無有日記

 

12/30

LEDを発明した人も、LED化を進めた人も、地球規模の災い人ですね」「はい。このままだと、地球上で普通に生きて来た生命たち全てが腐敗型の空間に包まれるわけですから、言葉がありません」「2018年が、変化へのラストチャンスですかね」「はい。のすとらだますのかますの塩焼きを食べていたら、そういうことになりました」「そうですか。まずは、全粒そばと玄米もちで、新年を迎えましょう

12/28

8.本体は、そのままその質を安定させ、本人の人間時間に連れ添う。いつしか、「本体の彼(彼女)」も、「本体の私」も、その違いが無くなる時を迎え、次の生でも、その次の生でも、人は、ありのままに生命を生きる。三千年の時を経て、仏陀の普通は、普通に生命世界の主導権を握り、その間の歪な普通のその原因も、心ある人の本来(本体)によって、余裕で浄化されていく。

「歴史の芯」の中で厳しく辛い時を生きた心ある素朴な人たちの、その切なる想いは、現代に生きる仏陀と道元二人のその生命の意思をこの無有日記の原因と融合させ、「仏陀の心」を、ここに生み出す。そのことで、時代は安心し、時代の本質のその原因となる本体の次元も、それまでとは異なる風を吹かせる。「仏陀の心」は、みんなの心となり、水や空気のように、全ての生命を生かし、時を癒し続ける。本体は、人としての身体時間を、かつてのように、地球感覚のそれにする。

「仏陀の心」は、この10章を以て、次なる時代へのその確かな原因づくりの役とする。自由に、思うままに活用して欲しい。内容を知り、実践し、様々な反応を通して、自らの原因を成長させる。それだけでも、地球自然界は安心し、それだからこそ、人としてここに生きている意味がある。この時にここに居ることを大いに楽しみ、みんなで、普通自然体で、生命を生きる。これまでの時代に感謝し、これからの時代を祝福する。

12/28

8.心は、(経験の原因を収める)右脳に記憶された、自然界の一生命としての人間時間を普通に生きていた時の、その経験の性質(原因)のことであり、本体と本人の違いもなく、ありのままの姿(本質)が、そこには在る。心ある人にとっては、それはあたり前のことであるので、そうであることも分からない。心を大切にしようとする心の無さも、思考から始まる心の嘘も、心を普通とする人の心は、無縁である。

その右脳の本質を利用され、無くてもいい性質の本体を引き連れたまま、何度も生命本来の外れた人生を送らなければならなかった、これまで。その本体の姿を、ここで消す(消えてもらう)。そして、本体無しの時空を漂う自分を通して、「無有日記」の原因を存分に染み込ませた新しい本体を、さらりと心に重ねて、次なる時を生きる。原因を生きる本人のその原因がそのまま本体の要素となり、それが本人となり、本体となる。心が、それをしっかりと余裕で担う。

おかしな話だが、実は、太陽もその時を迎える。ずっと太陽らしさの無かった彼のこれまで。この時を待ち望んでいた生命たちのこと全てを見守っていた、その無くてもいい時の、彼なりの経験。その場所を離れ、それまでの経験を遠くに、太陽も、新たな太陽になる。太陽の原因が、やっと本来になる。

自然界の恵みである全粒穀物を摂らず、自然界が辛くなるLED照明を好む人は、太陽を避ける神社(神道)を支え、太陽の光を浴びなくても平気な日常で、動物たちの生命(命)を支配する。そんな存在たちが、人間としてこの地球に住む現実に、太陽は悲しみ、地球自然界も、辛い時を生きる。

そして今、そうではない時へと、新たな原因は力強く回転し、広がり出す。「歴史の芯」と「仏陀の心」を自らの原因と融合させつつ歩く人たちの心によって、地球は、地球らしく、太陽は、太陽らしく、人間世界は、生命本来の普通を中心に、元気に回り出す。人間は、人間らしく、人として、生命を生きる。

これまでの今から、これからへの今へ。重ね合う原因を、繋がり行く原因に。心が主導権を握るその場所で、人としての生命時間を、大いに楽しむ。「歴史の芯」と「仏陀の心」が在る、これからの時を、自らの原因で、変化そのものの本来にする。2018年は、終わりの無い、その始まりの時。全ては、これから。ここでの皆の原因は、力強く未来へと動き出す。

(そして、心ある人間と重なる本体は、これまでの理解が一切通用しない(とてもシンプルな)新たな次元の変化を経て、全ての病みのその大元となる原因の意思を、何でもない普通の中に招き(引きずり出し)、浄化する。そのことで、人としての変化・成長は、生命としてのありのままとなる)

12/26

7.不穏な世のその原因となる世界を、人間の無意識とその本性の遺伝子を中心に段階的に掘り下げ、そこで浮き上がる浄化すべき対象となる存在を多次元的に処理し、そして辿り着いた、これまでの本体の姿を消し得る、「歴史の芯」29章。そのことで、新たな息吹を生じさせた「仏陀の心」は、新しい本体の誕生を支え、その全てを自らと一体化させつつ、生命本来の真の普通を創り出す。生命を生きる人間として要らないものの、その原因を本格的に処理し得る時を楽しむ、新しい本体。「歴史の芯(29)」から、「仏陀の心(10)」へ。新たな時のその原因の始まりは、どこまでもさりげない。

本体を主に本来を生きる普通は、本人の在り様とその心の性質の成長を、どこまでも優しく見守り、支え続ける。その過程では、未消化の感情(経験)の記憶をも癒し、その原因となっていた存在を通る、ある不穏な性質の本体の様にも対応する。それは、本人が本体であるから容易となること。危うさを備える本体をそのままに、そうではない本人を上手く生きようとする人のその不自然さも、通用しなくなる。「仏陀の心」は、生命本来を普通に生きる人の、その本体の仕事を、いつでも、どこでも応援する。

12/26

7.そして、地球時間の次元を大きく離れた世界のその原因をさらりと言葉にしてしまうが、その存在は、太陽の形無き原因の姿もコピーする。その上で、自らの本体がそのコピー(太陽)となり、同じコピーの地球を自在に支配し、思いのままにその性質を操る。ここまで来ると、奇想天外のブラックファンタジーである。どんな恐怖シーンも、可笑しさの中に吸い込まれてしまう。それでいて、人は、その不思議さの中で、何気に実感し得る細胞の意思を聴く。ふといつのまにか、何が何だか分からない時を経て、大いなる生命の変化に乗っていることを知る。

その姿無き太陽と地球(のコピー)は、実際の地球での不自然さが安定していれば、そのまま永遠の余裕の中に居たが、人間の負の歴史のその原因が、文章に乗る新たな原因(エネルギー)によって浄化されるというこの時代の経験の中、それまでには無い意識が、無生命を本体とする主な存在たちにより(そこへと)向けられたことで、あり得ない奇跡的な偶然を以て、それらは、心ある人たちの感覚的理解の中に入り込んでしまう。地球規模の災いをもたらすLED照明への強い違和感も手伝い、そのことは、地球感覚の生命たちの本能(意思)を刺激する。それへのEWとなるこの時の無有日記のために、これまでの「歴史の芯」の全てが、その力強い支え役となる。

12/26

LED化を支持する専門家って、人間じゃないですよね」「はい。ふつ〜、そんなことは誰もせんもんかなのですがね〜」「少しだけ面白いですよ」「頑張ります

12/21

6.人は、心であり(本体と本人がひとつであった時の記憶を心とし)、心に寄り添う本体がそのまま本人となる身体時間を、人間は生きる。その普通から、手に取るように見え出す、そのことへの抵抗と怖れ。それが、仏陀の普通を退けた、平安・鎌倉期を中心とする仏教(教え)であり、道元の人間本来を恐れた、嘘の神々の世界である。そのために、やむ無く引き受け、蓄積させることになる、無くてもいい経験の中での、痛みと苦しみ。生まれ変わった本体は、心を通って、その原因深くに入って行く。辛く切ない時を彼も経験して来ているので、それを、何より嬉しい。

何度も触れ、そのことに意識を向けた、「私の本体」の時を経て、ここで、「本体の私」を感じてみる。それだけで、他は何も要らない。これまでの体験的知識を活かし、様々にそれを感じ、その世界(次元)に居る感覚を普通としてみる。現代の道元を通して経験し得る、永いこと忘れていた、生命としての普通。仏陀の原因(本体)もそこに居て、この時を歓迎する。そこから始まる、人間の、人間らしい人間時間を、普通に生きる。

12/21

6.簡単には浄化し得ない未消化の経験の記憶を持たせることで、元々人間の世界には無かった本体(本質、魂、死後の世界)という次元を生み出した存在たちは、手に取るように把握するその本体の性質を、自分たちの意思が住むある次元層にコピーし、人間が経験するあらゆる現実を好きなように操りつつ、思い通りの(性質の)環境を作り出していく。

それとは別次層には、全くあり得ないことだが、その能力の次元を遥かに上回る、その負の根源的となる存在が居て、彼(彼女)は、人の住む地域(国)の時空全てをコピーし得、地球規模のあり得なさを普通としてしまう。そしてその存在は、その普通を次元拡大させ、地球の外側に、地球(の本質)のコピーを生じさせる。それは、存在するものが存在し得るためのその真の姿となる形無き原因の世界の、その最大級の次元のコピー。地球は、地球らしさを抑えられることになる。

その限り無く奇異で、夢語り(空想物)としか思えない話。当然である。人間が常識とする価値概念のどこにも無いそのことは、普通に考えれば、想像するに値しない、実に無意味な次元のこと。それに付き合うこと自体、気狂いの対象になり得てしまう。なのに、人は、何をしても、どんなに時間をかけても永遠に変わることのないある重要な部分の変化を、この時経験する。変化して初めて知る、それが、これまでの人生の歴史には一度も無かったということ。存在の中心深くでの息づかいのようなその余りに微細な感覚的次元の変化によって、ここに居るのに、どこにも居ない感覚を普通に、不必要な融合空間からはあたり前に離れて(自由で)いる心を生きる。居る場所(次元)が変わる。

原因の分母拡大に伴って進化するEWに付き合うのは、それに見合った言葉の変化ではなく、その原因が乗る言葉の質。期間限定の価値観や常識とされる経験枠内の理解無しには生きては行けない人にはどこまでも縁遠い、その原因の世界の普通の力。争いも病気も、不健全な精神も、なぜそれらが存在し得、なぜそうである状況がそのままかのその原因を多次元的に遡っていくと、無有日記は、この「歴史の芯」29章を記すに至る。その理由は、この時代には無く、時代を大きく包み込む次元に、それは在る。そこからのEWを、変化し続ける原因の言葉に乗せる。

12/21

LED照明完備のプールで泳ぐと、どうなってしまうのでしょう」「人魚か半魚人か、好きな方を選んでください」「その違いは?」「人魚は、人間と結婚できますが、半魚人は、魚と結婚します」「どうしよう?」

12/20

5.本体と一緒に(同一として)本人を生きる本来の在り様を普通とする時、本人は、そのまま本体の意思表現の姿であるから、何をするにしても、本体の居る多次元的な原因と繋がり得るという、それまで一度も経験することのなかった生命としての本人を、人は自然体で生きることになる。求め、手にする次元ではないそれは、ただそうである自分がそこに居るだけで為される、何でもない普通体験。どんな自分がそれをするかという、事の手前のその原因がすでに本来であれば、本体は、本人の心を中心に原因を重ね(繋ぎ)、本人と共に、その心となる。心は、さりげなく形となり、形は、心ある風景の原因となる。本体の意思は、その全ての原因に乗る。

そんな時を経て、本体は、本人の感性に合わせて、興味深いことをしようとする。それは、かつての経験の性質を知る本体だからこそ進めようとする、その記憶の浄化。それまでを引き連れなくていられる新たな本体は、右脳に溜まったままの負の原因を、多次元的に浄化する道を探る。細胞たちの悲しみのその根本となる原因である、本体をオカシクさせられていた時の、本人の経験。本体は、「仏陀の心」に‘その時’を委ね、喜んで、そのための仕事を担おうとする。

12/20

5.その関東の地では、当時、神の化身ごっこが流行り、二人は悦に入り、至福の時を過ごす。脳を不自由にさせたまま、そうであることを信じ込まされた人たちは、そのことを支え、嘘の神々にすがり、人間らしさを失くしていく。その頃の経験を基に、多くの人が、神道世界の嘘を本当として今も生きる。

外の地に住み着いたその女性が備える無意識の力は恐ろしく、心ある人は皆、彼女によって、健全・健康の世界から切り離されてしまう。どの時代でも人の脳の働きを不自然にさせてきたその本体の意思からなる経験は、そんな中でもそれに抗おうとする人がどこかに居れば、瞬時にそれを(その脳の動きを)押さえ込み、潰し切ることを普通とする。当時の十万(〜数十万)程の人口は、その性質のまま時代とともに増え、殆どその時代の(脳の)コピー状態である人口がこの現代にあると思ってよい。無有日記を通して見えるこの世の歪な普通は、それを物語る。

そしてこの今の、そのことへのEWであるが、自動制御のようにしてその質を高める流れは、大きく次元の異なる場所へと、この無有日記を案内する。そこは、以前、ある程度の接点をつくり、ここで更なる次元層を突き抜けて再度入り込むべき、地球の外側。無有日記を生かし続ける生命の意思が、それを、そっと差し出す。

姿形は普通でも、人としての心ある原因を一切持たない存在たちのその本質は、繋がるものを、この地球自然界には持たない。そのことが意味するのは、彼らのその存在の元となる本体の意思は、一生命としての地球感覚を尽く拒否し続けているということ。その特殊で異常な本体のルーツへと辿って行くと、そこには、どういうわけか、実に不可思議な、地球の外側の異次現実がある。宇宙空間でのその普通は、地上に生きる人間にとっては、限り無く異常で、永遠に怪異となる、当然全否定され得る話である。ただしかし、そのEWを通して、心ある普通の人のその心の芯は、あり得ない変化を経て、真に元気になる。と同時に、心を持たない存在たちが数と力を手にし得たその危うい原因も、力を無くす。その次元の様が、すでにここに在る。

12/19

LED化で、これからの鉄道はトラブル続きでしょうね」「阪神方面の方が多いですかね」「それって、虎振る、ですね」「分かっちゃいました?」

12/19

4.仏陀の普通が、その原因のところからその人の心へと流れ出し、形になる時、それまでの思考の枠は外れ、心は感覚的理解(経験)の限界を余裕で超える。そして、ふと訪れる、真の普通。それは、自分にとっての、自分の本体ではなく、本体にとっての、本体の自分という認識。そしてそれが本来の姿であり、生の基本であるという理解。期間限定の価値観も思考による現実も、初めからどこにも無いその本体の次元から始まると、一瞬にして、自らの存在が、そのまま平和となり、友愛と調和となる。それ以外は何も無い。本体とひとつになる本人は、真に生きることを普通感覚とし、そうであることの他は経験の外側となる。それは、生きる原因が仏陀であり、道元であるということ。そこでの普通は、その普通だけが在る。

それを、生命本来と言う。生命の源である本体が本人(身体)を生き、その二つをひとつに、心を生きるということ。人間は、その時から本当の人生を生きることになり、かつてそうであった時の自分の意思を、心に重ねる。本体発の人間時間が、人としての真の人生である。

12/19

「冷たいのに光を放つLEDに違和感を覚えない人というのは、明るく振る舞う冷血な人ということになりますね」「よく分かりましたね。逮捕します」

12/19

4.その二人の妹の方は、28章の後半に登場した女性(母親)。そのことで、すでにその力は低下し、その時から、それまでのままではなくなっている。子も同様。そして、28章を終えた辺りから、どうにも動かざるを得なくなってしまった、もう一人の女性(姉)。当時、その村で、妹と仲良くまじない(呪い)ごっこを行っていたその女性の現代の姿は、その時を遥かに上回る能力を備え、今も尚、その影響力を行使する。しかし、この時、図らずも、本能(本体)は不安定になる。

彼女は、今回、早くから日本を離れ、外の地で、これまでのように、睡眠時に、心ある柔らかな人たちの脳をオカシクさせる。それは、まさに本体の意思。無有日記の在るこの時代、縄文期の当時から脳を病まされたまま今に至る普通の人たちが決して本来を取り戻すことのないよう、かつての妹の居る日本とは別な場所で、そこでの睡眠時間帯のズレを活かし、自らの睡眠時にその無意識の意思(本体の働き)を活動的にさせて、彼らの動きを封じ込める算段を取る。

ところが、相方の女性が思いがけずこの「歴史の芯」できめ細かく対処される時を経て、かつての人々の(自分関わりの)経験までが顕になる状況を引き寄せられてしまう。それは、その世界(次元)においては、どこまでもあり得ない事実。何があっても阻止されるべき、重要な場所。数千年前の、人の遺伝子レベルにまで影響を及ぼし得るその出来事を通して為し得てきた彼女たちの時代が、その重石を失くしていく。

(彼女たちを中心とする、心を持たない非人間的な存在たちは、獣のような獰猛な(大柄の)仲間に人間を襲わせ、それを自分たちのものにする。その頃に二人に可愛がられた、人喰い蛇のごとく暴れ回った存在の現代の姿は、その頃の経験の質(原因)を記憶する、素朴で勇敢な人たちの中であぶり出しされ、狡猾とへんげの代表のような存在(本体)と一緒に、この29章の時に、処理される。二人にとっても大きな痛手となるそのことは、心ある柔らかな人たちの心身を深くから浄化し、健康・健全(特に肝臓)の原因を力強くする)

12/18

LED照明の電車の中は、どうして臭いのでしょう?」「あっ、それ、活性酸素カプセルに入った時の臭いです」「そんな臭いがあるのですか?」「私から、臭いません?」

12/18

3.自分のものであって、自分らしさのそれではないそれまでの本体は、その存在意義を持てない程の新たな時を、この「仏陀の心」で経験する。そして、歴史的負の連鎖のその原因への浄化に自らも(無有日記を通して)参加し得たことで、本体は、無くてもよかった経験(の記憶)の原因と一緒に大きくその質を変え得る意思を、心に伝える。過去が癒され、未来が喜ぶ原因を限り無く高めた心は、この「仏陀の心」をフィルターに、生命本来の足枷となる(心の成長に連れ添えない)これまでの本体を置き去りにし、身体表現のその原因とキレイに重なる新たな本体を創り出す。本体は、歴史上初めて、心と同一となり、その人らしさの原因のそれとなる。

本体は、本人となり、本人のその経験の性質は、そのまま次なる時のその原因としての本体となる。裏表を知らない心は、自由にその想いを広げ、心の無さとは無縁の思考は、どこまでも生命としてのそれになる。心のままに、心を生きることが普通となり、誰も、心ある自分を意識することがなくなる。その全てが、本体の意思。そのどれもが、本人の普通。無意識の意思も、感情の原因も、そうである時を忘れて心と遊び、そのままそれが言葉になり、行為になるその素朴な経験に、本体は笑顔になる。主人公は、心。そこに、本体も本人も居る。

12/18

3.二人の本体は、醜悪さがそのまま色を付けたような、真っ黒な姿をその個性とし、それを変幻自在に操り、思い通りに形づくるその不気味な能力を普通とする。そこに潜む残酷な意思は、人が眠りに入る時に、自動的に仕事をし始める。それはまるで、解き放たれた動物のように、睡眠中の人の脳波の世界をフィールドに飛び回り、好きに遊び、そこに在る調和をかき回して、破壊する。その異常過ぎる普通は、彼女たちの本当の姿。人は、眠る度に、脳に負荷をかけられ、二人は、勝手し放題の時を生きる。誰もそうであることをどうにも出来ずに、人は、普通の質を低下させていく。

健全な感性を備える人たちは、そのことで思考を忙しくさせられ、感情の主導権も握りにくくなり、次第に元気を失くして、重苦しい時をけんめいに生きることになる。そうではない人たちは、自分たちが困難とする心ある感覚を無視できるので、その心の無さを力に、活動的に生きる。その理由は、現代まで、柔らかな人たちのそのどうにもならない原因として、息づいたままである。

12/17

LED照明の下に居ると、頭がボ〜っとしてしまうのですが」「私なんか、体全体がブ〜っとしてしまいますよ」「‘ブ〜’の方が凄そうですね」「嬉しいです

12/17

2.様々な場面で登場させ、その時々の役を担わせつつ描写してきた、‘本体’という世界。仏陀の本体に触れ、本体の性質とその背景にも、経験から自由でいる思考を材料に、それへの感覚的理解を促してみた。本体と本人、無意識の意思と意識し得る思考、そして感情の原因と、結果としての感情。元々同一であったそれらは、そうではなくなる不自然な原因の経験を経て切り離され、人としての身体時間は、その自覚もなく不自由さを常としてしまう。

「歴史の芯」は、それまでの本体の姿を消し、無有日記の原因との密な融合を基に新たな本体を生み出すという、人間が経験し得るそのシンプルな真実の極みとなるところ(次元)にまで辿り着く。もちろんその基本は、「歴史の芯」と「仏陀の心」の、そこに在る普通の表現。普通でいることで、その普通の質を成長させる経験は、そうではない性質の原因を確実に浮き上がらせ、戻ることのない確かな変化を、その人の心に馴染ませる。心は、変化そのもの。その心は、本体の新たな経験を、その力強い原因で支え続ける。

12/17

2.弥生期以前のこの国では、中部や関西で、後の歴史に多大な負の影響を及ぼす、酷く悍しい現実が、非人間性を普通とする存在によって密度濃く展開されていたが、それは関東の地でも在り、そこでのそれは、どうにもならなさの最大級の原因となって、この現代にまで、そのあらゆるところに影響を及ぼし続ける。舞台は、東京の西部のある平坦な地域。縄文遺跡も在ったその場所は、時空を超えて最もその原因が浄化されるべき空間として、今尚、そこから(その時代から)、負の原因は放出され続ける。

形ある現象として大きな事が起きたわけではない。多くの人の血が流され、苦しみ喘ぐ人たちの姿がそこにあったわけでもない。なのに、その時を機に、全てが止まってしまったかのような状態を、人は感覚的に経験する。それが何かも、それが何故だかも分からず、それまでとは異なる心身と時間を、人は生きる。

そこには、祈祷師のような立場の二人の女性(姉妹)が居て、彼女らは、様々な形のまじない(儀式)を体現しながら、村人たちの生活全般への影響力を行使する。しかし、その行為によって直接人々が害を被るわけではなく、彼らはすでに心身の自由な動きを抑えられている中で、儀式に集められ、そこでの神託(御告げ)とされる内容に服従する。二人は、嘘芝居を愉しみ、その術を磨き、内に秘める征服欲を満足させる。その基礎づくりは、睡眠中に、人知れず行われる。

(それより昔、関西(大阪南)では、そこを支配拡大の要所(起点)とする、蛇脳の存在たちによる暴力と迫害が普通に行われ、河川岸(湾近く)は、度々、苦しみと流血の場となる。数百年間続いたそこでのその原因は、(葦繋がりを通して)現代まで、心ある人の細胞(血)の中に残る。時を経て、蛇脳繋がりの存在たちは、ある別次の理由から(信じ難いある準備を経て)、遠く離れた水郷(常陸)の地のその中心辺りでの生を選び、そこで、本性(本体)が蛇である人間のその重量級のコピーを増やして、世の動き(変化)の無さの重石となる時空(次元)を、地域全体で作り上げる。それは、今尚、負の(蛇系の)代表的な威力(呪術)行使の原因として、そこに在る)

12/16

1.「仏陀の心」を通して、人間本来の基本形が安定し、そのさりげない実践を通して、そうではなかったこれまでの原因が癒され、ここに溶けだすという経験は、その意識もなく変化・成長させていた普通の質が、その原因のところから、自動制御のようにして淡々と生命の仕事をし続けていることを意味する。その場所を通ることで、人は、仏陀の普通のその原因とより活動的に融合することになり、自らの原因は、新たな次元のそれへとその質を進化させ得る時を迎える。それは、「仏陀の心」のその意思表現の共同作業と言える。この時代にそれが為され得るという、奇跡という名のその普通は、現代の道元にとって、とても心強い。

その時が来たことで、この時なのだと初めてそれを認識することになる、どこにも無かった、無の中の有。どんなものにも意思が在るというその事実の奥深くで、この今に繋がる原因を絶え間なく回転させ、創造の意思を放ち続けた、全てであるひとつのその一つの素顔。これまでの人間経験のどこにも無く、思考の次元のどこを探しても見つからないこの時の普通体験は、その原因を、さらりとその普通の中に溶かす。全ては、自然現象。普通は、そのままで変化に乗り、成長・進化を普通とする。

12/16

1.この国の歴史上最も重要な時代となる、歴史ビル2階(大和、飛鳥、大津etc.)での出来事が、その原因深くから浄化され出したことで、現代に至るそれ以降の時代の原因は、確実に動き、と同時に、「仏陀の心」の力添えもあり、その地下階の、永い時の不穏な原因も、それまでにはない風通しの良い状態を経験する。そして、ここで改めて、数千年前の、縄文期が終わりへと向かうその頃に限り無く中庸でいる原因のフィルターを置き、次なる時代のために、更なる沙と羅(淘ぎと連繋)の仕事をし得る時を迎える。

思考の域には招き難いその頃は、言わば歴史の外側のような、名も無き存在たちのその本性のままの行動が時を創り、それでも決して自浄力は失われずに、自然界との融合を重ねつつ、それらの(性質の)影響力を原因に次なる時が正直に生み出されていた時。そこに、この先もまた同じ性質(次元)の負の歴史が刻まれてしまいかねない、その原因となり得る経験がある。あるところまでは(個人による変化においては)、これまでの「歴史の芯」で充分であるが、未来に確かな原因を繋ぐための、その力強い責任をこの今に重ねる時、それを集中的に浄化すべき必要性が生じる。そのことを以て、「歴史の芯」も、終えることが出来れば…と思う。

12/15

「横断歩道のしましまの白線が、LEDの影響で、あちこちで消えかかっているね」「まるで私たちの間柄みたいね…」

12/15

8.人として望むべく在り様の基本は、人間本来の、自然で普通の姿であるのだが、誰もが普通にそうであり得るそのことが難しいと感じる時、この「仏陀の心」に繰り返し触れ、その世界を自らとしてみる。

そうにはなれない理由には、それだけの原因があり、その原因は、その気もなく争いや不調を生み出す材料として、無意識のところに蓄積する。良いも悪いもなく、被害者も加害者もなくいられる「仏陀の心」に居て、その無くてもいいものを浮き上がらせる。見られたくない自分は、真っ先に向き合う自分。知られたくない(隠したい)自分は、決して放っては置けない自分。心の性質は、あらゆることに影響を及ぼす。その負の影響力を潜めたまま人間本来を生きようとすれば、全てが嘘になる。

この時代、「仏陀の心」を自らと重ねることが難しい時間ほど、要らないものはない。それは、変化の原因そのもの。心の成長とその具現化の進化を見守る、全てであるひとつの意思。この時の経験をこれからの人生に溶かし、自らが、普通という名の新たな歴史の創り手となる。普通は、それだけで平和の要素を備え、その質の高まりとともに、健全・健康をあたり前とする。「仏陀の心」との出会いは、仏陀の意思である、彼の普通との融合。その普通を、どこまでも普通に、この今の、未来への繋ぎ手となる。時は、「仏陀の心」が一歳となる、2018年へ。共に歩み、共に生きる。

12/15

10.現在、彼女は、子のために、母親の立場でいる生を生きる。その彼の影響力が実に凄まじい。幼子でいながら、そのことをこの2810節で扱うわけである。その次元のそれは、人間の心身をテーマとすることであれば、何もせずに、何でも容易に為し得るというもの。そして、もちろん、そうであることは、誰も知り得ない。彼は、それを普通とする本体の意思のまま、形無き原因の世界を支配する。

人があることを意識し、脳を働かせる時、その存在は、その性質を余裕で把握し、思い通りに、どんな風にでもそれを操る。知識や経験が思考で扱われれば、それはより簡単に為され、普通一般の心ある人は、夢の中にまで自由に入り込まれて、心身の動きを支配される。その全てが、形無きところでのことであるため、人は皆、何も分からず、分かり得ることだけに付き合わされながら、その影響を受け続ける。それを普通とする力が人間の姿を持つ、その彼をこうして描写できるということ。「歴史の芯」は、回転を強め、その原因を砕いていく。

人間は、生命本来という生きる基本のその百分の一も生きられないで来ている。自由に生きることが守られるこの時代であっても、これまでの負の蓄積の原因が浄化されずにいるその中で安住してしまうぐらいだから、どれ程人間らしさを欠いた世界に居るか…。それは、脳(右脳)が不健全さを安定させているということ。その危うさを普通としてしまっているということ。

そして、その理由となる形無き別次の世界に、その彼は居る。その姿形に意識を向けることはない。この28章の文章に乗ったそれへのEWを通して経験する、様々な反応。それがそのまま、心ある人間が為し得る、切なる意思表現である。そのことを、大切にする。

未来には持っては行けないその代表として、嘘の神々(神道)関わりの世界があるが、そこに居る人間を通して具現化される、無生命化の意思を持つそれぞれの本体の性質は、未来地球のために必ず浄化され、力無きものとして変化することが必須となる。ここまで来れたから、このことを普通に、先へと行く。終わりを求めず、ただ変化の中で、原因を高める。この今を、未来に繋ぐ。

12/15

9.いつの時代も密な関係を保つ二人は、弥生期が始まる頃よりずっと前のある時、仲の良い男女として生き、自然界の希望(安心の礎)であるような男性の(その当時の)人生を、数年かけて(呪詛のような威力で)陰惨に弄び、非人間的に虐げて、命を奪う。その執拗で凶悪な行為は、生命世界の普通を狂わせ、人の住む世は、不穏な重苦しさを帯びる。後の世、右脳にその経験の質(原因)を残させられながらも、どうにか本来を生きる彼であるが、二人はそのことを利用し、更なる負荷をかけ、彼の普通の力を抑え込む。そして、現代、これまでの歴史のどの時とも異なるその環境の中、これまでと同質のものが再現されているようでも、そうにはならない時のその原因も動き出す。それが、この無有日記の空間での普通であり、ここでの、普通ではあり得ない性質(次元)の変化である。

厳しい話であるが、心ある素朴な人の脳の働きは、彼らの本体に掌握されていると言える。それ程であるから、ここまで時間をかけさせられてしまう。そして現在、ここに、その時である今があるから、これからが、これまでと同じということは無い。この今に至るこれまでを知ることで、それを遥か後方へと置き去りにする。たださりげなく変化の中に居て、そのまま変化に乗り、その全て(の原因)をこれからの風景とする。何も無くても、何もしなくても、心は普通に、元気で健康になる。

右脳に在るそれまでの経験の質と、それと繋がる本体が深くから癒されると、形無き原因の次元からの変化が身体(の細胞の意思)に生じ、その一環で、腎臓と肝臓が元気になる。それまでにない反応を伴いながらの修正・修復が行われ、心身は、遠い昔の記憶が呼び醒まされるようにして、健全を普通とするようになる。その普通は、生命の望み。それに応えないわけがない。

12/15

8.ここに、心が全く元気になれない世の、その強力な負の原因づくりを担う、ある凄腕(強者)の二人の姿を記す。彼らは、歴史上、どこにも形(名)を残さず、人知れず、心ある人の脳を支配する(乗っ取る)。未来のために、敢えて、その必要性に応える。

その女性は、無有日記の中心辺りに難なく入り、世の不穏な原因を確実に浄化し得る力を潜めるある男性に近づく。ところが、神道絡みの背景の無い、自然豊かな外の国での交流を通して、その凶悪な思惑(無意識の意思)は顕になり、目論見は頓挫する。数年後、再度接近を試みるのであるが、この時、彼女のお腹は大きく、子は、彼女の企ての全てを任される。無有日記との融合を普通とする人を通して抵抗力を付け、その本体の意思のまま、子は、心柔らかな人たちの脳を、生まれる前から積極的に支配する。誕生後、彼は、彼女(母親)と共に負の原因を増幅させ、次の時代に繋がる今のあらゆるところを病ませようとする。二人は呪詛・呪縛という概念も当てはまらない、酷く恐ろしい能力表現を、日々、愉しむ。(というその姿を、人は、ここで知り得ることになる。二人の本体の意思によって心身を執拗に病まされ続けた人たちも、元気になる)

身体レベルの理解(思考の次元)を超えて、どこに居ても、どんな風にでも、遠くに居る人の脳を操り、好きなようにその心身を病ませられる二人の、その形無き別次(層)の本体。本体は、その人の真の姿。心身(脳の働き)が不自由になるというのは、右脳と密に繋がる本体が、全く次元の異なる(無生命的な)本体を持つ存在のそれによって、その自覚もなく侵されてしまっているということ。「歴史の芯」のそれぞれとの融合は、確実に心ある風景の原因を力強くし、そこで普通に生きる心ある人たちの、その無くてもいい経験の原因を浄化し得る時を創る。人の心は、もっともっと元気で、楽になれるもの。その普通を、普通にする。

12/14

LED化により、全国の農作物が大変なことになっているようですね」「あっ、それ、政府主導の、‘自国の農業を支えよう’キャンペーンの下準備です」「何でも知っているのですね」「私、あべと申します」

12/14

7.始まりが本来であれば、その原因はどこまでも望むべく姿となり、そのまま終わることなく本来でい続ける風景の連なりを創る。それがそうではない時、本来は、探し求める対象としてあり、何をしてもそれまでを浄化し得る原因になれないまま、本来から離れた風景を繰り返し生み出す。それを思う時、「仏陀の心」を通らずして、人は本来を普通に生きることは出来ないことを知る。

本来という原因から外れず、それを始まりとする生を普通に生きる自分でいる時、本来でいる証のような感覚的理解が自然と生じ出す。その代表例が、LED照明への自然な違和感である。本来でいる感覚は、健全さを普通に、そこに在る無生命化の意思を感じ取る。生命が生命でいられなくなるその原因は、仏陀の普通を尽く崩し、道元の意思を無きものにする程の負の力を持つ。人間が、人間としての責任を形とする時、そこに、LED照明は存在しない。

LED照明がそこに在れば、全粒穀物食は、力を無くす。そして、人は、心ある自分を取り戻せなくなる。自然界に生きる生命たちの望みは、普通に生きること。その普通が、LEDによって壊れていくことに、彼らは、ただただ耐え続ける。本来の原因から生き直しをし(再スタートを切り)、生命たちを安心させる。本来でいる原因を成長させ得る「仏陀の心」は、そうではない原因を包み込み、自然界の望みに応える。

12/14

7.その存在たちへのEWの時をこの時に迎えられたのは、(前述の)彼自身が、他には任せられずに自ら対処せざるを得ない対象としてずっと密着していた、かつて道元の生を生きたその生命の意思が、この現代に、無有日記ときめ細かく融合したことと、壬申の乱の原因が深くから浮き上がり、浄化されたことで、現代の大友皇子に付いていた、その存在のまな弟子的存在(本体)たちの力が不安定になったことによるところが大きい。(その中には、親の恨みをそのままに、次の時代を担わされた幼子もいる)

その後、彼(大友)と彼女(道元)との空間では、科学反応のような抽象的なうねりと、多次元的な揺さ振りが、より深い次元層にまで響くように行われる。そして、その全てが、まるで脚本通りにキレイに進められることになる、22章の、かの男性のこの時代での経験。彼は、完全悪である存在たちよりも更に中心核に近い、より凄まじい力量を持つ別次層の存在の意思を、幼少時から、ある少女(明治天皇の生を手にした、この上ない非理・極悪な本体の現代女性)を通して、自らに取り込む(囲う)。そのことは、形無き次元では、全く感知できない不可思議(意味不明)となる。

「歴史の芯」が、確認作業の一環のように順に流れ、整然と並び、進められたのも、そのためとなる人生をこの時代に皆が関わり、その全ての(EWの原因の)次元でそれらを把握していた、全てであるひとつの意思が、この無有日記には普通に在ったから。人は、その気がなくても、形無き本体の意思を自らの身体表現の本質とする人生を生き、その気があれば、その本体の性質を無有日記の中で全てオープンにし、生命世界を本来にするために、それを変え得る機会を創る。無有日記は、否定も肯定も無い、限り無く中庸を原因とする、生命の意思そのもの。その気があっても、無くても、人は、本体と共に変化に乗る。

(人である親を退けて、鬼のごとく人間を扱う明治天皇の本体は、残虐と凄惨を感興とする、元蛇級王者の毛駄物。数限り無く命を(自分のために)捧げさせ、人々の苦痛と忍従(屈服)の拡大を愉しむ。天皇のために喜んで死ねるよう教育されて(洗脳されて)、虫のように人生を潰され、殺された、無数の人たち。得意満面にそれを喜び、非理極まる邪道を地で行く、支配層(上層)の蛇の脳の持ち主たち。死に神級の悪である(人に寿命を全うさせない)その彼(明治天皇)の本体は、現代、22章のかの男性が受け持ち、彼に負けず劣らずの残虐性を秘める彼の伴侶のそれは、「この国の病みの始まり」の中の少年が担う。そのことは、無有日記の基礎にもなっている)

12/13

「近所の家屋の軒下に大きな隙間が出来ているのですが…」「あっ、それ、LED化した雨水で地盤が沈んだのですよ」「どうしましょう?」「たて穴式住子を呼びましょう」「凄い人が居るのですね

12/13

6.自然界との調和ある生活空間を安定させることは、仏陀の心の、そのひとつの意思。そのための、この時代にすべき次の時代への連繋の原因は、食を人間本来とすること。この地球に住む生命たちは皆、体に取り込むものをそのまま生命活動の源とし、それは、共に育む調和と友愛のかけがえのない原因とする。歪であったこれまでの仏教に連れ添わざるを得なかった、否定感情漬けの白米文化(白い小麦etc.)。全粒穀物食を普通に、自然界との自然な融合を普通とする。共に生きる生命たちも、それを嬉しい。

食べたものがそのまま体の一部になる(食べたものによって体が作られる)、食物との関わり。栄養価のある(体の中で仕事をする)部分が除かれた食物を摂り続けても何でもない生活空間は、人間の思考全般を無生命化させ、その身体時間も、非生命的(非人間的)なものにする。それが普通であれば、それは異常の現れで、人が人として生きることは不可能となる。生きる上での活動のその基本材料となる、食物。人間本来は、食物本来を普通とする。

感性を健全にし、感覚を自然なものにしようとしても、細胞が喜ばない(辛くなる)食物の摂取を普通としていれば、それは(その脳では)、永遠に難しい。ただ難しいだけでなく、それは、生命を生きる人間として大切なことにも、無感覚・無関心な状態を潜在させてしまう。全粒穀物食には、生命を生かし、生命を繋ぐという、心ある責任と優しさがある。それは、仏陀の普通の基礎を安定させる、自然界の望みでもある。

12/13

6.恐ろしく獰猛で狡賢い人間(本体)を多数従えて、意のままに事を進めてきたその存在たちは、執拗に抑え込んでおくべき心を持つ人たちが、額田王ら二人の現代の姿が顕になったあたりから本来を取り戻し始めたことで、手下のように操っていた彼らを、それまでのようには使いこなせなくなり、図らずも、動いてしまう。

彼(彼女)は、現代、病んだ世のその偽善の隠れ蓑として最適となる、親鸞系の世界での生を手にし、そこで、偽僧業に勤しむ。その能力は、地上でのあらゆる出来事の質を余裕で牛耳る程(術)であるため、人は、永遠にその把握を可能としない。思考の質とその原因にまで難なく遊び感覚で入り込まれてしまうそこでの経験は、容易に、人間の理解の可能性に壁を作る。そのために、そうであっても(その影響下に居ても)、それを自分から知ることは出来ず、その知り得なさ自体が、人にとっては永遠となる。

彼女(彼)は、かつても、今も、中臣鎌足の生を手にした(その本体の)意思と密に繋がり、その身内として生きる。意識を向けられた人は、彼女の思い通りに不調を体に抱えさせられ、その状況も、具合も、自由に操られてしまう。その内なる感情が動けば、人は、体を動かせなくなる程の辛い時を経験し、生きる力を削がれる。心ある柔らかな人(の感性)は、どこに居ても、彼女の凄まじい普通(妖術)に弄ばれ、理由の分からない厳しさ(苦しみ)を強いられる。

「歴史の芯」にこれまで登場した存在たちの誰も、彼らの力には及ばない。心身も、感情も思考も、その状態は全て、彼らの意に従う存在たちの仕業がその元であるため、心ある人は、どうにもならない。それは、まるで濁った空気や水のように、生命たちを病ませてしまう。

12/12

「雨の日のLED化した雨には濡れたくないですね」「三善えいじも困るでしょうね」「はい。その人のこと知りませんが、そんな気がします

12/12

5.永いこと、生きることから外されてしまっていた、普通に生きること。そこに立ち返り、仏陀の普通を実践しつつ、心ある想いを重ね合う平和の時を、あたり前とする。それは、人間の仕事というより、人間であれば、当然普通に行う、生きる基本。それが外されたまま生きることを良しとする人生を、人間は望めない。自然界の生命たちも、永いこと、待ちぼうけである。

仏陀への抵抗から始まった、この国の仏教。人の感情を操り、思考を忙しくさせるそれは、不安から始まり、不安で終わるもの。不安の裏返しの嘘の安心のために、無くてもいいはずの不安を経験させ(受容させ)、人の道を外す。これまでがそうであるからと、それをそのまま続けようとする(続けられる)僧であってはならない。安心から始まり、それが普通であるよう、不安の原因を浄化する。仏教本来の普通を、さりげなく、自然に表現する。

普通に生きるのを難しくさせられてしまう環境がそこに在れば、その原因に対処し、そうではないところへと事を進め、新たなその原因を力強くする。病気や争い事を抱える人たちが居れば、その根本となる原因を本来へと変え、そのままで健康で平和な暮らしを、そっと支える。差別や争い、病気や不健全の原因を潜ませる仏教(宗教)は、存在しない。

12/12

5.非人間的な本体でいることを世間的にも利用する存在たちは、人としての自分の意思を持たず、右に倣え的な人間たちの脳を操ることに、愉しみを覚える。健全な感性を普通に、人としての変化・成長を望む人間には、より凶悪で狡猾な本体を持つ存在が携わる。そして、いつの時代にも必ず居る、存在そのもので人間世界を本来のそれへと変え得る人間。彼(彼女)には、その次元層の中心辺りの意思を本体とする、完全悪のような存在が付く。

その中心辺りの性質をそのまま携えて人間をやっている存在への対応を可能とすべくその時のために、この28章がある。核に近い分、そのことで、他次元の本体の持ち主たちは、力を無くす。その支配下に居る普通の人たちの脳も、自由創造の原因を取り戻し、人間らしさをさりげなく表現できるようになる。そのためのこれまでの全てが、ここに集まり、大きな原因の力となって、この時を支援する。永い眠りから醒めるように自由になる彼(彼女)らは、ただそのままで、地球感覚を普通に、人間世界の原因をその深くから浄化する。それが、今進行中である。

12/11

LEDライトを浴びると、玄米は発芽しないとか…?」「人間も同じですよ。芽が出なくなり、味も影も薄くなります」「何でも知っているのですね」「そうなりましたので…」

12/11

4.仏陀の心の世界と自らのそれが重なり合うような時を通して、ふと実感するのは、本来の普通には、その対象としてのそうではない歪な普通や異常さが、そのどこにも存在しないということ。それは、どこまでも普通、何をしても普通。絶えずその原因でい続けるその姿は、どこかへ向かうこともなく、求め、手にする目的もなく、その全てが普通となる。そうではない原因からなる世界も、そこに在れば、すでにそうである原因との(ある種の)融合を普通とするから、何もかもが、本来の普通のひとつになる。仏陀の普通は、ただあたり前に普通でいるその姿を、当然のごとく普通としているだけ。そこに、平面上に収まる、対比され得る世界は無い。

仏陀の普通が、ある個の思惑で退けられる時、それは、単なる人生のムダづかいである。抵抗も拒否も、仏陀の心の、その余裕の中での普通。そうあるべき姿に触れたことで、そうではない姿を志したとしても、そこに在るのは、止まったままのきゅう屈な時間。それを包み込むその普通の中で、ただ癒されていたいだけ。本来の普通を嫌悪する姿勢は、生きることを普通としない(させない)人生で普通に生きようとするその未熟さを生きがいとする。仏陀の心は、そんなことも普通とする。

普通だけが在る、仏陀の心。道元の普通も、それと同じ。そこから離れても(離れようとしても)、彼らの永遠と変化からは出ることはない。全ての基であり、源である、普通。思考でそれに抵抗しても、感情でそれを拒否しても、それらは皆、彼らの(普通の中の)普通。普通は、ただ普通でいて、普通ではない世界は、そのどこにも無い。

12/11

4.世の空気感を支配し、人々の思考全般の性質まで操作し得る、その形無き世界の意思は、その存在の異常な普通として、風雨や太陽の働きにまで影響を及ぼし、人間世界で発案(発明)されることも、その必要性も、当然のようにして、自分たちの意思に見合うものとする。その恐ろしい世界の中心辺りの性質を自らの本体とする人間であるが、彼らは、どの時代にも生を持ちながら、名を残す次元のところには居ず、人間は、誰も、そのことに意識を向けることが出来ない。それでも、「歴史の芯」は、その存在を外すことはなく、淡々と行く。これまでの流れから、それは当然のアプローチである。

多次元的な中心核から、全方向へ放射状に広がるようにして在るその次元層は、物理空間で言えば、ある同一の点の中に、その全て(の次元)が収まる感覚となる。そして、その点は、無数・無限。形を生み出す形無き原因の世界が、その無生命化の意思によって占められていることから、生命の意思の通り道となる脳(右脳)の働きは、その世界の思惑通り、不自然・不調和を、そうとは分からない非人間性のそれを普通に積み重ねることになる。

次元層の核に近いところ、中間、外枠辺りと、それぞれは、融合する人間の本体の性質として、個性的に存在し得るのだが、彼らが同じ空間に居合わせたとしても、誰も(彼ら自身も)、そのことは(違いは)分からない。人間は、思考から始まる脳の働きによって生きることを基本としてしまっているため、思考の域には無い本体の世界は、経験の外側である。そしてまた、危うさを強烈に備える本体ほど、そうではないよう身体(脳)を上手く操るので、彼らが、人の違和感の対象になることはない。

12/10

「ショーケースの中のプチプチLEDって、何なのでしょうね?」「反対から言うと、出るチプチプですね」「素晴らしいですね

12/10

3.経験から自由になる経験は、それまでとは異なる経験の原因が、過去ではなく未来と繋がることで、その力を発揮する。本体が知る、無意識(右脳)の中に在るこれまでの歴史での人間経験もそう。その全てから自由になれる(でいられる)この時の新たな経験は、未来を変え得る原因となり、過去のあらゆる性質の記憶をも浄化する。思考を自由にさせ得る時を通して自由になれるそれまでの経験は、思考による理解を不要とする時空を連ねることで、そこに在る(動きの無い)重石を外す。

自由な心は、かつての不自由な心を癒し、自由に使うことも出来なかったその頃の思考のその原因を、ここに招き、浄化する。意識も精神も、自由な心に支えられるそれらは、時を自由に超え、無くてもいい経験の記憶を包み込んで、かつての自分の涙顔を、笑顔にする。

経験から自由になるだけで、自由に動き出す心。「仏陀の心」に触れる時間は、そのことを普通に、普通に心に主導権を握らせる。そして心は、元気に心ある経験を創り、経験を残す次元を離れる。仏陀の普通との融合は、どんな時も、経験という名の次なる原因の中に溶ける。

12/10

3.その世界には、同質の色合いと、同方向の回転のようなものがあり、その濃淡と速さや回転幅の度合いに応じて、それは、多次元的な層を構成させる。そのことで、力関係の相対をそれぞれの意思は備えることになり、粒子による次元差のような住み分けが生まれる。

色は、どんな光も取り込んでしまう程の、無限の黒。回転は、生命であれば永遠に経験することのない、無生命化の別次の動き。人間も、動植物も、不本意ながらもその力によって生かされ、動かされている。その影響力が具体化した遥か昔から現代まで、この地球上での営みの性質は、ずっと同じままである。

形あるものばかりに思考を働かせ、頭だけで生きる人たちは、その形無き次元層の(希薄な)外枠に存在する負の原因を自らに重ねることで、妙な存在感を出す。その質量は僅かでも、普通の人間には充分に脅威となるもの。その世界に扱われ易い人たちは、そのことを活かし、狡さと醜さを内に秘める動きをする。彼らの本体は、人間のそれではなくなっていく。

その中でも、人間を物扱いする程の凶悪さでその世界の意思を具現化する人は、より強力な、密度ある層と繋がり得、それとの融合そのものを、自らの本体として生きる。その類になると、妖術(呪詛)という言葉が可愛く思える程。存在そのもので、人や空間を牛耳り、何もせずに、誰にもそうとは気づかれずに、自在に世を操り、心ある人々の苦しみを作り出す。安倍氏も小池氏も、その域には居ない(届かない)。そうである存在たちは、この28章で、初めて扱うに至る。

12/09

LEDの影響で、芯の腐った果物や野菜が増えてますね」「くじを引いてるみたいで、ワクワクしますね」「…??」

12/09

2.どちらでもあって、どちらでもない感覚は、そうであろうとする意識を寄せ付けず、ただ人が人としての生をさりげなく真剣に生きている時、そのまま、それになる。その中庸でいて、全体でいる自分が、その意識もなくそのままであれば、心に正直でいることも、正直になれるその心も、ひとつになって躍動する。それは、心の素顔。

心の世界に、感動は無く、感動する感情が、心ある普通を隔て、心を作り出す。感激・感銘の類もそう。心のままに生きることを怖れるから、安易に心を打たれ、感情も忙しくなる。心は、いつでも、心ある自分しか知らない。

精神性も人間性も、その在り様に頭を働かせれば、心は離れる。人として在るべき精神性も、望むべく人間性も、心は、それを普通とする。その普通を、人の心は望み、心は、その普通を本来の原因とする。心を、心として扱う次元に、心は無い。

仏陀の普通に、感動は要らない。彼の精神性に、思考を付き合わせることもない。心は、それを知るから、この時、仏陀の心と遊ぶ。共に、心を元気にする。

12/09

2.形ある現象世界の全ては、形無き抽象世界のその殆どを占めるある性質の意思の反映としてあることは、これまでにも書いてきているが、その仮想空間に生きる人間は、何を考え、どこで何をしても、そうである枠が外れることのない形無き原因の制約の中、その自覚もなく、虚構の世界で人生を過ごす。数千年前から、人は、そうせざるを得ない経験を重ね、それ以外の人生を知らずに、歴史を刻む。その人間誰もが抗うことの出来ない、思考の域を遥かに超えた、原因の世界。これまでの時を経て、これまでのままではいられない経験が僅かに生じ始めたことを機に、その世界に入り込む。そんな原因の時を、ここで誕生させる。

どんな人も、その人間時間には、その原因となる生命の意思を携えていて、その性質が力強く本来を普通とするかどうかで、地上でのそれは、引き受ける影響の度合いに違いが出る。つまり、人間らしさを欠いた感情を馴染ませて生きる人は、そのままそれを存分に活かし、好きなように生きられるということ。未来に繋ぐ責任感覚を持たない人は、その歪な感覚で、人生を愉しみ、思いのままに不調和と遊ぶ。

形無き世界で、思い通りに世を操る原因の意思は、そうではない、本来をありのままに生きる人のその自由な動きを抑え込む。その意思の性質は、支配と征服。負荷をかける必要の無い非人間性を普通とする人間の感情(本性)を利用し、心を持つ人の脳を不自由にさせる。心の意思を力強く備える人ほど、より強力な原因で、その動きは、監視下に置かれる。

12/08

LED化した雨水と車のLEDライトで、全国の道路にひび割れが出てますが…」「あっ、それ、政府主導の、‘全国を亀裂で繋ごう’キャンペーンの様子です」「なるほど」

12/08

1.仏陀の普通世界を、ムリ無く、自然な感じで、自らの日常に馴染ませていると、体験的に知るそこでの何気ない感触は、良いも悪いも無く、そのまま記憶(の中)に、記憶に残ることもなく染み込んで、溶け、流れるような時間と、滑らかに動き出す(空間の中に居る)感覚を通して、それら(の性質)は、望むべく変化のその大切な要素となって、さりげなく大きな仕事をしていることに気づかされる。

感情は、本来と全体にとってのその違和感としての反応のそれでしかなく、それが変化に乗り得るものであれば、感情は感性の中に溶け、そうでなければ、それを変え得る時の材料として、感性の中に収まる。感情の必要性に、(個の)感情は無い。

思考は、いつしか、頭で考えることではなく、心で感じることをそのまま通す役(場所)となり、対処や検討といった次元のものが縁遠くなる中、何かをしようともせずに、さりげなくすべきことをする(している)その原因を高める道具となる。考えていては、思考は、ほんの少しも本来の力を出せない。

他を隔てる感情も、個のままの思考もそこには入り込めない、人間本来の普通。「仏陀の心」は、その本来をどこまでも細かく回転させ、それをどんなところにも流れさせて、時を癒す。それは、生命世界における人間にとっての、シンプルな真実。感情も思考も、そこでは、心のかたち。

12/08

1.「仏陀の心」が一緒に歩き始めた時、「歴史の芯」は、少しずつそれまでには無い軽快さを感じさせ、より微細で逞しくなったその原因の意思は、歴史ビル2階を中心にいくつもの時代を行き来しつつ、滞ったままの結果を次々と砕き、確実に、現代に繋がるかつての時からの通り道をキレイにしてくれている。それは、ここに生きる心ある素朴な人たちのその本当の姿である本体(生命の意思)が、自由で、楽になっていることを意味する。遠い昔、いくつもの辛く切ない時を生きたかつての自分も、そこでの経験の記憶が浄化されたことで、深くから癒される。そのことの普通は、そのまま、その成長・進化のプロセスに乗る。

「歴史の芯」は、22章を境に、前と後ろに分かれ、23章から27章に向けて、文章になる手前のその原因のEWは、より活発になる。歴史ビル2階の負の原因が崩れ、風通しの良くなったこの国のこれまでは、もう負の連鎖の延長上に居なくてもいいこの今の現代に、次なる未来への新たな原因としての、その役割と実践を託す。姿無き無数の生命たちの想いもここに在り、それを繋ぐために、次に残してはならない形無き存在の意思を、完全に壊す。この今の心ある風景(の原因の中)で浮足立つ不穏な存在たちの、その負の供給元を消失させる。これまでが癒される原因の今から、未来が喜び、安心する原因の今へ。この時代に生きることの意味が、余裕で時を超える。

12/07

LEDに汚染された雨水が、乾きにくく、べとっとしてますが…」「あっ、それ、料理に使うとあんかけになりますよ」「何でも知っているのですね

12/07

9.宗教という言葉も、その概念も存在せず、そこから始まる生き方や事の捉え方も、どこにも無い状況があるとすれば(とは言っても、かつてはそれがあたり前だったが…)、そこに在る(残る)のは、水や空気のような、仏陀の普通である。その普通が、人から人へと伝わり、空間から空間へと流れ、繋がり行く時、人は、生きる原因を、その意識もなく本来とし、無くてもいい経験を知らずに、あたり前の平和と健康の時を、共に育み、成長させる。

その様を、宗教という名で扱ってもいい。そうでなくてもいい。基本が否定感情とは無縁であれば、何をしても、それがどんな風でも、時は癒され、人は、健全さを普通とする。その世界から観た時、キリスト教の本当の姿が、面白い程に見えてくる。そこに、生命を活かし、自然界を安心させる、水や空気のような原因は無い。

思考で覆われた本当の自分のその性質が他者へと自由に伝わることになると、心(原因)の嘘は、一切通用しなくなる。それまでの知識や経験が意味を成さない感覚世界(環境)に身を置くと、大切にしてきた物や形は、そうではなくなる。そして、意思表示し始める、ありのままの自分の、その本質。それは、人間にとって、何より重要で、貴いもの。それがそのままであることを基に、人は、人としての生を生き、時を創造する。その普通世界が、普通に変化に乗り、空間を次へと繋げば、人は、争いの原因を生み出すことはない。苦しみも悲しみも、経験の外側となり、誰もが、生命としての人間を、自然体で生きる。

そのことを外して、人生を語ることは出来ない。なぜなら、人生は、この地球自然界に生きる一生命としての存在が、人間という身体を通して経験する、人としての地球時間。そこに、差別や優越、嫉妬や怖れがあるとすれば、そのままでは、人生ではなくなる。その原因の浄化無しに、人生と呼べる時を、人は生きることは出来ない。

改めて、「仏陀の心」を自分と重ねる。どこまでも中庸でいる生命本来の生き方を、自然界に、自信を持って差し出してみる。自らが、この地球発の、地球が喜ぶ普通人のひな型になる。

12/07

8.この地球で共に生きる動物たちを食べることなど、余程のことが無ければ考えることもなかった、自然界に生かされ、自然に生きる人間。それは、キリスト教という、心より思考を優先させる(心が思考で扱われる)教えの、その元となる原因の風景で始まり、そのことで次第に脳(右脳)を不自然にする人たちの間で、それは日常化する。動物の肉の摂取は、それを普通とすると、それまでには無かった様々な否定感情(嫉妬、差別、怖れetc.)の土壌が脳に植え付けられ、その気もなく、攻撃的で自己本位な生き方をするようになる。(人間の心身は、元々それを良しとしないわけだから、当然のことなのだが…)そして、時代環境が許せば、支配・所有欲を狡賢く具体化させ、そうでなければ、巧みな偽善・偽装で、世の潮流を自分たちのものにする。その非人間的な感情(脳)は、形無き心の性質を無視できるキリスト教の、その負の土台をしっかりと支え続ける。

動物たちの苦しみと痛み(の原因)を、そのまま取り込み、自分のものに出来る人たち。その地球自然界の望み(普通)を破壊するような行為と、その負の要素の原因は、キリスト教を通して多くの場所に伝わり、その地域の宗教の在り方にまで悪影響を及ぼす程になる。動物たちの苦しみを生み出さない、仏陀の普通世界は、人として要らないはずのものを備える存在たちによって拒否・否定され、そのままそれは、地球の悲しみとなる。彼らが、動物愛護や環境保全の言葉を発する時、そこに在る、全くそうではない暴力的な原因に、自然界の生命たちは、苦しみを覚える。

12/06

LEDライトを浴びた雨水で、塀が変色しているようですが…」「あっ、それ、最近流行りの腐敗色というデザインです」「何でも知っているのですね

12/06

7.いつの世も、そこに力を持つ普通ではない存在が居れば、差別も争いも無い本来の普通は非常識とされ、弱い立場の人たちは、そのことに抗えずにただ力に従い、身を守るために、そうである常識(歪な普通、嘘)を正しさとして生きる。何世代にも渡ってそれが続けられると、世は、完全に自浄力を無くし、それまでの嘘に頼り、利する立場でいる人と、そうではない人との間では、無くてもいいはずの格差が生まれ、健康状態や、平和や安定への意識にまで、違いが出る。

困った人の存在を前提とするというのは、病気や争い事(衝突)が、それによって生まれやすくなるということ。医療技術の発展も、武器製造も、その嘘の原因から始まったものであることが、容易に理解できる。力を持つ側から生まれたキリスト教は、人間が人間らしく生きる上で無くてもいいものを作るのが上手である。

仏陀の普通は、人としての本来であるので、そこに、嘘の原因は無い。嘘の原因が無いというのは、形を生み出す形無き原因が、生命としての、ありのままの自然な姿であるということ。本当か嘘かという思考型の価値観も無く、ただその心ある原因の意思のまま、時空と戯れるように生きているということ。それは、地球に生きる一生命としての淘ぎと連繋(沙と羅)の仕事を、さりげなく担う。

そのどこにも向かう場所の無い、仏陀の普通には、そこに引き寄せられ、創り出されようとする、みんなの普通とその風景がある。自然界との自然な融合を基本とする彼の原因の性質は、そこにどんなものがあっても、そこを通り抜けてそれを包み込み、癒す、自然界の根源的な意思表現をあたり前とする。そんなだから、嘘の原因を生の土台とする(結果を生きる)存在たちは、それに抵抗する余り、原因の性質無視の観念的思考を形(宗教)にして、自らの本質(本性)を顕にしてしまう。道元と同じ時を経験しながら、仏陀(真の普通)を退けつつ、キリスト教に熱くなるこの国のある層の人たちは、その東洋版の典型と言える。

12/06

6.西欧で盛んになったキリスト教は、後にこの国にも伝わることになるが、そこでは、それまでに力を付けた、仏陀への拒否反応から生まれた浄土思想が、それとの融合を上手く演出するかのように、その受け皿となる。浄土(極楽)と天国、念仏と祈り、そして根強い他力と審判。思考型の観念的思想作品として生み出されたそれらは、どれも、責任ある原因を持たない、心の無さの具体化。

人の心を癒し、共に心ある風景の原因を力強くする普通がその宗教の中に在れば、それは、困った人の存在を無くす流れをつくる。決して、困った人の存在を前提としたものであってはならない。その教えに、人としての成長の基本要素である、中庸の精神が普通に在れば、行為としての反省を必要としない、自らの原因への責任感覚があたり前となる。決して、それは、反省することに心地良さを覚える、優越や差別の感情を潜めるものであってはならない。

それらの普通を寄せ付けない、キリスト教。その普通ではない事実から自然と学べば、争いや病気、貧富の差などの原因を浄化する知恵は、容易に手にすることになる。そして、自らの健康と平和の原因がそのことで高まれば、そこに(キリスト教に)生命本来の原因が存在しないことも知る。人は、自然と、生きることの性質と未来へのその責任に真剣になる。

12/05

「あら、電柱が傾いている」「それはLEDメガゴジラの仕業なんだ。僕らのヒーロー、縄文土器子に直してもらおう!」「すごい人なのですね

12/05

8.ほんの少しでも、然るべき原因を持たない知識や記憶が思考に入れば、その経験が要らない原因となって、どこまでも分かり得ることはないであろうその次元のことが、9月の後半辺りから、次々と意思表示し始め、無有日記の世界に入り込もうとする。それは、23章からの文章となり、EWとなって、今、この27章の内容となる。

ある意味、この世は、全てが呪詛の対象として在り、その原因と自らを重ねても何ら問題の無い人たちは、その中でも、自由気ままに生き、そうではない人たちは、理由の分からない辛さの中で、生きにくさ(動きにくさ)を経験していると言える。それは、非人間的な妖術で支えられ、運営されていた、奈良期以前の価値観が、その原因をそのままに(増幅させつつ)、現代でも息づいているということ。悲しいかな、それは、人間らしさが力を持てない時代の姿。

壬申の乱以降、呪術系の多くの強者たちは、時の権力者の背後で、人知れず術を磨き、競い合うところに居たが、現代、その呪術(呪詛)を余裕で為し得る能力を潜める政治家二人が政界の真ん中に居るというその姿は、歴史的にも珍しい。それだけ、彼らの本体(正体)の意思は、本気なのだろう。かつての両親との繋がりを密としているぐらいだから。

心優しき素朴な人たちの想いが形になることを怖れ、それを尽く潰し切ろうとする、不自然極まり無い、妖術の次元。遊び心一杯にその世界深くに入って行き、呪詛・呪縛を外して、心あるみんなの本来を取り戻す。27章は、そんな時の始まり。実に楽しく、面白い変化が動き出す時。みんなで、妖怪村で、遊び呆けてみよう!

12/05

7.心ある原因の選択という普通世界が全く意味不明である、その異常な原因を普通とする二人の政治家は、かつて自分たちの影響を被った人たちが、時代を経ても尚その(妖術、呪詛)の影響下にあり、そのままその姿を元に子孫(人口)を増やし、今現在に至るという、その人々の不自然な様を、我が物のような趣味感覚で弄ぶ。その一番の遊び道具が、LEDである。

間接的な呪詛・呪縛を可能とするその非生命的な(嘘の)光は、この地球環境に大きな負荷をかけ、人の生き方を非人間化させる。水も空気も、音も色も生命力を無くし、時代は、繋ぎ得るものを見失う。時代が変わっても、形無き本体の世界は、かつてのままである。より狡賢く、より高度な嘘を覚えた蛇系の存在たちは、LEDの嘘の原因の力にぶら下がり、世を病ませて、心ある人々を苦しめる。その中心で旗を振るのが、安倍氏であり、小池氏である。

歴史ビル2階で、彼らの親であった二人は、頼りがいのあるその支え役として、呪詛の行使を普通に、LEDの破壊の意思を利用する。ただ今回は、無有日記に縁した立場上、彼(彼女)らは、非LED化の動きを形にする。そのことで、何をしてもどうにもならない時が延々と続くことになり、そこに在る滞りの原因と、彼らの呪術系の無意識の意思により、時代は、尽くその自浄力を無くす。ということにはならないために、この無有日記があるのだが…。

12/05

6.彼ら二人が、仲良く、同時期に政治の舞台に居て2017年秋現在)、どちらも大きな影響力を及ぼし得る立場に居るということのその意味を、本人たちは知らない。本体がそう望んだにせよ、時代は、それを活かす。壬申の乱の原因の風景で、他の存在たちと共謀して、どれ程の残虐な意思を具現化させていたか。無有日記との接点を持つ二人の親の現在を通して、彼らの右脳の中にも入っていく。放っては置けない現実のその原因を浄化するために、この場所から、更なるEWは動き出す。

呪歌・誦呪の醜い感情と繋がる、古典芸能(文学)、そしてそれに併せて呪詛の類をもその土台に置く、神道及びそれを背景に持つ武道・武芸。そこに在る、恐ろしく獰猛で下劣な原因は、斉明天皇から親近のその姉妹へと受け継がれ、現代に至るが、その元締めのような存在として、妖術(呪詛)の世界に君臨していたのが、その二人の母親である。彼女が、今現在、関東の地に生を持っていることを考えると、安倍氏も小池氏も、かつての母親に見守られながら今に居るということが分かる。

22章の時、その集団の中に居ながらも、それへの描写を控えざるを得なかった、その破壊力と呪詛系の威力。恐いもの見たさのお化け屋敷感覚で、彼女の本体と遊んでみる。

12/04

5.人間経験を選んだ、仏陀の意思のその影響力は、それへの抵抗と拒否を各地で生じさせ、思いがけず、心無い存在たちの嘘に力を与えてしまうことになるが、それだけ歪で愚かな人間社会が続けられていたそれまでを考えれば、そのことが顕になったということでは、彼の誕生は、大きな意味を持つ。充分な仕事を為し得なかったとしても、彼が生きた身体時間のその手前の状況(背景)は、決して放っては置けない非人間振りの様。そのこと(人間経験)がどんな性質の変化をもたらし、それによって、どんな未来が引き寄せられようとするか…。仏陀の生命(多次元的な感性)は、自らの意思表現を通して見えてくる、その時代の人たちの形無き本質を観察し、次なる生の機会のために、それを大切な材料とする。近隣の国々での、仏教(真の普通)の歪曲と形骸化。遠国での、心を切り離した嘘の教え(宗教)の確立。彼が身体を終えた後に、躍起になって嘘の正しさを広め、それを巧く常識とさせてしまう力ある存在たちのその全ての原因を、仏陀は、自らの原因の中に溶かす。それを、釈迦牟尼の生での、最も重要な仕事とする。

12/04

5.術使いたちは、この時代、そうであることを知られないために、執拗に人の脳に負荷をかけ、事あるごとに、そのための病みの下地を更新し続ける。それでも自分たちの心の無さとその異様な本性に反応する人が居れば、すかさずそれを感知し、磨き上げた呪術で、その人の脳の自由を奪う。「心の遺伝子」の世界を普通とする人ほど、繰り返し生きる力を潰され、何をしても細かく監視されて、どうにもならない時を経験する。

人の脳(右脳)に働きかける妖術は、見た目では分かり得ない無意識の意思(の性質)をその源とするので、それが為されていることも気づけずに、人はいつのまにか心身を重くさせ、気力・体力を失くしていく。その不自然さは、思考を忙しくさせ、それまでには無かった不安や緊張を生み出し、身体の不調や痛みを作り出す。妖術をかけられると、その人は、放って置いても成長・発展とは縁遠い状態となり、その人らしい人生を送れなくなっていく。

呪詛や呪歌による力試しが、支配層の世界で活発に行われていた、7世紀。中臣鎌足と大海人皇子は、その頃の経験の性質を残したまま、否応無くこの無有日記と縁することになり、それぞれの女性であった、鏡王女と額田王は、無有日記の外側で、更なる負の経験を重ねようとする。その姿は、かつてのそれと質を同じくする、その呪術絡みの原因のうねりのよう。違いは、武器が無いこと。他者を呪い殺す呪詛・呪文を、大っぴらに出来ないこと。だから選んだ、政治家という地位。呪歌・誦呪の原因をそのまま受け答え(答弁)の言葉に乗せ、心ある人の生命力を吸い取り、心無い人を活躍させる。壬申の乱の内実を知り、自らの原因の質を成長させると、生命本来の感覚的理解として、そのことがよく分かり出す。

12/04

4.心ある原因をあたり前に生きるという、人としての普通を大切にしていると、二重三重に覆われた嘘の原因にも、段階的に容易に触れることが出来る。結果から始まらなければ、どんな原因も動き、形にとらわれなければ、形無きその本質がよく分かり出す。行為から始まり、過去に在り続ける言葉が大切にされる教えほど、心の無さを強くその原因としているものはない。それを知るというのは、人として、何でもない当然の経験である。

その原因の世界からキリスト教を観る時、かつての他地域への布教の危うさも、人は理解する。それは、仏陀の原因(普通)を包囲するかのように、心ある風景のありのままの姿を抑え込もうとした、権力の座に居る存在たちの、非道な思惑。そのことで、各地で悲劇が引き起こされ、人々は、永いこと(現在に至り)、歪な正しさの中で、生きることの真を忘れる。宗教の名の元での、心ある原因の無い、支配と統治、そして争乱。宗教心(心)を持たない宗教は、征服欲を正当化してしまう程、人としての真を持たない。

仏陀の普通との融合体験は、人としての生きる基本形を力強くする。そして、宗教という言葉も、その概念も不要とする真の普通の中で、宗教という名の様々な形ある世界が、その人としての基本形の原因と重なるか(融合するか)どうかも、観察し得ることになる。キリスト教という、真実への抵抗。イエスという存在が居るとすれば、彼ほど、人間の欲に翻弄され、嘘に利用された人間は居ない。仏陀の心を知れば、それは、普通の認識となる。

12/03

4.26章の後半に登場した、呪歌の元祖的存在であるかの男女の娘であり、斉明天皇の家族とも密に関わった額田王であるが、彼女には、姉がいて、互いにその妖術の能力を認め合う。両者とも、周りに可愛がられ、誦呪に励み、呪詛・呪縛の力を磨いていく。二人は、現代、政治の舞台で、好き放題負の原因を撒き散らし、その凶悪な無意識の意思で、人知れず妖術を行使する。

その力(能力)には誰も抗えず、気づけば、その自覚もなく人は思考を不自由にさせられ、健全な感覚も忘れて、彼女らに従う(ひれ伏す)立場となる。企業や財閥に潜む同質の存在たちは、殊の外、その状況を喜び、皆で共同し、無くてもいいものを次々と作り出し、世を病ませ、自然界を破壊する。誰もそうとは分からず、違和感の域にも触れることのない、そこでの呪術の源泉は、壬申の乱の頃の経験の記憶。姉は、現在、安倍氏として、妹は、小池氏として、仲良く呪術畑を耕し続ける。

彼らの言葉を聞き、顔を見るだけで、普通の人の右脳は、不健全さを馴染ませてしまう。本来の在り様からは大きくかけ離れ、非生命的なものに思考がフィットするようになる。より大きく時代の流れを捻じ曲げようとする、彼らの共同作業(妖術の競い合い)。この歴史の芯を通して、人間本来の力を付ける。地球を悲しませてはならない。

12/03

3.異様な原因(本体)で繋がる、危うい本性の遺伝子を備える存在たちは、自分たちの心の無さが、仏陀の原因によって顕になり、それが隠しようのない不合理な原因となって不穏な状況を引き寄せてしまうその現実を避けるためには、人々の目に、心ある姿を印象付けることが何より重要であると考える。そのために取った選択が、形あるところでの、思考による心ある行為である。人々への対処にも、柔軟さと寛容さを巧く組み入れ、以前よりも楽という感触を人に抱かせて、彼らの、(置かれた環境への)積極的受容を演出する。形あるところで、人の心に安心の時を経験させ、それを心ある姿として感じさせて、人としての基本となる心の意思世界の質を、自分たちの都合の良いものへと変えていく。

言葉で扱うことの出来ない心の世界を、上手く言葉で処理し、真実としてそれを人々の思考にすり込み、一般化できた経験は、そのことを人との共通項に、支配・権勢の土台となるその強力な要素を生み出していく。心ある振りと、嘘の優しさを馴染ませつつ狡賢さを磨く、力のある存在たちは、実質、それまでと同じく支配体制が維持されていることに安堵し、それに加えて、人々の中の不平や抵抗が弱まっていることにも味をしめ、更なる企てを試みる。

彼らは、イエスという存在を作り出し、心ある存在の代表として、それを人々に崇めさせ、心ある原因を不要とする、作り物の心の世界を真実とする。心を無くした人ほど何の違和感もなく実践できるその宗教を通して、権力者と、それに守られる心無い人たちは、仏陀の原因との融合が一切可能ではなくなる現実を完成させる。それが、現在のキリスト教のルーツとなる、その原因の風景である。

12/03

3.負の連鎖を砕いて未来に繋がる原因を本来へと変えようとするその動きを尽く邪魔しようとする存在と、社会全体を非生命化の流れに乗せて世を病ませようとする存在は、役割は違っても、その本体(生命の意思)は同質で、皆、かつて身内であったり、敵対したりする経験を持ち、人の苦しむ世を生み出す方向性を同じに、都合良く繋がり、利用し合い、共存する。

これまでの記述では、その多くが、何らかの形で無有日記の世界との接点を持つ存在の、そのかつての関わりの風景を主としてきたが、彼らと質を同じくしながらも、現代は全く別の場所に居る強者たちの姿に触れてみることにする。それが意味すること。それは、繋がる未来が、この今の原因に呼応し、動き始めたということ。次なる時代から眺めるようにして、その存在たちを形(文章)にし、それを、未来への責任ある原因とする。偶然を装ってここに引き寄せられたこの時の必然は、そのまま、自然体で生きる生命たちの安心の原因となる。

12/02

2.2500年程前、釈迦牟尼(仏陀)が現れた時、それまでに固めに固められた非人間性(差別、支配欲)の原因を生きる力の源としていた、非道な人間たちのその本性は、そのことに大きく刺激される。触れなくてもいいはずの内なる不安との接点が、理由も分からず生じ出し、思考の働きも不安定になる。

彼の形無き原因の本質となる次元からは、人間らしさを欠いた存在たちのそれが余裕で観え、彼らには、彼(仏陀)の次元の様(性質)は、永遠に知り得ない。その全く感じることも出来ない原因(本体)を持つ存在が、身体を持ったわけである。遥か上空から自分たちの居る場所を突き抜けて地上に現れたような、その驚きの経験の事実は、彼らに、恐怖心を抱かせる。

その恐さは、自分たちのこれまでの普通が、その内側から崩れてしまうことへの怯え。原因を持たない結果は存在しないという真実の中に、仏陀の限り無く中庸でいる原因が入り込むことで、永く維持してきた、重く、動きの無い原因(の蓄積)が浄化されてしまうことへの脅威。世を支配し、心無い現実の受容を人々に強いてきた存在たちは、仏陀の持つ普通とその原因が自分たちの世界には入り込まないよう、あらゆる手立てを講じる。それは、権力支配を普通とする各地で、申し合わせたように始まり、様々な動きが生じることになる。その西欧版が、キリスト教である。

12/02

2.そのままであってはならない思考世界のその基礎は、歴史ビル2階の時に形作られる。その材質は、忍耐と服従、諦めと保身。呪術絡みの残忍な感情を力に支配力を強める存在たちによって、人は、常に思考を働かさせられ、生きていくために、心の意思を忘れる。

思考を自由にさせるという、唯一思考の質を変化・成長させ得る本来の思考状態は、思考世界の負の根幹となる部分を確実に揺り動かしてしまうため、それを頑なに守ろうとする嘘人たちにとっては、実に手厳しいものとなる。それを普通とする、無有日記の原因の力。蛇系の存在たちが無有日記の存在を怖れるのも、ムリも無い。

無有日記への怖れは、その人に、それまでには無かった思考体験を経験させる。それまでであれば簡単に破壊し得る対象となるそれが、どうにもそうにはならない現実は、必ずどうにかなるという自信と慢心が思わず引き寄せた、経験の外側の出来事。そこでの思考は、その原因となる性質を顕にし、その経験は、そのつもりもなく思考世界を不安定にするという、到底あり得ない現実を、自らが生み出してしまう。

その蛇絡みの原因のところで密に繋がる、無有日記の世界から離れたところで世を病ませることに専念する、同質の存在たち。彼らも、その煽りを受け、次第に、理由の分からない不安定な感覚(焦り、緊張)を経験するようになる。

12/02

1.力を持つ存在のために、不自由さに耐えつつ、言われるままに動き、辛さと苦しさを慢性化させる人たち。彼らとは対照的に、何もせずに欲しいものを手に入れ、食べたいものも好きなだけ食べ、楽でいられる人たち。

力を持つ存在と、その恩恵を得て楽に生きる、力ある側でいる人たちは、そうである以外の暮らしを知らず、そうではない経験を決して望まない。それゆえ、立場の弱い人が厳しく大変な生活をしていても、それを変えたいとは思わず、彼らの上に居て、何不自由なく生活できる自分たちの立場を、当然のこととして肯定する。そして、どうにもならない貧富の差や差別を普通とする歪な世が、それをどうにかしようとはしない力ある側の人たちによって、どこまでも維持されることになる。

その姿は、3千年程前から、世界各地の、住環境に恵まれた地域で進められ、特に大河近くや地中海に面した場所では、人口が増えるに従い、その不自然さがあたり前になる。人間本来の感覚が普通に表現されていれば、誰も経験することは無かったであろう、人として低次の、二者択一的価値観を力とする、隔たりのある社会。人々は、心無い存在の歪な普通の元で、辛く、苦しい生活を送り、その異常をやむ無く(どうにも出来ずに)繋いでしまうという、余りに厳しい時を連ねていく。

12/01

1.日常的に、何気に見た目(形式)や結果に意識を向けさせられてしまう人たちによって支えられる、思考世界。自己を偽り、本心ではない嘘を自分とすることで成り立つそれは、実体の無い病みの原因の溜まり場。危うい本性を隠し持つ人ほど、それは心地良く、その世界無しには生きていけない人を通して、負の連鎖は、その密度を濃くさせて固まり続ける。

思考の使い方次第で簡単に善人になれるその世界では、その気が無くても、そうである姿を見せれば良しとされ、形ある言葉や行為が活躍する。心ある人たちには難しいそれも、世に通用する価値観として妙な力を得てしまえば、彼らも、それに合わさざるを得なくなる。思考の力は、心の無さの力。その不自然・不調和の原因は、いくつもの要らない経験を作り出し、人々にそれにつき合わさせて、人知れず、時代を非生命のそれにしていく。

心発であるから意味のある思考も、本性の遺伝子に心ある原因を持たない存在たちが、他を隔てる感情を形にしたことで、思考のみで事が済む、心無い世界が存在感を持ち得てしまうことになる。その彼らが、それを維持するために大事にする、形式(儀式)と礼、そして結果(過去)重視の生き方。嘘は、思考世界を生み出し、そこでの思考は、その嘘の原因をそのままに、否定感情の潜む物や形を次々と作り出していく。

12/01

8.時代を超えて伝わり、繋がるべくものは、誰もが読める言葉で表されている。理解はそれぞれでも、触れる人の変化・成長に従い、そこに在る重要なことは、そのまま、次の時代へと続く。そこに書かれた平易な言葉は、言葉になる前から、未来が喜ぶ原因がその仕事をする。

普段使われない言葉が並び、特別な学びがなければ簡単には読めない(分からない)言葉や用語がそこに在ると、それは、繋がる未来を持たない。それが、権威ある文書(文章)として人の意識を引っ張る時、人の動きは止まり、繋ぐべきものも、力を失くす。人の生きる原因も、不自然になる。

そのための知識を必要としない平和は、その原因が力強い。言葉にするまでもなく自然に形になる健康的な営みは、そのまま、次なる時の、未来への原因と繋がる。そして、それらに連れ添う言葉は、まるで生きているかのように、優しく、純粋でいて、人の心の中で、繋がる時を癒しながら成長する。

大切にされるべきことは、普通にそれを大切にする原因がそのまま言葉になり、そうではない時を知ることもなく、人はその時々でそれを確認し合う。繋ぐべきことは、誰もが繋ぎ得る日常としての原因となり、ふとした想いに寄り添う言葉を通して、人は、その嬉しさを、それに(言葉に)乗せる。これらのことを、そのまま、ありのままに実践し、繋がる未来を元気にする。地球自然界が、優しさで溢れる。

12/01

2017

8.斉明天皇も中大兄皇子も、中臣鎌足も藤原不比等も、蛇の脳を持つ野蛮人が術使いになったと思ってよい。大海人皇子も額田王も、十市皇女も高市皇子も、そして持統天皇もそう。この国は、7世紀後半、友愛と調和の未来への架け橋が完全に外され(壊され)、その後、無くてもいい非人間の歴史を刻み出す。

現代、この国は、歴史上初めて(外からの力により)武器を持たず、命(人生)の奪い合いも無く人が生きる時を経験する。ただしかし、それまでの負の原因の蓄積は未だ浄化されず、時代は、不穏な空気を潜めたままである。その原因が予期せぬ不本意な現実を引き寄せぬよう、それを浄化し得る新たな原因を乗せて、ここに、この「歴史の芯」の文章を記す。「仏陀の心」と併せて、ひとりでも出来る全体(未来)への責任を実践して欲しい。人として、生命を生きる人間として、この地球自然界が安心する原因を生きて欲しい。それは、この今を生きるみんなの仕事。その支え役として、この無有日記が在る。

人は、思考を働かせて、思考世界を作り、そこでの思考型の価値観に力を与えたことで、悲しみや不安を作り出す。思考から始まらなければ、その思考世界との関わりも薄くなり、不安も怖れも、それらの原因は、次第に力を無くしていく。

「歴史の芯」と「仏陀の心」に触れて、思考が自由になり、経験や記憶が存在感を持たなくなってきたら、感じるままに、そのままありのままに、さりげなく想いを表現してみる。そして、自然界の生命たちと同じように、淡々と中庸でいて、隔たりや嫉妬といった否定感情とは無縁のところでの安心を、自らのその原因で安定させていく。いつしか、ふと気づけば、時代は、癒し色に包まれる。争い事や不健康な風景は、どこにも見えず、不公正も不健全さも、その原因は生まれない。その気もなくそうであって、その時を未来に繋ぐ。この時を待ち望んでいた、いくつものいろいろな世界が、呼応し合い、大きなひとつになる。そして、広がり、流れ、光の風を運ぶ。「歴史の芯」は、地球と一緒に回り出す。

 

 

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