歴史の芯(6)

歴史芯1

1.この国の窓の無い歴史ビル、という描写で始まった、歴史的負の連鎖の、その堅固な基礎の部分への対応。どの章も、8個程の文節で仕上がったそれは、人の心を囲い込み続ける心の無い世界(神道と武力政治)を、その外側から、別次の心の世界が多面的に囲い込むような感じになっている。6つ目のこの文章が、箱の蓋の役割を担う。

 言葉は正しくても、その元となる原因が不穏で不自然である時、伝えられることからではなく、伝わることから、その実は分かり出す。そして、そこに嘘がある。その原因の嘘をしつこく潜め、固めている人ほど、正しいとされることにこだわり、そのことを頼りに、正しく生きることに日々思考を使う。そこは、腹黒く、性根が曲がっていても、正しいことを言葉にしていれば良い人でいられる、心無い嘘の世。正しいこと(正しいとされること)を口にする人はいても、人としての正しさは無い。

 形ある姿は、それまでの、それに繋がる原因が創り出し、その姿も、変化し続ける原因として次なる時を引き寄せ、次の形を支える仕事をしているわけだから、言葉や行為という形(姿)に比重を置く姿勢は、人間らしい普通が欠如した、異常なものと言える。形式を重んじ、儀式や因習を大切にする生き方自体、形を持たない心を無視した、嘘の人生となる。

 

2.そこにある嘘の原因を処理し、そうではない時の新たな原因のそれとして、その深くを浄化しようとする時、この世的な常識や期間(地域)限定の価値観は、一切不要となる。正しいとされることが言葉や知識(思考)から始まるものであれば、尚更、事の原因に触れ得ることは出来ない。そして、唯一それを為し得る手段、それは、知識世界や経験からあたり前に自由でいる中での、原因でい続ける生命としての思考(発想)。その力強い原因は、自ずと細かく柔らかなものでいて、嘘の原因という粒子の粗い世界は、そのままでいることは出来ない。言葉であって、言葉ではない、生命源と繋がるそれは、原因の仕事を淡々とこなし、あらゆる原因の性質を、本来へと変えていく。

 原因が動き出し、変わる時、それまでのその原因に付き合っていた心身が、様々に反応する。それを促す原因の乗った言葉(文章)の生命力に触れ、心身の本来は、細胞の奥深くの意思活動を活発化させ、窮屈だった時の負の経験の記憶を、確実に浄化し始める。そこに理由は無く、その体験そのものが、かけがえのない時の理由でい続ける。原因の正しさは、二者択一的に存在する思考レベルの理由を寄せ付けない。

 この歴史の芯が、本当だとか嘘だとかは、どうでもいい。大切なものを大切にするために、大切とされてきたもの全てから離れる必要性が生じた時、喜んで、世の常識から外れる。変えるべき原因がそこにあれば、そのために、結果を無視する。分かっても、何も変わらないより、分からなくても、変わるべきものが変わった方がいい。その原因が、歴史の芯である。

 経験枠内の思考で分かろうとする、変わりたくない人からは、当然それは嘘である。そして、そうではない人は、嘘でも本当でも良いところで、それまでに経験できなかった、芯のところの変化を自らに生じさせる。それでいい。原因の変化に、思考は要らない(善悪や正否の判断は不要)。

 

3.心ある原因を生きるという、人間本来の普通を思い出し、それを少しずつ馴染ませながら、さりげなく淡々と自らの分を生きていると、今まで少しも疑問に思わなかったことに違和感を覚えたり、何気ない発想が人の心の風景を癒す透明感のある柔らかなものであったりと、思いがけない時を過ごすことがある。そして、ふと確認作業のようにして、以前から知っていたかのように、思考に上がって来ることがある。それは、原因の質を無視する存在というのは、その人の中に、人としての原因(心)が無いということ。そのことが意味するのは、原因の世界の性質(本質)がオープンになることを、その存在たちは恐れているということ。だから、無くてもいい差別や争いの原因は、いつまでもしつこく残り続け、平和や健康の原因は、力の無いままである。

 求めることで、そのことをごまかす心無い存在たちは、平和を求め、そうではないそれまでの原因を放って置き、健康・健全をテーマに、そうではない原因の自分を無視する。そして、心の世界を思考(知識)で扱い、心の無い自らの本質に蓋をする。原因を生きられない、原因の無い人。彼らが、結果のみを大事に生きること以外の選択肢を持たないことが、この世のあらゆる争い事の元となっており、不公正で不平等な現実も、不自然で不健全な関係性も、そこには、負の影響力をその意識もなく及ぼし続けるその存在たちの、人としての原因(心)の無さによる作用がある。

 有るもの(有ってはならないもの)を無いものとして生きることは不可能であるはずなのだが、この世は、生命の変化・成長を阻もうとする鳥居と社が建てられたことで、それが可能となってしまう。そのことを考えただけでも、嘘の神々を信じ込まされて生きてきた人たちの、無くてもいい経験がどれ程かを知ることになる。

 その土台が固められた、大和・飛鳥時代のあり得ない現実。心ある原因を持たない、心ある振りの結果だけの世界では、それで良しとする人の数が増えることで、嘘は本当となり、それで得(利)する人たちの中で、嘘は、力を手にする。聖徳太子と彼の妹、そして彼らとの関わりを密とする不気味な存在たちの負の原因は、この国の、悪性の不燃物として、今も暗躍する。

 

4.人としての本来の在り様を、その原因のところから確かな想いで実践する人が増えていくと、それだけで、世は変わる。自らの原因の性質への責任感覚が普通に為されていくそこでは、結果に留まる思考が力を持てないので、時は流れるように次なる時を引き寄せ、空間は、柔らかで、優しくなる。ひとつひとつの何気ない原因が、心の無い存在たちの動きの無い原因との融合から外れることで、そのままその自由な感覚が、平和と健康の力強い原因となる。心ある普通の人たちがそうであることで、何をしても、しなくても、時は変わっていく。

 LED化の自然環境への負の影響力に無頓着のまま、人間が人間らしく生きることが不可能なように、この世の嘘の教えと歪な価値観のその原因に無感覚のまま、心や精神の世界を語ることは出来ない。全てが原因であり、変化し続ける生命であるから、それは、当然なこと。原因が嘘であるLED化をそのままにすることも、嘘を土台とする神道世界の影響下に身を置き続けることも、人間であれば、出来ない。

 それを拒み、退けようとする姿勢は、そのまま、自らの非人間的な本性を顕にすることになるので、縁遠くあるべき存在として意識しやすくなるからそれでも良いのであるが、そうではない時を歴史的に初めて経験し得るこの機会を、逃すことはない。この今は、生き直しを可能とし、それを、自然界と全ての原因と繋がる全体がサポートする。生きることの、その質に、一生命として無感覚であってはならない。

 人は、生命を生き、人間をやる以外の生き方を持たない。それまでの原因を切り離し、形ある結果のみを生きようとする姿勢は、それに逆らい、人間がしてはならないことを選んでいることであるゆえ、それを良し(可能)とする、不穏で無生命的な場所の中に居てはならない。その全ての変化の原因を、ひとつひとつ差し出していく。

 

5.心の基本形を外した(外された)まま、永いこと窓の無い歴史ビルで、歪な人間観を普通に時を連ねて来ているので、簡単にそうであると思考をそこに重ねることは難しい場合もあると思うが、人は、差別心を抱え持つことは出来ない。そうではない気持ちを前面に、内面にそれを潜めることも出来ない。それが人間であり、この地球で自然界に生かされる、人という名の生命である。差別心は、そのどこにも住み着くことは出来ず、それを許す感性も、人は持たない。

 同じように、人を支配して思い通りに操ろうとする感情も、人間の世界には無い。権勢欲も支配欲も、人の世に入り込んだ異物であり、それを持つことを良しとする価値観で、自らの本質を低次化させることは、人間には決して出来ない。

 そうではなくなってしまっている負の原因が、この歴史の芯で確実に崩れ、浄化されていくことで、人は、本来を取り戻し、シンプルな真実を思い出す。何をしてもどうにもならなかったことが、ふと気づけば、前からそうであったかのように、いつのまにか変わっている。大切なこと(大切さ)は、それ自体が意思を持っていて、みんなのこの時に次々と姿を見せ、共に、未来へ行こうとする。これまでの歴史も、この時に学ぶ。これまでの時代のためにも、人間でいることを忘れてはならない。

 人間は、理由の要らないハッピー感を、生きる基本とする。そうであることで、自然界の生命たちと共に、あたり前に平和で、健康的な営みを普通とする。だから、人間は、誰もが優しく、誰もそれを知らない。誰と居ても、心は重なり、どんな人も、それを愛しく思う。独占欲も、執着心も、そこに入り込んだ異物である。

 

6.その人間本来の姿を淡々と生きることが、この時代に生を持つ人たちの、生命としての役割である。初めて人間を経験した時代がどんな時かでも、それへの姿勢に個人差が出ることもあるが、そうも言ってられない。これまでがどんなであれ、歴史の芯に触れた経験をムダには出来ない。生命を生き、人間をやることが夢物語になってしまえば、人間が地球に居ることも難しくなる。

 そうであるべき自分を大切にする中で、神社に対する感覚も変わっていく。所詮、作り物である。蛇や烏までが神になってしまうような、その世界の恐ろしさと悍しさは、その嘘の原因が限り無く非人間的で、凶悪・凶暴な感情を備えているからである。余裕で、これまでの経験を、思考から外す。罰や祟りを怖れる自分がいれば、それは、それ程洗脳されていることを意味するゆえ、そのことを自覚し、自らの原因を変える。嘘が力を持つと、どうなるか…。LEDの悪影響への無感覚振りは、自分が、嘘の神々関わりの病みで、人間ではなくなってしまっている証のひとつである。ある存在(人間、蛇etc.)が神であるという嘘ほど、破壊力のある原因は無い。

 

7.箱の蓋の役割を担うこの文章も、このあたりに来ると、いかに下劣で愚かなことを人間とは思えない低次の存在たちが繰り広げて来たか、ということがよく分かり出す。実に情けない。それが、この国の歴史である。

 聖徳太子を際立たせたのも、異常な性質(の原因)の持ち主を尊ぶことがどれ程危ういかということを、体験的知識として、心身の感応を通して経験させたかったから。彼は、心が無い。精神は、鉄であり、氷であり、獣である。原因の世界から覗けば、その(原因の)重たさと冷酷さが伝わり出す。様々な反応を通して、人は、そのことを実感・認識する。それは、未来への重要な責任である。

 そして、彼の重たさそのものの原因を土台に、その後人々の脳に擦り込まれていく、神社の存在。嘘を本当として生きざるを得ない人生を重ねる心ある人たちの脳は、完全に人間らしい働きを無くしていく。それを放って置ける程、人間は愚かではない。少しずつ剥がれていく、無くても良かった経験の記憶を、自らの原因の中で癒していく。人々の不安と怖れの感情のルーツも、祟りと神罰大好きの、神社(鳥居、社)であるから。

 柔らかで、健全な感性を持つ人は、聖徳太子と彼の妹、そして神道(神社)の原因との融合から自由になるだけで、心身は、本来の力を取り戻し始める。自然界の生命たちの活力を抑え込もうとするそれらの存在の意思を思えば、それは当然と言えば、当然である。心ある人たちの健康と平和な気持ちは皆、自然界の生命たちと繋がっている。

 

8.2017年という年の、月日のひとつひとつを大切にする。これまでずっと続いていたいくつものことが、自然界では終わりを告げ、抽象世界では、生まれ変わるようにして、新たな時を生み出す力が始動する。そこに、姿無き無数の生命たちも参加する。動植物たちも、区切りを付け、一足先に次の時代と合流する。

 「歴史の芯」は、すでに整地作業のような段階は終えていて、安全で平和になったその場所を、ひとりひとりのかつての原因(生命の意思)が安心して歩く。そして、ここに次々と辿り着き、みんなの中で、ひとつになる。探し求めないからこそ続けられた歩みは、これまでの全てを癒せる程の原因になっている。

 この今ほど、地球を愛しく思える時はない。地球も、この時を何より嬉しいに違いない。地球の表面から、重たさが姿を消していく。その終わりの時に、全ての負の原因は吸い込まれ、この今の始まりの時に、全く新しい生命たちの原因が、明日へと動き出す。太陽が、いつになく近い。

 ここまで来たからやっと見え出した風景も、過ぎ行く景色のひとつになって、みんなのこれからを応援する。まだまだ歩みは続く。繋ぎ行く旅に、終わりは無い。どんな時も、この時を忘れない。by 無有 5/26 2017

 

 

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