歴史の芯(4)

歴史芯1

1.誰にもそうとは決して思わせず、それでいて、強弱を柔軟に誰の中にも居て、その人たちの痛みと苦しみの原因でい続ける存在。同質他の人たちも恐れるその存在は、その身体(姿)を単なる道具に、いくらでも好きなように人を問題事へと誘い込み、彼らの辛く悲しい現実を演出する。病みの蔓延の妨げになるであろう意思に出会せば、事の手前で、その人の生きる原因を潰し、体が思うように動かせない状態を、彼(彼女)に経験させる。それをどうにかしようとする気持ちすら誰も持てずに、世は、重く、粘っこく、普通に病み続ける。その存在の、身体としての(見た目の)姿は、その自覚もなく不自由の中にいる(いさせられる)人たちの間で、尊ばれ、愛され、大切な人として崇められる。

 どんな人でもいとも簡単に病ませられる力を持つその存在は、人前で、都合よく(人の気を惹くために)調子を落とすことも、自らの身体に痛みを作り出すことも、上手い。融合しにくい人を思い通りに抹殺できた時代の暴力が利用できない現代において、その本性の働きが微妙に鈍くさせられる状況では、それは活躍する。人は意識を引っ張られ、感情をくすぐられ、彼女の犠牲になる。

 何も目に映さず、耳に入れずに過ごせれば、その存在の危うさとの融合から本能的に離れ得る可能性も手に出来るが、そうも行かない。無有日記の原因と、自らのそれを重ね、経験に引っ張られず、経験を創る。その存在たちが嫌うことを、普通に高めていく。

 

2.心身の反応や変化を通して、聖徳太子とその妹の、野獣(化け物)のような本質を感得できるようになると、人間社会の人間像は、本来とは大きくかけ離れて、全くの異常な形態を取り、動いていることを理解する。自然界と一緒に変化に乗っているようでも、人々の内心は変化を拒み、他の生命たちと共に原因そのものでいても、生きる姿勢は、結果から離れない。それが、生命世界にとって、どれ程不都合で危ういことか。そんな歪な人間社会を、人は何の疑いも無く生きている。

 それは、この国の殆ど全ての人が、どんなに身を繕っても(そうではない理由を並べても)、中身は、個の欲のためだけの個人主義を生きているということ。そんなだから、どこにも心ある原因は無く、経験から自由でいる自然な姿(生き方)も、経験できないでいる。病気の原因は無視され、健康の原因は語られない。困った人が減っていく(居なくなる)変化には背を向け、困った人の存在を前提とする実の無い変化に熱を注ぐ。その普通ではない世界に生きていることを普通とすることで、どんな人も、心は、自分のものではなくなっていく。

 その歪な人間世界を、その元のところで我が物顔に操る、人としての原因を持たない存在。要らない無意識が意識を離れて存在するうちは、その無意識が真の生きる世界であるように(「無意識」より)、人間は、永いこと、人間本来から遠いところで、そう思うことで良しとする(それを疑うことのない)偽りの人生を生きている。

 

3.形ある人間時間での出来事は、形を創る、形無き原因の世界に支えられ、その性質が様々に重なり、融合し、衝突・分解・結合しながら、それにより、現実としての様が具現化され続けている。そのことを考えると、この今に至る歴史も含めた人間の世界は、何千年もの間、その原因が、(人が人の命(人生)を奪うという)非人間的なものとして連なり続けていたことを知る。そして、その生きる基本であるべき原因は、生命としての原因のそれではなくなり、人は皆、原因を生きることが至極困難になってしまう程、その不自然な普通の中で、触れることもはばかられる、不気味で無生命的とも言える妙な原因に支配されているということになる。そこに、その存在たちは居る。

 人が人として、人間らしく原因を生きるという、生命の基本形からなる観点でこの現実世界を観た時、その人間らしく人として生きる人は、どこにも居ない。時を経て、人は、いつのまにか、生きる上で最も重要な原因の世界を切り離して、結果のみを連ね、人が経験できないはずのそれを普通とし、過ごすことを覚えてしまう。その際の、結果にい続ける不穏な(動きの無い)原因が言動へと形になる時の、その思考全般の下地の中にも、その存在たちは居る。

 感情や感動も然り。心や優しさへの想いも全て、そこに在るべき人としての原因は無く、何もかもが結果(への反応)であるという虚構世界を、そうである自分を全く感知できないまま、根無し草のように(操り人形のように)人々は生きているのである。その結果の世界の嘘の原因の中に、その存在たちは居る。

 

4.つまるところ、人間の住むこの世は、かの存在によって、その形を持たない(目には見えない)世界の全てを支配されていて、それを結果に(結果という名の動かし難い原因に)成り立たされている社会を、人は、人としての原因を放棄したまま、生きているということ。彼らは、生命が活動する際に欠かせない明暗の暗であり、動静の静の世界に居座り続ける(陣取っている)。もちろん、そこには、生命本来の性質(活動)は無い。人は、形ある結果をその気もなく生きる(生かされる)中、そうである原因を固め続ける存在の意のままとなる。

 この今の、人間の居る世界全体を、その大部分を占める形無き原因を含めて多次元的に観察(感得)すれば、知識や経験豊富な人の誰もが否定するであろう、思考の域には収まらない様相がその実として形になる。価値観の性質が自浄され得る機会を遠ざけて安心を覚える人たちの中に、強い怖れと不安を生じさせる事実が、そこには在る。

 極端な言い方でも何でもないが、この世に、本当の自分を生きている人は居ず、自分はそうであると思っている自身の意識(意思)も思考も全て、自分のものではない。それは、大いなるひとつの超越的な存在の意思によって生かされているといった次元のものではなく、ただ、人間の基となる部分の世界を仕切る非生命的な存在によって、彼らの思うままに生かされ、動かされているのである。それを知るという経験の元となる、知り得ないままであったこれまでの経験全てが、自分のものではないゆえ、その実のあり得なさ(恐さ)が、まさに超越的とも言える。

 

5.その存在は、どこにも居る。形を持たないから、‘どこ’という概念は通用しないが、どんな時も、扱いやすさの度合いに応じて、その対象にかける負荷を調整し、性分や性質の中身を見て、その人の感情に強力な負の燃料(否定的な原因)を注いだり、空間を重くしたりして、不安発の争いを作り出す。結局、人は、どうにもならない状況に居るにも拘わらず、それでどうにかなっていると思い込まされ生きているので、いつも彼らの思うままである。人のために何かをしても、調和はすぐに崩され、どんなに頑張っても、健康は安定せず、健全さは維持されない。それが人間の世であると、誰もが信じて疑わない。

 この世の本当の姿(本質)を一言で言えば、姿を持つことも不要とするその存在たちによる、自由気ままな不穏な現実づくりと言える。身体を経験していても、普通一般の感覚でのそれではない状態でいる中、彼らは、余裕で、形無き危うい原因の仕事をし続ける。人の脳が経験する不安感や疲労感をより強めるために、好感と違和感の狭間(無礼・不遜ギリギリのところ)での微妙な言動を上手く振る舞い、縁する人の感情を抑え込む。理由も分からず、気落ちし、元気が無くなる状態を、人は、そうであって欲しくない時に経験させられ、知らずうちに不安を蓄積させていく。

 身体経験の健全な原因が壊されて無くなり、そこに、鉛のような結果(という動きを止める原因)を埋め込まれて、どこまでも、その仕掛け役である姿無き存在によって人生を操作されるという恐さ。ただそれも、その存在の本質と融合することを普通とはしない本来の意思を、その人がずっと大切に持っているからであり、多数の人たちは、彼らの悪徳の材料となって、嘘を頑なに本当と信じ、けんめいに生きている。この時代は、その危うさによる、混乱の極みのような時である。

 

6.形を持たない、目には見えない世界が、この今ほど揺れ動いている時は無い。この世界の本質であり、全ての現象世界の理由となるそこでの性質がそれまでと同じに行かない状態を、その存在たちは経験している。

 この世は、その世界から見れば、とても小さく、どうにでもなるところである。ところが、この今が次へと繋がる新たな原因の場所に、その形無き世界の意思は入り込みにくくなっている。それは、その存在たちにとって、初めて経験する、危うさと緊張である。

 この国の人間が、歴史上初めて経験する、人間本来の在り様と、その元となる世界の自浄作用。その原因の働きを確かなものにするために、この今の‘原因を生きる’という普通を高めていく。そして、その妨げとなるものを外していく。時代の意思が、自然界の生命たちの望みをここに集約させるかのようにして始まった、「LED感染/LEDの影響」と「歴史の芯」。それを基に、この国の、世界(未来)に向けられた負の原因を浄化していく。

 その時、さらりと自然な感覚で、自由になり、離れる場所として在るのが、人間が人間らしく生きる原因の全てを破壊したその存在たちの凶悪さの通り道である、神社である。神道は、切り離された心ある人々の原因が閉じ込められ、動けなくなっている囲いであるゆえ、その世界との関わりを外し、自らの心深くの経験の記憶の中に、風穴を開ける。素朴で、自分に正直でいる人の脳の中に入り込み、彼らの人生を恐怖で潰し、楽しんでいた存在たちが、後世に渡りそれをし易くするために、飛鳥・奈良・平安…と、人間本来に対するくさびのようにして全国に増やしていった、神社(鳥居)。その場所は(神宮も大社も)、人間が嘘の世界につかまるきっかけとなる蛇(大蛇)や烏も関わっているゆえ、地球自然界の未来のためにも、真に生きる道を歩み出すためにも、その全てから、離れる。それらは、この世で、最も怪しく、不気味な、嘘の原因の産物であるから。

 

7.「心の遺伝子」を内なる世界で躍動させる人は、鳥居の存在に、恐怖を覚える。かつてのそれは、罪無き心ある人たちの迫害(殺戮、拷問)と深く関わり、社は、嘘の神を人々の脳に染み込ませて、彼らに心(真)を捨てさせた、化け物の住み家である。

 その実が曲げられたまま今に至り、そのままで居られるのも、人々の脳がオカシクさせられたまま、不安の裏返しの安心にすがり、耐え忍ぶ精神を生かされてきたからである。その中心辺りに居続ける、聖徳太子と言われる人物と、彼と同質の存在たち。歴史の芯が真っ黒になった歴史ビル2階での原因を浄化しないまま、時代が先へと行くことはない。どうにもならない現実も、何をしても変わらない関係性も、その全ての原因に、その存在たちが関わっているのだから、自らがまず原因を変える。無くてもいい経験から離れることは、人間の、真の普通の大切な要素である。

 そうは言っても、どうにも出来ない、という姿勢ほど、危ういものはない。これまでがそうであったから、そうではない選択は難しい、という思考も、人間本来のそれではない。心優しく、素朴で純粋な人たちの苦しみがずっと固められたまま存在し続ける鳥居の内側に、生命としての原因は無い。それを普通とする(信奉する)自らの性根の奥底に何があるかを見つめ、それを外す。自らの原因が動かなければ、無くてもよかった悲惨さと残酷さの原因は癒されない。

 人は皆、あたり前に支え合い、生かし合う、生命としての存在である。そうではなかった時の記憶の原因を本来へと変え、人としてそこから再スタートを切るためにも、確かな原因を生きる。原因の無い世界に付き合わされることはない。

 

8.嘘(の原因)を生きる人間は、神社が好きである。彼らは、本音と建て前を上手く使い分け、キレイ事で、良い人を生きる。その嘘は、かの2人が好む性質であり、結果、その重く動きの無い原因で、心ある柔らかな人たちの生きにくさを作り出す。神社と関わりを持ちたがる人の本性は、自分が安泰であれば、人が苦しんでいても平気な、残忍さ。嘘の神々の中身を覗けば、普通人間は、近寄ることも出来ない。

 この国の病みのルーツは、歴史ビル2階の床が崩れ、天井が無くなることから、その浄化が始まる。それにより、2人の今も影響力を失くし、そして自然界は、人間を迎え入れる。そんな面白い時を、私たちは生きている。これ以上無い、病みだまりの現代。「歴史の芯」は、人が人として、生命を生き、人間をやる際の、燃料源でい続ける。それは、この時を喜び、笑顔になる太陽と、それに安心する地球自然界の、人間への祝福の時である。by 無有 5/02 2017

 

 

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