猫 男   (スプラッタ・ホラー習作)

       (四百字詰原稿用紙で35枚ほどあります)



 私は、ストレスがたまると猫を殺すことにしていた。
 猫はいい。とてもいい。とくに子猫はたまらない。
 餌を差し出すとうれしそうに身をすりよせてくる様子も、抱き上げたときの暖かさも、感じるたびに、神様は何と見事な生き物を人間に授けてくださったのかと思う。そして、あの柔らかな声。甘えるとき、怒ったとき、異性を呼ぶとき、その時々に応じて、猫はとても甘やかな、あるいは獣らしい声を上げる。
 なかでも私は、猫の断末魔の叫びがもっとも好きだ。

 私は猫を簡単に手に入れることができた。自宅は郊外にあり、近所では猫を飼っている家も多い。野良猫も多い。私は秘密の餌場をもっていた。近所の雑木林に、いくつもの皿を置いて、キャットフードは切らさない。
 目ぼしい猫を手に入れると、箱に入れて車で運ぶ。車にはさまざまな用意がしてある。
 少し走れば山の中。だれも来ない。だれにも聞こえない。
 縛ることもあるし、首から下を埋めることもある。
 その先は如何様にもできる。ひっかかれることはもうない。こつは身につけた。薬を使ったこともあるが、あまり面白くなかった。
 あの日は雨が降っていた。私は、得意先からの帰りに、喫茶店に立ち寄った。
 コーヒーを飲んで落ち着くつもりだったが、奥歯に力が入るのはどうしようもなかった。怒りのせいか、困惑のせいかは今もってよく分からない。
 事の起こりは、部下が商品の納期を間違えたことによる。ちょっとしたネーム入りの文房具の手配が結局間に合わず、課長の私が出向いて平身低頭、向こうの担当者にひたすらののしられたのだ。
 そのときはそんなことが続いていた。課の成績も思わしくなく、別の部下の退職もあって、私は気が滅入る一方だった。
「猫を殺そう」
 そう決心するだけで、胸のつかえがすっと消える気がした。
 ざんこくにざんこくにざんこくにざんこくにざんこーくに、と心の中で歌いながら、私は、トラブル続きの仕事のことも忘れて、浮足立つように社に戻った。
「先方は快く勘弁してくれたみたいっすね」
 などと張本人の部下が言ったのも無理はない。それほど晴れやかな表情をしていたのだろう。ふだんなら叱り飛ばすところだが、気にもならなかった。
 帰りに早速雑木林に寄った。
 餌をたっぷりと補給して、週末を待った。
 子猫がいた。雌のようだ。まだ数カ月といったところだろう。両の手のひらにすっぽりと収まるような大きさだった。
 靴箱にいれて、車で山に向かった。
 ビニールテープで、首と手足をキの字型の角材に縛り付けた。思わず笑みが漏れた。
 カッターナイフは使わない。刃がしなって思うように切れない。ゾリンゲンのペティナイフが一番だ。その前に盆栽用の剪定鋏を取り出した。
 右の前足を手首の当たりで切ってみた。
 ぶつりと音がして、血が飛び散った。
 子猫は大きな悲鳴を上げた。まだまだ小さな子猫なのに、腹の底から絞り出すような、人間の赤ん坊のような悲鳴だ。
 私の背筋を快感が走り抜けた。思わず声が漏れた。
子猫は気丈にも、私を睨んでうなり声を上げている。私は微笑んだ。
 いつかの猫は、尻尾を裂いただけでぐったりとしてしまい、楽しむ暇もなかった。猫にも個体差があるようだ。
げんきがいいねえ、でもほんとにいたいのはこれからだよ。私は優しく声をかけながら、傷口を縛った。失血死されてはたまらない。
ここじゃおじさんときみのふたりだけ、だれもたすけにこないんだよ。おかあさんもいないし、おともだちもこない。そしてきみはいっぱいいたいことをされるんだ。私は再び声をかけた。子猫の目に恐怖の色が浮かんだように見えた。私は哄笑しながら、指先で思い切り子猫の眼球をはじいた。
 やっぱり子猫の悲鳴はたまらない。
私はいつの間にか勃起していた。
事務用の小さな鋏に持ち替えた。次は耳だ。猫の、産毛に覆われた薄くて冷たい耳の手触りは、いつ触っても最高だ。
 左耳は、放射状にたくさんの切り込みを入れてみた。血まみれのうちわの骨のようになった。右耳は、二ミリほどの幅で十回ばかりに分けて切り刻んだ。じょきじょきじょきじょきと手に伝わる響きは、しばらく指先に残るだろう。
 左右のバランスが悪くなったので、左耳も結局細かく切り落とした。
みみなーしのまるぼうずのーこねこちゃーん。でたらめな歌が口をついた。
子猫は、もうかすれた声しか上げられなくなった。恐怖と苦痛のために、目にも光がなくなってきた。さっきはじいた左目は充血して真っ赤だ。
 さてと。私はひとつ大きく呼吸してナイフを取り上げた。昨夜念入りに研ぎ上げたゾリンゲンだ。今朝はこれで髭を剃った。
喉の下あたりに刃先を刺し込み、へその下まで一気に引き下ろす。ざあっと血がしぶいた。動脈を傷つけたのかもしれない。
 子猫は最後の悲鳴を上げた。人間の叫び声にも似た太い声だ。雑木林に響きわたった。
 私は下着の中に射精していた。
 車から濡れタオルを出して手を拭い、子猫の死体を見下ろしながら下着を替えた。心臓は興奮で波打ち、膝は快感に震えている。勃起は収まらない。
子猫の柔らかい腹はぱっくりと割れて、腸がはみ出している。私はそこに手を差し入れた。なま温かいぬかるみのような内蔵をかき回すと、子猫の身体がびくびくとはねた。
子猫の内蔵をすべて引きずり出した。まだ残る温みを楽しみながら両手でこね回す。
 股間のものはやっと萎えはじめた。
私は立ち上がった。きょうはこれでおしまい。
子猫を角材から外し、両手と道具をきれいに拭った。道具はすべて車にしまい、汚れたタオルと下着はビニール袋に詰め込んだ。いつものように、おりをみて会社のダストシュートにでも放り込めばいい。
 子猫の死骸は穴を掘って埋めた。血で汚れた泥をかき寄せて穴を埋め戻そうとしたとき、濁った目が中空をぼんやりと見上げていた。


 私の前に猫男が現れたのはその夜だった。
 深夜、寝苦しさにふと目を覚ますと、ベッドの足元に猫男が立っていた。
 燕尾服にシルクハット。手品師のような格好だと思ったが、顔はまさしく今まで私が殺し続けてきた猫そのものだった。灰色の毛に覆われた顔の中で表情のない丸い目が私を見下ろしていた。悪い夢だ、ゆめをみているんだ、ゆめだゆめだゆめ。
 猫男の目がかすかな光を反射して青緑に光った。
 私は悲鳴を上げそうになった。しかし声を出すどころか口さえ開けなかった。指一本動かない。その金縛りのような状態のまま、まばたきもできずに猫男の目を見つめていた。
 猫男はひとつ舌なめずりをすると、甲高い声で話しかけてきた。
「オマエハ猫ヲ殺シスギタ」
 私は猫男の顔から目をそらすことができなかった。なんだこいつはなんだなんなんだ、と混乱した頭の隅で、この猫男が殺された猫どもの復讐のために現れたことを確信していた。
「オマエヲ殺ス」
 私の恐怖は絶頂に達していた。下半身が生温かくなるのを感じた。失禁したのだ。
「タダシ、オマエハ後ダ。オマエノ愛スルモノヲ先ニ殺ス」
 猫男は私に向かって手を伸ばした。猫の手だ。肉球の間から鋭い爪がはみ出しているのが見えた。
 猫男は爪の先で私の頬をそろりと撫でた。痛みが走った。
「オボエテオケ」
 私は失神した。

 翌朝、妻に気づかれぬように下着とパジャマを洗い、マットレスを干した。マットレスは、ナイトキャップのウイスキーをこぼしたことにした。怖い夢を見て寝小便をしたなどとは言えるはずがない。
 別室で眠るようになって久しい妻は、軽蔑するような目でマットレスをベランダに運ぶ私を見ていた。
 二階から降りてきた私を見て、妻が言った。
「どうしたの、その頬」
 私は硬直した。すべては夢だと思っていたのだ。仕事の疲れといくらかの罪悪感がもたらした悪夢だと思っていたのだ。もとより私の寝室は、窓もドアも間違いなく鍵がかかっていた。他人が出入りする可能性など微塵もない。
 私は頬に手をやった。みみずばれのようなものが指先に触れた。
「寝てる間に自分でひっかいたんじゃないの。血が出てるわよ」
 妻は鼻先で笑うように言った。
 自分でなんかひっかくもんか。しかし昨夜の夢を話すわけにはいかない。話しても信じるような妻ではない。いや夢ではなかったのか。
 私はあいまいに笑って、自分の右手の指先を確かめるふりをした。
 人差し指の爪の間に、黒くなった血がこびりついていた。


 愛するものと聞いて真っ先に思い浮かんだのはユミの顔だ。妻ではない。
 私たちには子どもがなかった。妻は子どもをほしがったが、子どもに恵まれない原因はどうやら私の方にあるらしい。それがわかって以来、私たちの間の何かが急速に冷えていった。会話もほとんどなくなった。やがて寝室も別になり、夫婦の営みも絶えて久しい。それももう何年にもなる。
 妻に男ができたという噂も聞いたことがある。共通の友人からだったが、私は今もそれを確かめられずにいる。確かに最近は夜遅く帰ることが多いし、酔って帰ってくることも珍しくない。行き先もあいまいにしか教えようとしない。そして私に対しては軽蔑の色を隠さなくなりつつあった。
 このところ離婚の話も口にするようになった。よく口論になる。すべて私のせいだと言い、家も財産もすべてよこせと迫る。妻の勝手な言い草には私も怒り狂い、お互いに殺してやるとまで罵り合うことも多かったが、暴力をふるったことはない。決してない。

ユミと出会ってからは半年とそこいらだ。
 接待でよく使うスナックにアルバイトで入ってきたときに知り合った。いまどき珍しい黒くて長い髪。大きくて黒目がちのよく動く目。白い肌。大きな胸と豊かな太腿は、好みの分かれるところかもしれない。しかし彼女には天性の明るさがあった。ユミの笑顔にはテーブルのまわりを明るくするほどの魅力があった。水商売より保母さんに向いてるってよく言われるんですよ、と言うのを聞いたことがある。
 ユミとは出会ったときからウマが合った。私は毎晩のようにその店に通い、ユミを隣に座らせた。
 妻の顔を見るのを避けたかったのかもしれない。ほとんど毎日、帰りは午前様になった。
 そんな私が彼女の部屋に通うようになるまで日数はかからなかった。いまでは週に二回はほぼ必ず彼女の部屋を訪れるようになっていた。もちろんセックスはそのたびにする。
 ユミはそちらの方でも明るく奔放だった。どんな恥知らずな要求にも応えてくれたし、自分からさまざまな姿態をとって私を誘った。私はますます彼女におぼれた。
 要するに私はユミを愛してしまっていたのだ。

 猫男の言葉が頭を離れない。ユミを殺させるわけにはいかない。
 私はユミを失うことを恐れた。そもそも猫を殺したのは私なのだ。
 私はその日仕事を早退して、車でユミの部屋へ向かった。
 ユミのマンションが遠くに見えるところで、私は異変に気づいた。私は車を路上駐車のトラックの陰に停めて、マンションの入り口を見やった。
 ユミが若い男と出てくるところだった。ユミは背の高い男にぶら下がるようにして腕を絡めている。ユミは例の明るい笑顔を男に向けて何事かを話していた。楽しそうに。男はまわりを見回して、照れたような顔でユミに顔を近寄せた。ユミの両腕が男の首に巻きついた。
 私は二人の深い口づけを目の当たりにして、怒りで目がくらみそうになった。激しい嫉妬で叫びだしそうになった。
 こんな形の裏切りは許せない。たしかに私はそのとき殺意を抱いたのかもしれない。さきほどまでの心配と打って変わって、私はユミに対する怒りとユミを失うことに対する恐れとで我を忘れそうになっていた。
 おれをうらぎるのか、おまえもうらぎるのかおまえもおれをうらぎるのか。
 キスが終わった。男はそばに停めてあった大きな四輪駆動車に乗って走り去った。ユミはそれを手を振って見送り、マンションの中に消えた。
 私はそれを見ながら、指の関節が白くなるほど力をいれてハンドルを握り締めていた。
 すると、遠くからマンションに向かって歩いてくる猫男の姿が見えた。燕尾服にシルクハット、そして猫の顔。見間違えるわけがない。
 猫男はユミのマンションの中に消えた。入り口に入るとき、こちらを見てにやりと笑ったように見えた。


 私はマンションの前の歩道に乗り上げるようにして車を停めた。トランクから道具箱を取り出した。猫をいたぶって殺すときの道具が入っている箱だ。武器になるかどうかは心もとないが、大小何本ものナタやナイフが入っている。猫男がユミを襲うなら、私は一矢報いるつもりだった。
 ユミの部屋まで階段を駆け上がった。部屋の前で道具箱から大ぶりのナタを取り出す。声をかけずに合鍵を使ってドアを開けた。
 猫男はいなかった。荒い息で血相を変えている私の姿を見て、ユミが立ちすくんでいた。両手の拳を口に当てて目を見開いている。目には恐怖が宿っていた。
「ち、ちがうの。今の人はた、た、ただのおともだちで……」
 私は血走った眼で部屋の中を見回した。五階まで階段を駆け上がったせいで、呼吸はなかなかおさまらない。はあはあはあはあはあ。胸が苦しかった。
 私は猫男の姿を探していた。ナタを持ったまま、無言でクロゼットを開け、カーテンの陰を確かめた。乱れたベッドのシーツをはぎとると、ピンクの性具と見慣れぬコンドームの小袋が目に入った。ユミの顔色が変わった。
「それはちがうの、あの、あの、……」
 私はユミに向き直った。
「何がちがうんだ」
 はあはあはあ、ちがうなにがちがうあのおとこかねこおとこがちがうのか、はあはあはあはあ、このくされまんこねこおとこはいないいないいない。
 私は怒り狂っているのか。猫男を恐れているのか。猫男がいなくて安堵しているのか。私は混乱していた。ただ、激しい感情が私の中から大量にあふれ出そうとしていた。肩で息をしながら、私はこめかみに浮き出した血管が脈打つのを感じていた。
 私は足元のくずかごを蹴り飛ばした。たくさんの丸めたティッシュと、今度は封を切った小袋が現れた。それも三つ。
 ナタを持った手がぶるぶると震えた。ユミはその場に尻もちをついた。腰が抜けたようだ。

 そこへ猫男が入ってきた。ドアの前に放り出してあった私の道具箱をさげている。猫男はそれを私の足元へ放った。蓋が開いて、ナイフやノミや工具類が散乱した。
 猫男は私を一瞥した。その視線だけで、私は背中から寝室の壁にたたきつけられた。
「オマエハ後ダ」
壁に背中を張りつけて、私は立ったまま金縛りにあっていた。かろうじて動く眼球で、猫男の姿を追った。
 ユミも硬直しているようだ。猫男に抱え上げられ、ベッドに投げ出されても、人形のようになすがままだ。眼は恐怖に見開かれているが、大の字のまま悲鳴も上げない。
 猫男は、鋭い爪でユミの衣服を切り裂いた。ユミはじきに全裸同様の姿になった。豊かな乳房もやや濃いめの陰毛も小刻みに震えているように見えた。
 猫男は、ユミに馬乗りになると、左手で首を押さえつけた。ユミの顔がみるみる紫色に変化し、口から舌が突き出した。よだれがあふれて顎を濡らした。 猫男はそのまま右手を振り上げた。指先から長い爪が飛び出した。鎌のように湾曲した爪は、短刀ほどの長さがあった。
 猫男はユミの頭めがけてその右手を振り下ろした。ひときわ太い人差し指の爪が、ユミの脳天から眉間までを断ち割った。
 ユミは口からごおっという音を出して即死した。割れた頭蓋から血と脳漿が流れ出した。目は大きく見開いたままだ。
 猫男はユミの上からおりた。死体を見下ろして舌なめずりをひとつした。
 まず、鋭い爪を振るって両の乳房を切り取った。つぎにユミの脚を大きく開かせて、陰部を大きくそぎ取った。血液の染みが失禁したように拡がり、帽子ほどの大きさの傷口からは骨盤が見えた。
 猫男は、私の道具箱から釘を取り出して、それらをベッドの枕もとの壁に打ちつけた。とてつもなく悪趣味な壁掛けのように見えた。
 猫男は、ユミの真っ白でやわらかい腹部を爪で十文字に切り裂いた。まるで鋭利な刃物のように猫男の爪がユミの腹筋に吸い込まれるのが見えた。すでに死んでいるので出血は少ないが、腸が生きているかのように、のたうちながらあふれ出した。
 私はすべてを見せつけられた。まばたきもできず、嘔吐もできず、立ちつくしたまま。
 猫男は指先をそろえてユミの左の眼窩に押し込んだ。ぐじゅりと音がした。そのまま猫男はユミの眼球をつかみ出した。ずるりと視神経らしきものがついてきたが、それは引きちぎった。
 猫男は、そこでやっと私のほうを振り返った。私に向かってユミの眼球を投げつけた。眼球は私の右耳を掠めて壁にぶつかり、ぱちゃ、と音を立てて破裂した。私の頬を生臭い液体が濡らした。
「モウヒトリ」
 猫男が嗤ったように見えた。
 私はまたしてもそこで意識を失った。


 私は悪い夢を見ていたに違いない。
 先日だってそうだ。寝室に現れた猫男に驚いて失禁するなど、いい大人がおかしな夢を見て寝小便しただけの話じゃないか。もちろん猫男なぞいた形跡はなかったし、頬の傷だって自分で引っかいたものに違いない。爪の間に血がついていたのがその証拠だ。
 安物の怪談話じゃあるまいし、あんな滑稽な姿をした猫男なんているわけがない。
 多くの猫を殺してきた罪悪感と最近のストレスが相俟って、あんな夢を見たのに違いない。外在化、対象化、投射、投影、何でもいい。猫男は私の幻覚に違いない。
 私はユミの部屋で意識を取り戻した。窓の外も部屋の中もすでに真っ暗だ。虚ろな目で座り込んで同じことばかり考えていた。
 しかし目の前には、ユミの凄惨な死体があった。壁にはユミの乳房と陰部が釘で止めてあった。部屋には血の匂いが立ち込め、息苦しいほどだ。
 猫男は悪夢、猫男は幻想、猫男は私の罪の意識、猫男なんていない、と繰り返し繰り返し考えもし、呪文のようにつぶやきもしたが、目の前の死体が消えるはずもない。
 私はなぜか血まみれの道具類を箱にしまった。そういえば着ている服も血液らしきものでずぶ濡れだ。靴下までぐっしょりと濡れている。私は道具箱を抱えて部屋を出るとき何度も足が滑りそうになった。
 警察のことは思い浮かばなかった。猫男に対する恐怖に取り憑かれていた。そしてユミの死体から一刻も早く逃げ出したかった。

 腕時計を見るとすでに十一時を回っていた。マンションの正面に停めた自分の車に道具箱を放り込んだ。運転席側のドアミラーに、駐車違反を示す黄色い札がぶら下がっていた。ついてない。しかし、いきなりレッカー移動されるよしはましだ。
 私はユミの死体を頭から追い払う一方で、猫男の「もう一人」という言葉について考えていた。私の愛するもう一人の人間。妻か。まさか。両親はすでに他界している。他に肉親はない。
 やはり妻のことか。しかし今さら愛情なんてどこにある。私の頬に冷ややかな笑みが浮かんだ。
 私は車を運転しながら思った。今日もあいつは夜も更けてから帰ってきたに違いない。そして、私が夕飯の仕度を訊ねると、あら、あなたもてっきり食べて帰るものだとばっかり、と答えるのだ。私は妻の目の奥に、ざまあみろ知ったことか、といわんばかりの光が浮かぶのを見逃さない。その冷酷な光を目に浮かべたまま、口元を歪めて離婚の話を繰り返すのだ。そんな妻にどんな愛情が……と考えながらハンドルを切ってカーブを曲がる。
 けれども、私は妻を殺されることを望んでいるのだろうか。ならどうして、こんなにスピードを出しているのだろう。猫男とユミの死体から逃げ出そうとしているのだろうか。私は一般道路を右に左に車線変更しながら、時速八十キロを超えるスピードで走っていた。
 私は結婚したばかりのことを思い出した。白のワンピースの似合う愛くるしかった妻のことを思い出した。笑顔を絶やさず、あなたのために料理とアイロンかけだけはがんばろうと思うの、と少しはにかみながら言っていた妻の横顔を思い出した。あのころの妻はリビングでもベッドの上でも控えめでやさしかった。
 現在がどうであろうと、まだ愛していると猫男が誤解していようと、たとえ一瞬でも本気で殺してやると思ったことがあろうと、やはり猫男などに殺されてよいわけはない。
 我が家までもう少しだ。私は運転を続けながら、携帯電話を取り出した。
「俺だ」
「なによ」
「すぐ家を出ろ」
「なんですって。出て行くのはあなたの方でしょ。やっと離婚する気になってくれたのはうれしいけど、この家は絶対に……」
 激昂している。誤解もはなはだしい。
「その話じゃない。すぐに家の前まで出て来い。説明は後でする」
「話があるなら、とっとと帰ってきて家の中ですればいいじゃない。あたしと二人きりになるのが怖いの」
「うるさい。家の中にいると危ないんだ。とにかく門の前で待ってろ。近くまで来てるからすぐに迎えに行く」
「馬鹿じゃないの」
 馬鹿はおまえだ、と怒鳴りそうになるのをこらえて電話をそのままダッシュボードにたたきつけた。ころされてしまえ、ちくしょう、ばかおんな。心の中で毒づきながらも、住宅街へ向かった。
 深夜の住宅街は奇妙に静かだった。まばらにある防犯灯がぼんやりと道路を照らしてはいるが、どの家も闇の中にシルエットだけで黒く沈んでいる。
 我が家を見通せる道路に出たとたんにエンジンが止まった。ブレーキを踏んでもいないのにがくんと車が止まった。道路に立つ妻の姿が見えた。こちらに気づいたようだ。
 そのとき、私の車の横を猫男が歩いて通り過ぎた。運転席の私をちらりと見た。口元のひげが震えたのは嘲笑か。
 私は車から飛び出そうとしたがドアはロックされたように開かない。ロックをはずしてドアハンドルを引っ張り、何度も肩からぶち当たった。開かない。私はパニックを起こしかけていた。仰向けに寝そべるようにして窓ガラスを強く蹴った。びくともしない。
 猫男が妻に向かって走り出すのが見えた。両手を使ってしなやかに、猫の姿勢で疾走してゆく。
 恐ろしいスピードのまま、妻の立っている場所を駆け抜けた。
 妻の身体が宙を舞った。私は車の中で絶叫した。真上へ、屋根ほどの高さまで跳ね上げられ、妻は頭から道路に落ちた。ごきゃ、と首の折れる音がここまで聞こえた。
 猫男は立ち上がり、ゆっくりと歩いて戻ってきた。仰向けに倒れている妻のそばに立った。
 膝を高く持ち上げて、妻の顔にかかとを踏み下ろした。
 ばん、と音がして妻の頭は破裂した。眼球が飛び出し、割れた額から血と脳みそが飛び散るのが見えた。
 猫男は次に腹部を踏み抜いた。妻の四肢が電気ショックを受けたかのように宙に向かって突き出されて落ちた。血まみれの肉塊となった頭部の口のあたりから汚物が噴き出した。
 猫男は妻の死体を踏みつけつづけた。手足の骨の折れる音、肋骨の砕ける音が耳に響いた。
 やがて猫男は妻の身体に飽きたのか、私の車に向かって歩き出した。
 殺される。いやだ。ころしてやる。
 私はキーを回した。エンジンは一発でかかった。
 なぜ金縛りにかけない、後悔させてやる。私はアクセルを床まで踏みつけた。
 車ははじかれたように飛び出し、猫男に襲いかかった。
 フロントバンパーが猫男の膝をすくい上げた。重い衝撃とともにフロントガラスにひびが入った。真っ白になったフロントガラスに血がひろがった。よし、仕留めた。
 急ブレーキを踏んで、割れたフロントガラスを手でかきのけると、道路に倒れた猫男が見えた。私はハンドルを切りなおして猫男を轢いた。何度も轢いた。バックで轢いた。前進で轢いた。めりめりばきばきと猫男の全身の骨が砕ける音を楽しみながら轢いた。
 気がつくと大声で笑っていた。全身の震えが止まらない。 私は車から降りた。ひき肉のようになった猫男の死体を確かめたかった。
 しかし猫男の姿はどこにもなかった。


 私は呆然と立ち尽くしていた。車はたしかにフロント部分がつぶれている。タイヤも血まみれだ。けれども私が轢いたはずの猫男の死体はどこにもなかった。
 かたわらには妻の無残な死体があっただけだ。
 あたりの家に明かりがともり、何人かの男性がパジャマ姿で現れた。
 遠くからサイレンが聞こえてきた。

 私はその場で逮捕された。
 その後のことはよくわからない。取り調べは何日も続いた。
 誰も猫男の話は信じてくれなかった。刑事も弁護士も。
 ユミの傷口はすべて私の道具類と一致したと聞かされても、私の車に付着した血痕はすべて妻のものだと聞かされても、私は猫男の話を繰り返した。何度も繰り返した。
 刑事には殴られた。弁護士は蔑むような目で私を見た。無表情にうなずきながら私の話を聞いてくれたのは、何人かの白衣を着た男たちだけだった。医者だったと思う。
 そして私は今、白い壁に囲まれた部屋に一人でいる。それが拘置所なのか刑務所なのかあるいは病院の一室なのかはわからない。ただ、金属製の扉にはいつも鍵がかかっている。
 ときおり白衣を着た男性が現れて食事を残していく。注射されることもある。
 私は部屋の片隅にうずくまったまま、注射のせいでもやのかかったような意識の中で猫男のことを思い出していた。猫男が本当にいたのかどうかさえよくわからなくなっていた。それ以上に私が殺したという女性の存在さえなんだか夢の話のようにおぼろげだ。ただ、何匹もの猫を殺したことだけははっきりと思い出した。猫の腹や首からあふれる真っ赤な血の色は鮮明に思い出した。猫の断末魔の叫びも同時に思い出して、何度か自慰をした。
 この部屋に入れられて何日が過ぎたのだろう。

 ある日の昼下がり。壁にもたれてぼんやりと床に座っていると、猫男が現れた。
 シルクハットに燕尾服。灰色の毛に覆われた顔は猫のそれだ。なんとなくなつかしい気がした。
 猫男は床に手をついて私に顔を近づけてきた。生臭い息が吹きかかった。細いひげが私の鼻先に触れた。
「オマエハ猫ヲ殺シスギタ」
 どこかで聞いた台詞だ。私は自分が殺したたくさんの猫を思い出した。
 私は動けなかった。声も出なかった。
 猫男は私のパジャマのボタンをはずした。ズボンと下着も脱がせた。私はされるがままになっていた。じきに全裸になり、壁に背をあずけるような格好のまま、脚を伸ばして座らされた。
 猫男は四つん這いになって私の股間に顔をうずめた。そして長い舌を私のペニスに絡めた。
 私は即座に勃起していた。ざらざらした猫の舌の感触が異様な快感を背筋にもたらした。
 ぴちゃぴちゃずるずると卑猥な音を立てて、猫男は私のペニスをもてあそんだ。
 猫男は大きく口を開けて私のペニスを頬張った。口元に鋭い牙がのぞいた。
 猫男は、限界まで勃起した私のペニスを食いちぎった。股間に焼け火箸を突っ込まれたような激痛がはじけた。大量の血がほとばしった。私は絶叫した。しかし声は出ない。凄まじい形相で大きな口をあけて息を吐き出しただけだ。
 猫男の顔は正面から血を浴びて真っ赤になっていた。
 猫男は、私のペニスをゲッと吐き出した。
「ウルサイ」
 猫男はがあがあと喉を鳴らす私の口に手を突っ込み、舌を引き出した。先端を強い力でつまみ出され、私は息すらできなくなった。
 猫男は右手で私の舌をつかんだまま、左手で私の顎を突き上げた。
 ぶつり、と自分の舌を噛み切る音が脳天に響いた。口から血があふれ出した。
 私は口からぼたぼたと血をしたたらせ、燃えるように痛む股間を押さえたまま、前のめりに倒れた。
 床が額を打つ寸前、視界の隅に猫男の後姿が見えた。猫男は壁の中に消えた。


 男の自殺はすぐに報じられた。自分のペニスと舌を噛み切るという詳細は伏せられたが、関係者の間では猟奇殺人者にふさわしい死に方として語り草になった。
 むろんペニスと舌に残された歯形は男のものと一致していた。

(09/17/99 up)


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