歴史の芯(12)

歴史の芯1

1.この国の歴史ビル全体を眺め、その歴史の芯が黒ずみ出した2階を中心にその原因の風景(性質)を形に出来たことは、この国の未来にとって、かけがえのないものになる。「LED感染(7)」を書き終えた時、この歴史の芯の原因は静かに動き始め、今こうして、12章を書くに至る。(未来が喜び、過去が安心する)次への原因でい続けることで、現在のそこかしこの原因が自動的に掘り下げられ、そこでの必要性に従い、過去という名のかつての原因が段階的に姿を見せる、原因の世界におけるシンプルな真実。(原因の動きを留める)結果に頭を働かせがちな人がそれを知ることはなく、原因の大切さを自らに重ねる人は、ふといつのまにか、それを体験的知識とする。

 「どうしてこうなってしまったのだろう?」の手前には、「どうしてそうなるまで放って置けたのだろう?」が普通にあり、「それは経験しなくても良かったのに…」と、原因の質が高まるにつれ、思考は柔らかく、事の手前に対し責任あるものとなる。そして、それを機に、二度と同じような不自然な現実を創り出さない原因を、人は実践する。その単純で、簡単なことが、この国では、嫌悪の対象となっていた。

 

2.この国の重苦しく悲惨な歴史のその病みのフィールドとして負の原因を絶えず供給してきた神道は、思いがけず迎えることになった戦も紛争も無い現代において、その本質をさらけ出す。力(地位)のある人が、力の無い人の命(人生)を思い通りに出来たそれまでとは異なる、人の命が尊ばれる世。神道の価値観によって積み重ねられ、未消化のまま固められ続けた非人間性の原因は、形になれる場所を失くし、腐敗状態のようになる。

 それは、次第に、臭い無き臭いとして密度濃く神社から漏れ出し、周りの空間を、重く、非生命化させていく。移動できない境内の木々は、次々と元気を失くし、数百年と耐え続けてきた大木は、芯から崩れ、朽ちる。彼らの感性は、純粋そのもの。それとは真逆の神社の負の力で、木々は、繋ぐ力を無くす。

 自然界にとって、神社の木々の悲しみは、無くてもいい経験の典型。彼らも、それまでの(永い間抱え込まされた)負の原因を可能な限り浄化するために、この時の全てを受容する。ずっとそのままで耐え続けてきた経験を、もう耐えることの無い(耐えなくてもいい)新たな原因の経験に変え、未来に想いを託す。自然界は、次なる風景に、その想い(原因)を繋ぐ。

 

3.見た目は光でも、その本質は、生命世界の健全な営みを妨げる闇である、LED照明。その非生命の影響力は、神社に蓄積する停滞と破壊の原因のそれと同質であり、人は、LEDによって様変わりする街路樹や山の木々と同じものが神社に在ることを知り、そのことを理解する。神社(神道)は、恐ろしいLED化を支え、LEDの負(非生命化)の力は、神社の、その存在としての原因を燃料とする。この国のLED絡みの異常さには、この国ならではの重たい背景が在ることを理解する。

 強力な負の原因でい続けるLED化がそのままだと、動植物たちの世界は腐敗型のそれとなり、彼らは、再生不可能な状態に陥る。木々は、内部(芯)から生命力を無くし、空間(空気)は、不健康そのものになる。そして、神社の木は、全て朽ち果てていく。そのことが意味するのは、嘘の原因(の意思)の自家中毒。社や鳥居も、元のままではいられなくなる。

 

4.内なる醜い本性を見つめさせられる経験から常に遠く距離を置ける場所に居て、何があっても、そのための材料となる無感覚・無頓着に徹する、見た目はどこまでも良識ある普通人のような異常人。彼らは、神社には違和感を持たず、LED照明にも異を唱えない。そして、いつも怖がっている。つくり笑顔と能面級の平静さで、恐怖に蓋をする。

 本能的に知る神道の恐さを頭で認識・理解してしまうことによる耐え難い恐怖経験を一切遮断するために、人は、神道(神社)を良いものとする価値観を生き、その自己洗脳のような状態を頑なに維持しつつ、身を守る。その恐さは、経験の記憶の中に性質として在る、その世界の、残忍で極悪な支配。ほんの僅かでもそこに触れれば全てが消失してしまう感覚の中、その苦しみを抑え込むだけの時が続く。それを知るから、どんなことがあっても、神道(神社)を大事にする。それ以外の選択肢を持つことは考えられない。

 それは、そのまま、LED化の支持に繋がる。この国の政治・経済は、その殆ど全てが神道との絡みを基とするゆえ、そこでの非人間性の様は、人々に、正しさとして受け入れられる。

 

5.恐さの中に居ることに全くの無自覚でいることで守り通せることが、その人にとって唯一のものであるとすれば、その恐さは、無いものとして扱われる。そこに在っても、無いものとして生きる、形ばかりの人生。そこでは、体裁を繕い、きれい事で事を済ませることが普通となり、優しい振り、人間味のある振りが日々磨かれる。

 自らの奥深くに在る恐怖の塊をそのままに、内なる原因が少しも動くことのない人生を送る人は、常にそうである状態を維持するために、いつも右に倣え思考を主に、通り一遍の言動と広がりの無い(その原因が心あるものではない)生活感覚を優先させる。平和や健康、調和においても、内に潜めるその恐さの原因がより遠のくよう、本能的に表面的な思考でそれらを扱い、頭で始まり、頭で終われる、変化・成長とは無縁の(その本質が無視された)姿勢を良しとする。多数がそうであることを頼りに、経済も文化も教育も、その路線で行く。

 

6.その恐さの主とも言える別次の(人間の意識の外側の)存在は、神道(神社)関わりの諸々を材料に人々の活動全般を支配し、人間の脳では触れ得ない次元の危うさを本質とするその形無き力で、彼らの精神と無意識を好きなように扱う。かの女性の人間時間を利用して(彼女たちに凶悪な能力を持たせ、同一化させて)、あらゆる人のどんなところにも影響を及ぼし続けるそれは、神社の負の原因との融合を密とする人の(脳の)、その重たい(動きの無い)原因を、まるでくもの巣の材料のようにして繋ぎ、柔らかな感性を持つ人の心をそれで囲み、彼らの生きる力を奪う。神道の通り道であるような強い残虐性を秘める人ほど、糸の角の場所を確保し、その度合いが桁外れな人は、中心近くに住む。

 この世の形無き抽象世界は、その存在の思惑が具体化した、くもの巣のようになっていて、蛇も烏も、その意思に従い(恩恵を得て)、方向性を同じに、持ち場を活かす。

 

7.弥生時代や邪馬台国を初めとする、この国の歴史上の知識(特に歴史ビル2階)全てから自由になり、今回の生における神道(神社)絡みの経験からも一切離れて、LED化の原因との融合(LED照明との接点)を外していくと、その時を待っていたかのように、思考の域に上って来ようとする原因の姿が意思表示する。それは、(くもの巣のように張り巡らされた)病み世の負の材料として生きる危うい人間たちの、その燃料源でいる存在。だがしかし、その存在は、元々はそうではなかった。

 時代を連ねる中、彼(彼女)は、悪質で残酷な、重苦しさそのものの病みの原因を繰り返し積み重ねられたことで、争い事の絶えない不穏な世の土台を、否応無く支えさせられる。神道のくさびをいくつも打たれ、密教系の凶悪な念を深くまで入れ込まれ、その本来の仕事は、完全に潰される。そして、自然界からも、その原因の姿は切り離され、その全ては、悪用される。形あるその姿に尊さを覚える(心を惹かれる)人々は、そこにある形無き重たい原因の力で、何の自覚もなく、心身を病ませていく。

 

8.人間の醜い感情と身勝手な思惑(欲望)に汚染され続ける彼(彼女)は、人間の愚かさの象徴である鳥居(社)の存在をただ眺めるしかなかったが、「歴史の芯」に至る(自然界の)原因の進化のプロセスにおいて、少しずつ、傷の癒える時を経験する。そして、永い時を経て、彼なりの切なる意思表現を、ここに重ねる。病み世の(人間くもの巣)中心辺りに居させられた経験の、その重量級の原因を自ら浄化し得る時を、みんなと共に創り出す。どれ程、辛かっただろうか…。その苦しみは、人間世界のその域をはるかに超える。

 彼の名は、富士山。狭い枠内の価値感情や無責任な個の思考による形式等に利用され続けた彼は、非生命的な形ばかりの人間との要らない融合を、この自然界で最も経験する。この数百、数千年の間の、彼を祀る(祭る)対象として利用する組織や集団は、自然な原因の変化を妨げる重石のようにして、彼の頭にのしかかる。

 邪馬台国の頃から凶悪な嘘の原因の具現化を強めていた神道絡みの世界は、彼にとって、災厄そのものである。存在そのものでさりげなく支え続けていた自然界の調和と生命たちの健全な営みは、重たさそのものの負の原因の通り道である鳥居によって、度重なる負荷をかけられ、その普通を失くさせられていく。山であるはずの彼は、非人間性の染み込む不自然な環境にしつこく囲われ、物(彼らの所有物)になってしまう。

 

9.生命を生き、人間をやるという、この地球に住む人としての、何でもない普通。それを無視するという異常さが、自然界の自然な原因を滞らせ、この国に生きる誰もが惹かれる富士山の姿を、本来とは全く異なる原因のそれへと病ませてしまう。その姿を(その原因のところから)幾重にも重くさせ、自由な動きを封じ込めて不穏な世を支えさせてしまうという、歴史的にも実に恐ろしい出来事。この国の人間は、それを普通とし、心柔らかな人が心のままに生きることを阻止する、くもの巣のような、原因の変化・成長とは無縁の病み世を安定させていく。

 そんな時代の色(空気)を喜んで濃くさせる、人間だけを生きる、蛇と同質の本性(脳)を備える存在。彼らは、生命ではなく、その本質は、物と言える。物は、それを使う存在によって、意のままに簡単に扱われ、争いや差別の道具となる。そんな姿の実の原因を余裕で把握し、そのこと自体がこれまでには無い生命の機会となる時を、さらりと受け止め、共に次へ行く。数千年分の負の原因(の蓄積)が、彼(富士山)から外れ行く時をみんなで支え、この国を、(物ではなく)人が、生命が生きる、自然で心豊かな場所にする。by 無有 6/13 2017

 

 

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