無有日記

 

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11.時間の使い方の、その質が大きく変わる、「人間(4)」以降の、何気ない人間時間。居眠りしないというのは、それだけで、どうにも対処し難い無意識の意思の性質を変化に乗せ、経験から自由になれない現れでもある、感情や思考の繰り返しパターンにまで、その作用は及ぶ。何かの裏返しの経験ではない、生の仕切り直しのような、生命本来の時。ボ〜っとする時間を無くし、眠気に付き合わされずに居ると、仕組まれた心地良さの中の危うさがよく分かり出し、夢や思考にまでそれが入り込んでいたことも余裕で理解する。気づけば、心が逞しくなる。

そして、段々と経験するようになるのは、居る場所や人(物事)との関わりを通してふとそのことを気づかされる、生きる原因の変化・成長とその安定。人や空間がどんなであれ、常に心は主導権を握り、想いは、流れるように心ある未来と繋がる。その原因は、縁する風景(人、もの、環境etc.)のそれに正直に反応し、滞りや不健全さの原因を浮き上がらせて、その出所を絶つ。思考を不要に使わせない中庸の原因のままの無有日記に触れつつ、眠気を遠くに置けば(ボ〜っとしなければ)、その基礎は力強くなる。

この「人間(4)」との出会いを、自然界が喜ぶ、一生命としての人生の再スタートの時とする。その実践を通してのひとつひとつの経験は、縁ある風景のその元となる原因を変え得る風となり、新たな時へとその原因を修正・浄化する光となる。ここから、この時から、地球自然界の色は変わり出す。

EWを進化させる中で、胸椎上部や鼻、眉間なども、それに参加させてみる。それらは、永いこと病みづくりに利用された場所である)

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10.心身の不調の原因が存在しなかった遠い昔、人間は、その普通を繋ぎ、支え合うために、自然界と共に、自然体の生をあたり前に生きる。当然そこでは、現代にあるような胃腸の疾患や腰痛、ひざ痛の類は誰も知らず、器官や機能、感覚(子宮、目、皮膚etc.)の不調も縁が無い。無有日記を通して何気に生み出される意識が、未来が喜ぶ自然体(中庸、全体)のそれとなる時、心は、遠い昔の自然界が備える、その力強い普通との融合を経験し始める。

争いも病気も無かったその頃、足の指は、地球感覚の基となり、仙骨は、人間生命を繋ぐ(守る)仕事を担う。腎臓と肝臓は、身体活動の本来を支え、その全てを知る脳は、右脳を中心に、一生命としての人間経験の時を生み出す。地上(の次元)が不穏なものになる中で、その健全な働きを集中的に病まされたそれらは、この現代に、かつての経験(遺伝子)の記憶を復活させる。心は、そのことを何より嬉しい。

LEDフォトブックで、地面(地球)からの生命力を好きなだけ身体に流し得たら、「人間(4)」との融合に、腎臓と肝臓、仙骨と足の指を参加させる。そのことで、治癒・自浄への自然な働きかけとなる自然界発の普通は、その原因のところからの動きを伴って、具現化していく。「仏陀の心」で、本体の性質に触れ、「歴史の芯」で、その切り離しと創造(生まれ変わり)への原因を高め得たひとりひとりの存在の性質は、「人間」を通して、歴史的生き直しを可能とする。「人間(4)」で、地球感覚を自然体とするその原因の仕事は、自動制御になる。

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9.そして、この4章の内容を実践する中で、いつのまにか経験していることになる、新たな普通。それは、余りにさりげなく、自然なことであるため、どこまでも自覚しにくい。それもそのはず。それは、脳の中の微妙な変化。微妙であっても、とても重要なそれは、ずっと永い間その自由な働きを妨げられていた部分の、活動再開とも言うべき、望むべく変化。人は、その時を、大きな喜びとする。

人間の脳は、意識を支配されたまま、普通ではない状態の時をずっと連ねて来ているが(「歴史の芯」)、そのために尽く本来の活動を阻まれてしまっていたのが、すでに述べている右脳であり、その働きの(物理的)枷と化していた脳りょうと、健全な身体表現の原動力となる視床下部である。他にもいくつもあるが、この3つは、心ある人間時間での生命の意思表現という観点では、担うものの次元が違う。非生命的な存在の思惑に付き合わされた人間の脳は、右脳を牛耳られ、それと視床下部との連繋の仕事を扱う脳りょうを不自由にさせられる。それらが、奇跡という名の普通の中で、生まれ変わろうとする。

これまで普通とされてきたことの、その背景となる理由とその原因が、地球自然界の望み(意思)を基とするEWによって動き出す時、そこに在る、世の普通とされる(されてしまっている)不安や怖れ、争いや衝突(病気、問題事etc.)の原因は、それまでのままではいられなくなる。その際の、自浄力を高めるべく原因の処方がボ〜っとしないことと、思考を忙しくさせないことである。日中、一切の眠気を外し、居眠り(うたた寝)をしないだけで、脳は変わる。そして、無くてもいい不調や不安のその発信源のようなものを感得し、それらを外す自分が居る。脳は、永い時を経て、人間のものになる。

4/26

小学生の時、歌謡曲にポップスにフォークにTV主題歌にと、あらゆる曲を聴き、そのメロディも、その時の空気感も、みんな記憶している。その後もずっと音楽に親しみ、かなりの曲を聴いてきている。

この今のEWを通して、そうであったその必要性を理解する。音楽で病むことを知らないムーだから、余裕で、それで病んでしまっている人たちのその原因に入っていける。始まったら、音楽絡みの負の原因(意思)が、面白いくらいに、焦り、ざわめき出す。

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8.溜まった疲れを癒すために休息を取る必要性が生じ、そこでボ〜っとしてしまうことがあるが、大切なのは、そうなってしまう状況の、その原因への対処である。睡眠の質が低下して、心身が不安定になり、日中の睡眠でそのことを補わなければならなくなることがあるが、大切なのは、そうならないための原因の選択である。

それらの原因は、休息を取り、ボ〜っとしても、睡眠を取っても、変わらない。楽になったようで、中身は何も変わらず、変わったようで、その原因はそのままである。無くてもいい現実のその原因の浄化も、そう在るべき新たな現実のその原因の創造も、ボ〜っとしないことで動き出し、眠気から離れていることで、具現化する。それは、生命としての生を生きる人間に与えられた、地球時間における知恵である。

地球の陸地の基本形は、地面(地表)までであり、地上での営みは、そのおまけのようなものである。そして、地上で生きる生命たちは皆、地中(地球)からの植物の生命力を糧に生を生き、生を終えて地中にその全てを返すことで、自由に生きることが許される。太陽は、その姿を光と熱で支え、海は、川と共に、その水で土を活かす。

その基本を知る時、人は、太陽と海を身近に感じ、自然界との一体感を覚える。そこに特別なものは何も無く、ただ一生命としての人間を生きるその生の大切さを、誰もが自覚する。その時、人は、太陽に優しさを覚えるという感覚を遠くに、自らが太陽のような優しさを生きる。海や山の温もりと同じように、自らも、温もりのある空間を創る。それが人間である。そうではない時に生じる、(人間だけが嬉しい)ボ〜っとする感覚も、頭の忙しい時間も、縁遠いものになる。それは、太陽の嬉しさであり、地球自然界の安心である。

(人としての生きる原因が大切にされていると、時に、踏み込まれては欲しくないエリア(価値観、組織etc.)の拒否反応に、ボ〜っとすることがある。それは、不要に絡もうとする姿無き存在(本体)が、その同質となる対象に違和感を覚えさせない意図によるものと考える。自由な原因のままの(思考では扱いにくい)音やリズムとの融合にも強い反発(憎悪)を示すその意思は、眠気という形で、(その本質となる)怯えと狡さを顕にする)

4/24

「人間(4)」で、眠気の正体を知り、そうではない状態を普通感覚で実践していると、歩いている時に突如経験することのある、身体の重さも、その質(理由)は同質であることが分かる。脚が重く、歩きにくくなる状態は、椅子に座っていれば、眠くなる状態と同じ。その人の変化を止めようとする、別次の存在(本当の自分)の意思の現れ。それを知り、そうである状況を変えていく。ムリなく動き続け、それを普通とすれば、人生はもっと面白くなる。

4/24

7.暖炉の側に居ると、ボ〜っとして眠くなったり、水浴(水泳)をした後に、思わず寝てしまったりする姿は、その殆どが、火や水を嫌う、意識と重なる本体(本性の元)の拒否反応の現れであり、眠気へと身体を引き込むことで、その意思は、それらとの融合の時を壊そうとする。こういう時はどうしても眠くなるという時のその理由となる背景には、その空間での自然な変化を阻もうとする、別次の意思の異様な働きかけがある。

睡眠時間帯とは異なる日中のどこかで、ふと眠気を覚える時、そこに引っ張られないようにするだけでも、心身は、更なる負の原因を溜め込みにくくなり、蓄積したままのそれまでの未消化の経験の記憶を、少しずつ浄化し得る時を生み出す。誰かが近くに居るわけでもなく、何か特別にしなきゃならないことがあるわけでもないその時に、考え事ばかりする自分が居れば、そこから離れてただ歩くために歩いてみるだけでも、それを嫌がる別の自分(本体の意思)の、攻めのパターンのようなものを把握し得る時が訪れやすくなり、脳の使い方に責任を覚えるようになる。

ボ〜っとしても、頭が忙しくても、そんな時の自分は、その状況がどんなであれ、不自然さを地で行く不穏な(原因の)存在であるということを知る。それは、その時、そうではない自分を選択・実践すれば、体験的に自然と知り得ることである。

やむ無く眠気を覚えざるを得ないこともあることはあるが、その例外的な場合は、日頃から眠気を外し、心地良さとそれを結び付けることのない自分を普通とする中で、何気に、何の負荷も無いところで感じ取れるものである。どこに居ても、何をしていても、ボ〜っと眠気を覚えることのない生活空間をあたり前としていく。

4/22

音楽を通して変わり得る世界は、限界が無い。もちろんそれは、記憶の中のこれまでの音楽のこと。それが変わることでの世の変化は、人から人へと伝わり、広がり出す。そのための動きが、すでに活動的である。

ただそれは、実に厳しい経験。でもそれは、人生の喜びの時。これまでずっと思考の域(次元)だったことが、そこを離れ、成長し、心の風景の中で遊び出す。記憶の中の音が崩れ、脳が変わり始めたら、好きなだけ、心の風になれ。

4/22

6.何をしてもどうにもならず、いつまでも同じ繰り返しで変われない(変わらない)のは、同一化してしまっている別次の意思(本体)が、それを決して許さないためと考える。ただそれも、自分自身であるゆえ、自覚を持って、その不穏な意思の力を外す。無有日記は、どこまでもその支え役になる。

ボ〜っとしてしまう時、そうにはならない自分を選択すると、その存在の意思は強力に動き出し、時に非理・非情な感情までが押し寄せる。それでもボ〜っとしなければ、これまで心身の中に染み込んでしまっていた負の原因が、違和感や痛みを伴って現れ出す。それは、その意思のかたまりにヒビ割れが生じ、少しずつ砕かれようとしていることを意味する。自然界が嬉しい「LEDフォトブック」との融合を重ね(足から始まる)、その無くてもいい別の自分を、段階的に外へと押し出していく。別の自分が力を無くせば、本当の自分が新たに更新される。

自然界を嫌い、変化を拒もうとする存在(本体)の意思は、リラックスの真の意味と、その影響力を恐れる。だから、ふと眠気を誘い、ゆったりとした時間を演出するわけだが、その中身は、不調を安定させ、停滞を生み出そうとする性質であるゆえ、その仕掛けにはかからないようにする。

何気に安心感を覚え、ボ〜っとする時、そこには、変わらないままの不安の原因が無自覚に残る。太陽の光で温められた場所で眠れば、太陽の生命源の原因を遮ることになり、その気もなく、自らの生命の意思は不安定になる。心身が楽になっても、それが無自覚に溜め込んだ疲れや不調を土台とするものであると、同じことを繰り返す。それよりも、いつも楽で、気持ちが自由で、何があっても、どこに居ても、不安や不調からは縁遠い自分でいる。

そのために、嘘のリラックスを返上し、リラックスをあたり前とする自分を生きる。ボ〜っとしないこと、うたた寝をしないこと、思考(感情)を忙しくさせないことが、それを容易にする。

4/21

5.リラックスは、ボ〜っとしてくつろぐことではなく、心身が軽く、自由に動けることである。そうであると、リラックスするための時間が不要となり、いつでも、どこでも、普通にリラックスしている自分がいる。そのことを、生きる姿勢の基本とする。そこから離れてしまうと、自然界の自然治癒への働きかけも、自分から遠のいてしまう。

その状態を安定させるために、どこに居ても、どんな時でも、ボ〜っとしないようにする。睡眠は、夜、心身の休息として自然に為されるものだから、日中は、眠気にも誘われないようにする。

ある時、ある場所で、ボ〜っとしてしまうと、何気ない疲れの原因は奥に染み込み、それは慢性化する。ストレスを抱えてしまっていることで、ふとうたた寝をする時、その負の原因は処理されないまま、心身の状態は悪化する。それよりも、細胞が喜ぶ食事(全粒穀物食)を摂り、思考を自由にさせ、自分の時間を大切にする。ボ〜っとしてくつろぎ、気持ち良く眠ったとしても、それは原因無視の思考の域で、本来ではない。

考え事をし、思考を忙しくさせることも質は同じで、それは、リラックスを嫌う無意識の意思が主導権を握っていると思ってよい。そこに感情が重なれば、事の好転は望めず、心身は、不調をあたり前としてしまう。考えてばかりの人も、ボ〜っとしている人も、そこに潜むのは、自然界を嫌悪する危うい性質の意思である。それを外し、人間らしい人間を生きるために、そのどちらからも自由になる。無有日記を、思考を自由にさせつつ感じるままに読み、そこで一切ボ〜っとしないだけでも、そのエッセンスは身に付いていく。

4/20

伝えなきゃ、何も伝わらなくて、伝えても、何も分かってくれなくて…。そんなだから、水と土と空気が、いつのまにか(無生命化の)LEDで汚染されてしまった。道路は亀裂と陥没、木々や作物はボロボロ、虫も動物も皆生きる力を無くす。(最近では、鉄道も高速道も危うくなっている)

じゃ、伝えなくても、伝わり、伝わったら、内側で何かが変わる動きを促してみる。世にも恐ろしいLED照明がそのままであることの、この今の歴史的災いの時。脳の中の音(音楽)を砕く。それは、現代に生きる人間にとって、厳しくも楽しい、初めての経験となる。

4/20

4.人間は、太陽や青空の下に居ると、それだけで心身は活動的になり、そのことで自然と増幅する理由の要らない喜びを燃料に、自然体の心が躍動する。海や山でもそうで、自然界が安心する人の暮らしの中でも、人間は、普通に心を元気にする。

その元気は、不調や不安の裏返しのそれではなく、病んだ原因が癒されようとする時の、その反動による感覚でもない。この地球で、自然界の一部として生きる人間は、太陽が好きで、青空と一緒に、海と遊ぶ。山も川も、森も平野も、自分の分身のように感じ、どこに居ても、普通自然体の安心と余裕が、そこには在る。

その普通を失くした(持たない)人間は、人は誰もが病気になるもの、と考える程、自然界に生きる一生命としての生き方を忘れ、自己の都合で自然界を扱い、自己を優先して、それを利用する。そんなだから、自然界の自然な力が自分に及ぶことは酷く嫌悪し、それを遮るために、自然の中ではボ〜っとする。自然界が喜ぶ中庸のテーマにも、形ある結果を望まない原因のままの姿勢にも、彼らは、ぼんやりとして、思考が働かなくなる。

心身の疲れへの癒しやリラックス効果のためにと、非生命的に自然界に負荷をかける彼らは、自然界が何より望む、不調や病気の原因を作り出さないということには、無頓着である。その非人間性を普通とする、異常な本性(本体)の意のままの姿は、好き勝手に自然に触れ、自然を蝕み、そこに不自然さの原因を注ぎ込む。その時、その存在の意思が得意とするのが、頭をボ〜っとさせることと、眠気への誘い込みであり、時に執拗に考え事をさせて、思考を無責任にすることである。

4/19

突如始まった、音楽についての日記。音楽という世界は、実に扱いにくく、どれだけそれで病まされていたとしても、誰もそうであることに少しも気づけない。今、この時を迎えたから、記憶の中の音楽(の性質)を揺らしてみる。面白いことが起き、元気の質も新鮮になると思う。

4/19

1.人間が、普通本来の在り方を見失ったまま、長いことそこへは戻れずに、変化とは縁遠い時を連ねて来てしまっているその理由には、意外にも、人々が親しみ、楽しんできている歌の存在がある。歌は、人の心を動かし、生きる力の源にもなり得るものだが、心の性質にまで責任を持つものではない。素朴な人も、ずる賢い人も、優しさを普通とする人もそうではない人も、皆同じ曲を聴き、同じように心地良さを覚え、そして好感を持つ。しかし、人として変わるべきことに影響を及ぼし、その原因を確実に動かす心ある歌となると、残念ながら、どこにも無い(に等しい)。

仮に、ある歌の中で、人々の声(心情)を代弁するような内容のことが歌われていたとしても、そうである必要性が生じる状況に至るまでのその無くてもいい原因の蓄積(の事実)は、そのまま居座り、変わることはない。聴き手は、ただ不安や苛立ちの類の感情を思考で処理し、気分をすっきりとさせられただけ。もちろん、それだけでも、それなりの意味を歌は持つが、それ以上は無い。歌を聴いて変われるレベルで、その歌が誕生する現実のその背景(土台)を変えることは出来ない。

愛情や信頼、同情や支え合いをテーマに歌われる歌に刺激され、感動を覚える自分が居る時、その本当の姿が、理由も目的も(見返りも代償も)要らない愛情を普通とする原因のそれでなければ、その歌を通して、嘘の人生が固められることになる。愛情や信頼をテーマに、そうであろうとする(そうでありたい)歌は、それらを育むことなく不自然な生を生きる人に支持され、無責任な原因を残したまま、妙な力を持つ。愛情は、歌を通しての経験から育まれるものではない。信頼も友情も、感情を刺激されて、その力を高めるものでもない。

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3.生命としての自然な変化を拒もうとする、滞りや衝突の原因を密度濃く備える無意識(本性)の意思は、身体(脳)に、そうとは分からない嘘の感触と理解を経験させて(植え付けて)、変化とは無縁でいる状態を完璧に維持しようとする。

その意思が嫌う、太陽の光で温められた場所では、ボ〜っとして眠気を覚える体験を人間に心地良いと思わせ、全ての生命を変化・成長させようとする太陽の原因の力を遮断する。自然の中で不自然に脳(身体)の活動を鈍くさせ、変化を遠ざけるその負の原因を重石として、自然に残す。状況的にそれが難しい時は、逆に思考を忙しくさせて、感覚を押さえ、その意思を形にする。

青空の下でも、海や川が見える場所でも、無意識の意思(本性、本体)がそれを拒もうとする時、人はボ〜っとして、眠気を覚え(脳の働きが鈍くなり)、心地良く、そこでくつろぐ。別のもう一人の自分の姿でもあるその意思は、青空の下に居ても、青空を見えなくさせ、海を見ても、海を感じさせない。リラックス感も、感じるままではなく、思考と身体の満足としてしまう。

「歴史の芯」の後半途中から繰り返し何度も登場した、本体という、身体の次元を自由に操る、姿無き(無生命的な)存在の意思。人間は、そうあるべき自然との関わりを失くし、嘘を本当に、不自然に生きる。

4/17

2.人間の姿は、形ある世界仕様のその元となる形無き存在の意思の表現体であり、人は皆、その意思の性質のままの感情を原因とする人間時間を生きる。その別次の意思は、いつの時代も、人間の脳(意識)と一体化した生を生き、時代環境に合わせて、身体との共同作業のようにして、好きなように事を生み出し、経験する。

現在の人間の姿は、その現代版であり、その殆どが、世の心ある価値観に合わせられる身体(思考)と、そうではない(それを望まないが、都合良く利用し得る)形無き意思のその原因の影響力を同一に重ねて、人生を生きる。本当の自分は、その形無き後者である。

その形無き本当の自分は、一体化させた人間のその意識の原因として、自由に人間時間を愉しむことを普通とするが、無意識の意思や本性(の遺伝子)の思惑といった観点からでも、その性質は捉えることが出来る。つまり、そのつもりもなく行ってしまうことや、人知れず影響を及ぼしていることのその理由となるのが、日頃全く自覚できない、その本当の自分の意思であり、思惑なのである。

もちろん、それも自分。事は、その手前から無意識に動き出していて、その経過の姿は(人間の脳では)把握し得るところには無いが、自らの身体を通してそれは為されているわけであるから、そう感得し得てもそうでなくても、それは自分ということになる。その原因のところでの実際が、自然界の中で自然に顕になる。

4/16

というわけで、「歴史の芯」が終わった(と思うのだが…)。この時を迎え、この今がそのタイミングなのだな…と思う。

行くところは分かっている。これまでがそれを教えてくれる。全ては上手く行っている。そうじゃないことを知らないから。未来は任せておけ。そんなセリフを偉そうに言ってみる。

4/16

10.今の時代環境がそれを可能とする、人として大切なことをあたり前に大切にするという、人間本来の普通の生き方。仏陀と道元が、新たな生としてこの時を選んだ現代、そのことから逃げることは有ってはならない。臆病風を吹かせて逃げ隠れすれば、それは、形(見た目)ばかりで中身の無い、嘘の人間ということになる。真に生きることを避ける程のみじめさは無い。

いつのまにか身を繕い、体裁と建て前を前面に、無自覚に嘘を生きる自分の姿を感じれば、それをそのままに時を過ごすことはあり得ない。時代の望みが形になった無有日記との間に意識のズレがあるとすれば、その原因を浄化しないまま(放ったまま)人生を送ることは出来ない。そのシンプルな真実への抵抗は、その気もなく蓄積させた、それまでの非人間性の現れ。ここでもまたそこから逃げれば、もはや、その人は人間ではない。自然界を大切に地球感覚の人間を生きるという、この地球に住む一生命としてのその基本的な姿勢(責任)を外したら、地球で生きる資格まで無くすことになる。

「歴史の芯」との縁を、次なる時への原因とし、「仏陀の心」を、生きる基本とする。そこに在る普通を、自らの普通とし、本来の生を楽しみ、そのことを連繋の原因とする。心ある風景のその原因は、この現代に姿を見せたかの言葉(音)が担う仕事(普通)を通して、ぐんぐんと高まり、その質を進化させる。そして、その影響力(時代の好転反応)は、徐々に地球規模になる。その時のために、人として大切なことを、ただあたり前に大切にする。それが、ずっと先の未来まで一生命としての人間を生きるための、その基本燃料となる。

 

11.ずっと本来の生き方を抑え込まれてきた心ある人たちが、その素朴な普通の力を取り戻すことに、自然界は嬉しい。不調の原因を繰り返し染み込まされ、病んでいることも自覚できない程、それを慢性化させて生きてきたこれまで。病気も争いも無かった時代のその頃の原因が、ここに届き(繋がり)、それらの不調の蓄積は溶けていく。甦った言葉は、この人間世界では決してあり得ないはずのことを、自然界と共に、楽しみながら普通にする。

心の無さをあたり前に嘘の原因を生きる人間は、その言葉が引き起こす影響力に、為す術を持たない。それゆえに、人の世を病ませながら、巧みにその言葉の力を潰し切り、封じてきた、その存在たちのこれまで。その結果にしか生きられない彼らにとって、そうではない時の訪れは、想定外の更なる外側。人間本来と繋がることのない蛇系の脳は、いくつものすきま風をつくり、そこに流れ込む心の風によって、本性を形に出来ないという、一度も経験の無かった不自由な時を生きることになる。

今、ここに居て(形無き理由は何であれ)、この時まで継続して無有日記に触れるという、本体が最も嫌悪する本人(身体)のその人間経験は、これまでのどこにも無かった、生き直しの力強い機会となる。心無い世界を生み出す本体の意思との融合を不安定にするその行為は、それ自体が、この地上での次元では奇跡的なこと。

その言葉の原因となる次元は、この時を支える宇宙本来の、その源である中庸。その次元と融合し得る道元と仏陀の真の普通に見守られ(抱かれ)、厳しいながらも、この上ない喜びの時を経験する。人としての生き直しから、生命としての生まれ変わりの時を創造する。

その言葉(音)は、この「歴史の芯」の中で形(文字)になる次元のものではないが、心ある風景のその元となる原因を高め、心ある人たちの本来を力強くさせるために、それ関わりのEWは、ここで、自由に時を溶かす程の変化に乗る。その中に居れば、全てが普通。普通だから、かつてのように、病気も争いも無い風景のその原因の中で、みんなで遊び、みんなで生きる。

心は、自然界の本質であり、地球と太陽の素顔である。人間は、自然界に生き、地球と太陽の一部を生きる生命たちの、その中心的な存在。地球に居れば、人間は、どんな人も心を生き、それが難しければ、それを(その理由となる原因を)外すという心を生きる。そして、心になる。その芯のところで全てと繋がる人の心は、自然界の意思となり、地球と太陽の、その望みとなる。これからの変化の時を、共に楽しむ。

4/15

8.自然界と共に生き、地球を大切に、人間本来を生きる。動物たちの生(望み)を侵さず、植物たちの本分(喜び)を忘れず、人としての生を生きる。そのために、心に正直でいる自分を活躍させ、心のままに、想いを形にする。経験を引っ張る思考を働かせず、言葉になろうとする心に思考を使わせ、経験を創る。そして、そのことと相容れないこれまでの歴史(過去)に居続けるもの全てから自由になる。

そのことは、心ある人にとっては普通のこと。ずっと抑え込まれていた時の記憶がしつこく付きまとうことはあっても、力を取り戻した心の芯に流れを任せ、心のままに生きる。それがどうにも難しい人は、心が無い人。仮(借り)の心で、心ある自分であればどんな姿勢でいるか、自然界が安心するためには何をすべきか、を気負いなく実践する。そして、ずっと本体(本当の自分の姿)が支えてきた嘘の歴史に背を向け、その結果であるこの時代環境に合わせずに、本体を怒らせる。それに仮の心で抵抗し、その経験を通して、その心を自分の心にする。もちろん、無有日記が、全面的にそれをサポートする。

自然界に生きる他の生命たちと同じように、地球感覚を自然体で生きることは、心ある人にとってはとても簡単なことだが、心を持たない(蛇系の)人間には、それはどうにも出来ず、忌み避けることになる。それでも、人としての在るべき姿を実践する。心ある振りではない心ある自分を生きてみれば、それまで一度も経験が無いために信じ難い、全く別の経験をし得る自分に出会す。

その時、これまでへの言い訳は一切不要。都合の良い解釈も、自分ペースの反省も、有ってはならない。感度の鈍さも、感性(心)の無さも、それらを理由にしてはならない。奇跡的なことも、ふといつのまにかそうなってしまえば、それは普通のこと。向かわず、求めず、これまでの普通にこだわらず、そこへと歩み出す。普通が次々と重なれば、心があっても無くても、心ある風景だけが連なっていく。

 

9.心ある人に備わる、心。そして、心ある自然な風景全てのその原因を創造し続ける、心の芯。心を持たない人間がそれを普通とすることはあり得ないが、それでも心ある生き方を徹することで、それなりのそのことを可能とする時を創り出す。この地球に入り込んだ異意識体というところでは、それは、奇跡という次元を遥かに超える。

そこへと進み行くための確かな歩みを支え続ける無有日記は、その時、2つの重要なテーマを形にする。1つは、心ある人のその心の芯(太陽の心)を力強くさせる。もう1つは、心無い人と、その原因となる次元の、闇(暗黒)の芯とでも言うべき(本体の元の)エリアとの接点を処理・浄化する。そこには、この時代に甦ったかの言葉(音)が繋ぐ、太陽も嬉しいある次元の意思の力が協力する。

かつての争いも病気も無かった時代の、太陽の心を普通としていた素朴な人たち。どんなに抑え込まれても、永遠に消えることのないその普通を、どうにかここに繋ぎ、この時を引き寄せた、その心ある人たち。ほんの少数であっても、太陽はそのことを喜び、地球自然界は、安心してその本来をみなぎらせる。その原因(心)の風景の真ん中には、ここに「仏陀の心」を誕生させた、現代のみんなが居る。

4/14

ふと、それまでが一切通用しない時の訪れを機に、何もかもが違って見える経験が生まれ、安定の意思を見せるその普通の中に、いくつものそうであったはずの今までの普通が溶け、そして気づけば、形ある風景のその生命の基本のようなものが、内なる世界から湧き出し、新たな風を起こす。

音楽という、実に扱いにくい世界。それが、シンプルに、この時代ならではの変化の原因として、ある場所が、全く次元の異なる仕事を担う。それは、ME2ndステージのような時の始まり。ここから、この時代の意思(望み)も、より深く、広いエリアのその原因を動かし始める。

4/14

7.人間であれば、どんな人も普通に備える心であるが、蛇絡みの本性の遺伝子を持つ人間には、その心が無い。それゆえ、争いも不健全さも無い世のその原因でいようとする人の心は、憎悪の対象であり、人間とは思えない凶悪な力で、彼らはそれを封じ、潰し切る。そんな彼らが、同質の人間を増やしつつ生み出した、これまでの歴史の中の現実。そこに在る、尽く非理で不自然な様を観れば、その(歴史の)全てが、この地上には無くてもいい嘘であることが分かる。

その嘘が連鎖的に具体化したこの数千年間は、狡賢い蛇系の悪徳の場と化し、その間のどの出来事を取っても、そこには、人間性のかけらも無い。それが引きずられているために(その負の原因が未消化なために)、重苦しくべとっとした風潮が未だ拭えないままの、蛇の巣穴のようなこの国の雰囲気と、人間の感情。それを浄化し得るその時のために、この国の歴史のその基礎の部分が造られた時よりもずっと前の、そこに何も無かった頃の風景のその原因が、この時代に運ばれる。どんな時でも決して心ある生き方を見失わなかった人の中に在る、かつてのその風景の原因は、この時代に生きる生命たちの、その心の芯の息吹により、ここで活動的になる。

嘘は、脆い。嘘の原因は、初めから有ってはならないのに(無くてもいいものなのに)、何を勘違いしているのか形になろうとするから、結局は、何の力にもならない。それでも、ひと時、好き放題出来るからと、性懲りもなく嘘を生き、嘘を守ろうとする。それは、脚も無いのに歩こうとする、蛇の悪あがき。土台(原因)から崩れ、繋がる次を無くす。

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LED化した雨水でアスファルトが溶け、ゴツゴツになった道路が増えてますけど、これからどうなるのでしょう?」「滑りにくくなるので、すり減ったタイヤでも安心して走れますよ」「なるほど、それもエコなのですね

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6.人間は、嬉しいと、笑顔になる。笑顔になると、嬉しくなるわけではない。人間は、心が平穏だと、柔和な表情になる。柔和な表情を心がければ、心が平穏になるというわけではない。

人の内側に生じる感情は、そのまま表情や仕草となって表に出て、心身の状態にも様々に影響を及ぼす。それが他や過去を意識することからではない、素朴な安心のそれである時、感情は、その人そのものの性質となり、優しさや思いやりを普通とする人間らしさのその原因となる。そうではない不安や嫉妬の絡み合う感情である時、状況(環境)が許せば、その姿勢は攻撃的になり、そうでなければ、嘘の表情を作る。その時の嘘に、笑顔や柔和な姿が上手く利用される。

形無き原因からではない、(所有欲や優越心と繋がる)物や形を通しての結果発の安心を拠りどころとする人は、感情の質が不自然で、重く、流れない(回転しない)ものであるため、そのままだと、表情は、不遜で冷たく、不機嫌になる。そのことによる不利・不遇を防ぐために、彼(彼女)は、人前ではいつも笑顔になり、穏やかで、淑やかな印象づくりをする。笑顔を絶やさずに居られるというのは、不気味さでしかない。

人間は、心の様が人間らしく普通である時、表情は、そうであることも分からないぐらい、柔らかく、自然なものになり、当然そのことで、不穏な状況や関係性が生み出されることはない。事の起こりは、いつもその原因から。理由の要らない安心と喜びが自然と生まれる普通の人のその心の風景(原因)に、争い事や不安・不健全な状況が引き寄せられることはない。

笑顔でいることの大切さを表現しようとする人は、そうであることの燃料となる不平と恐怖(怯弱)の感情を内に潜め、その自覚もなく、不公正で不健康な風景を作り出していく。朗らかで優しい表情や仕草を心がける人は、その実、そうではない本性を隠し持ち、その嘘の言動の下地となる秘めた非人間性で、人の暮らしに、無くてもいい現実を生み出していく。

嬉しいから、人は笑顔になる。そうでなくても、人は不機嫌にはならない。人は、心ある生き方を普通とするから、縁する空間(人、出来事etc.)への違和感やそれとの融合の質に正直に反応し、表情は、自由で、素朴で、そのどれもが、自らの心の原因発となる。心の原因は、そのままで空間を安心させて変化に乗せ、時を癒して、時を繋ぐ。その生命の仕事をする自分自身に、人は笑顔になる。

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6.「仏陀の心」が終わる時、「歴史の芯」は29章。その時一緒に終わったかに見えた「歴史の芯」は、「仏陀の心」と重なるようにして進行していた時期が、余りに大きな質の変化を伴う経験となり、その後始まった30章からは、それまでとは次元の異なるエリアへと、人の心を案内する。そこに在る内容ではなく、その内容が意味する(通そうとする)、かつての原因の姿。そして、そこで砕かれ、浄化され、次なる時へと変化に乗る、新たな原因の姿。「歴史の芯」は、この35章で、ずっとその姿を見せることのなかった心の芯を、元気に甦らせる。「歴史の芯」のその芯が、心の芯になる。

心には、心ある原因を生み出す芯が在る。その次元は、他の心とも繋がり、生命たちのその普通本来の姿を、無限に包み込む。心は、その人のものであるが、その芯は、全てのもの(太陽の心)である。心ある人は、そのことを普通に、いつの、どの時も、心ある原因を形にする。

学ぶことは何も無く、ただ心をそのまま形に表現するだけで、自然界が嬉しい、心ある人たちの普通。その心を潰され、その芯の働きを阻止されてきたこれまでであるが、この現代でも、心を学ぶ対象とする(大多数の)人間のその心の無さの力に、不自由を強いられる。そんな中でも、心のままにその芯の繋がりを強め、この今の機会を活かす。それを、この無有日記は可能とする。

心ある人とだけでなく、自然界やそこで素朴に生きる生命たちとも自然に繋がる、心の芯。それは、永い時を経て、生まれ変わるようにして、心ある人の中で再び息づき始める。さりげなく自然に、そして力強くしなやかに、心ある原因の仕事をし始める。

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1.太陽の光を浴び、爽やかな風に吹かれ、水(海、川)を感じられる場所で、流れる風景と遊ぶ。人間には、そんな何でもないことがとても大切で、生きることの普通を、そのことが自然に支えてくれる。

しかしそれは、人間という身体レベルのことで、生命としての生をテーマとする時、そこには、全く次元の異なる本質が在る。人は、そのことを知り、人間を生きることと生命を生きることを同一とした生を、人として生きる。それは、太陽の望み。自然界も、そのことに安心する。

その意識もなく細胞が辛くなる暮らしを重ね、無自覚にそのことによる負の影響を外へと流している時、人は、海や山を癒してもらえる存在として身勝手に捉え、個人的にその姿を利用する。そんな時、人は、自然環境に包まれ、心身はリラックスを覚え、そして頭を働かせる気もなくなって、ぼんやりとした時間を過ごす。休息の中、うたた寝もする。

本心とは裏腹の自分を生き、そうであることも分からずに良い人を演じている姿がそこに在る時、人は、太陽や青空の下で、気づけばボ〜っとしている。その気もなく体裁を整え、人との間では何かと建て前を大事にしていることに何の違和感も覚えない人は、山や海の在る風景で、いつのまにか頭が空っぽになったみたいに(知覚が鈍ったみたいに)、気持ちがゆったりとして、くつろぐ感じになる。それらの状態は、実は、本来への抵抗の現れである。見た目は自然界との融合でも、中身は、自然界への拒否反応である。

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「昨夜、近くのLED街路灯の下で、2人の女性に怒っている縄文土器子を見かけましたよ」「その2人は、きっと、LEDビームで街を壊し続けている、明日ファル溶け子と、混栗戸ヒビ子でしょう。彼女らが縄文土器子に見つかったことで、街も良くなりますよ

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5.人間は、他者を自分のことのように思い、他との隔たりも無く、共に居る空間を、柔らかで、温かなものにする心の働きを普通とする。人の住む世界では、それだけで他は何も要らず、ただそのための生き方が自然と育まれ、共に成長する。何をするわけでもなく、何気に手にすること、形にすることが、さりげなく人を生かし、その風景が、次へと連なり、繋がっていく。

その人間本来の普通が尽く遠ざけられ、忌み嫌われる時を経て、人間の生の質はどこまでも低下することになるのだが、そのための材料として狡賢く人の世に具体化された概念が、品性であり、品格(品位)である。品性の本質は、全くそうではない状態を覆い隠すための、偽装・偽善である。昔から、力ある立場の存在は、それを好き勝手に弄び、人との差を愉しむ際の、その要素(味付け)に上手く使う。

労せず力を手に出来る(支配する側でいられる)体制を整えた、心を持たない存在たちが、お遊戯感覚で始めた、見た目からなる品性・品格。現代でも、危うい本性を備える人間によってそれは利用され、裏表のある人生にしがみつく人間によって、それは支えられる。品性の有る無しの判断・理解は、実に恐ろしい病みの感覚。秘めた残忍さを見せなくさせるための道具として、そんな人がその気もなく身に付けてしまう品性・品格の類は、心をごまかし、人を騙す、格好の手段となる。

人の世に、品性のようなものがあるとすれば、それは、現代人が認識するそれとは次元の異なるものと捉える。形から始まる形式が人の思考に深く絡み付く世では、見た目優先の中身の無い人生が横行する。そこでは、自然に伝わるものが執拗に隠され(無視され)、作為的に伝えたいものだけで、人は生を生きる。そのことで、存在感を手にする品性。それは、嘘の人生の証となる姿でもある。

人間本来に品性という言葉を敢えて重ね合わせるとすれば、それは、未来への責任感覚を普通とする、その真剣な在り様となる。初めにその品性が在り、その人の全てを通して、それは自然と伝わる。しかしながら、それは普通。人間が人間らしく自然に責任を生きる時、その姿を未来は嬉しい。そこに在る原因は、どこまで行っても、生命としての本来であり、その質は、品性という言葉の次元を包み込む、地球感覚の品性である。否定感情(不安、差別、支配etc.)とは縁遠い世では、誰もがそれを普通とする。

品性や品格(品位)を意識する時、自らの中の非人間性を自覚する。人間は、自然と伝わるものが交流の基本であるから、不自然に何かを伝えようとする次元からは自由でいる自分を生きる。その時、責任感覚の無い形ばかりの品性は、ガラクタの代表となる。人間は、人間の世界特有の品性の次元を知らない。

4/11

5.人の心ある生き方が力で抑え込まれたことで、それへの支援の術を絶たれた(宇宙本来の)生命の意思は、それでも隙を狙って心の奥底から人の感覚を僅かでも刺激し、地球感覚から外れずに生きることを見守り続ける。

その時、その中の何人もの人が、人の人生(命)が力で支配されない世が訪れた時に呼び醒まされるよう、ある言葉を記憶させられる。それは、その存在の意思と自由に通じていた時の、その道となるもの。自由な発想と自由な生き方が可能となる世で、そうではない時代には不可能だった人間本来のその原因を存分に生きることによって、偶然を装ってふと引き寄せられる、その時。それは、どの時もその生き方を普通としていた、かつて道元の生を経験した存在の内側で、この35章の原因の時に動き出す(形になる)。その時を以て、世が全く病んでなかった遥か昔の、そこでの原因が活動的になる。

その言葉が、生命源からなるその意思によって人の心に染み込まされた時、後に仏陀の生を経験することになる姿無き彼の意思(意識体)も、同時期にその次元との融合を普通とし、未来への道づくりの役を、心ある人たちと共に担う。いくつもの嘘の時代の嘘の力に押し潰されながらも、芯のところで、そうではない時の原因を確かに(温め)生命としての生を繋いできた、心ある人たち。その無くてもいい経験の終わりの時となるこの今に、一万数千年前の心の風が勢いよく吹き抜ける。仏陀も道元も、仲間たちも皆、地球自然界と共に、大きな安堵の時を、ここに迎える。

(極限の苦しみの際に、無意識にその言葉を発する(発してしまう)人の姿があり、その時のその言葉に強烈な違和感(怖れ、不安)と不思議さを覚えた存在は、完全にそれを押さえ込むために、都合の良い意味をそれに乗せて(重ねて)、その言葉を力無いものにする)

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4.考えながら話をする人の姿というのは、本心を偽る自分に全く無自覚な程、その状態が普通になっていることの現れであり、そんな人が大切にするキレイ事や体裁の陰で、人の世は、人知れず不穏なものになっていく。

思っていることは、自然と言葉になろうとするもの。その自然なプロセスを押さえ、言葉を選び、考えながら話をする人は、そう思っていると思われたい(思わせたい)その実思ってはないことを言葉にすることを常とする。それは、言葉を盾にして、嘘の自分を守ろうとする怯えの形。人は、彼(彼女)の言葉に気を取られ、気づけば、頭を不要に働かされ、心(感性)を抑え込まれる。

考えて話をするというのは、時にその必要性に付き合わざるを得ないこともあるが、基本的には無くてもいいものである。そうであるべきこと(理由)が力を持ち、それを普通としている姿があれば、その人は、いつも過去を引っ張り、結果を生きる、言葉だけの人間ということになる。物事の原因となって連繋の仕事をするはずの言葉は、考えて話をする人の脳の中で、重く動きの無い滞りを生み出す負の原因となる。

考えて変わる(変われる)ことは、変わるべきことへの抵抗を少しだけ薄めるレベルのもので、なぜその抵抗が生じ、なぜそれまでそうであったかのその原因を変える力にはなれない。つまり、考えて話すということから自由になれない人というのは、変化とは無縁のその無意識の意思(本性)で、人の変化を止め、非生命的に事を扱うのを好むということ。そこでは、言葉から始まり、言葉で終わるという、言葉だけの話を得意とする人間が妙な存在感を持つ。

話すための知識を溜め込むのが好きな人は、当然、それを不要とする心の自由は経験できず、そうして本心を偽る分、心身の変化・成長に繋がる原因のままの交流とは、縁遠いところに居る。知識ばかりが増えると、体験的理解の次元が遠のき、何をしても、どこに行くにしても、その気もなく意味も無く考えるという不気味さをあたり前としてしまう。心がそのまま言葉になる人間本来の風景に、知識が、言葉による表現や理解の元になることはない。

考えてばかりの生活をしていれば、人と話をする時、必然的に考えて話をする。考えることで、未消化の感情の記憶を溜め込めば、その分考える(考えてしまう)ための燃料は増大し、誰と居ても、考えて話をする。考えて話をして、本心をその気もなく隠し続けるというのは、内心は、いつも不安で一杯であるということ。そこから自由になるために、考えずに話をする。そのまま想いを言葉にする。いつしか、本心が、理由の要らない喜びの原因と重なれば、何を話しても、どんな言葉を使っても、ありのままの本来は元気になる。

人間は、内も外も同じ。同じだから、人間は、人間でいられる。言葉(会話)は、その普通を支える、気の良い仲間のような存在、そして生命。心のままの言葉と一緒に、心を生きる。それは、人間の普通の姿。

4/10

4.人の暮らしが、形無き不穏な存在たちの意思の力で、その自覚もなく負荷をかけられ、動きにくさを慢性化させていった、はるか昔。縄文期とされる時代が始まる前の頃、そこに、多くの太陽の心を普通とする人間が居て、その中に、後に道元の生を生きた現代の女性も居る。この時代の望みに応えようとする人たちも、一緒に居る。

地球全体が、それまでには無かった無生命の重たい空気(粒子)に覆われ、自然界が、じわじわと不自然な感触を持ち始めた頃、この国では、すでに蛇絡みの生を(非生命的に)形にする存在もいて、人は、理由もなく抱えさせられる心身の不自由さを覚えながら、それでも淡々と、自然体で、ありのままの人間時間を生きる。ただそれが消えないまま続くことの危うさを、人はどこかで感じていて、それへのどうにもならなさに、辛い時を重ねていく。

そのずっと前から、その地球の異変を感じ取っていた、宇宙本来とでも言うべきある次元の存在の意思は、太陽の望みに応えるべく地球自然界の中に入り、そこで生きる心ある普通の人たちの生を、見守り、支える。その時のその手段は、人が普通に備える心の次元深くのその芯のところで、その人の直感や感覚的発想・判断を通して、生命本来の人間経験を支援するというもの。心を持たない非人間的な(蛇系の)存在たちとの不要な融合を退け、事をムリなく変化に乗せるために、その存在の意思は、心ある人たちのその心の動きを活かす。

ところが、蛇の脳を余裕で支配する程の凶悪な本性を持つ、元々地球には無かった性質の存在(人間)たちは、自分たちには無い自然な感性や感覚を普通とする心の存在を嗅ぎ分け、その人の人生を押さえ付けて、潰す。苦痛を経験させ、感情を弄び、そこで自ずと未消化となるそれらの性質(記憶)を、それまでの人の世には無かった本体(魂)という次元に集め、それを支配する。人の心の芯のところで彼らの本来を支えていた、地球の安心を担うその意思は、そのことで、それを為し得る道を絶たれる。(未来への貴重なメッセージとなる、その時代の事の本質を込めた土器類は、この頃から作られ始まる)

4/09

1.人の住む世界では、共に生きることのその役割上の立場として、人々の中心にある人が居ることはあっても、そうではない、人が人を支配する立場として、そのことが存在することはない。有るとすれば、それは、共に生きることの大切さが崩れ、壊れてしまっていることを意味する。政治でも経済でも、それぞれの社会生活でも、人が人としてそこに居れば、支配欲や権勢欲からはあたり前に縁遠いところで、人間はそれを共有する。

その人としての基本からなる様が力無く不穏なものになることを、人は放っては置けないのだが、内なる非人間性を形に、狡賢く(欲深く)生きようとする心無い人間は、その不穏な世を土台にいかに生きるか、と負の連鎖の接着剤のような人生を送る。彼らは、そのための立場や地位を利用し、人々に影響力を及ぼせる場所で、自己満足に浸る。

不健全な原因がしつこく潜む世で成り立つ、不公正な政治と不自然な経済。そしてそれらに支えられる、心(原因)の性質が無視された、教育と文化。それらをそのままにしないために大切となるのが、素朴な子供心を基とする(その原因からの)健全な感性と違和感であり、そうではない現実の、その原因の選択と実践である。それ無くして、人が事の内実を変えることは不可能で、その大切さを普通とはしない人のその個人的な思惑により、変化とは縁遠い世が不自然に安定してしまうことになる。

人は皆、好きなだけ自然と戯れ、共に遊び、そして自由に動き回るそれぞれの子供時代のその経験を、調和と友愛のその形無き原因(基本)とする。ところが、不思議なことに、それを嫌悪する異様な意思を備える子が居る。彼らは、子供時代に育むべきことに背を向け、そこで有ってはならない自己本位の感情を強めていく。

それは、人間時間をその意思表現の道具として操ろうとする、姿無き存在(本当の自分)の、現代仕様の手段。そこに在る支配・征服欲を形にするためのその準備として、当然のようにして子供時代の子供らしさを退け、(心ある表現の基礎である)子供時代には当然無縁であるはずの差別や優越の世界で、狡賢く個を生きる。

彼らは、その歪な経験全てが正当化される世のその基礎となる生き方で、それを支え、同質の存在たちが作り上げた不穏な社会の、その不健全さに守られる。その後、それを放って置ける立場や地位を上手く手にし、大小様々な人の空間において、その中心となり、負の影響力を及ぼす。彼らにとっての子供時代の子供らしさの無さは、その非人間的な本性からなる支配・権勢欲の材料としてあり、巧妙にそれが具現化されるためにある。

子供たちが皆、子供時代に、その時ならではの遊びを中心に、子供心を元気に(生命溢れる)想いを活躍させて過ごせば、政治や経済が、人としての普通感覚を忘れた不穏なものになることはない。友と自由に遊び、好きなだけ戯れ、おしゃべりをして、理由の要らない喜びと楽しみをみんなで共有すれば、不安発の出来事も、隔たりや不公正を生み出す決まり事も、生まれなくなる。

それらを尽く無視し、遠ざけて、子供の頃から、見た目(体裁)や結果(他との差)重視の世界に身を置く子が居るから、政治がみんなのものではなくなり、経済が、形ばかりで中身の無い不自然・不健康なものになる。社会の問題事のその原因は、子供時代に作られる。

人としての人間本来からなる普通が壊されたままであるために、この国は、生きる自由と平等の精神が尊重される世でも、人の生きにくさや動きにくさが繰り返し生み出されるという、歪な(未熟な)政治が繰り広げられる。その病み続ける世に合わせて、自らの危うい本性を満足させようとする存在は、幼少時から、自分が、一生命を生きる人間であることを放棄する。彼らは、自分のために人を利用できる立場(地位、肩書き)を手にするために、子供の時から、人間が持てないはずのその醜い意思を、上手く形にする。

役割としてでしかない立場は、人としての在り様を普通とする人が、気負いも頑張りも不要とする中で、さりげなくその役を担う。そこに、課せられる責任は無く、ただ人としての責任ある原因が、その人を通る。それを人々も知り、共に生きることのその滑らかな流れのために、その必要性として、役がある。

そこでは、対処しなきゃならない問題事も、誰もがその原因から離れていることを普通とするので、どこにも無い。責任の次元が違う。だがそれが、人間本来の社会の普通である。人は、誰もが社会の一員として社会を支え、支配や権力といった概念も、それらが思考に住み続ける経験を、人は知らない。(子供時代に子供心を育まなかった人の、その経験(感情)の記憶が原因となって引き起こされる、彼らに都合の良い争いや病気(衝突、隔たり、偽善etc.)も、そこでは、居場所を無くす)

子供の時に、共にその原因を育み、みんなで元気にする、調和や友愛(健康や平和)の土台となる子供心。その心の基本となるものが、人の中に普通に在れば、政治も経済も、教育も宗教も(文化も環境も)、問題は無くなっていく。それは、人間にとって、とても単純で、大切な普通。人間であれば、それを無視することは出来ない。

政治や経済の絡む世の問題事の全ては、子供時代に子供らしい経験を重ね、嫉妬や差別とは無縁の子供心を共に育むことで、面白いぐらいに、その姿を変えていく。不安も心配事も無い子供時代は、社会の基本。それを守るのが、社会の仕事。そこから自然と生まれ、形になる役割(立場)は、始まりも終わりも無く、ただそのままで、みんなのために、共に繋ぎ、支え合う。大人たちの子供心は、何の裏返しでもない(理由の要らない)健康と平和の原因を、普通に成長させていく。

4/08

3.人間が住む空間である種の決まり事が作られる時、それが自然界に生きる生命たちに負担をかけるものでなければ、人々の暮らしから、健康と平和の原因が失われることはない。

人が病気になるのは、生まれる前からそこに在る決まり事が、不自然で不健全なものであることを意味し、そのために、健康・健全の原因は活躍出来ず、人は、その気もなく病気の原因を蓄積させることになる。

人と人が争うのは、生まれる前からそこに在る決まり事が、不自由で不調和なものであることを意味し、そのために、平和と友愛の原因は身動き出来ず、人は、いつのまにか、争い事の原因を内に潜めることになる。

自然界は、病むことを知らず、動植物たちは皆、自然な在り様を基本に、調和そのものを生きる。その自然界が困らない決まり事を生み出す思考は、心身の健康を安定させ、健全な人間生活のその基礎を支える。自然界の自然な姿に負担をかけない意識は、そのままそれとの融合が重ねられていて、自らも調和を普通に自然であるということ。そこに、病気や争いの原因は入り込めない。

自然界も嬉しい、人間の自然な生き方。そこでは、決まり事も、その生き方を守り、支え合う、人間としての約束事。いつもそれは、自然界に見守られ、応援され、共に協力し合う。それは、決まり事のようで、そうではない、人の普通の形。不自然さも不自由さも無いから、自然界同様、人の世に、困り事は生まれない。それは、人間が人間でいる空間での基本形。地球も、それを嬉しい。

自然界が安心できる人間の住む世界では、大切なことがあたり前に大切にされる風景が普通に在るので、決まり事がとても少ない。それでいて、問題事は見当たらない(当然だが…)。人は、その意識もなく、協力し合い、支え合い、生かし合う。

決まり事が多い人間社会は、人間が住む世界とは言えない。決まり事を作りたがる問題事大好き人間は、無人島行きである。そんな人間としての普通を普通とし、生きる原因を、自然なものにする。自然界はいつも、人間たちの姿をじっと観ている。

4/08

3.仏陀は、道元を生き、道元は、仏陀を生きる。そんなあり得ない融合が自然に行われているこの現代、二人の身体時間は、ここに在り、生命の意思の次元は、ここを包み込む。思考を必要とする関係性は何も無いから、いつも、原因のままの働きかけを繋ぎ、要らぬ滞りと対峙し、そっとそこを通り抜ける。それを楽しむ二人。身体時間も、本体の次元も、居る場所は完璧である。

二人の普通は、一貫している。それは、自然界と共に生きる人間を育むこと。地球を大切にする生き方を、彼らに普通にさせること。そのための原因を限り無く拡大させ、それをどこまでも細かくし、どんなところにも届かせる。そして、それを自由に使ってもらう。

いつのまにか忘れさせられてしまった、その生きる基本。数千年もの間、ずっと耐え続ける、自然界の切なさ。本来普通であるべきその時への道を少しずつ生み出し、ひとつひとつを繋ぎ、この時を迎える。二人の融合は、自然界の希望の具現化。無有日記と共に歩む存在たちの手で、彼らの普通は、人々の原因の中に溶けていく。

人の感性に不健全さを馴染ませる悪質な経験が、人間の世界で積み重ねられたために、どうにもならない不自然な営みを普通としてしまう自然界。その自然界の悲しみに無感覚のままでいるという非人間性と、人間の都合優先の価値観を基礎に歪な成長・発展を連ねてきた、人の思考の働き。二人は、人の基本を綴る無有日記に添い、自然界の生命たちと同じように、地球の一部としての生を生きる人間時間の、その心ある原因を成長させていく。

4/07

2.人間が辛くなるのは、調和ある自然界(空間)のその原因となる一生命ではいられない自分を感じる時で、その他は無い。人間が嬉しいのは、太陽のような全てを生かす存在としての生をこの地球で表現できていることで、それ以外は無い。それを知り、この地球自然界で異常な変化を遂げた人間世界での、人間特有の悲しみと喜びの本質を見る。人間本来は、悲しみを知らず、喜びも、その理由を知らない。

そのことを忘れて生きているから、悲しみや辛さがある状況で身に起こるわけで、初めからそこ(本来)に居る自分を知れば、それらへの違和感からそこ(不安)を離れ、それら全てが無くてもいいものであることを知る。

そのことは、人間が成長する上で不可欠なシンプルな理解であるのだが、人は、自らの本質を知ることを怖れ、感性を鈍化させつつ、嘘の人間を生きる。不安の裏返しの安心を求め、それが手に出来れば幸せを感じ、そうでなければ悲しみを抱くというその身勝手さは、そのまま悲しみや辛さを生み出す原因となって、歪な世を支える。

自然界の自然な姿が自分の安心となり、喜びとなるような人たちの住む世界では、ただ人間を生きる(生きられる)ことのその喜びから、生が始まる。人間が人間でいるその普通の世に、悲しみや辛さが生み出される原因は無い。

生きる原因が自然界のそれからかけ離れた時、人間は、理由の要らない安心を忘れ、無自覚に不安を慢性化させる。そして、喜びと悲しみ、安心と不安という、二者択一的思考で扱える非生命的な感情を普通とし、厳しさや大変さを美徳としてしまう程、生きる質を低下させる。つまり、嘘の人生である。

その嘘の人生(人間社会)での全てから自由になれば、生きることが、どれ程の喜びかが分かる。そこに悲しみは近寄れない。不安も不幸も、その意味を知らない。その時の、その普通を、人間を生きていると言う。

4/07

2.世に求められる人間の在り方全てが嘘であることを感じ取っていた、道元の生を経験したその意思(本体)は、どの時も、時代に背を向け、望むべく次の時代の原因を生きることで、これまでを大きく切り離そうとする。今回も基本は同じ。どんなにそれを妨げられても、それ以外のことに一切意識を向けられない彼(彼女)は、形ある世界の制約(価値観)から自由でいて、その世界に抑え込まれて動けなくなっている、心ある原因の意思を元気にする。潰されても、虐げられても、妥協の無かったかつての経験は、この時代に最大限に活かされる。

道元の意思表現の原因は、常に地球と繋がり、あらゆる次元の生命たちとの融合を普通とする。ひとつひとつの言動によって為され得ようとする、現実の原因の揺れや亀裂は、そのまま自然界の安心となり、彼自身も、自然界から人間世界を観るという観点を基本に、その(合わされた)ひとつの時を癒す。その意識もなくあたり前に地球を大切にし、動植物たちの居る次元にも、人としての責任を担う。

道元の時と本体を同じくする存在の現代での活躍は、限界が無い。その源が、地球が望む生命の意思であるゆえ、どこまでもそれは自然で、さりげない。この時代も、そこで生きる心ある人たちは、その形無き原因のところで、多次元的に支えられている。

そして、その形無き次元深くで、互いに意思を通わせる人たちが、無有日記と共に歩く。意識を向け合うわけでもなく、それぞれは全てを知り、彼(彼女)とは違った別の大切な役を普通に担い、時代の原因を確実に変えていく。遠い昔も、少し昔も、この今に繋がる原因を真剣に生きてきた、彼ら。彼らみんなで、「仏陀の心」を引き寄せる。

4/06

1.難しくさせられてしまっていることは有っても、難しいことはどこにも無い。仮に、そこにそれが有るとすれば、それは難しくなるまで放って置かれたためのもので、そうでなければ、無かったことである。その理由となる存在によって事の原因が動かなければ、それが難しくなる流れに人は巻き込まれ、難しさが普通となる異常さを人は経験する。難しさの奥深くには、凝り固められた無責任の原因が在る。

健全も健康も、調和も友愛も、それらの原因を持ち合わせない存在が生み出そうとする、不健全で、争い事の絶えない世への働きかけの結果生まれたもので、元々は無くてもいい概念(言葉)である。人としての在り様が普通に健全・健康である時、そこには事を複雑にさせる事柄は存在せず、調和も友愛も、誰もそうであることを知らずに、それそのものとなる。世に存在する言葉や表現の多くは、普通に育まれ、成長すべき(されるべき)ことを嫌悪する存在が、そうであるように仕組んだものと思って良い。難しさ(複雑さ)は、停滞と衝突の別の形である。

難しさの原因が変わらず、そのままそのことが普通となる時、人は、要らない思考の働きを強いられ、体験の伴わない形ばかりの知識(情報、表現)を際限無く取り込むことになる。複雑に絡み合う原因がそこで存在感を持つと、それをどうにかしようとする結果優先の価値観が力を持ち、感情も忙しくなる。そして人は、本来であれば無くてもいい経験を主に人生を過ごすことになる。

難しさの中、人が思考を忙しくさせる時、そこには、外へと広がり繋がる健康や調和の原因は無く、自然界が望む、理由の要らない平和の要素も無視されてしまう。いつしか、その風景では、個人の都合優先の感情が事を動かす原動力となり、その重たい原因は、差別や優越といった、人間が持ち得なくてもいいそれらの意識が正当化されるという、歪な人間空間を誕生させる。それも、難しさの原因がずっと放って置かれたためのもの。人間は、複雑に頭を使わされる経験の中で、生きる上で最も重要な、人として在るべき原因を育む責任を無くしてしまう。

人間は、形を創る形無き心がありのままであると、どんな難しさも違和感となる。忙しさも複雑さも、その原因の危うさに反応するので、それをそのままにはせず(不要にそれに関わらず)、感覚的対応を主に心を活躍させる。人間が人間を普通に生きる時、難しさは居場所を無くす。

心無い人間時間を普通とする人は、心ある原因とは無縁であるため、頭をやたら使う難しさを愉しみ、複雑な問題事への対処に妙な喜びを覚える。そして、縁ある空間や環境への配慮を無くし、人間であることを忘れる。難しさは、心の無さの具現化でもある。人間は、それ関わりの世界で、どこまでも人間らしさを削っていく。

4/06

1.人の歴史が、その原因のところから本来へと動き出す時、そこにはいつも、仏陀と道元が居る。地球感覚を普通に、余裕で人間時間を活かす二人のその姿無き意思は、どんなにそれを抑え込まれても、その時代時代で、すべきことをし、その原因を繋ぐ。「仏陀の心」で、その本質に触れられたことで、二人の、この現代での意思表現は、これまでのどの時よりも活動的である。ここで、それは、「歴史の芯」と合流する。彼らの、歴史上のその創造的原因は、太陽の意思とも重なり合う。

道元にとって、問題は何も無い。ただ、問題とされる事を通して世の変化を留めようとする、その不穏な思惑に対応するだけ。形ある問題事の影響力には何ら困らなくても(関わらなくても)いいこの時代環境、そこに在る形無き負の原因をどこまでも浄化し、その都度、その経験の性質を未来に放つ。それは、かつての厳しい環境での時より、殊の外た易く、楽しい。無有日記に援護されつつ、好きなだけ、心の風になる。

仏陀は、彼の姿を見守り、その意思の材料となる原因の質を、限り無く多次元的に、よりきめ細かく、力強くする。この時代、仏陀の中に、一切の迷いは無い。行くべき場所も、取るべき行為も、その手前が全て余裕であるゆえ、自由に戯れる原因に楽しく付き合いつつ、形あるその変化の凄みに笑顔になる。それは、逃すことが考えられない時の訪れの、その連なりの上にゆったりとした気分で乗っているようなもの。そこから道元を支え、彼と共に、この時代を生きる。

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8.人間の思考レベルでは正しいことであっても、自然界に生きる生命たちの立場から観た時にそれがそうでなければ、それは、人間の思考の質が低次であることを意味する。人間的に良しとされることであっても、それが望むべく未来に繋がらない期間限定の要素を含むものである時、それは、修正・浄化されるべきこととして、その質を変える必要がある。それが、LED照明という、その原因から浄化すべき、低次の存在である。

人間の欲から始まり、負の連鎖の塊と化すLED照明は、非人間的な負の原因を増大させつつ、自然界を破壊する。そこでの、思うことで良しとする正しさの次元は、LEDの負の原因(影響力)を巧く覆い隠し、その嘘で成り立つ歪な偽装社会で、支配・所有欲の拡大再生産を続ける。

知らない(知らなかった)ことを理由には出来ない。知りたくない自分に力を与えてはならない。人間は、知る知らないの次元に居座ることを不可能とし、それ以前の、普通に知り得ることのその原因を変化・成長させることをあたり前とする。そうではないところに居た自分から、少しでも人間らしい自分となるために、直ぐにでもLED照明を外す。人間であれば、そのことに躊躇する時間は要らない。

この地球に、一生命として生きているということ。自然界に生かされ、自然界を生かす、人間であるということ。そこから離れたままの人間時間が、この地球には在ってはならない。地球の一部となる生を生きる人間は、それを阻もうとするLED照明の原因をそのままには出来ない。人間であれば、すべきことをする。そして、生き直しをする。

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8.自らの本体の反応からなる無意識の力によって、無有日記との縁を引き寄せた存在たちの多くは、人間的な思考の域では到底あり得ない現実の連なりを、そこで経験する。ただそうであっても、無意識の意思の背後で身体(脳)を操る形無き別次の意思(本体)は、無有日記の原因とは相反する、非生命的な性質。そこでの経験の内実は、未知の原因の世界に本能の力を抑え込まれ、意に反してそれに付き合わせさせられてしまうというもの。思考を思い通りに扱えない無有日記の世界では、いつのまにか本体の意思とは異なる時空に居て、その矛盾からなる心身の好転反応を繰り返しつつ、全く予想すらしなかった不可思議な事の展開を経験することになる。

その後、彼らは、それまでに無い現実を生み出す空間で、そんなつもりもなく無有日記の材料となり、何もしていないのに次なる時代の大切な何かをしているという、かけがえのない存在になっていく。無自覚に無有日記を支え、自らも無有日記になるというそれは、本体からすれば至極許し難い現実。そうならないようその流れに負荷をかけようとすれば、自分の方にそれが返り、阻止しようと(封じ込めようと)すれば、自分が動きにくくなるという、どこまでもあり得ない事実。時を経て、その存在たちの本体は、思い通りに本人(身体)を利用できない状況を甘んじて受け入れざるを得なくなり、本人は、無有日記を通して、未消化の感情の記憶を浄化し得るという(人間的に嬉しい)経験のその原因づくりに、身体時間を重ねることになる。

彼らは皆、太陽のように、この地上の人間世界で、異端児になる生を生きる。それは、そうであろうとしても出来るものではなく、その発想から離れていても出会し得る(経験の外側となる)縁を通して、その可能性は動き出す。それが、この無有日記には在る。本体の意思とその性質も含めたこれまでは、ここに溶け、奇跡という名のここでの普通体験が、これからを創る。ふと手にした新しい場所で、誰も出来ないことを実践し、そしてそれは、誰も出来ることのそのお手本(ひな型)となる。この時代が支える、次なる時代へのその生き直しに、本体は、笑うしかなくなる。

無有日記に縁した人たちの、その力強い歩みと覚悟。そこでの厳しさへの受容は、そのまま時代の喜びと繋がり、生命世界を深くから癒す。それは、まさに歴史的であり、この地球での生命史上初の、自然界発のその意思の具現化である。この時代は、ここから変わり、かつての時代と共に、この数千年間を包み込む。そのことに、地球は喜び、太陽も、嬉しさを隠せない。

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「何だかんだしでかす蔵の釈放条件は、LEDペッペリンを倒すことだそうですね」「はい。縄文土器子に日夜指導を受けて、がんばっているようです」「実況中継が楽しみです

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7.この地球に居て、共に生命を生きるという、基本的な責任感覚を持たない人間がいる。彼らの特徴は、人間だけに通用させてしまう、反自然的な不自然な生き方を普通とするところにあるが、生命を生きる人間として知るべきことも、全く知らないで生きる。

生命として‘知る’というのは、自分の中に、その原因となる要素が在るということ。それゆえ、知るまでもないことは、あたり前に縁遠く、隔たりや争いを生み出す原因は、知らない。知ることは、知ろうとする次元を余裕で包み込むようにして、内なる質として溶けている。

その基本となる感性を無くし、それを良しとして生きる人間は、地球に生きる一生命である自分でいれば当然備えるべきものを持たず、無くてもいい否定的な感情(差別、支配、怯えetc.)だけで生きる。平和も健康も、その原因を内に持たないから、そこへと向かい、そのための知識を手にし、何も変わらなくても、それで満足する。

地球自然界の安心の原因を備える人間は、そのための何かを必要とはせず、ただその原因をそのまま具現化するだけの生を基本とする。そこに、LED照明の原因が入り込むことは出来ない。そうではない反自然的な人間は、自然界の安心の原因が内に無いからこそ融合し得る、腐敗・停滞型の形を求め、それゆえ、自分たちと同質のLED照明の存在を肯定する。前者は、この地球に生きる、普通の人間である。後者は、なぜこの地球に居るのだろうと、自然界が煙たがる、どこまでも人間本来からかけ離れた、人間もどきである。(その背景となる原因の出来事は、「歴史の芯」の中に在る)

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7.誰にもそうとは分からせずに世を病ませ続ける、地球の異物とも言えるその形無き存在たちは、永い年月をかけて増やした同質の人間と、彼らによって支えられる、多数が優位となる価値観を最大利用し、その(世を病ませる)最終局面となるこの現代に、これ以上の材料は無いというくらいの、完全なる破壊と無生命化の物質を誕生させる。それが、LEDである。

LEDの原因に潜むその本質(正体)は、腐敗と破壊であり、その意図は、大多数の意識を操る危うい存在(本体)たちの、その元となるエリアの意思である。LEDは、初めに、植物(木々、作物)を腐らせ、水や土を変質させる。そして、動物たちの生きる力を奪い、自然界の隅々まで無生命化させていく。(その過程では、人の手による建造物も、心身の健全さも、LEDにより壊れていく)

ところが、LEDのその負の原因に反応できない非人間的な本性を備える人たちは、それらの不自然な風景を目にしても、その理由へとは踏み込めず、それがLEDのせいだと知らされても、そう思うこともしない。ただ、本体の意思がそうではなくても、人としての人生を生きる立場上、放って置いてはならないだろうということは、人間として、薄々分かる。それでも、LEDに自分は全く平気で、同質の力ある存在(仲間)たちがそれを良しとしているので、動く理由(名分)はどこにも無く、脳は、そんな時に何かをしようとする経験を知らない。それが大多数であるわけだから、事は、恐ろしく悲惨である。

そして、ここでもそうだが、その在り様の全ては、ずっと前から把握されている。でなきゃ、「LED感染」も「LEDの影響(映像)」も、ここには無い。原因の動きは正直だから、無有日記は、余裕でその無生命化の性質を形にする。LEDは、自然界との融合の無さが重量級だから、その作り手も使い手も、送り手も受け手も皆含めて、そこに在る(この地上に)無くてもいい原因全てを浄化し得る新たな機会を設ける。太陽も月も、地球自然界も、そのことに協力する。それが、この今の流れである。

この先、大多数は、呆けるぐらい思考が働かなくなり、どうにもならなさが増幅する。単純・短絡ではいられない状況の中でも、そうあり続けるしかないその本性は、内に秘めた粗暴さ(低劣さ)や自己本位な感情を次々と顕にし、心の無さも隠せなくなる。世にも恐ろしいLED照明に何の違和感も持たないという恐ろしさ。そのことに見合った反応の連鎖に、自然界は、大きく再スタートを切る。

自然界に負荷をかけ、その動きを滞らせて地球全体を腐敗・無生命化させようとする意思が、永い時をかけてこの地上に生み出した、蛇系の大多数。彼らの数の力にも支えられるLED化は、世を病ませるためのその実に効果的な道具(材料)となっているが、そのことを新たな原因へと変え得る無有日記の次元からだと、LED化は、人間世界の土台深くにしつこく固められたその負の(非人間的な)原因を好きなだけ浄化できる機会である。それは、「歴史の芯」のこれまでの文章と、それに乗った原因(エネルギー)に呼応する人たちのその内なる変化に、如実に現れている。

心を持たないゆえに基本が嘘である蛇系の人間(大多数)は、その気もなく狡猾さを地で行き、愛情の無さも、愛情の有る振りでそれを面白おかしく愉しむ。しかし、LED照明への危うさへの無感覚から、それは通用しなくなる。物事の原因への分からなさに無頓着でいて、困ると、「だからどうしたの?」「それで何なの?」と他者を突っぱねていた、その怯えと狡さ。そんな時に決まって科学的根拠という(自分たちが作り上げた結果優先の)世界に逃げ隠れていた彼らも、LED化を支えていたことで、それも認められなくなる。

大多数は、LED照明を通して、事実から学ぶという、彼らにとっては最も厳しい体験的知識と感覚的理解を経験せざるを得なくなる。それが、何を意味するか?それは、その存在たちには無い、原因の変化というあり得ない動きが、彼らの中で始まってしまったということ。無有日記は、その姿を見守る。

4/03

6.人間は、思考が健全であると、その原因(手前)のところから物事を見ることを普通とし、不要に思考を働かせずに、事実からその質を学び、必要に応じてその事実を変える自分をあたり前に生きる。

そうではない時、人間は、思考を忙しくさせて本心を偽り、事実から学ぼうとはしない(学べない)自分をごまかすための知識を溜め込む。それにより、事実の質は放って置かれ、そこに在る負の原因は増大して、無くてもいい経験が作り出されていく。

事実から学ぶという、その人としての基本能力を持ち合わせていない人間が、内に潜めた非人間性を基とする思考を働かせて形にしたのが、LED照明である。事実から学べないというのは、良し悪しの基準が、次に繋がる原因ではなく、思考(知識)に留まる結果であるということ。それゆえ、LEDの負の事実を目にしても(見せられても)、その思考の域からは出ず、そのことを正当化するために、事実を無かったこととして、力ある結果(過去)に無意識に逃げ隠れる。地球自然界を守るという観点からだと、完全な犯罪となるLED化も、事実から学べない人間の、その非人間的な本質(本性)によって、ここまで存続してしまう。

4/03

6.財や地位を手にし、人を支配する側に居られたとしても、それが根底から覆されかねないという、その存在たちにとっては至極許し難い、事の原因のところから観る、生命としての発想。彼らの意思は、当然、その発想の発信源となる無有の原因を尽く潰し切ることに固執する。経験豊富な本体を持つ(本体が選んだ)人間が、無有に様々に関わる。

なのだが、その全てはすでに把握されていて、彼らのあらゆる負の試みは、次への新たな原因として、余裕で処理される。「歴史の芯」の流れを観ても分かるように、無有日記の原因は、地球時間を包み込み、太陽の意識(想い)まで形にする。彼らが、人間を通して停滞と破壊の意思を強めようとすればする程、無有(日記)は、瞬く間にその内実を学び、負の原因を浄化して、それを役立てる。その流れの中に、この34章も在る。

それでも、それしか無い、その存在たちの本質。力を削がれても、意図を抑え込まれても、調整・修復の知恵を持たない彼らは、どこまでも、攻めることしか知らない。そんな彼らであるが、それ以外の姿勢を持たないというそのことが、徐々に思いがけない方へと転じ、無有との縁を通しての経験は、彼らには無い意外性と驚きを伴うようになる。気づけば、事の主導権は、無有日記の中に在る。

この国の歴史的負の連鎖のその元となる原因が、段階的に確実に浄化されつつ、形になった「歴史の芯」。思考の奥に在る原因(本質)が、これまでの歴史が絡むこの世の大多数と同質であれば、無有日記の世界を実践することでしか、人としての生を経験することは出来ない。自然界が悲しむ非生命的な原因のまま、事を語ることは、この地上ではあり得ない。

4/02

5.人間が人間としての生を普通とする時、水や土の生命本来を破壊し、木々を腐らせるLED照明を使用することは考えられない。もし、そうであるとすれば、それは、その人の全てが嘘であることを意味する。脳や心臓が人間のそれであっても、その原因(本質)は非人間ということになる。

LED汚染により、物が溶けて変色・劣化し、建造物や道路までが亀裂やへこみを生じさせて沈下するというその姿を放って置けること自体、人の世には有ってはならない。それでもLED照明が在り続けるとすれば、この地球は、人間を生命としては扱わない。LEDの負の影響力に無感覚でいる人は、この地球に住んでいることが間違いとなる。

極端な話でも何でもないが、LED照明を使い続けるその姿は、人間ではないと考えて良い。地球を安心させ、地球を生かすことは、地球に生かされる生命たちの大切な仕事である。LED照明の使用は、それを拒む意思の現れであり、その存在たちを通して、地球が壊れるということである。地球は、地球を生かす生命たちの住む場所である。

4/01

2018

4.その普通を普通とする暮らしの中で、人間誰もが地球のために直ぐにでも対処すべき事柄が、LED照明による災いの回避である。「歴史の芯」を中心に随所でそのことについては述べてきているが、LED化以降の、そのことによる自然環境の変貌振りは、生命たちにとってあり得ない恐怖となる。非人間的な生を普通とする人間の、その無感覚と無責任の負の原因がそのまま乗る、LED照明。地球にとってこれ以上の哀しみは無いその無生命化の威力は、形ばかりの(人間ではない)人間がその本性を暴走させてしまったことによる、地球規模の悲劇である。

動物たちに食べてもらうことでその貴い役を果たす植物たちの意思は、LEDによりその力を無くし、地球の一部としての生を表現できなくなる。それでも植物を摂り込み、生命力を保持しようとする動物たちは、小動物を中心に次第に気力を奪われ、地球感覚を無くす。LEDの無生命化の負の原因により、地球に生きる生命たちにとって最も重要な微生物の世界での彼らの生も潰されていく。その様は、この地球が経験したくはなかった、それまでには無かった生命たちの姿である。

それがこの時代の人間発の出来事であるわけだから、地球の一部のようにして生きる普通自然体の人間にとっては、この上ない苦しみである。その恐ろしく悲惨な、地球環境の変わり様。そのことを外して(無視して)、人間が人間でいることはあり得ない。LED照明の存在をそのままにし得ることは、この地球の生命の歴史において、有ってはならないことである。

 

3/29

1.人間を生きるというのは、地球に住む一生命としての人間の分(役割、責任)を生きること。そのための何かをするという次元を離れ、ただそうである自分をありのままに実践すること。それは、この先、どんな時代を過ごすことになっても、普通にすべきこととして、人間の基本に在り続ける。そのための全てが、そうであるべくその普通の中に溶ける。

その普通が普通ではなくなってしまったこれまでの時を、その自覚もなく支えて来たことを知れば、「歴史の芯」と「仏陀の心」を自分と重ね、人間が大切にすべきことをあたり前に大切にしているその本来の時を創り続ける。そして、要らないものを外し、無くてもいい経験から自由でいて、心の芯となる部分を地球感覚のそれにする。

心の意思を抑え込まれるようにして被った、永い間どうにも出来なかった、厚く、硬い病みの殻が、無有日記のこれまでを通して、ひび割れを生じさせる。そしてこの「人間」で、それを一気に砕き、核(芯)を元気にする。その時、人間は、この地球で他の生命たちと共に地球を生きる、本当の人間になる。思考の次元は、他を余裕で包み込み、脳の原因の働きは、地球自然界の意思を自然に形にする。それはまさに、地球分の一の人間時間。そのままそれは、地球の姿となる。

 

2.そこから自ずと見え出すのは、これまでの人間世界における歴史とそこでの出来事は全て、この地球に生きる人間のそれではなかったということ。それはある意味、作り物のボードゲームの中の、気ままな無責任人生。人間的な努力も向上心も皆、そこでの実の無い非人間的な原因を基に在ったことに気づかされる。

地球において決して有ってはならない、人と人とが人生(命)を潰し合うという異常な経験。そして、その上で異様に繰り広げられる、地球を生かすことを放棄した、人間だけの、人間世界の在り様。この地球で生きる人間としての資質(基本)を備えていれば、人は、これまでのその不自然極まりない人間時間の怖ろしさと未熟さを知る。それは、ここに至る人間の歴史において、その何処にも一生命としての人間は居なかったということ。形ばかりの愚かな人間は、地球に居ることを無視し、地球感覚も一切無いまま、自然界(動植物たち)との融合を外して、異生命を生きる。

自分が地球人であることを否定する人はいない。地球人であれば、地球を大切にすることの意味を、どんな人も知る。そして、そうであれば、人が人の命(人生)を奪うことなど絶対にあってはならないことを自覚する。争いも衝突も、理由の要らない平和と健康の原因で無くてもいいものとする意思を確かにする。ふと気づけば、地球という言葉が身近になる。人間は、自分たちが作り上げた世界ではなく、自分たちを生かす地球の一部になることで、地球人(生命)としての人間を生きる。

 

3.永いこと人間ではない人間世界が連ねられてきたその原因については、「歴史の芯」に書いてきているが、まずは、その内実を知る。そして、その上で変わり得たこと、新たに経験できたことを経て、それでも変わらない部分のその原因を自らの中に観る。「仏陀の心」にも触れ、その中身の性質を可能な限り把握し、それへの異物感を明らかにする。

それだけでも、これまでとは違う自分に出会えるが、形ある現実のその質を、力強く、余裕で浄化するために、知り得たことを、体験的知識の域へと成長させる。その時、ムリの無い普通感覚での実践と、一切の気負いの無い真剣さが鍵となる。人間らしく人間を生きることによるそこでの厳しさは、そのどれもが、地球自然界の安心と喜びである。

地球の安心は、そのままそこに生きる生命たちの本来の姿を支え、守り続ける。当然そこには人間も居て、他と同じように普通自然体で生きるその姿が、地球を支え、守ることになる。地球を生かすことで、生かされ、それを普通とすることで、普通に地球感覚を表現する生命たち。その意識もなくそうである生き方を、人間もあたり前に実践する。

3/29

5.停滞感と腐敗型の原因を基本燃料に攻撃・破壊願望を形にしようとする、形無きその存在の意思は、何があっても変わらずに、そうであり続ける。その意思を本性(無意識)に潜め、操られるようにして生きる人間は、当然、その性質の全てに合わせ、その具現化の格好の道具となる。それに逆らうとか、それを切り離すとかの発想が生まれることはない。

人間の心を持ち合わせない彼らの脳の働きは、実に単純・短絡で、機械的。難無く人(世)を病ませられれば、がぜんその性質を活かし、そうでなければ、嘘でそれをごまかし、元の(いつもの)状態になれるまでそこで待つか、他へと移動する。人を困らせ、苦しめることを普通とする彼らにとっては、そのために取る嘘は、当然の手段。世の嘘に守られて生きる彼らの人生がそもそも嘘であるため、それを何百回言われても、事実を通して体験的に知らされても、心を知らないその脳は、何も理解できない。それで良しとなる世を作ってきたその存在たちには、そうではない状況の訪れなど、到底考えられない。それが、この世の大多数の人間の普通である。ただそうであり続けるためだけに、形ばかりの協調や協力も、弄ぶようにして身体に経験させる。

そんなだから、今まで培ってきたものが通用しないとなると、その存在たちは、どうしていいか分からなくなる。表面的な形式(過去)や知識(結果)を大事に良い人でいようとする、この現代仕様の思惑が、その原因のところから厳しく観察されるという、疎ましさ(不快感)。裏表が有ることを正当化するために礼やしきたりを利用するという当然の姿勢のその本質が問われる、うっとうしさ(気詰まり感)。それまでには(この数千年間には)無かった、無有日記を通してのこの時の経験は、単細胞の彼らにとって、耐え難き悔しさ(屈辱)となる。

3/25

8.‘人のために’という言葉がある。がしかし、それは、人の世には無くてもいい言葉である。その言葉のために、人は、嘘を本当として生きることを覚える。

人のためになる自分でいることは、ごく普通のあたり前のことで、そうではない性質の自分を、人間は生きることは出来ない。普通であるから、そうであろうとすることも、そうなりたいと思うことも一切不要となり、ただありのままでいることで、人は、互いに生かされ、支え合う空間を共に生きる。そのことへの違和感は、異常となる。

‘人のために’という言葉が力を持つ世界があるとすれば、それは、そこに、異常を普通とする本心を隠しつつ、嘘を本当として狡く生きる人たちが居ることを意味する。人のためとなる原因(心)を持たない人たちが、それをごまかすために意識する、人のために生きる姿。人としての普通が力を無くした世では、そうなってしまったその理由となる負の性質(本性)を堅固にする人間たちによる、人には無縁であるはずの、偽善と欺瞞が力を付ける。

人のためになることに特別な嬉しさを覚える時、そこには、それを普通とはしない異常さを内に秘める、本当は人のためではなく自分のためだけに生きる(人を利用して自己満足を手にする)狡賢い自分が居る。人のためになることが尊ばれる時、そこには、困った人がいつまでも無くならないその重たい原因を備える人によってその行為が悪用されている現実がある。‘人のために’という言葉を思考から外す。それは、人間らしい人間でいるための、生きる基本形のひとつである。

ありのままでいる自分をそのまま表現すること無しに、人のためになる自分を生きることはあり得ない。つまり、自分に正直でいて、考えるまでもなく想い(心)がそのまま形になる自分でいれば、何をしても、どこへ行っても、その気もなく、それが人のためになるということ。そこでは、当然、経験(記憶)から自由でいることがあたり前となり、結果(過去)に付き合う自分も居ない。不安も怖れも居場所を持てず、不健全も不公正も、その原因とは無縁である。それゆえ、何でもない言葉や行為が、人の原因を動かす。

人のためになることは、一切知らなくてもいい。それよりも、人間の本来を自由に生きること。真の普通を、心身に馴染ませること。そのことで、‘人のために’の言葉が存在意義を持ち得てしまうその原因でもある困った人(事)の姿が変わる。人間は、ただ人間を普通に生きる。難しいことは、何も無い。

3/23

「この頃、理由もなく焦り出している人に出会しますね」「理由が大き過ぎて、処理できないと思います。自分には何の違和感も無かったLED照明が、世の悲劇を生み出しているわけですから…」

3/23

7.人が何かに向かう時、そこにはすでに向かわされる状況設定が在り、多くの場合、人の、生命としてのその生きる姿勢(原因)が、そのことで成長することはない。向かうというのは、向かわなくても良いことに気づけない人の、個人的な自己満足の世界である。自然界に生かされる、人間という人の世では、向かわなくても為し得ることの変化・成長とその共有だけで、平和も健康も普通となる。

人は、時に、生きるため、自由を手にするために、何かに向かうこともあるが、それは、人間の生命本来からなる自然な方向性であり、そこでは、個であって全体、みんなにとっての自分という、変化そのものの原因(心)がその原動力となる。そして、その時を経て、生きる基本形は更新され、それまでのことは、その必要性から外れる。向かわなくてもいい時を普通とするために、そうではない(なかった)時のその原因の浄化に、心身は、自然な感覚で動き出す(向かう)ことがある。

誰もが友愛と調和を普通に、平和と健康を生きることは、人間にとって何より大切にされるテーマであるが、なぜか人間であっても、それを避け続ける存在が居る。彼らは、人を、ある特定の何かに向かわせ、他を隔てる感情を経験させて、それを人の思考(精神)に染み込ませていく。嫉妬心を煽り、優越と差別をしつこく内に育ませ(潜めさせ)、建て前や体裁で繕える嘘の人生を一般化させる。そして、人間が歩むべく一生命としての原因の成長を潰す。

何かに向かわざるを得ない状況があるとすれば、その多くは、人間の成長とは無縁の、意味のあるように仕組まれた、意味の無いもの。それに意味付けすることでしか身を守れ(保て)なかった経験は、その無意味さに力を与え、その背景に在る非人間的な思惑を支える。そうでしかなかった時の連なりは、その気もなく自他の変化を止め、争いや衝突、病気や不健全さの下地を固めることになる。

人は、ある何かに懸命に向かい、その結果、そこには向かわなくても良かったということに気づかされ、その機会を、貴い理解として感謝する、という愚かな人生を重ねる。人は、向かう場所を変えつつ、向かうことを続け、その後、そのどれも個の欲の現れであったことに反省し、心から謙虚になる、という無くてもいい偽りの経験を大切にする。

向かう人生は、生きる価値そのものを無くす(見失う)ことから始まる、人間には相応しくない、至極不自然な姿。それは、心の無さをごまかし、嘘の原因で真の普通の息吹を封じ込める、非生命的意思の具体化。人間は、自分に正直でいれば、時間をムダに使うこともなくなり、向かわずして出来ること、ただそのままで表現し得ることの、その質を高める自分を活躍させる。そのために必要なことは全て有ることを知り、ただそれを自由に、思うままに使い、形にすることの意味を実践する。

向かうことで手にする本来の平和や健康などどこにも存在しないということを決して人に気づかせないために、それが(その類の価値観が)存在し得る意味は、執拗に力を持つ。その材料となる、いくつもの、期間及び地域限定の、向かうこと。人が、向かうことを止めた時、その時初めて、人は、一生命としての人間の生を生き始める。そして、みんなの平和と健康の時を近くに引き寄せ、自らが、それらの原因となる。それが、人間である。そのことを普通に、人間らしく人間でいることが、人間の姿である。

(そこに善悪が無ければ、それは、向かっているようでも向かっているわけではない、大切な原因の時となる。他を隔てる感情や優越心(嫉妬、独占、怖れ)がそこに無ければ、向かうこともなく向かうところで、みんなに繋がる貴い経験を創る)

3/23

4.人間の意識に入ることで個性的な存在となった彼らは、悪感情を大っぴらに出来ないこの現代、裏でこっそり人を困らせ、人知れず事をおかしくさせて、悦に入る。身体の方は、それを完全なものにするために、常に他を憐れみ同情する気持ちを持ち、苦しみや逆境を克服しようとする姿勢に、甚く感動する。それらの不幸や災いの理由深くに、自らの意思がしつこく絡んでいるわけだから、それと繋がる無意識(本体)の意思の嬉しさは格別である。彼らは、その信じ難い負の力で、誰にもそうとは分からせずに、人を病気にしたり、事故に遭わせたりする。中には、自ら心身を酷く病気にして、人の人生を不自由にしたり、どうにもならない状況にうまく陥り、世の動向に悪影響を及ぼしたりする存在もいる。

人の意識の中で獣的な残虐性に変換される、その本質となる本体の意思は、その質が凶悪な存在ほど、同一化させた人間の脳に、この時代仕様の武器となる差別心と知識欲を密度濃く植え付ける。差別心は、他を抑えて、自分だけの欲を満たすための、その重要な動機付け。数の力も、量や幅の利かせ具合も、差別心がそれを支える。知識欲は、心を持たない人間にとっては、他に差を付け、人を退けるための最良の道具。地位を手にし、偉くなれ、お金も入り、人は支配される。

大多数の人たちが、蛇絡みの本性を携えて人間を生きる、現代。彼らは、その本性を上手く抑えて(良い人を演じることで身を持たせながら)、その非道な思惑を現代風に形にしているが、実のところ、それは不本意なもの。かつてのように、敵意(殺意)を自由に形に出来ないことに、悔しがっている。その悔しさは、この34章で更に増幅する。それは、この地上に無くてもいい本体の性質が、より顕になるということ。「歴史の芯」や「仏陀の心」に触れ、その存在たちの思い通りにはならない人間時間を、彼らの経験の外側で創り続ける。

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LEDに汚染された雨水によって、線路が各地で微妙に沈下しているのでしょうか。走行中に異音を発する電車が増えてますね」「異音も、多発すれば常音になりますよ」「そうですよね。心配しちゃいました

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6.どんな時も、意識する対象のその原因と自分のそれとの間である性質の融合が始まることを考えれば、何でもかんでも好きにものを考え、自由に意識(思考)を働かせることが、実に不自然であるかを人は理解する。物を手にしても、文章を読んでも、その作り手や書き手の中に潜むそれまでの原因の性質が、経験の外側でいくらでも仕事をする、常に原因でい続ける生命世界の普通。人間は、人間独自の思考世界をどれだけ成長・発展させても、その存在の本質となる一生命としての質(原因)を変えることは出来ない。

何をするにしても、どこに行くにしても、そこにどんな自分が居て、どんな性質の原因がそれを必要としているか。その意識もなくそれが大切にされていることを、人間を生きていると言う。そうでない時の姿は、(生命を生きる)人としての原因が備わらない、形ばかりの嘘の人間時間ということになる。

人間らしさが普通である時、自らの原因は変化そのものとなり、自由に時空を透過しつつ、現実(環境)の原因を調整・浄化するという、多次元的な生命の仕事をあたり前とする。そこには、結果に居続ける形(形式)も、結果にとらわれる思考も、全く存在しない。人間本来の自然な在り様に滞りを生み出すそれらは、生きる原因の非生命化(非人間化)を良しとする、退化の象徴。この地球に生きる人間が、地球が安心するありのままの人間であろうとする時、人間だけに通用する(通用させる)結果の世界が力を持つことはない。

そこから自ずと見えてくる、人間にとって有ってはならない、思考型の歪な姿。その代表となるのが、論理的思考という、原因(心)を恐れる姿勢と、科学的根拠という、怯えの裏返しの概念である。

物事の原因を無視し、その本質からなる動きを阻む感情がその燃料となる、論理的という姿。人間は、それを普通とはしない。変化し続ける原因の世界のその普通の動きを執拗に抑え込む力が形となった、科学的根拠という概念。人間本来の思考は、それを無縁とする。人は、自然界の原因と融合し得る健全な感性を無くすと(持ち合わせてないと)、個人的な経験枠を拠りどころとする、思考型の論理と科学に走る(頼る)。

結果から始まれば、争いも病気も無い原因は、力無くして、遠のいていく。過去にしがみ付けば、初めから、停滞と衝突を生み出す負の原因が動く。その人としての基本が外された上で成り立つ、論理的思考と科学的根拠。それらに付き合う時間は、人間には無い。

(論理的思考を普通とする人は、自分がすがる科学的根拠を好き勝手に利用する反面、それ自体に責任を取ることはない。科学的根拠という概念(権威)に思考を働かせる人ほど、自らの責任(心)の無さを正当化するために、それを重宝する。その世界で妙な好感を持ち得る、思慮深さも、思索好きも、真に生きることを放棄した人の嘘の姿である)

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5.互いの、その手前の形無き想いがその時を引き寄せた、ある人との会話。それだけで充分である。その大切さが自然と共有されれば、後(内容)はどんなでもいい。会話は、共に居ることで動き、変化する、その時ならではの新たな原因の営み。言葉は、何でも、そのための少しの味付け。その時の言葉は、文字の域には収まらない。

人は、縁する人との空間で言葉を発する時、言葉が無くても通じ合えた遠い昔のその形無き交流の原因の記憶にその必要性を観察してもらいつつ、その時々の正直な感覚に、さらりと何でもない言葉を付き合わせる。そして、想いを重ね合わせ、互いの普通の質を力強く広がるものにする。そこでは、言葉が力を持つ話題も、言葉が先行する知識型の内容も、無縁である。

話をするための知識は、(原因同士が呼応し合う)心ある風景では一切不要であり、ふと何気に触れ、出会った(引き寄せた)知識のその原因となる部分が自分の中で消化される中で、それへの働きかけのために、知識という名の原因が言葉になる。人と人が共に居る空間を次なる時の原因とする時、そこに知識欲の次元は近づけない。その原因(心)が外される時、それが言葉になってもならなくても、不平・不満や愚痴・悪口の類の感情が動き出す。

言葉は、その人の原因の性質の具体版。その姿(感じ)がどんなであれ、内に秘められた感情は容易にそれに乗り、正直にその反映となる仕事をする。それが危うい人ほど、知識だけで通用する話を好み、巧みな話術まで駆使して、支配の道具として言葉を利用する。その手前に心ある原因を持たない人の世界では、話をすることからでしか始まらない非生命的な会話が普通となる。

話は、形無き原因の融合を基に為される、自然な生命活動のひとつの形。伝えることもなく、大切なことは伝わるから、話す度にその原因の質は成長する。それは、その原因のところで自然界の生命たちとも融合し、何も無くても全てがある本来の普通世界を支え続ける。今、全ての活字(書物)と情報が消滅したとしても、それは、いつもと変わりなく、連繋の意思(仕事)を担い続ける。

3/18

LED照明による被害のスピードが加速しているようですね」「水や土がすでに異物化(無生命化)しているので、街も地方も、山も海も、どんどん腐っていくでしょう」「どうすれば…?」「スマホの画面を24時間見続けていれば、何も気にならなくなり、平気になりますよ

3/18

そのきっかけは他者であっても、それを発動させているのは自分自身と、繰り返してしまう思考(感情)パターンの原因を見つめる。二者択一的でないところで淡々とそうである自分を観察できれば、それだけで、同じことをさせようとする意思(別な自分)も慌て出し、それまでとは違う自分が活躍する。これまでがどんなであれ、どんな人も、無くてもいい経験から自由になれる(離れられる)。「歴史の芯(33)」の後の「人間」の文章は、人間本来への力強い踏み台(架け橋)となる。

3/18

4.物事の本質というのは、その中に在る、その原因の性質のことである。自らの生きる原因が、自然界が喜ぶ中庸の次元を普通とする時、物事の本質は、どこまでも自由に、容易に観察し得ることになる。

どんな人も、その原因深くで自然界のそれと繋がる、存在の本質。その自然界との繋がりを普通に融合を高め、その質を成長させることで、人は自然に変化に乗り、一生命としての意思を躍動させることになる。その意識もなく支え合う自然界との融合は、人が人として生きる上での、その大切な原因となる。

その様の観察は、人間にとってとても重要なことであるが、特別にそうであろうとすることはなく、ただ発する言葉、向かう場所、関わる事のその原因が、自然界を安心させるものであれば、それでOKである。難しいことは何も無い。不安で物を作らず(事を動かさず)、生み出される物や形(関わる人や空間)が自然界を悲しませなければ、その人の責任感覚は、ムリ無く自然で力強いものになる。

文字(本)を書き、歌を歌い(作曲し)、食品を製造し、人の脳を刺激する。事を進め、人を動かし、形を作り、空間に影響を及ぼす。そのどこにも、自然界には無い滞りや衝突の性質は在ってはならず、自然界が経験しなくてもいい不安や差別の感情が、それらの材料としてそこに在ることも考えられない。自然界は、形あるものより先に、その元となる形無き原因の性質に反応する。

書物でも歌でも、学びでも娯楽でも(スポーツでも文化でも)、その手前の原因のところに不安や隔たりの感情が在れば、廻り回ってその負の影響は、限り無いものになる。そのことを、自然界は決して望まず、そのために停滞する(退化する)人間の世界のその本質(原因)に、辛さを覚える。

作品は、いつの時代も、在るべき姿を繋ぐためと、在ってはならない現実へのその変化の材料(原因)である。それは、中庸の世界発の、シンプルな真実の形。自然界の安心そのもののその原因は、何があっても、生命の仕事をし続ける。

3/18

3.嘆き悲しみ、苦しみ喘ぐ人の姿を好物とするその存在たちの意思は、そのために身体を利用し、意識を所有する。それそのものの性質の原因が無限供給されていることで、彼らは、人間の体(脳)を手に入れると同時に、非人間的な個性ある経験を積み重ねる。その経験の凄まじさにより、人の世を牛耳る力も磨かれる。

人が苦しむという快楽の時を好き放題愉しめればそれで良しとするその存在たちにとって、そのために操る人間経験のその基本は、嘘である。ただ、自らが選んだ人間が身体的・精神的に攻撃されれば、当然そのことに反発するが、それが出来なければ、退散するか、形だけ屈する。より凶悪な経験(の原因)を備える同質の存在に自分が押さえ込まれ、利用された(されていた)としても、蛇系世界でのそれは、一種の力添え。仲間意識は無いが、この時まで皆で作り上げた負の体制が崩れることだけは、何があっても阻止する。そのためとなれば、力の差による嫌な経験にも全く無頓着となり、即転じて、自分が可能とする他への凶悪な行為(攻撃)を愉しみ、人が苦しむのが嬉しい自分を生きる。

その存在たちの意思には、何かを守ろうとする意識は無く、ただしかし、ここまで続いている、不穏で不健全な現実がどこまでも維持されていくことには執着する。面白おかしく人を苦しめられればそれで良く、人間的にどんなであっても、孤独や疎外というものは無い。意識体同士では、上下関係も、誰かに使われているという感覚もなく、自分たちの、その非人間性を普通とする欲求を満たすことだけのために、自らの身体(脳)と共に、狡猾さと無感覚に徹する。それが彼らの本能であり、それしか知らないその次元の普通である。

3/17

3.「歴史の芯」の中で、問題事や病気の原因に細かく触れ、どこまでも深くそれを浄化し得る機会を創り出してきたが、それは、この数千年間の歴史的事実のその形無き負の原因(本質)がそのままであったために、その必要性が形となったものである。今、これまでの歴史を挟むようにして、一万数千年前の風景のその原因をここに招き、それを未来へと繋ごうとするこの時、改めて、人間の病気との関わりの真実を知る。

人が普通に健康であっては欲しくない非生命的な原因が、未だかなりの力を持つ現代において、人は、やむを得ないこととして(当然誰もがかかるものとして)病気の存在を捉えているが、それは、無くても良かったところにわざわざ作られたものであり、その中身は嘘である。この人間社会に在るのは、物や形(人の無意識の意思や本性)を通して人を病気にさせようとする意思のその暗躍する姿であり、その負の原因との関わりを否応無く持たされた挙句、人は、いつのまにか心身に不調を抱え、病気になるのである。

病気を前提とはしない生き方が普通となると、元々それは嘘であるから、当然のこととして、病気と縁遠い人が増え、病気は、彼らの違和感となってその負の力を無くす。実に単純な話である。病気を意識しないで済む生活が馴染むと、当然の結果として、病気の原因と繋がる物や形との接点が無くなり、人を病気にさせようとする不穏な意思からも離れることになる。あたり前のことである。(そのための基本は、「歴史の芯」「仏陀の心」の中に在る)

そこに病気という事実があるために、それに対処するという生き方が必要とされるが、その原因を考え、そして更なるその原因を考えていけば、病気は無くてもいいものであるということを、人は理解する。そして、徐々に、確実に、その病気の存在意義を無くさせていく。それを普通とするのが人間であり、その普通を拒もうとする存在が、病気の(病気を生み出す)原因を担っていると捉えてよい。

この世は、人を病気にさせる人と、自らも病気になってそれを利用する(人を困らせようとする)人が居るが、その存在たちの影響で病気になったとしても、そのまま病気でい続けてしまうことはない。嘘に付き合わされて、無くてもいいはずの病気の人間を生きるか。その嘘の原因を外して、普通に人間を生きるか。もちろん、人の姿(身体)は、後者の生き方をするように出来ている。(じゃあ、先天性の病気はどうなるの?となる。「歴史の芯」で本体の意思世界(次元)のことを感得すれば、そこにも、そうである原因が在ることを知る)

哀しい事実だが、この現代の社会環境は、病気にさせたい人と、病気になりたい人との妙な共同作業で成り立っている。そこに取り込まれないためにも、彼らが好む(自然界が力を無くす)LED照明を外し、彼らが嫌がる(細胞が喜ぶ)全粒穀物食を普通とする。そこから、人間を再スタートさせる。

3/16

「人間」と「歴史の芯(34)」の原稿が、一緒になって歩き出す。この今だからこそ形になり得る内容として、それらは、深いところの病みのかたまりを砕く。とても厳しく、受容し難いこともあると思うが、それでOK。これまでの人間の思考世界には無かった理解であるから、当然である。それらを通して、何気に感じること、ふと思うことに意味がある。あとは、それらの文章に乗った原因が仕事をする。一切の不安も心配も要らない。ふと気づけば、有ったことも分からなかった、しつこい滞りの原因が姿を見せ、癒される。

3/16

LED化による各地の樹木の悲惨な姿を見ると、悲しくなります」「耐えましょう。山崩れが起きても、家屋が沈下しても、決められたことはキチンと守るのが日本人ですから」「はい」

3/16

2.人の不安に敏感に反応して自らも不安になることはあっても、不安の原因からは常に遠くに居る、元々不安を知らない人。彼らは、不安発の選択・行動の世界から離れ、そうではないありのままの自分を普通に、理由の要らない安心の時を生きる。そこでは、不安がそのままでいることはない。

その姿がどうにも違和感でしかない、自分が不安でいることも分からない、不安をあたり前とする(不安そのものの)人。彼らは、何をするにしても、その無自覚の不安を燃料に判断し、生み出される不安発の現実を通して、更なる不安な状況を引き寄せる。そこでは、不安の原因だけが生きる力となる。

中庸という、生きる基本のその元となる原因のところから観る時、生きる自由と人権が尊重される世でいつも不安の中に居るという人は、それだけ、狡賢さを備えているということになる。自らの中の人一倍狡猾で悪質なその感情(不安)が武器にはなりにくい時代環境の中で、不安になることで、人の気を惹き、不安からなる辛さや苦しさを無意識に演出しつつ、人の人生に負荷をかける。人は、彼(彼女)の思い通りになる。

人間経験での不安の大元となる、命の危険や力による人生への支配・抑圧が無いこの現代、不安で居続けられることは、それ自体が欺瞞(嘘つき)と捉えて良い。そんな人は、時代環境が違えば、平気で人の命を奪える程の悪辣な(強靭な)不安と怯えを内に潜める。その本質が、そのような状態を支える。

不安の理由が、意思表示することはない。不安の材料が、勝手に増えることもない。人間は、そこに在る不安の原因を浄化する経験を普通とする中で、人間らしく生きることを覚える。不安がいつまでも不安であることの原因は、その人間らしさへの拒否である。

3/16

2.この世の人間の歴史的内実は、地上の次元に初めて入り込んだ頃の原初的蛇系の存在が、各地域に数十、数百単位で居て、その後、彼らの意思に従い増え続けた同質の人間が、操られる(支配される)側となって生き、そして後に、すでに病み世と化したその中で異常を普通とする本質を備える人間が次々と連鎖的に誕生し、増大したものである。

その昔、太陽の心を普通に生きていた人たちは、いつの時代も、彼らの強烈な違和感の対象となり、徹底してその心の望みを潰され、連繋の意思を外される。それでも、ここに繋がった、その切なる想い。信じられない程ほんの僅かしか居ないその心を持つ人たちは、現代では、これまでになくその自由を抑え込まれる。

大多数の心を持たない存在たちは、地球に在ってはならない自分たちのその負の(非生命的な)本質を知る太陽を遠ざけるために、凄腕の(蛇の脳での経験を持つ)存在を中心に、好きなように地球らしくない天候を生み出す。それに従う同質の存在たちは、食を主に人の生活全般を滞らせ、太陽の恵みが地上で活かされない状況を安定させる。それがより積極的に具現化された、この数千年。地球の歴史上、その間は、永い非人間の時代(蛇の世)となる。

3/15

「環境や食品、健康関連の責任ある立場の人たちは、なぜLED照明の悪影響に無責任でいられるのでしょう?」「責任を感じてしまったら、責任ある立場ではいられなくなるからでしょう。それに、彼らに責任感があれば、初めからLED化は無かったですからね」「なるほど…」

3/15

2018

1.心のままに生きる人は、あたり前に自分に正直でいて、約束も自分とする。それは、気づきを不要とする、本来の生き方。そこに、停滞の原因は無い。

そのことが違和感となる人は、気づきを趣味とし、心のままに生きようとするその姿勢(行為)が好きである。それは、心の世界の重石となる、個のままの思考。そこに、心ある原因は無い。

自分にではなく、他者に対して正直でいようとする人は、自分が正直であると人に思われたい歪な感情で、偽りの人生を生きる。そこに在るのは、心の嘘。そうであることを全く自覚できない程、その嘘は安定する。

自分に正直でいることが難しい人は、どれだけ言い訳をしても、その生き方全てが嘘である。それだけ恐ろしい本性を秘めていることを意味するそれは、暴力的な未熟さの形と言える。

自分に正直でいると、自分の本当の姿を自ずと知り得ることになる。自己探求も覚醒も要らないそれは、人間であれば誰もが普通とすべき、生の在り様。正直さの始まりが、外であるはずがない。

 

 

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