歴史の芯(11)

歴史の芯1

1.不安の始まりは、不安を知らない普通の人間が自然に備える、心という、人として生きる上でその基本となる生命源と繋がる貴い性質に対して、その心を持たない別の存在たちが反応し(違和感を覚え)、自らの中に在る非人間的な感情を力に、それへの反発・抵抗を強めたことによる。その歴史的な背景については、現代の人がムリなく感じ取れるよう、「連繋の意思」や「復活への道」「心の遺伝子」その他で書いてきているが、揺るぎない生命世界の事実として、人の心には、元々不安など無かったことを、知識から外してはならない。人間は元来、不安を持つことの出来ない、生命としての存在である。

 「この国の病みの始まり」で、蛇との融合を密にする異様な人間たちのことに触れたが、当然彼らには、心が無い。その頃よりもずっと前からそうであった(蛇絡みの生を普通としていた)彼らは、同質の人間を増やすために、現代の神道の基となる嘘の世界の影響力を強めていく。心を持たない彼らが、心を思考(感情)の産物として都合良く扱い出したのは言うまでもない。

 

2.心は、心のままである。思考で扱うことは出来ず、形あるもので、それを表現することもあり得ない。心がそのままであるから、人は、心ある表現を普通とし、普通だから、形あるものも、思考も、心のそれとなる。それは、原因(生きること)の変化・成長の基本である。

 それを、心の無い人は、全く分からない。分かる分からないではない心の世界を、心の無い人が分かることはない。そして、不安を強める。心ある人を、自分たちと同じように不安にさせて安心すること以外の道を知らず(持たず)、嘘に力を与える。

 その嘘の力は、人々に、心が形になるのではなく、形で心を表すことの大切さを普通とさせてしまう。心のままに生きる人には、それは難しく、心を持たない人は、簡単にそれを作り出す。そして、権威(立場)のある人の、形としての(思考で扱う)心の世界に人は引き込まれ、それで良しとし、心という文字を利用した教えや決まり事が存在感を持つ。心ある想いをそのままに生きる人は、それらの中に在る重たい不安に反応し、生きる原因のところから、要らない経験を生じさせてしまう。

 

3.形ばかりの優しさで心を表す心無い人が、社会を作り、事を生み出せば、当然そこでは、不正や不平等がはびこり、何の因果でもない、嘘の心の存在を起因とする苦しみを経験する人が増える。その光景は、宗教に利用され、歴史ビル4階辺りでは、心ある自分を普通とする人であれば決して近づくことの出来ない、嘘の心そのままの最澄が、心を形にする。空海も然り。彼らの教えは、その原因に心を持たないゆえの、個の思考である。それらを、形ばかりの心と、結果としての個の満足を欲する多数の人たちが支える。

 不穏な世は、かの聖徳太子(と言われる人物)を偉人としてしまえるぐらいだから、いつまでも続き、増え続ける神社(鳥居、社)によって、人々の生きる苦しみは安定する。そんな社会環境を巧く利用したのが、親鸞であり、日蓮も後に続く。彼らは、人の苦しみのその原因には触れず、心の無さの典型である、結果(形)のみの人生を都合良く生き、立場を利用して、人にもそうさせる。それは、将来への重苦しい原因として残る。(「1000年目の夜明け」etc.

 心の無い人は、心ある振りに徹するために、その強力な隠れみのとして、海外からのキリスト教を利用する。弱者の存在を前提とするそれは、神道とも共通項を持ち、歴史ビルの最上階辺りで、裏表のある生き方を普通とする人たちに重宝される。神社と、この国での教会。心の風景では、完全犯罪である。

 

4.心を持たない、心を知る人は、心の世界に詳しく、心ある世界にはうとい。心を大切にする行為で心の無さをごまかす彼らは、心ある自分を疑わず、心そのものを遠ざける。優しい行為は貴いが、苦しみや悲しみの原因までがそれで姿を変えることはない。なぜそうであるかの原因に触れる優しさが心であり、そうである結果への優しさは、心の無さを力とする。

 そのシンプルな真実を普通とする心ある人は、嘘の原因を、人生の中で持つことはない。そうではない心の無い人は、嘘の原因以外の人生を生きられない。原因が健全であれば、当然具現化されるのは、ありのままの健全な風景。心を持たないという不健全な原因を生きる存在たちによって、問題事の絶えない時をこの国は常に作り出し、今それは、これ以上無い世の問題事として、LED化を生み出す。もちろん彼らは、それに(その負の原因に)無感覚である。心ある振りは、責任ある振りを得意とし、その心の無さは、健全な原因を何より苦手とする。

 

5.次なる原因でい続ける知識は、知識の域を軽く超え、言葉であって、言葉ではない別次の性質として、生命を生きる上での形無き燃料にその姿を変える。結果に留まる知識は、それ以上でも以下でもない単なる知識として残り、形ある言葉ばかりを大事に人間だけを生きる人のそのための道具(武器)となって、隠れた非人間性の下地となる。

 心は原因であり、心の無さは結果である。心ある想いは、変化し続ける原因をそのままに、時を癒し、思考で扱われる心は、変化とは縁遠いところで、時の流れを滞らせる。原因と結果は、同じところに在り、その粒子も、存在の意思も、それぞれの次元は異なる。しかし、その結果も、本質は、結果にい続ける動きの無い原因であり、原因の要素を含まない結果は、どこにも存在しない。そして、全ては原因という真実と思考が重なり出す。そこでは、どんな結果も、新たな原因になり得、繋がる場所の多次元化へと、その質は変化する。いつしか、結果という世界が、思考を離れる。

 

6.体験的知識が、生命を生き、人間をやる際の原因としてさりげなく活かされるようになると、結果という概念自体が、心の無さの世界と同質であることを知る。そして、結果にとらわれ、結果を求める(求めさせられる)姿勢は、本来の人間のそれではなく、人は、ずっと長い間、嘘であり、夢である結果の世界に付き合わされてきたことも感じ取る。人としての生を、さりげなく真剣に生きようとすれば、自ずと経験や記憶から自由になり、柔らかで確かな原因でいることも、あたり前となる。結果を求めず、ただ原因でいて、どんな結果も、結果という名の次への原因として、迎え入れる。変化し続ける原因そのものでいれば、争いも衝突も、不健康も不公正も、その存在意義を無くしていく。

 そこから見えてくる、有ってはならない、人の世の、不穏な事実。それは、結果にこだわり、結果を生きる人だけを大事に、結果(形式)のみを連ねてきた、神道(神社)の病み。そこに、この国の負の歴史の理由がある。人の、一生命として無くてもいいはずのその経験の殆ど全ては、心ある原因とは無縁の、神社関わりの闇の中から生まれたものである。

 

7.人は、その意識もなく心を大切に生きているから人であり、そう思うことで大切に出来る心は、誰も持ち得ない。だから、人は、自然に神社を離れ、鳥居を避ける。それらと融合することを、心は決して望まず、自然界も、時代も、それを嬉しい。それは、何でもない原因の世界の普通。人は、それを否定し得ない。

 心の意思は、生命を生きる原因そのものであるゆえ、そこには、みんなにとっての大切なことを創り出すその全ての材料が在る。形になろうとする心ある想いは、そのどこにも否定感情が乗らないので、どこと繋がり、誰と融合しても、負の原因にはなり得ない。心のままの、心ある風景。鳥居の内側にも、社の中にもそれは無く、そのことを知る心は、これまでも、これからも、ただ心である。

 心がそのままである世界では、大切にすることは何も無く、大切にされるべきことがそのままであるかを、さりげなく心が観る。人の在り様、自然界の営み、そして具現化される原因の姿。その全てに、心は責任を持ち、その自由を抑え込まれることがあっても、心は、確かな原因を未来に放つ。愛しい奴である。

 

8.不安も怖れも幻想も何も知らない心は、理由の要らない安心と喜びと平和の原因を休み無く生み出していく。しかし、その姿は、永いこと心の無い嘘の世界に抑えられ、残念ながら、歴史ビルのどの階にも、元気のある心の素顔は見られない。そのために失われた、心ある風景、心ある人の命、そして心ある原因。数千年の眠りから醒めるようにして、人は、その重大さを知り、そうではない時の原因を選択し、実践する。二度と通ってはならない道を後方に置き、それまでから自由になり、責任ある想いを次に繋ぐ。

 この時代が未来の確かな原因でいるための、その最も要らないものとして、神社(鳥居、社)があるということを知る人間でなければ、自らの本性は、蛇と同質ということになる。そのことへの抵抗・反発が病的に強力であるとすれば、蛇系全般を操る別次の存在との絡みが密であることを顕にする。

 人は、自分に正直でいて、心がそのまま形になる生き方を普通とする。その普通を壊すことはあってはならない。それは、けんめいに守るものではなく、当然守られるべきものであるから、そうではない現実や価値観は、真っ先に自分から外す。でなきゃ、人間をやっている意味は無い。by 無有 6/02 2017

 

 

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