歴史の芯(34)

 

1.人としての本来を、ごく自然に普通感覚で過ごす。そうであるはずなのに、なかなかそうにはならない理由は、それを決して望まない別の自分(本当の自分)が居ることを認めないから。薄々そうだと感じていても、思考がそのことを拒絶し、自分が思う自分を自分だと思いたいから。

 そこでは、要らない気づきや反省ばかりが続き、何をしても変わらない、でも変わりたいという、嘘の自分を平気で生きる姿がある。変化を求め、不安になり、不安が募り、変化しなきゃと思う。変化を嫌う本当の自分は、端から変化を拒み、変化できるかどうかの世界で、狡賢く、自己の都合と偽善を生きる。それに費やされてきた時間の結果が、この国の人間の歴史である。大多数が、変化とは無縁のその本心で、変化ごっこという思考のお遊びに興じる。

 そうではない人生を生き、人としての真の普通を表現する人は、自らの中に居るもう一人の別の自分に振り回されず、これまでの時代に背を向け、生き直しをすることを選択・実践する。その時、必要となるのが、大多数に共通とされる、その本当の自分(の世界)の性質への理解である。その次元は、繋がっていて、それぞれが共振し、呼応し合う。重さや強さ、濃さは様々でも、皆同じようにその本当の自分を隠し、嘘の自分を本当として生きる。その世界(次元)から脱出し、人としての生を生きる。

 変化を毛嫌う別の自分が力を持てば、それが自分。そこを離れられれば、それが自分。そうである性質の事実を知り、嘘を外し、人間本来の新たなひな型になる。人には、元々別の自分の存在などは無く、そうであることをそのままに生きることは、この地球に生きる一生命として、誰も出来ない。私たちが経験すべき、人間時間の中からの望むべく変化は、人が内に潜め、その気もなく利用し、利用されている、その別の自分(本体)の力を無くさせること。太陽も地球も、それを何より嬉しい。

 

2.この世の人間の歴史的内実は、地上の次元に初めて入り込んだ頃の原初的蛇系の存在が、各地域に数十、数百単位で居て、その後、彼らの意思に従い増え続けた同質の人間が、操られる(支配される)側となって生き、そして後に、すでに病み世と化したその中で異常を普通とする本質を備える人間が次々と連鎖的に誕生し、増大したものである。

 その昔、太陽の心を普通に生きていた人たちは、いつの時代も、彼らの強烈な違和感の対象となり、徹底してその心の望みを潰され、連繋の意思を外される。それでも、ここに繋がった、その切なる想い。信じられない程ほんの僅かしか居ないその心を持つ人たちは、現代では、これまでになくその自由を抑え込まれる。

 大多数の心を持たない存在たちは、地球に在ってはならない自分たちのその負の(非生命的な)本質を知る太陽を遠ざけるために、凄腕の(蛇の脳での経験を持つ)存在を中心に、好きなように地球らしくない天候を生み出す。それに従う同質の存在たちは、食を主に人の生活全般を滞らせ、太陽の恵みが地上で活かされない状況を安定させる。それがより積極的に具現化された、この数千年。地球の歴史上、その間は、永い非人間の時代(蛇の世)となる。

 

3.嘆き悲しみ、苦しみ喘ぐ人の姿を好物とするその存在たちの意思は、そのために身体を利用し、意識を所有する。それそのものの性質の原因が無限供給されていることで、彼らは、人間の体(脳)を手に入れると同時に、非人間的な個性ある経験を積み重ねる。その経験の凄まじさにより、人の世を牛耳る力も磨かれる。

 人が苦しむという快楽の時を好き放題愉しめればそれで良しとするその存在たちにとって、そのために操る人間経験のその基本は、嘘である。ただ、自らが選んだ人間が身体的・精神的に攻撃されれば、当然そのことに反発するが、それが出来なければ、退散するか、形だけ屈する。より凶悪な経験(の原因)を備える同質の存在に自分が押さえ込まれ、利用された(されていた)としても、蛇系世界でのそれは、一種の力添え。仲間意識は無いが、この時まで皆で作り上げた負の体制が崩れることだけは、何があっても阻止する。そのためとなれば、力の差による嫌な経験にも全く無頓着となり、即転じて、自分が可能とする他への凶悪な行為(攻撃)を愉しみ、人が苦しむのが嬉しい自分を生きる。

 その存在たちの意思には、何かを守ろうとする意識は無く、ただしかし、ここまで続いている、不穏で不健全な現実がどこまでも維持されていくことには執着する。面白おかしく人を苦しめられればそれで良く、人間的にどんなであっても、孤独や疎外というものは無い。意識体同士では、上下関係も、誰かに使われているという感覚もなく、自分たちの、その非人間性を普通とする欲求を満たすことだけのために、自らの身体(脳)と共に、狡猾さと無感覚に徹する。それが彼らの本能であり、それしか知らないその次元の普通である。

 

4.人間の意識に入ることで個性的な存在となった彼らは、悪感情を大っぴらに出来ないこの現代、裏でこっそり人を困らせ、人知れず事をおかしくさせて、悦に入る。身体の方は、それを完全なものにするために、常に他を憐れみ同情する気持ちを持ち、苦しみや逆境を克服しようとする姿勢に、甚く感動する。それらの不幸や災いの理由深くに、自らの意思がしつこく絡んでいるわけだから、それと繋がる無意識(本体)の意思の嬉しさは格別である。彼らは、その信じ難い負の力で、誰にもそうとは分からせずに、人を病気にしたり、事故に遭わせたりする。中には、自ら心身を酷く病気にして、人の人生を不自由にしたり、どうにもならない状況にうまく陥り、世の動向に悪影響を及ぼしたりする存在もいる。

 人の意識の中で獣的な残虐性に変換される、その本質となる本体の意思は、その質が凶悪な存在ほど、同一化させた人間の脳に、この時代仕様の武器となる差別心と知識欲を密度濃く植え付ける。差別心は、他を抑えて、自分だけの欲を満たすための、その重要な動機付け。数の力も、量や幅の利かせ具合も、差別心がそれを支える。知識欲は、心を持たない人間にとっては、他に差を付け、人を退けるための最良の道具。地位を手にし、偉くなれ、お金も入り、人は支配される。

 大多数の人たちが、蛇絡みの本性を携えて人間を生きる、現代。彼らは、その本性を上手く抑えて(良い人を演じることで身を持たせながら)、その非道な思惑を現代風に形にしているが、実のところ、それは不本意なもの。かつてのように、敵意(殺意)を自由に形に出来ないことに、悔しがっている。その悔しさは、この34章で更に増幅する。それは、この地上に無くてもいい本体の性質が、より顕になるということ。「歴史の芯」や「仏陀の心」に触れ、その存在たちの思い通りにはならない人間時間を、彼らの経験の外側で創り続ける。

 

5.停滞感と腐敗型の原因を基本燃料に攻撃・破壊願望を形にしようとする、形無きその存在の意思は、何があっても変わらずに、そうであり続ける。その意思を本性(無意識)に潜め、操られるようにして生きる人間は、当然、その性質の全てに合わせ、その具現化の格好の道具となる。それに逆らうとか、それを切り離すとかの発想が生まれることはない。

 人間の心を持ち合わせない彼らの脳の働きは、実に単純・短絡で、機械的。難無く人(世)を病ませられれば、がぜんその性質を活かし、そうでなければ、嘘でそれをごまかし、元の(いつもの)状態になれるまでそこで待つか、他へと移動する。人を困らせ、苦しめることを普通とする彼らにとっては、そのために取る嘘は、当然の手段。世の嘘に守られて生きる彼らの人生がそもそも嘘であるため、それを何百回言われても、事実を通して体験的に知らされても、心を知らないその脳は、何も理解できない。それで良しとなる世を作ってきたその存在たちには、そうではない状況の訪れなど、到底考えられない。それが、この世の大多数の人間の普通である。ただそうであり続けるためだけに、形ばかりの協調や協力も、弄ぶようにして身体に経験させる。

 そんなだから、今まで培ってきたものが通用しないとなると、その存在たちは、どうしていいか分からなくなる。表面的な形式(過去)や知識(結果)を大事に良い人でいようとする、この現代仕様の思惑が、その原因のところから厳しく観察されるという、疎ましさ(不快感)。裏表が有ることを正当化するために礼やしきたりを利用するという当然の姿勢のその本質が問われる、うっとうしさ(気詰まり感)。それまでには(この数千年間には)無かった、無有日記を通してのこの時の経験は、単細胞の彼らにとって、耐え難き悔しさ(屈辱)となる。

 

6.財や地位を手にし、人を支配する側に居られたとしても、それが根底から覆されかねないという、その存在たちにとっては至極許し難い、事の原因のところから観る、生命としての発想。彼らの意思は、当然、その発想の発信源となる無有の原因を尽く潰し切ることに固執する。経験豊富な本体を持つ(本体が選んだ)人間が、無有に様々に関わる。

 なのだが、その全てはすでに把握されていて、彼らのあらゆる負の試みは、次への新たな原因として、余裕で処理される。「歴史の芯」の流れを観ても分かるように、無有日記の原因は、地球時間を包み込み、太陽の意識(想い)まで形にする。彼らが、人間を通して停滞と破壊の意思を強めようとすればする程、無有(日記)は、瞬く間にその内実を学び、負の原因を浄化して、それを役立てる。その流れの中に、この34章も在る。

 それでも、それしか無い、その存在たちの本質。力を削がれても、意図を抑え込まれても、調整・修復の知恵を持たない彼らは、どこまでも、攻めることしか知らない。そんな彼らであるが、それ以外の姿勢を持たないというそのことが、徐々に思いがけない方へと転じ、無有との縁を通しての経験は、彼らには無い意外性と驚きを伴うようになる。気づけば、事の主導権は、無有日記の中に在る。

 この国の歴史的負の連鎖のその元となる原因が、段階的に確実に浄化されつつ、形になった「歴史の芯」。思考の奥に在る原因(本質)が、これまでの歴史が絡むこの世の大多数と同質であれば、無有日記の世界を実践することでしか、人としての生を経験することは出来ない。自然界が悲しむ非生命的な原因のまま、事を語ることは、この地上ではあり得ない。

 

7.誰にもそうとは分からせずに世を病ませ続ける、地球の異物とも言えるその形無き存在たちは、永い年月をかけて増やした同質の人間と、彼らによって支えられる、多数が優位となる価値観を最大利用し、その(世を病ませる)最終局面となるこの現代に、これ以上の材料は無いというくらいの、完全なる破壊と無生命化の物質を誕生させる。それが、LEDである。

 LEDの原因に潜むその本質(正体)は、腐敗と破壊であり、その意図は、大多数の意識を操る危うい存在(本体)たちの、その元となるエリアの意思である。LEDは、初めに、植物(木々、作物)を腐らせ、水や土を変質させる。そして、動物たちの生きる力を奪い、自然界の隅々まで無生命化させていく。(その過程では、人の手による建造物も、心身の健全さも、LEDにより壊れていく)

 ところが、LEDのその負の原因に反応できない非人間的な本性を備える人たちは、それらの不自然な風景を目にしても、その理由へとは踏み込めず、それがLEDのせいだと知らされても、そう思うこともしない。ただ、本体の意思がそうではなくても、人としての人生を生きる立場上、放って置いてはならないだろうということは、人間として、薄々分かる。それでも、LEDに自分は全く平気で、同質の力ある存在(仲間)たちがそれを良しとしているので、動く理由(名分)はどこにも無く、脳は、そんな時に何かをしようとする経験を知らない。それが大多数であるわけだから、事は、恐ろしく悲惨である。

 そして、ここでもそうだが、その在り様の全ては、ずっと前から把握されている。でなきゃ、「LED感染」も「LEDの影響(映像)」も、ここには無い。原因の動きは正直だから、無有日記は、余裕でその無生命化の性質を形にする。LEDは、自然界との融合の無さが重量級だから、その作り手も使い手も、送り手も受け手も皆含めて、そこに在る(この地上に)無くてもいい原因全てを浄化し得る新たな機会を設ける。太陽も月も、地球自然界も、そのことに協力する。それが、この今の流れである。

 この先、大多数は、呆けるぐらい思考が働かなくなり、どうにもならなさが増幅する。単純・短絡ではいられない状況の中でも、そうあり続けるしかないその本性は、内に秘めた粗暴さ(低劣さ)や自己本位な感情を次々と顕にし、心の無さも隠せなくなる。世にも恐ろしいLED照明に何の違和感も持たないという恐ろしさ。そのことに見合った反応の連鎖に、自然界は、大きく再スタートを切る。

 自然界に負荷をかけ、その動きを滞らせて地球全体を腐敗・無生命化させようとする意思が、永い時をかけてこの地上に生み出した、蛇系の大多数。彼らの数の力にも支えられるLED化は、世を病ませるためのその実に効果的な道具(材料)となっているが、そのことを新たな原因へと変え得る無有日記の次元からだと、LED化は、人間世界の土台深くにしつこく固められたその負の(非人間的な)原因を好きなだけ浄化できる機会である。それは、「歴史の芯」のこれまでの文章と、それに乗った原因(エネルギー)に呼応する人たちのその内なる変化に、如実に現れている。

 心を持たないゆえに基本が嘘である蛇系の人間(大多数)は、その気もなく狡猾さを地で行き、愛情の無さも、愛情の有る振りでそれを面白おかしく愉しむ。しかし、LED照明への危うさへの無感覚から、それは通用しなくなる。物事の原因への分からなさに無頓着でいて、困ると、「だからどうしたの?」「それで何なの?」と他者を突っぱねていた、その怯えと狡さ。そんな時に決まって科学的根拠という(自分たちが作り上げた結果優先の)世界に逃げ隠れていた彼らも、LED化を支えていたことで、それも認められなくなる。

 大多数は、LED照明を通して、事実から学ぶという、彼らにとっては最も厳しい体験的知識と感覚的理解を経験せざるを得なくなる。それが、何を意味するか?それは、その存在たちには無い、原因の変化というあり得ない動きが、彼らの中で始まってしまったということ。無有日記は、その姿を見守る。

 

8.自らの本体の反応からなる無意識の力によって、無有日記との縁を引き寄せた存在たちの多くは、人間的な思考の域では到底あり得ない現実の連なりを、そこで経験する。ただそうであっても、無意識の意思の背後で身体(脳)を操る形無き別次の意思(本体)は、無有日記の原因とは相反する、非生命的な性質。そこでの経験の内実は、未知の原因の世界に本能の力を抑え込まれ、意に反してそれに付き合わせさせられてしまうというもの。思考を思い通りに扱えない無有日記の世界では、いつのまにか本体の意思とは異なる時空に居て、その矛盾からなる心身の好転反応を繰り返しつつ、全く予想すらしなかった不可思議な事の展開を経験することになる。

 その後、彼らは、それまでに無い現実を生み出す空間で、そんなつもりもなく無有日記の材料となり、何もしていないのに次なる時代の大切な何かをしているという、かけがえのない存在になっていく。無自覚に無有日記を支え、自らも無有日記になるというそれは、本体からすれば至極許し難い現実。そうならないようその流れに負荷をかけようとすれば、自分の方にそれが返り、阻止しようと(封じ込めようと)すれば、自分が動きにくくなるという、どこまでもあり得ない事実。時を経て、その存在たちの本体は、思い通りに本人(身体)を利用できない状況を甘んじて受け入れざるを得なくなり、本人は、無有日記を通して、未消化の感情の記憶を浄化し得るという(人間的に嬉しい)経験のその原因づくりに、身体時間を重ねることになる。

 彼らは皆、太陽のように、この地上の人間世界で、異端児になる生を生きる。それは、そうであろうとしても出来るものではなく、その発想から離れていても出会し得る(経験の外側となる)縁を通して、その可能性は動き出す。それが、この無有日記には在る。本体の意思とその性質も含めたこれまでは、ここに溶け、奇跡という名のここでの普通体験が、これからを創る。ふと手にした新しい場所で、誰も出来ないことを実践し、そしてそれは、誰も出来ることのそのお手本(ひな型)となる。この時代が支える、次なる時代へのその生き直しに、本体は、笑うしかなくなる。

 無有日記に縁した人たちの、その力強い歩みと覚悟。そこでの厳しさへの受容は、そのまま時代の喜びと繋がり、生命世界を深くから癒す。それは、まさに歴史的であり、この地球での生命史上初の、自然界発のその意思の具現化である。この時代は、ここから変わり、かつての時代と共に、この数千年間を包み込む。そのことに、地球は喜び、太陽も、嬉しさを隠せない。by 無有 4/05 2018

 

 

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