人間(1)

 

1.心のままに生きる人は、あたり前に自分に正直でいて、約束も自分とする。それは、気づきを不要とする、本来の生き方。そこに、停滞の原因は無い。

 そのことが違和感となる人は、気づきを趣味とし、心のままに生きようとするその姿勢(行為)が好きである。それは、心の世界の重石となる、個のままの思考。そこに、心ある原因は無い。

 自分にではなく、他者に対して正直でいようとする人は、自分が正直であると人に思われたい歪な感情で、偽りの人生を生きる。そこに在るのは、心の嘘。そうであることを全く自覚できない程、その嘘は安定する。

 自分に正直でいることが難しい人は、どれだけ言い訳をしても、その生き方全てが嘘である。それだけ恐ろしい本性を秘めていることを意味するそれは、暴力的な未熟さの形と言える。

 自分に正直でいると、自分の本当の姿を自ずと知り得ることになる。自己探求も覚醒も要らないそれは、人間であれば誰もが普通とすべき、生の在り様。正直さの始まりが、外であるはずがない。

 

2.人の不安に敏感に反応して自らも不安になることはあっても、不安の原因からは常に遠くに居る、元々不安を知らない人。彼らは、不安発の選択・行動の世界から離れ、そうではないありのままの自分を普通に、理由の要らない安心の時を生きる。そこでは、不安がそのままでいることはない。

 その姿がどうにも違和感でしかない、自分が不安でいることも分からない、不安をあたり前とする(不安そのものの)人。彼らは、何をするにしても、その無自覚の不安を燃料に判断し、生み出される不安発の現実を通して、更なる不安な状況を引き寄せる。そこでは、不安の原因だけが生きる力となる。

 中庸という、生きる基本のその元となる原因のところから観る時、生きる自由と人権が尊重される世でいつも不安の中に居るという人は、それだけ、狡賢さを備えているということになる。自らの中の人一倍狡猾で悪質なその感情(不安)が武器にはなりにくい時代環境の中で、不安になることで、人の気を惹き、不安からなる辛さや苦しさを無意識に演出しつつ、人の人生に負荷をかける。人は、彼(彼女)の思い通りになる。

 人間経験での不安の大元となる、命の危険や力による人生への支配・抑圧が無いこの現代、不安で居続けられることは、それ自体が欺瞞(嘘つき)と捉えて良い。そんな人は、時代環境が違えば、平気で人の命を奪える程の悪辣な(強靭な)不安と怯えを内に潜める。その本質が、そのような状態を支える。

 不安の理由が、意思表示することはない。不安の材料が、勝手に増えることもない。人間は、そこに在る不安の原因を浄化する経験を普通とする中で、人間らしく生きることを覚える。不安がいつまでも不安であることの原因は、その人間らしさへの拒否である。

 

3.「歴史の芯」の中で、問題事や病気の原因に細かく触れ、どこまでも深くそれを浄化し得る機会を創り出してきたが、それは、この数千年間の歴史的事実のその形無き負の原因(本質)がそのままであったために、その必要性が形となったものである。今、これまでの歴史を挟むようにして、一万数千年前の風景のその原因をここに招き、それを未来へと繋ごうとするこの時、改めて、人間の病気との関わりの真実を知る。

 人が普通に健康であっては欲しくない非生命的な原因が、未だかなりの力を持つ現代において、人は、やむを得ないこととして(当然誰もがかかるものとして)病気の存在を捉えているが、それは、無くても良かったところにわざわざ作られたものであり、その中身は嘘である。この人間社会に在るのは、物や形(人の無意識の意思や本性)を通して人を病気にさせようとする意思のその暗躍する姿であり、その負の原因との関わりを否応無く持たされた挙句、人は、いつのまにか心身に不調を抱え、病気になるのである。

 病気を前提とはしない生き方が普通となると、元々それは嘘であるから、当然のこととして、病気と縁遠い人が増え、病気は、彼らの違和感となってその負の力を無くす。実に単純な話である。病気を意識しないで済む生活が馴染むと、当然の結果として、病気の原因と繋がる物や形との接点が無くなり、人を病気にさせようとする不穏な意思からも離れることになる。あたり前のことである。(そのための基本は、「歴史の芯」「仏陀の心」の中に在る)

 そこに病気という事実があるために、それに対処するという生き方が必要とされるが、その原因を考え、そして更なるその原因を考えていけば、病気は無くてもいいものであるということを、人は理解する。そして、徐々に、確実に、その病気の存在意義を無くさせていく。それを普通とするのが人間であり、その普通を拒もうとする存在が、病気の(病気を生み出す)原因を担っていると捉えてよい。

 この世は、人を病気にさせる人と、自らも病気になってそれを利用する(人を困らせようとする)人が居るが、その存在たちの影響で病気になったとしても、そのまま病気でい続けてしまうことはない。嘘に付き合わされて、無くてもいいはずの病気の人間を生きるか。その嘘の原因を外して、普通に人間を生きるか。もちろん、人の姿(身体)は、後者の生き方をするように出来ている。(じゃあ、先天性の病気はどうなるの?となる。「歴史の芯」で本体の意思世界(次元)のことを感得すれば、そこにも、そうである原因が在ることを知る)

 哀しい事実だが、この現代の社会環境は、病気にさせたい人と、病気になりたい人との妙な共同作業で成り立っている。そこに取り込まれないためにも、彼らが好む(自然界が力を無くす)LED照明を外し、彼らが嫌がる(細胞が喜ぶ)全粒穀物食を普通とする。そこから、人間を再スタートさせる。

 

4.物事の本質というのは、その中に在る、その原因の性質のことである。自らの生きる原因が、自然界が喜ぶ中庸の次元を普通とする時、物事の本質は、どこまでも自由に、容易に観察し得ることになる。

 どんな人も、その原因深くで自然界のそれと繋がる、存在の本質。その自然界との繋がりを普通に融合を高め、その質を成長させることで、人は自然に変化に乗り、一生命としての意思を躍動させることになる。その意識もなく支え合う自然界との融合は、人が人として生きる上での、その大切な原因となる。

 その様の観察は、人間にとってとても重要なことであるが、特別にそうであろうとすることはなく、ただ発する言葉、向かう場所、関わる事のその原因が、自然界を安心させるものであれば、それでOKである。難しいことは何も無い。不安で物を作らず(事を動かさず)、生み出される物や形(関わる人や空間)が自然界を悲しませなければ、その人の責任感覚は、ムリ無く自然で力強いものになる。

 文字(本)を書き、歌を歌い(作曲し)、食品を製造し、人の脳を刺激する。事を進め、人を動かし、形を作り、空間に影響を及ぼす。そのどこにも、自然界には無い滞りや衝突の性質は在ってはならず、自然界が経験しなくてもいい不安や差別の感情が、それらの材料としてそこに在ることも考えられない。自然界は、形あるものより先に、その元となる形無き原因の性質に反応する。

 書物でも歌でも、学びでも娯楽でも(スポーツでも文化でも)、その手前の原因のところに不安や隔たりの感情が在れば、廻り回ってその負の影響は、限り無いものになる。そのことを、自然界は決して望まず、そのために停滞する(退化する)人間の世界のその本質(原因)に、辛さを覚える。

 作品は、いつの時代も、在るべき姿を繋ぐためと、在ってはならない現実へのその変化の材料(原因)である。それは、中庸の世界発の、シンプルな真実の形。自然界の安心そのもののその原因は、何があっても、生命の仕事をし続ける。

 

5.互いの、その手前の形無き想いがその時を引き寄せた、ある人との会話。それだけで充分である。その大切さが自然と共有されれば、後(内容)はどんなでもいい。会話は、共に居ることで動き、変化する、その時ならではの新たな原因の営み。言葉は、何でも、そのための少しの味付け。その時の言葉は、文字の域には収まらない。

 人は、縁する人との空間で言葉を発する時、言葉が無くても通じ合えた遠い昔のその形無き交流の原因の記憶にその必要性を観察してもらいつつ、その時々の正直な感覚に、さらりと何でもない言葉を付き合わせる。そして、想いを重ね合わせ、互いの普通の質を力強く広がるものにする。そこでは、言葉が力を持つ話題も、言葉が先行する知識型の内容も、無縁である。

 話をするための知識は、(原因同士が呼応し合う)心ある風景では一切不要であり、ふと何気に触れ、出会った(引き寄せた)知識のその原因となる部分が自分の中で消化される中で、それへの働きかけのために、知識という名の原因が言葉になる。人と人が共に居る空間を次なる時の原因とする時、そこに知識欲の次元は近づけない。その原因(心)が外される時、それが言葉になってもならなくても、不平・不満や愚痴・悪口の類の感情が動き出す。

 言葉は、その人の原因の性質の具体版。その姿(感じ)がどんなであれ、内に秘められた感情は容易にそれに乗り、正直にその反映となる仕事をする。それが危うい人ほど、知識だけで通用する話を好み、巧みな話術まで駆使して、支配の道具として言葉を利用する。その手前に心ある原因を持たない人の世界では、話をすることからでしか始まらない非生命的な会話が普通となる。

 話は、形無き原因の融合を基に為される、自然な生命活動のひとつの形。伝えることもなく、大切なことは伝わるから、話す度にその原因の質は成長する。それは、その原因のところで自然界の生命たちとも融合し、何も無くても全てがある本来の普通世界を支え続ける。今、全ての活字(書物)と情報が消滅したとしても、それは、いつもと変わりなく、連繋の意思(仕事)を担い続ける。

 

6.どんな時も、意識する対象のその原因と自分のそれとの間である性質の融合が始まることを考えれば、何でもかんでも好きにものを考え、自由に意識(思考)を働かせることが、実に不自然であるかを人は理解する。物を手にしても、文章を読んでも、その作り手や書き手の中に潜むそれまでの原因の性質が、経験の外側でいくらでも仕事をする、常に原因でい続ける生命世界の普通。人間は、人間独自の思考世界をどれだけ成長・発展させても、その存在の本質となる一生命としての質(原因)を変えることは出来ない。

 何をするにしても、どこに行くにしても、そこにどんな自分が居て、どんな性質の原因がそれを必要としているか。その意識もなくそれが大切にされていることを、人間を生きていると言う。そうでない時の姿は、(生命を生きる)人としての原因が備わらない、形ばかりの嘘の人間時間ということになる。

 人間らしさが普通である時、自らの原因は変化そのものとなり、自由に時空を透過しつつ、現実(環境)の原因を調整・浄化するという、多次元的な生命の仕事をあたり前とする。そこには、結果に居続ける形(形式)も、結果にとらわれる思考も、全く存在しない。人間本来の自然な在り様に滞りを生み出すそれらは、生きる原因の非生命化(非人間化)を良しとする、退化の象徴。この地球に生きる人間が、地球が安心するありのままの人間であろうとする時、人間だけに通用する(通用させる)結果の世界が力を持つことはない。

 そこから自ずと見えてくる、人間にとって有ってはならない、思考型の歪な姿。その代表となるのが、論理的思考という、原因(心)を恐れる姿勢と、科学的根拠という、怯えの裏返しの概念である。

 物事の原因を無視し、その本質からなる動きを阻む感情がその燃料となる、論理的という姿。人間は、それを普通とはしない。変化し続ける原因の世界のその普通の動きを執拗に抑え込む力が形となった、科学的根拠という概念。人間本来の思考は、それを無縁とする。人は、自然界の原因と融合し得る健全な感性を無くすと(持ち合わせてないと)、個人的な経験枠を拠りどころとする、思考型の論理と科学に走る(頼る)。

 結果から始まれば、争いも病気も無い原因は、力無くして、遠のいていく。過去にしがみ付けば、初めから、停滞と衝突を生み出す負の原因が動く。その人としての基本が外された上で成り立つ、論理的思考と科学的根拠。それらに付き合う時間は、人間には無い。

(論理的思考を普通とする人は、自分がすがる科学的根拠を好き勝手に利用する反面、それ自体に責任を取ることはない。科学的根拠という概念(権威)に思考を働かせる人ほど、自らの責任(心)の無さを正当化するために、それを重宝する。その世界で妙な好感を持ち得る、思慮深さも、思索好きも、真に生きることを放棄した人の嘘の姿である)

 

7.人が何かに向かう時、そこにはすでに向かわされる状況設定が在り、多くの場合、人の、生命としてのその生きる姿勢(原因)が、そのことで成長することはない。向かうというのは、向かわなくても良いことに気づけない人の、個人的な自己満足の世界である。自然界に生かされる、人間という人の世では、向かわなくても為し得ることの変化・成長とその共有だけで、平和も健康も普通となる。

 人は、時に、生きるため、自由を手にするために、何かに向かうこともあるが、それは、人間の生命本来からなる自然な方向性であり、そこでは、個であって全体、みんなにとっての自分という、変化そのものの原因(心)がその原動力となる。そして、その時を経て、生きる基本形は更新され、それまでのことは、その必要性から外れる。向かわなくてもいい時を普通とするために、そうではない(なかった)時のその原因の浄化に、心身は、自然な感覚で動き出す(向かう)ことがある。

 誰もが友愛と調和を普通に、平和と健康を生きることは、人間にとって何より大切にされるテーマであるが、なぜか人間であっても、それを避け続ける存在が居る。彼らは、人を、ある特定の何かに向かわせ、他を隔てる感情を経験させて、それを人の思考(精神)に染み込ませていく。嫉妬心を煽り、優越と差別をしつこく内に育ませ(潜めさせ)、建て前や体裁で繕える嘘の人生を一般化させる。そして、人間が歩むべく一生命としての原因の成長を潰す。

 何かに向かわざるを得ない状況があるとすれば、その多くは、人間の成長とは無縁の、意味のあるように仕組まれた、意味の無いもの。それに意味付けすることでしか身を守れ(保て)なかった経験は、その無意味さに力を与え、その背景に在る非人間的な思惑を支える。そうでしかなかった時の連なりは、その気もなく自他の変化を止め、争いや衝突、病気や不健全さの下地を固めることになる。

 人は、ある何かに懸命に向かい、その結果、そこには向かわなくても良かったということに気づかされ、その機会を、貴い理解として感謝する、という愚かな人生を重ねる。人は、向かう場所を変えつつ、向かうことを続け、その後、そのどれも個の欲の現れであったことに反省し、心から謙虚になる、という無くてもいい偽りの経験を大切にする。

 向かう人生は、生きる価値そのものを無くす(見失う)ことから始まる、人間には相応しくない、至極不自然な姿。それは、心の無さをごまかし、嘘の原因で真の普通の息吹を封じ込める、非生命的意思の具体化。人間は、自分に正直でいれば、時間をムダに使うこともなくなり、向かわずして出来ること、ただそのままで表現し得ることの、その質を高める自分を活躍させる。そのために必要なことは全て有ることを知り、ただそれを自由に、思うままに使い、形にすることの意味を実践する。

 向かうことで手にする本来の平和や健康などどこにも存在しないということを決して人に気づかせないために、それが(その類の価値観が)存在し得る意味は、執拗に力を持つ。その材料となる、いくつもの、期間及び地域限定の、向かうこと。人が、向かうことを止めた時、その時初めて、人は、一生命としての人間の生を生き始める。そして、みんなの平和と健康の時を近くに引き寄せ、自らが、それらの原因となる。それが、人間である。そのことを普通に、人間らしく人間でいることが、人間の姿である。

(そこに善悪が無ければ、それは、向かっているようでも向かっているわけではない、大切な原因の時となる。他を隔てる感情や優越心(嫉妬、独占、怖れ)がそこに無ければ、向かうこともなく向かうところで、みんなに繋がる貴い経験を創る)

 

8.‘人のために’という言葉がある。がしかし、それは、人の世には無くてもいい言葉である。その言葉のために、人は、嘘を本当として生きることを覚える。

 人のためになる自分でいることは、ごく普通のあたり前のことで、そうではない性質の自分を、人間は生きることは出来ない。普通であるから、そうであろうとすることも、そうなりたいと思うことも一切不要となり、ただありのままでいることで、人は、互いに生かされ、支え合う空間を共に生きる。そのことへの違和感は、異常となる。

 ‘人のために’という言葉が力を持つ世界があるとすれば、それは、そこに、異常を普通とする本心を隠しつつ、嘘を本当として狡く生きる人たちが居ることを意味する。人のためとなる原因(心)を持たない人たちが、それをごまかすために意識する、人のために生きる姿。人としての普通が力を無くした世では、そうなってしまったその理由となる負の性質(本性)を堅固にする人間たちによる、人には無縁であるはずの、偽善と欺瞞が力を付ける。

 人のためになることに特別な嬉しさを覚える時、そこには、それを普通とはしない異常さを内に秘める、本当は人のためではなく自分のためだけに生きる(人を利用して自己満足を手にする)狡賢い自分が居る。人のためになることが尊ばれる時、そこには、困った人がいつまでも無くならないその重たい原因を備える人によってその行為が悪用されている現実がある。‘人のために’という言葉を思考から外す。それは、人間らしい人間でいるための、生きる基本形のひとつである。

 ありのままでいる自分をそのまま表現すること無しに、人のためになる自分を生きることはあり得ない。つまり、自分に正直でいて、考えるまでもなく想い(心)がそのまま形になる自分でいれば、何をしても、どこへ行っても、その気もなく、それが人のためになるということ。そこでは、当然、経験(記憶)から自由でいることがあたり前となり、結果(過去)に付き合う自分も居ない。不安も怖れも居場所を持てず、不健全も不公正も、その原因とは無縁である。それゆえ、何でもない言葉や行為が、人の原因を動かす。

 人のためになることは、一切知らなくてもいい。それよりも、人間の本来を自由に生きること。真の普通を、心身に馴染ませること。そのことで、‘人のために’の言葉が存在意義を持ち得てしまうその原因でもある困った人(事)の姿が変わる。人間は、ただ人間を普通に生きる。難しいことは、何も無い。by 無有 3/25 2018

 

 

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