第6回 「民主主義とは何か」


 衆議院の定数削減法案が自自公の与党三党によって強行採決された。しかし、ここでは法案の是非を問わない。また、昨年の盗聴法案や国旗国歌法案等にも関わっても強行採決という言葉が新聞紙上を賑わせたことは記憶に新しい。それらの法案についてもここで論ずることはしない。
 私がここで書こうとするのは、それら法案よりももっと根本的な民主主義というものについての問題である。
 法案の審議に関わって「強行採決」や「数の論理」という言葉を用いて批判されると、与党幹部はしばしば「多数決は民主主義の大原則である」と反論する。
 笑止千万である。多数決が民主主義の大原則であってたまるものか。

 高校生の頃、五、六人の仲良しグループがあった。その中でリーダー格だったのを、仮に高松君としておく。私ではない。私は松村君である。
 当時コンビニはまだそれほどなかったので、たまるのは高校のあった駅前と決まっていた。
 みんなでくだらないことをしゃべっていると、突然高松君が言う。
「おう、のど渇いたのう」
 そこは当然みんな適当にうなずく。
 すると、高松君は決まってこういうことを言うのである。
「松村がみんなにジュース一本ずつおごったらええと思う人」
 私以外の全員が、即座に手を上げたものであった。
「ちょっとまってくれよ。なんで俺がみんなにジュースおごらなあかんねん」
 私が抗弁しても、高松君は聞く耳を持たない。
「多数決やからな。そらしゃあない。日本は民主主義やからな」
 などと言うのである。
 たまには私も意地になって、
「ほな、岡田がジュースおごった方がええと思う人」
 とか、福沢が、加藤が、あるいは高松が、と挙手を募ってみるのだが、誰一人賛同しない。
 そこで私は泣く泣くポケットの小銭をはたくのであった。

 ほかにもこんなことがあった。
 期末試験前、数学はサブテキストの丸々一章が試験範囲となった。そのサブテキストは問題集に近いものだったので、いつものグループで手分けして分担することになったのである。
 そこでも高松君が仕切って言った。
「ひとり三ページずつでいこか。出席番号順に頭から三ページずつな。あさってまでにノートにまとめて、みんなの分コピーしてくること」
 みんなは、おう、と答えて、自分の分担を確かめにかかる。
 そこで私は気づくのである。他の連中は例題(解答つき)とか、解法の解説ページとか、基本問題ばかりなのに、私だけなぜか章末の応用問題とか完成問題とかいうところなのである。三井とか吉岡とか、私より後の出席番号の奴はグループにいないのである。
「なあ、俺のとこ、数多いし、難しい問題ばっかりやん」
 そう反論しても、高松君はやはり言うのである。
「なにぃ、みんなも賛成して、公平に3ページずつて決めたやんけ。俺が勝手に分担決めたか。文句があんねやったら、そんな名前つけた先祖に言え。墓参りやったらつきあうぞ。おまえホンマに、民主主義わかってないのう」

 あるいは、こんなこともあった。
 その日、私たちは自前の足で木村君の家の前に集まっていた。
 これからどうするか相談していると、高松君が言った。
「なんかヒマやし、心斎橋でも行こか」
 当然、みんな大賛成である。
「ほな、ここからヨーイドンで、ソニービルの前に集合な。一番遅かった奴はみんなにジュースおごること」
 そのときのメンバーは6人。三人は原チャリで(高松君含む)、二人はドロップハンドルのスポーツサイクル、そして私だけオカンのママチャリだったのである。
「おいおい、俺だけめっちゃ不利やんけ」
 私は必死になってルールの変更を申し出たが、やはり高松君は譲らない。
「なんでやねん、チャンスは平等やろ。お前も与えられた条件でがんばったらええねん。民主主義を支えるのは権利の平等と自由競争や」
 どこでそんな理屈を覚えてくるのか。たしかに高松君は社会が得意だった。
「そやかて、俺だけ……」
 私はみるみる小さくなっていくみんなの背を見送って涙ぐんだものであった。

 そして、現在の私は思う。
 民主主義の大原則は多数決や権利のみの平等では、決してない。
 民主主義の大原則は、全会一致と機会の均等である。国会本会議での十分な論議と少数者の保護である。
 同窓会ではおぼえとけよ。

(01/31/2000 up)


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