

それは、歴史ビル2階の後半辺りから盛んになり出し、非人間的な本性を隠し持つ存在の、行為としての心配と嘘の力によって、いつ命を奪われてもおかしくない、辛く苦しい時代を、人は生きることになる。そして、当時、その不穏度数を好き放題強め、苦しみ喘ぐ人たちが世に蔓延するという、その重量級の病みの原因を限り無く拡大させたのが、斉明天皇であり、藤原不比等である。

(大和・飛鳥の頃、人間の体には合わないはずの生命力の無い食事を好む支配層のその姿に違和感を覚えた人たちは、次々とその心ある感性を潰され、健全なことからも離れさせられる(体が欲するものを摂れず、健康的に過ごすことが困難になる)という、酷く悲惨な妖術をかけられる。歴史の芯は、その術使いたちの今の姿を通して、現代に至るその不気味な原因にも対応する)

11/24

1.人間らしく生きることは、実に簡単で、そうではない生き方をすることの方が大変なのが、人間である。それを難しくさせてしまっていることの理由には、幼少時からの白米食がある。白米が身体細胞に負担をかけているのは言うまでもないが、白いうどんも、白いパンも餅も皆、人間らしさの基本となる部分を根こそぎ崩し、人の不健康と不健全さのその強力な負の土台でい続ける。

人間は、全粒穀物を摂るように出来ていて、そうではない物で脳と身体が成長する経験は、自虐行為と言える。それがまかり通る、この国の食の風景。人は、人間らしさを経験できないまま、質の伴わない人間経験をムダに生きる。

ただしかし、そのことに気づかされたとしても、殆どの人は、身も心も白米漬けである。その質を変えることは、至極難しい。それを難無く変化に乗せるためにも、全粒穀物食を普通に、未消化のままのそれまでの負の原因を浄化する。ここでも、左手が活かされる。

人間は、この地球に住む一生命であるから、精白された米や小麦を食べることを良しとしない。考えなくても分かるその理由が、考えてもよく分からないとすれば、その人は、それだけ人間ではなくなっている(人間らしさを欠いている)ことを意味する。なぜ、そこまで退化してしまっている人が存在するか…。そのあり得なさの理由深くに入ってみれば、そこには、停滞と腐敗を活力源とする神道と蛇系の存在たちの、非生命的な原因の働きがある。全粒穀物食が執拗に退けられたことで、この国の人間は、生命としての責任感覚を尽く無くし、脳も身体細胞も、人間本来のそれではない状態を普通としてしまう。

人としての成長を妨げる、差別心や優越心の原因も乗る、白米食。否定感情の他は何も無いその白米文化を通して、人間は、永いこと、生命を生きることを忘れる。

11/20

1.安心には、理由は無く、不安には、理由が有る。安心に理由が有るとすれば、それは、不安に蓋をした、不安の裏返しの安心。本物ではない。理由もなく不安になるのは、自覚できない程その理由が深くに沈み、対応し切れなくなっているから。理由の無い不安は存在しない。

人は、様々に、安心と不安を経験する。そこでは、多くが、理由の有る安心と、理由の分からない不安。そのどれも、いつのまにか蓄積させた不安が主導権を持つ。安心は、安心ではなくなり、不安は不安のままである。

理由の無い安心は、不安が不安でなくなる時の、その原因となる。安心が不安の裏返しのそれ(理由の有る安心)であるとすれば、無自覚の不安のその原因と向き合う時を迎え入れる。そのためにも、安心でも不安でもない時を淡々と過ごし、浮き上がる不安をそのままに、安心の通り道を創る。考える時間を外し、向かおうとする場所を離れ、思考を自由にさせる。安心は、求めなければ、理由の無い安心となり、不安は、それをどうにかしようとしなければ、その原因の元の不安が、動き出す。

安心は、そうとは分からないくらいさりげない。不安は、そうとは分からずに、姿を消していくもの。どちらでもない中で、その安心と共に、不安と遊ぶ。その時、不安は不安のままではなくなり、広がる安心の中に溶けていく。

11/20

9.気づけば、「歴史の芯」も25章。どこにも向かわず、何も求めず淡々と次への原因でい続けたことで、辿り着くべきところへ辿り着き、通るべき場所を通る。途中、「仏陀の心」と合流できたことで、この今の、これからへの原因は、予想もさせない大きな力となる。それも、無有日記の普通。普通だから、どこまでも、どんな風にでも、それは仕事をし続ける。

「歴史の芯」の世界を実践し、「仏陀の心」を自分と重ねれば、そこにどんな重たい現実があったとしても、その負の原因は、力を無くしていく。と言うのも、そこに在る文章は皆、その手前から自動的に為されていたEWが形になったものなので、それを読むという経験そのものがすでに、望むべく変化の原因になる。それは、ふといつのまにか変わっている、決して元には戻らない、余りに自然な変化。世の不自然さの原因が浄化されていけば、どんな人も、その人なりの変化に乗る。そんな普通体験を楽しんでみて欲しい。無有は、どこまでも無有でいて、みんなを応援する。無有日記は、時代の望みに応えた、未来への贈り物。みんなで、その原因を届けて欲しい。さて、次へ…。

11/17

8.共に居る相手が、親であれ、子であれ、同性であれ異性であれ、その空間は、そこに居る人にとって、次へと繋がり、次へと広がり展開する、貴い原因の時である。それは、人としての大切な原因でもあるから、そこには、強者や弱者、上位や下位といった、滞り(結果)から始まる価値感情は存在しない。誰のためでもない、みんなのための発想を普通とする、人と人。何かのためではない、みんなにとっての何かが自然と生み出される、人の居る空間。愛情は、そこに居る誰をも包み込み、優しさも思いやりも、誰もその意味を知らない。

親と子でも、男性と女性でも、そして友と友とでも、互いは、互いを、あたり前に尊重する。そうではない経験の原因は、どこにも無いから、そこに別な人が加わっても、その基本は変わらない。人は、心のままに、心を形にするから、自分には無い経験を持つどんな相手からも、自然に学び、それを活かす。親は、子から教えられ、子は、親から力を貰う。男性は、女性に活かされ、女性は、男性によって、心を強くする。

仏陀の普通のその原因の中に在り続けるそれらの在り様は、道元によって引き継がれ、今に至る。向かう世界ではない、生きる基本としての、人間経験の大切な要素(前提)。始まりが本来であれば、そのままそれが本来の人生となり、何があっても、どんな時でも、それは本能的に守られ続ける。そこから広がり出す、仏心(真の普通)の原因。誰もがただそのままでいられる時のためのその原因として、「仏陀の心」は仕事をし続ける。ここでの普通は、次なる時を、そのままで普通にしていく。

11/17

8.大化の改新の頃から、世を病ませ、人の心を押さえるために使われてきた、出雲大社の地での、呪術絡みの文字(言葉)。その文字に触れ、その言葉を聞いただけで、素朴で自然な感覚を持つ普通の人は、そこに在る停滞と収縮の原因を染み込まされ、無自覚に健全さを失くしていく。それが、記憶し、耳に残る程であれば、その人の人生は、すでに本来から遠く離れる。

出雲大社の醜い背景と密に繋がる存在たちは、念と遊び、秘を愉しみ、いくつもの文字とその組み合わせに、妖しい力を注ぎ込む。秘奥や秘祭といった異を普通に、不自然さの比重を強め、異様さを美とするような悪趣味を、平然と重ねていく。

そのことで脳の働きを鈍くさせられた人たちは、何の疑いもなく出雲発の音色(雅楽)に乗った言葉に親しむようになり、彼らの思考は、力を無くした感性を置き去りにするようにして、その地を尊ぶまでになる。人の暮らしは、無いはずの(蛇系の)性質を蓄積させていく。

11/16

7.人は、人と居て、行動を共にし、経験を重ね合う。人は、自分には無い役を担う異性と居て、一緒に過ごし、共に経験を創り出す。人は、子を経て大人(親)となり、年老いて身体を離れるまで、人と居て、人を生きる。そしてまた子となり、親となって、新たな時を経験し、共に経験を創る。

その、人としての時が、自然に流れ行くことを、愛情と言う。そこで、人と人が交わすこと、高め合うことその全ての人としての営みを、愛し合うと言う。喜びは、どこにでも在り、優しさは、誰もが普通とする。分け合い、支え合うこと以外の原因を持たない人々の空間は、愛情だけがあり、愛し合う時がある。

その普通が、普通ではない時、人は、その修復へと、自動制御のようにして、自らの原因をそれへと向ける。そこに異性間関わりの負の原因があれば、その異常な普通世界との融合(絡み)を離れ、次に残してはならないそれを、形無き原因のところから浄化する。そして、人と人が居る空間を、生命としての本来のそれへと変えていく。

異性間のその在り様は、人が共に生きる上での基本形のそれであるゆえ、そこでの歪みが生じる原因も、それがそのままでいる原因も、人は放っては置けない。そのことが乱れに乱れた、平安・鎌倉期。仏陀と道元は、協力して、人の居る空間(人の生きる道)のその原因を修復する。事の異様さと、人の意識の異常さから離れ、その負の原因全てから自由になって、望むべく時を創り続ける。

11/16

7.蛇を中心とする空間は、陰湿で不健康そのもの。そこに居る人たちは、下品で低劣な感情を普通とする。ところが、時代を経て、印象や見た目で人を欺き、本心をごまかすことを覚えたその存在たちは、こぞって、キレイに見える姿と気品ある振る舞いをするようになる。それは、本音と建て前の使い分けや、体裁を整えて実を偽る低次の感情のルーツとなり、そのまま現在に至る。

伊勢や出雲の地を特別視したり、そこに出向くことを良しとしたりする人たちは皆、人に見られたくない下品な素顔を内に隠す。そうでなければそうにはならないその形無き不穏な原因の具現化を通して、彼らは、意識深くに潜める蛇絡みの本性の遺伝子を顕にする。言葉づかいと振る舞い、装いと表情に特別神経を使い、そうと見せる上品さで、そうではない蛇のような醜さ(下劣さ)を見えなくさせる。神社(神宮、大社)との関わり方は、その人の本当の姿を容易にさらけ出す。

嘘は、形式を生み、形式は、権威を作り出す。その極みが、人間を神とする発想であるが、この国は、悲しいかな、その嘘の極みを成り立たせてしまっている。その発信元(製造元)が出雲であり、伊勢である。それは、恐ろしく未熟で、残酷な、生命への裏切りである。

11/15

6.求めなくても手にするものは、自らの分に見合った、自分らしさ。それが隔たりや優越とは無縁なものであれば、生きることが、そのまま人間本来のそれとなり、何をしても、生かし合う普通を元気にする。そこで手にするものは、生きる力の原因。それで動き出すものは、人の生きる原因。求めなければ、手にするものはすでに、その人の人間らしさを支える仕事の中に居る。

求めることも、求めさせることもない自然な風景では、それ自体が生命世界の原因となって、みんなにとっての新たな原因の時を生み出していく。そして引き寄せられる(創り出される)、その自然な営みにとってのもの。そこには、必要なものは何でもあり、時が変わっても、その時々で必要なものは何でもある。平和も健康も、そうではない原因を人は知らないから(持たないから)、手にするものは皆、平和と健康をその気もなく支えるものになる。

その仏陀の普通に照らして、これまでの時を観る時、この「仏陀の心」が、未来に向けて、どれ程の(原因の)仕事をするかが分かる。そこに在る、時代が望む、全体からなる必要性と、無くてもいい原因への浄化。求めていては、手にするものは、自分にはその原因の無い、形ばかりの(連繋の意思を持たない)平和と健康。求めず、探さず、ただ平和と健康の原因でいる。その時、手にするものは、そのまま、次へと流れ、外へと伝わっていく。

11/15

6.伊勢神宮に収められている(祀られている)心無き存在たちと、直接・間接的に否応無く関わりを持たされた人たちは、その多くが、自分の真の姿である本体のある重要な部分をそこに絡められ(縛られ)たまま、脳は不自由でいる。蛇の脳を通して人間に入り込んだ(人間の身体を手に入れた)存在の意思は、その類の呪術を普通に実践する。

神社が虚偽と狡猾の典型であることを考えれば、その中心的存在である伊勢神宮の欺瞞がどれ程かは、容易に知ることになるが、なぜそれがまかり通っているかの、その理由に踏み込んでみると、そこには、人にそうとは思わせない(誰もそうは思わない)妖術の世界があり、その妖術の元となる場所へと辿っていくと、出雲がある。そして、本体が真に自由になるという、人間の経験上最も大切となる生きる基本形の基礎を取り戻すためには、出雲大社の呪術絡みの全ての原因に対処し得る経験が必須であることを理解する。

「歴史の芯」と「仏陀の心」は、これ以上無い最短距離で、数千年分の負の連鎖を砕いていく。人としてあってはならない異様な原因の風景は、この場所から先へと行くことはなく、姿を消す。そのための経験が、ここに在る。

11/14

5.仏教が伝わった後も、この国は、それまでと同じ、命(人生)の奪い合いの歴史を延々と続けていたことを考えれば、今に至る仏教関わりの知識全てを白紙にするぐらいでないと、かつての負(闇)の原因をそのままに嘘の人生を生き、その嘘を未来に流して(繋いで)しまうことになる。仏陀は、争わなくてもいい原因(の生き方)を伝えるために、自ら、それを実践した人。その彼の普通が、そのまま普通に繋がり、成長し得ていれば、人は、仏教を通して、共に生かし合い、支え合う人生しか知らない。仏陀の普通(真)を歪めて、彼を利用する非情な力は、人間同士が潰し合う(殺し合う)戦の援護にまで、神仏を仕立て上げる。

唯一仏陀の真意(となる世界)を、その原因のところから表現し、繋ぎ続けた、道元。彼の存在が遠いところにある人は、思考(頭)から始まる形ばかりの仏教に汚染されている現れ。仏陀の世界に近づこうとすると、その案内役のようにして、彼の想い(原因)を心の風景に通してくれる、道元。心が主人公でいる生き方を、人は捨てずに済んだこと。仏陀の真が再生されたこと。彼が、この国の人間として繰り返し生を経験したことが、この今の「仏陀の心」に繋がる。思考型の(知識としての)仏教からあたり前に自由になる時、道元は、より仏陀の心を人の心に通し(流し)出す。

11/14

5.人が苦しみ、世が停滞する姿に安心を覚える、蛇系の存在たちは、その不健全さをより安定させるために、男女の、本来そこに在るべき自然な関係性を、尽く破壊する。都合良く作り上げた非情な決まりで、異性間を隔て、非道な思惑(打算)で、女性を虐げる。女性への差別を強めたことで、人の暮らしは争い事の原因が生まれやすくなり、男女間の空気も、彼らの期待通り、うっ屈とした不穏なものになっていく。彼らは、その非人間的な決まり事に上手に適応する女性たちを可愛がり、格好の妖術使いに仕立てていく。

蛇と仲良しの、妖しい巫女の存在は、出雲の地で、その姿が確立される。(異性とは無縁の)彼女たちのために神主も作り上げられ、異様で、気味の悪い神道の形が整っていく。その背後でうごめく、重苦しい妖術の原因。男女の性は、出雲大社の、その原型となる不健全な世を土台に歪なものとなり、奇妙な力を持ち続ける神道によって、その後も、永く、不自然で、非人間的な様を続けることになる。出雲大社は、差別と不平等の、その象徴的な原因の場所であり、心ある人々は、未だその形無き(呪術的な)負の影響力に、本来を忘れさせられている。

11/13

4.真にこだわる思考は、要らない。ただ、嘘を外せばいい。自らの中に、裏表を演じる自分がいれば、その姿を無くすこと。不都合な現実を見て見ぬ振りをする自分がいれば、その嘘の自分を返上すること。そこから、真は生まれ、そこに、真は近寄ろうとする。

嘘が外れれば、そこには、正邪も善悪も無い、ありのままの真実が在る(残る)。それは、限り無く中庸でいる、生命本来の意思。人が人として生きる上での、真の普通の原因。初めからずっとそこに在り、それを見えなくさせて(させられて)しまっていたことに、人は気づく。

正しさも、確かさも、嘘が外れないままの世界には存在しない。自らの中に、二者択一的思考による(期間限定の)価値観があれば、それは、狭い経験枠内でのみ通用する、嘘の形。そのままでは、正しさは、時を超えることはない。考えること自体に意味を見出す思考に頭を使えば、考えるまでもなく変え得る事の原因を忘れ、在るべき姿の確かさを歪めてしまうことになる。確かさは、次に繋がる、力強い原因の連なりである。

仏陀の想いが、自分の心のフィルターを通り抜けたら、どんな言葉が生まれ、どんな発想が湧くか?そこに、嘘は存在しない。

11/13

4.理由の分からない身体の重たさや、自由にならない心身の動きのその原因を、ずっとどこまでも遡って行くと、必ず見えてくるのが、出雲であり、出雲大社である。その先へと行くことも出来るが、奇形(土偶)前の、蛇の姿をした異生体の意思がまとまってそこに居たことを考えれば、この国に住む人間の経験する全ての病みと争い事の元の原因が、出雲の地に在ることが分かる。ここに至る、これまでの内容の把握と実践を普通に、出雲大社の原因を、段階を追って包める(浄化できる)程になれば、その人を通して、未来は確実に変わる。伊勢神宮関わりの負の蓄積も、そのことで、元から崩れ出す。

がしかし、それは簡単ではない。自らの原因を、一生命として多次元的に成長・進化させるためにも、順に、「歴史の芯」の各節と各章との融合を重ね、何もせずに事の原因を変え得る心の性質を力強くする。(手のひらで感じ、両手で包む)「仏陀の心」も同様に行う。そこに在る全てが、正しさの原因であり、真の普通の理由である。隠され、覆われ、そして染み込み、重ねられた負の原因は、力を無くす。

11/12

3.生きることに真剣でいると、人のためになる生き方が普通となるので、そうではない原因となる現実への反応も、自然なものとなる。そして、それを未来が喜ぶ原因のそれへと変える仕事を喜んで行う。その時、そう考えるまでもなく、健康でいることが大切にされ、平和な想いでいることもあたり前となる。ふと気づけば、不健全な出来事は姿を失くし、不安や心配事の話しも、皆が忘れる。生きることが楽しくて、生かし合うことが嬉しくて、ただそのままで、喜びの中に居る。

人のために生きる普通(の原因)に抵抗する人は、流れない感情を形に、重たい結果を残す。過去を引きずり、形式に頼り、未来への原因を忘れる。その時、頭は忙しく、感情は四方に向き、身勝手な健康と平和への欲求で、周囲を不穏にする。生きることへの不平・不満を募らせ、ご利益心を強め、不安の裏返しの安心を外に求め続ける。

生きることに真剣でいると、健康と平和を普通に生きられるだけ生き、そして迎える死の時を経て次へ行くという、自然な感覚が普通となる。そうではないと、無くてもいいこと(不安、争い、病気)に付き合うことが生きることとなり、次に行く感覚も抱けず、死後の世界に住み処を築く。

生きる原因は、いつ、どんな時も、誰にとっても、健康と平和、友愛と調和、そして、余裕と安心である。その外に、仏教は無い。不安や争い事を前提とする宗教(教え)が、人間世界にあるはずが無い。

11/12

3.永い年月を経て、その数を増やした、蛇化していった(させられた)人たちは、思考の判断とは異なるところで、本能的に、出雲に出向く。伊勢神宮への思い入れも熱くし、蛇絡みの因習を支えつつ、呪術世界の原因と融合する。そこに在る、醜悪で奇怪な、非人間的な性質。それは、はるか昔の、蛇の脳に住み着くようにしてそれを操った、凶悪・凶暴な存在の意思の具現化と言える。

弥生期、蛇同然の獰猛さと残忍さを潜める存在たちは、申し合わせたように自然に出雲に集まり、そこを拠点に、悪辣で暴力的な手段(行為)で、支配を強める。凶悪さの原因を強めに強めた彼らの感情は、その大元となる破壊の意思を難無く形にする程となり、それは、後に、恐ろしい呪術(妖術)の世界を生み出していく。素朴な人の生命力を奪うだけでなく、脳を操って思い通りに狂わせ、闘わせることも普通としてしまうそれは、出雲大社の本質の姿(重要な柱)である。そこに、放射性の鉱物関わりの経験が加わることで、蛇の脳を持つ存在を中心とする蛇系の人間たちは、人の感性を容易に壊し、世を、暗く、じめじめとしたものにしていく。

11/11

2.心の世界において、知ることから、変わることは無い。その前に、すべきこと。それは、知らなくてもいいことから離れている(いられる)ということ。

心に正直でいる人は、そのことを学ぶ次元を必要とせず、心のままに、想いを形にする。そうではない人は、そのことを学んでもそうにはなれない時を経て、想いの不確かさ、心の未熟さを体験的に知ることから、原因の質の成長の機会を創り出す。

両者にとっての‘知る’は、大きく違う。前者は、知ることが、そのまま生きる原因に溶ける。後者は、無自覚に知らなくてもいい時を重ねていたことを顕にする。人、物、関係性、場所etc.。心に正直でいることが難しい人は、そのどれも、知らなくてもいい(縁しなくてもいい)ことばかりである。

嫌なことや敬遠したい世界への抵抗・反発は、それ自体が、知らなくてもいいことを度々経験していることの証となる。その上での知識は、それまでの原因を引き連れたままの知識となり、知らなくてもいい時を更に作り出す。

それらの世界とは縁遠く、嫌悪や敬遠の感情を持つこともなくそこから自由でいる人は、その意識もなく、知らなくてもいいことから離れている。知識とは、自分に引き寄せられるようにして自然と縁し、さらりとそれは、次なる原因のそれとなる。

前者の知るは、頭であり、感情である。心の成長は、そのことを知り、そうではない時の原因の選択無しでは為されない。後者の知るは、心であり、感性である。そのままそれは、心の成長の材料となる。

仏陀の真実は、実に素朴で、普通。知ることのその原因となる風景を、心に正直に、人間らしく生きる。

11/11

1.破壊と征服の感情を普通とする、凶悪そのものの意思が、人間の形を手にする前に永く居た蛇の脳と密に繋がる、彼ら独自の場所(次元)。蛇としての地球(地上)時間を経て、人間の脳を支配するに至るまで、彼らは、より住み易い場所を求めて、さ迷い、住み処を移動する。そして、この国で最もその適した場所として蛇が大勢集まったところが、現在の出雲の地である。そこは彼らにとって、人間支配の原点の場所と言える。

蛇に取り込まれ(傷つけられ)、蛇の脳と融合させられる経験を通して、次第に蛇化していった人間たちは、蛇と共存し、蛇を大切にしながら、蛇の意思(感情)を中心とする、異様で不気味な人間時間を普通としていく。心ある人を恐怖に慄かせ、苦しめるのは、蛇系の人間が何より好むこと。人を壇に登らせ、腹を空かせた蛇たちの居るところに突き落とすことも、彼らは平気で行う。その時の経験は、世の恐怖支配の、その重要な下地の材質となる。

 

2.この時に出雲の内実が顕になるのは、24章で登場した伊勢神宮の隠れみののようにして、そこに呪術系の原因を供給する姿が、出雲大社のその形無き原因の風景には在るから。その原因深くに入って行くと、人間への嫌悪の感情をむき出しにする蛇と、彼らと仲の良い蛇系の存在たちが大勢居る。出雲大社は、その恐ろしい原因を現代に残す、異常(妖怪)そのものの場所と言える。

蛇は、空間の流れを止め、そこに居る生命の動きを不自然にさせる。蛇系の人間も同じで、彼らは、その無意識の意思で人を病ませ、空間を、重く、流れにくくさせる。そんな存在たちが永いこと営みの場所として好んだその地域は、現在でも、妖術(呪詛、呪縛)の基礎的役割を担い、同質の権力志向の存在たちを支援する。その中心に、出雲大社が在る。

11/09

1.仏陀の真であるそこでの普通は、理解の質を高めるべく実践の域へと自らを変化に乗せると、それがそう簡単ではないことを経験し、どれ程心ある原因の風景からこれまでが遠ざかっていたかを知ることになる。それが極端に難しいものとなる時、その気もなく嘘の世界を本当として、狡く生きていた自分の姿を見る。

彼の普通は、人としての、生命本来の普通。その実践の感触がどんなであれ、淡々とすべきことをこなし、然るべき反応を受容しつつ、歩み続ける。それは、人間の、生きる基本となる。

「仏陀の心」を知る経験を、責任とする。すると、新たな知る(知識)との出会いも、責任ある原因の反映となり、ムリなく、自然に、その質は高まる。創り出される現実も、普通に変わり出す。

その普通が脇に置かれる時、その人を通して、時は曇り出す。そこでは、知っても、それに責任を覚えなくてもいい知識が溢れ、責任が知ることとなって、知ることを通して変わり得る(変わるべき)現実への責任感覚は無しとなる。

その様は、まさに、この国の、これまでの仏教(宗教)の姿。責任ある原因が育たないその世界は、形を生み出す心(原因)に無責任でいられる人の満足の道具となり、仏陀の世界を、好き勝手に弄ぶ。知ることだけを喜び、次なる原因を動かさずに変化(責任)を避ける時、そこから、嘘の原因は動き出す。

11/09

9.嘘の原因を力に、心無い現実を生きる人たちに支えられる、伊勢神宮。それも、そのはず。それは、壬申の乱の遺物のようなもの。極上の嘘人、大海人皇子(天武天皇)の戯れ言が形になった偽書(神話)の中身が、そのまま、伊勢神宮の本質(不気味な存在意義)。人々は、権威・権力の結び付く嘘を信じ込まされ、その力を無くした思考と感性の中に、呪術世界の住人たちの妖術は、自由に入り込む。伊勢神宮は、壬申の乱での残酷非道の原因を、その妖しい力とする。

健全な感性を普通とする人は、出雲大社も同質であることを知る。その中身は、秘密裏に運営される、呪いの館。妖術・呪詛(+秘祭)三昧の、蛇系の遊び場。大蛇級の伊勢神宮に守られ、好き放題人の感情を弄ぶ。(妖しさと醜さと事の隠ぺい度では、伊勢神宮を上回るが…)

それも、これも、歴史ビル2階の頃の負の遺産。地球自然界が最も悲しむ、非生命的な現実。そのために、永いこと生命としての人間を生きられなくなってしまった、この国の人々。この「歴史の芯」を、生きる力の材料とする。そして、さりげなく、あたり前に、未来への責任を生きる。仏陀も道元も、大友皇子も、この現代に新たな生を経験しているから、この今を、ムダにしてはならない。歴史の芯に触れ、動く自分は、そのまま、未来の喜びである。

11/08

8.その仏教の神髄とも言うべき、仏陀の原因の普通は、かつて彼と共に生きた、現代の道元の中から、力強く具現化する流れに乗る。仏陀は、この国での人間経験が僅か(2度目)であることもあり、今回も、基本は支え役である。この国の、いくつもの時代に生を持ち、そのいずれの時も真を生きた彼女(道元)ならではの経験が活かされるよう、彼は、道元の今を応援する。この「仏陀の心」が次へと進む度に、彼女の心は軽くなり、彼は、そのことによる安心を、力に変える。

繋がる先の未来の風景を想う時、そこにも道元は居て、仏陀も、一緒にどこかに居る。この国は、未来に向けたその原因においてはとても重要な鍵を握る場所であるゆえ、彼女は、その時まで、自由に何度も生を生き、彼は、三度目の日本人を生きる。そして、「仏陀の心」の時を、共に振り返る。そんな風景を想う。

永いこと抑え込まれ、自由を奪われていた、原因を生きるという、人間本来の普通。仏陀の前の生の時から始まったそれは、3000年の時を経て、力を取り戻す。その、人間本来が全く力無くなる程の負の原因の蓄積が、段階を追って確実に変わり行く(得る)ためにかかった、気の遠くなるような永い年月。でも、原因の世界から眺めた時、事はキレイに流れ、全ては、上手く行っている。人間の歴史を余裕で観るようにして変化し続けた生命の歴史は、仏陀を通して、その原因が力強く動き、道元を通して、その動きは具体化する。全ては、予定通り。そして、3000年の休み時間は終わり、ここから、新たな時が始まる。

11/08

8.未来地球のために在ってはならない滞りの象徴である、この国の神社は、その形無き負の原因の力(呪術系の影響力)で、心ある風景の誕生を尽く抑え込み、人としての、生命の変化を阻止し続ける。その、くもの巣のように張り巡らされる神社の中心的存在である、伊勢神宮。そこは、呪詛・呪縛の能力を重宝していた、かつての非道な権力者たちの強力な後ろ盾となり、そうとは思わせない印象を作りつつ、狡く、巧く世を病ませるためのその燃料源となる。

この国が、人知れず病みの原因を放出し続けるその土台となる負の出来事は、歴史ビル2階の時に在り、そこでの最も恐ろしい人間経験が、非人間性(呪術)の具現化となる、壬申の乱と呼ばれる争いである。それ以降、現代まで、人間は、人としての基本形を放棄した、心の無い人生(時代)を連ね、気づけば、嘘の原因に支えられた、成長・進化とは無縁の退化の時を、その自覚もなく(それをあたり前に)生きる。そのことを知り、新たな原因を選択・実践する人が、未来に、この今を運ぶ。そのままではいられないことの原因は、その重たさゆえに、届く場所を持てず、次第に姿を無くしていく流れに乗る。

歴史の芯は、一足先に、未来に居る。心ある人たちの原因の通り道を、広く、大きくし、沙(淘ぎ)と羅(連繋)の仕事を余裕で行う。ここから、更なる次へ。この今ほど、太陽と地球が喜ぶ時は無い。

11/06

7.人の生死を扱う専門職が、僧ではない。死後の世界をテーマとする教えも、仏教本来には無い。

仏教の本来は、人に、結果を求めさせず、原因を生きる人としての普通を、自らの在り様を通して人に伝え、その人を通して次なる風景に伝わる姿を、見守り、支えること。そこに在り続ける(変化の)原因がムリなく成長するためのその力添えを、自らの原因で行うこと。そこでは、生きることの本質が、そのまま本来であるゆえ、生きるための何かが力を持つことはない。支配(所有)欲も執着心も、居場所は無く、優越心も差別心も、そこに感情を働かせるそのことが、人には難しい。そんな心ある風景の原因でい続ける人たちのお手本となるような人生を生きる、僧。その様が、仏教と言える。

僧は、争い事の原因を知らず、不穏な関わりや不自然な事の流れを放って置ける経験も知らない。常に、自らを通して引き寄せられ、生み出される、友愛と調和、余裕と安心。その普通の中で、人は、生と死への感覚的理解を自然と成長させ、普通に生まれ、普通に死を迎えるその生の中での、人としてのあるがままを、その原因のところから変化に乗せ、次に繋ぎ続ける。人は、平和の意味を忘れて、あたり前に平和を生き、病むことのない時を、健全・健康に生きる。その風景を、さりげなく自然体で支え続けるのが、僧であり、そのことが、仏陀の原因との融合を普通としていることの証となる。

11/06

7.恐ろしく危険な呪術世界のその中心に居る存在(女性)を伴侶として迎えることになる経験を通して、大友皇子は、何を以てしても、どうにもならない厳しさの受容を強いられる。欺瞞と裏切り(偽善と謀反)を愉しむ呪術繋がりの存在たちに囲まれた彼は、それでも真を貫き、悲しみの風景を積み重ねられても、人間としての普通を大切に生きる。その姿を毛嫌いする術使いたちは、彼の脳(右脳)と形無き本体に、残酷さの極みとなるような呪い(呪縛)をかけ、どこまでも(次なるどこの生でも)付きまとい、彼の自由な動きを抑え込む。

ところが、彼らは、歴史的誤算を生じさせてしまったというその自覚もなく、そうである経験を残す。それは、大友皇子の幼子を、取り込まずに放って置いたこと。彼の本体の意思(性質)を呼び覚まさせず、そのままにしたことで、その脳は、父が主導権を握る(原因の)融合によって、多大な影響を受け、その未来のこの今の風景で、それは(その時の経験の記憶は)、無有日記に活かされることになる。限り無く中庸でいる本質を備える、大友皇子の切なる意思は、「仏陀の心」の時を、その時とし、かつての幼子の今の姿を、新たな変化の原因として引き寄せて、呪術絡みの負の連鎖を多次元的に浄化し得るその機会とする。

11/05

6.本体と本人(身体)が違いを見せなくなる程の本来へと、人は、人間時間を通して、自らの生命の意思を成長・進化させていく。それを、自らの姿で伝え、繋ごうとした仏陀。そうにはならなかった原因を浄化すべく、それまでの負の連鎖を砕き得る更なる原因を、そのまま文字にした道元。そして、その全てがひとつに繋がり、癒される、「仏陀の心」の時。現代に生きる二人の中で、地球自然界の鼓動が連動する程の、生命の意思が息づく。

心と思考がひとつになれない理由は、誰にとっても要らないものであるから、その気もなくいつのまにか潜めてしまっているその原因を、深くから浄化し、取り外すために、この「仏陀の心」を自分と重ねる。本音(本心)と建て前(体裁)を使い分けられること自体、人間としては退化の現れであるから、そうではない時の原因の選択を連ねるために、この「仏陀の心」から、生き直しをする。生命としての人間の普通を遠ざける要因は、結果に留まり、過去に居続ける、重たい記憶(知識)。「歴史の芯」と「仏陀の心」は、本来へと向かうのではなく、本来から始まり、そうではないところを次々と削ぎ落す、生きる原因の道具。本体は、本人の、生命としての変化を、何より嬉しい。

11/05

6.その存在の異様な能力の源泉は、元々のその本体の、他には無い独特の性質を原因とするが、歴史ビル1階の頃に経験した、放射性元素を密度濃く含む鉱物のその原因との融合は、それを(その力を)一層強力にし、人が想像し得る次元を軽く超えた影響力を持ち得る姿へと変化させてしまう。

同質他の存在たちが接触するのを控えた、余りに凄い反動・反発を引き起こす鉱物(水晶)との融合を通して、その存在は、自然と他とは違った立ち位置を手にすることになり、いつしか、中心となって、他への負の原因の供給元のような仕事をするに至る。その時、その存在の分身のような役割を担う、黒褐色の不気味な水晶。それは、歴史ビル2階の時、現在の伊勢神宮の在る場所辺りに、人知れず(隠されるようにして)収められる。

(危うい本性のままに世を病ませ続ける蛇系の存在たちの、伊勢を重要視するその理由が、ここに在る。暗黙の交流を重ねつつ、彼らは、そこから、停滞と破壊(残忍さと凶悪さ)の原因を手にする)

神社(神宮、大社)は、どこも、呪術の原因と繋がり、それを普通とする存在たちが、そうではない健全な人たちを支配する、その見えない力の源となっている。鳥居やしめ縄(垂)もその道具となり、人は、歴史ビル2階の頃から、そうとは分からない不自由さの中で、勘違いのままの嘘の自由と平和を、延々と生きることになる。

11/04

5.真の外れた仏教が、死後の世界に比重を置いたのは、苦しい生活や命の犠牲という、権力によって生み出される悲惨な状況に対して、人々に何の疑問も抱かせず、やむ無きこととしてそれを受け入れさせるため。そこでは、自分たちの後ろ盾となる有力者(支配・権力者)のための浄土思想が流行り、如来や阿弥陀仏も拵えられる。当然、民(人々)も、それに従わされ、死後の安楽のためにと、経験しなくてもいい苦しみと痛みを、ただただ受容する。

そのからくりは、権力による庇護のもと、正当なものとされ、現代に至っても、恐ろしく未熟で低次な世界(宗教)では、欲と力のために、それは行われる。そこまで、仏陀の真を翻し、仏心ゼロのまま、仏教を弄ぶ僧たち。死後の世界の学びとそれへの対処に忙しい仏教は、邪教という言葉の次元にさえも加われない。

11/04

5.その存在は、現代、普通の男性としての生を生きる。7世紀に、彼の周りで好き放題世を病ませた人たちもこの時に居て、その頃を大きく上回る力を発揮する彼の元、争い事(人生の奪い合い)の無いこの耐え難い世を、巧妙に、狡猾に潰そうとする。どの時代でもそうだったように、彼は、どこまでも普通で、誰にもその本心(本性)を見透かされることもなく、常識人を生きる。しかし、壬申の乱の時のその自分の姿は、繋がるこの時の彼の姿を顕にする原因となって、このタイミングで、無有日記で扱われる。それへの対処は、人間の理解の次元を遥かに超えた、未来への原因となる。

これまでのどの時も無縁だった、この今のあり得なさの中に居る、かつて大友皇子の妃だった現代の彼を、多くの心無き危うい存在たちが守る。しかし、歴史の芯の進行と共に、その意図は顕になり、崩され、力無くなっていく彼らの姿を前に、彼は、一層その意味不明度を強め、経験の外側でしかなかった不安と怖れを経験する。そのことで(その反動で)、かつて呪術の足枷をかけられた人たちは、かなり厳しい状況を経験することになるが、それも、要らない経験の類として、次第に後方へと姿を消していく。その存在と、周りに居る人間たちにとってのあり得なさは、時代と、生命たちの喜びである。

(壬申の乱の時、その彼(彼女)を中心に妖術使いとして活躍した、22章のラストの方に登場する女性は、大友皇子の近くに居られる立場を利用して、その力を発揮し、同じ章の初めに台座に居た女性も、大海人皇子の子(高市皇子)と密に繋がり、その磨き上げた術で、彼の残虐行為を支援する。そしてまた、20章の、狡さ(蛇脳)の象徴であるかの存在も、その争乱の原因には深く関わり、藤原鎌足の側に居て、妖術を全開にさせ、何もせずに何でも手に入れる天皇家の土台造りの時を経験する)

11/03

4.奈良・平安期、権威ある有力者(権力者)たちに保護され、彼らによる(のための)仕事として仏教に携わる僧たちは、表面上は、人々の心を癒す立場を守りつつ、実際は、人々の生活全般を操る支配層のために生きる。権力者たちがこの上なく喜んだのは、僧侶たちによる、死後の世界の扱い。僧は、自分たちにも全く分からない(分かるはずのない)その世界を、まことしやかに描写し、嘘を並べ、思考では決して触れ得ない次元のそれを、まるで自分たちの特権のようにして扱う(嘘芝居を演じる)。人々は、彼らの言う、浄土や成仏の概念を信じ(信じ込まされ)、辛く苦しい生活をどうにかする(どうにかしてもらう)よりも、死後(生まれ変わり)に望みを抱くようになる。そのおかげで、支配層の存在たちは、人々に犠牲を強いやすくなり、彼らの人生(命)をどんな風にでも扱える愉しみを手にする。それは、鎌倉期になっても続き、普通に生きる素朴な人たちは、僧の二枚舌に付き合わされることになる。

時間や善悪の概念も、生と死の経験も通用しない、多次元的な形無き意思世界(死後の世界)を、人間の、思考型の思惑で捉えることは、永遠に不可能であるのだが、そのことを感得する機会を持たされない人たちは、その普通では知り得ない世界を知っていると言う存在の、その神妙で奇特な言動に、否応無く引っ張られて、洗脳状態となり、そこでの内容を、人知を超えた真実として受け入れてしまう。権威を持つ僧侶の中に、妄想癖のある自信家が居れば、天国も地獄も、好きなだけ形になる。それは、平安・鎌倉期に、多くの偽僧の嘘の道具となる。

11/03

4.本性(本体)の密度は、限り無く濃く、その姿(形)は、誰も感知出来ない程小さく、そして、そこでうごめく異様で不気味なその性質は、どこまでも負の影響力を巨大化させ得る意思を備え、それを守り続ける存在たちの醜い感情を、絶えず後方支援する。その力は、ひとりひとりの否定感情の(具現化の)質をより凶悪化させた、鉱物(水晶)関わりの経験も手伝い、余裕で事を進め(進めさせ)、思考そのものが呪術の力となるような彼らの普通を支えつつ、人の世を牛耳る。完全なる静でありながら、完璧な動の仕事をする、その存在。他に一切の違和感を抱かせない、全てが普通であるその姿で、何もかもが異常となる原因を、中心から他へと流し込む。彼(彼女)を中心に、転生先も、そこでの関係性と事の大筋も、自然と整い、動き、実行される。

その存在は、壬申の乱の時、珍しく(不要にも)歴史に名を残す。それは、大友皇子の妃となった女性(大海人皇子の娘)。そこでの一連の出来事は、何喰わぬ顔で普通の女性を生きる彼女の、その形無き働きかけによって力を手にした蛇系の存在たちの、悪行三昧の様。彼女の妖術(呪詛)の威力は、人生を瞬時に狂わされてしまう程の、恐ろしいものである。それが、ここで形になり得たということ。歴史の芯も、ここまで来れたから、ふと気づけば、それは(そのことの描写は)普通となる。

11/02

3.それ程恐れられていた、仏陀の本質とその原因。心の無い支配層は、仏教を悪用して、権威や形式を作り、人の暮らしを動きの無いものにしていく。生きることに精一杯だった人々は、不安や苦しみの原因(理由)に意識を向けることもなく、仏教にすがり、ご利益心を高めていく。そして、永いこと、この国は、偽りの僧(偽僧)により、仏陀の真が外された嘘の仏教を正しきこととして生きることになる。

それは、どこまでも盤石であるはずだったが、仏陀が再度生を持つ鎌倉期に、思いがけず、ひび割れを生じさせる。当時の社会の混乱振りにそれが象徴されるように、彼の、この地での転生(の原因)は、想像を大きく超えた反動をもたらし、この国の仏教の、無くてもいいその不穏な原因の世界に、それまでにはない緊張を強いることになる。仏教は、彼の子によって、再スタートを切る。

(彼が、釈迦牟尼としての生を選択した時、西欧のある地域でも、同じように緊張が走る。そこでは、原罪と博愛(献身)を基とする偶像崇拝の流れが生み出され、苦しんでいる人の存在を前提とした、結果(形)重視の教えを最高のものとして、仏陀の原因との融合を退ける)

11/02

3.そこに集団があれば、そこには中心となる存在が居て、どんな性質の繋がりであっても、そこに方向性を同じくするものがあれば、その中心には、そうであるべき存在が居る。しかし、その殆どは、形ある感触の域であり、経験の枠内でのこと。人としての変化を止める原因が、そこでの繋がりの基礎となる時、そこには、全く次元の異なる中心が存在する。

健全さの原因とは無縁の、心無い感情を普通とする人たちは、その殆どが、その性質の原初的存在たちによって育まれ、支えられて、今尚それをそのままに存在し得るわけだが、7世紀頃のこの国では、それよりもずっと前から(転生を繰り返して)獣同然の悪行を重ねてきた100人程の存在たちが、病み世の中心辺りで、世を不穏に、悲惨にさせている姿がある。

その場合、どの時代でも、彼らには中心となる存在が居て、ひとりひとりは、その存在が居るから為し得る凶悪・凶暴な行為を以て、その存在の姿(正体)を守り、決してそこには触れさせない力で他をそこから隔て、遮り、自分たちだけの負の連鎖を維持し続ける。中臣鎌足の本性が、大化の改新のその原因に深く絡めたのは、その時、彼らの中心に居た、どこから見ても普通の、他にはそうとは思わせない強力な負の燃料源となる人間が、それまでと同じように、そのままで、限り無く異常な仕事を自然にしていたからである。彼は、自分にしか出来ない役を通して、同質の存在たちを活かし、その中心に居て、(人にとって無くてもいいはずの)異常な現実が生み出される時代環境の、その基になる。そのことは、人間の知の次元には無い。

11/02

2017

二度と通らなくてもいい場所をはるか後方に置くために、二度、三度と通らされた道もあったけど、そんな中でも、なぜここまで…というぐらいの重たい場所が、今、かすかに後方に移動し、そんな時が来たのだと、ふと力が抜ける。

自然界の生命たちが、嬉しそうにこちらを見ている。これまでのように歩み続け、これからもずっとそのままでいてくれるその姿に、彼らは安心する。さて、ここから。みんなで、アホモード全開で行く。

 

10/31

2.この国においても、争い事を好む残忍な人間たちは、仏教がこの地に伝わる時に備え、そのための(それを形骸とするための)策を講じ、実行する。それは、歴史ビル2階の時に始まり、権力を笠に着る祈祷師や霊媒師(占い師)たちは、巧妙に僧を仕立て、彼らを、人々への影響力を持つ尊い仏僧として位置づけ、活躍させる。

衆生済度も如来も、涅槃(解脱)も因果も、そして、浄土(極楽)も阿弥陀も真如も皆、そこでの嘘の原因から生み出された、言葉(思考)のお遊びである。仏陀の真からは大きく次元の異なるそれらは、人の心の成長を止め、自らの原因(無意識の意思、本体の性質)への責任を放棄させる。差別や優越、支配や権勢の道具となるそれらの嘘の力により、仏教は、仏教ではない道を進む。仏陀の切なさが伝わる。

10/30

1.太陽の優しさは、どんなことがあっても地球を守り、支え続けること。地球の健気さは、そのことに頼らず、けんめいに生きること。仏陀の心は、太陽のよう。常に中庸でいて、存在の全てで、他を生かし続ける。人の内なる意思に反応し、望むべく変化の機会を創り続ける。そして、自然界と人間世界を融合させる。

そんな存在が人間としての生を経験し始めた時、人間世界は、緊張する。その頃は、どこの地域でも争いが絶えず、力のある人間が他を支配し、人間らしい空間が侵され出していた時。非人間的な感情を普通とする人たちは、自分たちの本質(本体)が刺激され、その本性の遺伝子が生命本来のそれではないことが、仏陀の原因に触れることで顕になることを怖れ、彼らは、その原因を力無いものにするために手段を講じる。それは、仏陀の死後、本格的に行われる。

その存在たちは、思考を全開に、次々と形を残し(繋ぎ)、実を外した嘘で、仏陀の形無き原因の力をがんじがらめにする。彼を、悟りを開いた特別な存在として神聖化する(崇める対象とする)ことは、そこに在る普通を歪め、彼の真意の伝承を阻止するには格好の材料となる。

10/30

2.この国の、病み世の土台となる歴史ビル2階の時の主要な存在たちは、現代、身近な縁として、密な関わりとして、そして無有日記繋がりとして、必要な時に、必要とするEWが容易となる場所に、それぞれが居る。それは、22章での経験をその原因とするのだが、その頃と今を、無有日記の元となる多次元的な原因で繋ぐと、当然、大化の改新の時の存在の今も、手に取るように把握でき、その時(その必要性が生じる時)を今とするこの時に、彼らの原因の性質(本質)は、必要なだけ、どこまでも顕になる。

人間的な感性を持たない、鈍感で未熟な精神の中大兄皇子は、その存在が、嘘の原因そのもの。内に固めた、怯えと怖れの感情を力に事を進め、権威で人を抑えて、人々を自由に動かし、苦しめる。今回は、無有の身内。その本質と思考の性質は、同じままである。

彼のその嘘の原因を具現化させるのを得意とする中臣鎌足は、凶悪な冷徹さと、残忍な冷静さを備える、毒々しい(毒蛇のような)存在。心を持たず、人の心を忌み嫌う、非情を地で行く彼は、現代、大阪近郊で、気づけば、無有日記の原因に包まれる(囲まれる)。

(中大兄皇子の母親(斉明天皇)と、中臣鎌足の子(藤原不比等)の二人は、どちらも、腐りきった妖術畑の、蛇〜級の残虐優等生。現代においては、近畿にて普通人を生き、無有日記の原因の具現化において最も重要な存在の、それぞれの本体のその中枢を牛耳る程の凄腕を発揮する)

10/29

1.7世紀頃には、後にその質の修復が到底為し得ない程の、重量級の負の出来事が続き、そのどれもが、続く時代を難無く病ませ、非情で、非人間的な歴史を連鎖的に連ねていく。

現代人の多くが、この国の政治の成り立ちの基礎となる大切な出来事として、大化の改新を、その知識とする。しかし、そのことを、残された文献の類に頼った形ある結果としては捉えず、成長し続ける自らの原因を通して、そこに居る人物の形無き原因(本性、人間性)と、そうであるべき理由となる背景の性質を感じ取ってみると、それは、この国の人々にとっては無くてもいい経験のひとつでしかなく、人間としてあるまじき蛮行がそのまま政治の礎となった後の壬申の乱への、狡く、巧妙に重ね合わされた負の原因の堅固な繋ぎ役であることを知る。

誰にもそうとは思わせない嘘の原因の力は、あらゆる手段を講じて、その時々に通用する期間限定の正しさを作り出し、洗脳されたままそこから出られない人たちに支えられた(支えさせた)嘘の正しさを原動力に、次なる時代も、同様にそれを続け得る力を得、どこまでもその嘘の原因をそのままに、そうであろうとする。そしてその嘘の原因は、いつまでも浄化されることはなく、そのために人は、本当(本来)を生きることも出来ずに、その世界発の、繋がる(広がる)ことのない安心と安定を良しとする生を普通としてしまう。

10/28

8.道元の心を感じると、同時に、仏陀の心とも繋がり、仏陀の心と繋がると、この国に生きる一人間として、道元の心の意思のその純粋さに、心深くから嬉しさを覚える。道元が道元で居てくれたこと、それは、この国の貴い財産である。

心ある風景の原因を育み、成長させる仏教。そこには、直線的な思考は存在できず、向かい、求める感情も入り込めない。権威的な言説(法話)も、仏教は望まず、形(行為)から始まる行の類も、仏教には無い。いつ、どこに居ても、心に正直でいて、未来が喜び、地球(自然界)が安心する原因の選択を、さりげなく実践する。争いも病気も無い未来を思えば、自ずと価値観は、人間本来のそれとなり、地球のためになる原因を心に重ねれば、不安も居場所を無くす。そして、仏陀と道元二人がほほ笑みを交わす光景を想えば、何をするわけでもなく、みんなにとっての何かが空間を包み出す。その何かは、彼らの優しさであり、愛情である。

仏教は、仏陀の教えではなく、仏陀の普通。それは、(仏陀が伝えたとされる)教えから始まるものではない、生きる原因の、(彼の)望むべく在り様そのもの。この国では、鎌倉期の道元から、その仏教は始まる。それまでのその(歪な仏教の)原因の修復に徹した彼の経験により、仏陀(父)は安心し、仏教は、永い空白の時を経て、本道に戻る。そして、今、彼らの想いを形に、無有日記が、その原因を未来に繋ぐ。この章を通して変化に乗る人たちの手で、仏陀の心は、次の時代に届けられる。

10/27

12.7世紀、権力を持つ存在の多くが、自らの非人間性を力に、非道で悪質な政を行う。彼らの殆どは、何らかの形で呪術と繋がり、そこには、黒褐色の(放射性元素を含む)水晶が在る。それは、神道や密教の裏側に隠され続ける。壬申の乱の下地を作った中大兄皇子(天智天皇)も、その本質(右脳)は、凶悪さのそれである。そして、その近くに居る、他の呪術師の次元を大きく超えた、恐ろしい力の持ち主。それが、彼の妃(大友皇子の母親)である。

彼女は、それよりずっと前の時代から、大友皇子となる生命の意思(本体)に執拗に密着し、彼の人生の全てを妖術で支配し、苦しみの時を演出する。中大兄皇子となる意思の存在もそれに協力し、大友皇子の普通とその生命力(意思の力)を潰そうとする。両親に(異母)妹、叔父に従妹、義理の母etc.、壬申の乱よりも何年も前から、大友皇子の周りには、彼を陥れ、その命を弄ぼうとする妖しい存在たちが集まる。彼と共に生きる心ある人たちは、辛く、厳しい時を過ごす。

その後の時代でも、強力な呪術で彼の意思表現を抑え込んでいた(大友皇子の母親であった)女性は、当時と同じように現代でも、彼を子として引き寄せる流れを固めていたが、夫となる予定の(協力者となる)人と出会うその前に、22章で凶悪な存在たちに命を奪われたかの男性と出会い(出会わされ)、その男性を、どういうわけか子の父親として迎え入れることになる。そして始まる、無有日記の原因と連動したEW。そして、この歴史の芯。壬申の乱の頃の主要な人物は皆、容易に把握し得るところに居る。嘘と呪術と権力で固められた、この国の負の歴史の堅固な土台となる、歴史ビル2階。それを、確実に、余裕で崩す。

大友皇子と共に居た経験を持つ、心ある人たちが、繰り返し右脳の中に染み込まされてきた、放射能のような力を備えた妖術による、恐ろしく強烈な負の(無生命化の)原因。それが、左手本来の自由な動きと、その放射性絡みのEWによって浄化されることで、これまでの全てが、これからへの望ましい原因のそれへと質(次元)を変えていく。この時をずっと待ち望んでいた、自然界の生命たち。太陽は喜び、地球は安心し、歴史は溶ける。2017年秋、「仏陀の心」を通して流れる、現代の仏陀と道元、そして、「歴史の芯」がここにその本来を甦らせた、大友皇子。彼らと共に、人は、人間らしく、生命を生きる。ここから、望むべく更なる次へと歩み出す。

10/27

11.その意識もなく世を病ませ、そうとは分からせずに人が苦しむ姿を喜ぶ人たちの、その心の無さには、脳内に特徴がある。それは、かつての経験の性質を残す(繋ぐ)右脳の部分に、恐ろしく非道で残忍な感情の原因を、密度濃く固めて潜めているということ。それゆえ、左手を使った(左右を同じように使う)動きを嫌い、右手で生み出すものは、滞りのそれである。

彼らは、元々心が無いから、そのような状態でいるわけだが、右脳に動きの無い否定感情を蓄積させたままでいることを普通とするので、当然、心や感性といった感覚的な世界は、意味不明となる。そして、覚えたこと、教えられたことだけを頼りに、左脳だけで生き、言動の全てに、右脳に在る重く流れない(粘着質の)感情の原因を乗せて、空間や関係性の主導権を握る。

左手本来を活躍させるというのは、そんな存在たちによって染み込まされた要らない負の原因を動かし、浄化するためであるが、それだけではなく、それによって彼らは、言いようのない不安定な状態になる。それは、空間の流れのその原因が健全へと向かうことで、彼らの右脳が不要に刺激されるということ。その状態は、彼らにとっては、どんなことがあっても避けたかったこと。世を病ませる原因が流れさせられることは、あり得ない事実となる。

人の苦しむ姿を快感とする人の右脳は、かつての戦や争い事で、他を潰し切るための悪質な感情を繰り返し溜め込んだその(原因の)記憶が現代にまで繋がり得ているため、不健全な感覚と、心ある原因の無さは、普通となる。その普通が広がり出すことで、本来の普通は壊され、その異常な状況の蔓延により、心ある風景の原因は、力無いものになる。そこから離れ、その場所が姿を消す時のために、この歴史の芯がある。

現代、世を病ませ、心ある人々の本来を人知れず抑え(潰し)続ける人たちの多くが、大海人皇子(天武天皇)や持統天皇繋がりと思ってよい。彼らは今、政治や経済、教育やスポーツの世界で、人の意識を引っ張り、人の動きを自由に操る。その原因を、この場所から浄化する。(当時、姉妹で共に妖術に長けた、大海人皇子お気に入りの現代の政治家×2は、この時期、誤魔化しようのない状態になる)

心無い人の背景とその原因を知り、心ある原因の時を、余裕で生きる。心の無さが通用してしまっていたその原因を知り、心ある風景を皆で創り続ける。全ては、ここから。何もかもが上手く行っている。23章がここに在る事実は、これまでの負の原因が確実に浄化され続けて来ている現れ。難しいことは何も無い。ただ、未来の地球自然界が喜ぶ原因を生きる。これまでのように、これからもずっと。

10/26

10.「歴史の芯」を通して認識することになる、これまでの、どの時の、どの場所にも無かった、この世の真実。それは、形無き意思世界で支配力を強める存在によって作られた、本来無くてもいい偽装空間の、その性質の反映(投影)として、人は、その意のままに生きているということ。

元来、人間には、死後の世界というものは無く、形ある身体時間も、そうではない時空での経験も、ひとつとして生きる。心は、その全てを伝え、伝わるそれを通して、人は、心を通わせ、交流する。

それが、心無い存在によって無くてもいい経験をさせられる中、人は、未消化の感情をそのまま溜め込み、心の自由とその力を失くし、ひとつであったその存在の性質は、過去に居続ける(付き合わされる)流れない原因と、次なる時に繋がろうとする原因の二つに分けられ、そのひとつ(前者)が、牛耳られてしまう。そして、人は、心が主導権を持てなくなり、その気もなく、不自然・不調和の原因を併せ持つおかしな時代環境を生み出すことになる。それは、この今に至る数千年間、続けられている。

歴史は、次なる原因となるこの今に自然に溶けるものであれば、それなりの意味を持つ。しかし、それが、過去に居座り、動きの無い結果として溶けずにあれば、それは、地球環境(連なる時代)の負の原因となり、人間世界を容易に病ませる力となる。

その負の原因となる力の源が、本来無くてもいいその偽装空間である。そこは、無生命化の意思が好き放題暗躍する、変化とは無縁の、生命世界の異物。歴史の芯は、その世界が浄化され得る時の、その原因となる体験を、人に促す。自らと重ね、実践し、それを普通とすることで、人は、人として生きることを初めて経験する。

人は、生命を生き、人間をやる、この地球に住む、一生命。要らない経験と嘘を外すことで、自然と時は変わり、真は、力を取り戻す。「歴史の芯」から「仏陀の心」へ。人の心は、数千年振りに、成長の時を経験する。

10/26

7.抽象的で多次元的な感性が、人としての基本要素であることが分かると、現象世界を形ある結果として見ることがなくなり、そこに在る形無き原因への責任をあたり前に、そこに引き寄せられ、生み出される次なる風景の原因として、それらを見ることが普通になる。そして、人の真は原因であり、それが本来であれば、人も社会も自然環境も、病むことはないことを理解する。

その原因の大元となる世界(原因)が本体であり、前の人生での経験の性質であるわけだから、その本体の浄化と人間時間における原因の成長が、この時、最も重要であり、それ無しには真に生きることも出来なくなることになる。それへの感覚的理解は、これまで正しいとされてきた嘘を外し、常識とされる歪な普通から離れることで、その質を確かなものにする。

その本体の浄化には、仏陀の普通との、その原因のところでの融合が鍵となるのだが、そのことを、大和・飛鳥(歴史ビル2階)の頃から、本能的に把握していたのが、道元である。彼は、前の人生から、すでに仏陀を生きていたと言える。仏陀と同じ、縁ある人の本体(本質)を浄化し得る能力を持ち合わせる彼であるが、そう簡単ではない時代環境が連なる中、鎌倉期の道元は、未来に繋ぎ得る仏心(真の普通)の、その原因の成長を優先させる。それは、禅の本質であり、その時代の必要性の、唯一の姿である。責任ある原因を生きる時、人は、禅の中に、仏陀の普通を見、真の仏教が、その中を通って現代に届いていることを知る。

10/25

6.仏陀の一つ前の人生を余裕で感じられると、後に(身体を離れた後に)仏陀としての生を選ぶその手前の空白(実際にはその概念は無いが)の間の彼の本体にも、微妙に反応できるぐらい、その人の感性は進化している。その時、身体は、これまでのような疲れ方からは縁遠くなり、簡単には病むことのない精神が、心とひとつになる。仏陀の本体という、限り無く精妙で、力強い、自然界の意思そのものの彼の生命力との繋がりは、思考をいつも健康に、自由にさせ、生きる原因の力を、その自覚もなく生命本来に重ねて成長させていく。不安や怖れといった、結果発の感情も、そこには近寄れなくなり、気づけば、何かの裏返しでもなく、求めるものでもない、ありのままの安心が、心身を包み込む。仏陀が切に望んだのは、多くの人のまさにその体験である。それだけで、生み出される現実は、その原因のところから、あたり前に仏心を備える真となり、正しさとなる。

かつての身体時間と、身体を持たない(持つ前の)時間無き時間の二つをひとつに、それを次なる人生の(土台となる)大切な要素として感じ取るという、通常ではあり得ない感覚体験。その難しさも、ふといつのまにか、理由を必要としない安心と余裕の中に居る自分を通して、それが普通に生じることを学ぶ。難しさやあり得なさから始まるのではなく、そうでは無くなっている普通の時から始まる、原因の性質の成長。それまでが、ここに溶け、それが次なる時を創造する原因として動き出す、生命のままの人間の仕事。仏陀の前を見る経験は、すでに自らも仏陀であることの証である。彼は、その原因の普通を、何より喜ぶ。そして、その普通の前に、神や仏という言葉も要らなくなる。

10/25

9.放射性の物質は、それぞれの性質は違っても、本質はほぼ同じで、それは、自然環境や身体細胞(脳)に強弱様々に影響を及ぼすものである。ところが、7世紀後半辺りから勢いづいた、(放射性元素を含む)鉱物絡みの呪術は、それへの抵抗力を強める結果を導き、人体に害のあるものでも、自分には何でもない人間を増やしていく。感情や意識も然り。彼らは、人が抱くことの出来ない残忍さや凶悪さに平気でいて、細胞が辛くなるはずの差別心や憎悪を普通とする。

争い事の絶えない時代を連ねる中、新しく人間を経験し始める(初めて人間を経験する)人たちの殆どは、その不穏で非人間的な風景を生まれながらに馴染ませ、健全さからは程遠い身体表現を、嘘と暴力の原因の中で普通に経験する。その数は、どの時代でも多数を占めるようになり、そのことで、人としての変化・成長とは無縁の負の原因は強まるわけだが、それは、呪術世界の災いの原因と、人としての本性が密に繋がり、融合するということである。それはまた、放射性物質とその本質を同じくする感情を備える人間が、そうではない心柔らかな普通の人の心身に負荷をかけて、生きにくくさせるということ。大海人皇子関わりの呪術師たちを通してその危うい原因を取り込んだ存在たちは、その後の人生でも、感情をまるで放射能のようにして扱い、真の正しさや本来の普通に対して無感覚な人間を作り出していく。

現代、大多数の人たちが、自然界に生きる生命たちが悲しむLEDに何の違和感も覚えないのは、そうである原因を普通に何度も人生を生きてきた彼らの、その不気味な本性と非生命的な本質のためである。つまり、壬申の乱後、時代は、次々と人間らしい人間を失ってきたということ。それゆえ、本来であれば普通に反応するLEDの本質とその成分(放射性元素関わりの発光体)には何も感じず、それによって動植物や心ある人たちが辛さを覚えて苦しんでも、どこまでも他人事である。(LED照明とそれに汚染された水によって、あらゆるものが腐り、劣化しても、彼らは、それに無感覚である)LEDの恐さは、人の脳に負荷をかけて、その動きを止める、かつての呪術の原因と重なり合う。LED照明は、停滞と破壊の意思を内に潜める人の、その残忍さによる普通である。

彼らの不自然・不調和への無感覚は、彼ら独自の非人間的な健康体を支え、そうではない人たちの動きにくさと生きにくさを生み出す。彼らの不健康・不健全な物への違和感の無さは、彼ら独自の歪な価値観を支え、平和の原因を潰して、形ばかりの平和への願望を自らの生きる力にする。そして、健全さを普通とする本来を生きる人たちは、やむ無くそれに付き合わされ、心身を病ませていく。

この無有日記の原因とムリ無く融合し、その世界の普通を自らに重ねて実践する人は、要らない経験の全てから自由になるためにも、放射性元素(の本質とその負の力)の世界をテーマとしたEWを、余裕で行ってみる。それ絡みの性質(滞り、退化、破壊の原因)は、脳にも心身にも、形無き本体にも、際限無く染み込んでいる。そのための、理由の分からない辛さと怖れ、どうにもならない不調と痛み。その時、主人公は、左手である。右手の先に、自然界が安心する本来の普通世界を引き寄せ、それと力強く自然に繋がるためにも、左手に、この時ならではの生命の仕事をしてもらう。そして、右手に、思う存分、想いを具現化してもらう。そのプロセスには、この無有日記が寄り添う。この23章が連れて来た旬のEWで、この時代は、みんなを通して、次なる全ての時代の、生命としての確かな原因となる。

10/24

8.乱れ行く世の原因を浄化し得るその生命の意思は、形無き本体に強力な負荷(呪術)をかけられながらも、大友皇子の生を手にし、優れた才知を具体化する。(その手前では、そう仕向けるある存在の意図があるが…)心ある人たちは皆、彼を慕い、共に居られることを喜び、みんなのための仕事をして、皇子を支える。

彼の普通が、大海人皇子の異常な世界に汚染され、潰されたことで、世は、尽く自浄力を無くし、心ある想いが異物(異端)とされてしまう程の、悲しい歴史を刻む。近江の地でのその時は、大勢の心ある素朴な人たちが、脳をおかしくされたまま(呪術で心身の自由な動きを抑えられたまま)人生を終え、その後の人生でも、彼らは、そのことに苦しみ、厳しい時を生きる。そこでの悲劇は、幼子までが皆湖沖で命を絶たれるという、恐ろしく惨いものである。大海人皇子は、殊の外、それに満悦する。

現代、かつて大友皇子と推古天皇であった存在の二人が、合流する。彼の近くで仕えていた少女の経験を持つ彼女の形無き原因の支えにより、彼は、ここで、本来の力を取り戻す機会を得る。二人の原因(意思)の融合から生み出されたこの23章。歴史の芯は、爽やかな風を通し、清らかな水を流し、不純物は、姿を無くす。歴史的負の土台の核となる部分が浄化されることで、時は、地球が喜ぶ原因でい続ける生命の歴史を創り出していく。「仏陀の心」を通して、他の国々の歴史の芯も動き出し、全てが、本来へとその質を変えていく。そんな時に、みんなは居る。

10/24

7.重く、流れない感情で、心柔らかな人や空間の動きを簡単に鈍らせる普通を潜める人は、本性が、変化とは無縁の、停滞と収縮(攻撃と破壊)なので、想いを形に、広げ、流れさせるといった、人間本来の創造と連繋の道具となるはずの(役目を担う)右手に、その水晶を持つことで、一層人間らしい感性を無くし、自らの本性の危うさとその影響力を、増幅・拡大させることになる。

素朴な感性を持つ多くの普通の人が、その影響を受けたままであることを考える時、意外な手法として、左手でそれを持つ想像をし、通り道を解放する(毒出しのような)作用を、自らに促してみる。左手は、感覚的理解の原因を脳に送り込む役も担う。そこにあり得ない現実があれば、あり得ないことを通して、その変化の機会を創り出す。(箸を左手で持つなどして、これまでにひび割れを作ると、脳は、要らない経験の記憶から自由になれる)

人の世は、嘘の原因そのままの正しさを作り出す力ある存在の意向に合わせて生きることが良しとされ、何をするにしても、次へと流れない、「こうでなければ」「そうあるべき」常識によって、人は、その気もなく、生きにくさと不自由さを慢性化させていく。その姿は、非人間性を普通とする嘘の教えや嘘の神(神道)の世界と常に融合している状態であり、遠い昔に経験した(させられた)形無き本体(生命体)への傷が、いつまでも浄化され得ない原因となる。それはまた、引き受けやすく、操られやすいということ。だから、「歴史の芯」と「仏陀の心」を普通に、生きる原因の質を、本来にする。そうはあり得ない理由の世界に、力を与えることはない。常識も正しさも、心(細胞)が悲しむ嘘を外せば、初めから、自分の中に在ることを知る。

嘘と呪術と権力が完璧にひとつに固まり、動き出した、飛鳥以降の、この国の非人間的な歴史。密教色の強い宗教の原因によって、巧く覆い隠された、黒い水晶絡みの恐ろしい呪術は、この23章を余裕で包み込む存在たちの力強いEWによって、その威力を無くしていく。それは、1500年程振りに、心ある人たちが経験する、本来の普通の訪れ。7世紀後半の争いから止まったままの心の時計は、ここで動き出す。

10/23

5.釈迦牟尼(仏陀)の一つ前の生は、その時よりおよそ500年前、同じインドの地で、彼は人生を送る。その時の環境や仕事、人との関わりなど、知ることはない。考えるまでもなく分かるのは、その時代の必要性に応じ、人として、その時々を柔軟に、感じるままに生きたこと。心に正直でいて、確かな原因をそのままに、さりげなく人の心(本質)を癒し、共に育む空間を流れさせていたこと。彼の本体が、そのことを伝える。

生きる原因における全体の必要性がそこにあれば、その時の人生の内容にまで触れ得ることも出来るが、時代背景がどんなであれ、彼は、彼自身を生きる。鎌倉期も、現代も、同じ。時代への責任を普通に、時代の望みに応え、時代に身を預けるようにして、通るべき道を通る。それが、仏陀である。

仏陀のその姿を思う時、人は、同じように生きたいと思う。そして、そのために、彼の本質である本体(生命の意思)との融合が重要であることを理解する。今、それは、自動制御のようにして行われている。その意思を確かに、中庸の原因を生きる人の中で、新たな変化が始まっている。「歴史の芯」と「仏陀の心」に触れ続ける人の心は、要らないものを外しながら、仏陀の心との融合の時を普通とする。

10/23

6.人間が手にすることがなければ、それ程までの悲惨さは生み出されなかったであろう、その黒褐色の水晶は、数千万年の時を経て、近江の地に存在し得ることになるのだが、その妙な色は、地底深くに在り続けた放射性の鉱物の影響によるものである。

人類誕生より、何百、何千万年も遥か昔、琵琶湖は、今の倍近くあり、列島の地形も違っていた。その頃、地球全体は、中心核に向かう重力バランスの(安定化に向けた)微調整が行われ、その一環で、周りの物質の調和のある在り方に強烈な負の力(放射能)を放出する鉱物の類は、地表近くへと押し出され、太陽の力も借りて、その作用は、次々と静まっていく。それは(その巨大な変動は)数十万から数百万年単位で活発に行われ、それにより、地球環境の土台は整い出す。(※無数の放射性物質(元素)の原因となる意思同士がぶつかり合い、融合し、数限り無い化学反応を起こす中、一度切りの絶妙なタイミングに、生命は誕生する。そして、環境が安定するにつれ、それは進化する)

ところが、地球の意思に逆らい、その生命活動を抑え込もうとする、調和とは真逆の性質(意思)を持つ不気味な鉱物が地球内部には在り、それへの違和感からなる地殻変動を経て、その一つが、数千万年前から、日本列島(琵琶湖)の地底深くに潜んだままとなる。(日本列島は、地球の異物であるそれへの地球の反応から生まれたもので、そのため、火山が多く、地震も頻発する)その鉱物の意思が活動的だった時代に、水晶の元となる(珪素を含む)水分がそれにより汚染され、そのまま永い時を経て固まり、形となって、変動による隆起により、それは、近江の国辺りで産出される。それは(その鉱物は)、地球の中に在って、地球(の意思)を無視する意思のかたまり。その水晶は、鉱物と同じ、生命活動を抑え込む(滞らせる)力の原因を持つ、人間が触れてはならないものである。

10/22

4.その普遍的とも言える、どうにも変えようのない本当の姿の性質であるが、限り無く中庸でいる存在の、その本体の意思と自らの生き方を重ねることで、なんとそれが変わり得る可能性を持つという、全く別次元の普通が存在する。別次元というのは、単にこれまで一度もそうにはならなかったための言い回しであるが、ずっとそこに在ったのに、誰も気づけなかったことと思ってもよい。

力の有る人が、力の無い人の人生(命)を奪っても罪にはならないという、未熟で愚かな時代を肯定してきた、この国の人々。その価値観(思考)の元となる脳の働きの性質が本来になれば、自らの真の姿(本体)を見つめざるを得なくなる。そして、そこに、地球の意思と重なる普通の原因が流れ込むことで、そのままでいられる本心(本人)へと、本質(本体)は変わっていく。

そのための大切な機会の材料が、この「仏陀の心」であり、仏陀と道元との関係性への認識である。嘘の原因は、どこまで行っても本当にはなれず、嘘の裏返しの正しさに、力を与える。嘘の仏教も然り。思考や感情から始まる仏教を、仏陀は知らない。

「歴史の芯」を通して、地球が喜ぶ原因を生きることの大切さをさりげなく実践する人は、体験的知識の進化とともに、この時、本体の浄化を、実体験の域へと自らが招待する。仏陀と道元の力を借り、心と思考をひとつに、生まれ変わった本体を活躍させる。そして、生き直しを楽しみ、生きることの意味を大きく成長させる。「仏陀の心」の原因の中に在る真実は、縁ある人を皆、真の普通人にする。それこそ、この時代の望み、仏陀と道元の意思である。

10/22

5.壬申の乱という、この国の歴史で最も重要な争い(戦い)。それは、人間の知では計り知れない負の原因の時を潜める鉱石(鉱物)との融合を普通とする存在によって、人間の歴史が大きく脱線することになった、人としてあり得ない事実が連続する、恐ろしい出来事。虚偽と欺瞞が呪術の力で正しさを手にし、それを基礎とする権力で、時代がむりやり歪な方向へと動かされたそのことで、この国は、それ以降、中身の無い形式と全く嘘である正しさを基本に、時を連ねることになる。そうであるよう洗脳され続ける人々は、歴史的災い人(極悪人)の思惑とその怪しい力によって、永いこと、人として生きることを忘れる。

世の嘘は、それがどの時代のものであっても、全て、大海人皇子の生を手にした存在の本質と繋がっている。嘘には、嘘の原因があり、その原因の安定は、呪術の最大の要素となる。繰り返し転生し、世の病みを支えた彼は、その自覚もなく嘘の中で生きる人を増やし、その嘘を正しきこととして大切にする人を人として好ましい在り方とするその様を、巧く作り上げる。醜い感情と鉱物からなる彼(彼女)の呪術の威力は、形無き次元の性質(の働き)を、自在に操ってしまう程。必要とあれば、何人にでも、どんな風にでも、好き放題個性を変えた分身を付着(密着)させて、思い通りの仕事をする。その力に、永い間、世の人々は悩まされ続ける。

この国の歴史に学び、これからのために歴史を語る時、その歴史上の重要な争乱(戦)は、壬申の乱である。それ以外は皆、そこでの出来事を原因とする当然の結果であり、全て、その争乱関わりの原因を持つ存在たちの、その本体(形無き別次の意思)による、別な形である。次に繋がる学びとしての、その原因の充実を大切に思えば、それは、普通の理解となる。

元の姿がどんなだったかも知り得ず、どこまで自分たちが歪なままであるかも分かり得ない事実の、その原因が存在する、歴史ビル2階。そのことを把握し、自らの原因の質を成長させつつ、大きく脱線したままのこの国の歴史を元に戻すことが、歴史への学びの真であり、人としての当然の実践である。壬申の乱は、人の心が育つ土壌が完全に壊され、呪術を扱う(重宝する)力ある存在によって、暴力と殺害がその後延々と繰り返されることになるその道に時代が進み出した、世にも恐ろしい、人としての姿が消えた瞬間(争い)である。歴史ビル2階は、近江の時(都)から、心を持たない能面の人間たちが活躍するという、悍しさと、妖しさを帯びる。

10/21

4.秘めた残虐性をそのまま原因に行動する(出来る)人間を、同質の権力者は重宝し、その彼らは、人殺しの手腕を磨き、その道での名人を誇る。その類の本性は、多くが蛇絡みの成り立ちと経験によるものだが、意識を向けた相手の(心身の)動きが簡単に鈍化してしまう程の殺意の、その呪術的な原因には、別の理由がある。それが、近江の国(滋賀)特有の物であり、そこでの争乱の背景においても、その物は、残虐性と支配欲を強める(具体化させる)道具となる。

それは、その辺りで採れる、細胞本来の活動を滞らせて生命力を削ぐ性質(放射性元素)を持つ、ある鉱石(鉱物)。その昔、人が恐がり、苦しむことを何よりの快感とする存在たち(蛇系の元祖的存在)は、その石を右手で持つことで、身体内の(粒子の)流れが強力に腐敗型のそれになることを覚え、それを繰り返すことで、その心地良い停滞感を増幅させ、意識するだけで(目と目を合わせるだけで)、普通の人が健全さを失くしてしまう程の力を付ける。

呪術は、変化とは無縁の歪な普通で、人の普通であるその変化を止めること。異常に育む怨み(殺意)や憎悪をその材料とし、燃料は、不気味さを演出する鉱石(黒褐色の水晶)との融合により通り道の出来た、その経験の(滞りの)原因である。後の密教の負の土台となるその経験は、そのまま本性の遺伝子として後世に繋がり得てしまうのだが、そのことを最大限に活かし、自らも、他を寄せ付けない程の呪術を幾度の人生で行使したのが、この時、大海人皇子である生を生きた存在である。

彼の普通は、嫌悪の対象とする(敵対する)人間の脳に、自らの分身を付着させるようにして入り込み、恐怖心を抱かせて、その人の自由を奪い、生きる力を容易に削いでしまうもの。意のままに動く呪術師を従え、事を思い通りに進めるその力は、時の争乱では、素朴な人たちの精神(脳)を狂わせ、暴力へと走らせ、好きなだけ彼らを苦しませ、死に至らしめる。形あるところでは、どこにも(林にも湖にも)多くの屍が在り、形無きところでは、人間の世には有ってはならない、魑魅魍魎の様を呈する。その全てが、後に天武となる存在の、その本体(本質)の意思であり、連れ添う女性(持統)と、その前の女性も、それに関わる。

彼は、現代、近江からそれ程遠くない場所で、女性として、普通人を生きる。(後の女性は、その近くに、前の女性は、東京に、時の人として居る)彼女たちの、無意識の意思による呪術(呪詛、呪縛)は、顕在である。かつての争乱関わりで、彼女たちの脳に取り込まれた大勢の人たちは、今世でも尚、心身の自由を牛耳られたまま、厳しい時を過ごす。しかしそれは、この無有日記を通して、そのままではいられない時へと移行する。

10/20

3.自然界全体の、本来そうであるべきその普通の質が、ある時低下し、生命たちの生きる力が次第に削がれることになっても、それに対して為す術もなくそのままでいるしかない状況であると、それまでのように生きることを形に生が営まれる中、それは、前とは違う次なる普通となって、いつのまにか自然界の自然な姿となる。その要らない変化(変異)の原因となるものを、この人間の歴史の中で眺めた時、通るべき場所として、7世紀後半に近江の国で起きた、恐ろしく残酷で(不気味で)、惨たらしい争乱(殺し合い)がある。

上部から末端までの政治関わりの全ての人が、二つに分かれて争い(命を潰し合い)、一般の人々も大勢巻き込んで、酷く悍しい現実(殺害、拷問)が日々繰り広げられた、この国で最も古い悲惨極まる負の出来事。その時に、野獣にも優る(毒蛇のような)凶悪さと残忍さを武器に虐殺を愉しんだ、非理・非道の鏡のような存在。彼によって作られる次なる都から、この国は、現代に至る、変化とは無縁の歴史を刻むことになるのだが、この今に生きる心無い多くの人は、その時の経験(大海人の悪徳)を元とする人生を生きた存在たちの血(本性の遺伝子)を引き継いでいると思ってよい。その争乱で、残酷な仕打ちを受け、無惨に命を絶たれ、捨てられた、夥しい程の人々。それは、人間が全く人間ではなくなる経験のその恐ろしい原因が、その後の嘘の正しさの中で、そのまま息づき、力を持ち得る、形無き負(病み)の土台の材料となる。

10/18

3.身体を持って人間時間を経験している時はもちろんのこと、身体を終え、次なる人生を選択するまでの間をも変わらず生き続けている姿無き意思(本体)が、その人の本当の姿であり、人として生きる存在の本質である。その性質は、人間時間の内容如何で変化する次元には無く、その時、その場所で、人間らしく生命を生きる際の、その精神性を支え、見守るために、その意思は存在する。

それへの理解は、思考世界には無く、時代背景からなる価値判断も通用しない。その人間の本質関わりの世界に、善悪や高低(上下)といった二者択一的思考が在るとすれば、それは欺瞞である。本質(本体)が不穏で粗雑な人ほど、世の歪な価値観に合わせるのが上手く、そのことによる精神の未熟さゆえに、世間的にも良い人でいようとする感情を強くする。

人が皆、真の自分をそのままに生きれば、嘘も無くなり、正しく生きることも、良いことをすることも意識されずに、自然に世は調和あるものになる。これらのことを考えるまでもなく、普通のこととして、(自らの)本質をそのまま生きる人は、その姿は誰にも理解できなくても、悟りの中に居る人である。要は、思考から始まらなければいい。

10/18

2.そんな食品や知識であるが、それ関わりで、人の心身や空間が重苦しさを覚えたり、流れにくくなったりするというのは、そのどれにも、他を病ませる意思が在ることを意味する。形を生み出す形無き原因に触れれば、それは普通のこととして、人は知る。しかし、その原因の世界での普通も、結果を優先し、過去を大事にする世界では、意味の無いものとされ、尽くそれは無視され、姿を消す。ある意味、形ある結果に意識を向けさせる姿勢と、それに付き合わされることが、病みの原因の内実に蓋をしていると言える。意思(影響力)は、どんなものにも在る。その人としての基本理解を通して、争いや不健全さの原因は確実に動き出し、その理解の成長によって、病みの根源も顕になる。

風や水の流れ、太陽や空の輝き、そして動植物たちの素朴な営み。それらは、人間の生きる源となり、時が癒され、変化する、その原因となる。ただそうである時を、人は喜び、安心する。ところが、風は暴れ、水はその質を落とし、太陽も空も、動植物たちも元気を失くしてしまった、この地球環境。それは、分からないまま蓄積する負の原因が、物理世界のあらゆる次元層に蔓延し、そこに生きる存在たちの生命活動が、本来ではなくなってしまったから。時は曇り、空間は重くなり、人間も動植物たちも皆、要らない負荷を覚えつつ、それを普通に、生きる普通の質を低下させていく。その負の原因となる物や形の、その元となる更なる原因へと遡っていくと、そこには、人間の理解の及ばないある物の、世の常識を遥かに超えた、不可思議な性質の影響がある。

10/16

1.人間の知能では永遠に分かり得ない次元の出来事は、人間世界の出来事に永遠に影響を及ぼし続ける原因となって、そのまま、あらゆる思考の接近を寄せ付けずに、在り続ける。それが分からなくても、どうにか人間を生きていけると、それは一層経験の外側へと遠ざかり、その出来事は、限り無く見えなくなる。その時、その影響力は無いものとされ、そしてその影響下で、人は、人生を送る。それは、固定されたある枠内で、それへの疑問も違和感も持たずに時を連ねるということ。ふとした想いも、感覚的な発想も、その自覚もなく、枷をかけられているということ。そんな人間経験を、人は延々と続ける。

食品でも、日用雑貨でも、その何かを手に(口に)したあたりから、人は、少しずつ心身に不調を覚え出し、思いがけず不自然な出来事を生じさせる流れに乗せられてしまうことがある。しかし、そのことが手にした物によるということを知る機会を手にするのは至極難しく、仮にその機会に縁したとしても、それまでの負の原因の染み込みと、要らないはずの経験の蓄積は、健全な判断と理解を容易に歪めてしまう。

それは、知識でも風景でも同じで、その何かに触れ、関わりを持っただけで、脳の働きがいつのまにか本来ではなくなる経験をしてしまうこともあるのだが、その殆どは、無自覚のうちに進行するため、人は、知らずうちに普通の質を低下させ、その原因となる部分への対処も出来ずに、不自然・不調和をあたり前としてしまう。そして、そんな中でも、人は、人生の意義を感じ、生きる意味を見つけ、それを人間の在り方として認識して、無くてもいい経験の受容を強めていく。

10/15

13.この国の負の歴史の中をかい潜るようにして皆でここに繋ぎ得た、生命本来の望みは、その道筋の元となる原因の風景が形になったことで、より活動的になり、そこに「仏陀の心」が重なることで、未来への連繋は、これまでよりずっと滑らかで、力強いものになる。それは、永い時の負の蓄積を、その土台から崩し、その全てを溶かし得る程の原因の力となって、変化し続ける瞬間の時を癒し続ける。それに見合うよう、この「歴史の芯」も、少しずつ確実に、その質を成長させていく。ラスト22章は、生命世界からの祝福のような、新たな世界への始まりの時。

「歴史の芯」を通して、これまでの原因が浄化される時、そこでは、繋ぎ行くその流れが確かなものであるための、優先すべき性質のテーマと望むべく段階があり、その調整が思考の遥か手前であればある程、事は速やかに動き出し、時は姿を変える。負の連鎖の土台がしつこく固められる、その原因となる出来事が集中した、歴史ビル2階。その場所から始まったことで、他の階の負のかたまりの内実は把握しやすく、それらの原因の絡みも、順を追って動かしやすくなる。山を登り、海辺を歩き、風に乗って地球を眺めたことで目にした風景のひとつひとつは、土と水と空気の優しさとその生命力によって癒される。その時の連なりは、次に行くべき場所と新たに対応すべきテーマをそっと差し出し、そのひとつひとつが、変化に乗る。

真の変化は、さりげない。戻ることのない変化は、そのことを気づかせずに、人を変化に乗せる。変化は、自然界の基本、自然体の普通。人は、音や色を運ぶ空間の意思と融合するように、変化に乗り、そして変化の中に居る。それは、生きる原因の、生命(心)の遺伝子。「歴史の芯」は、その変化の原因を、読み手の心に甦らせる。

この章は、10節で終了していたところ、大きく時間差で追加すべきことが形になり、それが、後の3節分になる。そして、この「歴史の芯」の全てを終えた感で過ごす中、更なる時間差を経て、そこに、空白のままの個所(次元)が在ることに気づかされる。それは、非人間的な存在たちが、その原因となる本性(本体)を基に恐ろしく醜いこと(呪縛、洗脳)を為し得る現実に至る、その重要なきっかけとなる、彼ら独自の不可思議な経験。そこへと行くべきEWが始まり、そのひとつひとつの体験の(多次元的な)原因が、形になろうとする。それを、23章で記す。ある意味、それは、世の常識のどんでん返しの類になるかもしれない。

10/13

2.仏陀の前を思うと、そこには、その対象となり得るものが何も無いため、自ずと思考が働きにくくなるという、普通ではない思考状態が生まれる。そのまま、よく分からないながらも、淡々と漂うようにしてその場所に居ると、不必要に思考を使わないでいられるという、脳の働きにおいては、楽で、安心を覚えるそれへと変わっていく。そして、ふとした時(瞬間)、それまではそこには無かったある性質のものが、ムリなく思考の扉を開け、何気ない発想となって、新たな自分に連れ添う機会を創り出す。

そこに、仏陀を活かし続ける彼の本体が在り、それと繋がることで、自らの無意識の中の本当の自分が変わり出す。縁する人の心(生命)の意思と自分の本体との融合は、釈迦牟尼としての生を持った時も、それ以前の生の時も、彼が何より望んだこと。手法でも方法(理)でもないその生命としてのさりげない機会は、どこまでも自由意思からなる、変化への望み。仏陀のその真の普通による経験は、思考の質を変えつつ成長し続ける人の、その原因の中で、あたり前に為される。

10/13

12.その力は、身体を自由に利用して、意のままに凶悪な人間経験を促す、形無き生命体(本体)の意思。自然界の営み全てに、いとも簡単に悪影響を及ぼし続けるそれは、人間世界には元々無かった、本体という、思考の性質(原因)と繋がる次元を生み出し、そこから(その背後から)人間の脳とその活動全般を、容赦無い残忍さで支配する。その意思の力は、形ある人間時間においては、立場や地位・権力を活かすという次元には居ず、ただただ、どこに生を持っても、殺害と虐待の感情を全開に、その強大な本体の負の威力を行使する。

その存在は、「この国の病みの始まり」の時に、子供たちの命を直接奪った(殺害を愉しんだ)女性。鎌倉期には、親鸞の子としての生を経験し、江戸期以前では、時の武将として、罪無き無数の人たちの命を弄ぶ。その本体の意思は、現代でも同じである。本人(身体)は、その本体の力で操る現実を、そのことに一切無自覚のまま、狡賢く巧妙に(完全なる嘘で)、獣級の無意識で生きる。

彼女(彼)の形無き生命体(本体)の意思に対応し得たことで、EWは更なる時へと移行し、(やむ無く作られた)無意識という次元に、未消化の感情の記憶(のその性質)を蓄積させたことによる、重く、危うい、ひとりひとりの本体は、力を無くす(姿が無くなる)。本体と本人の違いも無く、そのまま自らの全てをありのままに生きていた時代の風をここに通し、生命としての、生き直しの原因を確かにする。その始まりが、この文章(の原因)であり、その流れは、どこまでも続き、繋がっていく。

そして、理解する。無有日記の原因と融合する人たちは皆、かつてがどんなであっても、仲間であるということ。彼らを通して、「歴史の芯」は支えられ、彼らを通して、EWは、ここに辿り着けたということ。「歴史の芯」は、ここに居る全ての人の変化・成長を支え続ける。そこに、「仏陀の心」も加わる。

10/12

1.仏教は、釈迦牟尼(仏陀)の生き方から始まったわけだが、その生き方は、彼にとっては普通のことであり、他に類を見ない程の普通(人生)がそこに在ることを思えば、人は、その理由が何であるかに、心が動く。そして、言葉としての(彼が伝えたとする)教えからではなく、その普通の源泉となる彼特有の原因の風景から、自然と伝わり、感じさせてもらえることの変化・成長が、仏教に縁する人にとって何より重要であるかを知る。その時、人は、仏陀の前を見る。

そのことを自らの心に重ねつつ、感じるままに、仏陀の普通に触れていると、身体がそのまま心であり、心が常に身体となる、有と無が同一であるような、本体をそのままに本人(人間)を生きる彼が居る。彼の、全てであるひとつの中から流れ出す、ひとつひとつの全て。それは、真の普通の原因の鼓動。仏陀の前の人生でも、その前の人生でも、それは、彼自身である。

10/11

8.仏陀の真を歪めて、それを良しとする妙な世界と繋がりつつ、力を手にした低次の仏教は、自分たちの我利我欲の元(原因)となる邪な本体を隠すために(見えなくさせるために)、魂や霊という言葉を生み出す。そして、人の思考が触れられないその嘘の原因をごまかしつつ、形式や形ある結果に、人の意識を引き込む。そこに、権威・権力という、仏陀の世界からは大きくかけ離れた要素を取り入れることで、人々は、次第に、思考を忙しく、心を忘れ、仏教の真から離れて(離れさせられて)いくことになる。

その嘘の仏教の極み(大罪)となるものは、作り物の死後の世界を、人の脳にすり込み、人としての生における望むべく原因の世界を退けたこと。その恐ろしく危険な企ては、人間世界の真実への強力な抵抗の原因となり、そのまま、偽りの人生を正しいこととして生きる、勘違い人を増やす。そして、時代は、永い間、異常で非生命的な本体の意思を通す存在の手によって、苦しみや辛さをあたり前とするという、実に低次・低劣な仏教を続けることになる。

その幼稚でお粗末な(愚かな)様は、道元の時から、本格的にその原因への対処が為され、仏陀の力添えもあって、こうして、ここに、その内実が形になる時を迎える。仏教は、実に素朴で、単純である。そこにある嘘を外すだけで、そこでの体験的知識は、仏陀の真(普通)と繋がる。人間であれば、それは、とても簡単なこと。嘘の原因をさらりと浄化できるぐらいの正しさ(生命としての普通)の原因を生きる。

10/11

11.そして今、2210節を終え、ここに「歴史の芯」のひとまとまりが完了するのを待っていたかのように、やっとその時を迎え得る、一度もその期待も、そこへ向かう姿勢も無かったからこそ触れ得る場所が、見え出す。それは、この人間世界での不安の中心核のようにして、姿無きその意思のまま多次元的に存在し続ける、否定的万能とでも言うべき、負の力。人間のどんな知識を以てしても、感触の域には到底近づけないそれは、「仏陀の心」のその歴史枠(次元)を超える原因の性質(意思)によって、否応無く揺れ動き、そこでの違和感に、かすかに感性が引っかかる。その姿は、まさにその時の訪れ。

対処すべき性質として少しでも意識を向けると、その瞬間その姿は見えなくなり、永遠にそれが分からなくなってしまう次元のものであれば、一切そのことを忘れて(という考えも持たずに)、それ以外のところに在る原因のみに対処し、それで全て良しとする生き方を徹底しながら、そのあり得なさの中の真実という瞬間に出会し得る自分を、その自覚もなく生きる。その間に、その恐ろしい非生命的な力と対峙しても平気でいられるぐらい、自らの原因が成長・進化していることが必須であり、そして、それは、突然訪れる。

訪れた時は、まさに融合の主導権の奪い合い。どちらの普通が、そのままその普通でいられるか。そこでの原因の成長・増幅は、進行形のままか。そんな瞬間の連続が、この今に至る。

ふとした直感からでさえも意識を向けることが難しい(危うい)というのは、その力によって、人の意識の動きが簡単に牛耳られてしまう(しまっている)ということ。そのことに思考を自由に使うことも出来ないというのは、人の思考の性質やその内容までが、その存在の思い通りになってしまっているということ。そんな次元の意思(負の力)が、人間を経験する。その支配と破壊の威力は、どこまでも、その原因である実を見せずに、どんな風にでも、あらゆるものを、変化とは無縁の辛く厳しい結果に留める。「仏陀の心」が誕生するまでは。

10/08

7.その存在たち(特に彼らの本体を支配する程の強力な本体を持つ存在)によって、自由に生きる姿勢を奪われ(潰され)、多大な負荷をかけられながらも、いつの時も、人間本来を真剣に生きたのが、道元の生を経験する彼女である。そして、その様を知りつつ、身体時間を選ぶタイミングを阻まれても、どうにか(奇跡的に)道元の父親の生を経験するのが、仏陀としての人生を持つ彼である。

仏陀と道元の合流は、地球自然界の全ての生命たちの希望の具現化と言える。そして、そのことが、この今に繋がるということ。それは、かけがえのない原因の増幅であり、地球と人間との生命の約束である。この「仏陀の心」の文章に乗る、これまでに無い沙(淘ぎ)と羅(連繋)の原因により、彼女(道元)が引き受けてきた負の蓄積は砕かれ、彼女関わりの多くの人の生き直しが始まる。彼(仏陀)は、その変化の時を、形無き抽象世界から支える。

その姿は、かつての二人の共同作業の現代版である。二人の繋ぎ役のようにして在る無有日記は、時代が望む地球感覚を基本に、自然界の生命たちの活動を元気にする。彼らは、そこで安心して、本体にある重しを外し、厳しい時代での経験が癒される時を過ごす。時代は、地球自然界と共に生きる本来をテーマに、変わらざるを得なくなる。

10/07

6.力を持つ人間が、力を持たない人間を支配するという、その非人間的な価値観をまかり通らせてきた、人間の歴史。それは、次第に、本体の次元の様相を変えるまでになり、より悪質な本体が、同質他の本体を支配するという、実に奇妙で、恐ろしい状態を作り出していく。残忍で凶悪な人間経験が、それを普通とする性質の本体の影響力を強め、より強力な支配力を身体活動に重ねる中、本体は、狡さと緻密さ、操作力と破壊力を備えていく(強めていく)。

その異常を普通とする経験の性質は、全て、本体の中に染み込み(取り込まれ)、転生の度に異なる人間(身体)時間の中で活かされる(悪用される)わけだが、その存在たちは、記憶を呼び覚まされるようにして、この現代、それを浮き上がらせてしまう。時代背景がこれまでとは異なる今、無有日記は、無くてもいいはずのものを隠し持つ存在の、その本体の世界に対応する。心無い人間の本体を自由に操る程の力を持つ存在の、その本質(本体の影響力)を、心ある人たちの世界から外す。3章は、そのための場所となる。

10/07

10.縄文期が終わりに向かう頃、この国では、その後に続く非人間的な歴史のそのひな型のような異様な風景が、中部の高原辺りで繰り広げられる。そこに至る、それまでの負の原因として在る、蛇の脳の中に入り込んだ無生命化の意思と、人間の体を手にしようとして彼らが経験した、土偶の原型(奇形)。そして、実に恐ろしいその蛇の本性そのままの、不気味な行動。2500年程前のその時、この今に繋がる、無くてもいい経験の永い時を、人の歴史は連ね始めることになる。

人としての基本形(心ある原因)を実践させようとして、反感を買い、命を奪われたその男性は、その殺害の指揮を執った存在を中心とする集団を、関東の地に集め、自らもそこで子として生き、彼らのひとつひとつの原因の働きを処理する。

蛇頭級の凶悪な男性(今世は女性)と、芝居上手な女性を擁する九州の存在たちは、東京に移り、待ち構えるようにして、無有日記の原因潰しに皆で力を注ぐが、そのどれもが空回りし、自滅型の原因へと、それは変わっていく。襲った人間を取り込んで、それを人を支配するための呪術の糧としていた存在たちの集まる四国では、無有日記の原因に翻弄されて、嘘を生きづらくなり、その力を無くす。

そして、彼らの時を経て、満を持して迎える、村人の一員として人知れず暗躍していた、その男性の正体。後に、自らの息のかかった血縁(身内)繋がりで、天皇家(皇室)という存在を生み出す彼は、人の暮らしを全く知らないまま、人を支配する(側でいられる)呪術を磨く。軽薄さの象徴となるそれは、この時代の意思に退けられ、異物となっていく。

人間の歴史において、この今の時代ほど、地球自然界の意思が注目している時は無い。この国の次なる原因の、そこに及ぼす影響力は、これまでのどの時よりも大きい。「歴史の芯」の原因との融合は、容易にそれに応える。

(他にも、無有日記誕生後の時代の必要性から、当時の出来事(の原因)と密に関わる他の存在を、大阪や東京の地で生を経験させ、EWの材料とする)

10/05

5.身体の次元に連れ添うようにして存在する本体は、時間の概念も生と死の経験も寄せ付けない、永遠の瞬間に居続ける生命の意思であり、それ自体が変化であり、一定であり続ける、多次元的な活動の核(集合体)である。それは、身体(本人)と本体が同一であった(違いが無い)時代には無かった認識。時を経て、心と思考がかけ離れ、無意識(本心)と意識(意向)が別のものとして扱われるようになり、いつしか、その本体という世界は、存在感を持ち得てしまう。そして、現代に至り、影響力を強めつつ、それは生き続ける。

本体の性質は、そのまま身体経験へと反映されるが、身体経験が本体に影響を及ぼすことは、殆ど無い。つまり、人間的に世のために生きる人が居たとしても、その本体が動きの無い非生命のそれであれば、その人を通して、結果、世は荒んでいく。本体が、変化し続ける生命本来のそれであれば、その人の人間経験がどんなであれ、世は平和の原因を強めていく。それは、生命世界のシンプルな真実のひとつ。

その本体が、生命本来の普通である人たちは、元々それが(その概念が)無かった時代に、心のままに感じる想いを人生(人間時間)としていた、自然感覚の自然な存在たち。その在り様が大きく崩れ始めた時、彼は、釈迦牟尼としての生を生きる。そして、自分への極度の抵抗と反発の結果(実際)を修復するために、鎌倉期に、再度人間をやる。三度目の現代、彼の本体は、その全てをこの無有日記にゆだね、存在そのもので、望むべく未来の原因となる。

10/04

4.現代の仏陀と道元は、自らがそうであることは知らず、お互い、面識は無い。いつかその時を迎えるであろう二人は、本体(本当の自分、形無き生命体)の浄化をこの無有日記に預け、その過程での変化を、人間時間での経験の創造に活かす。

この時代だからこそ為し得る、染み込まされて(蓄積させて)しまっている負の要素の観察と、それへの対応。特に道元であった彼女の場合は、人としての真を生きる自分を基本としていたために、やむ無く引き込まれる幾多の要らない経験もあり、本体は、多くの傷を負う。その生命の意思表現の土台である本体が、この時(のEW)を通して癒されることで、いくつもの人生で彼女が向かわざるを得なかった、凝り固められた嘘の世界(歪められた仏教と真の無い教え)が、内側から崩れ出す時を迎える。それにより、道元の原因(意思)と自らを重ね得る人たちの心も軽くなり、心身は、重たい枷が外れたかのように、快活になる。

その姿を、道元の父親だった頃から望んでいた現代の仏陀は、ずっと自分では扱えなかった自らの本体の潜在力が、無有日記で揺さ振られ、導かれることで、より具体的に活かせることを知り、彼女(現代の道元)の経験の記憶の浄化と、それによる軽快な原因づくりに、力強く参加する。この時代に居る意味を、二人は、動き続ける新たな原因の中で確認し合う。

10/04

9.この今の場所には、蛇の本性そのままの存在たちに脳を支配され続けた、彼らが出現する前の時代を知る、(この国のこれからにとって)とても貴い人たちが集まる。その中には、奇形(土偶)関わりの人生を送った人や、蛇(獣)に取り込まれた人もいて、彼らの経験のひとつひとつは、病み世(負の連鎖)の土台を粉々に砕き、崩し得る、その力強い材料になる。彼らひとりひとりの経験の記憶がその原因深くから浄化されることで、より確かな変化を、時は生じさせていく。

凶悪な意思を難無く隠し通して村人を生きたその存在には、姉がいて、それが、台座の上で偉そうに振る舞う女性である。彼女による妖術のその威力の殆どは、彼女の知らないところで(勘違いのまま)、彼が仕向けたものであり、同質の存在たちによる支配も、それによって、きめ細かく、安定感を出せることになる。

そして彼は、村人の女性を伴侶に家族を作るのだが、その彼女と子は、この今の時代には欠かせない重要な存在として扱われ、時代の意思は、その頃の経験を含めたこれまでの二人の原因全てを、ここでの更なる連繋の意思の礎とする。そこでの(かつて彼らが経験した)厳しさの受容は、想像の域を超える。二人は、その存在によって、徹底マークすべき対象として、完全にその脳を支配された、「心の遺伝子」の風景の中心的存在である。それがこうして顕になるということは、それが完全ではなかったということである。

10/02

2017

3.仏陀の、他の人には無い個性は、本体という、脳と密接な繋がりを持ちながら、限られた身体時間での(人間としての)活動とその変化・成長全般を支える、その姿無き永遠の意思(の性質)が、至極強力で、叡智に富んでいること。そのことは、人としての心(原因)を持たず、不穏で悪質(低次)な本体を共とする人間には耐え難いもので、それゆえ、釈迦牟尼以降、自由に身体を選べなくなる程、この人間世界では彼の真意が歪められ、何もかもが仏教の本質からかけ離れた、嘘の教えが蔓延することになる。道元以前の仏教は、仏陀への拒否反応のそれと言える。

道元の個性は、その本体の意思を最大限に活かす身体活動(人生)を重ねて、人間としての生きる原因を驚異的に進化させ得ること。そのため、重く、動きの無い原因の世界からは、嫌悪の対象として尽く抑え込まれ(潰され)、その力を削がれるが、その度に、次なる生での原因にその全てを彼は活かしてしまう。仏陀が道元と共に人生を歩もうとしたのも、頷ける。

互いは、唯一無二の、生命の仲間。共に居て、融合するだけで、それぞれが、個性ある表現力を高め、引き寄せる風景の質を本来へと変えていく。支え合い、協力し合う(補い合う)その関係性は、初めから、仏教(真の普通)の本道を歩むものとなる。

10/02

8.彼は、本性(脳)が蛇でありながら、人には決してそうとは思わせない、名人級の偽善者であり、村人は、彼のことを信頼する。表向きは柔和な感じだが、ふとした瞬間に見せる、それまでとは違う表情は、それを見た人が凍り付く程の恐さを持ち、それでいて、その姿を無いものとする完全な嘘で、善人を偽装する。狡猾で、知能派で、笑みを絶やさない彼の、その隠された呪術の力により、人は、彼の意のまま、活動的になり、何も出来ずに動けなくなる。

常に目立つことなく、普通に過ごす姿のその秘められた意思は、徹底した非人間化と、そのためのコピーづくり(蛇系の拡大)。それは、融合の主導権を握るために容易に暴力的な手段を取ってしまう同質他の存在たちの誰もが真似することの出来ない技。それをいとも簡単にし得る彼によって、人々の暮らしは、理由も分からず重苦しさを慢性化させ、時代は、変わりにくさの負の原因を重ねていく。

その彼は、3つのいずれの場所にも属さず、この今に至る蛇系全般の生(意思)の流れとして、皇居に居る。事の全てを見越すようにして立ち回るその姿に、普通一般の原因の力は、一切通用しない。それでも、その全てを浄化すべく時を創り続ける。この時代に生きる一生命として、精一杯の心ある原因を次に繋ぐ。

 

9/30

2.歴史ビル2階での人生も含めて、何度もこの国での生を選択した道元は、仏陀よりも少し早く、この時代に生を持つ。仏陀と同じく、彼も、今回は仏教世界には居ず、女性としての普通人を生きる。その理由は、時代の必要性がそこには無く、心の世界のその原因のところからの浄化には、全くこれまでの価値概念とは次元の異なる対処が必要であるから。これまでの人生での全ての経験の質を、思考で扱わずにその原因のまま持ち合わせる(能力を持つ)彼女は、それらを次なる時代の原因の要素として活用してもらうことに徹する。無有日記は、それに応える。

どの時代の生でも、権力を笠に着る存在たちににらまれ、苦しんだ彼女は、その度に脳の働きを不自由にさせられ、無くてもいい経験を重ねてしまう。ところが、道元の生では、仏陀の支援もあり、脳の働きとは別次のところで、どこまでも原因の質を成長させ得る経験をし、そのおかげもあり、無有日記の中に在る、中庸・全体の原因との融合は、信じ難い程の深みのそれを普通としてしまう。そして、その分母を増幅させた原因のところから時代(歴史)の中身を見るという、彼女ならではの、人には無い能力を、無意識のところで表現する。それも、仏陀とのかつての経験があってのこと。道元としての人生は、彼女にとって、それ以外の人生での不要な原因を難無く浮き上がらせ、それを活かさせてもらう力の源となる。

9/30

7.歴史ビル地下深くのその時から、彼らの姿を把握し、今世でその主となる存在たちを皆余裕で集められたのも、そこには(彼らの中には)、遠い昔、蛇の脳の中に居たという、非人間的な性質の原因(本性の遺伝子)が、常にそのままであったから。その頃、幼かった彼らの子や孫たちも、後に続く。そうである事実の原因は、思考の域には無い。

奇形(土偶の原型)を経て、やっと人間の体を手にした、蛇そのものの本性を備える存在たちは、彼らにとっては全くの普通のことなのだが、当然の行為として、人間を食べる。そうではない生活感覚を知らない(覚えられない)彼らは、空腹になれば、人を襲い、あたり前にそれを(獣のような仕草で)自らの中に取り込む。脳と肝臓は、以前からの彼らの好物。姿は人間でも、狂気を普通に人を食べるため、その本性の凶暴さは、一層強いものになる。

その場所に居た存在たちは、人一倍の欲深さと征服(支配)欲を生きる力としていたため、歴史に、幾度も名を残す。思考の質を本来にするために、その必要性から、宗教を絡めた描写を通しての偽僧や嘘人をすでに無有日記で登場させているが、その酷く未熟な精神性のルーツは、この時代である。

そして、ここに来て、改めて意識を向ける(向け得る)存在として挙げるのが、その男性が命を無くす時、村人の中に平然と居て、何喰わぬ顔で、普通人を装っていた、「歴史の芯(20)」の主人公である。

9/28

1.鎌倉期に生を経験した後、永く身体を持たずにいた仏陀(釈迦牟尼)は、この現代に、この国では二度目の人間時間を経験するに至る。仏陀が潜在させる能力は無限であるが、そのことを、現代の彼は未だ知らないでいる。それでも、約束通り、無有日記に継続して触れ得る場所に居て、その感性と形無き原因による表現力は、自由に仕事をし続ける。この文章にも、その性質は染み込んでいる。

現代の仏陀は、仏教(宗教)の世界での立場を持たず、普通の人として、男性を生きる。それは、何があっても志(自由意思)を失わずにいられるための原因(処方箋)として、この無有日記との縁を自然に維持できる環境が必須であったため。秘める力は桁外れであっても、彼の活動を妨げようとする(無きものにしようとする)存在たちの、その非人間性からなる働きかけは容赦なく、環境的にも、また不要な感情の重なりからも、あり得ない程の負荷を受ける。

そして今、彼は、「仏陀の心」に連動し得るこの時に間に合うようにして、内なる抽象と外の世界とを重ね合わせ、自らの原因(意思)からなる現象世界を創造するという、その強力な普通の力を発揮するところに居る。この3章への流れは、その時を引き寄せ、その心の意思を呼び醒まさせる役を担う。仏陀が、この現代に、その生命の意思を携えて、人間を経験しているということ。それだけで、時代は嬉しい。この時の訪れを、彼と共に居たたくさんの人たちが、祝福する。

9/26

8.人は、地球上で生きているわけだから、そこでは、地球自然界の望みと自らの生き方が、自然と融合することを基本とする。それを思う時、仏教の世界に少しでも縁していれば、信頼や期待という感覚は、人との間ではなく、地球自然界と自分との間で自然に育まれ、成長していくもので、自然界(動植物たち)に愛され、彼らの普通をさりげなく守り、支えていることが、この世の信頼そのものであり、人としての期待通りの生き方をしているということになる(ことを知る)。

自然界が喜ぶ、自然な生き方。そして、それを当然の義務として実践する人たちの、自然体でいる空間。そこに、仏教の真は在り、仏陀の心も息づいている。人が、人を想う時、その空間に、自然界に生きる生命たちの望みが普通に存在するか?彼らの期待に、その人は応えているか?仏教は、実にシンプルで、友愛に溢れている。

地球自然界が安心する原因が、その人の中で成長・進化する時、仏陀も、優しくほほ笑む。そして、限り無くその様を応援する。その全てが普通だから、仏心も宗教心も、どこまでも細かく、深く、地球に溶けだす。

仏陀の心が形になるという、これまでに無い原因の働き(躍動)に、時は、生命源からなる心の交流を力強くさせる。仏教は、芯を取り戻し、普通の人の心と繋がり出す。

9/25

7.仏陀の言葉を思う時、そこには道元が居る。道元の世界(禅)を感じると、仏陀の想いがそのまま形になっていることを知る。二人は、知識を持たず(溜めず)、自らの生き方が縁する人の知識となって、真の普通の(人間の)ひな型でい続ける。言葉を選ぶこともなく、心がそのまま言葉になる彼らの姿は、否定感情とは無縁の、自然界の安心。彼らが共に、この国の、形を生み出す心の世界に関わったことで、動植物たちと、心優しき柔らかな人たちは、希望の未来を内に温め出す。

形ある結果からではなく、その手前の形無き心の性質から始まる原因を通して、現象世界を観る時、人は、いつのまにか、仏心と繋がる健全な感性を普通に、仏陀の精神と重なる自分を生きることになる。それは、原因が大切にされると、事の成り行きへの責任感覚が自然と備わり、仏教(真の教え)を歪める、ご利益心や依存心が外れて、思考型の論理や理屈(探求、到達)からも縁遠くなるから。そこには、自力も他力も無い。ただ実践する原因(の選択)の姿を通して、仏陀が笑顔を見せる。何も無くても、必要なことの全てを生み出す原因の力は、仏陀の心が何より通りやすい場所である。

9/24

6.それを知れば、この国の人間は、仏教という世界を通して、どれだけムダな時間を費やしてきたかが分かる。そのムダな時間は、そのまま、争いと衝突(戦、争乱)の原因となり、仏教の世界には無いはずの、権威と権力を生み出す。それは、紛れもなく、仏陀の真が外されたことによる、仏教(宗教)の暴走。

自己本位に仏教を利用する人間たちが、道元の存在を煙たがり、排斥へと動いた理由は、(怯えからなる)真実への抵抗と拒否のため。そのための、人の心の世界の未成長(空白)は、後の、非人間性からなる重たい歴史を作り出す。この国の、仏心の無い思考型の存在(僧)たちは、真を歪め、正しさの質を低下させるのが得意である。

仏陀に触れる時、道元の心の世界との融合から始め、そこに在る彼(仏陀)の真意と、存在としての意思を、自らと重ねるようにして、思い思いに感じ取るのがいい。道元を、父として支え続けた、仏陀。その場所以外には、皆作り物(紛い物)の仏教があり、仏陀も釈迦牟尼も、存在しない。それを誰よりも知る、仏陀自身。だからこそ、(この国の)大きな転換期となる時に生を選択した、彼。二人の関係性は、この地球に生きる一生命としての人間時間を本道へと導く、その原因そのものである。そして、彼らは、この時代に、再度(揃って)生を持つ。

9/23

6.分裂した3つの集団の、それぞれの主となる存在たちは、そのまま3つの場所で、今生を生きる。それは、関東と九州と四国。その全て(転生)を操られた彼らは、当然そのことは認めず、それでいて、拒否反応を極端に強めて、怪しい動きを見せるため、自ら、自分たちが危うさの中に居ることを顕にしてしまう(認めてしまう)。その反応は、無有日記を書き始めた頃により具体化し、あの手この手でそこに近づき、蛇のような目で様子見をしたり、獣級の嫌悪をぶつけたりと、その慌て振りを個性的に形にする。彼らの本性は怯え、本能は凶暴さを見せ、そして思考は、焦る。

2500年程前に行動を共にした元蛇の人間たちが、この現代に、家族や親戚(友人)としてキレイに集まることのその本当の理由を、彼らは知らない。世をオカシクさせて、苦しみを作り出す方向性は同じでも、自分の欲のために、平気で同質の存在でさえ潰し、病ませられる彼ら。その意思の最も重要な対象になってあげることで、彼らの演技は、一層磨きがかけられ、その崩すべく嘘を通して、彼らは皆、無有日記の材料となる。そして、歴史の芯の浄化は平易となり、丸裸状態となった彼らの本質に対処し得る人が増え、時代は再スタートを切る。彼ら独自の思考型の認識は、家族も兄弟も、その関係性は自分たちの意思。そう思い続けられるその姿を通して、事は、彼らの次元を遥かに超えたところで、望むべく動きが進行し、その原因は、より力強く、微細になる。

男性が命を終える際の、彼への暴力とその殺害方法、そして亡骸を焼き、砕くという、その行為全般を指揮した、集団のリーダー格の男は、今回、関東(茨城)の地で、女性としての生を生き、彼女を、彼は母親として選ぶ。その時から、無有日記の原因の風景は、密度濃く流れ出す。

9/21

5.仏陀の尊い教えとされる、仏教。しかし仏教は、特別や直線上の概念を持たない、人としての普通。人間本来という自然体の在り様が、そのまま次なる原因でい続ける、生命の姿。その何でもないことが、普通になり得なかったこの2500年間に、真の仏教が人の心に染み込んだ(力を持ち得た)時代は無い。仏陀は、永いこと、その実を観続ける。道元は、淡々と(いくつもの人間時間に)、生命を生きる。

悟りの世界は、仏教には無い。この国の歴史的負の連鎖(の仏教関わりの背景)を思えば、それは当然のこと。自らの分を忘れ、悟りという思考が力(特別性)を手にするから、普通に大切にすべき普通のことが、外されてしまう。仏陀を、悟りと結び付ける時、それは、無知による無責任の極みと言える。自らの想いに正直でいることも出来ず、形に流され、物に引っ張られ、嘘を生きる。

人間は元来、悟りの世界を、その実感もなくあたり前に生きる、生命。その人たちは、悟りを知らず、仏教も知らない。そして、仏心をそのままに、(悟っているとしか思えない)普通の時を真剣に生き、その気もなく時を癒す。余計な思考を使っている暇は、そこには無い。何かの裏返しではない、健康と平和の原因も、そこで、絶え間なく息づいている。仏陀の普通は、心ある風景の原因を生きる普通の人たちの、その心の姿である。

9/19

4.生命本来の普通(教え)をそのまま未来へと繋ぎ得るために、道元は、禅の道を志す。真を歪めて、仏教を悪用する世界との不要な衝突(軋轢)を避ける意味でも、それは重要なこと。彼は、禅の世界に、仏陀の本来を招き、そこでの融合を密に、その質を高める。そして、ずっと先の未来にまで届く仏心とその原因を、力強く重ねていく。

時代背景的にも、生命を生きる人間として唯一の選択となる禅は、かつて、(身を守るための)直感からなる必要性で修行の道に入り込んだ仏陀の人生と重なる。真に生きる上での基本形は、次の時代の(自然界が喜ぶ)原因となる現実を生み出し、それを人生とすること。道元は、仏陀の経験の質を消化し、自らも、推古朝での経験を活かして、仏心を繋ぐ。

道元禅の原因は、この時代に真の普通(仏教)を通し得た、仏陀の意思であり、道元の、その具現化である。仏教を語る時、それ以外は要らない。もちろん形としての禅ではなく、そこに在る、変化し続ける原因の性質と、永遠に生き続ける真の普通のこと。仏心(仏教)は、鎌倉期に、息を吹き返し、そしてこの時代に、心ある世界の普通となる。

9/18

3.特別な言葉を持たず、自らが、教えの原因となる在り様をそのままに、自然を生きた道元は、人としての生命世界の本質を通して生み出されること全てを受容しつつ、その自覚もなく、密度濃く、形無き抽象世界を浄化する。彼の言葉は、縁する人の心(の意思)を本来へと導く、生きる原因の鏡。その時々の言動の必要性は、その瞬間を永遠の変化に乗せる、自然界の意思。

何も無い中で自然と生まれる言葉は、道元の中庸無限の心を通り、人の心へと流れ、そこで溶ける。思考が心の脇役のようにしてあるそこでは、何かのための言葉は要らず、自在にその(何かの)質を変え得る、言葉であって、言葉ではない(言葉の域には収まらない)言葉が、次なる原因としての、生命の仕事をし続ける。

湧き上がる想いをそのままに、心と言葉をひとつに、時(時空)を癒し続ける道元。その姿は、人間本来の仏心(宗教心)であり、仏教そのもの。彼は、友(父)に見守られ、仏陀(の時代)には難しかった心の具現化を実践し、生き続ける原因の言葉(文章)を、自ら形にする。それは、奇跡という名の、生命世界の普通。

9/18

5.異質な本性を備える、かつて蛇の脳の中に居たその非人間的な存在たちのことは、その男性は、手に取るようにしてその本質を把握する。形(身体)を持たない間、その全てを見張り、村人たちのその後を見守り、時代の推移とその質を見極めながら、様々に調整し、支援する。恐ろしく危険なその意思が地球に入り込み、人間としての生を手にしたことで、やむ無く時代(人々)が経験するであろうことを観察しつつ、原因からなる変革(自浄)の機を伺う。

その存在の中には、歴史の芯に登場する人物の多くが居て、彼らは、その後、人々の心の拠り所となる宗教を巧みに生み出し、数百年の時を経て、「この国の病みの始まり」にあるような、神の名のもとで命の犠牲が正当化されるという、異様な世を作り出す。そして、それを確立させるために、祭主(神主)や巫女(神子)という存在を活躍させ、暴力や武器を使わずして、そうとは思わせない不自由さと不健全さを、人々の心に植え付けていく。

ただそれも、どういうわけか思うようにはならない時を連ねる中で無自覚のうちに弱化させてしまったその非人間的な本性による、辛うじての意思表現の類(次元)である。その時(その存在たちが人間として活動する時)より前の時代を知る、かつての村人たちは、姿無きその男性の原因の力に支えられながら、何があっても本来の意思を貫き、自然界と共に、自然な反動(抵抗)を起こしつつ、生命としての原因を、人として繋ぎ続ける。形としての力量は微々たるものであっても、人間が為し得るその(生命世界の)自浄力の保持においては、それは、力強いものである。どんな時代でも、どれ程のことが起きても、何も無くても全てが有る時代を知る人間として、あたり前のことをする。争い事や差別を普通とするその異常さに流されることなく、ただ、心を生きる。そのことが、この今の風景の、確かな原因の礎になっている。

9/16

2.生命の教えは、隔たりを作らず、優越や嫉妬とも無縁である。積み重ねる結果ではなく、次に繋がる原因の成長がその仕事であり、言葉から始まる心を知らず、心が言葉になるその原因に、優しく連れ添う。

真の教えは、自然で、変化そのもの。どんなこともそのままにはせず、あらゆるものを変化に乗せる。シンプルな原因でい続けるそれは、過去に居座る形を崩して、生命世界を風通し良くし、結果にこだわる感情を溶かして、空間を次へと流れさせる。そこで、明らかに不都合(不合理)となるのが、権威と権力。特定の人たちのための教えも、特別とされる教えも、真の外された嘘の文字(言葉)の羅列である。

自然界(地球)に生かされる生命が、自然界の生命たちと共に生きる、その人間時間を人生と言い、それを基本に、人は、生命を生き、人間をやる。厳しさも愛情も、優しさも思いやりも皆、そこでの自然な普通の表現であり、厳しくする、されるといった平面的な関係性の原因は無い。正しき教えの世界では、常に、自然界と共に居る生命としての原因が、躍動的である。その全てが、仏陀の真意であり、道元と共に未来に放ち続けた、原因の世界での、二人の実践である。

9/13

1.次の時代のためになる現実の、その原因を、さりげなく真剣に生きる。それは、今を生きることの真実。真に生きることの、普通。そのために、淡々とすべきことをし、行くべきところへ行く。いつの時も、生きることは、次の風景への責任を普通とする。人は、どんな時も、繋ぐ意思を、生きる力とする。

そのための教えが、教えとして残されることはなく、そうである姿を温かく応援する大きな心が、それを実践する人の何でもない言動の中で、息づく。正しさも真実も、(結果に留まる)形ある言葉には無く、真を生きる人の正しさの中で、ごく普通の言葉と一緒に、風のように伝わる。そこに、個の経験は入り込めず、思考も感情も、どこまでも経験(記憶)から自由である。教えは、教えとしては存在せず、自然界に生きる一生命として大切なことをそのままに生きる姿と、そこから自然と生まれる生きた言葉(という名の生命本来の原因の具現化)が、人を導く教えである。

9/12

8.釈迦牟尼の人生以来、およそ1500年振りに新たな人間時間を経験することになった(することにした)仏陀であるが、道元の父親としての人生は、子の、心のままの歩みに寄り添い、彼を支えることを主としたため、形ある世界に折り合いを付けつつ、淡々と、確かな原因の供給役(空間創り)を生きる。二人は、思考を働かせずに為し得る形無き交流を密に、あらゆる経験(知識)から自由でいる生の質を強めていく。

その後、仏教の真から大きくかけ離れて暴走する、他の嘘の教え(教義、信仰)との融合から完全に自由でいるために、仏陀は、かつての経験を活かし、禅の時空へと、道元を送り出す。仏教を本道に戻し、未来に繋ぎ得る要素としてその原因を力強くするための、その時代ならではの連繋の手段が、そこで生まれる。仏陀は、そのことに安堵し、優しく子を見守る。道元は、父の想いに応え、感じるままに、世のあらゆる原因を浄化し続ける。

9/11

「歴史の芯」のラストが始まる時を待っていたかのように動き始めた、「仏陀の心」。書いていて思うのは、これまでの全ての文章が、ここに繋がるのかな…ということ。

2500年程前、釈迦牟尼として彼が人間を経験し始めた時、人間世界の元となる、形無き生命体(本体)の次元が、緊張した。その後、彼のこと(真の普通の原因)を遮るために始まった、西洋での宗教(キリスト教etc.)。そして、この国の、それ(仏陀)への強い抵抗による歪曲。

仏陀の心と自分を重ねれば、それだけで、2500年分の負のかたまりを砕き得る仕事を担う。釈迦牟尼の生は、その前の彼の人生からなる、当然の出番。そして、この国×2。宗教の次元を大きく超えて、生命としての普通の人間、仏陀の心を生きる。

9/11

7.この国の変革無くして、地球規模の負の連鎖の原因は動かないこと。自分が祖であるとする仏教が、宗教心を欠いたこの国の権力基盤の材料として利用されたこと。この地に生を選択するには、それらの把握だけでも充分であるが、仏陀が最も重要視したのは、信じ難い嘘の力とそれによる苦しみの連鎖(蓄積)が、全く揺るがない程のかたまりとしてそこに在るにも拘らず、そのほんの小さな隙間(ひび割れ)に、光の粒のようにして辛うじて生きる、それ(負の連鎖)を決してそのままにはさせない意思が在ったこと。それは、自然界の生命(動植物)たちの望み。その生命たちと繋がる、心ある人たちの希望。それまでのどの時代においても、一人間が担う(果たす)べく生命としての責任を、当然のごとく表現してきたその存在の意思に、仏陀は、次なる時への更なる原因の経験を託す。彼は、徹底して援護する立場でいて、自らの経験と智恵の全てを、そのまま通し、より力強い原因へとそれを発展させ得る存在(道元)を支え続ける。時代背景的にも、それ以上無い性質のものを、二人は残し(生み出し)、それを未来に放つ。

9/10

6.この国の歴史ビル2階の時(「歴史の芯」)、この地に、仏陀の教えとされる仏教が伝わる。その頃には、様々な思惑による解釈や権力による扱い等によって、すでに彼の真意からは程遠いものとなっていたが、それでも、この国に仏教の存在が入り込めたことを、彼の意思は喜ぶ。他の国には無い、中庸の精神が遥か昔から息づいている地。その本質は、仏陀の普通の素顔。どちらでもあって、どちらでもない感覚の中心を通り抜けるようにして形になる真の正しさは、他のどこでもないこの地に伝わったことで、その後、悪用され、歪曲されながらも、心ある人によって受け継がれ、生き存える。

仏教伝来後、それまでの負の(悪政、悪徳の)蓄積が一気に噴出するかのように、大きく世が乱れた、平安・鎌倉の時代。仏陀の意思は、その時を、未来への重要な原因創造の機会とする。そのためのかけがえのない協力者として、生命源からなる意思に照らしてずっと人間本来を自然体で生きていた生命と、原因の融合とその調整を重ね、その相手より先に、彼は、あの時(釈迦牟尼)以来初めて、人間時間の経験(転生)を選択する。彼は、後に道元となる子の父親としての人生を生きる。

9/09

5.悟りを、仏陀の生涯と結び付けて捉えようとする時、そこには、そんな気もなく真を外し(真剣に生きようとはせず)、その外れた場所から真を求めるその自らの姿勢に自己満足するという、他者依存の、人任せの自分がいる。何をもって真であり、正しさであるかの、その手前の心持ちに真があれば、正しさが普通であり、その正しさも、大きく真を成長させ得る柔軟さと包容力を備える普通の姿となる。仏陀は、ただそれを実践したに過ぎない。

その過程では、いくつもの正しいとされる制約の中、何人もの人の心を悲しませ、多くの人の経験の記憶(正しさ、普通)との軋轢を経験する。それでも真を成長させるべく、更なる普通を選び、人の普通をやむ無く退けなければならないその理由の全てを受容した彼。仏陀が真ではなく、真を生きる普通を人生としたのが、仏陀である。

仏陀が悟りを開いたのではない。悟りの中に居る仏陀が、そのことに気づいただけ。その普通が、他のそれとは余りの違いがあったため、彼の姿は、多くの人たちの辿り着くべく理想の対象となってしまった。そのための、その後の在り様。この今に至る、仏教(宗教全般)の悲しい現実。この無有日記を通して、人としての普通の質を進化させる真の実践(悟りそのものの人生)を、共に具現化させる。それは、仏陀の望み(仏教)である。

9/09

「歴史の芯(22)」が無有日記に登場する頃には、次なる文章「仏陀の心」が先へと進んでいて、ここでその2つが同時に読み手のところへと流れ出すという、面白い機会を得る。そのことが意味することは思考の域には無いが、この9月という、毎年この時にとても大きな原因づくりが自動的に為されてきたことを思うと、このタイミングは、これからに向けての、かなりの強力な連繋の要素となる。それは、まるで、人間時間(人生)の更新のような変化の時。ここから、新たな次が始まる。みんなをここに案内した形無き原因の世界の意思も、より滑らかに動き出す。

9/08

4.悟りの境地を仏陀が求めたわけではなく、悟りという世界が、彼に、その真実への理解を求める。人間の世界に、人間が生み出し得るその世界は、どこにも無いこと。それを探し求める思考(感情)自体が、悟りの真を歪めていること。それに気づき、思い出すことを、悟りは、仏陀に促し、そのための手段を講じる手立て(発想、縁の繋がり)を支え、その時(真に感得する時)を待つ。仏陀の悟りへの道は、その世界の、彼への要請である。

仏陀は、確認作業のようにして、悟りへの修行とされる行為に触れ、そのひとつひとつの本質を見極めるべく、経験と感応を高める。価値判断の域には居ず、心の自由と遊び、そして、そこを離れて、次なる新しい時を創り出す。すでに悟りは、仏陀と重なる。それを、彼は知ることはない。

悟りは、悟るものではない。悟りは、悟る人が創り出す、何でもない中庸の世界の、その普通の意思との融合(同一)である。

9/08

4.人の生きる自由を力で抑えて、怖れを抱かせ、その経験の記憶を利用して、その人の脳の中に入り込み、全てを支配していた彼らであるが、その手法が全く通用しない人間の態度によって、逆に自分たちが怖れを抱くという、彼らにとっては考えたくもない嫌な現実を、その男性との関わりを通して経験することになる。本性をむき出しに、彼への憎悪を強めれば強める程、(その感情をはね返されて)自らの本質である恐怖心に包まれてしまうという、自家中毒のような状態に陥る経験は、信じ難く、耐え難いものである。

それをどうにかするために、蛇頭級の男たちは、手段を講じ、彼の亡骸を焼き、転生の糸を断ち切る呪術をかけることにする。しかし、恐さから始まるその行為は、自らの本性の遺伝子のルーツをさらけ出すことにもなり、彼の中に、その正体の微細な原因は次々と取り込まれてしまう。もちろん、次元が異なるゆえ、転生を支配することは、永遠にあり得ない。彼は、姿無き状態でいても、淡々とすべきことをし続ける。

言葉を交わすまでもなく(意識するまでもなく)、大切なことを感じ合い、互いに支え合い、愛し合う自然体の感性を尽く壊されていた人々は、その存在たちの意識が不安定になったこともあり、男性の死をきっかけに、本来が深くから呼び醒まされ、健全で力強い感性を取り戻す。そこに在る、不自然で不健康な環境にも、知恵を働かせて柔軟に対処するようになり、それによって、蛇系の存在たちの行為も、恐怖支配のそれから、徐々に外れていく。

村人の生活全般を支配していた存在たちは、次第に内輪もめを起こすようになる。人を陥れて苦しませる方向性は同じであるがために、彼らは組織のようなものを運営していたが、元々、支え合うことも、協力し合うことも無縁であるため、一度そこにひび割れができると(それまでのようには行かなくなると)、それぞれの生来の凶悪さが活動的になり、同質の存在であっても、いがみ合い、潰し合いが生まれる。そして、彼らは、およそ3つに分裂し、その集団活動は、別個のものとなる。

9/07

3.仏陀が抱き続けた想いに、時を超えて自らを重ねてみるという、生命の体験。彼を知るのに、それ以外の手段は無い。彼の素朴で真剣な意思を、知識として知っていることで、不自由にさせてはならない。知識から始まる教えがあるとすれば、それは、一生を通して無責任に生きる人の、その体裁(体面)の道具である。

彼は、行という形を日々修め続ける。それは、その行為が、安全に過ごすためには一番の選択であったから。不穏な存在として力で抑え込まれる対象になることだけは、何としても避けたいがため、修行する姿を通して、世のあらゆる争い事とは無縁である姿勢を貫く。もちろんそれも、彼の本能的な行動である。

そして徐々に、求道関わりの因習全般から自由になり、自らの中に在るものの、その創造の力に身を任せるに従い、彼は、縁ある人たちの問いに、応え始める。それ自体が、何よりも修行となっていく。

9/07

3.本性を顕に、醜い否定感情をその男性に浴びせる、元蛇の脳であった存在たちは、それでも全く意に介さず、普段のままの彼のその姿に、次第に怒りと悔しさを募らせ、自ずと凶悪な本能がありのままになる。彼は、その機を逃さない。今までになく感情(本性)が高まった分、触れやすくなったその原因となる部分の、ひとりひとりの個性を、自らの中に次々と取り込み、コピーする。それは、向けられた凶悪な意思が、何も出来ずにはね返って、その元となるところへ戻る際に、一緒になってその場所へと連れ添い、その中身を全て覗いてしまうようなもの。それは、その時から2500年程の後の、現代、大いに活かされる。

地面にうつ伏せのまま、両腕を押さえ付けられたその男性は、何の抵抗もせず、流れに任せ、そして頭を割られ、命を落とす。ところが、怖れも不安も何も無く、空気のように姿を消した男性のその本質のあり得なさと密に融合させられたため、彼らの意識は、混乱する。姿が無くても、そこに在り続ける、別次元の粒子の性質に震えおののき、それまでの重たいままの体制と本性の共有の全てが崩れやすくなる。彼の生命の意思は、身体を終えた後も、仕事をし続ける。

その危うい存在たちに取り込まれ、彼らのための仕事をさせられながらも、その経験が貴重であることを本能的に知る人。どんなことがあっても、生命本来の価値基準を外さず、人間としての真(心)を繋ぐ意思を力強く高めていく人。そして、そんな人たちの支え役であり、協力者であり続ける人。それらを余裕で把握するその男性は、その後、ずっとその人たちの人生を見守り続ける。

9/06

2.仏陀が人々に伝えた話は、説法や説教というものではなく、そのどれも、彼を通る、日常的で自然な理解である。誰に対しても、何の用意もなく、その人にとって大切なことを言葉に出来るのは、聞き手(受け手)が抱える悩み事や問題事の原因が、彼の中には無い、歪で不自然な環境(社会)との関わりの中に在るため。彼はただ、自分の場合の普通を語り、そこに案内する。人は、その普通に触れ、癒され、安心する。

物事の本質を掴み、道を究めようとする人には、同じ問いでも、100通りの答を用意できる。彼には、求める結果も、残す形も無いので、そうではない人には、今居る場所から出られる道を必要なだけ差し出す。その気が無ければ、何度でも付き合い、そうであれば、温かく放って置く。後者は、すでに仏心となる。

仏陀の話の中での、喩えや寓話とされるものは、求め、さまよい、頭で分かろうとする人のための、当座の方便の類である。心のままに、自分に正直に生きる人には、それは必要なく、その人には、抽象的な話と、物事の本質そのものとなる言い回し(発想)で、その心を強くさせる。そんな人に、彼も学ぶ。

9/06

2.初夏の頃のある日、祭壇の前に集められた村人たちの中から、一人の男性が、その妖しい姿の女性に呼び付けられる。彼は、平然とそれに応え、一切の不安も緊張もなく、いつもの遊び心をそのままに、壇を上っていく。

その光景を、人々は、見ることが出来ない。人は皆、脳の働きを牛耳られ、身体は固まり、地に伏している。目は開かず、耳は聴こえにくく、何が起きているかも分からなくなっている。おぼろげながらも、僅かに(かすかに)感覚を維持させる人もいたが、状況の推移をくみ取るまでには至らない。そして、意味不明な時を過ごした後、人々は、事の終わりを告げられ、住み家に帰る。

壇上(台座)に居る女性がその男性を呼び付けた直接的な理由は、神聖で、畏怖・畏敬(恐怖支配、服従)の象徴であるはずの祭壇で、それを茶化し、戯け、面白がる行為を彼がしたから。彼は、それ(祭壇の威力・威光)が全くの嘘であることを人々に気づかせるために、そこで遊び、支配者たちの怒りを買う。

彼らの呪術的な力の行使にも全く動じないその男性は、その女性に近寄り、虚偽の指摘と、人間であれば(人間を生きるのであれば)決して行ってはならないことを、強い口調で、厳しく話す。彼女は、憤怒の極みに達し、体を震わせ、同質の存在たちに、彼を連れて行くよう命じる。

9/05

1.縄文時代の終わり頃、インドの地で釈迦牟尼(仏陀)が行をしたのは、立場をはっきりとさせて、身を守るため。その手前(原因)には、時代の価値概念から離れることの必要性を、切に感じていた彼がいた。それだけで充分。当時の時代背景の中、彼は、彼なりの生を生きる。

思考型の発想をゼロにして、仏陀に触れると、彼にまつわる修行や悟りの世界が、全く違った意味合いで伝わり出す。人として、自他の生命を大事に生きること。彼は、普通の人。その時代は、それだけでも凄いことだった。

事実が認識へと変わる時、なぜそれがそうであるかの理由が外されたままだと、自由そのものの思考世界に要らない枠が生じ、事実の中の何でもない真実が、作り物のそれ(特別な真実)になってしまう。それを踏まえ、仏陀を知る。そして、彼の中の普通に学び、その普通を実践する。知識世界のどこにも存在しない彼を、経験枠内の思考で捉えることは出来ない。

9/05

1.大きな岩石の形状を利用して作られたその壇は、上部に台座が設けられ、戒め(洗脳、服従)の儀式や政の場として使われる。神聖で特別なものとして位置づけられるその場所は、それだけの理由ではない何か別の、異様で重苦しさを感じさせるものがあるため、人々はそこには近づかず、それを意識することからも離れている。その直感的な感触は、得体の知れないものへの恐さ。不自由さを強いられながらも、生きる力だけは失くさずに維持し続ける彼らの本能が、それとの接点を頑なに遠ざける。

その祭壇は、林に囲まれた広場の隅に在り、蛇の脳と奇形を経て人間になった存在たちは、事あるごとに、一人の女性をそこに座らせ、周りを囲む。彼女は、高慢で、自意識の強い、後に聖徳太子の妹となる存在。同質の人間は、彼女の性分を利用し、彼女も悦に入る。人々は、好印象を醸し出す彼女の仕草を通して、その自覚もなく負荷を重ね、彼女のためであれば頑張れるという、不自然さを普通としていく。

その異常さを馴染まさせられた、ずっと以前からその地に住む人たちは、指示されると、子供たちを家に残し、その広場に集まる。その数は、100人以上。彼らを支配する、蛇の脳の中に居た経験を持つ数十の存在は、その女性を中心に嘘を演じ、人の脳を操り、何もせずに利する側で、世の苦しみを強めていく。

9/04

こちらの電柱も、あちらの電柱も、その向こうの電柱も、そのずっと先の電柱も、これまでのストレスを発散するかのように、動き(傾き)出した。LEDに汚染された雨水(水分)は、土中の状態を(無生命化させつつ)ぐんぐんと脆くさせ、あらゆる建造物の土台を崩す。道路(歩道)の陥没や電柱の傾きは、その前段階。この先、傾く電柱と、でこぼこと汚れた舗道が、各地であたり前の風景となる。

LEDによって、電柱が僅かに傾き出したのは、6月頃。道路の沈下も、その頃から加速した。一度始まったら、劣化は速く、その脅威は、想像の域を超える。この秋には、どうなってしまうのだろう?改めて思う。オリンピックどころではない。

9/04

7.地球自然界や太陽の意思のように、宇宙空間は、限り無く自然で、永遠の調和である。どの場所の、どの星も、それ自体が全てであるひとつの個性を持ち、生命力を躍動させて、宇宙空間の在り様を支え合う。彼らは皆、地球が好きである。太陽とそれとの優しい関係を嬉しく思い、その姿に常に癒され、力強くありのままでいる。みんな、地球を愛し、太陽を誇らしく思う。

その宇宙空間は、そこでの経験の内なる形であり、その経験の外側という別次の世界が他に在ることで、宇宙は宇宙でいられる。つまり、宇宙には、宇宙の外側が在り、その全く相容れない両者の性質によって、永遠の住み分けが実現しているというわけである。当然、宇宙の外側には、(宇宙空間の)自然と調和は無い。進化させ得る生命活動も、支え合う関係性も無い。そして、その場所から、どういうわけか、何層もの時空の壁を突き抜けて入り込んだのが、その星の存在理由となる、宇宙空間には無いはずの無生命化の原因の意思である。

このことを通して、物理的な概念に思考が触れれば、瞬時にして、その方向性の全てがムダになる。しかし、原因の世界は、限りを知らない。そこに在る、在ってはならないものの原因深くに入り込み、自由に時空を透過して、その働きかけの多次元化を普通とする。人としての、心ある原因を持たない存在の、その元となる世界へと、順にその理由(原因)を遡っていくと、そこには、宇宙の外側の、宇宙には無い原因が在る。

 

8.この地球は、今、地球ではなくなりつつある。この宇宙には存在しないはずの異物が、その原因の意思のまま暗躍しているため、宇宙全体が、その煽りを受けて、おかしなことになっている。だからと言って、闘うことは何も無い。まずは、LEDを外し、その動きを止める。そして、山は、山に、海は、海に戻す。神社やそれ系の仏閣は、形あるものの中でも、残してはならないものの代表である。

人間が、宇宙の外側の意思を相手にすることは不可能だが、これまでの経験や知識(記憶)を白紙にするぐらい、経験の外側を招き入れれば、その経験の原因が、世の常識を遥かに超える仕事をし、その意識もなく、宇宙空間が安心する原因を高めることになる。当然そこでは、繋ぎ行くものとそうではないものが明確になり、その原因のところから、心(本来の普通)が活動的になる。地球は安心し、太陽は喜び、宇宙全体は、ありのままの変化と調和となる。

海の生物たちが生きにくさを覚える時、地球は、末期症状である。これまでの海の姿を思えば、それは、誰でも分かること。その時を、LEDは作り出す。そして、(現代に象徴されるように)人の心が思考(頭)で扱われる時、人間社会は、退化の一途を辿る。心は、全ての原因であるゆえ、そのことは常識的事実である。LEDの原因が、その動きの無い思考を下支えし、神社の木々は、そこに在る負の原因に敏感に反応する。この時、自然界の動植物たちは、正直に、その影響力を体験する。その意思に、身が引き締まる。

歴史の芯は、二度目は無い。無視されれば、後が無いのだから、それは当然のこと。その原因は、唯一未来が笑顔になる、自然界の望み。そこに、要らない思考は使えない。

21章まで続くとは思わなかった、歴史の芯。もう無いと思う。たぶん。さて、これから。時代の好転反応は、まだまだこれから。まずは、蛍光灯の部屋(店)で、美味しいコーヒーを飲もう。

9/03

どんな人も、LEDの事実に触れたら、即LED照明外しに動かないと、時はもう遅い、というところに来ている。「LED感染」(11)(12)でも、「LEDの影響」()()でも、そのどれかに縁したら、この地球に生きる一生命として、人間らしく、人間の責任を果たす。それは、LED照明(ライト、ランプ)を外すことから始め、そのための躊躇は、人間として、情けない(人としての意味を持たない失格の)自分であると認識する。LED化を放って置ける人間を、時代は、人間扱いしない。それだけのことが、今、起きている。

9/03

LED(雨水、ライト)による道路の亀裂は、陥没へと繋がり、地下に在る水道管やガス管の劣化(破損)を招く。その手前では、電柱や街路灯が傾く。一度事が生じれば、当然修復作業が為されるが、そのことで、一層地盤は脆くなり、悪循環の質は高まる。

地中に染み込むLED水の負の力(威力)を甘く見てはならない。それは、全てを破壊する恐ろしい生き物のように、人々の生活環境を次々と蝕んでいく。世に生み出された、省エネという名の怪物は、嘘の原因を土台に、人々の財産を潰していく。

 

㉒環境のためと、頭(言葉)から始まるから、その実そうではないのに、思考が自由になれず、修正も難しくなる。どう考えても、それは距離を置きたい(不健康で不気味な)光なのに、省エネと、繰り返されるから、本当のところはどうかという発想も持てなくなる。

動植物たちの悲しみを思えば、LED照明に平気でいることが危うさになる。LEDに汚染された雨水とLED照明によって、壁(塀、屋根)や道路にひび割れが生じる事実を知れば、LED照明を外せないでいることが危うさになる。

LED化を進める役所の人間は、まるで破壊ロボットのように、それぞれの町や村を破滅させる仕事に勤しむ。

 

㉓自治体の職員の多くが、LEDの危うさを知らされても、それを無視でき、その事実を見せられても、何も感じないのは、住民のための仕事を彼らがしたいのではなく、住民のための仕事に就いていることで完結する(満足する)という、普通ではあり得ない意識の停滞を生きているから。彼らは、自分たちがLEDの害を被ったとしても、それに耐える(それを無しに出来る)力を持つ。どこまでも、国の危うい施策を能面の態度で支え続けようとするその姿勢は、自分たちが無事でいられれば、他の人の人生(命)はどうでもいい本性の現れ。LEDの危うさがどれ程であっても、彼らは、無感覚に生きる。

そして、国の方針が変わると、即、それに従い、変わり身の早さを競う。そこに、人として生きる姿は無い。

 

㉔そうとは思わせない狡さを内にしつこく秘めているから、嘘も、本当として生きられる。

LED化を支える自治体の担当者は、決められたことを正しさとし、それが本当に正しいかどうかなど、眼中には無い。つまり、意識の停滞。立場(地位)が全てである彼らは、すでに嘘の原因の中に居る。

LED照明による、街の風景も含めた自然界の汚染は、LED化を進める自治体の担当者によって支えられ、彼らの本質と同様、崩壊へと向かう。それでも平気でいられる(偉そうにしている)のは、心の無さによる無感覚と責任逃れ(嘘の原因を力に本当を生きる偽善)が、板についているから。虎の威を借りるタヌキのような精神の彼らによって、自然環境は、腐敗していく。

9/03

5.太陽系の他の天体に、その存在たちの意思活動の痕跡が在るように、この地球での人間時間では、この国の神社に、それは在る。そして、土偶もそうであり、LEDと、それによる破壊・破滅の現場もそうである。

脳を操られ続けるこの数千年の間に、人間は、原因への責任感覚を放棄し、それによって引き寄せられる、どうにもならなくなる状況を前にして、その結果に嘆くという、自らが、負の連鎖の材料であるような人生を歩み続ける。人間という存在自体の自浄力は、すでに力を無くし、人は、作り物の心と感性で、ロボットのように生きる。いつしか、どうにもならなさの許容は増え、動物たちが苦しんでも、自然環境が破壊されても、それを他人事に平気で個を生きられるまでになり、今、LED化を肯定するという、その恐ろしい結末を生み出す原因の中で、もうどうにもならないと、嘆く準備をする。それを、救いようのない愚か者と言う。

地球での仕事を終えると、彼らの意思は、次なる仕事へと出向く。太陽は、一気に力を失くし、宇宙空間は、希望の光を失う。この宇宙のどこにも無い、太陽と地球との調和のある関係は、止まることのない無生命化への流れに為す術もなく、終わりの時へと向かう。遠い未来では、真っ黒な地球が、寂しく漂う。

 

6.歴史の芯のその原因を自らに重ね、ここに在る身体時間を活かして、生命としての人間を生きる人たち。彼らには、その上で経験することになる、ここでの新たな意識、生命の知識が在る。それは、その星が、なぜ存在するかということ。

歴史の芯の内容を体験的知識に溶け込ませて過ごす中、生きる基本形は、次第に生命としてのそれとなり、理解の次元も、原因のままでいられる、多次元的なものになっている。だからこその意識と理解の時間は、その限り無さ自体が新たな意思を持ち(帯び)、全く別次のそれでいて、あらゆる現実世界のその原因を浄化し得る力として、その役を担おうとする。歴史の芯の世界の、その普通世界を基に、そこへと歩み出す。

誰もがみんな経験したことは、事実として認識され、そこでの理解は、真実となる。ところが、そうではなく、これまでも、これからも、それが誰も経験し得ない性質のものである時、それは、経験の外側として、意識するに値しないものとなる。しかし、形ある世界が、形無き世界に支えられているように、経験も単独では存在し得ず、経験の外側の世界が在ることで、人は、様々なことを経験し、意識することになる。

その星へのEWは、難しいことではない。ところが、無生命化されたいくつもの天体は、その星のコピーのようになり、同質の意思で、同様のことをそれぞれが行う。つまり、その星の場合も、そうであるその姿を生み出した別の星があり、その別の星も、また更に別の星が、背後に在るということ。そのオカシなシステムに真面目に付き合いつつ、そうではない時をここに創り出す。

9/02

J感覚神経を鈍らせ、健全な判断力を無くさせるLEDは、元々そうである、権力を笠に着る人たちのその公的な仕事には好都合で、住民の、自分たちへの違和感や素朴な疑問を遠ざける(住民に泣き寝入りさせる)力添えになる。

そんな人たちが多数を占める役所は、代表(首長)をより権力志向にさせ、より強い笠に着て、住民無視で、事が進められる。LED化は、(役所の)自分たちにとって、責任の無さと感覚の危うさを守ってくれる(そのままに出来る)、頼れる存在である。

 

KLED照明の危うさに鈍感でいることで守り通せるものを大事にするために、人間本来の在り様を返上する。それを率先して実行するのは、心無い首長。それにより、各部署の、LEDに全く反応しない人たちの生活(異常)は、守られる。心ある人々(住民)の生活は、次第に苦しみとなる。

生産的なことも、創造的なことも無縁の、市区町村の役所の多くの人たちは、そこに居続けられるための条件である、LEDへの無感覚振りを徹底する。地方自治体と住民との、その精神性の隔たりは大きくなる。LEDだけでなく、人々の苦しみにも鈍感でなければ、彼らの生活は苦しくなる。

 

Lどんなものでも、LED照明によって確実に劣化する現実。それを、どんなことがあっても認めようとはしない存在の非現実。

そんなことが有っては困る人たちの自己洗脳のような妙な力によって、人々の生活環境は、悪化していく。バスターミナルも、駅のホームも、まともな(安全な)場所は無くなっていく。責任ある立場の人の無責任さは、LED化により、その質を一気に上昇させる。

 

M山崩れも、道路(宅地)の陥没も、雨漏りも皆、その原因には、LED照明が深く絡んでいる。そして、その事実の後ろ盾のような原因には、各自治体の責任ある立場の存在がある。

LED化が進んだことで、人の心は、その危うさにも反応できない程、停滞している。危機に出会しても(瀕しても)、その原因であるLEDの存在は遠い。それが、LEDの恐さ。「まさか、そんなはずは…」と思っているうちに、街も農村も、山も海も崩れ(壊れ)、住む場所も無くなっていく。この今ほど、自治体が、未来のために機能していない時は無い。

 

N事なかれ主義を狡賢く生きる人たちは、その自己本位の保身をそのままに出来る代表を選び、その人を熱心に支える。LED化で得する彼らは、お金のためだけに生きるその野蛮な姿勢を、支持する人が関わる法の力で守ってもらい、無責任さを正しく生きる。彼らに支えられる首長や議員の、そのどこにも、真に人のために生きる姿勢は無い。LED化を支持する首長は、LED化の負の原因と融合する人たちのための、その醜い代表(親分)と言える。

 

OLED照明による被害の大きさ。それは、償いようがなく、謝って済まされるものでもない。そして、とても悲しい話だが、その責任の所在は、初めから特定されないようになっていて、そのための段取りは、巧妙に、狡猾に、時の政治家と経済の代表たちによって、法的に(正しきこととされる手法で)為される。誰も、それに抗えない施策の中、自然環境は壊され、所有財産は、価値の無いものにされる。それが、LED化の原因という、恐ろしく凶悪な意思の力である。

それでも、やらなければならないこと。LED照明を外す。それだけ。地球のための原因となる実践で、LED化の原因を浄化する。人は、それを出来るはず。

 

P自治体の職員たちが困るのは、地域住民が困ることであるはずなのだが、どういうわけか、彼らには、国や県にその姿勢を問われることが何よりの困り事となる。だから、そうにはならないよう、住民の安心・安全よりも、国の方針であるLED化を全面的に支持し、その無謀で非情な負の原因(破壊型の性質)を、地域に流す。この国では、良心(良識)と愛情の欠けた人ほど、公務員職に適している。

 

Q木々が朽ち、山が崩れやすくなっても、道路(宅地)に亀裂が生じ、陥没し出しても、何の責任も覚えず、LED化を止めない人たち。LEDに汚染された雨水は、人々の生活の基盤を確実に壊していく。全ては、街路灯(防犯灯)のLED化から始まった。それを決定した人(役員、首長)の責任は、重大である。

 

Rビルも道路も、トンネルも地下道も、全て、この自然界でムリのないよう、自然界に支えられるようにして建造され、安定・維持されている。その自然界がLEDによって確実に壊されつつある今、その全てが、徐々に崩れ始める。自然界に守られてきた安心は、自然界のバランス崩壊により、不安(怖れ)へと変わる。水がLED化するということ。それを役所の誰も止めようとはしないこと。恐ろしい限りである。

 

S壁と地面の間に大きな隙間が出来るほど地盤が沈んでしまった姿は、そこに住む人々にとって、とてもショックである。そこから入り込む、LED化した水(雨水)により、基礎は劣化し、家屋(ビル)は崩壊へと向かう。それでも、動こうとはしない自治体。彼らの姿は、かつての、志の無い(心を無くした)武士のよう。形式と体面だけを重んじて、人々の暮らしを軽んじる。LED化は、現代版の、差別と迫害にも通じる。

9/02

3.彼らが時間をかけさせられることになる予想外の事実は、陸と海とでの、そこでの生物たちの住み分けである。人間になっても、それは陸の上でのみのことで、海では生きられない。そのため、陸に居て、海を病ませ、海の自浄力を無くさせる手段を取る。彼らは、神社の元となる嘘の神々を利用して、人々への支配を強め、その脳を操り、海への負の影響を強めていく。この国の昔からのイルカ漁とクジラの捕獲は、そのためである。人間は、元来、余程のことがなければ、海の哺乳類動物の生命を奪うことは出来ない。

彼らは、海と陸との中間で、それぞれに生きる生命たちを支え、その二つを繋ぎ続ける沙(淘ぎの原因)の存在に怖れを抱き、そこに在るその揺るぎなさに、拒否反応を示す。それゆえ、その苦手意識を処理するために、その場所での暴挙(処刑)を繰り返し行う。この国の浜辺(海辺)がそれらしくないのは(不健康なのは)、彼らの仕業である。

それでも、海は力強い。陸に生きる生命たちの母なる存在でいて、時を癒し続ける。地球の意思をそのまま体現し続ける海の生命たちは、何があってもただそのままで、自らの分を生き、地球を支え続ける。

 

4.地球を死滅させるその決め手となる道具に、彼らは、LEDを使う。その強力な負の原因の供給元は、彼らの母体である、その星。地球に存在してはならないその威力(LED)で、微生物は、仕事を失い、土や木は、無生命化する。雨は、LED水となり、動物たちは、生きる場所を無くす。

LEDは、海の自浄力を弱める。そして、海の生命力は、次第に無くなっていく。地球を守り続けている彼(海)も、地球の異物であるLEDにはかなわない。その全ての原因である(異生体からなる)存在たちの意思は、そこに在る嘘の原因を正しいこととし、人が抗えない力でもって、それを進める。恐ろしい限りである。

この地球を大切に守り続けることは、生命としての責任である。そのために、LEDを外すことは、人としてこの時代に生きる上での、義務である。生きる原因を、蛇の脳のそれにしてはならない。地球の傷みに、無感覚であってはならない。LEDがそのままであれば、繋がる未来を持たない結果が、終わりの時を引き寄せ、LEDが無くなれば、それが繋ぎ行く原因となって、地球は、生命力を取り戻す。

立場や境遇を理由に、逃げている場合ではない。地球に対し、犯罪者になってはならない。その存在たちが嬉しい場所に居て、彼らの意のままであれば(LED化に持っていかれたままであれば)、この地球に住み続ける資格は無い。

9/01

@人のため、みんなのためと頭で思うことで(思うだけで)良しとする不穏な姿勢が、結果、人のためにならず、みんなが困る状況をその意識もなく生み出していく。LED化を支える首長(市区町村長)の多くは、あたり前に人のためになる原因でいる自分を持たない。役職や肩書きが仕事をするのではない。人のためになる原因の仕事を真剣にする人が、その役職を活かす。

 

A道路(宅地)に亀裂が生じ、陥没しても、地盤が弱り、電柱が傾いても、その重要な原因を知ろうとはせず、そのままに出来る、市や町の役員(職員)たち。LED照明による災いは、人としての感性(生き方)が健全であれば、誰もが普通に知り、地方行政に携わる人であれば、真っ先にそれに対処する責任を担う。その責任感覚を持たない人が地方の役人(役員)である時、心ある普通の人たちは、LEDに汚染され続け、生きる力を失くす。

 

B街の汚さは、LED照明とLEDに汚染された水(雨水)によってもたらされたもの。LED照明が無かった時のことを思えば、人は普通にそれを知る。歩道や塀、壁や屋根の変色、そして腐食。LEDによる建物への悪影響は、一度始まったら、加速する。その責任は皆、あれやこれやと(そうであろうと)理由を付けてLED化を進める、市や区の、偉い(とされる)人たち。彼らの観察力の欠けた見識が、街や村を壊す。

 

C立場上の理由で、無責任さを地で行こうとする、道路や環境の保全を担当する人たち。そして、彼らを上回る無責任さを日夜凝り固める、LED化で利する、議員や市長(区長)。LED絡みで生じる、住人の困った事情も、彼らには、どこまでも他人事。立場を守るために、立場の弱い人たちの想いを退け、自分たちよりも立場の強い人の機嫌を伺う。その職務は、人々のためではなく、お上の人のためにある。

 

DLED照明が外されなければ拡大する、その負の原因による、生活環境への悪影響。ところが、その責任を担うべく役所の人たちは、悲しいかな、実体験しても(現場に出会しても)、それを無視できる能力を備える。数百年前の、変化・成長の無い主従関係を未だ実践する。

この国の実に危ういところは、人を通しての自浄力が無いこと。そのための原因の動きが、安定しないこと。地球環境を確実に悪化させるLED化がそのままであるのも、地方を治める人たちの、悪政(国の愚策)への献身的な奉仕が為されるためである。それは、世にも悲しい現実。

 

E環境や動植物たちのことを考えれば、LED化を放って置ける理由は、誰も持たない。LED照明(街路灯)を設置する理由を持つことも出来ない。それは、市役所も県庁も同じのはず。それぞれの首長は、誰よりも人間味のある、人間らしい性分を持ち合わせているべき(いるはず)であるから、LED化を進めることの危うさを当然知り、そうではない道を差し示すことを本分とする。

山は崩れ、海は力を失くし、人の住む世は不安で一杯になる、LEDの、姿無き負の影響力。全国各地の道路の亀裂は、大規模崩壊の兆しである。

 

F科学的根拠が無ければ、動こうとはしない人ほど、体験的知識の質は薄く、無自覚の無責任さを、本能的に隠そうとする。それまでには無かった不自然な様が、LED化が始まってからのものであるとすれば、科学的(専門的)見解を待つまでもなく、それを止め、様子を観ることを選択するのが、普通人間の姿。そして、その後、人が手にする、その理由となる科学的根拠は、当然、公的機関や国との利害関係が全くない複数の研究所発の、総合的で、未来への責任ある性質のものとなる(ものでなければならない)。

まずは、動く。科学的な観察(検証)は、後でもいい。人は、いつの時も、体験的知識を基に、生きる力を付けている。LED照明を外すために動くべく感性そのものが、取るべき生きた理由(根拠)である。

 

G自然界のバランスを容赦なく壊していくLEDは、自分が尽く不自然であることを自覚できない、形ばかりの良い人を生きる存在たちによって生み出され、支えられている。その存在が、国や地方の責任ある立場である時、未来は壊れる。

それまでは何とも無かった木が腐り、朽ちる(倒れる)というのは、木の生育に関わる全てのものが異変を起こしていることを現す。道路に亀裂が生じ、壁や塀が変色(劣化)するのは、土も雨水も空気も皆、不自然になっていることを意味する。

自然界のバランスを壊す程の災厄は、この世には有ってはならない。LED化を進め、支えている人たちのその原因(本性)の危うさは、まさに地球規模である。

 

Hこの国の、世にも不思議な珍事は、各専門分野の誰もが、LED照明のその危険な性質(事実)に背を向けているということ。農作物、樹木、道路、建築、環境、動物etc.そのあり得なさは、お化け屋敷の名演技級である。人が居ない。

LEDの真の姿(本質)は、次々と嘘をあぶり出す。ずっとどうでもいい肩書きばかりで、意味の無い人生を送ってきた人たちのその本性を顕にする。

専門分野に居る自分(の立場)を活かす気持ちが少しでもあれば、そこかしこに、LED照明による被害の様を見ることが出来る。専門分野の人たちの質は、そのまま、この国の質。LED化に違和感を覚えない専門分野は、人の住む世界では、どこにも存在しない。

 

Iその昔、人は、地球と共に生きていた。それが、管理し、管理される(支配し、支配される)関係を築き、それを維持する中、人は地球環境を支配する感情を持ち始めてしまう。

LED化は、支配欲と傲慢の具現化である。LED化は、破壊と滅亡の道具である。LED化は、地球から最も遠い意識状態を普通とする存在の、地球に対する抵抗である。決して、それは、言い過ぎではない。人は皆、地球を何より大切にする、地球に生きる一生命であり、同じ地球に住む生命(仲間)たちが悲しむことは、決して望まないから。

9/01

一度大きく崩れ始めたら、二度と元には戻れなくなるその時を回避するためには、まだそれが少しの間に、そうにはならない選択(原因)を実践する。

地球を、生命たちが住めなくなる場所にするのであれば、LED化を続ける。地球を、ずっと生命たちが生き続けられる場所にしたければ、LED照明を外す。

誰のためでも、何のためでもなく、地球のための原因を生きるのが、地球に生きる人間の仕事。この2017年後半の生き方は、この地球の未来に、最も影響を及ぼすものになる。電柱が倒れ、山が崩れ、道路や宅地が陥没してからでは、遅い。LEDの影響(5) (6) (7)

9/01

2017

1.原因の世界の、多次元的なアプローチは、無限である。この国の歴史も、生命としての原因がそこには無いというだけで、そのあり得なさに、自由に反応する。つまり、心の無さは、原因の世界では、青空に突如浮かぶ孤独な雨雲。それは、分かるという次元のその手前の手前の常識となる。

そこに蛇が絡む現実(時代)があるとすれば、その異物感は、浜辺のはかま姿、しめ縄の納豆、神社に住み着いた縄文土器子。それらは、原因の世界で泡のように浮き上がり、顕になる。何も無くても全てが有り、どこに居てもどことも繋がる原因は、何かでしかない結果(という動きの無い原因)を、そのままにすることはない。

その普通は、この今の世には無く、この世が、その普通の中に在る。人の生きる原因が滞れば(結果に留まれば)、それは永遠に無となり、原因がそのままであれば、それはいつしか、無の中の有となる。そして人は、その普通の中で、生命を生きる本来を普通とする。そこから見える風景は、自然界の意思そのもの。全ての原因が、自らの原因(心)を通り、そしてそこから生まれ行く次なる原因は、地球のそれと重なる。多次元的なその原因は、地球をも包み込む。歴史の芯は、地球の外側からのそれへと、その原因を変化させる。

 

2.巨大な無生命の意思のかたまりであるその星は、その意思活動を展開させる中、初めて、どうにもやりにくい天体と出会す。それまでは、どんな天体も、その意思のまま、覆うようにしてそのどれをも化石化へと事を成し得ていたが、太陽はそうではなく、その生命の力に緊張を強いられる。地球は、そこに在る水(海)と微生物の扱いが難しく、そこに太陽からの、生命源と繋がる原因が供給されていることで、時間ばかりが過ぎていく。

太陽系の中では、地球だけが残ったわけだが、その星からの破壊と征服の意思はそれまでと変わらず、そうではない経験を知らないその力は、当然(この地球を)無生命化させ得るつもりで、その手段を講じつつ、事を進める。そして、蛇の脳の中に入り、奇形を経て、人間となる。

地球のいくつかの場所を拠点に進められることになるその活動であるが、四方を海で囲まれたこの国でのそれには、力が入る。人間の体を手にした、その意思を持つ存在たちは、あの手この手で、水を支配しようとする。

 

 

トップページへ