歴史の芯(1)

 

1.それは、窓の無いビルの中。1階は、邪馬台国。2階は、大和・飛鳥。そして、3階は奈良と、上層に向かって時代は続いていく。場所は固定され、どの時も同じ。ただ天井の高さがそれぞれに違うだけ。動きも広がりも無いその場所でのテーマは、型に留まる(収まる)、結果のみ。繋がり、生まれ、創られる原因はゼロだから、生命を生きる人間としての変化は無い。太陽の光が注がれる機会さえ遠ざけるそのビルの最上階で、この現代も、それまでと同じように、時は非生命化されつつ、滞りを安定させる。当然、その窓の無いビルの中では、非人間の本質維持のために、LED照明が活躍する。人間が普通に人として大切にすべく栄養源、玄米や全粒穀物は(and 新鮮な生野菜も果物も)、そこには無い。

 本来であれば無かったはずのその中に、永いこと取り込まれてしまっていた、自由な空間を自由に生きる、隔たりも争いも知らない存在たち。その中で完全に埋もれ、何もかも失うギリギリのところで、そうではない歩みの原因をこの地球時間にもたらした生命たち。自然界の摂理も、動植物たちの意思も、望みも、その真は、そのビルの中には無い。人間が人間でいるために、この地球に生きる一生命としての本来(責任、役割)を普通に実践するために、よりその原因を高めていく。歴史は、ある枠内に残されるものではなく、一切の枠の無い次元で、共に創り続けていくものだから。

 

2.乱れる世を立て直し、それを治めるために重要な決まり事を作ったと言われる存在たちが、実は、乱れ行く世のその姿を何もせずに無責任に放って置き、自らもその負の原因と同調しつつ、否定感情を強め、誰も抗えない権力を是が非でも手に出来る時のために、狡く、巧妙に立ち回りながら、そのこと(決まり事)を制定・施行し得る立場を体よく保持していただけ、ということを知るだけで、あらゆる不穏なことが、その原因深くから浄化され出すという、時の理解がある。

 それは、窓の無いこの国の歴史ビルの中の、2階のフロアでのこと。だるま落としのように、そのフロアをコツンと叩き、全体発の透明感のある原因で、大きくズレる(外れる)ぐらい、そこに在る嘘の重たさを刺激してみる。内なる意外な変化が、新たな普通の始まりを告げる。

 

3.この世の病みのルーツには、2つのコースがある。1つは、嘘の神をあの手この手で真実にし、罰や祟りを道具に、人々の精神を、怖れと不安で不自由にさせるもの。もう1つは、身体的・物理的に危害を与え、人の脳(体)が覚える痛みや苦しみを通して、彼らの行動を支配するというもの。その2つは、現代に至り尚その姿(原因)を備える、神道と政治と考えてよい。別の時代では、その政治に、武力が普通に加わっていた。嘘の神と、それを利用する暴力により、人々は、人間として経験しなくてもいい経験を、永いこと送り続けている。

 この国の負の歴史の重要な柱となるその2つの病みのルーツが誕生した理由は、その実行力をもって完全に抑え込まなければならなかった、ある存在たちの力が在ったから。その力は、正義感と友愛の情を基に、人々の心と暮らしの平穏さを大切に行動していた、どこか粗削りであっても、不正や不義には屈しない、優しき勇敢な人たち。時代環境からなる必要性で、武力も用いたが、その理由は、人としての真のためであり、心ある素朴な人々の命(人生)のためであった。

 彼らの力が潰され、その生命の繋がりが根こそぎ絶たれたことで、恐ろしく動き出した、その後の真の無い歴史。だがしかし、この今のみんなの時を何より喜んでいるのは、彼らの、生命の意思(生命体の本質)。そのままであってはならない嘘を正し、未来に持っては行けない重しを外すという、人としての、何でもないあたり前の普通は、彼らの中のシンプルな真実の実践(の原因)と密に繋がっている。

 そんなこんなも、歴史を、多次元的な生命の、その原因の蓄積(建物、空間)として捉えれば、容易に分かり出すこと。それを平面的な直線上で扱えば、自らも、嘘(真の外れた歴史)を生きることになる。

 

4.否定感情を知らない動物や植物たちの目線で、時の流れを観た時、そこには、人間の頭の中でのみ通用する、過去や未来の風景は無く、ただ淡々と変化し続ける原因の今が在るだけである。そのエッセンスを感覚的理解の世界に組み入れてこの国を思う時、どの時代の出来事も、そこでの暮らしも、そのどれもが、その時々の個性ある原因として、今この場所に在るということになる。つまり、今みんなが生活しているそれぞれの場所に、平安時代や江戸時代が重なるように存在し、当時の人々の姿も、全てこの今の原因の土台となって、多次元的に影響を及ぼし、繋がりを持っているということ。今住んでいる場所は、500年前も、1000年前も変わらずそこに在り、そこでのその時々の時間の流れがここにそのまま繋がり得ていることを考えれば、動植物たちの直感的な意思(理解)に触れるまでもなく、それは感じ取れるものである。

 人間が、原因の世界に無頓着となる時、隔たりや争いの(感情の)原因を持たない自然界の動植物たちは、そのどうにもならない時の受容に、厳しさを覚える。それは、自然界を、そこに住む生命たちに犠牲を強いつつ、それを都合良く利用する、不自然の極みとなる非人間的な人間の、その負の影響力。それはまた、窓の無い歴史ビルの中での価値観に付き合わされた、自然界との融合を普通とする、心優しき人たちの悲しみ。

 そのひとつひとつの負の原因の固まりが、ひとりひとりの思考の性質が本来となる時を経て、その内側に隙間が出来、動き、浄化される時を経験する。残し、残される歴史は、そのまま自然界が窮屈さを覚える、人間の欲からなる、人間だけの、低次の(成長・進化とは無縁の)お遊戯。共に生きる自然界の生命たちと共に、力強く柔らかな原因を、あたり前に生きる。創り、繋ぐ、生命としての経験(歴史)を、変化し続ける原因の中に、楽しみながら溶かしていく。

 

5.ある人の無自覚の負の影響力が力を失くしたことで、何人もの人の心身が、それまでに経験したことのない元気を経験することがある。でも、そこには、そうなるまで、長いことずっと影響を被っていたことにも気づけず、そのことを普通に、不要な関わりを持ち続けていた歪な普通が在ったということ。そして自らも、そうである中で、その気もなく縁する人に負荷をかけることを行っていたということ。

 だから、動く。それまで普通に出来なかったことを、次にすべきことの原因に変え、普通の質を向上させる。そのことで、内心被害者でいることに安住していた不穏な感情が癒され、二度と通らなくてもいい道を、後方に置く。他を隔てる感情を大切にしていたからこそ、そんな自分を人に責めさせず、何かあれば、責め得る人を設けて逃げ回っていた自分。そんな性質も返上し、そうであったために引き受け続けてきた負の影響力にも、終わりを告げる。

 どんな出来事にも、原因がある。それが形無き抽象的な心の風景での、不本意な出来事である時、その原因は、とても複雑で、分かりにくい。そんな場所に、必ずと言って良いほど関わりを持ち、影響を及ぼし続ける存在。それは、神道と武力政治のルーツとなる世界に生を持ち、現代に至り、繰り返し何度もその質を非生命化させつつ更新していた、嘘を本当として生きる存在たち。その世界との融合を離れ、「生命の歴史」の原因そのものでいることで、どんな出来事の原因も、本来をテーマに修正・浄化されることになる。心の風景から、その確かな原因となる新たな出来事が生じ、心の望みが、普通となっていく。

 中庸の世界に、人は抵抗することは出来ない。全体発の普通も同じ。地球自然界の、自然な営みそのものであるその中庸の世界に包まれ、支えられている、そこに生きる生命たち。そこでの普通が、これまでになく人間世界を包み、そこに在る原因を浄化しようとしている。

 

6.窓の無い日本歴史ビルの住人は、未だ自然を知らず、太陽の光も、そこに在る多次元的な原因の要素を経験しないままである。それは、太陽を避ける神社(神道)の形態からも理解でき、その世界を基に行われてきた儀式や風習からも、人々が永いこと不自然の中で不健全に生きてきた姿が伝わり出す。

 そこに窓を開ける。そのために、要らない歴史認識を白紙にする。人殺しの達人や、我欲まみれの凶悪な人間が英雄視される歴史自体、地球の(生命の)歴史の異物である。その上に在るものは、皆風に吹かれ、太陽の光を浴びなければならない。事の本質を無視することは、異常人の証である。

 覇権維持のために、悪質なことも平気で行われてきた政治。そこに居続けようとする存在たちの後ろ盾となる、嘘の神(神道)。そのビルの中で、どれ程の人たちが、太陽の心を経験できないまま、人生を潰され、命を絶たれてきたか。そのどの時も、そこには、鳥居と社があり、偉そうに嘘を信じ込ませて、人々を支配していた、役人や神主(神官)が居る。(「この国の病みの始まり」etc.)歴史の真を知り、嘘を外すことから、そのビルの修繕が始まる。

 修繕が行われている間、そのビルの住人たちは、外に出なければならない。その同じ場所に住み続けていた蛇や烏も、自然界に抱かれ、太陽の光を浴びることになる。一度ビルの外に出て、風を感じ、心ある生命たちと共に過ごせば、戻る時は、名も無き無数の存在たちが、その時を歓迎する。出入り自由の扉。風の通る大きな窓。天井は吹き抜けとなって、それぞれの時代の原因は、行き来し、重なり合い、ひとつになる。その歴史ビルは、生命たちが集う憩いの場。みんなの調和と友愛を広げ、膨らませる、優しさの基盤へと姿を変えていく。

 

7.時は、2017年、春。これまでの時の歴史が、その中に沈んだままの未消化の原因を外へと押し出す時を迎える。主人公は、ずっと生命としての人間を生き続けていた心ある存在たちと、いつの時も彼らを見守り、応援してくれていた、自然界の生命たち。「LED感染/LEDの影響」の元に集まり、想いをひとつに重ね、融合する存在たちは、この時に続くこれからの未来に、それまでとは全く違う原因を繋ぎ、ここに至るこれまでの全ての時を癒す。歴史は、歴史ではなくなり、歴史という名の望むべく原因の連なりが、新たに動き始める。それは、どんな言葉をもっても表すことの出来ない、自然界の意思そのものの、その時である。

 他の人が出来ないことをしたがる危ない人間ではなく、誰もがあたり前に行って欲しいことをさりげなく主導する普通の人がそのままでいることで、世は、いつ、どこでも、平和の原因が力強く息づき、健康も、その意味さえ誰も知らない、ありのままの姿となる。どんなことも、理由の要らない喜びがその原因に溶けていることで、生きることそのものが喜びとなる時を、自然界の動植物たちと共有する。そんな時が、静かに、水や空気のように、淡々と流れていく。

 ここまで来れたこと。ここまで繋ぎ得たこと。それだけで、ただ嬉しい。そして、そのことが、過去が癒され、未来が喜ぶ確かな原因であることも、この上ない喜びである。そして今、更なる次へと歩みを進める。経験から自由でいる本来を力に、そこに在る、かけがえのない原因をどこまでも細かくし、どんなところにも届く心の風に、それを乗せる。心も細胞も、安心と躍動を経験する。

 

8.それは、窓の無い歴史ビル。でも今は、傷を負った鳩や小鳥たちも癒されに来る、その面影を大きく変えた、風通しの良い優しいビル。その変わり様は、自然界のあらゆる生命たちに安心を運び、癒し色の雨を誘い、太陽の光を招く。全ての中で、ありのままの地球感覚が呼び醒まされていく。

 地球感覚は、太陽の意思(光の多次元的原因の要素)との融合。それは、自らの分(真の自分)を自然に生きる、自然体の生命の姿。どこに居ても、何をしても、その原因は調和そのものであるゆえ、どんな時も、自然界は平和で、滑らかな時の流れを普通とする。全てが自らの原因(の性質)の反映であり、投影であるその風景の中で、人も動物も植物も皆、一切の頑張りや犠牲を知らない真の普通(本来の在り様)を、たださりげなく真剣に、楽しみ、遊び、生きる。

 そこから尽くかけ離れていた、この国の歴史ビル。海を遠ざけ、山に入り、太陽を避けて、人の心に苔を住まわせた、そこでの歪さ。そのことが、地球自然界にとって、どれだけ負担になっていたか。神社(神道)の存在が、どこまで生命を蝕み続けていたか。そのどれもが、ビルの最上階での、この今の新たな変化に乗り、太陽の光が存分に注がれる中、表情は崩れ、溶け出していく。永いこと、思考型(恐怖・祟り系)の洗脳に侵され続けた人たちの目覚めに、動物も植物も、笑顔になる。

 何かに向かって頑張ろうとする気力が無くなり、それに楽な気持ちを覚える自分がいれば、それは、やっと訪れた、人間本来の姿。頭を働かせ、考えることが難しくなっていれば、それは、心の意思の望みだった、喜びの時。永い時を経て、細胞たちは、ずっと忘れていた本来の意思活動を元気にする。何があっても無くても、心は嬉しくて、誰と居ても、どこに行っても、空間は温かく、時は優しい。要らないものがいつのまにか外れ、何も無くても、何かでなくても、ただそのままで、かけがえのない一生命でいる。その普通が、その真が、内なる進化を、太陽の意思(魂)と重ねる。

 ここに居ること。こうして、この時を共にできること。それだけで、言葉は要らない。そこに太陽が在るだけで、心は、理由の要らないハッピー感で一杯になる。by 無有 3/12 2017

 

 

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