人間(4)

 

1.太陽の光を浴び、爽やかな風に吹かれ、水(海、川)を感じられる場所で、流れる風景と遊ぶ。人間には、そんな何でもないことがとても大切で、生きることの普通を、そのことが自然に支えてくれる。

 しかしそれは、人間という身体レベルのことで、生命としての生をテーマとする時、そこには、全く次元の異なる本質が在る。人は、そのことを知り、人間を生きることと生命を生きることを同一とした生を、人として生きる。それは、太陽の望み。自然界も、そのことに安心する。

 その意識もなく細胞が辛くなる暮らしを重ね、無自覚にそのことによる負の影響を外へと流している時、人は、海や山を癒してもらえる存在として身勝手に捉え、個人的にその姿を利用する。そんな時、人は、自然環境に包まれ、心身はリラックスを覚え、そして頭を働かせる気もなくなって、ぼんやりとした時間を過ごす。休息の中、うたた寝もする。

 本心とは裏腹の自分を生き、そうであることも分からずに良い人を演じている姿がそこに在る時、人は、太陽や青空の下で、気づけばボ〜っとしている。その気もなく体裁を整え、人との間では何かと建て前を大事にしていることに何の違和感も覚えない人は、山や海の在る風景で、いつのまにか頭が空っぽになったみたいに(知覚が鈍ったみたいに)、気持ちがゆったりとして、くつろぐ感じになる。それらの状態は、実は、本来への抵抗の現れである。見た目は自然界との融合でも、中身は、自然界への拒否反応である。

 

2.人間の姿は、形ある世界仕様のその元となる形無き存在の意思の表現体であり、人は皆、その意思の性質のままの感情を原因とする人間時間を生きる。その別次の意思は、いつの時代も、人間の脳(意識)と一体化した生を生き、時代環境に合わせて、身体との共同作業のようにして、好きなように事を生み出し、経験する。

 現在の人間の姿は、その現代版であり、その殆どが、世の心ある価値観に合わせられる身体(思考)と、そうではない(それを望まないが、都合良く利用し得る)形無き意思のその原因の影響力を同一に重ねて、人生を生きる。本当の自分は、その形無き後者である。

 その形無き本当の自分は、一体化させた人間のその意識の原因として、自由に人間時間を愉しむことを普通とするが、無意識の意思や本性(の遺伝子)の思惑といった観点からでも、その性質は捉えることが出来る。つまり、そのつもりもなく行ってしまうことや、人知れず影響を及ぼしていることのその理由となるのが、日頃全く自覚できない、その本当の自分の意思であり、思惑なのである。

 もちろん、それも自分。事は、その手前から無意識に動き出していて、その経過の姿は(人間の脳では)把握し得るところには無いが、自らの身体を通してそれは為されているわけであるから、そう感得し得てもそうでなくても、それは自分ということになる。その原因のところでの実際が、自然界の中で自然に顕になる。

 

3.生命としての自然な変化を拒もうとする、滞りや衝突の原因を密度濃く備える無意識(本性)の意思は、身体(脳)に、そうとは分からない嘘の感触と理解を経験させて(植え付けて)、変化とは無縁でいる状態を完璧に維持しようとする。

 その意思が嫌う、太陽の光で温められた場所では、ボ〜っとして眠気を覚える体験を人間に心地良いと思わせ、全ての生命を変化・成長させようとする太陽の原因の力を遮断する。自然の中で不自然に脳(身体)の活動を鈍くさせ、変化を遠ざけるその負の原因を重石として、自然に残す。状況的にそれが難しい時は、逆に思考を忙しくさせて、感覚を押さえ、その意思を形にする。

 青空の下でも、海や川が見える場所でも、無意識の意思(本性、本体)がそれを拒もうとする時、人はボ〜っとして、眠気を覚え(脳の働きが鈍くなり)、心地良く、そこでくつろぐ。別のもう一人の自分の姿でもあるその意思は、青空の下に居ても、青空を見えなくさせ、海を見ても、海を感じさせない。リラックス感も、感じるままではなく、思考と身体の満足としてしまう。

 「歴史の芯」の後半途中から繰り返し何度も登場した、本体という、身体の次元を自由に操る、姿無き(無生命的な)存在の意思。人間は、そうあるべき自然との関わりを失くし、嘘を本当に、不自然に生きる。

 

4.人間は、太陽や青空の下に居ると、それだけで心身は活動的になり、そのことで自然と増幅する理由の要らない喜びを燃料に、自然体の心が躍動する。海や山でもそうで、自然界が安心する人の暮らしの中でも、人間は、普通に心を元気にする。

 その元気は、不調や不安の裏返しのそれではなく、病んだ原因が癒されようとする時の、その反動による感覚でもない。この地球で、自然界の一部として生きる人間は、太陽が好きで、青空と一緒に、海と遊ぶ。山も川も、森も平野も、自分の分身のように感じ、どこに居ても、普通自然体の安心と余裕が、そこには在る。

 その普通を失くした(持たない)人間は、人は誰もが病気になるもの、と考える程、自然界に生きる一生命としての生き方を忘れ、自己の都合で自然界を扱い、自己を優先して、それを利用する。そんなだから、自然界の自然な力が自分に及ぶことは酷く嫌悪し、それを遮るために、自然の中ではボ〜っとする。自然界が喜ぶ中庸のテーマにも、形ある結果を望まない原因のままの姿勢にも、彼らは、ぼんやりとして、思考が働かなくなる。

 心身の疲れへの癒しやリラックス効果のためにと、非生命的に自然界に負荷をかける彼らは、自然界が何より望む、不調や病気の原因を作り出さないということには、無頓着である。その非人間性を普通とする、異常な本性(本体)の意のままの姿は、好き勝手に自然に触れ、自然を蝕み、そこに不自然さの原因を注ぎ込む。その時、その存在の意思が得意とするのが、頭をボ〜っとさせることと、眠気への誘い込みであり、時に執拗に考え事をさせて、思考を無責任にすることである。

 

5.リラックスは、ボ〜っとしてくつろぐことではなく、心身が軽く、自由に動けることである。そうであると、リラックスするための時間が不要となり、いつでも、どこでも、普通にリラックスしている自分がいる。そのことを、生きる姿勢の基本とする。そこから離れてしまうと、自然界の自然治癒への働きかけも、自分から遠のいてしまう。

 その状態を安定させるために、どこに居ても、どんな時でも、ボ〜っとしないようにする。睡眠は、夜、心身の休息として自然に為されるものだから、日中は、眠気にも誘われないようにする。

 ある時、ある場所で、ボ〜っとしてしまうと、何気ない疲れの原因は奥に染み込み、それは慢性化する。ストレスを抱えてしまっていることで、ふとうたた寝をする時、その負の原因は処理されないまま、心身の状態は悪化する。それよりも、細胞が喜ぶ食事(全粒穀物食)を摂り、思考を自由にさせ、自分の時間を大切にする。ボ〜っとしてくつろぎ、気持ち良く眠ったとしても、それは原因無視の思考の域で、本来ではない。

 考え事をし、思考を忙しくさせることも質は同じで、それは、リラックスを嫌う無意識の意思が主導権を握っていると思ってよい。そこに感情が重なれば、事の好転は望めず、心身は、不調をあたり前としてしまう。考えてばかりの人も、ボ〜っとしている人も、そこに潜むのは、自然界を嫌悪する危うい性質の意思である。それを外し、人間らしい人間を生きるために、そのどちらからも自由になる。無有日記を、思考を自由にさせつつ感じるままに読み、そこで一切ボ〜っとしないだけでも、そのエッセンスは身に付いていく。

 

6.何をしてもどうにもならず、いつまでも同じ繰り返しで変われない(変わらない)のは、同一化してしまっている別次の意思(本体)が、それを決して許さないためと考える。ただそれも、自分自身であるゆえ、自覚を持って、その不穏な意思の力を外す。無有日記は、どこまでもその支え役になる。

 ボ〜っとしてしまう時、そうにはならない自分を選択すると、その存在の意思は強力に動き出し、時に非理・非情な感情までが押し寄せる。それでもボ〜っとしなければ、これまで心身の中に染み込んでしまっていた負の原因が、違和感や痛みを伴って現れ出す。それは、その意思のかたまりにヒビ割れが生じ、少しずつ砕かれようとしていることを意味する。自然界が嬉しい「LEDフォトブック」との融合を重ね(足から始まる)、その無くてもいい別の自分を、段階的に外へと押し出していく。別の自分が力を無くせば、本当の自分が新たに更新される。

 自然界を嫌い、変化を拒もうとする存在(本体)の意思は、リラックスの真の意味と、その影響力を恐れる。だから、ふと眠気を誘い、ゆったりとした時間を演出するわけだが、その中身は、不調を安定させ、停滞を生み出そうとする性質であるゆえ、その仕掛けにはかからないようにする。

 何気に安心感を覚え、ボ〜っとする時、そこには、変わらないままの不安の原因が無自覚に残る。太陽の光で温められた場所で眠れば、太陽の生命源の原因を遮ることになり、その気もなく、自らの生命の意思は不安定になる。心身が楽になっても、それが無自覚に溜め込んだ疲れや不調を土台とするものであると、同じことを繰り返す。それよりも、いつも楽で、気持ちが自由で、何があっても、どこに居ても、不安や不調からは縁遠い自分でいる。

 そのために、嘘のリラックスを返上し、リラックスをあたり前とする自分を生きる。ボ〜っとしないこと、うたた寝をしないこと、思考(感情)を忙しくさせないことが、それを容易にする。

 

7.暖炉の側に居ると、ボ〜っとして眠くなったり、水浴(水泳)をした後に、思わず寝てしまったりする姿は、その殆どが、火や水を嫌う、意識と重なる本体(本性の元)の拒否反応の現れであり、眠気へと身体を引き込むことで、その意思は、それらとの融合の時を壊そうとする。こういう時はどうしても眠くなるという時のその理由となる背景には、その空間での自然な変化を阻もうとする、別次の意思の異様な働きかけがある。

 睡眠時間帯とは異なる日中のどこかで、ふと眠気を覚える時、そこに引っ張られないようにするだけでも、心身は、更なる負の原因を溜め込みにくくなり、蓄積したままのそれまでの未消化の経験の記憶を、少しずつ浄化し得る時を生み出す。誰かが近くに居るわけでもなく、何か特別にしなきゃならないことがあるわけでもないその時に、考え事ばかりする自分が居れば、そこから離れてただ歩くために歩いてみるだけでも、それを嫌がる別の自分(本体の意思)の、攻めのパターンのようなものを把握し得る時が訪れやすくなり、脳の使い方に責任を覚えるようになる。

 ボ〜っとしても、頭が忙しくても、そんな時の自分は、その状況がどんなであれ、不自然さを地で行く不穏な(原因の)存在であるということを知る。それは、その時、そうではない自分を選択・実践すれば、体験的に自然と知り得ることである。

 やむ無く眠気を覚えざるを得ないこともあることはあるが、その例外的な場合は、日頃から眠気を外し、心地良さとそれを結び付けることのない自分を普通とする中で、何気に、何の負荷も無いところで感じ取れるものである。どこに居ても、何をしていても、ボ〜っと眠気を覚えることのない生活空間をあたり前としていく。

 

8.溜まった疲れを癒すために休息を取る必要性が生じ、そこでボ〜っとしてしまうことがあるが、大切なのは、そうなってしまう状況の、その原因への対処である。睡眠の質が低下して、心身が不安定になり、日中の睡眠でそのことを補わなければならなくなることがあるが、大切なのは、そうならないための原因の選択である。

 それらの原因は、休息を取り、ボ〜っとしても、睡眠を取っても、変わらない。楽になったようで、中身は何も変わらず、変わったようで、その原因はそのままである。無くてもいい現実のその原因の浄化も、そう在るべき新たな現実のその原因の創造も、ボ〜っとしないことで動き出し、眠気から離れていることで、具現化する。それは、生命としての生を生きる人間に与えられた、地球時間における知恵である。

 地球の陸地の基本形は、地面(地表)までであり、地上での営みは、そのおまけのようなものである。そして、地上で生きる生命たちは皆、地中(地球)からの植物の生命力を糧に生を生き、生を終えて地中にその全てを返すことで、自由に生きることが許される。太陽は、その姿を光と熱で支え、海は、川と共に、その水で土を活かす。

 その基本を知る時、人は、太陽と海を身近に感じ、自然界との一体感を覚える。そこに特別なものは何も無く、ただ一生命としての人間を生きるその生の大切さを、誰もが自覚する。その時、人は、太陽に優しさを覚えるという感覚を遠くに、自らが太陽のような優しさを生きる。海や山の温もりと同じように、自らも、温もりのある空間を創る。それが人間である。そうではない時に生じる、(人間だけが嬉しい)ボ〜っとする感覚も、頭の忙しい時間も、縁遠いものになる。それは、太陽の嬉しさであり、地球自然界の安心である。

(人としての生きる原因が大切にされていると、時に、踏み込まれては欲しくないエリア(価値観、組織etc.)の拒否反応に、ボ〜っとすることがある。それは、不要に絡もうとする姿無き存在(本体)が、その同質となる対象に違和感を覚えさせない意図によるものと考える。自由な原因のままの(思考では扱いにくい)音やリズムとの融合にも強い反発(憎悪)を示すその意思は、眠気という形で、(その本質となる)怯えと狡さを顕にする)

 

9.そして、この4章の内容を実践する中で、いつのまにか経験していることになる、新たな普通。それは、余りにさりげなく、自然なことであるため、どこまでも自覚しにくい。それもそのはず。それは、脳の中の微妙な変化。微妙であっても、とても重要なそれは、ずっと永い間その自由な働きを妨げられていた部分の、活動再開とも言うべき、望むべく変化。人は、その時を、大きな喜びとする。

 人間の脳は、意識を支配されたまま、普通ではない状態の時をずっと連ねて来ているが(「歴史の芯」)、そのために尽く本来の活動を阻まれてしまっていたのが、すでに述べている右脳であり、その働きの(物理的)枷と化していた脳りょうと、健全な身体表現の原動力となる視床下部である。他にもいくつもあるが、この3つは、心ある人間時間での生命の意思表現という観点では、担うものの次元が違う。非生命的な存在の思惑に付き合わされた人間の脳は、右脳を牛耳られ、それと視床下部との連繋の仕事を扱う脳りょうを不自由にさせられる。それらが、奇跡という名の普通の中で、生まれ変わろうとする。

 これまで普通とされてきたことの、その背景となる理由とその原因が、地球自然界の望み(意思)を基とするEWによって動き出す時、そこに在る、世の普通とされる(されてしまっている)不安や怖れ、争いや衝突(病気、問題事etc.)の原因は、それまでのままではいられなくなる。その際の、自浄力を高めるべく原因の処方がボ〜っとしないことと、思考を忙しくさせないことである。日中、一切の眠気を外し、居眠り(うたた寝)をしないだけで、脳は変わる。そして、無くてもいい不調や不安のその発信源のようなものを感得し、それらを外す自分が居る。脳は、永い時を経て、人間のものになる。

 

10.心身の不調の原因が存在しなかった遠い昔、人間は、その普通を繋ぎ、支え合うために、自然界と共に、自然体の生をあたり前に生きる。当然そこでは、現代にあるような胃腸の疾患や腰痛、ひざ痛の類は誰も知らず、器官や機能、感覚(子宮、目、皮膚etc.)の不調も縁が無い。無有日記を通して何気に生み出される意識が、未来が喜ぶ自然体(中庸、全体)のそれとなる時、心は、遠い昔の自然界が備える、その力強い普通との融合を経験し始める。

 争いも病気も無かったその頃、足の指は、地球感覚の基となり、仙骨は、人間生命を繋ぐ(守る)仕事を担う。腎臓と肝臓は、身体活動の本来を支え、その全てを知る脳は、右脳を中心に、一生命としての人間経験の時を生み出す。地上(の次元)が不穏なものになる中で、その健全な働きを集中的に病まされたそれらは、この現代に、かつての経験(遺伝子)の記憶を復活させる。心は、そのことを何より嬉しい。

 LEDフォトブックで、地面(地球)からの生命力を好きなだけ身体に流し得たら、「人間(4)」との融合に、腎臓と肝臓、仙骨と足の指を参加させる。そのことで、治癒・自浄への自然な働きかけとなる自然界発の普通は、その原因のところからの動きを伴って、具現化していく。「仏陀の心」で、本体の性質に触れ、「歴史の芯」で、その切り離しと創造(生まれ変わり)への原因を高め得たひとりひとりの存在の性質は、「人間」を通して、歴史的生き直しを可能とする。「人間(4)」で、地球感覚を自然体とするその原因の仕事は、自動制御になる。

 

11.時間の使い方の、その質が大きく変わる、「人間(4)」以降の、何気ない人間時間。居眠りしないというのは、それだけで、どうにも対処し難い無意識の意思の性質を変化に乗せ、経験から自由になれない現れでもある、感情や思考の繰り返しパターンにまで、その作用は及ぶ。何かの裏返しの経験ではない、生の仕切り直しのような、生命本来の時。ボ〜っとする時間を無くし、眠気に付き合わされずに居ると、仕組まれた心地良さの中の危うさがよく分かり出し、夢や思考にまでそれが入り込んでいたことも余裕で理解する。気づけば、心が逞しくなる。

 そして、段々と経験するようになるのは、居る場所や人(物事)との関わりを通してふとそのことを気づかされる、生きる原因の変化・成長とその安定。人や空間がどんなであれ、常に心は主導権を握り、想いは、流れるように心ある未来と繋がる。その原因は、縁する風景(人、もの、環境etc.)のそれに正直に反応し、滞りや不健全さの原因を浮き上がらせて、その出所を絶つ。思考を不要に使わせない中庸の原因のままの無有日記に触れつつ、眠気を遠くに置けば(ボ〜っとしなければ)、その基礎は力強くなる。

 この「人間(4)」との出会いを、自然界が喜ぶ、一生命としての人生の再スタートの時とする。その実践を通してのひとつひとつの経験は、縁ある風景のその元となる原因を変え得る風となり、新たな時へとその原因を修正・浄化する光となる。ここから、この時から、地球自然界の色は変わり出す。

EWを進化させる中で、胸椎上部や鼻、眉間なども、それに参加させてみる。それらは、永いこと病みづくりに利用された場所である)by 無有 4/30 2018

 

 

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