歴史の芯(9)

歴史の芯1

1.どうにも出来なくなっている状態の原因を段階的に確実に浄化し、それによって、その原因となる存在たちが逆にどうにも出来なくなる状態を経験せざるを得なくなる時を創り出す。かの女性を仮の姿とする、闇の力そのもののその本体となる生命(生体)は、これまでの全ての時の負の経験の蓄積を崩されることになり、この地球の時を通して力を無くすという、あり得ないはずのことを経験する。

 それが、可能となるのも、これまでの歴史的負の原因(の世界)とは離れたところでの、人がずっと経験し得なかった本来の普通という名の別次の原因が、この上なく躍動的であるから。その原因は、動きの無い結果の世界と融合することはなく、形から始まる流れない感情とも無縁である。自然界の自然な変化に支えられるそれは、世の不自然な現実のその不穏な原因を、どこまでも深く、確実に浄化し得る性質そのものであるゆえ、これまでのように、これからも、ただありのままに、そのままでいる。

 

2.生命としての成長・進化を拒み、生来の獰猛な本性と狡猾さで、停滞と破滅であるその本質を上手く操り、見えにくくさせている蛇系の存在は、生命たちの活動源である太陽の光を嫌う。しかしそれは、人間として余りに不自然な様であるゆえ、心を持たない彼らは、その姿が人の違和感にならないよう、太陽を頭で扱い、頭で処理する。

 太陽の光を浴びないでいられる(浴びられない)空間や環境での過ごし方(仕事、レジャーetc.)は、蛇系の存在たちが何より好み、多くの人がそうであるよう、そのための材料づくりにも、彼らは長ける。蛇系の存在たちの住み処である神社が太陽の光を遮るようにして造られていることは周知の事実であるが、ビルの屋上に設置される鳥居(社)も、質は同じである。心ある人の健全な活動を封じ込めようとするその空間は、狡賢く利を生み出すために、みんなにとっての自然な変化を止める仕事をし続ける。太陽を避けて生きようとする(蛇のような)彼らにとって、鳥居は、その非人間性の拠り所となる。

 

3.心ある柔らかな人たちの、理由の分からない辛さや不調の原因には、危うい本性を隠し持つ蛇系の存在たちの、その無意識の意思が深くに関わっているのだが、彼らのその負の原因となる非人間的な燃料が神社から供給されていることを考えれば、その世界全般から離れ、自由でいることが重要なのは言うまでもない。そして、素朴で純粋な想いをより確かなものにするために、蛇系の人間とは距離を置く。神社(神道)への意識を通して、そのための機会は、さりげなく創られていく。

 そんな風にして、嘘の原因そのものを生きる蛇系の存在たちの在り様を把握することは、人が人として生きる上で、とても大切なことである。どうにもならない時を強いられながらも、それに耐え、受容し、切なる想いを繋いで来たこれまで。無くてもいい経験の原因からあたり前に離れていられるよう、蛇系の(蛇と同質の本性を備える)人たちの性分とその在り様を知る。

 

4.人間という動物が、人としての生を生きる上で欠かせないのが食物であるが、非人間的な感情を潜める蛇系の存在たちは、当然と言えば当然なのだろうが、体の中で健康・健全の原因の仕事をする食物を好まない(摂らなくても平気である)。その明らかに異常な状態も、彼らにとっては普通であり、細胞が辛くなるはずの電子レンジで調理したものまで、そこでは常食になってしまう。

 新鮮な生野菜や果物を食べなくても平気でいられる彼らは、白砂糖を多量に含む食物を喜んで食べる。栄養素が抜き取られた穀物類(白米、白いパンやうどんetc.)の摂取も常とし、肉料理や(酸化した)油もの、アミノ酸系食物も、頻繁に美味しく食べる。酵素やミネラル等を必要としないその身体(の原因)は、まさに蛇である。腐敗型の食物(燃料)によって活動する彼らの脳は、働いた分、普通の人の健全さを壊す。その姿は、恐ろしき怪奇現象と言える。

 

5.欲する食環境や食の内容を通して、その人の蛇化の度合いが分かり出す。第4節の内容を参考に、蛇系とは異なる、細胞が喜ぶ食物の摂取を心がけてみる。どうにも出来ずにやむ無くそうであった場合(蛇系の負の原因が染み込んでしまった場合)、心身の様々な浮き上がりや反動の時を経て、少しずつ、人間本来の食習慣へと変わっていく。もちろん神社(神道)関わりから完全に自由になることは基本だが、食が人間らしく健全になることで、感性も健全へと向かい、自らの中の無くてもいい性質の原因が動き出す。そして、それまでには無かった違和感を通して、蛇そのものである存在との密な融合からも離れることになる。

 体に良くないものを作り、それを多くの人に摂らせて人々の脳をオカシクさせようとする、蛇系の意思そのものの食品の製造元。その存在自体が病み世の象徴でもあるゆえ、知ることを次なる原因の力に、生命としての在るべき姿を表現する。食の健全化は、時間がかかるようでも、何よりも先に選択・実践することである。

 

6.固めた嘘の原因を形ある結果としての正しさにすり(塗り)替えるのが上手い、蛇系の存在たちは、易(占い)や祈祷(お札)が妙に好きである。ご利益心の裏には、差別心があり、依存心は、無責任が支える。彼らは、なぜそうであるか(他に頼るか)の原因には見向きもせず、満足させてくれる結果を求め、身勝手に振る舞い、さまよう。その重たい原因が具体化されようとする時、そこから離れている柔らかな原因は、押し潰されてしまう。

 心を持たない蛇系の存在たちは、形式的な礼が好きである。心が無いから、その分それで心ある振りを磨き、心ある素朴な人の素直さを、本性のままに利用する。形(見た目)のみで通用させる低次の礼から自由になると、彼らの、その原因の醜さ(心の無さの酷さ)が伝わり出す。蛇と烏の絡む、嘘の神々の凶悪な世界。形式と脅し以外何も無い神社は、易(占い)やお守り(お札)、礼(儀式)を道具に、人の世を蛇(烏)の遊び場にする。

 

7.蛇系の存在たちが、その自覚もなく人の心身(脳)を病ませてしまう理由は、自分たちには無い心を持つ人の純粋な感性によって、自らの本質である不安の塊を刺激されてしまうため。それゆえ、彼らは、そうにはならないよう、元々不安の無い人たちを不安にさせ、安心を得る。その下地づくりに使われる神社と嘘の神々は、彼らの姿であり、罰も祟りも、お祓いも祈祷も、彼らの本性の現れである。

 心ある普通の人たちを不安の中で生きさせ、永いこと世を支配してきた彼らであるが、現代、自分たちの(隠し続けていた)本性が丸出しになるという、実に恐ろしく、信じ難い現実を経験する。それは、LED照明への無感覚。人間であれば普通に分かるその危うさに、何の違和感も覚えられない姿を通して、彼らは、自らの本性をさらけ出す。動植物たちの生きる力を潰し、人の世を非生命化させようとする意思をその原因に備えるLED照明。それは、それに無感覚でいられる彼ら自身の姿であり、手段である。LED照明は、歴史ビル2階での病みをルーツとする、非人間的な(凶悪で残酷な)本性の遺伝子を持つ人の姿を容易に顕にする。

 

8.嘘の神々繋がりの神社(神道)を離れ、食を本来に、そしてLED照明のある空間を外す。その気もなく感性を鈍くさせられてしまっていた人は、そのことで、徐々に本来を取り戻す。何気ない違和感は、健全さのそれとなり、生活スタイルも、心身の状態も、人間らしくなる。

 蛇と同質の本性を潜める存在によって、人の脳は、簡単に蛇化する。そして、神社との関わりを通して、蛇系の価値観や感覚、食生活は普通となる。それが、心の意思とは異なる不本意なものである時、心身は、内側から病み続け、それに無自覚のまま、生命力は無くなる。ムリ・ムラを生じさせていても、それに気づけず、気力・体力を消耗させる。

 蛇系の中に居ても、何事もなく何でも出来て、あたり前に元気でいられる人は、生まれ変わるかのごとく、完全なる生き直しをする。その危うい無意識の意思と本性は、人間本来から著しくかけ離れてしまっているゆえ、その意識もなく心ある人の心身を重くさせる自らのその負の影響力を、出来る限り無くす。精白されたお米やパン(うどん、餅、パスタ)を常食にしている場合ではない。

 残忍で凶悪な性質を秘める蛇系の存在たちは、多くの人が神社関わりから自由になることで、その姿(正体)は際立つようになる。惨たらしい世界の象徴である、しめ縄や垂、鳥居などから人々が離れることで、その醜い原因をしつこく潜める彼らの言動(素行)はオカシクなる。そして、人の世は、次第に普通の人たちの住みやすいところとなり、不安の原因とは縁遠い、優しさそのものの風景が普通となる。

 蛇系の在り様を余裕で知り、観察するということ。それは、人間が、人間らしい生命を生きる際の、その新たな原因の礎となる。いつまでもそのままであってはならないことは、今直ぐにでもそれを変えるべく原因を自らが選択することから、その動きが始まる。LED照明に平気でいられる自分に平気でいる場合ではない。人間は、頭を自由に使えない(洗脳されたままでいられる)操り人形でも、置き物でもないのだから。by 無有 5/03 2017

 

 

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