歴史の芯(16)

歴史の芯1

1.15章まで書き続けなければ出会うことの出来なかった、大蛇であった時の原因(本性)をそのままに人間時間を度々経験し、今に至る、その存在。それを思うと、彼女の力とその源を可能な限り削ぐことが、何より重要であるかが分かる。ここまでのいくつもの内容は、その時々に自動的に為されたEWに連動するようにして誕生したものだが、そのEWの多次元的要素がある性質の意思を持ち、その必要性を高めて、この時を引き寄せる。

 それは、原因の分母が拡大したからこそ顕に出来た、極微で、重量のある世界。それは、限り無く分かりにくく、見つけにくい、あらゆる病みの原因を下支えする存在。何をしてもどうにもならなかった否定的な負の固まりが、何があっても歩み続けたみんなのこれまでに反応する。彼女の中に、自由自在に誰をも病ませ続けられる、恐ろしく残酷な原因が息づいている。

 

2.原因の世界には、その性質に見合って住み分け(区分け)が生まれる次元層のようなものが在り、本質的な純粋さと否定感情とは無縁の精神は、その奥深くの、完全とも見える純なところ(層)で、心ある人たちの感性を包み込むようにしてひとつにし(繋ぎ)、優しさと思いやりを普通に、健康と平和の力強い原因の仕事をし続ける。その純粋さが、どこまでもきめ細かく、透明感のあるものである時、その人は、心の風景の核のような役を担い、多くの人の本来の在り様を、その気もなく存在そのもので支える。彼(彼女)の、健康的で平和な想いは、みんなを健康にし、みんなの時を平和にする原因となる。

 心ある人たちは、心を恐れる存在たちのその人間とは思えない行動にただ耐えるしかなかったが、それでも、希望を繋ぎ、心ある想いを大切に生き続ける。しかし、厳しい邪馬台国に続く、歴史ビル1階の時、その希望は、絶望に変わる。みんなの心ある表現の源泉でい続けてくれた、純粋さそのものでいる人が、次々と蛇の中に取り込まれてしまう。人は、直接・間接的にそのことによる恐ろしい影響(苦しみの連鎖)を知り、心は力を無くす。健全な感性を備えるからこそ感じ得る極度の悲しみは、闇に包まれる心の風景。それは、この国から、良心が消えた瞬間。

 

3.富士山の麓の湖(温泉)近くの洞穴に住む蛇たちは、蛇使いの女性には従順で、彼女を通して食事にありつける流れになるまで、大人しい。外で人気がにわかにざわめき出した頃、その時が近いことを彼らは喜び、妙な音を立て始める。まだ幼さが残る蛇たちが、一斉にうごめき出す。

 そこに連れて来られた人たちは、動く自由を奪われたまま、棒で叩かれ、岩で潰され、血を流し、命を終える。砕かれた体は、仕事人たちによって集められ、成長期の蛇たちの餌として与えられる。その悍しい行為は、あらかじめ計画されていて、決して折れない意思と譲らない信念を持つ人に対しては、身動き出来ない状態でしっかりとその光景を目に入れさせ、心を潰す。そして、次なる儀式の対象として、その人を責め、洞穴に運び、大蛇に食べ殺させる。

 その全てが、神の意思として厳粛に行われ、神の使いとされる気狂う女性の指示に、誰もが従う。しかし、その全ては嘘であり、狡賢い、非人間的な策謀。それが人として許されないことであるという認識(理解)を遠ざけ、心の存在に怯える自分たちの心の無さを守り通すために、彼らは、神道(神社の形態)を具体化させていく。木に吊され(縛られ)、火あぶりにされ、性を踏みにじられ、獣に(自分たちにも)食べられて命を落としていく人たちの心の力を無きものにする(封印する)ために、鳥居や社の他、しめ縄(人間を食べた大蛇)や垂(吊された人)も生み出していく。

(惨たらしく死に行く時の血の色とその姿(特に女性の姿)を象徴する赤い(朱色の)鳥居は、嘘神を傘に狡く生きる存在たちの、その非人間性からなる怯えと心の無さの反映である。脳が蛇である彼らは(特に貴族と呼ばれる人たちの間では)、平安期ごろまで、普通に人間を食べ続ける)

 

4.生きた人間をそのまま食べる(飲み込む)大蛇級の蛇は、その洞穴の中に何匹もいるが、その中でも、恐ろしく獰猛で、桁外れの残忍さと凶悪さを備える脳を持つ蛇が、後の聖徳太子の妹の育ての親となる女性であり、現在の、彼女の母親である。蛇が人間の身体を持つことなど、実に非常識であり得ないことだが、蛇の脳に入り、そこから人間になったかつての姿(経験)を思えば、彼らにとってのそれは、単にその時代の必要性の一環のように、た易いことである。経験の外側度数が著しいため、それは軽く通常の理解を超えるが、そこに在る原因の性質と本性は、そのままその時の大蛇である。

 その後の時代を、重く、じめじめとした世にするための、その最も効果的で残酷な、蛇絡みの拷問と殺害。彼女(蛇)は、自分を通してそれが為されることを知り、それを喜び、自在に勤しむ。特に、自分たちにとって強い嫌悪の対象となる、純粋な心をそのままに生きる人間は、追い詰め、命を弄び、苦しみを笑い、血を愉しむ。

 そのための、その後。逆噴射のように、この場所からその原因を遡りつつ、ひとつひとつを浄化する。そのための今が、ここに在る。原因の世界では、彼女の追い出しにかかる。

 

5.この国の歴史ビル1階で、その後の(2階以降の)負の歴史の燃料庫のようにして居場所を確保する彼女(大蛇)たちは、時代が、柔らかで、温もりのある時を経験することを許さない。そのためなら、手段を選ばず、どんな役でも担う。

 世が混乱状態に陥ると、真を生きる生命本来の普通(の原因)が、偶発的必然として、永い眠りから目覚め、勢いづくことがある。歴史ビル2階の上層でそれが起きたのは、鎌倉時代。時代の好転反応とも言えるその時は、厳しく、辛いながらも、それまでの重たいばかりの価値観が揺らぎ、暗く、どんよりとした人間社会に、太陽の光(中庸の原因)が注がれやすくなる。彼女たちが、それを放って置くことはない。

 洞穴で多くの人間を取り込んだ女性(蛇)は、日蓮を生きる。その獰猛な本性は、人間時間でもその度合いを強め、暴力的な感情を力に、人々の意識を引っ張り、その欲深さゆえの結果追及と言動(言説)を、蛇のようにしつこく弄ぶ。結果人々は、心ある原因からより離れることになり、嘘の神々からなる神道(神社)は、日蓮によって支えられることになる。

 生命としての原因を持たない(作り物の仏心の)嘘の仏教流布には、蛇仲間の親鸞も加わり、苦しむ人たちのその原因は無視したまま、結果(形)のみを彼らに生きさせ、神道を守る。結果を求める日蓮と、結果を生きる親鸞。二人とも、心(原因)も人間性も持たない、大蛇である。(現代では、互いに意識を向け合える関係性を保つ)

 

6.人としての生きる基本形のその原因が少しでも形になろうとすれば、即座に罪を課せられ、潰されてしまっていたこれまで。蛇絡みの世界からのそれは、望むべく負(病み)の安定であり、そうではない世界では、何ひとつ人間らしいことを経験できない、不自由さの安定である。

 永い時を経ての現代、遠い昔の、力を無くしたままの原因が自ら動き出せるぐらい、負の安定は、不安定になる。当然、彼女(蛇)たちは、それを許さない。私たちも、彼女たちを許さない。

 後の世を完全に心無い原因のそれにした親鸞は、今回、無有の最も近い場所で、かつての仲間と生きる。彼女(彼)の形無き原因を包み込む別次の原因でその奥深くに入り込み、大蛇であった時のその本性の意思と動き全てを把握する。そして、その凶悪な感情を敢えて浴び続けることで、力の出し処を抑え込んでいく。

 現代の悪質な宗教ごっこの雛形となった日蓮は、近しい縁の風景の中に居て、無有のEWを直に受けた人の中では、その回数はかなり多い。そのことで、人間時間での主導権がままならなくなり、身体を離れるタイミングも逃したままである。かつての友(蛇使い)と血縁であることも、原因の世界におけるその多次元的な必要性が引き寄せたもの。大蛇であった時の特殊経験の質は、簡単にマーク出来、二人とも、身体時間を選択する以前から、無有の原因の中である。

 

7.そして、彼女たちでさえも、意識の外へ置きたがる(恐れる)、闇そのものの存在(大蛇)。それは、無有が母親として選んだ女性の、その正体である。蛇も、蛇使いも、儀式全般を仕切る男性も、彼女を通して供給される負の燃料によって、そうである(凶悪そのものの)状況を作り出す。変化し続ける瞬間のその原因の隙間から、改めてその存在に意識を向ける。この今に、その実(正体)となる世界へのチューニングをキープしつつ、それをここに引き込み、EWを重ね、その経験の原因を、そのまま文章に乗せる。

 その存在が、身体を持つ人間として歴史に名を残した(残してしまった)のは、奈良時代。仏教の本質を体現できない彼(彼女)は、密教色の強い念系の教えで、嘘の仏師を生き、仏教の(戒律の)伝達者として尊ばれる。その後のこの国の仏教に大きな影響を及ぼした彼であるが、その中身は、真の仏教からは程遠いまがい物である。だがしかし、それが、彼の本性の目的である。後に続く同質の最澄も空海も、それに(密教系のお遊びに)夢中になる。世は、蛇の巣窟のようになる。

 無有を子に持ったことで、元気でい続けられる原因は、いくらでも彼女に注がれる。無有の生命力を奪い続ける分、その手の内の観察と学びは続く。そして、彼女の正体を取り込む。それが平気であれば(平気ではない原因は知らないが)、先へ行ける。母と子の関係は無くならないから、どこまでも行く。そして、このことを言葉に出来るこのタイミングを最大限に活かし、いつものように、それを次なる原因にする。一度その正体の尻尾に触れたら、掴んだまま、二度と離すことはしない。なぜなら、身体を持つ時にはすでに、その道へと歩み出していたから。その黒い粒子の変幻自在振りは、どの時代でも、心ある柔らかな人たちの生命力(血)を吸い取り続けているから。

 

8.これまでのいくつもの点が、少しずつ結び付いて線になり、そして形になって、歩むべく道になる。その道は、動物たちの住む森や林を通り、魚たちが遊ぶ海へと続く。そして、クジラやイルカたちと海を渡り、空を飛ぶ鳥たちに運ばれ、地球を廻る。生命の歴史は、息を吹き返す。

 少女(少年)は、数千年振りに、生まれ変わる。ずっと時代を見続けてきた彼女(彼)は、ここで荷物を降ろし、新しく着替えて、歩き出す。誰も、彼女の本当の力を知らない。彼女自身も、そのことを忘れている。この時を永いこと待ち続けてきた人たちは、彼女が歩き出すだけで、心が元気になる。身も軽く、視界も広く、どこに居ても安心の中に居る。

 彼女(彼)のさりげなさは、変化そのもの。みんなの変化は、彼女の普通。自然界の生命たちは、この時を祝福し、過去も未来も、この今に溶ける。少女(少年)は、時の彼方を見る。空と海が、その姿に、嬉し涙する。

 何のためでもなく、想いを繋ぎ、誰のためでもなく、心を生きる。そして、想いは全てとなり、心はみんなになる。全てであるひとつの想いは、心の風に乗り、どんなところにも届けられる。

みんなにとっての心は、心あるみんなの風景で、水や空気のように、時を癒す。時は、心優しきみんなの時代となり、温かな想いに包まれる。理想という名の普通。希望という名の本来。いつの時も、ありのままに心を生き、さりげなく想いを繋ぐ。by 無有 7/22 2017

 

 

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