太陽の音楽(1)

 

1.人間が、普通本来の在り方を見失ったまま、長いことそこへは戻れずに、変化とは縁遠い時を連ねて来てしまっているその理由には、意外にも、人々が親しみ、楽しんできている歌の存在がある。歌は、人の心を動かし、生きる力の源にもなり得るものだが、心の性質にまで責任を持つものではない。素朴な人も、ずる賢い人も、優しさを普通とする人もそうではない人も、皆同じ曲を聴き、同じように心地良さを覚え、そして好感を持つ。しかし、人として変わるべきことに影響を及ぼし、その原因を確実に動かす心ある歌となると、残念ながら、どこにも無い(に等しい)。

 仮に、ある歌の中で、人々の声(心情)を代弁するような内容のことが歌われていたとしても、そうである必要性が生じる状況に至るまでのその無くてもいい原因の蓄積(の事実)は、そのまま居座り、変わることはない。聴き手は、ただ不安や苛立ちの類の感情を思考で処理し、気分をすっきりとさせられただけ。もちろん、それだけでも、それなりの意味を歌は持つが、それ以上は無い。歌を聴いて変われるレベルで、その歌が誕生する現実のその背景(土台)を変えることは出来ない。

 愛情や信頼、同情や支え合いをテーマに歌われる歌に刺激され、感動を覚える自分が居る時、その本当の姿が、理由も目的も(見返りも代償も)要らない愛情を普通とする原因のそれでなければ、その歌を通して、嘘の人生が固められることになる。愛情や信頼をテーマに、そうであろうとする(そうでありたい)歌は、それらを育むことなく不自然な生を生きる人に支持され、無責任な原因を残したまま、妙な力を持つ。愛情は、歌を通しての経験から育まれるものではない。信頼も友情も、感情を刺激されて、その力を高めるものでもない。

 

2.本音と建て前が使い分けられる人の世では、その背景となる、形ある結果(過去)に居座る感情が時流を生み出すため、そこで流行る歌の殆どは、キレイ事・他人事を良しとする人たちに支持される。そうであってはならないと思う人たちも、その多くは、そのための新たな原因を選ばず、その上での現実に都合良く一喜一憂して、その気もなく狡く生きる。

 その時に経験する、自己反省を趣味とする、身勝手な気落ちとストレス。歌は、そんな人たちに向けられ、彼らを慰め、励まそうとする。歌う人も、聴く人も、歌を材料に、嘘の心で、変化を遠ざける。

 人の力になりたいと、音楽の世界に関わり、歌を歌う人は、人が力を失くしてしまっているその結果を材料に曲を作る。しかし、どんな場合でも、そこには、そうなるまでのそれまでがある。その原因に触れようとはしないその姿勢は、挙げ句、自らもその結果を固め、更なる負の現実を積み重ねることになる。

 そのままで人の心の力になれる人は、自分が歩んできた道と、そこでの自分の普通(の感覚)を曲にし、歌う。それだけ。力ある自分を見失っていた人は、それを、本来を取り戻す機会とし、自らもそうである姿を甦らせる。

 いつの時も、形ある何かのためから始まる歌は、その多くが、広がりも深みも無い、変化を拒む道具。それは、人の自己満足を演出し、見た目ばかりの優しさと偽善を作り出していく。

 

3.矛盾とか不合理とかの形ある次元ではなく、それらに触れることで内でうごめき出す感覚的な違和感の、その理由は何なのか?世の普通に迎合することが考えられない日々で培ってきた体験的理解の性質は、どこへ向かい、どう活かされるのか?不安や緊張の中に抵抗することなく居続けたことで自覚し得た、形無き存在の姿は何なのか?そして、それらの経験のエッセンスが伝わることで、何を生み出し、何が引き寄せられるのか?その感覚と発想は、現代における音楽の基本である。

 助けたり、助けられたりするのは、人としての当然の行為であって、癒しは、その原因となる風景の中に入っていく厳しさと、そこでの力強さを身に付けること。優しさは、共感したり、分かり合ったりする時の想いではなく、共感しなくても、分かり合えなくても、ずっと変わらずそこに在るもの。悔やんだり、求め、願ったりする感情は要らない。哀しみを感じ、喜びを分かち合うことも、結果に留まるのなら、それらは要らない。

 その場所から生まれる音楽は、何気ない感覚に厳しさを与えられる力強さを、人に経験させる。今居る世で、自分の心を力に生きて行けることを応援する。それは、作り手自身にもそう。先に気づき、先を歩いているから(そのことを音楽を通して表現できるところまで来れたから)、それをそのまま歌にし、道を照らす光になる。

 

4.曲作りを通して歌い手が成長すると、聴き手も変わり、聴き手が成長すると、曲の感じも変わる。音楽は、聴く度に感じるところが変わることを普通とし、音楽と人は、一緒に成長する。

 そんな曲の送り手は、ただありのままでいるから、何かに負けないようにとか、頑張らなきゃとかの発想と繋がる状況を知らず、大変さも、辛いという現実も実感が無い。格好をつけ、人気者になろうとしてやっているわけではないから、何を求められ、どんな期待を向けられているかには感知しない。それだから、歌詞に収まり切れない感覚が歌詞になり、曲調も自在で、どこともぶつからない(感動・感銘の域には無い)。それでいて、聴く人の内なる変化に付き合い、自らも変化する。人は、曲を通して、音楽という名の生命体験を普通とする。

 今までの音楽とは違っているようには思えないのに、その実、全く違っている音楽のその部分は、覚えにくいところ(覚えようとすることより、何度も聴き、自然と(覚えられるところを)覚えられるようになる自分を選んでいる)。考えて作らず、頭でその機会を引っ張らない中で生まれる曲は、聴く人の内側に記憶されたそれまでの曲の、その性質の原因を浄化する。それは、分かっているのにどう分かっているのかよく分からないそのことを、分かる言葉(文字)で伝え、そのよく分からないけど分かっていることを何となく感じてもらえることを望みつつ、分からないままその全てを曲に乗せて、分かり合う世界。その共有体験は、そのまま音楽の本質を余裕で眺めることになり、互いはそこで癒され、時を癒し得る時空(次元)を共に漂う。

 

5.そうじゃないはずなのに、どうしてそうなのか…と、悲しみや切なさを歌う。本当は、どこにもそれらは存在しないことを分かっているから、悲しみを歌い、一切の悲しみを伝えない。そして、気づかないうちに、人は、悲しみの理由を手放す。

 不安絡みの感情は全て本来ではないことを知るから、何があっても、心の芯はぶれることはない。こう在るべきとする、形あるものを求める自分も知らないから、どこまでも自分(人間)らしく生きる基本は変わらない。そのことを無くして(外して)音楽を表現することなど考えられないから、ただそれをそのままに、自分の歩みに連れ添う感覚を曲にする。

 言葉で表そうにもそうにはならない世界の何かが、体よく繋ぎ合わされることを望まない文字(言葉)たちがつくるその何気ない間の、文字無き空間を通り抜ける。曲と重なり合うことで永遠の場所(仕事)を見つけたそれは、聴き手の変化の中で、色を変え、形を変える。彼(彼女)は、その送り手としての役を、この今の時代に担う。

 そこに居ること、居続けることで、必ずやそれが変革の仕事になることをどこかで分かっているから、その時まで、ただそこに居る。その内奥に在る意思(静かなる鼓動)を温めつつ、その時を待つことなしに待ち、そして、共にそれまでが姿を消し得る大きな流れに乗る。太陽の音楽を奏で続ける。

 

6.個人的な趣味・嗜好の材料や商売の道具(商品)として音楽が扱われる世で、真に音楽を表現することは、至極難しい。でも、そうであり続けることで、その難しさの度合いも変わり得ることを知る存在たちは、そのまま、感じるままに触れる世界を形(曲)にし、その質の変化に責任を担う。どれ程の厳しさか…。それを実践するのが、音楽を手にした生命の姿であり、表現者としての喜びである。

 そして、聴く度にもたらされる、新たな感触と変化(気づき)を通して、人は、自らも表現者であり、変化し続ける生命であることを経験する。それを為し得るのも、音(声、言葉)を通して、全てであるひとつと繋がる原因が、自由に姿を変え、あらゆる性質のものとなって流れ出して来ているから。そうであることの普通を生き、それが音となり、曲となっているから。その音の世界で、送り手と受け手の違いは無くなり、それぞれの心の強さとその輝きが、心の風景を広げる。

 心地良さを覚えることが優先された曲は、何度聴いても、何も変わらない。というより、無自覚に秘めた狡さを増大させ、形無き原因の影響力に無責任になる。なぜなら、そういう人が、そんな曲を作るから。変わりたい(変えたい)、でも本当は変わりたくない(変えたくない)人が、ずっと変わらないでいられる身勝手な心地良さを曲にする。

 大衆が好みそうと作られた曲も、一風変わった曲も、皆頭から始まり頭で終わるという停滞の原因を潜めた曲で、物事の表層のみの理解で事を済ませる(心を思考で扱える)人の、その自己満足の材料となる。それらの曲には、人の不満や不安の感情を上手く嗅ぎつけて利用する質の悪い宗教にも似た狡猾さと悪辣さが在る。

 

7.自分の中に在る、「なぜそうなのだろう?」という現実に引き合わさせられるその理由と向き合い、全受容の中での素朴な発想に身を委ねる。振り切るべき感情の正体に光を当てるようにして、感性を自在に遊ばせ、その時の変化を音に換える。言葉と音は、重なり、かみ合い、融合し、力となる。歌詞は、曲の中に溶け出し、曲は、どこまでも仕事をし得る力を手にする(旅に出る)。

 健全な感覚ゆえの素朴な違和感は、それを(その対象を)処理するよりも、そうである事実を受け止め、自然にその奥(原因深く)へと入り込む。その時、その事実を変え得る力になろうとする、それまでには無かった原因が、音や言葉となってその人を通る。曲は、変化し続ける生命のかたちとなる。

 感覚のまま動き出し、その原因を成長させるようにして生まれる曲は、思考型の(感情の)満足の道具として歌に接していた人には、緊張を覚えるものになる。それまでの経験からなる音感と感性が通用しないため、馴染みにくく、覚えられない(残りにくく、扱いづらい)。でも、そのことが、新たな時を引き寄せるかけがえのない原因となり、気づけば、自らを変化させる。そして、その気もなく蓄積させていた不穏な(質を備える)音楽のその負の原因の影響力を知る。

 その仕事を普通のこととして担い、本来在るべき姿のその基本となる原因をさらりと送り続ける存在。そうであることも知らず、そうであろうとすることもなく歌い続ける彼(彼女)の曲を通して、人は、この時代にしか出来ない、存在そのものの質を成長・進化させ得る経験を手にする。永い時を経て、この国では、初めて、音楽が笑顔を見せる。太陽の音楽となって、心の芯を流れ出す。

 

8.音楽を通して、好きなように感覚が作られ(鈍くされ)、人としての感性もいつのまにか低下させられてしまうこの時代において、音楽は、人の感覚・感性を本来へと戻す材料(機会)でなければならない。まるで生きているかのように聴き手を包み込み、感触の変化を促し、そしてそれまでとは違ういろいろな場所(感覚体験)へと誘いつつ、ムリ無く自然に人を変化に乗せるものを、この時代が望む真の音楽と言う。

 それまでの音楽の記憶全てが無くなったとした時、そこに残るのは、自然界が安心を覚える、楽器も何も無かった時代の(その原因の)風景と融合し得る、人間らしい生命のリズムと音(鼓動)であるか?自然界の生命たちを生かす太陽の音楽は、この現代でも、遥か昔とその基本は変わらない。現代では、現実的に不安の世界に居る自分(の感情)からではなく、その不安の元となる原因の世界の、得も言われぬ強大な負の存在(意思)から逃げずにそこに居続ける自分(の確かな想い)から生まれる曲によって、その基本は息を吹き返し、甦る。

 個人的に(趣味感覚で)親しむものとして、そこに音楽がある時、人は罠にかかる。気づけば、感覚が思考型のそれとなり、真を失くす。そのことを知る存在が生み出す音楽に触れる時、人は、太陽の心を思い出す。そして、共に真を生きる。音楽は、作る人も聴く人も、遊び心と真剣さをひとつに、その大切さ(厳しさ)を楽しむ、変化の喜びの時である。この時代、その本来の音楽は、真に生きる人の心に、勇気と変化を与える。by 無有 5/21 2018

 

 

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