歴史の芯(7)

歴史芯1

1.そもそも、祟りや罰と、神とされる世界が結び付くことはあり得ない。人は、一生命としての自らの分をありのままに生き、その質を自然界との融合を重ねながら、成長・進化させるのが仕事。その原因の働きを阻止することになる、元来人が持ち合わせることの無かった不安発のそれらの世界を、教えや法に人間が使うことは、あってはならない。

 人は、神ではない。神は、人を神にはしない。人が神であることは永遠に無く、ただそうであろうとする人の非人間的な無知と欲望が、真を外して、その世界を作り出す。それは、嘘や偽りよりも劣る、人間性ゼロの作為。人が考えもしない、人ではないその発想と実行は、そのまま、自然界の摂理への抵抗。その歪の極みとなることがこの人間世界に居場所を確保する時、人は、停滞と消耗の時を生きることになる。

 

2.ある存在が、神として崇められるという、人間本来の在り様が完全に抑え込まれた形式がこの国に誕生した時、人々の暮らしは、どうにもならない方向へと進み出す。その状況に対して、実のある対応が為されることはない。どんなに厳しく辛い生活環境が蔓延しても、その神(とされる存在)に擦り寄る人たちは、何びともそれに抵抗できなくなる社会構造の手段を、事あるごとに編み出し、巧妙にそれを実行する。それは、人間が、人間とは呼べない存在たちの非人間的な環境の中で、その異常を普通として生かされる様。

 その時に、その凶悪な意思そのものの存在たちが世の病み固めの手段として取ったのが、全国の至るところに設置した、鳥居と社である。人の世には存在しなかった神罰も災厄も、その内側から、人々へと、その判断と理由が届けられる。その嘘で、罪無き人は殺され、更なる生活苦を、人は強いられる。そのどうにもならない状況の中、何も知らない子供であれば当然反発・拒否するはずの酷く非情で醜いことにも彼らは何も感じないという、生まれながらにして洗脳状態であるような、実に恐ろしい時を、人は迎えさせられる。その光景は、神道の完成品と言える。

 

3.時を経て、人は、不穏と不公正が次々と更新される状況に何の違和感も無く生活を営むことを覚えさせられ、この世に存在してはならない嘘の神々の教えが権威・権力の象徴のように扱われ、生き続けるという世の価値観に、一切の抵抗もなく、むしろそれを有り難く思う程に、人間らしさを無くしていく。

 始まりが嘘である教えが力を持つと、それは終わりにくい。そこに誰も抗えない神という文字が利用されれば、消えにくく、癒されにくい記憶が、どんな場所にも残る。そのひとつひとつが、神聖なものとして形(場所)となった時、人の命は軽んじられ、その嘘のために、人は命を無くす。永いことそうであり、今も尚その嘘の土台の上で流れ続ける、滞りと消耗の原因。その原因が嘘である世界ほど、普通の人間にとって、恐ろしくも、不要であるものはない。

 

4.普通に考えれば、どんな人も分かるはずの嘘が、普通に考える力を無くさせられた人たちのその不健全な思考により存在し得てしまうという、実に寂しく、哀れな、この国のこれまでの常識。人は皆、人間である前に、一生命であり、私たちは皆、この国に生きながらも、その本質は、地球人としての命ある存在である。要らぬ怖れを抱かされ、不安の裏返しの安心にすがらされ、滞りの中を生きる人間。神社が無ければ、どんなに自由で、平和で、心豊かな生活が普通となるか。普通に考える力を無くさせられても、人間本来の心(生命)の意思は、それをどこかで知る。

 人は、嘘の原因を生きることは出来ない。その時の必要性で嘘と思われてしまうことを言葉にすることはあっても、嘘の心を持つことは出来ない。だから、人は、人でいられる。人が人として生きる上での、その原因(心)の大切さ。何があっても、どんな時でも失ってはならない、人の心。心のままに心で語り、心を通わせ、心ある風景を創り続ける。その原因は、鳥居の内側には無い。

 

5.蛇の居る場所で、安心する人はいない。蛇が視界に入れば、食事をすることも難しい。蛇ににらまれたら、平静ではいられなくなる。蛇に巻き付かれたら…。想像するのも恐ろしい。

 ところが、神社との関わりの深いこの国の人たちは、いつも、どこにいても、蛇と一緒にいる。鳥居に何の違和感も覚えない人は、まるで蛇と同化しているかのように、その精神と脳は蛇化する。この国の蛇は、社会全般で、その負の主導権を握る。

 蛇化した人間は、蛇と同質の感情を備え、狡さと心の嘘を普通とする。蛇化した思考は、他との隔たりを強め、優越心を大事にする。神社の形無き負の影響で、多くの人の脳が、その自覚もなく蛇のように生きている。知識偏重も形式主義も、蛇系の特徴である。

 気持ちが不安になり、体が委縮する、蛇の姿。緊張を強いられ、生きた心地がしなくなる、蛇の目。それらは、心ある全ての人の未消化の感情の原因。神社(神道)の存在によって、人は、一生を通して、不安と緊張から自由になれない時を過ごすことになる。

 蛇と一緒に居たくなければ、神社関わりの全てから離れる。蛇系の人間に取り込まれたく(絡まれたく)なければ、鳥居を視界には入れない。健全な感性を持つ人は、それだけで楽になり、本来を取り戻す機会を手にする。蛇(蛇系)がのさばる社会で、心が育まれることはない。

 蛇と一緒に、新年を迎えたいと思う人はいない。子の成長を、蛇に祝ってもらおうとする人もいない。財を手に出来れば、来世は蛇でも構わないという人はいない。蛇のために、人生を捧げる人もいない。

 

6.蛇は、狡猾さ。烏は、腹黒さ。神社は、彼らをペットとして大切に飼っている、愛情の無さ。

 蛇と烏は、神の化身になれたことで、神主(神官)の言う通りに、否定感情を人の心に植え付ける仕事を担う。そのお気に入りの仕事場は、たくさんの人が痛みに苦しみ、息も絶え絶えの、合戦の場。次の生の重要な原因の時に、人の生命(魂)の意思に入り込み、怖れの感情をそこに染み込ませる。

 そのことで、感性の柔らかい人は、生まれながらに不安定な感情を普通とし、その力の無い思考は、狡賢く悪質な思惑の存在に簡単に操られてしまう。蛇と烏の感情との融合を強いられた経験は、想像以上に後を引き、鳥居や社を目にしただけで、心の内が不自然になるぐらい、本来の自分は姿を無くす。争乱の多い時代に初めて人間を経験した人は、その後の人生で、自分が不安でいることに全く自覚できない程の不安そのものの本性(本質)で、縁ある人の安心を奪ってしまう。

 理由も分からず不安に苛まされたり、体が動きにくくなったりする状態の原因には、蛇が絡んだかつての経験があり、烏も、それに加わる。そして、そこにはまた、安心の風景が違和感になってしまう程の人間の、不安で固められた本性の影響もあり、それらの全てを後方支援するようにして存在する、不安と怖れの社会の基盤となる、神道(神社)がある。

 

7.不安の原因を辿ると、神社に行き着く。嫉妬や執着も、その大元の原因は神社である。となると、何かの裏返しではない、平和で健康的な自分を安定させていくには、神社の鳥居をくぐらなくても居られる生活を維持することが、その大切な要素ということになる。その場所と原因深くで密に繋がる密教や日蓮・親鸞の世界も、その基となる部分は不安発(不安の裏返し)の安心を望む形態となっているので、普通自然体の健康と平和からは、程遠い。それを感得すれば、ふといつのまにか、ありのままの安心の原因が、自らの中で元気に動き出す。

 不安になる時、それが不安にさせられていると考えるのは珍しい。しかし、その殆どがそうである。不安には原因があるのに、そのことよりもその不安に蓋をするという結果で不安を処理することを、人は常とする。ものや形に依存し、ご利益心を煽られても、その蓋の役割を担ってくれる存在を有り難く思い、感謝の気持ちを抱く。そのために不安が蓄積するばかりであっても、それに無感覚でいられる程、要らない(安心を探し求める)思考は忙しくなる。その姿は、不安から逃げられなくなっている(いつも不安にさせられている)状態である。

 その蓋の製造元は、神社であり、それによって押し込められ、見えにくくさせられている不安の材料も、神社である。嘘の神々に付き合わされ、そこでの儀式や風習に関わるというのは、その自覚もなく不安でい続けることと繋がる。

 

8.神罰が下るとか、祟りに遭うとかのセリフが誰かの口から発せられる時、その存在は、人々に災厄を経験させようとする、極上の病み人と思ってよい。神話の中の神々を真面目に語り、自分が神の使いであるかのような振る舞いを平気でする人がいれば、その人は、人間の脳を持たない、蛇頭級の嘘人と言える。そして、そこに、動物(蛇、烏、狐etc.)を神(の化身)として祀る神社と神主が存在するとすれば、それ程の欺瞞はこの世には無いと思ってよい。もちろん、ある人間を神として奉ることも同様である。

 人間が人間でいられなくなる封建的な構造のその真ん中で、人間を非人間的に(獲物のようにして)扱い続けてきた、神社(神道)に住む蛇系の存在たち。その始まりから現代までのその歴史的負の蓄積を段階を追って確実に浄化し得る原因(抽象的作用の力)として、それをここに乗せる。その仕事を淡々とこなす、歴史の芯。それに対して抵抗・反発する人たちの感情の熱量は、そのまま、この国に潜在する、非生命的な病みの原因の大きさを表す。

 現代では、一生命としての責任も、人としての感性も持たない(神道を基とする蛇系の)存在たちが、自らの本性を最大限に具現化させようと、LED化を、その道具にする。地球規模の災いの原因であるそれがまかり通る世(現実)を生み出した彼らは、そのLEDの恐ろしい原因(要素、性質)を、自分たちが何より望む、世の非生命化に活かす。その内実を分かりやすく形にした「LED感染」と「LEDの影響」。それらは、人間であれば、どんな人も決して放っては置けない事実である。

 「歴史の芯」は、この今に至るどの時もありのままでい続ける、自然界の生命たちの、その切なる意思の形である。彼らは皆、自分たちが生きる自然環境の原因が本来へと変わり得るこの時を喜び、そのタイミングの中で時を癒し続けるみんなのことを、祝福する。「歴史の芯」は、地球が安心する、生命たちの望みである。by 無有 6/15 2017

 

 

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