人間(5)

 

1.人の住む世界では、共に生きることのその役割上の立場として、人々の中心にある人が居ることはあっても、そうではない、人が人を支配する立場として、そのことが存在することはない。有るとすれば、それは、共に生きることの大切さが崩れ、壊れてしまっていることを意味する。政治でも経済でも、それぞれの社会生活でも、人が人としてそこに居れば、支配欲や権勢欲からはあたり前に縁遠いところで、人間はそれを共有する。

 その人としての基本からなる様が力無く不穏なものになることを、人は放っては置けないのだが、内なる非人間性を形に、狡賢く(欲深く)生きようとする心無い人間は、その不穏な世を土台にいかに生きるか、と負の連鎖の接着剤のような人生を送る。彼らは、そのための立場や地位を利用し、人々に影響力を及ぼせる場所で、自己満足に浸る。

 不健全な原因がしつこく潜む世で成り立つ、不公正な政治と不自然な経済。そしてそれらに支えられる、心(原因)の性質が無視された、教育と文化。それらをそのままにしないために大切となるのが、素朴な子供心を基とする(その原因からの)健全な感性と違和感であり、そうではない現実の、その原因の選択と実践である。それ無くして、人が事の内実を変えることは不可能で、その大切さを普通とはしない人のその個人的な思惑により、変化とは縁遠い世が不自然に安定してしまうことになる。

 人は皆、好きなだけ自然と戯れ、共に遊び、そして自由に動き回るそれぞれの子供時代のその経験を、調和と友愛のその形無き原因(基本)とする。ところが、不思議なことに、それを嫌悪する異様な意思を備える子が居る。彼らは、子供時代に育むべきことに背を向け、そこで有ってはならない自己本位の感情を強めていく。

 それは、人間時間をその意思表現の道具として操ろうとする、姿無き存在(本当の自分)の、現代仕様の手段。そこに在る支配・征服欲を形にするためのその準備として、当然のようにして子供時代の子供らしさを退け、(心ある表現の基礎である)子供時代には当然無縁であるはずの差別や優越の世界で、狡賢く個を生きる。

 彼らは、その歪な経験全てが正当化される世のその基礎となる生き方で、それを支え、同質の存在たちが作り上げた不穏な社会の、その不健全さに守られる。その後、それを放って置ける立場や地位を上手く手にし、大小様々な人の空間において、その中心となり、負の影響力を及ぼす。彼らにとっての子供時代の子供らしさの無さは、その非人間的な本性からなる支配・権勢欲の材料としてあり、巧妙にそれが具現化されるためにある。

 子供たちが皆、子供時代に、その時ならではの遊びを中心に、子供心を元気に(生命溢れる)想いを活躍させて過ごせば、政治や経済が、人としての普通感覚を忘れた不穏なものになることはない。友と自由に遊び、好きなだけ戯れ、おしゃべりをして、理由の要らない喜びと楽しみをみんなで共有すれば、不安発の出来事も、隔たりや不公正を生み出す決まり事も、生まれなくなる。

 それらを尽く無視し、遠ざけて、子供の頃から、見た目(体裁)や結果(他との差)重視の世界に身を置く子が居るから、政治がみんなのものではなくなり、経済が、形ばかりで中身の無い不自然・不健康なものになる。社会の問題事のその原因は、子供時代に作られる。

 人としての人間本来からなる普通が壊されたままであるために、この国は、生きる自由と平等の精神が尊重される世でも、人の生きにくさや動きにくさが繰り返し生み出されるという、歪な(未熟な)政治が繰り広げられる。その病み続ける世に合わせて、自らの危うい本性を満足させようとする存在は、幼少時から、自分が、一生命を生きる人間であることを放棄する。彼らは、自分のために人を利用できる立場(地位、肩書き)を手にするために、子供の時から、人間が持てないはずのその醜い意思を、上手く形にする。

 役割としてでしかない立場は、人としての在り様を普通とする人が、気負いも頑張りも不要とする中で、さりげなくその役を担う。そこに、課せられる責任は無く、ただ人としての責任ある原因が、その人を通る。それを人々も知り、共に生きることのその滑らかな流れのために、その必要性として、役がある。

 そこでは、対処しなきゃならない問題事も、誰もがその原因から離れていることを普通とするので、どこにも無い。責任の次元が違う。だがそれが、人間本来の社会の普通である。人は、誰もが社会の一員として社会を支え、支配や権力といった概念も、それらが思考に住み続ける経験を、人は知らない。(子供時代に子供心を育まなかった人の、その経験(感情)の記憶が原因となって引き起こされる、彼らに都合の良い争いや病気(衝突、隔たり、偽善etc.)も、そこでは、居場所を無くす)

 子供の時に、共にその原因を育み、みんなで元気にする、調和や友愛(健康や平和)の土台となる子供心。その心の基本となるものが、人の中に普通に在れば、政治も経済も、教育も宗教も(文化も環境も)、問題は無くなっていく。それは、人間にとって、とても単純で、大切な普通。人間であれば、それを無視することは出来ない。

 政治や経済の絡む世の問題事の全ては、子供時代に子供らしい経験を重ね、嫉妬や差別とは無縁の子供心を共に育むことで、面白いぐらいに、その姿を変えていく。不安も心配事も無い子供時代は、社会の基本。それを守るのが、社会の仕事。そこから自然と生まれ、形になる役割(立場)は、始まりも終わりも無く、ただそのままで、みんなのために、共に繋ぎ、支え合う。大人たちの子供心は、何の裏返しでもない(理由の要らない)健康と平和の原因を、普通に成長させていく。

 

 

2.思考の忙しさは、それ自体が、人の世に在ってはならない、人間の危うさと考える。それは、心ある人たちが何より望む、理由の要らない(何の裏返しでもない)平和を遠ざけ、争いの絶えない不穏な社会環境を支える力になる。あれこれ頭を働かせ、思考を絶えず動かす時間は、人間本来の自然な在り様に尽く抵抗する意思がそこに在るということを知る。

 思考は、悪知恵と相性が良い。本来、それは、心ある風景の(原因を支える)素朴な想いに付き合う脳の働きを言うが、その思考が想いよりも先に前面に出ると(思考が主導権を握ると)、心のごまかしが始まる。その気もなく心ある振りが普通となり、考えて分かることを以て考えても分かりにくいことを否定し、心を偽装する。頭では、心ある自分を信じて疑わず、嘘を本当に、心の世界とは無縁となる。

 自然界の自然な姿を観れば普通に分かることだが、人間も含めた、この地上で生きる生命たちの世界での平和というのは、他を隔てる性質を含む人間の思考の働きとその原因を、決して寄せ付けない。そこでは、ただ、そのままありのままに生きる自分たちの原因が平和そのもののそれとして自然と維持されていれば良いわけで、それを本能的に知る動植物たちは、いつ、どこに居ても、自らの分を生き、自然界でのその自然な営みを支え合う。

 普通であるはずの自然界との融合も、頭(行為)から始まる人間の思考は、それを、そうとは分からないよう(そうであると理解出来ずに)抑え込み、彼らが哀しむ風景を生み出す原因を作る。平和と健康をあたり前とする動植物たちは、思考を忙しくさせる(考えてばかりの)人の、その無責任な姿勢に、強い違和感(危機感)を覚える。

 事あるごとに理由探しをする思考の特性は、そうである現実をそのまま受容することを頑なに避け、自らも関わる物事のその原因への責任を経験しないまま、人生をムダに生きる。その事実も、身勝手な思考を忙しくさせるために、彼(彼女)らは理解できない。その分からなさを認めることへの怯えから、本来無くてもいい依存心(ご利益心)を強め、責任転嫁も常とする。思考の強い人は、人としての変化を嫌い、他者の変化を止めるその負の原因で、人にそうとは分からせない巧みな思考を働かせつつ、非人間性を地で行く。

 誰も平和の意味を知らず、平和そのものの風景を皆であたり前に支え合う世界では、頭で考え、どうにか処理しなきゃという現実のその原因からは縁遠いところで、本来の普通を生きる。考えなくても分かり合える大切なことを、共に育み、成長させ、その原因を自然界と融合させる。それは、自然界の望みそのもの。そうであろうとすることもなく自然体でいる人たちの、その柔らかな想いによって、動物も植物も、活き活きと生きる。思考という概念は、そこには無い。

 そこに、思考を忙しくさせることを常とする(頭を使って考えることを習慣とする)人が加わった時、そこでの普通は壊れる。平和や健康のその原因でい続けることを怖れる思考は、平和を支える風の動きを止め、健康を育む水の生命力を奪う。気づけば、人の暮らしは、重苦しい負荷を帯び、それまでには無かった、頭(思考)を働かせるという時間を経験せざるを得なくなる。思考の忙しさは、破壊と停滞を難無く生み出す。それは、その気もなく(狡賢く)為される、生命世界への犯罪と言える。

 「人間(4)」で、人間時間を思い通りに操ろうとする本体(本当の自分)の、その巧妙な意思表現に対処し得る自分を実践できたら、この「人間(5)」の文章で、思考の忙しさのその原因のかたまりを砕く。思考は、不健全さと争い事を支えるしつこい負の原因。自然界に生きる人間として、真剣に、覚悟して、思考を働かせない時間を安定させる。それ無しでは、いつまでも人間を生きられないでいることになる。

 ある問題事や思考を刺激される出来事が縁ある風景で生じた時、そこで頭を忙しく、考えてばかりの時間を持てば、それは、心の嘘の上塗りになる。自分の変化しにくさに、「なぜ?どうして?」といった発想を持てば、その分、人を悲しませる(苦しませる)無意識の意思は強力になる。自らの、変化を嫌がる本心に向けた勝手ペースの「なぜ?」は、思考の中では、重量級の凶器。キレイ事の裏で他者の人生を奪おうとする意思の現れでもあるそれは、繰り返すことで、人の健康と平和な想いをズタズタにする。かつて恐ろしい程の非情振りを経験した時の、その原因(感情の記憶)を内に潜める人ほど、思考を働かせないようでいて、思考を本体(別次の自分)に操らせる。そのことを常識とし、思考の病みを浄化していく。

 思考には、長年の癖のような姿勢(性質)が在り、思考を自由にさせ、経験からも自由でいる普通の人に対して、自らの思考(の繰り返しパターン)をしつこく、いつまでも付き合わせるというのがある。病的な悪趣味のようなそれは、本性の為せる技。辛い、厳しいという感情を利用して、人の人生に要らない負荷(重石)をかける。その凶悪で残忍な無意識の意思は、「人間」の文章で、力を失くさざるを得なくなる。

 この時代だから扱えた、「人間」の文章。「歴史の芯」に在るような世界を二度と経験しない(させない)ためにも、この時代に、思考を外す。考えて変われる(変えられる)ように感じるのは、本当は何も変える気が無い本心(本性)が、それで良しとする思考の満足を手にしているから。思考を働かせ、頭を使って考えても、平和や健康の原因は動かない。

 人間であれば、思考を忙しくさせるという異常なことを経験することは出来ない。平和そのものの原因(心)を生きれば、それにさりげなく付き合う思考が、自然と協力する。あたり前に健康の原因でいれば、そうである自分を支える思考が力を手にする。それ以外の思考は、全て無くてもいいもの。(自然界にとって危険極まりないLED照明が存在し続けることからも、それは分かる)心ある原因の質を変化・成長させようとはしない、思考型の人間のその脳の働きは、自然界の生命たちが最も辛くなる不自然な原因である。

 頭を働かせ、思考を忙しくさせる自分がそこに居るとすれば、「今私は災いの元を生み出し、人を困らせようとしている」と認識する。思考はいつも、それまでの経験枠を出ず、個人の都合が優先されて、動き出す。それゆえ、それだけで、無くてもいい出来事が生まれやすくなり、人は困ることになる。(無意識の意思(本体)はそれを望んでいるのだが…)そして、その出来事(問題事)に対処しようと思考を働かせ、偽善を生きる。思考の忙しさは、普通でいることが難しいという異常さを普通とする人の、その存在そのものが災いであることの現れである。付き合わされても、付き合わず、思考を刺激されても、思考を自由にさせる。思考は、実に恐ろしい病みづくりの原因であることを知る。

 思考の忙しさ(頭で考えること)を常とする人は、人としての知恵を持たず、感性も、人間(本来)のそれではない。短絡で単純で(単細胞で)、頭の回路は蛇系のそれと言える。それゆえ、覚えたことだけを頼りに、覚えられない(感じ取れない)ことを忌み嫌い、その世界を本能的に潰そうとする意思を働かせる。その時、思考が活躍する。

 思考の強い人にとって、人間経験の基本となる、中庸や全体、生命本来という世界ほど嫌なものはない。心ある現実を生み出す形無き原因のそれらは、思考を不要とするため(思考がじゃまになるため)、思考で生きている人には、意味不明なものとなる。思考は、内面の変化・成長とは無縁でいることを基本とするため、その内面の姿(本質)が顕になってしまう中庸や全体の発想は、恐怖でしかない。そのことで動き出す、非情な原因の力。思考型の脳の働きは、内に秘めた凶悪さを覆い隠す、その外枠と考えてよい。

 思考は、不安や心配事を燃料に病気や争い事(衝突)を作り、それを処理するための方法を作る。思考は、本心とは裏腹の体裁や建て前を大切にさせて、人との関わりを難しくさせ(不穏にさせ)、それへの対応を生み出す。それは、思考が人の健康と安心の暮らしを破壊する武器であり、嘘の人生を支える土台であるということ。思考は、非人間的な現実を生み出す(自作自演級の)嘘芝居の、その強力な病みの道具である。思考が止まらず、あれこれと考えてばかりの時間は、人間として、それ程の愚かさと残忍さは無いと考える。

 そう考えると、人々が思考を忙しくさせることを経験しなくなったら、それだけで、世は健全で平和なものになることを理解する。要らない思考が働きやすくなる知識や情報の世界から自由になり、経験や記憶(過去、結果)からも自由でいる。中庸をベースに、思考型の負の原因を浮き上がらせ、中庸そのものの中に居る。それまでのように思考が使えなくなれば、やっと人間を生き始められることになる。その支え役の無有日記を活用し、「人間」と「太陽の音楽」、そして「仏陀の心」を自分と重ねる。思考世界は、地球自然界がどうにも対処し難い、最大級の困り事。その無くてもいい負のかたまりの芯を外す。頭を忙しく、思考を使い続けるという嘘の人生を、わざわざ人間が経験することはない。

 頭ばかりが忙しく、考えごとに明け暮れる生活を普通としていると、その人は、永遠に変化とは無縁でいることになり、それを止めたとしても、それまでのその負の蓄積の影響で、どうにもならなさ(の感情)を人に押し付け、自暴自棄に近い精神状態を基本に、無責任そのものを生きる。この世で、思考ほど、その危うさを人に分からせずに負の影響を及ぼし続けるものはない。だから、そんな自分をムリなく切り離し得る無有日記の世界を実践する。この地上に居て、他の生命たちと共に調和と友愛の原因を生きる人間であることを忘れてはならない。

 頭から始まり、頭で終わる思考の世界は、心を育まなくても、心ある自分を偽装して生きる人間たちに、そのための妙な力を与え、存在感を持ち続ける。そこで、思考を忙しくさせる姿は、その人が、人間らしさを放棄していることを意味する。それを無くす。「人間」は、本気で生き直しをする人のその確かな原因を高めていく。

 思考を働かせない自分を安定させるのは、その人の仕事である。不安も怖れも、差別心も嫉妬心も皆、それらを上手く隠し得る思考の力を何より喜ぶので、頭が不要に働かなくなる、原因のままの無有日記に触れ続け、内に潜む否定感情のその負の原因を、自らの責任で浄化していく。無有日記の世界の実践は、思考を使うまでもなく動き始める人間本来の原因の実践であるゆえ、それ無しで時間ばかりかける経験は不要とする。気づけば、思考を使うことが違和感となり、脳が変わる。その時、その新たな人間経験に、それまでとは次元の異なる、生命を生かす生命としての思考が参加する。それは、普通本来の心ある風景を元気にするために、いくらでも、その人に使われる。思考が、全く新しい仕事をする。

 無有は、理由の要らない平和と健康の原因を変化に乗せ、それを成長させつつ、送り続ける。向かわず、求めず、思考を働かせなければ、平和と健康の方から手招きをし、そこへの道を教えてくれる。人が、生命としての人間を真に生きる時、心ある原因に付き合う思考はあっても、思考から(考えることから)始まる思考など初めからどこにも無かったことを知る。by 無有 5/24 2018

 

 

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