人間(3)

 

1.難しくさせられてしまっていることは有っても、難しいことはどこにも無い。仮に、そこにそれが有るとすれば、それは難しくなるまで放って置かれたためのもので、そうでなければ、無かったことである。その理由となる存在によって事の原因が動かなければ、それが難しくなる流れに人は巻き込まれ、難しさが普通となる異常さを人は経験する。難しさの奥深くには、凝り固められた無責任の原因が在る。

 健全も健康も、調和も友愛も、それらの原因を持ち合わせない存在が生み出そうとする、不健全で、争い事の絶えない世への働きかけの結果生まれたもので、元々は無くてもいい概念(言葉)である。人としての在り様が普通に健全・健康である時、そこには事を複雑にさせる事柄は存在せず、調和も友愛も、誰もそうであることを知らずに、それそのものとなる。世に存在する言葉や表現の多くは、普通に育まれ、成長すべき(されるべき)ことを嫌悪する存在が、そうであるように仕組んだものと思って良い。難しさ(複雑さ)は、停滞と衝突の別の形である。

 難しさの原因が変わらず、そのままそのことが普通となる時、人は、要らない思考の働きを強いられ、体験の伴わない形ばかりの知識(情報、表現)を際限無く取り込むことになる。複雑に絡み合う原因がそこで存在感を持つと、それをどうにかしようとする結果優先の価値観が力を持ち、感情も忙しくなる。そして人は、本来であれば無くてもいい経験を主に人生を過ごすことになる。

 難しさの中、人が思考を忙しくさせる時、そこには、外へと広がり繋がる健康や調和の原因は無く、自然界が望む、理由の要らない平和の要素も無視されてしまう。いつしか、その風景では、個人の都合優先の感情が事を動かす原動力となり、その重たい原因は、差別や優越といった、人間が持ち得なくてもいいそれらの意識が正当化されるという、歪な人間空間を誕生させる。それも、難しさの原因がずっと放って置かれたためのもの。人間は、複雑に頭を使わされる経験の中で、生きる上で最も重要な、人として在るべき原因を育む責任を無くしてしまう。

 人間は、形を創る形無き心がありのままであると、どんな難しさも違和感となる。忙しさも複雑さも、その原因の危うさに反応するので、それをそのままにはせず(不要にそれに関わらず)、感覚的対応を主に心を活躍させる。人間が人間を普通に生きる時、難しさは居場所を無くす。

 心無い人間時間を普通とする人は、心ある原因とは無縁であるため、頭をやたら使う難しさを愉しみ、複雑な問題事への対処に妙な喜びを覚える。そして、縁ある空間や環境への配慮を無くし、人間であることを忘れる。難しさは、心の無さの具現化でもある。人間は、それ関わりの世界で、どこまでも人間らしさを削っていく。

 

2.人間が辛くなるのは、調和ある自然界(空間)のその原因となる一生命ではいられない自分を感じる時で、その他は無い。人間が嬉しいのは、太陽のような全てを生かす存在としての生をこの地球で表現できていることで、それ以外は無い。それを知り、この地球自然界で異常な変化を遂げた人間世界での、人間特有の悲しみと喜びの本質を見る。人間本来は、悲しみを知らず、喜びも、その理由を知らない。

 そのことを忘れて生きているから、悲しみや辛さがある状況で身に起こるわけで、初めからそこ(本来)に居る自分を知れば、それらへの違和感からそこ(不安)を離れ、それら全てが無くてもいいものであることを知る。

 そのことは、人間が成長する上で不可欠なシンプルな理解であるのだが、人は、自らの本質を知ることを怖れ、感性を鈍化させつつ、嘘の人間を生きる。不安の裏返しの安心を求め、それが手に出来れば幸せを感じ、そうでなければ悲しみを抱くというその身勝手さは、そのまま悲しみや辛さを生み出す原因となって、歪な世を支える。

 自然界の自然な姿が自分の安心となり、喜びとなるような人たちの住む世界では、ただ人間を生きる(生きられる)ことのその喜びから、生が始まる。人間が人間でいるその普通の世に、悲しみや辛さが生み出される原因は無い。

 生きる原因が自然界のそれからかけ離れた時、人間は、理由の要らない安心を忘れ、無自覚に不安を慢性化させる。そして、喜びと悲しみ、安心と不安という、二者択一的思考で扱える非生命的な感情を普通とし、厳しさや大変さを美徳としてしまう程、生きる質を低下させる。つまり、嘘の人生である。

 その嘘の人生(人間社会)での全てから自由になれば、生きることが、どれ程の喜びかが分かる。そこに悲しみは近寄れない。不安も不幸も、その意味を知らない。その時の、その普通を、人間を生きていると言う。

 

3.人間が住む空間である種の決まり事が作られる時、それが自然界に生きる生命たちに負担をかけるものでなければ、人々の暮らしから、健康と平和の原因が失われることはない。

 人が病気になるのは、生まれる前からそこに在る決まり事が、不自然で不健全なものであることを意味し、そのために、健康・健全の原因は活躍出来ず、人は、その気もなく病気の原因を蓄積させることになる。

 人と人が争うのは、生まれる前からそこに在る決まり事が、不自由で不調和なものであることを意味し、そのために、平和と友愛の原因は身動き出来ず、人は、いつのまにか、争い事の原因を内に潜めることになる。

 自然界は、病むことを知らず、動植物たちは皆、自然な在り様を基本に、調和そのものを生きる。その自然界が困らない決まり事を生み出す思考は、心身の健康を安定させ、健全な人間生活のその基礎を支える。自然界の自然な姿に負担をかけない意識は、そのままそれとの融合が重ねられていて、自らも調和を普通に自然であるということ。そこに、病気や争いの原因は入り込めない。

 自然界も嬉しい、人間の自然な生き方。そこでは、決まり事も、その生き方を守り、支え合う、人間としての約束事。いつもそれは、自然界に見守られ、応援され、共に協力し合う。それは、決まり事のようで、そうではない、人の普通の形。不自然さも不自由さも無いから、自然界同様、人の世に、困り事は生まれない。それは、人間が人間でいる空間での基本形。地球も、それを嬉しい。

 自然界が安心できる人間の住む世界では、大切なことがあたり前に大切にされる風景が普通に在るので、決まり事がとても少ない。それでいて、問題事は見当たらない(当然だが…)。人は、その意識もなく、協力し合い、支え合い、生かし合う。

 決まり事が多い人間社会は、人間が住む世界とは言えない。決まり事を作りたがる問題事大好き人間は、無人島行きである。そんな人間としての普通を普通とし、生きる原因を、自然なものにする。自然界はいつも、人間たちの姿をじっと観ている。

 

4.考えながら話をする人の姿というのは、本心を偽る自分に全く無自覚な程、その状態が普通になっていることの現れであり、そんな人が大切にするキレイ事や体裁の陰で、人の世は、人知れず不穏なものになっていく。

 思っていることは、自然と言葉になろうとするもの。その自然なプロセスを押さえ、言葉を選び、考えながら話をする人は、そう思っていると思われたい(思わせたい)その実思ってはないことを言葉にすることを常とする。それは、言葉を盾にして、嘘の自分を守ろうとする怯えの形。人は、彼(彼女)の言葉に気を取られ、気づけば、頭を不要に働かされ、心(感性)を抑え込まれる。

 考えて話をするというのは、時にその必要性に付き合わざるを得ないこともあるが、基本的には無くてもいいものである。そうであるべきこと(理由)が力を持ち、それを普通としている姿があれば、その人は、いつも過去を引っ張り、結果を生きる、言葉だけの人間ということになる。物事の原因となって連繋の仕事をするはずの言葉は、考えて話をする人の脳の中で、重く動きの無い滞りを生み出す負の原因となる。

 考えて変わる(変われる)ことは、変わるべきことへの抵抗を少しだけ薄めるレベルのもので、なぜその抵抗が生じ、なぜそれまでそうであったかのその原因を変える力にはなれない。つまり、考えて話すということから自由になれない人というのは、変化とは無縁のその無意識の意思(本性)で、人の変化を止め、非生命的に事を扱うのを好むということ。そこでは、言葉から始まり、言葉で終わるという、言葉だけの話を得意とする人間が妙な存在感を持つ。

 話すための知識を溜め込むのが好きな人は、当然、それを不要とする心の自由は経験できず、そうして本心を偽る分、心身の変化・成長に繋がる原因のままの交流とは、縁遠いところに居る。知識ばかりが増えると、体験的理解の次元が遠のき、何をしても、どこに行くにしても、その気もなく意味も無く考えるという不気味さをあたり前としてしまう。心がそのまま言葉になる人間本来の風景に、知識が、言葉による表現や理解の元になることはない。

 考えてばかりの生活をしていれば、人と話をする時、必然的に考えて話をする。考えることで、未消化の感情の記憶を溜め込めば、その分考える(考えてしまう)ための燃料は増大し、誰と居ても、考えて話をする。考えて話をして、本心をその気もなく隠し続けるというのは、内心は、いつも不安で一杯であるということ。そこから自由になるために、考えずに話をする。そのまま想いを言葉にする。いつしか、本心が、理由の要らない喜びの原因と重なれば、何を話しても、どんな言葉を使っても、ありのままの本来は元気になる。

 人間は、内も外も同じ。同じだから、人間は、人間でいられる。言葉(会話)は、その普通を支える、気の良い仲間のような存在、そして生命。心のままの言葉と一緒に、心を生きる。それは、人間の普通の姿。

 

5.人間は、他者を自分のことのように思い、他との隔たりも無く、共に居る空間を、柔らかで、温かなものにする心の働きを普通とする。人の住む世界では、それだけで他は何も要らず、ただそのための生き方が自然と育まれ、共に成長する。何をするわけでもなく、何気に手にすること、形にすることが、さりげなく人を生かし、その風景が、次へと連なり、繋がっていく。

 その人間本来の普通が尽く遠ざけられ、忌み嫌われる時を経て、人間の生の質はどこまでも低下することになるのだが、そのための材料として狡賢く人の世に具体化された概念が、品性であり、品格(品位)である。品性の本質は、全くそうではない状態を覆い隠すための、偽装・偽善である。昔から、力ある立場の存在は、それを好き勝手に弄び、人との差を愉しむ際の、その要素(味付け)に上手く使う。

 労せず力を手に出来る(支配する側でいられる)体制を整えた、心を持たない存在たちが、お遊戯感覚で始めた、見た目からなる品性・品格。現代でも、危うい本性を備える人間によってそれは利用され、裏表のある人生にしがみつく人間によって、それは支えられる。品性の有る無しの判断・理解は、実に恐ろしい病みの感覚。秘めた残忍さを見せなくさせるための道具として、そんな人がその気もなく身に付けてしまう品性・品格の類は、心をごまかし、人を騙す、格好の手段となる。

 人の世に、品性のようなものがあるとすれば、それは、現代人が認識するそれとは次元の異なるものと捉える。形から始まる形式が人の思考に深く絡み付く世では、見た目優先の中身の無い人生が横行する。そこでは、自然に伝わるものが執拗に隠され(無視され)、作為的に伝えたいものだけで、人は生を生きる。そのことで、存在感を手にする品性。それは、嘘の人生の証となる姿でもある。

 人間本来に品性という言葉を敢えて重ね合わせるとすれば、それは、未来への責任感覚を普通とする、その真剣な在り様となる。初めにその品性が在り、その人の全てを通して、それは自然と伝わる。しかしながら、それは普通。人間が人間らしく自然に責任を生きる時、その姿を未来は嬉しい。そこに在る原因は、どこまで行っても、生命としての本来であり、その質は、品性という言葉の次元を包み込む、地球感覚の品性である。否定感情(不安、差別、支配etc.)とは縁遠い世では、誰もがそれを普通とする。

 品性や品格(品位)を意識する時、自らの中の非人間性を自覚する。人間は、自然と伝わるものが交流の基本であるから、不自然に何かを伝えようとする次元からは自由でいる自分を生きる。その時、責任感覚の無い形ばかりの品性は、ガラクタの代表となる。人間は、人間の世界特有の品性の次元を知らない。

 

6.人間は、嬉しいと、笑顔になる。笑顔になると、嬉しくなるわけではない。人間は、心が平穏だと、柔和な表情になる。柔和な表情を心がければ、心が平穏になるというわけではない。

 人の内側に生じる感情は、そのまま表情や仕草となって表に出て、心身の状態にも様々に影響を及ぼす。それが他や過去を意識することからではない、素朴な安心のそれである時、感情は、その人そのものの性質となり、優しさや思いやりを普通とする人間らしさのその原因となる。そうではない不安や嫉妬の絡み合う感情である時、状況(環境)が許せば、その姿勢は攻撃的になり、そうでなければ、嘘の表情を作る。その時の嘘に、笑顔や柔和な姿が上手く利用される。

 形無き原因からではない、(所有欲や優越心と繋がる)物や形を通しての結果発の安心を拠りどころとする人は、感情の質が不自然で、重く、流れない(回転しない)ものであるため、そのままだと、表情は、不遜で冷たく、不機嫌になる。そのことによる不利・不遇を防ぐために、彼(彼女)は、人前ではいつも笑顔になり、穏やかで、淑やかな印象づくりをする。笑顔を絶やさずに居られるというのは、不気味さでしかない。

 人間は、心の様が人間らしく普通である時、表情は、そうであることも分からないぐらい、柔らかく、自然なものになり、当然そのことで、不穏な状況や関係性が生み出されることはない。事の起こりは、いつもその原因から。理由の要らない安心と喜びが自然と生まれる普通の人のその心の風景(原因)に、争い事や不安・不健全な状況が引き寄せられることはない。

 笑顔でいることの大切さを表現しようとする人は、そうであることの燃料となる不平と恐怖(怯弱)の感情を内に潜め、その自覚もなく、不公正で不健康な風景を作り出していく。朗らかで優しい表情や仕草を心がける人は、その実、そうではない本性を隠し持ち、その嘘の言動の下地となる秘めた非人間性で、人の暮らしに、無くてもいい現実を生み出していく。

 嬉しいから、人は笑顔になる。そうでなくても、人は不機嫌にはならない。人は、心ある生き方を普通とするから、縁する空間(人、出来事etc.)への違和感やそれとの融合の質に正直に反応し、表情は、自由で、素朴で、そのどれもが、自らの心の原因発となる。心の原因は、そのままで空間を安心させて変化に乗せ、時を癒して、時を繋ぐ。その生命の仕事をする自分自身に、人は笑顔になる。by 無有 4/13 2018

 

 

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