無有日記

 

6/16

・大人になった子供心は、そのままには出来ないことを遊び心で変えていく。子供心は、責任ある大人の中で真剣さと余裕を育み続ける。

・人が話すリズムと抑揚の雰囲気に体が動き、それを楽しんで、面白がって、怒られて、逃げた。暗い話は可笑しくて反応も強かった。

・降り積もるようにして増える負荷は、子供心への怖れの現れ。頭を使わず、何も考えず、それでも進み行ける原因だけになる。

・興味のあることが終わるのは、それに飽きたのではなく、いくつもの経験の中の一つとしてその役を終えた興味がそこに在るから。どんなことでも、興味を抱いたら夢中になる。その幅と量は、子供時代ならではの貴い宝物。

・言葉や表情から始まる見た目づくりは分かりやすく、直ぐにその嘘をくすぐりたくなる。

・子供向けに定期的に上映される映画。観る度に泣く子が居た。それを見て笑う自分が居た。観る振りをしていると、重〜い空気が漂って来るのがよく分かり出す。

6/15

・嬉しい気持ちは、それを嬉しい人の喜びとなり、その喜びに笑顔になる人の優しさになる。それだけでいい。言葉はじゃまになるだけ。

・何を覚えるかではなく、どこを通れば良いか…。子供の時のその感覚的判断は、一生の財産である。そこには、生命としての思考(知恵)だけがある。

・体の中で太陽の光の音(意思)が動き出した時から、生きるペースを太陽に預けた。生きるテーマは、友との合流と協力、原因の変化と連繋。そのための人生は、彼(太陽)が案内する。

・大切なことを考えずに話していたら、みんなが何も言えなくなってしまった。それからは大切な時には呼ばれなくなった。

・子供は、嫌なことを忘れるのではなく、そこから離れる力を持つ。いつまでも忘れられないことが続いても、もうそれが続くことが無くなれば、そこから離れる。子供なりの原因の力。

・学んでも、人の悲しみや辛い現実がそれで変わることは無いことを知ってからは、学んだ振りで過ごす。振りだから、いつまでも通用しなかった。でも、人の悲しみや辛さのその元を知るには最短距離だった。

・受け取ったものは、みんなのための自分のものとする。そして共に変化に乗り、その原因をさらりと次へと繋ぐ。みんなそうして、この時代に子供を経験している。

・放っては置けない理由が動き出すと、遊び心が全開になる。意味もなくしゃべり、あてもなく歩き回り、その理由が小さくなるまで遊び呆ける。

・見た目を大事にする人から嫌われるのは得意だった。そんな人から伝わる印象を壊すのを面白がった。

・言葉や文字を使う時のその手前の世界を好きなように膨らませられることを覚えたら、そのことを嬉しい言葉(文字)だけが一緒に歩き、他は姿を見せなくなる。言葉にならない世界に付き合わされる言葉はいつも大変そう。

・話す気もなく黙っている時間が何気に増えただけで、それまでとのギャップが大きい分とても真面目に思われた。なのだが、ギャップの無い真面目な子との間に冷たい風が吹く。直ぐに止めた。

・大事なことは、自分の中の大事にしたいことが人との間で育まれながら大事なことになる。本からはそれは学べない。

6/15

3.自然の中での生命たちの営みは、太陽の光の音で溢れている。生きることがその音であり、生を終える時も、生まれ出る時も、その音に抱かれる。どこに居ても、太陽からのその音を響かせて繋ぎ合い、どんな時も、その光の音の中に居る。太陽が支え、守り続けるこの地上での健康と調和の原因は、動植物たちの日常そのものである。

自然界が嬉しい音楽があるとすれば、それは太陽の光の音と自ら(の感性)を重ねる人の作る曲であり、歌う(奏でる)歌である。そして、その実、それが唯一この時代に人間に許された音楽であり、それ以外は、音楽という形を持った不自然・不調和な原因の力と考える。自然界は、それを教え、共に生きる生命たちは、それを望む。

「太陽の音楽」は、太陽の光の音が人間を通して形になった、地球自然界の希望であり、それと自然に融合し得る人たちの心を強く元気にする、変化し続ける生命の原因の光である。人は、いつのまにか、「太陽の音楽」との縁を通して、そのことを普通とする。

6/15

・夢の中の自分が、作られる夢をかき分けて大切なことを夢に残す役を喜んで担う。子供の時の感じるままの世界の成長は、夢の中の自分を活躍させる。

・泣いている子に声をかけなかったら、冷たい人と言われた。その子のために、みんなの時間が止まっている。

・子供は、言葉ばかりが大事にされる言葉だけの世界を知らない。だから本を読んでもなかなか言葉(文字)が入らない。人は、子供時代にすでにどれだけ本を読んでも経験できないことを体験的に学んでいる。

6/14

LED照明を見た時、そこに在るものを言葉(文章)にするのと、その影響を写真に収めて動き出すタイミングを直ぐにキャッチ出来たのは、子供心が動植物たちの涙を見たから。子供心を育んでくれた彼らの悲しみを放って置くことはしない。

・勉強と関係の無い話をしてくれる時間が楽しくて、その後はしっかりと勉強に集中できた。のはみんなで、話してくれた世界から出られなくなった。

・子供にとって嬉しい大人は、逆らいがいのある大人。叱られても何も残らないから、つい言いたいことを言って気持ち良く叱られる。そんな大人を通して、子供は希望を捨てずに生きていく。

6/14

2.無自覚に心身を病み、不自然に感性を鈍化させた人がやたら海や山で音楽を聴こうとするように、音楽は、人の歪な普通に巧く入り込み、しつこくそれを維持させようとする。それは脳を忙しくさせて、自然を遠ざけ、感覚を思考型(人間優先)のそれにして、生命たちに緊張を強いる。人間が嬉しい音楽の殆どは、自然界の異物であり、時の違和感である。

心は、歌(曲)に乗るその背景となる原因の性質に反応する。しかし頭はそれを拒み、個の経験にフィットする心地良いメロディ(リズム)や歌詞の世界に浸るという、思考の満足を選ぶ。心切ない経験をした人の多くが、そのことの原因を無視し、結果からの望みを強くさせて、形ある優しさに癒される。心を取り戻し、心強く生きようとする本来を嫌がる人ほど、心無い原因の心の歌に惹かれる。

自然は、心のままの柔らかな感性を嬉しい。そんな人は、鳥たちのさえずりや鳴き声に安心を覚え、風にそよぐ草木の音に平和な想いを抱く。そこに在る、優しさの原因そのものの音。そんな風景に、音楽は遠い。自然の中の、自然な生命たちが作る音は、生命そのものの音楽である。

6/13

・朝学校の門のところまで付いて来る犬の寝床は、ひろ〜い縁の下。ある時、付いて来ない日が数日続き、その後しばらくして彼は縁の下から姿を消した。最後の場所を見つけに行っていたことを後で知る。

・お礼を言いなさいと言われても、言えば良いというものでもないし…。とりあえず言うけど、なんかヘン。

・元気で楽しい気持ちに付いて行く体は、いつまでもそうでありたい姿を子供心に記憶させる。その記憶が力を取り戻す太陽の音楽。快活と楽脳がそうではなかった時の経験を切り離す。

6/13

1.太陽の光の音は、地球自然界に生きる生命たちの、躍動する命の音。地球に生かされ、地球を生かす人間の、自然な地球感覚の音。そして、全ての生命たちの姿を守り続ける太陽の、永遠の変化と生命力の音。

そこに在るから、それは普通。その普通の中でどこまでも伝わり、流れるから、それは自然。そこに居れば、初めからどこにも無かった不安は消え、緊張も隔たりも経験の外側となる。人の不安や緊張が姿を消すことに不安になる存在を除いては…。

太陽の光の音は、一切の理由を不要とする喜びの、その原因の世界で響く。どこにも向かわず、何も求めず、ただ平和と健康の原因でい続けるその姿に、そっと寄り添う。その音は、人間らしく人間を生きる人の、その普通の要素。そうではなかった(そうにはなれなかった)時の経験の記憶を癒し、そうであるようやさしく誘う。

これまでの時が不自然・不調和なものであっても、ここでその音が心の芯に伝われば、それらは無いと同じ。これまでの時が自然で調和あるものであっても、この音との縁を避ける自分がいれば、つまりそういうことである。太陽の光の音は、それぞれの時の色を変えていく。

6/12

・止まらないように走り続け、駆け登って転がって、回って飛び上がって遊んでいたら、じっとしてても中心が回転するようになる。いつのまにか止まらなくなる。

・伝わる悲しみの奥に在るものを感じるそのことで、ただ一緒に居てあげることの大切さを経験する。訳も無く楽しい時間で悲しみをぶっ飛ばせ!

・感じるものや分かることが違えば、夢の質(次元)も皆が違う。見た夢で隠された見えない夢の世界はその人だけのもの。そこでも普通に生きていることを覚える。

6/12

8.この「太陽の音楽」を通して経験することが、終わりの無い(見えない)厳しさと辛さである人。そうであるような経験を経て、安心と健康を普通としていく人。それはそのまま、その人の生の本質であり、自然界の中での自分の居場所(次元)である。それは、思考では決して処理し得ない原因の姿。その体験的知識(理解)を以て、改めて人生を見つめ、(原因の)嘘が許されない生き直しと、嘘など考えられない再スタートを切る。音(音楽)の原因の浄化による変化の可能性は無限であるから。

動きの無い(動きを止める)音の力によって、非情にも人間本来の音(音楽)が消され、そのまま非人間的な歴史を連ねて来ているこの国の姿。そこに在る、凝り固められた異様な音の記憶(の原因)は、自然界の生命たちも応援する太陽の光の音の送り手(受け手)によって、確実に砕かれ、新たな変化に乗せられていく。そして初めて引き寄せられる、争いや病気の原因を知らない、普通の人間社会。「太陽の音楽」は、太陽の光の音の通り道となって、ずっと先の未来にまでそれを響かせる。ふと気づけば、見えるもの、感じるものが、自らの姿である太陽の心の、水と空気になる。

6/11

・怖がらせようとする人が可笑しく見えてくると、普通にしているのに中身がすご〜く恐い人が近づき出す。その始まりが早かったから、形の無い世界をよく学べた。

・あることをしようと思っていたのに、他のことがふとしたくなり、あるところへ行こうとしていたのに、別のところへ行きたくなる。まとまりが無いようでもそれで上手く行き、人や物がキレイにそれに付き合う。予定通り行かないことが、充実感を連れて来る。

・読書感想文はいつも本を読まずに書いた。「主人公の純粋さと、どこまでも真剣に生きようとするその姿勢に心を打たれた。自分もそうでありたい」みたいなことを書いて提出すると、マルだった。見つかっていたと思う。

6/11

7.呼び醒まされるようにして動き出す、太陽からの音の世界。生命を生きる人間経験のその必要とすべく全てのものがそこには在り、人の心の芯も、そこに居て、それと重なる。どんな言葉を以てしても表すことは出来ず、どれ程の経験を積んだとしてもその域には無い、太陽の意思そのものの音。それが普通である人の何気ない経験の中から、生命世界の再生のような時間が流れ出す。

そのための条件は全て揃い、ここに繋がり得たその原因も、強さを増す。あらゆることが覆されるがごとく、物事の(原因の)その真を知る生命の意思は、躍動し、事を変える。心身は、生まれ変わるような時を馴染ませていく。

その普通を生きる生命(人間)たちは、かつて、不穏な力でその自由を押さえられ、執拗に潰されて(脳を操られて)、何度も「歴史の芯」の現実に関わりを持たされる。その「歴史の芯」は、彼らがこの「太陽の音楽」へと辿り着けるよう、そのための力を付ける段として在る。それは、太陽にずっと守られていたことを意味し、どんなことがあっても今ここに居ることでしか為し得ないこの時のために、その全ての支え役をそれ(歴史の芯)は担う。そこでの厳しい人間時間を受容し得たことで、内なる生命の意思は、太陽の光の音を心に聴かせる。この時のために、これまでがある。

6/10

・行く手を阻む力は可笑しなくらい強力で、ある時、どうにも走る力が出なくなる。記憶に残さない走りを覚える。

・頭に当たったのは、バットに鉄棒に素手にアスファルト。何かの拍子に人の頭とぶつかった時は、決まって相手が倒れ、大変なことになった。「僕も痛いんだけど…」とひとり言。

・言葉からなる良し悪しや正否の判断が一切通用しない、子供の中の正直さ。昔話の多くは、子供にとって冗談にもならないつまらないものになる。

6/10

6.その太陽の光の音が、この「太陽の音楽」から流れ出す。その質は永遠の普通のそれだが、これまでの(人間が経験しなくてもいい)負の蓄積と、非生命的な音(音楽)の染み込みがかなりであるゆえ、当然その働きかけの次元は、以前の時とは大きく違う。その反動も…。

それへの抵抗の原因は結集し、拒否反応は、思考に力を注ぐ。本性(本体)は本気で暴れ、力ある嘘に隠れ、真を潰す。永いこと太陽の光の音の流れる場所を遮ってきた経験は、これ以上無い厳しい時を迎える。その時を、自然界も、太陽も待っていた。

そして、結集した抵抗の原因は次第に瓦解し、拒否反応の思考の力は、向かう場所を見失う。本体は、この時代ならではの必要性の前で焦り出し、怯えを顕にし、居場所を無くす。いつしか、真に癒され、嘘の素顔を忘れる。

太陽の光の音は、その仕事を喜んで行う。そのための時をこれまで経てきているから、さらりと遊び感覚で、この無有日記の動きに合わせつつ時を本来へと変えていく。どんなところにも届き、どこまでも、どんな風にでも流れ行くそれは、始まったら、(「心の遺伝子」の頃のような)生命本来のその原因の風景へと全てをいざなう。その時が、今ここに在る。

6/09

・耳に入り、気になったから聞いただけ。「子供は黙ってなさい」はひどく傷つく。

・食事はいつ怒られてもおかしくない中で食べた。し〜んとしていると音を立てたくなる。

・子供時代に心が子供そのものを生きることで手にする光の音(原因)がある。その音を持たない人にはよく分からないそこから生まれる生きた言葉は、人に敬遠されながらも、時代を本来へと変え得る力を持つ。

6/09

5.太陽の光の音は、人の心の芯を通り(「歴史の芯35」)、心と繋がる脳の、普段何かのための仕事をすることのないある部分を刺激するようにして、音とも言えない音となって伝わり出す。それは、自然界の意思との融合体験の時とも言え、いつ、どこに居ても、自動的に始まり、そして終わるともなくふと気にも留めなくなり、気づけばいつのまにかまたそうなっていることを意識し得る自分が居る。その意味も理由も何も分からなくてもいられる心の余裕にいつも支えられ、守られている。

それは、音という言葉で形容され得る世界には存在しない、細胞の喜びの声であり、時空が安心を覚える時の波長のようである。余りに普通で、何の違和感もなくそうであるから、その人にしか感じ得ず(その人にもそうとはよく分からず)、そうである人同士で、分かり合うという次元を遥か超えたところでの融合を共にする。それは、生命世界の自然治癒に参加する、その原因の音のようでもある。

普通に経験することから、そうであることも分からずに始まるそれは、普通の質が思考型のそれである人のその不自然な世界には近寄ることはない。音であって、音ではない音。それは、地球のリズムを支える太陽の光の、その多次元的な本質(中身)と言える。人間は、一生命としての人間本来を持ち合わせていれば、その音との融合を普通とする。太陽の光の音は、自らが生み出す空間(時空)への、その自浄力の原因とも言える。

6/09

・話し上手に聞き上手。その実な〜んにも分かっていない。そんな大人に出会すと、子供は、子供なりにひどく打ちひしがれる。

・その時にならないと分からないから、計画は難しい。その時になってもよく分からないから、将来のことなど考えられない。でも、みんなの未来はそれを嬉しい。

・本当か嘘かの世界にある病気。嘘でも本当でもいい世界にある健康。病気は、嘘じゃない嘘でその力を無くす。子供心はそれを普通とする。

6/08

・作った人の気持ちまで食べることになる食事の時間。残さず食べなさいと言う前にすることが…。

・映画でもTV番組でも、背景ばかり見てた。いつのまにか本からも作者の居る風景を見るようになる。

・落ち着きの無い子が落ち着いてしまう理由をいくらでも持っている。落ち着きの無い子は皆落ち着いてはいられない自分を表現しているだけ。

6/08

4.この地上の世界には在ってはならない非人間性からなる感情によって尽く押し潰されてしまった、心ある人たちの音の風景。そして、そこから始まった嘘の音楽。その時に流れる場所を無くした太陽の光の音の、その切ない現実を考えれば、ここに甦ったその音を通して、人間社会の原因は深くから再スタートを切るであろうことも理解できる。太陽の光の音とムリなく自然に融合する人と、そうではない人。前者は、ずっと自然界が応援していた人。後者は、自然界に嫌われ続けている人である。

時代には意思があり、どの時も、自然界の望みを人間時間に通そうとする。人間の身勝手な思惑も、思考による期待・解釈もそこには通用せず、動きの無いまま過去に居続ける価値観も、それは受け付けない。

時代が、怯えと恐怖心からなる力の行使で不要にも刻まれる時、そこでの音楽は、人の脳を不自由にさせるためのものとして、力で運ばれ、伝わっていく。それは、人間らしさを遠ざけ、動物たちの生きる自由を奪うもの。その負の原因からなる音感(感性)は、この現代にまで存続し、変化とは無縁の音楽のその下支えの役を担う。

6/07

・夢からなかなか出られなくなることが続いてからは、恐いものが無くなった。作り物の恐さが逃げた。

・2人の会話、3人での散策、4人で行う遊び、5人みんなで走り回る一緒の時間。子供は仲間外れを知らない。

・いいかげんにしろ!と言われると、いつもどれくらいのかげんなのか考えた。

6/07

3.太陽の光の音というのは、生命の意思のその本質となるものに自然と響き渡る、生命源からなる音である。そうである人にはどこまでも普通であって、そうではない人には限り無く意味不明なそれは、それと触れ続け得た何人もの繋ぎ手によって生き存え、音楽という概念も無かった時代の音の真実をここに運ぶ。

太陽に守られる地球自然界と、そこで生きる生命たちの、その喜びの音。その自然界の一部となる生を生きる人間の記憶(心の遺伝子)の中で、共に人間本来を支え続けた、責任の音。「太陽の音楽」で安心してその時を迎えたこの今は、生命としての人間の、その(音の)意思表現を本来にする。その誘い水の役を担ったかの音楽の存在に、自然界は感謝する。

不思議でも何でもない太陽の光の音との出会いは、生命の意思をそのまま表現しようとする人の、希望の時。そうである事実も、さらりと普通だから意味がある。そして、そのことに理由は要らない。太陽の光の音は、元々の、自身の音であるから。

6/06

・帰る家とご飯があれば何も要らない子供の生活。動物や植物と仲良くなれるわけだ…。

・カリカリしている人が居ると、す〜っと近づいてしまう。怒った大きな声を耳にすると、いつのまにかその近くに居る。子供にとって無くてもいいことは、有ってはならないこと。代わりに怒られてあげたくなる。

・時間が過ぎるのも忘れてしまう子供の遊びに、忘れないで!と時間が後から付いていく。子供にとっての時間は、ふと振り返った時にそこに在るもの。

6/06

2.その音を生み出す物(石、貝殻、木etc.を、人々はとても大切にする。ところが、そこからの音は、人としての本来の普通をどこまでも力強くするゆえ、それを良しとしないある(非人間性を普通とする)存在たちは、怯えと怖れから、その全てを破壊し、無きものにする。そして、それまでには無かった人間の感情からなる不自然な音を、人の脳に浸透させ、そのことによる心の不自由さを固めていく。

人の世がそうであり、その歪な音の形がそこで続けられていても、自然界に生きる人間の中には元々それは無かったゆえ、そのままであることはない。かつて自然界との融合を普通に、自然な音を楽しんでいた人たちのその経験の記憶の中には、石や貝殻を通して育んだ地球感覚(の音感)が在る。それが消えることはない。

その時が来るまでそのままでいるしかなかった永い時を経て、遥か昔の音の風景のその源泉となるものが、ここに届けられる(繋がり得る時を迎える)。それは、太陽の光の音。心が育む、心ある原因の風景にとって、これ程の喜びは無い。

6/05

・子供の頃の風景は、そのどれもが太陽の音楽のよう。太陽と一緒に、時が経つのも忘れてみんなを歌う。光と風と水と青空が、その伴奏をする。

・腕時計はペンで書いたレシーバー付きの高性能。アンテナが中指の先まで伸びていた。至急という文字をこの時覚える。

・直感やひらめきの言葉も知らなかった子供の頃。それらの言葉は今もよく分からない。分からないから、今もそのままが形になる。

6/05

1.人が音を作り出す際、それが自然界の違和感となることは考えられなかった、遥か昔。人間は、そのことを自然と感じ得、動植物たちもそれを知る。山に居ても、水辺に居ても、共に生きる生命たちは、人間の作り出す音の伝わりに喜びを感じ、その空間を楽しみ、心を躍らせる。人は、自然界の一部である生を普通とし、ありのままに生命を生きる。自然界も、人間からの音を通してそのことを認め、その在り様を支え、協力する。

音を作り出す道具(楽器)として植物(木)を活用していたその時よりもずっと前、人は、音色を生み出す石や貝殻を手にし(見つけ)、様々に音を重ね、連ねて、その独特の感覚経験を楽しむ。何も無くても必要なもの全てがある暮らしの中、自然の中に在る物を通しての自然な音は、人の感性をより生命本来のそれにし、調和と安心の時を安定させる。そのこと以外を知らず、そうであることを何より嬉しい、人間と自然界。後の世で笛の音がそれに加わっても、その全ては、そのままで時を癒す。

6/04

・表向きは普通にしてても中身がヘンな人のその嘘に反応してしまう子供に大人が付ける、ヘンな子。ヘンな大人はヘンな子が恐い。

・変わって行くことの大切さを守るために、始まりと終わりを繰り返す。ずっと続いて行くものがそこにはあるから、欲しいものが変わり、要らないものも変わる。それは、子供が皆大切にしていること。

・何か文句あるのか!と言われたって、文句を言ってるのは自分の方じゃん…。

6/04

8.病むことを知らない人たちが、自然と共に心穏やかに暮らしていた遥か昔のそこでの音の風景をこの現代に招こうとする時、時代がそうではない不穏な環境へと大きく変わり出した2千年程前の、そこでのある音の姿を通る必要がある。「太陽の音楽」の誕生で、その音が息づき出す。

その頃の人々の生活空間では、痛みや苦しみを伴う状況が生み出され、それまでには無かった(辛がる人たちを通しての)自然界の哀しみと、重苦しく動きの無い世の空気感が広がり出す。人が否応無く経験させられる不自然な感情は、時の流れを滞らせ、人間の世界には要らないはずの心身の不調と衝突を生み出していく。本来無くてもいいその経験は、自然界から、自然な音を奪う。

人は、木(竹)で作った笛で、自然界と自然に融合し得る音を奏で、その音で遊び、動植物たちと生きる。どんなに厳しく辛い時を経験する(強いられる)ことがあっても、ずっと昔からそうであったから、共に居ても、遠く離れていても音を奏で、自然と一緒に安心を生きる。阻止されても、壊されても、誰かが音を奏で、風にそれを乗せて、太陽の優しさと月の温もりを誘う。音は風、水、そして光。みんなで響かせ、分かち合い、繋いでいく。

自然界と一体化したその笛の音は、動物たちの骨や皮を使って音を出し始める人間たちの、その恐ろしく醜い感情によって押し潰され、笛の音色も、不自然で異様なものへと変えられてしまうことになる。それでも決してひるまず、遊び心一杯に世に逆らい、それまでの音を奏で続けた人たち。ただそこに在る不自然な様を自然なものに戻そうと、自然界が喜ぶ笛の音で、人の心を繋ぎ、その心の芯を力強くさせる。それは、人間による太陽の音楽の、その原点の風景である。その音がここに繋がる。

永い間、人の心に届くことの無かったその音は、その時代の経験の記憶(の原因)を備える現代の表現者によって、外へと流れ出す。ただ、それを自然と受け入れる人と、そうではない人との(脳の)反応は大きく違う。いずれにせよ、それは、自然界の喜び、生命たちの嬉しいひと時。その奇跡という名の普通の時を、共に楽しみ、そのままのその原因を、未来に繋ぐ。「太陽の音楽」に、時代は癒され、ここと繋がるこれまでの時代も、これからの時代も、ほほ笑み出す。音楽が心の風になる。

6/02

7.何気ない発想(思考)や価値観の下地に染み込んでいる音楽(の影響力)の、その原因に潜む、様々な感情や本心の性質。その世界発の限り無い病みの蓄積を浄化するという、奇跡という名の普通体験を、「太陽の音楽」は創り出す。そのための通り道(案内役)の原因でい続けることを選択した、彼(彼女)の生命の意思は、その新たな時を喜び、安堵する。そして、本人は歌い続ける。その歌に乗った彼の原因の全てが、人間経験の次元を本来のそれへと変え得る機会を創る。

原因のままの本来の生きた音楽は、癒されたい、励まされたい(慰められたい)という結果を望む人にではなく、強い自分の姿を見失ってしまっている人の、その新たな原因に届き、変化と責任を力強くする。自然界の音のリズムとの融合を普通とするその音楽は、流れない感情や動きの無い経験(記憶)のかたまりを、深くから刺激して揺さ振り、浮き上がらせ、その人が、自らそれを浄化し得る時を生み出す。土と水から離れたところで存在し得た、変化とは無縁の結果の(嘘の)音楽は、居場所を無くす。そして、音楽は、生命としての原因のそれを普通とする。

「太陽の音楽」を通して、生きる原因もより健康的に動き出す、新たな経験の創造。いつのまにか人は、音楽で平和や健康を扱う次元には居ず、音楽が有っても無くても、あたり前に平和と健康の原因を生きる時を安定させる。そこへと行く(変化に乗る)ための真の音楽と、そこからの普通の音楽。この時代に、それは、自然と具現化されていく。

6/02

・気持ちがそのまま言葉になる子供は、言葉で気持ちを伝えるのが苦手。その苦手感が、大人になっても自分に正直でいられる自分を支えている。

・新しい教科書を手にすると、「よし、やるぞ〜!」とやる気がみなぎった。そう思えただけだった。

・見なくても済むものを見えなくさせ、見るべきものをはっきりと見せる太陽の光は、そのために頭を使わせない。子供の時はそのままそのもの。太陽の光と一緒の時を好きなだけ過ごす。

6/01

6.「人間(5)」の2節の文章を書き終えた時、それが無ければ存在することは無かったであろうこの節の内容が、一気にここに引き寄せられる。それは、「太陽の音楽」で合流し得た、どこにも無い音(原因)の運び手としての生を生きる、かの男性(女性)の、その音楽の全てを力無いものにしようとした存在の姿(意思)。そのことさえも、望むべく次なる原因として浄化され、活かされる時を迎え、彼の想いは、新たな歌の誕生(創作)を以て、それに応える。太陽の音楽は、広がる力を見せる。

偶然を装った必然の出会い(意図)から、彼が何度か曲をつけることになった、その存在の生み出した詩は、出来上がった後、多くの人に受け入れられ、親しまれることになる。彼の内なる生命の意思は、そこに潜む非生命的な原因を感得していたが、どうにも対応し難いその強大な力に体験的理解の次元が間に合わず(及ばず)、やむ無く、彼は、人間的にそのことを歓迎する動きで、心身の消耗を可能な限り抑える。それでも、歌うごとに心が重くなり、音楽への意欲も削がれる、その存在の詩。次第に身体の痛みと動きにくさを生じさせる程になる、そこに在る形無き原因の意思は、別の新たな曲が広く世に出る機会を巧く生み出し、その作曲に関わった(関わらせた)彼に、重く、粘着性のある負荷をかけつつ、その音楽を支配する。

そしてその後、彼の楽曲の中のある要素に、その妙な詩の作風を絡めるようにして作詞・作曲するある人との、その形無き原因の(不自然な)関わりを機に、彼は、湧き上がる感覚に従い、それまでの音楽の世界での自分から自由になる。そこからは、唯一歌うことで、その作詞家の呪詛絡みの威力にどうにか押し潰されずに持ちこたえられる自分を高め、彼独自の音感がいざなう、人の記憶の中の音楽を離れた曲をひたすら作る。言葉の概念を外し、動き回る自由な力を音に与え、地球自然界の中にその全てが在る、生命のリズムと終わりの無い(永遠と繋がる)音の連なりのその原因を、そのまま自らに通し、感じるままに、それを形(音楽)にする。

6/01

2018

・反抗でも反発でもなくただ思っていることを言葉にし、感じるままに行動する。後が違う。

・子供の世界は、要るものを探すのが難しいぐらい何も要らない。それでいて何でもあり、無いものは何も無い。それは平和の基本形。ただそれだけ。

・イライラすると言われ、謝った。ところが、その謝り方にイライラすると言われた。じゃあさっきのは無しにしますと言ったら、びっくりするぐらい怒られた。

 

5/31

5.太陽の音楽は、太陽が嬉しい音楽。それは、太陽が見守る地球自然界の、安心の音色。そして、その安心の時を支えてくれる人間の、自然体の音楽。

太陽の音楽は、自然界に負荷をかけず、もしそうである現実がそこにあれば、それを浄化し得る原因でい続ける、生命そのものの音楽のこと。その送り手は、自らのその姿を普通に、曲作りを楽しみ、自分に正直でいるありのままの人生(感覚)を、そのまま形にする。向かわず、求めず、ただ生きることを生き、音楽にそれを重ねる。

そこで息づく(形を生み出す)形無き原因に、地球は喜び、太陽もそれを嬉しい。それは、自然界に生きる生命たちの心と融合し、共に支え合う心ある風景の中に溶ける。

自然界が安心する音楽を、細胞は喜び、それにより、平和も健康も普通になる。悲しみや辛さの原因がそこに在ってはならず、それらを無くし、二度とそうならない経験のために、音楽は在る。平和を求めず、平和を生きること、励ましを必要とせず、自分らしさをそのまま生きること、そして、愛ある風景への憧れや希望を持たず、全てを受容し、自らがそうであることを実践してもらうために、音楽は在る。

その時、人は、どんな自分が曲を作り、どんな自分が歌を歌うかという、音楽の手前のその原因の変化・成長無しには音楽は存在し得ないことを知る。歌い手も、聴き手も、その基本形を大切に、音楽を、自然界の素朴な望みそのものとする。そして、音楽が、音楽になる。それを喜ぶ地球自然界の姿に、太陽も笑顔で音楽を奏でる。

5/31

・子供にとって、無くなることは、大事に出来なくなること。無くなる時が、その時であるということ。残そうとすることからではない残り方が子供には普通だから、ずっとあるはずのものが姿を消しても、寂しさを残さない。

・気づいた時にはすでに遅く、嫌〜な目でにらまれる。その理由は、先にその人をにらんだから。理由も無く目で追ってしまう人に出会すと、どういうわけか止まらなくなる。

・訳も分からずあたり前にそうであったために忘れていた子供の頃のその訳が、やっとここで姿を現す。あの頃の生き方が、人の動きにくさの理由を、ここで砕く。

5/28

4.この「太陽の音楽」(関わりのEW)を通して、人がいつのまにか普通としていることになる経験は、細胞が負担を覚える音からは自然と離れていられること。要らない音の蓄積による負の影響が無くなっていくので、自ずと心身が辛くなる音楽への違和感もはっきりとし、その影響を遮る感覚的姿勢が普通となる。感性も、普通本来のそれとなり、不自然な音楽のその歪な原因の風景(意図)からも自由になる。

音は、空間を通り、人の耳へと届くものだが、その時に、そこに潜む(秘められた)様々な性質の原因も、感じる感じないの域を超えて、多次元的に外へと流れ、細胞や物質、あらゆるところへ届く。自然界の生命たちは、音に敏感で、その送り手(生み手)の形無き原因の影響に細胞レベルで反応し、それを以て、本能による然るべき生命活動へと、自らを展開させる。その世界から人間の音楽を観た時、自然体でいる人間の、その自然感覚の脳による声と音が、自然界の安心のそれであることが分かる。

人間がその自然界が辛くなる音を作り(生み)出すことはあってはならないのだが、個人の思惑(感情)とお金(商売)をそれに重ね合わせることを普通としてしまった人間たちは、いつのまにか、自然界に生かされ、そして自然界を生かすという人間の基本を人生から切り離し、それが許される(正当化される)不穏な世のその負の土台を、無くてもいい音楽で固めてしまう。それは、人間の退化の象徴とも言える。

歌い手も作り手も、そこに在る本心(本性)の質は問われずに(放って置かれたまま)、ただ上手ければ(売れれば)それで良しとされる、未熟な音楽観。本当はそうでないから、そうであるように(そうであろうと)情感たっぷりに、中身の無い優しさや愛情(理解や励まし)の歌を歌える歌手(作れる作曲家)の、その原因の嘘。涙する歌も、感動する曲も、嘘を本当として生きる(力のある)人の嗜好品であり、自作自演の嘘芝居である。それはそのまま、世の不自然さと不健全さが安定していることを意味する。

人間の脳を慢性的に不自然にさせる音楽は、当然、自然界全体に悪影響を及ぼす原因となり、動植物たちは、辛く悲しい時を生きることになる。人間であれば、そのことを知り、人間本来を元気にする。「太陽の音楽」は、人間が作る空間を、自然界が嬉しいそれへと変えていく。

人間が、人間らしく生きる(生きようとする)時、その元となる脳の活動が健全であれば、自然界も、未来地球も嬉しい。ここに「太陽の音楽」が在るということ。それは、そのことを普通に生きる自分を通して、自然界を安心させ、未来に喜んでもらうということ。音楽が、生命本来からなる音であり、声である、その原因を普通とする時、時代は、次の時代に繋がる、永遠の癒し色になる。

5/28

・へんじゃないのにへんな子と言われる友人をかばうために、自分がもっとへんになる任務があった。実に簡単だった。

・同じ絵、同じ写真なのに何度見ても飽きない本は、おもちゃ屋さんに居るかのようにその度に夢中になり、満足する。子供心の自由を包んでくれる。

・どうしてそうなのかも、どうすればいいのかも分からないから、動きにくいことも忘れて少しでも動き、その楽しみで、そのまま引っ張られてしまうであろう世界を経験せずに行く。原因という世界が勝手に広がり出す。

5/25

3.この地球で、淡々と生命でい続ける存在たちは、分からないままでいられる、全てを知る人間の感性を喜ぶ。自然界の生命たちも自由に融合し得る、その原因の確かさ。一生命としての人間のその自然体の姿に、彼らは安心して、自らの本分を生きる

分からないでいる(いられる)ことの強さを知る人は、分かることを変化に乗せる。求めることなくそうであるそのことは、どんなことも停滞させず、事の必要性を常に変化し続ける原因のそれとし、心ある風景の支え人となる。彼(彼女)が、そこでの何気ない想いを音楽という手段で形にする時、自然界は、人間の負の影響から自由になれる希望を手にする。

不健全さを普通とするその動きのない原因で不穏な風景を無意識に作り出す人間たちは、頭で分かること(形)に執着し、分かり得ない(形無き)ことに不安になる。でも、人間の世界も含め、自然界は、分からないこと(原因)から生み出され、分からないその原因で支えられている。その分からなさの質を高め得る存在に、そうではない人は、恐怖を覚える。

無有日記は、自然界と自然に融合する、その原因のままの音楽を、ここに招く。ただ、その責任は時代を担うものであるゆえ、形ではなく、その原因を流すことで、時を動かす機会とする。そして、大切な出会いを、ムリ無く経験してもらう。そのためのこれからの、それぞれの感覚が、太陽の音楽のメロディになる。

5/25

・かき氷とイカ焼きとラーメンとアイスキャンディをたくさん食べた夏休み前の日曜日。始まりは次の朝。どこにも行けずにそれだけで一日が終わる。

・飼い犬が家の前を通る見知らぬ女性に吠えた。ふだんはそんなことをしないのに、別の日もその同じ人に吠えた。そう、彼は知っている。思わず一緒に吠えた。

・顔を洗うことも、道具を揃えることも難しく感じ始めた6歳の頃、何か大きなことが始まった。頭に何も入らなくても、そのまま頭を使わずに先へと行く。

5/24

2.思考の忙しさは、それ自体が、人の世に在ってはならない、人間の危うさと考える。それは、心ある人たちが何より望む、理由の要らない(何の裏返しでもない)平和を遠ざけ、争いの絶えない不穏な社会環境を支える力になる。あれこれ頭を働かせ、思考を絶えず動かす時間は、人間本来の自然な在り様に尽く抵抗する意思がそこに在るということを知る。

思考は、悪知恵と相性が良い。本来、それは、心ある風景の(原因を支える)素朴な想いに付き合う脳の働きを言うが、その思考が想いよりも先に前面に出ると(思考が主導権を握ると)、心のごまかしが始まる。その気もなく心ある振りが普通となり、考えて分かることを以て考えても分かりにくいことを否定し、心を偽装する。頭では、心ある自分を信じて疑わず、嘘を本当に、心の世界とは無縁となる。

自然界の自然な姿を観れば普通に分かることだが、人間も含めた、この地上で生きる生命たちの世界での平和というのは、他を隔てる性質を含む人間の思考の働きとその原因を、決して寄せ付けない。そこでは、ただ、そのままありのままに生きる自分たちの原因が平和そのもののそれとして自然と維持されていれば良いわけで、それを本能的に知る動植物たちは、いつ、どこに居ても、自らの分を生き、自然界でのその自然な営みを支え合う。

普通であるはずの自然界との融合も、頭(行為)から始まる人間の思考は、それを、そうとは分からないよう(そうであると理解出来ずに)抑え込み、彼らが哀しむ風景を生み出す原因を作る。平和と健康をあたり前とする動植物たちは、思考を忙しくさせる(考えてばかりの)人の、その無責任な姿勢に、強い違和感(危機感)を覚える。

事あるごとに理由探しをする思考の特性は、そうである現実をそのまま受容することを頑なに避け、自らも関わる物事のその原因への責任を経験しないまま、人生をムダに生きる。その事実も、身勝手な思考を忙しくさせるために、彼(彼女)らは理解できない。その分からなさを認めることへの怯えから、本来無くてもいい依存心(ご利益心)を強め、責任転嫁も常とする。思考の強い人は、人としての変化を嫌い、他者の変化を止めるその負の原因で、人にそうとは分からせない巧みな思考を働かせつつ、非人間性を地で行く。

誰も平和の意味を知らず、平和そのものの風景を皆であたり前に支え合う世界では、頭で考え、どうにか処理しなきゃという現実のその原因からは縁遠いところで、本来の普通を生きる。考えなくても分かり合える大切なことを、共に育み、成長させ、その原因を自然界と融合させる。それは、自然界の望みそのもの。そうであろうとすることもなく自然体でいる人たちの、その柔らかな想いによって、動物も植物も、活き活きと生きる。思考という概念は、そこには無い。

そこに、思考を忙しくさせることを常とする(頭を使って考えることを習慣とする)人が加わった時、そこでの普通は壊れる。平和や健康のその原因でい続けることを怖れる思考は、平和を支える風の動きを止め、健康を育む水の生命力を奪う。気づけば、人の暮らしは、重苦しい負荷を帯び、それまでには無かった、頭(思考)を働かせるという時間を経験せざるを得なくなる。思考の忙しさは、破壊と停滞を難無く生み出す。それは、その気もなく(狡賢く)為される、生命世界への犯罪と言える。

「人間(4)」で、人間時間を思い通りに操ろうとする本体(本当の自分)の、その巧妙な意思表現に対処し得る自分を実践できたら、この「人間(5)」の文章で、思考の忙しさのその原因のかたまりを砕く。思考は、不健全さと争い事を支えるしつこい負の原因。自然界に生きる人間として、真剣に、覚悟して、思考を働かせない時間を安定させる。それ無しでは、いつまでも人間を生きられないでいることになる。

ある問題事や思考を刺激される出来事が縁ある風景で生じた時、そこで頭を忙しく、考えてばかりの時間を持てば、それは、心の嘘の上塗りになる。自分の変化しにくさに、「なぜ?どうして?」といった発想を持てば、その分、人を悲しませる(苦しませる)無意識の意思は強力になる。自らの、変化を嫌がる本心に向けた勝手ペースの「なぜ?」は、思考の中では、重量級の凶器。キレイ事の裏で他者の人生を奪おうとする意思の現れでもあるそれは、繰り返すことで、人の健康と平和な想いをズタズタにする。かつて恐ろしい程の非情振りを経験した時の、その原因(感情の記憶)を内に潜める人ほど、思考を働かせないようでいて、思考を本体(別次の自分)に操らせる。そのことを常識とし、思考の病みを浄化していく。

思考には、長年の癖のような姿勢(性質)が在り、思考を自由にさせ、経験からも自由でいる普通の人に対して、自らの思考(の繰り返しパターン)をしつこく、いつまでも付き合わせるというのがある。病的な悪趣味のようなそれは、本性の為せる技。辛い、厳しいという感情を利用して、人の人生に要らない負荷(重石)をかける。その凶悪で残忍な無意識の意思は、「人間」の文章で、力を失くさざるを得なくなる。

この時代だから扱えた、「人間」の文章。「歴史の芯」に在るような世界を二度と経験しない(させない)ためにも、この時代に、思考を外す。考えて変われる(変えられる)ように感じるのは、本当は何も変える気が無い本心(本性)が、それで良しとする思考の満足を手にしているから。思考を働かせ、頭を使って考えても、平和や健康の原因は動かない。

人間であれば、思考を忙しくさせるという異常なことを経験することは出来ない。平和そのものの原因(心)を生きれば、それにさりげなく付き合う思考が、自然と協力する。あたり前に健康の原因でいれば、そうである自分を支える思考が力を手にする。それ以外の思考は、全て無くてもいいもの。(自然界にとって危険極まりないLED照明が存在し続けることからも、それは分かる)心ある原因の質を変化・成長させようとはしない、思考型の人間のその脳の働きは、自然界の生命たちが最も辛くなる不自然な原因である。

頭を働かせ、思考を忙しくさせる自分がそこに居るとすれば、「今私は災いの元を生み出し、人を困らせようとしている」と認識する。思考はいつも、それまでの経験枠を出ず、個人の都合が優先されて、動き出す。それゆえ、それだけで、無くてもいい出来事が生まれやすくなり、人は困ることになる。(無意識の意思(本体)はそれを望んでいるのだが…)そして、その出来事(問題事)に対処しようと思考を働かせ、偽善を生きる。思考の忙しさは、普通でいることが難しいという異常さを普通とする人の、その存在そのものが災いであることの現れである。付き合わされても、付き合わず、思考を刺激されても、思考を自由にさせる。思考は、実に恐ろしい病みづくりの原因であることを知る。

思考の忙しさ(頭で考えること)を常とする人は、人としての知恵を持たず、感性も、人間(本来)のそれではない。短絡で単純で(単細胞で)、頭の回路は蛇系のそれと言える。それゆえ、覚えたことだけを頼りに、覚えられない(感じ取れない)ことを忌み嫌い、その世界を本能的に潰そうとする意思を働かせる。その時、思考が活躍する。

思考の強い人にとって、人間経験の基本となる、中庸や全体、生命本来という世界ほど嫌なものはない。心ある現実を生み出す形無き原因のそれらは、思考を不要とするため(思考がじゃまになるため)、思考で生きている人には、意味不明なものとなる。思考は、内面の変化・成長とは無縁でいることを基本とするため、その内面の姿(本質)が顕になってしまう中庸や全体の発想は、恐怖でしかない。そのことで動き出す、非情な原因の力。思考型の脳の働きは、内に秘めた凶悪さを覆い隠す、その外枠と考えてよい。

思考は、不安や心配事を燃料に病気や争い事(衝突)を作り、それを処理するための方法を作る。思考は、本心とは裏腹の体裁や建て前を大切にさせて、人との関わりを難しくさせ(不穏にさせ)、それへの対応を生み出す。それは、思考が人の健康と安心の暮らしを破壊する武器であり、嘘の人生を支える土台であるということ。思考は、非人間的な現実を生み出す(自作自演級の)嘘芝居の、その強力な病みの道具である。思考が止まらず、あれこれと考えてばかりの時間は、人間として、それ程の愚かさと残忍さは無いと考える。

そう考えると、人々が思考を忙しくさせることを経験しなくなったら、それだけで、世は健全で平和なものになることを理解する。要らない思考が働きやすくなる知識や情報の世界から自由になり、経験や記憶(過去、結果)からも自由でいる。中庸をベースに、思考型の負の原因を浮き上がらせ、中庸そのものの中に居る。それまでのように思考が使えなくなれば、やっと人間を生き始められることになる。その支え役の無有日記を活用し、「人間」と「太陽の音楽」、そして「仏陀の心」を自分と重ねる。思考世界は、地球自然界がどうにも対処し難い、最大級の困り事。その無くてもいい負のかたまりの芯を外す。頭を忙しく、思考を使い続けるという嘘の人生を、わざわざ人間が経験することはない。

頭ばかりが忙しく、考えごとに明け暮れる生活を普通としていると、その人は、永遠に変化とは無縁でいることになり、それを止めたとしても、それまでのその負の蓄積の影響で、どうにもならなさ(の感情)を人に押し付け、自暴自棄に近い精神状態を基本に、無責任そのものを生きる。この世で、思考ほど、その危うさを人に分からせずに負の影響を及ぼし続けるものはない。だから、そんな自分をムリなく切り離し得る無有日記の世界を実践する。この地上に居て、他の生命たちと共に調和と友愛の原因を生きる人間であることを忘れてはならない。

頭から始まり、頭で終わる思考の世界は、心を育まなくても、心ある自分を偽装して生きる人間たちに、そのための妙な力を与え、存在感を持ち続ける。そこで、思考を忙しくさせる姿は、その人が、人間らしさを放棄していることを意味する。それを無くす。「人間」は、本気で生き直しをする人のその確かな原因を高めていく。

思考を働かせない自分を安定させるのは、その人の仕事である。不安も怖れも、差別心も嫉妬心も皆、それらを上手く隠し得る思考の力を何より喜ぶので、頭が不要に働かなくなる、原因のままの無有日記に触れ続け、内に潜む否定感情のその負の原因を、自らの責任で浄化していく。無有日記の世界の実践は、思考を使うまでもなく動き始める人間本来の原因の実践であるゆえ、それ無しで時間ばかりかける経験は不要とする。気づけば、思考を使うことが違和感となり、脳が変わる。その時、その新たな人間経験に、それまでとは次元の異なる、生命を生かす生命としての思考が参加する。それは、普通本来の心ある風景を元気にするために、いくらでも、その人に使われる。思考が、全く新しい仕事をする。

無有は、理由の要らない平和と健康の原因を変化に乗せ、それを成長させつつ、送り続ける。向かわず、求めず、思考を働かせなければ、平和と健康の方から手招きをし、そこへの道を教えてくれる。人が、生命としての人間を真に生きる時、心ある原因に付き合う思考はあっても、思考から(考えることから)始まる思考など初めからどこにも無かったことを知る。

5/24

・なかなか覚えられないことは、時間が無くなるから無視する。すると、覚えようとしなくても覚えられることが次々とやって来て、思わずそれを言葉にしたくなる。でもうるさいと言われるのが分かるから、じっとがまんする。

・太陽の光は、生きる原因の力。心臓が何で動いているかの理由も、そこに在る。何があってもめげない自分の理由にもなってもらう。

・治りかけのかさぶたをはがすタイミングを見計らうのが面白かった。だいたい決まって早すぎた。

5/24

LEDライトとLEDに汚染された雨水で、道路や歩道にひび割れが生まれるということは、その分、地盤が緩み、近くの建物にも被害が及んで行くということ。LEDに汚染された水は、流れにくく、乾きにくく、そこにある物を徐々に、確実に浸食・破壊していく。建物の周りの亀裂や陥没(沈み)は、近い将来、実に恐ろしい風景が待ち受けていることを意味する。人の世で、それが進行中であるということ。そんな時を人は生きている。

5/23

・困らせられることが分かる時は、先に困らせ、逃げる。その判断は、大人には難しい。子供の時にそれを身に付けた人は、決して人を困らせない。

・食べ終わる時が給食の終了ではなく、この時まで食べ終わらないと遊ぶ時間が無くなってしまうその時が終了の時間。カバンの中は干からびたパンばかりになる。

・心配されると、重くなり、心配させられると、動きが鈍る。不安の始まりは大人の心配から。

5/23

思考の強さ(質)がどうであれ、無意識の中に潜む経験の記憶がどんなであれ、この今、その全てから自由になって、それらの負の原因を力無いものにしたいのであれば、地球自然界が嬉しいことをし、未来を喜ばせる。そのための材料を提供するのが、無有の仕事。生き直しは、実に簡単。自然界を大切にし、人に、自然界を大切にさせればいい。地球自然界が喜んでくれれば、人間的な病みの記憶(影響力)など、無いのと同じ。

LEDフォトブック(→リンク)が何らかの仕事をすることで、心身が軽く、楽になるのは、地球(太陽)が、それを喜び、一生命としての生の基本(力)を応援してくれるから。動物たちに食べてもらう(もらえる)ことで、自らの分を全うする植物たちのその生命力が奪われることは、この地球上では有ってはならないこと。(知らされる人の)反応がどうであれ、想いを伝え、繋ぎ、本来の普通に力を注ぐ。そのための力は、無有が注ぎ続ける。

5/23

2.人間本来からかけ離れてしまう不穏な環境では、自然界には無い、結果を生きる姿勢が幅を利かせ、作り出される物も形も、動植物たちが、辛く悲しむものである。そしてその中で、形を持たずに自然界に負の影響を及ぼすのが、その結果(過去)に居続ける流れない感情や個の思惑と結び付く音楽であり、それを好む人の無意識の意思(本性)である。未消化の否定感情と本来の普通への無感覚振りで繋がり合う人たちは、音楽を通して、都合良く自然を愛し、自然を悲しませる。

音楽が、普通に、変化そのものである原因のそれであれば、自然界は嬉しい。その時、空間は変わる。その本来の音楽の姿を、自然界に差し出し、共にそれを楽しむ人たちが、その音楽を心に重ねる。頭で聴くのではなく、音のある空間に自らの存在全てが反応するようにして触れる音楽。直接耳にあてて聴く音楽を極力減らす(無くす)ことの大切さも、体が自然に覚える。

辛いことを歌っても、その原因と向き合い、そうではない自分を生きる中でそれは歌われているから、聴く人に辛さを感じさせない。悲しみを歌詞にしても、そうである自分のその理由を見つめることからそれは始まるから、それに触れる人の感覚は、悲しさではない。人としての人生を生きる人は、そんな歌を嬉しい。そうではない人は、焦って、緊張する。

(抵抗してみたけど、何も変わらなかった)かつての経験を基に、抵抗せず、ありのままでいる中で、その抵抗せざるを得ない状況のその原因に入り(原因を掴み)、そのことで様々に感じ得たことに付き添う人間時間の風景を、歌にする。歌になることで、その時と同じ体験は不要となり、次なる歌が、別な原因の風景を形にする。そんな風にして、そうであろうとすることもなく、繰り返すことのない必要な経験が次々に生まれ、原因が変わる。

その音楽に、自然界は、笑顔で付き合う。共に生きるみんなが、応援する。地球の、この人間世界で、そこに居続ける、無くてもいい負の原因が、無有日記に支えられる太陽の音楽で浄化されていく。

5/22

鉄道トラブルが各地で多発する流れへと、事の負の原因を強めつつあるLED照明のその影響力は、雨水をLEDの本質である腐食(腐敗)・破壊型の性質へと汚染させたことで、飛行機トラブルへと発展させるに至る。

そこにLED照明が有れば、それだけで問題事が生まれる病みの土壌も、その負の濃度を増し、破壊力を強めている。この今、LEDほど恐ろしいものはない。将来のためにも、LEDフォトブックを繋いで欲しい。

5/22

1.人間は、自然界の一部。元々、自然界に存在する全てのリズムを持っていて、それを余裕で包み込む地球のリズムも備える。だから、音楽という形が表現される時、そこでは、その基本となる感覚がそのまま自然と音となり、リズムとなって歌(曲)になる。そこを離れて作為的に頭で作られた音楽を、人間は、本能的に望まない。

その自然界の一部である自分の感性が、世の様々な不自然な風景に触れることで(それと正直に向き合うことで)、自然と湧き上がる音と言葉。この時代に音楽を通して表現する人は、その音をそのまま奏でるだけでいい。頭で考え、頭で作風や曲調を作り上げていたら、そのどれもが嘘になる。

現代の、その固められた負の(連鎖の)土台の上にある社会環境は、自然界からはどこまでも違和感でしかないから、自然体を生きる存在は、音楽を通して、いくらでも、どんな風にでも、曲を生み出す。湧き出るように、その違和感が音になり、自然界を安心させる。それが音楽であり、歌も曲もそうである。社会が、人間がつくる環境が、自然界が納得する(安堵する)ものになるまで、いくつもの曲が、自由に、自然に、彼(彼女)の普通を通る。(その後は、全く次元の異なる音楽が普通となる)

そこに居て、共に居る時、世の音楽の余りのお粗末さを知る。不自然な世を支えるようにして不自然に生きる人に、好んで聴かれ、流行る歌は、自然界の異物と化す。

5/22

・どんなスポーツでも、上手くなりつつある時の熱中度数は高い。鉄棒での連続前(後)回りと逆上がりは、その中でも熱かった。

・秘密の場所に、秘密の時間、そこで一緒の秘密の仲間。大人たちからは絶対に見えない、子供の世界。秘密を守るために、嫌だけど、大人しくなることも、良い子になることもする。服に付いた土や草は、よく払って帰宅する。

・みんなに心配されながら保健室に連れて行ってもらえる子がなぜだか羨ましかった。倒れてみたくて、炎天下に居たけど、ますます元気になってしまった。

5/21

8.音楽を通して、好きなように感覚が作られ(鈍くされ)、人としての感性もいつのまにか低下させられてしまうこの時代において、音楽は、人の感覚・感性を本来へと戻す材料(機会)でなければならない。まるで生きているかのように聴き手を包み込み、感触の変化を促し、そしてそれまでとは違ういろいろな場所(感覚体験)へと誘いつつ、ムリ無く自然に人を変化に乗せるものを、この時代が望む真の音楽と言う。

それまでの音楽の記憶全てが無くなったとした時、そこに残るのは、自然界が安心を覚える、楽器も何も無かった時代の(その原因の)風景と融合し得る、人間らしい生命のリズムと音(鼓動)であるか?自然界の生命たちを生かす太陽の音楽は、この現代でも、遥か昔とその基本は変わらない。現代では、現実的に不安の世界に居る自分(の感情)からではなく、その不安の元となる原因の世界の、得も言われぬ強大な負の存在(意思)から逃げずにそこに居続ける自分(の確かな想い)から生まれる曲によって、その基本は息を吹き返し、甦る。

個人的に(趣味感覚で)親しむものとして、そこに音楽がある時、人は罠にかかる。気づけば、感覚が思考型のそれとなり、真を失くす。そのことを知る存在が生み出す音楽に触れる時、人は、太陽の心を思い出す。そして、共に真を生きる。音楽は、作る人も聴く人も、遊び心と真剣さをひとつに、その大切さ(厳しさ)を楽しむ、変化の喜びの時である。この時代、その本来の音楽は、真に生きる人の心に、勇気と変化を与える。

5/21

・架空の話ほど面白いものはなく、空想と未知が、体を元気に動かす。宇宙人もお化けもよく遊びに来てた。

・「友だちのところで食べた」と言ったら、「お礼を言わなきゃ…」と言われ、「気分がわるい」と言ったら、体温計で熱を測られ、早く寝させられた。お菓子を食べ過ぎて晩ご飯が入らない時の嘘は難しい。

・その時が全て。この人が全て。このことが全て。どれ程そう思ったことか…。そう思えたことで、確実に未来は動いていた。

5/20

裏表を上手く使い分けるこの国の人間のその異常な普通は、LED化という嘘の原因を未だ大切に、そこかしこに有るLED絡みの負の事実(変色、亀裂、陥没、崩壊etc.)を無視し続ける。地球を大切にするという次元の低さは、その嘘と同質である。人は、地球を大切にすることから、人生を始めている。

5/20

・そこにある物が遊び道具になり、どんな風にでも遊べた。小石も木も草も、輪ゴムも毛糸もビー玉も、自由に役を変え、みんなをひとつにまとめる。時々、風も水もそれに参加する。

・大きな木を見たら、登れるかどうかを見る。登れたら、一休み出来る場所を探す。自分が、知っている自分じゃなくなるひと時。

・そのつもりもなく、気づけば、作りかけ。そうじゃいけないとがんばったのに、また作りかけ。今度こそはと、気持ちを入れ替えたのに、またまた作りかけ。それでいいや…。

5/20

7.自分の中に在る、「なぜそうなのだろう?」という現実に引き合わさせられるその理由と向き合い、全受容の中での素朴な発想に身を委ねる。振り切るべき感情の正体に光を当てるようにして、感性を自在に遊ばせ、その時の変化を音に換える。言葉と音は、重なり、かみ合い、融合し、力となる。歌詞は、曲の中に溶け出し、曲は、どこまでも仕事をし得る力を手にする(旅に出る)。

健全な感覚ゆえの素朴な違和感は、それを(その対象を)処理するよりも、そうである事実を受け止め、自然にその奥(原因深く)へと入り込む。その時、その事実を変え得る力になろうとする、それまでには無かった原因が、音や言葉となってその人を通る。曲は、変化し続ける生命のかたちとなる。

感覚のまま動き出し、その原因を成長させるようにして生まれる曲は、思考型の(感情の)満足の道具として歌に接していた人には、緊張を覚えるものになる。それまでの経験からなる音感と感性が通用しないため、馴染みにくく、覚えられない(残りにくく、扱いづらい)。でも、そのことが、新たな時を引き寄せるかけがえのない原因となり、気づけば、自らを変化させる。そして、その気もなく蓄積させていた不穏な(質を備える)音楽のその負の原因の影響力を知る。

その仕事を普通のこととして担い、本来在るべき姿のその基本となる原因をさらりと送り続ける存在。そうであることも知らず、そうであろうとすることもなく歌い続ける彼(彼女)の曲を通して、人は、この時代にしか出来ない、存在そのものの質を成長・進化させ得る経験を手にする。永い時を経て、この国では、初めて、音楽が笑顔を見せる。太陽の音楽となって、心の芯を流れ出す。

5/18

・こづかいをためて買ったプラモデルの箱の中を見ながら歩いていたら、走ってきたバイクとぶつかって、飛ばされた。飛び散ったプラモデルを拾い集めて、箱に入れて、そのまま帰った。

・太陽が沈む時が、夜の始まり。晩ご飯を食べて、風呂に入って、そして寝る。太陽が昇り出したら、一日の始まり。遊んで、学んで、遊んで、遊ぶ。

・叱っても叱りがいが無い子と言われ、しっかり反省しようとつとめた。けど、反省の仕方が分からなかった。だから、なぜ叱るのかときちんと聞いてみた。そしたら、もっと叱られた。

5/18

べとっとして乾きにくい、LEDに汚染された雨水は、地中では滑らかに流れずに、各所で溜まり出す。家屋の基礎の部分(and 道路脇)は、まさにその場所で、そこで、LED化した雨水は、土の質を変え、土本来の力を弱化させていく(基礎のコンクリートも溶ける)。そして、建物は微妙に沈み出し、その現れとして、地表の部分では、亀裂や小さな陥没が生じる。そのスピードが増している。

5/18

6.個人的な趣味・嗜好の材料や商売の道具(商品)として音楽が扱われる世で、真に音楽を表現することは、至極難しい。でも、そうであり続けることで、その難しさの度合いも変わり得ることを知る存在たちは、そのまま、感じるままに触れる世界を形(曲)にし、その質の変化に責任を担う。どれ程の厳しさか…。それを実践するのが、音楽を手にした生命の姿であり、表現者としての喜びである。

そして、聴く度にもたらされる、新たな感触と変化(気づき)を通して、人は、自らも表現者であり、変化し続ける生命であることを経験する。それを為し得るのも、音(声、言葉)を通して、全てであるひとつと繋がる原因が、自由に姿を変え、あらゆる性質のものとなって流れ出して来ているから。そうであることの普通を生き、それが音となり、曲となっているから。その音の世界で、送り手と受け手の違いは無くなり、それぞれの心の強さとその輝きが、心の風景を広げる。

心地良さを覚えることが優先された曲は、何度聴いても、何も変わらない。というより、無自覚に秘めた狡さを増大させ、形無き原因の影響力に無責任になる。なぜなら、そういう人が、そんな曲を作るから。変わりたい(変えたい)、でも本当は変わりたくない(変えたくない)人が、ずっと変わらないでいられる身勝手な心地良さを曲にする。

大衆が好みそうと作られた曲も、一風変わった曲も、皆頭から始まり頭で終わるという停滞の原因を潜めた曲で、物事の表層のみの理解で事を済ませる(心を思考で扱える)人の、その自己満足の材料となる。それらの曲には、人の不満や不安の感情を上手く嗅ぎつけて利用する質の悪い宗教にも似た狡猾さと悪辣さが在る。

5/16

LEDフォトブックは、自然界の意思を基に生み出され、自然界の喜びとそれは繋がっている。動植物たちの哀しみを安心に変え、道路や建物の姿を、人の健全な暮らしのそれにする。それは、心ある普通の人にとって、頼もしい仲間である。

5/16

・風の強い日には、風の音に呼びかける、「どうしてそうなの?」。どしゃ降りの日は、雨の音に話しかける、「それでいいの?」。だから、悪天候でも、必ず散歩に出かけた。

・言うことを聞かないのも、好きなことをするのも、自分勝手な行為ではなく、子供の信念である。なんてことを思うから、白い目で見られる。

・子供時代は、子供の時代。大人の真似をしても、大人の歌を歌っても、その時は子供。それは、大人になっても、子供だったことを決して忘れちゃいけない子供時代。忘れないから、大人になれる。

5/15

5.そうじゃないはずなのに、どうしてそうなのか…と、悲しみや切なさを歌う。本当は、どこにもそれらは存在しないことを分かっているから、悲しみを歌い、一切の悲しみを伝えない。そして、気づかないうちに、人は、悲しみの理由を手放す。

不安絡みの感情は全て本来ではないことを知るから、何があっても、心の芯はぶれることはない。こう在るべきとする、形あるものを求める自分も知らないから、どこまでも自分(人間)らしく生きる基本は変わらない。そのことを無くして(外して)音楽を表現することなど考えられないから、ただそれをそのままに、自分の歩みに連れ添う感覚を曲にする。

言葉で表そうにもそうにはならない世界の何かが、体よく繋ぎ合わされることを望まない文字(言葉)たちがつくるその何気ない間の、文字無き空間を通り抜ける。曲と重なり合うことで永遠の場所(仕事)を見つけたそれは、聴き手の変化の中で、色を変え、形を変える。彼(彼女)は、その送り手としての役を、この今の時代に担う。

そこに居ること、居続けることで、必ずやそれが変革の仕事になることをどこかで分かっているから、その時まで、ただそこに居る。その内奥に在る意思(静かなる鼓動)を温めつつ、その時を待つことなしに待ち、そして、共にそれまでが姿を消し得る大きな流れに乗る。太陽の音楽を奏で続ける。

5/13

・遊んでばかりの日々は、何で遊んだかも覚えてないぐらい遊び呆けた。残っているものは何も無いけど、残り得ないものの大きさに包まれていた。その時の誰も今は居ないけど、みんなで膨らませた遊び心が、今もずっとある。その時に作った道は、今もじゃまされずに歩けている。

・ボール1つあれば、一日中遊べた。自転車に乗れば、帰ることも忘れて、行き先も知らない旅に出る。アイスクリームを食べて、缶をけって、砂ぼこりが顔の汗について。くつ下はいつも汚れていた。

・大きい子に遊んでもらえる時、怒られないようしっかりと付いていって、可愛がられて、嬉しくて、いつになく素直になっていた。小さい子と遊んであげる時、泣かせないよう大事にしていて、楽しそうに笑ってくれて、知らないうちに優しくなっていた。

5/12

少し色が変わっただけのある場所に、いつのまにか亀裂が出来、その2ヶ月ぐらい後には、その辺りが欠けて無くなっていたり、陥没していたりするところが、このところ増えている。恐るべし、LED照明とLED化した(LEDに汚染された)雨水の負の威力。

今は、待った無しの時をすでに過ぎた、待った無しの無しのつぶて。映画日本沈没「街並み編」の準備が進行中である。

5/12

4.曲作りを通して歌い手が成長すると、聴き手も変わり、聴き手が成長すると、曲の感じも変わる。音楽は、聴く度に感じるところが変わることを普通とし、音楽と人は、一緒に成長する。

そんな曲の送り手は、ただありのままでいるから、何かに負けないようにとか、頑張らなきゃとかの発想と繋がる状況を知らず、大変さも、辛いという現実も実感が無い。格好をつけ、人気者になろうとしてやっているわけではないから、何を求められ、どんな期待を向けられているかには感知しない。それだから、歌詞に収まり切れない感覚が歌詞になり、曲調も自在で、どこともぶつからない(感動・感銘の域には無い)。それでいて、聴く人の内なる変化に付き合い、自らも変化する。人は、曲を通して、音楽という名の生命体験を普通とする。

今までの音楽とは違っているようには思えないのに、その実、全く違っている音楽のその部分は、覚えにくいところ(覚えようとすることより、何度も聴き、自然と(覚えられるところを)覚えられるようになる自分を選んでいる)。考えて作らず、頭でその機会を引っ張らない中で生まれる曲は、聴く人の内側に記憶されたそれまでの曲の、その性質の原因を浄化する。それは、分かっているのにどう分かっているのかよく分からないそのことを、分かる言葉(文字)で伝え、そのよく分からないけど分かっていることを何となく感じてもらえることを望みつつ、分からないままその全てを曲に乗せて、分かり合う世界。その共有体験は、そのまま音楽の本質を余裕で眺めることになり、互いはそこで癒され、時を癒し得る時空(次元)を共に漂う。

5/09

・ビル崩壊は、不自然な小さな亀裂から始まる。ビル周辺の地盤沈下は、すでにそこへと向かい出したことの現れ。次第に床が微妙に傾き出し、住めなくなる。それが、LED化の、姿無き負の原因の意思である。人間は、この地上での歴史上、最も愚かなことを経験している。

 

・災いの原因を生み出し続けるLED照明に全く平気でいられるという自分の状態に平気であってはならない。この数十年の間に、非生命的な食事と音(映像)、そして価値観のその動きの無い原因を染み込まされた人の脳(感性)は、植物(木々)や水、建物や道路がLEDの形無き無生命化の意思(原因)によってオカシクなっても何も感じない程の鈍さを普通としてしまう。この現代に人としての生を持つ身であれば、その感性を本来にする(人間のそれにする)。これまでの歪な普通とは違う非LEDの、その健全・健康な普通を自分と重ねる。自然界の生命たちは、長いこと待ちくたびれている。

5/09

3.矛盾とか不合理とかの形ある次元ではなく、それらに触れることで内でうごめき出す感覚的な違和感の、その理由は何なのか?世の普通に迎合することが考えられない日々で培ってきた体験的理解の性質は、どこへ向かい、どう活かされるのか?不安や緊張の中に抵抗することなく居続けたことで自覚し得た、形無き存在の姿は何なのか?そして、それらの経験のエッセンスが伝わることで、何を生み出し、何が引き寄せられるのか?その感覚と発想は、現代における音楽の基本である。

助けたり、助けられたりするのは、人としての当然の行為であって、癒しは、その原因となる風景の中に入っていく厳しさと、そこでの力強さを身に付けること。優しさは、共感したり、分かり合ったりする時の想いではなく、共感しなくても、分かり合えなくても、ずっと変わらずそこに在るもの。悔やんだり、求め、願ったりする感情は要らない。哀しみを感じ、喜びを分かち合うことも、結果に留まるのなら、それらは要らない。

その場所から生まれる音楽は、何気ない感覚に厳しさを与えられる力強さを、人に経験させる。今居る世で、自分の心を力に生きて行けることを応援する。それは、作り手自身にもそう。先に気づき、先を歩いているから(そのことを音楽を通して表現できるところまで来れたから)、それをそのまま歌にし、道を照らす光になる。

5/08

・この先、ある時を機に、一気に増大するであろう、鉄道関連のトラブル。LEDによって弱化し続ける線路の土台は、腐敗型の雨水(LEDに汚染された水)の影響もあり、じわじわと、確実に悪化している。線路のへこみ(ゆがみ)と沈下、腐食と亀裂etc.。その前段階が、各地で進行中である(各鉄道は、LEDのその事実を知り得ているはずなのだが…)。異音や妙な揺れは、放っては置けない危うさの現れである。

 

・人から人へと伝わり、広く流れ出している、LEDフォトブック。2016~2017年夏の間のLEDによる被害映像が超〜コンパクトに編集されたそれは、たくさんの人たちに喜ばれ、活かされている。消化し切れなさへの影響を考え、衝撃度数が低いものばかりを集めたという、LEDフォトブック。是非、将来のために役立てて欲しい。縁ある風景の、縁ある人たちが、それとの出会いを待ち望んでいる。→リンクのページ

5/06

LED感染」を書き始めたのは、だいぶ前。その頃からすでに、LEDに潜むその原因による害(危うさ)は、分かり過ぎるぐらい分かるものであった。ただ、原因を生きることを普通とはしない、人間本来から外れたこの社会環境では、自然界が意思表示するまでは、動き出すことはNG。だから、この今に至る1年程の間の経験を活かす。今は、この先は無い、今回限りの修正と浄化の時。太陽も(子を守ろうと)本気モードの今、遊び心一杯に、動植物たちの望みに応えてみる。

5/06

2.本音と建て前が使い分けられる人の世では、その背景となる、形ある結果(過去)に居座る感情が時流を生み出すため、そこで流行る歌の殆どは、キレイ事・他人事を良しとする人たちに支持される。そうであってはならないと思う人たちも、その多くは、そのための新たな原因を選ばず、その上での現実に都合良く一喜一憂して、その気もなく狡く生きる。

その時に経験する、自己反省を趣味とする、身勝手な気落ちとストレス。歌は、そんな人たちに向けられ、彼らを慰め、励まそうとする。歌う人も、聴く人も、歌を材料に、嘘の心で、変化を遠ざける。

人の力になりたいと、音楽の世界に関わり、歌を歌う人は、人が力を失くしてしまっているその結果を材料に曲を作る。しかし、どんな場合でも、そこには、そうなるまでのそれまでがある。その原因に触れようとはしないその姿勢は、挙げ句、自らもその結果を固め、更なる負の現実を積み重ねることになる。

そのままで人の心の力になれる人は、自分が歩んできた道と、そこでの自分の普通(の感覚)を曲にし、歌う。それだけ。力ある自分を見失っていた人は、それを、本来を取り戻す機会とし、自らもそうである姿を甦らせる。

いつの時も、形ある何かのためから始まる歌は、その多くが、広がりも深みも無い、変化を拒む道具。それは、人の自己満足を演出し、見た目ばかりの優しさと偽善を作り出していく。

5/06

…というわけで、「太陽の音楽」。段階的に、遠い昔の音の風景をここに誘う。言葉より先に届くそれは、言葉ではその役を果たせず、単なるチューニングのつまみのような仕事を、言葉には担ってもらう。すべては、触れる人次第。太陽が元気になると、音も風も変わる。

5/05

4月に入ったあたりから始まったのは、これまでの身近な関係性の枠を超えた外の世界での、そこでの望むべく原因への働きかけ。カフェやお店、電車の中などで、その時にだけ経験する、見知らぬ人との同一空間の共有。形無き原因の融合からなる調和や衝突、住み分けなどの動きも、より活発化していて、縁する人の何気ない姿勢も、変わりつつある。当然、そんな風景を引き寄せる人の心身は、理由の要らない健康の原因を力強くする。気がつけば、不安は遠い。「人間」の背に乗って、安心そのものの時を歩む。

5/05

嘘を本当として生きるその根っからの嘘に付き合うという嘘を生きるのも、そろそろ終わりとする。この時代は、一度切りの、人間時間の再スタートの時。(原因の)嘘は、どこにも存在し得ないものだから、それそのものの存在たちの本当の世界に、太陽の光を当てる。音楽の嘘の切り離しは、思考の次元まで簡単に変えてしまう。この時代に旅行で訪れた縄文土器子のお母さんに、彼女の素直な気持ち「うごきづらい〜」を歌ってもらおう。

5/05

・心を持たない作詞家や作曲家は、心を扱う(弄ぶ)のが上手い。聴く人の印象に残るようにと彼らによって作られた歌を聴いて、人は、罠にかかる。耳に残り、巧妙に居場所を作る歌は、危うさでしかない。作り手も歌い手も、嘘芝居の名人であるから、聴き手は、その気もなくその原因と融合させられて、変化と責任を放棄してしまう。人は、流行りの歌で、人間らしさを失くす。

 

・結果(過去)を大事に、頭で聴けば、どんな曲でも普通に聴けて、好きなだけ感動を経験できる。でも、曲の原因(手前)の性質に普通に反応できるぐらい、生きる原因(心)が本来になると、そうはいかない。その経験を通して、音楽の恐さを知る。そして、人気のある歌い手を中心に異様な光景が各地で生み出されていることも知る。

今のような音楽の世界が無かったかつての時代に、そこで非道な感情を平気で形にしていた心無い(心を知らない)人間たちは、最高の遊び場として、ここで、音楽を利用する(「歴史の芯」)。その認識を普通に、本来が元気になる「太陽の音楽」へと行く。音楽によってしつこく病まされた脳は、病みを知らない遥か昔の音の風景と融合する。

 

・人の作った歌に感情移入して歌うことに長けた歌い手は、歌の世界に居なければ、近寄るのも避けたい、重くべとっとした(停滞を生み出す)蛇系の本性を備えていると思ってよい。自分に嘘をつくのが上手く、それをごまかすための道具に、表情や声を利用する。そんな歌い手の声(歌)に感動してしまったら、デビューを控えた〇〇ミミズがギターを背に暴走する。

5/04

街を歩いていると、建物(家屋、ビル)の壁や塀、外のタイルに亀裂が出来、ズレや破損、へこみを生じさせている場所にいくらでも出会す。危なくなりつつある駅のホームや線路周辺、道路(歩道)のひび割れと陥没(沈下)は、至るところに在る。コンクリートもアスファルトも溶かし、鉄にも亀裂を作る、LEDに汚染された雨水とLEDライトの破壊力。どんなに工夫・改良を重ねても、LED絡みであれば、それはどこまでも、自然界と人々の暮らし(財産)を壊し続ける。それが放って置かれることは、考えられない。

5/04

・世の音楽が変わることからではなく、これまで聴いてきた、脳の中に在る音楽が変わることで、世は変わる。音楽は、他者との病みの共通項としては、価値観や環境の影響などの比ではない。一度染み込んだら、脳は、そこに潜むある意図のままの働きになってしまう程。音楽は、誰にもそうとは思わせない、変化しにくさの重量級の原因(重石)である。もし、音楽が世の望むべく変化の材料であるとすれば、自然界の生命たちが苦しみ喘ぐLED照明が存在することはない。

 

・不安を無視したり(不安に蓋をしたり)、それをどうにかしようと抵抗したりすると、歌になりやすい状況が生まれ、同じような人がその歌を聴いて感動する。不安に抵抗せず、そのままでいる中でどうにか歌になる状況を生み出すと、不安の原因が動き出し、それは、不安を手放す(自ら浄化する)人の力になる。前者は、世の歌である。後者は、それを変える歌である。

 

・歌を歌うのは楽しい。でも、歌を歌っても、社会の不穏な様が変わらないのなら、歌を歌わなくてもいいから、社会が健全なものになった方がいい。喜びや平和を伝えてくれる歌がある。でも、それでも何も変わらないから、喜びと平和そのものの人が歌う、悲しみと争いの歌の方がいい。(あれ…?)

5/04

・簡単に言い切ってしまえば、「人間」の文章に普通に触れ得、近くUPする「太陽の音楽」関わりのEWを通して脳のそれまでとは違う状態が安定する人の、その何でもない原因の性質によって、人の住む世界は、その深くから(時代の好転反応を伴って)確実に変わり出す。ここまで来ると、それは、実に単純である。その支え役(土台)となる「仏陀の心」と「歴史の芯」も、ぐんぐんとその力を付ける。

 

・好きな歌を聴いていて幸せを感じる人のその内なる不幸度数はかなりのものである。その時のその幸せ感を高めるために、日夜、自分に正直ではない自分を生き、辛い時間を蓄積させる。そんな人たちに好まれる歌が、流行歌になる。

5/03

この国の音楽シーンで、好んで聴く歌があるとすれば、その歌の中に在る、そうさせ得る原因の性質を見つめてみる。そして、聴き始めた時と今とでは、自分と周りの何が変わったか?それを眺める。

歌を通して自らに変化が生まれれば、必ず、周りも変わる。そうでなければ、その歌の存在は嘘になる。ただ好きなだけでは、幼児が夢中になる駄菓子と変わらない。

5/03

・何度も聴いて覚えたはずなのに、ふと何処かへ逃げてしまう。何かの拍子に思い出しても、確かではない。そんな時を繰り返しているうちに、いつのまにか何かが動き、何かが変わる。気づけば、それ以前の音楽は、全く出番が無くなっている。

という、シンプルなのに、何かが大きく違う音楽との出会いは、その人の見る風景を、真新しいものにする。記憶に残りにくく、歌いにくい(メロディを連ねにくい)というのは、それまでの音の蓄積(経験)が関与できないということ。そこに、面白い体験的知識の世界がある。どんな言葉を以てしても説明できない、人間の原風景のような音の世界が甦る。

 

・聴きたい音楽は、どこに居ても、ずっとずっと聴いていたい曲でありたい。飽きることなど考えられず、それ以外の音楽を聴く気にもなれないぐらい、変化そのものの時を経験し得る、その原因となる音楽。それを、心地良いと言うのかもしれない。聴く(触れる)度に、自らの何かが変わり、周りの何かが変わる。自然界が、太陽が喜んでいるのが分かる。それは、音楽という形を取った、力強い生命の意思。それは、蛇絡みの滞り(抵抗)をかいくぐって、この時代に招かれる。

5/03

作り物の物語に、作り物の音楽が乗せられ、嘘の感動が作られる。人は、そこで演出される嘘の愛情に酔いしれ、嘘の優しさを持ち帰る(自分とする)。

そんなことが繰り返されるのも、脳が異常を普通としているから。音楽は、嘘に力を与え、偽善とごまかしの手助けをする。人間としてのまともさを、そうとは分からせないように削っていく。

音楽が真に力あるものであれば、それは、聴く人に、嘘は生きさせない。曲として世に流れる以上、そこに個人主義的な思惑(利益)も存在しない。

つまり、歌を通して、人は、どこまでも生きることの質を成長させないでいられるという狡さを正当化するために、その大切な要素となる心地良さの材料としてそれを利用しているだけということになる。歌を、真に力ある歌へと戻す。そのための今がある。

5/02

・人の気持ちを優しく包み込むようにして、いくつもの曲を書き、歌い、そしてヒットする歌というのは、それだけ、人の不安や悲しみの感情を嗅ぎ付ける(分ける)のが上手いということ。それは、包んでいるのではなく、掴み(吸い)取っているということ。質の悪い宗教とその質は同じである。

 

・一般の認識では、音楽の影響力は、そんなには無いことになっている。そこを、その存在たちは利用する。

音楽は、想像を遥かに超える負の影響を及ぼし続ける。そうであることを知る経験は、この現代、この国においては、最も大きな変化の原因になると思う。

その通り道となる材料を「太陽の音楽」で記し、記憶の中の不穏な音を、力無いものにする。すでに、それは始まっている。

5/02

人の脳を本来に変え得る歌は、その原因(の仕事)が全て、声に乗る。とは言っても、送り手の日常は、どこまでも普通。その普通が、異常な音楽(音、声)の記憶をさらりと刺激する。

異常な音楽は、(無いのに有るように)頭で作られ、頭で歌われる。その、人の気を惹くように作られた歌詞と曲調(メロディ)で、人は、慢性的に鈍化させた感覚(音感)の更新がムリなく出来、(変わりたい。でも本当は変わりたくない世界で)感動を覚える。

今、この世の病みに、一人の人間として責任を覚えるのなら、これまでの感動(心地良さ)を外し、夢中になった歌のその内容も白紙にする。そうである基礎体力を付けた人から、一足先に、異常の無い未来へと行く。音楽の世界のその原因への働きかけは、想い人たちの切なる望みを具現化する。

5/02

LEDに汚染された雨水とLED照明の悪影響で生じた、各地の道路や建物、植物などの変色(腐敗)、亀裂、破損、そして沈下(陥没)。

それらを放って置ける人たちが支えているこの国の音楽のその形無き影響力を思えば、自分の中にも同じ音楽(音)が入り込んでしまっていることで、不必要な病みの融合が日々その気もなく(脳内のある次元で)行われていることを知る。そしてもしそれが無くなれば(その融合が力無いものになれば)、それだけで、本来の快活な働きが脳の中で始まることも、人は理解する。

その普通の質が変化・成長する時、LED照明(の悪影響)に平気でいられる人のその負の原因を確実に変え得る自分の姿を見る。そこへ行く。その場所が待っている。その時、LEDフォトブックがその力添えをする。

5/01

いくつもの中の一つにはならない音楽は、励ましや慰めを必要とする弱い(狡い)人にではなく、強い自分を見失っている普通の人の感覚に届く。そのことで、いくつもの曲が皆同質であり、変化とは無縁なものであったことを知り、その機会を、彼(彼女)は、音楽による新人生の始まりの時とする。音楽は、(変わるべきことの)何も変えられない。何かを変える人の人生に合流した音楽を除いては…。

5/01

細胞が喜ぶ食事は、そうではなかった時の負の蓄積を、深くから段階的に浄化し得るもの。音楽もそう。そんな音楽は、その気もなく自らに染み込ませた、そうであってはならなかった音の記憶のその負の影響力を無くさせていく。

どんな性質のものがその基礎となって、曲という形を生み出しているか。細胞(脳)が喜ぶ音楽には、これまでの経験が一切通用しない。思考型の(これまでの延長上の)感性では、決してつかまらない。ここでも、(姿無き存在の意思によって)仕組まれた心地良さが、そのじゃまをする。

5/01

そうであって欲しくない意思が余りに強力であるために、それに対処し得るまでは、その時のためともなくそうであり続ける原因を大切に、その意思に逆らうことなく、それに付き合い、時を待つ。そこに音楽は在る。そして始まった。音楽の負の力に逆らい、付き合う時を外し、それまでを忘れる。未来を元気にしなきゃ。だから選んだ、この身体時間。

5/01

2018

嫌っている曲調の歌ほど、その原因は脳の中に居座っていて、好きな歌は、皆その負の土台の上でそうであるように感じさせられていると思っていい。現代の人間には、単に好みの次元ではない曲がどんな風に馴染むかというテーマがあり、そんな曲は、印象(記憶)に残りにくいという印象から始まることが多い。そして、それが自然に接し得る曲となる時、脳は確実に変わり出していて、かつての印象の深い(感動・感銘型の)音楽は、居場所を確保できなくなる。その時、何もしなくても何かを変え得る力も付いている。

 

 

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