歴史の芯(17)

歴史の芯1

1.この国の海辺は、その殆どが、かつて罪無き人たちが繰り返し処刑された場所である。その近くの松の木や岩は、そのための道具となり、砂浜や崖は、その舞台となる。それを行った存在たちは、命を終えた(終えさせられた)人たちの悔しさと抵抗の感情(魂の力)を恐れ、それを永遠に押さえ込むために、密教の要素を絡めたほこら(社)を設け、彼らの苦しみが癒えることのないよう、念の力を鳥居に込める。

 太陽の光が降り注ぐ浜辺は、神道の理想(普通)とは真逆の場所。彼らの忌み嫌うそこで、迫害と殺戮、差別と拷問が、神の名のもとに行われる。流された血は、周りの(海辺の)生命たちを脅かし、苦しみは、その空間から出られなくなる。そこでの経験の記憶は、砂浜の質と色を重くさせ、海を見渡せる場所を、薄気味悪くする。この国の海辺は、心柔らかな人が楽しめない場所となる。

 

2.海辺が不自然になることで、陸地は、自然界の自然な意思に逆らうようにして、本来の姿を失くしていく。海に守られ、海に育まれる、太陽の光を存分に浴びる大地とそこでの生命たち。浜辺や海に面した崖が、非道で冷酷な異常人たちが引き起こした惨劇により幾度も汚された(侵された)ことで、海は、陸を離れ、それとの融合を避けて、黙することになる。海の砂であり、陸の砂でもある、その中間に(中庸の次元に)位置する沙は、涙の砂となる。

 川辺も、湖のほとりも、温泉の近くも、その多くは、無くてもいい経験を強いられる人たちの苦しみの場所となり、植物や土、岩(石)は、苦悶の中で流される血の悲しみ(の感情)を、自らの中に転写させてしまう。

 その時の原因がそのままだから、海は、悲しみを誘い、砂浜は、優しさを忘れる。他を隔て、身勝手に事を生じさせようとする存在たちが嘘(の神々)に力を与えたことで、人は、山を尊び、海の心との重なりを失くす。そして、海は一層、この国の陸地を避け、砂浜や海辺の崖は、ずっしりと重く、どんよりとしたものになる。

 

3.支配する側の都合の良い理屈と感情的な判断によって罪を課せられる人たちは、身内や仲間のために良かれと思い行動しただけで、処罰され、辛さや厳しさに耐えきれず抵抗しただけで、責めを負う。争い事を避けたくても、その気持ちは許されず、協力し合って共に生きようとしても、隔たりの中で生きさせられる。この国に生きる心ある普通の人たちは、歴史ビルの基礎が出来始めた頃から、心の無さを力に非道なことも平気で行う存在たちによって、人間らしく生きる自由を奪われ、彼らの非人間性からなる満足の道具、罰則(掟)や労役に悩み、苦しめられる。

 人々が従わざるを得ない非情な決まりを作り、実行する存在たちは、大勢の人を支配するための組織と職を設け、不平等・不公正を普通とする格差(差別)社会を安定・維持させる。明日をも知れぬ暮らしの中で、動物(家畜)のように働き続ける人。いつのまにか、病苦や生活苦があたり前となる人。決まりの厳しさから遠くに逃げる(追いやられる)人。海岸や砂浜近くは、迫害(差別)を被った人たちや、そこで処刑された人の仲間たちが身を寄せ合う場所となる。

 

4.心の望み(意思)を抑えつけられ、決められた留意すべきこと以外のことに思考は使わせてもらえず、身近な人よりも、力のある外の存在(身分・地位のある人)のことを大切にするよう義務づけられた人たち。彼らは、考えてもムダなことには意識を向けることもなくなり、身を守るために、定められたことには従順に合わせ、鈍感さを普通に、何があっても口を閉じ、沈黙の時を生き続ける。

 そんな中でも、大陸から渡来する人が出始める頃よりもずっと前の時代からこの地(国)で生きていた人たちは、争いも差別も無かった時代の記憶を性質として心に染み込ませているので、いつの時も(いつの生でも)、彼らのその健全な感性は消滅することはない。それゆえ、彼らは、生来の在るべき本来(の普通)を守ろうとする意識を本能として備え、何があっても譲れない、人としての生き方を、どんな時でも表現する。人が虐げられ、命を弄ばれることは、人間世界には在ってはならない、動物にも劣る行為であるゆえ、権力による非人間的な支配の姿をそのままにしてはならないと、自らに正直でいて、その想いを次へと繋ぐ。時に、やむ無く、争い(差別、非道な責め)を無くすための衝突を選択しつつも、ぶつからずに気持ちを伝え、妥協しながらも、意思を通す。支配する側にとっては、それは、何より気障りなことである。

 

5.嘘を本当として生きることなど到底考えられない彼らは、歴史ビル2階の時も、3階の時も、その言動を力で抑えられ、厳しく罰せられる。どの時も、それは実に残酷で、惨たらしい。神とされる存在のもとで正しきこととなる処刑は、蛇のような(神道を後ろ盾とする)人間たちによって、その多くが、浜辺や海に面した崖で行われる。

 浜辺では、拷問と処刑、そして見せしめが同時に行われ、この世のものとは思えない悍しい光景が繰り広げられる。純粋さと力強い精神を持つ人は、心に正直であるがために、不穏な対象として捕まり、その後も自らに備わる感性を大切にしていただけで、刑罰を受ける立場となる。縛られ、自由を奪われた罪無き彼らは、砂浜に埋められ(海に放られ)、恐怖と苦痛の中、命を終える。自分の番を待つ人。何も出来ずに呆然とそれを見る(見させられる)人。それを能面のごとく無表情で眺め、事を進める人。心の純粋さと素朴で健全な感性を忌み嫌う存在たちは、自分たちには無い心を持つ人たちの感情を尽く力無いものにすることで、神道(嘘の神々)の力をより堅固なものにし、人々と神社との関わりを密にしていく。

 

6.海は、眺めているだけでも、心が安らぎ、気持ちも元気になれる、この地球に生きる人間みんなを癒し、生かし続ける大きな存在である。しかし、この国は、そうではない。それは、まるで蛇の感情に添うようにして遠ざけられ、人は、山々を神聖なものとして特別視する。海の近くに残る数限り無い惨劇の原因は、未だ神社の負の力によってそのままにされ、浜辺も崖も、心無い人たちのための、形ばかりの満足の場となる。

 歴史ビル2階の頃から、人々は、素朴に感じる決まり事への違和感が刑罰へと繋がり、他者への同情心が身の危険へと発展するという、歪な風潮(価値観)が蔓延する世を生きているうちに、鈍感さを積み重ね、心と感性を無いものとして生きることを馴染ませていく。神道の嘘は絶対であり、自らの心の正直さは取るに足らないものであるということも、自覚し、常識とする。

 それは、心ある人たちにとって、無くてもいいはずの不安と怖れを慢性化させながら、作り物の人生を、その気もなく生きるということ。その上に時代(歴史)は成り立ち、自分たちの想いは、力無く埋もれてしまうということ。後の最澄も親鸞も、そんな嘘の世を上手く利用して、個性豊かに(我欲のままに)、狡く事を為し得たということを知れば、自らの芯は、安定感を見せる。心も感性も無い教えは、どこまで行っても、思考の域を出ることはない。

 

7.罪の無い人の殺害は、いつの時代も、残虐性を普通とする力ある存在(権力者)の意向によって為される。秘める非人間的な狡猾さが強力な存在ほど、現場から遠いところで思い通りにその全てを支配しようとし、それゆえに、その人は、苦しみ喘ぐ人たちの惨状に触れることはない。彼(彼女)が記憶するのは、宴や食、遊びの、楽しみの風景。神道の嘘の世界の中心辺りに居る(関わる)人ほど、それはあたり前となり、血を見ずに、たくさんの人の血を流させ、贅の尽くされた時を過ごしつつ、罪を課せられた人たちの飢えと苦しみ、痛みと孤独感を作り出す。そんな存在を核として人が集まり、成り立つ世界が、神道である。

 この国の歴史は、質を同じくする存在たちの、その凶悪で残忍な本性がぶつかり合うという、言わば、気の合う仲間同士の痴話喧嘩(内輪もめ)である。歴史上の人物も、その殆どが皆蛇友であり、その本質は、神道の根っこと繋がる、嘘の人間ばかりである。人は、傷つけ合って血を流すということからは、一生を通して全く無縁でいる、地球に住む一生命としての、心を生きる存在である。人は、嘘の神々が存在しなければ、武器も武力も知らないままでいられる、平和そのものの存在である。

 

8.この国の人々は、永いこと、山々を特別視し、ある山を神の宿る霊山(神体)として崇めたり、鳥居や社を各所に設けて祀ったりと、恐ろしく病的で、異常な感情を山に抱き、山に注ぐ。その姿は、紛れもなく、他を隔て、心ある発想を退ける、否定感情のそれ。経験の記憶には、嘘の神々の世界に守られて狡く生きた自分と、弱者を迫害し、他の多くの人の苦しみを良しとした、凶悪な非人間振りがある。山々は、彼らの歪な感情(重たい本性)とその不自然な行為に、窮屈さを覚える。

 山は、遥か昔、海の中に在ったことを知っている。海と陸の間に在る砂(沙)が、自然界のバランスを支えていることも知っている。そして、海近くの場所の平和と調和が、山にとって、何より安心の材料になっていることも…。だから、山と海との自然な融合を妨げてはならない。そのためにも、砂浜や崖での負の原因の蓄積をそのままにしてはならない。鳥居一つで、悲しみは連鎖し、社一つで、悲劇は繰り返される。砂浜を、海が喜び、山が楽になる場所にする。自然界に、嘘と不自然さの象徴は要らない。by 無有 8/01 2017

 

 

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