太陽の音楽(2)

 

1.人間は、自然界の一部。元々、自然界に存在する全てのリズムを持っていて、それを余裕で包み込む地球のリズムも備える。だから、音楽という形が表現される時、そこでは、その基本となる感覚がそのまま自然と音となり、リズムとなって歌(曲)になる。そこを離れて作為的に頭で作られた音楽を、人間は、本能的に望まない。

 その自然界の一部である自分の感性が、世の様々な不自然な風景に触れることで(それと正直に向き合うことで)、自然と湧き上がる音と言葉。この時代に音楽を通して表現する人は、その音をそのまま奏でるだけでいい。頭で考え、頭で作風や曲調を作り上げていたら、そのどれもが嘘になる。

 現代の、その固められた負の(連鎖の)土台の上にある社会環境は、自然界からはどこまでも違和感でしかないから、自然体を生きる存在は、音楽を通して、いくらでも、どんな風にでも、曲を生み出す。湧き出るように、その違和感が音になり、自然界を安心させる。それが音楽であり、歌も曲もそうである。社会が、人間がつくる環境が、自然界が納得する(安堵する)ものになるまで、いくつもの曲が、自由に、自然に、彼(彼女)の普通を通る。(その後は、全く次元の異なる音楽が普通となる)

 そこに居て、共に居る時、世の音楽の余りのお粗末さを知る。不自然な世を支えるようにして不自然に生きる人に、好んで聴かれ、流行る歌は、自然界の異物と化す。

 

2.人間本来からかけ離れてしまう不穏な環境では、自然界には無い、結果を生きる姿勢が幅を利かせ、作り出される物も形も、動植物たちが、辛く悲しむものである。そしてその中で、形を持たずに自然界に負の影響を及ぼすのが、その結果(過去)に居続ける流れない感情や個の思惑と結び付く音楽であり、それを好む人の無意識の意思(本性)である。未消化の否定感情と本来の普通への無感覚振りで繋がり合う人たちは、音楽を通して、都合良く自然を愛し、自然を悲しませる。

 音楽が、普通に、変化そのものである原因のそれであれば、自然界は嬉しい。その時、空間は変わる。その本来の音楽の姿を、自然界に差し出し、共にそれを楽しむ人たちが、その音楽を心に重ねる。頭で聴くのではなく、音のある空間に自らの存在全てが反応するようにして触れる音楽。直接耳にあてて聴く音楽を極力減らす(無くす)ことの大切さも、体が自然に覚える。

 辛いことを歌っても、その原因と向き合い、そうではない自分を生きる中でそれは歌われているから、聴く人に辛さを感じさせない。悲しみを歌詞にしても、そうである自分のその理由を見つめることからそれは始まるから、それに触れる人の感覚は、悲しさではない。人としての人生を生きる人は、そんな歌を嬉しい。そうではない人は、焦って、緊張する。

 (抵抗してみたけど、何も変わらなかった)かつての経験を基に、抵抗せず、ありのままでいる中で、その抵抗せざるを得ない状況のその原因に入り(原因を掴み)、そのことで様々に感じ得たことに付き添う人間時間の風景を、歌にする。歌になることで、その時と同じ体験は不要となり、次なる歌が、別な原因の風景を形にする。そんな風にして、そうであろうとすることもなく、繰り返すことのない必要な経験が次々に生まれ、原因が変わる。

 その音楽に、自然界は、笑顔で付き合う。共に生きるみんなが、応援する。地球の、この人間世界で、そこに居続ける、無くてもいい負の原因が、無有日記に支えられる太陽の音楽で浄化されていく。

 

3.この地球で、淡々と生命でい続ける存在たちは、分からないままでいられる、全てを知る人間の感性を喜ぶ。自然界の生命たちも自由に融合し得る、その原因の確かさ。一生命としての人間のその自然体の姿に、彼らは安心して、自らの本分を生きる

 分からないでいる(いられる)ことの強さを知る人は、分かることを変化に乗せる。求めることなくそうであるそのことは、どんなことも停滞させず、事の必要性を常に変化し続ける原因のそれとし、心ある風景の支え人となる。彼(彼女)が、そこでの何気ない想いを音楽という手段で形にする時、自然界は、人間の負の影響から自由になれる希望を手にする。

 不健全さを普通とするその動きのない原因で不穏な風景を無意識に作り出す人間たちは、頭で分かること(形)に執着し、分かり得ない(形無き)ことに不安になる。でも、人間の世界も含め、自然界は、分からないこと(原因)から生み出され、分からないその原因で支えられている。その分からなさの質を高め得る存在に、そうではない人は、恐怖を覚える。

 無有日記は、自然界と自然に融合する、その原因のままの音楽を、ここに招く。ただ、その責任は時代を担うものであるゆえ、形ではなく、その原因を流すことで、時を動かす機会とする。そして、大切な出会いを、ムリ無く経験してもらう。そのためのこれからの、それぞれの感覚が、太陽の音楽のメロディになる。

 

4.この「太陽の音楽」(関わりのEW)を通して、人がいつのまにか普通としていることになる経験は、細胞が負担を覚える音からは自然と離れていられること。要らない音の蓄積による負の影響が無くなっていくので、自ずと心身が辛くなる音楽への違和感もはっきりとし、その影響を遮る感覚的姿勢が普通となる。感性も、普通本来のそれとなり、不自然な音楽のその歪な原因の風景(意図)からも自由になる。

 音は、空間を通り、人の耳へと届くものだが、その時に、そこに潜む(秘められた)様々な性質の原因も、感じる感じないの域を超えて、多次元的に外へと流れ、細胞や物質、あらゆるところへ届く。自然界の生命たちは、音に敏感で、その送り手(生み手)の形無き原因の影響に細胞レベルで反応し、それを以て、本能による然るべき生命活動へと、自らを展開させる。その世界から人間の音楽を観た時、自然体でいる人間の、その自然感覚の脳による声と音が、自然界の安心のそれであることが分かる。

 人間がその自然界が辛くなる音を作り(生み)出すことはあってはならないのだが、個人の思惑(感情)とお金(商売)をそれに重ね合わせることを普通としてしまった人間たちは、いつのまにか、自然界に生かされ、そして自然界を生かすという人間の基本を人生から切り離し、それが許される(正当化される)不穏な世のその負の土台を、無くてもいい音楽で固めてしまう。それは、人間の退化の象徴とも言える。

 歌い手も作り手も、そこに在る本心(本性)の質は問われずに(放って置かれたまま)、ただ上手ければ(売れれば)それで良しとされる、未熟な音楽観。本当はそうでないから、そうであるように(そうであろうと)情感たっぷりに、中身の無い優しさや愛情(理解や励まし)の歌を歌える歌手(作れる作曲家)の、その原因の嘘。涙する歌も、感動する曲も、嘘を本当として生きる(力のある)人の嗜好品であり、自作自演の嘘芝居である。それはそのまま、世の不自然さと不健全さが安定していることを意味する。

 人間の脳を慢性的に不自然にさせる音楽は、当然、自然界全体に悪影響を及ぼす原因となり、動植物たちは、辛く悲しい時を生きることになる。人間であれば、そのことを知り、人間本来を元気にする。「太陽の音楽」は、人間が作る空間を、自然界が嬉しいそれへと変えていく。

 人間が、人間らしく生きる(生きようとする)時、その元となる脳の活動が健全であれば、自然界も、未来地球も嬉しい。ここに「太陽の音楽」が在るということ。それは、そのことを普通に生きる自分を通して、自然界を安心させ、未来に喜んでもらうということ。音楽が、生命本来からなる音であり、声である、その原因を普通とする時、時代は、次の時代に繋がる、永遠の癒し色になる。

 

5.太陽の音楽は、太陽が嬉しい音楽。それは、太陽が見守る地球自然界の、安心の音色。そして、その安心の時を支えてくれる人間の、自然体の音楽。

 太陽の音楽は、自然界に負荷をかけず、もしそうである現実がそこにあれば、それを浄化し得る原因でい続ける、生命そのものの音楽のこと。その送り手は、自らのその姿を普通に、曲作りを楽しみ、自分に正直でいるありのままの人生(感覚)を、そのまま形にする。向かわず、求めず、ただ生きることを生き、音楽にそれを重ねる。

 そこで息づく(形を生み出す)形無き原因に、地球は喜び、太陽もそれを嬉しい。それは、自然界に生きる生命たちの心と融合し、共に支え合う心ある風景の中に溶ける。

 自然界が安心する音楽を、細胞は喜び、それにより、平和も健康も普通になる。悲しみや辛さの原因がそこに在ってはならず、それらを無くし、二度とそうならない経験のために、音楽は在る。平和を求めず、平和を生きること、励ましを必要とせず、自分らしさをそのまま生きること、そして、愛ある風景への憧れや希望を持たず、全てを受容し、自らがそうであることを実践してもらうために、音楽は在る。

 その時、人は、どんな自分が曲を作り、どんな自分が歌を歌うかという、音楽の手前のその原因の変化・成長無しには音楽は存在し得ないことを知る。歌い手も、聴き手も、その基本形を大切に、音楽を、自然界の素朴な望みそのものとする。そして、音楽が、音楽になる。それを喜ぶ地球自然界の姿に、太陽も笑顔で音楽を奏でる。

 

6.「人間(5)」の2節の文章を書き終えた時、それが無ければ存在することは無かったであろうこの節の内容が、一気にここに引き寄せられる。それは、「太陽の音楽」で合流し得た、どこにも無い音(原因)の運び手としての生を生きる、かの男性(女性)の、その音楽の全てを力無いものにしようとした存在の姿(意思)。そのことさえも、望むべく次なる原因として浄化され、活かされる時を迎え、彼の想いは、新たな歌の誕生(創作)を以て、それに応える。太陽の音楽は、広がる力を見せる。

 偶然を装った必然の出会い(意図)から、彼が何度か曲をつけることになった、その存在の生み出した詩は、出来上がった後、多くの人に受け入れられ、親しまれることになる。彼の内なる生命の意思は、そこに潜む非生命的な原因を感得していたが、どうにも対応し難いその強大な力に体験的理解の次元が間に合わず(及ばず)、やむ無く、彼は、人間的にそのことを歓迎する動きで、心身の消耗を可能な限り抑える。それでも、歌うごとに心が重くなり、音楽への意欲も削がれる、その存在の詩。次第に身体の痛みと動きにくさを生じさせる程になる、そこに在る形無き原因の意思は、別の新たな曲が広く世に出る機会を巧く生み出し、その作曲に関わった(関わらせた)彼に、重く、粘着性のある負荷をかけつつ、その音楽を支配する。

 そしてその後、彼の楽曲の中のある要素に、その妙な詩の作風を絡めるようにして作詞・作曲するある人との、その形無き原因の(不自然な)関わりを機に、彼は、湧き上がる感覚に従い、それまでの音楽の世界での自分から自由になる。そこからは、唯一歌うことで、その作詞家の呪詛絡みの威力にどうにか押し潰されずに持ちこたえられる自分を高め、彼独自の音感がいざなう、人の記憶の中の音楽を離れた曲をひたすら作る。言葉の概念を外し、動き回る自由な力を音に与え、地球自然界の中にその全てが在る、生命のリズムと終わりの無い(永遠と繋がる)音の連なりのその原因を、そのまま自らに通し、感じるままに、それを形(音楽)にする。

 

7.何気ない発想(思考)や価値観の下地に染み込んでいる音楽(の影響力)の、その原因に潜む、様々な感情や本心の性質。その世界発の限り無い病みの蓄積を浄化するという、奇跡という名の普通体験を、「太陽の音楽」は創り出す。そのための通り道(案内役)の原因でい続けることを選択した、彼(彼女)の生命の意思は、その新たな時を喜び、安堵する。そして、本人は歌い続ける。その歌に乗った彼の原因の全てが、人間経験の次元を本来のそれへと変え得る機会を創る。

 原因のままの本来の生きた音楽は、癒されたい、励まされたい(慰められたい)という結果を望む人にではなく、強い自分の姿を見失ってしまっている人の、その新たな原因に届き、変化と責任を力強くする。自然界の音のリズムとの融合を普通とするその音楽は、流れない感情や動きの無い経験(記憶)のかたまりを、深くから刺激して揺さ振り、浮き上がらせ、その人が、自らそれを浄化し得る時を生み出す。土と水から離れたところで存在し得た、変化とは無縁の結果の(嘘の)音楽は、居場所を無くす。そして、音楽は、生命としての原因のそれを普通とする。

 「太陽の音楽」を通して、生きる原因もより健康的に動き出す、新たな経験の創造。いつのまにか人は、音楽で平和や健康を扱う次元には居ず、音楽が有っても無くても、あたり前に平和と健康の原因を生きる時を安定させる。そこへと行く(変化に乗る)ための真の音楽と、そこからの普通の音楽。この時代に、それは、自然と具現化されていく。

 

8.病むことを知らない人たちが、自然と共に心穏やかに暮らしていた遥か昔のそこでの音の風景をこの現代に招こうとする時、時代がそうではない不穏な環境へと大きく変わり出した2千年程前の、そこでのある音の姿を通る必要がある。「太陽の音楽」の誕生で、その音が息づき出す。

 その頃の人々の生活空間では、痛みや苦しみを伴う状況が生み出され、それまでには無かった(辛がる人たちを通しての)自然界の哀しみと、重苦しく動きの無い世の空気感が広がり出す。人が否応無く経験させられる不自然な感情は、時の流れを滞らせ、人間の世界には要らないはずの心身の不調と衝突を生み出していく。本来無くてもいいその経験は、自然界から、自然な音を奪う。

 人は、木(竹)で作った笛で、自然界と自然に融合し得る音を奏で、その音で遊び、動植物たちと生きる。どんなに厳しく辛い時を経験する(強いられる)ことがあっても、ずっと昔からそうであったから、共に居ても、遠く離れていても音を奏で、自然と一緒に安心を生きる。阻止されても、壊されても、誰かが音を奏で、風にそれを乗せて、太陽の優しさと月の温もりを誘う。音は風、水、そして光。みんなで響かせ、分かち合い、繋いでいく。

 自然界と一体化したその笛の音は、動物たちの骨や皮を使って音を出し始める人間たちの、その恐ろしく醜い感情によって押し潰され、笛の音色も、不自然で異様なものへと変えられてしまうことになる。それでも決してひるまず、遊び心一杯に世に逆らい、それまでの音を奏で続けた人たち。ただそこに在る不自然な様を自然なものに戻そうと、自然界が喜ぶ笛の音で、人の心を繋ぎ、その心の芯を力強くさせる。それは、人間による太陽の音楽の、その原点の風景である。その音がここに繋がる。

 永い間、人の心に届くことの無かったその音は、その時代の経験の記憶(の原因)を備える現代の表現者によって、外へと流れ出す。ただ、それを自然と受け入れる人と、そうではない人との(脳の)反応は大きく違う。いずれにせよ、それは、自然界の喜び、生命たちの嬉しいひと時。その奇跡という名の普通の時を、共に楽しみ、そのままのその原因を、未来に繋ぐ。「太陽の音楽」に、時代は癒され、ここと繋がるこれまでの時代も、これからの時代も、ほほ笑み出す。音楽が心の風になる。by 無有 6/04 2018

 

 

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