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(中)

父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)
より、第7章「天降り女人」を上中下に分けて全文収録です。(ルビ文字
は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正
ミスと思われるところは、文意を整えて示しました。)


   以上二つの型の天女伝説中、第1型は、主として大島南部、第2型は北部でいい伝えられ、前者は比較的原型を保っているが、後者はいろいろと混態をなして、著しく近代化されなまめかしくなり、求婚するのも男ではなく、女になり変わっている。もとより第2型は、第1型より分化発展したものであろう。何だか、この展開には、女性のある階級の社会的変遷が反映しているように思われる。概していえば、第1型には、昔のノロ(巫女)や一般ユタ、フドン(鹿児島のホリドン、ホッドン(祝殿)がさらに訛ったもの、すなわちはふり、モノシリ)などの習俗が著しく認められ、第2型になると、これに加えて、さらに1時代前まで、この島に横行したというヅレ(遊女)の習俗の反映が著しく認められるからである。そこで今それらの習俗の1端をうかがってみる。一般に、アモロゴーとか、ウックンコーとか呼ばれる河川は、昔神官ノロが祭りの際など沐浴斎戒した所と伝えられ、今でも巫女は、山間の河川を求め、水浴洗髪して身を清める習いである。巫女のことをこの島では、ユタ、モノシリ、フドン、カミサマなどと呼ぶが、これらの語の使用には少しずつ意義の差異があるらしいが、とにかく、ここには巫女に関する栄武二君の報告をそのまま引用しておく。「大島では、フドンガナシ、モノシリというのがいて、島民の信仰の迷信的支配勢力をなし、また1に迷信ともいい得ない点もあります。フドンガナシになる経路は、まず神様がある特定の人(誰でも拝める者ではない)に拝まれたいとのころから、その人に祟る。その時は、気でも狂ったかのように荒々しくなり、平素どんなに、おとなしい人も人々があきれるほどしゃべり踊り狂う。それは、その人自身がするのでなく神様がさせるとのことです。そのまま捨てておけば、いつまでたっても落ちつかないから、すでにフドン加奈志に成っている人、これを親フドンあるいは親カミサマと呼ぶが、そういう人を頼み迎えて、よく拝んで貰って、気を鎮めてもらうのであります。2,3日もすれば、別人のように落ちつきます。親フドンに拝んで貰うまでは、白衣、白鉢巻に、白鞘の木刀を振りかざして、1日中でも踊り狂うのであります。不思議なことには、いかに無智文盲な人でも、神代からの神のことについて口説を始める。平素なら知る由もないのに、この時はもう何でも知っているのです。その人が神様に完全に拝まれるようになり、落ちついたら、次にはアミゴー(浴河、フドンが水浴洗髪して、身を清める河泉のこと)を捜す。これをアミゴー、トメユル(浴河を尋(と)める)といいます。このアミゴーもどこでもよいというわけではなく、神様が示して下さる河川でなければならぬとのことで、人があまり使用せず、また足を踏み込まない山間の河川などが選ばれる。このアミゴーを定めたら、もう一人前のフドンになったといえるらしいです。(中略) ユタフドンになれば、野良仕事や幼児などの汚物の洗濯などはしない。いつも身を清めていないと神のタタリがあるからだそうです。甚だしい人になると、夫持ちのフドンなら、自分の夫に炊事一切までさせるそうです」
   以上で注意すべきは、巫女が、山河に浴泉を定めることと、神のタタリあるがゆえに野良仕事などをしないという2点である。今でも山路の通行人などが、早朝など、まだ人の行くとも思われない遥か向こうの滝つ瀬の木の間がくれに、ふと裸体の女を見出し魂が昇天することがよくあるという。
    巫女水浴洗髪の具体例として、宇検村阿室に現存している某フドンガナシについて一言する。巫女のことを個々に呼ぶ場合は、今ではその名前の下にカミサマをつけて、何某神様と称する。長崎の五島辺でもそうらしい。さて、この阿室巫女は、カミブレ(神触れ)の後、親神様(先輩巫女)につき、浴泉を定め、本格の神様になった時、夫を始め親族一同の大反対を受けたが、ある時ネーハギ(なえはぎ、あしなえ、びっこ)を完全に直したというので、親族をはじめ、村中の信を納めるに至った。この巫女が、白馬に跨り、白衣を着けて、長い黒髪を後にたれ、道を通る姿は真に神々しく、信心深い古風な老婆たちは、これに行き会えば、土下座するくらいであるという。ある日のこと村の女2人が阿室川で、その日畑より採ってきた唐芋を洗っていると、河奥の樹木欝蒼たる陰の淵では、それとも知らず、この巫女が水浴洗髪していたが「髪よ長くなれ、髪よ長くなれ」と唱えながらうつ向きつつ、1櫛当てるごとに、毛髪が1丈ずつものびて、ついに、この2人の女のいる所までも流れのびてきたので、2人の女はまったく、びっくり驚嘆してしまった。それでこれがまた村の評判となったという。

    次に杓(ひさご)が、神の憑代であったろうことは、神楽歌の「採物」などからうかがわれるのであるが、この島の巫女たちは現在でも、ヌブ(柄杓)を用いる習いである。今では竹筒製の小形の柄杓になっているが、これも古くはティブリ(夕顔)製の物であったろうと思われる。「天地あもれ」口説では、天に昇った夫のミケランが、横に切るべき唐瓜を縦に切ったので大洪水になったという、洪水神話的くだりが織りこまれているが、この唐瓜とあるものもひさごと関係づけて考えられる。柄杓を作るには横に切らねばならぬ。ここに杓の呪力がある。縦に切ったミケランは流産を免れなかった。かく神聖な神の憑代なるがゆえに、この島のケンモン(化の物)がヌブサダと呼ばれるのをいたくきらい、また桑木だヌブだと叫べば、そこに雷が落ちてこないと信じた所以であろう。とにかく、ヌブは巫女の採物である。いまこの第2型のアマヲナグをみるに、ヌブに水を湛えてさし出すという。何とそれは、また巫女の姿の反映ではなかろうか。しかし、第2型のアマヲナグ、アモレヲナグおよび一般女幽霊とみていくと、その最も注意を引く点は、これらが、きまって白風呂敷を背負い、なお左褄をまくっていると伝えられることである。この白風呂敷の背負い方もかならず一方の肩から他の脇に回して背負い、胸の所で結ぶのである。これはとりもなおさず流浪の浮き生活をつづけたという、この島の遊女の旅姿であったのである。この風呂敷包を背負う場合、回わす肩の方は、左右いずれであったかは聞きもらしたが、これも定まっていたのではないかと想像される。

    この島の遊女はふつうヅレという名で知られている。ヅレといえば、白風呂敷包の携帯品を背負い、各部落を経巡り、春をひさいで儲けをする女、すなわち「廻り淫売」あるいは半淫売のことを意味するようになってきているが、思うにこれは、ヅレの本来の能ではなかったのではあるまいか。かりに40年ごろ前まで、なお白風呂敷を背負うて、各地を巡ったというヅレと、大正の初期までも、なお名残りを止めていたというヅレとを比較しても、この事は知られる。明治30年ごろのヅレは本名は名乗らず「丸」をつけて朝日丸とか南州丸の芸名? を名乗り、たいていは、なお歌舞が上手で、床しいところがあったが、大正初期のヅレはもはや単なる淫売に過ぎなかったという。(文潮光氏 報)
    すなわちヅレの本来の能は、歌舞をもって、各地を巡り、アソビ(歌三味線の酒宴)の庭に列なることであったであろう。ヅレという語感には今でも「回わる」「さすらふ」という属性を失わない。明治中葉以後都市経済の発達につれ、淫売階級の町集中化は、その流浪性を止揚し、大正の中葉以後は、ヅレなる名称の存在が全然この島から姿を没するに至った。彼女たちに代わるべきものはいまや名瀬町古仁屋町のヤンゴー(屋仁川、本来は家人川の意か)なる地域に巣喰う酌婦である。
     ある社会的事情から、ヤンチュ(家人)の氾濫となり、かくて社会機構からはみ出された、いわゆるアマリヲナグ(余女)が数を増し、ヅレ階級もその合流によって脱落し、はや徳川の中期ごろ以後は、売春が主能となるに至ったものらしく、徳川の末から明治の初期には、ヅレの大横行をきたした。民謡に、
            雨の始まりゃ住用やしたる三久(みきゅう)の流れ
                ヅレの始まりゃ長柄や佐念西や真久慈
(雨の降りはじめというのは、この島で最も大河泉のある住用村の したる(地名)や三久の流れを生じた雨が始まりであろう。ヅレのはじまりは、ヅレの多い長柄佐念、久慈部落などのいずれかに発したであろう) とあるのも奈辺の消息を物語るものである。彼女たちの最も大切な顧客は、鹿児島から年に1回来る諸藩船、商法船、売船であった。これらの帆船は、旧九、十月ごろニシ(真北風)の吹くころ、米その他の日用物資を積んで下島し、旧五、六月白南風(しろはえ)、黒南風の吹くころ黒糖を満載して上鹿児するので、約半年も島の港々に潮がかりしていた。かかる帆船が来るころは、彼女たちは港々に集まって、舟人中になじみをつくり、港々に在住する者は、自家に連れこみ、他より巡って来る者は、船中に乗りこんだり、浜や人家を借りてアソビをした。彼女たちの受ける代償は、米、綿、もめん、糸、布、油などの生活必需品であった。中には、家の貧困からヅレ(この場合は半淫売)を行なう者もあったらしく、民謡に
           向かいの沖から白帆や巻きゃ巻きゃ、
               船の来ゆり、あれ見れ、阿女(あんま)、
                    がっしゃる蘇鉄のドガキゃはん覆(こぼ)せ
(阿母よ、ごらん、沖から白帆を巻き上げながら、藩船が来ます。さあ!こうなると自分が儲けて、米の飯が食べられるから、そんな蘇鉄粥などは、もう食べる必要はないから流して捨てて下さいの意。ふつうの蘇鉄粥は米を混ぜて炊くのだが、ドガキは、まったく蘇鉄ばかりで、まずいという) とあるのでも知られる。こうみてくると、今から40年前ごろのヅレが朝日丸や南州丸を名乗ったというのは、つまりはその得意とし、人気を拍している帆船名をもって自己の芸名? としたのか、あるいは仲間の間で縄張りをきめて、相互その得意の船名をもって呼び合うことにしたのに由来するのかもしれない。なおヅレの異称であり、またその名前とか出身地につけて用いる語にマンジョという語があるが、こうなれば、これも、あるいはマルジョ(丸女)の訛語で船遊女、船淫売の意とも思われる。民謡に、
      話しゅん事や、西マンジョ、東(ひぎゃ)マンジョ、笠利マンジョ寄合(ゆりゃ)とて、話しゅん事や、食(か)もち
      言ゅり、 売船(ばいせん)乗り取て、作らん米取て食(か)もち言ゅり。
(西方、東方、笠利3地方のマンジョたちが、一所にに集まって、何を相談し合っているかと思うと、売船に乗りこんで、作らない米、すなわち販売のため積みこんで来た米を、代償に取って食べようといっているわいの意。藩の糖業政策のため、この島の田地は、大方甘蔗畑と化し、島民の米飯に対する渇仰は大なるものがあった) とあるのも、この意味にとれば、よく通ずるようである。しかし1面マンジョという語感には、むしろ驚嘆こそあれ少しも軽侮の意はない。マンにはかならず「美しい」という属性を伴っている。一般にヂョという語は女性に対する敬称であった。阿母(あんま)ヂョなどともいう。だから、このマンは、小町のマチのなまりとみるべきものではないかと思われる。鍛冶をカッジャ>カンジャというと同じ音変化ではあるまいか。マチはマツリと関係ある語といわれている。天女をハゴロモマンジョと呼ぶのも、かくていよいよ思い半ばに過ぎるものがある。民謡に、
    請(うけ)クママンジョちば、あがしがで、清(きゅ)らさんをなぐ、居せれば露垂り垂り、立てれ ば、水走(は)ゆり。
(請島のクマというマンジョは、あんなにまで、清らかな美人であることよ。坐らせて見れば、露のしたたるが如く、立てて見れば水のた走る如く清楚であるの意) とあるクマと呼ばれる女も有名な歌舞の上手な美人のヅレであったらしいが、なお、この民謡を掘り下げて考える場合、このクマ女に対する人々の驚嘆渇仰には、神的畏敬が含まれていまいか。「神ヌ生レシュル」といえば、その女にはかならず清楚な美が伴って侵し難い所のある女である。これはやがて巫女的性格になった。なお、ついでにヅレに関する民謡を二つほどあげてみる。
        くちゃぬ子(くゎ)ぬ出(いぢ)て、ヅレしゃしや知らじ
         ヅレ知らぬ吾(わ)きゃば、ヅレ名立てて
(箱入娘が家をぬけ出して、ヅレをして歩くのは知らないで、ヅレを知らない自分たちがヅレをすると、うわさを立てるとは情けない) この中の「くちゃぬ子」は箱入娘の意だが、クチャという語は、ちょっと語源がはっきりしない。なお、民謡に、
         くちゃぬ七(なな)くちゃに、つぼでをる花や
          今日の佳(よ)かろ日に咲かちうぇすぃろ
というのがあり、これは結婚式に歌うものであるが、これからみると、くちゃは七重八重のエに対応する語らしい。この民謡は(七重八重につぼんでいる花(嫁)は、今日の晴れの佳き日に咲かしてあげましょう) の意だからである。つまり、クチャは「八重垣」「八重戸」に相当する語で、あるいは語尾のヤは虚字で、コウチ(戸内)>コチ>クチャと転訛した語かもしれない。
           ヅレしゅしが面(つら)ぬ隠ち隠されめ
             油つけがまち目眉垂らそ
(ヅレする者の面貌が、隠しても隠されようか。油をこてこてとつけた頭髪は、目眉あたりまでも垂らすことであるの意)
    以上二つの民謡にある「ヅレシュル」なる語は、すなわち歌舞に浮かれたり、カクレヲト(情夫)をこしらえたりすることであり、そこには常に社会の風紀を維持する中堅層があったのである。

   さらに民謡に「さかしの1番や、西や古見(こみ)の、南州丸さかし云々」なるものがある。その意味は、ヅレの中でも今1番流行っているのは、西古見部落の南州丸と名乗っているヅレであるというもので、おそらく南州丸という商法船がいて、この帆船は西古見港を常の潮がかり所として、この女がその船頭にかかえられていたものではないかと思われる。
    さて、ここで注意すべきは「サカシ」なる語である。今古老たちが、あの女はどこどこ巡って大分さかしたげなという意味のことをよくいうが、これから判じると、サカスという語は、その美貌や歌舞の巧みさによって、多くの男性を引つけ大いにもてて、色花を咲かし、発展する意に用いられたらしい。
    一方この島には、これに照応するものの如く「神サカシ」なる語が残っている。神サカシとは、おそらく、巫女が採物を手にし、神歌神舞によって神々を降し、大いにいわば神様にもてる意ではなかったかと思われる。現在神おろし歌などというものが残っていて、はじめてノロになる時の祭礼などに用いられたといい伝えられている。神サカシと同義語と思われるものに、神ハエシ(神栄えし)なる語がある。
    要するに、ヅレの源流は巫女に見出されるべきものではあるまいか。仮説を許さば、ヅレの1つ前には、神サカシの巫女的女たちが、白風呂敷を背負って、この島を巡り歩いた時代があったのではあるまいか。今肥前五島の島内の霊地を巡拝する女巡礼の習俗をみても、前に述べたような白風呂敷包の背負い方をしているようである。巡礼の趣旨は異なっていたにしても、その俗は、この島にも夙(つと)に流れ入っていたものと思う。ヅレという語には、「巡る」「さすらう」という属性を伴っている。ふつうヅレはジョロ(女郎)の訛語と思われているが、これには以上の考察から疑いなきを得ぬ。まだ確証すべき根拠はないが、以上から、ヅレはジュンレイ(巡礼)の訛語と思われる節が多い。なお、民謡にこういうのがある。
             大和清(きょ)らウトジョや誰(た)がなちゃる子(くゎ)が
                目鼻打揃(そろ)て、生れ清らさ
(大和から下島して来られた清楚な御婦人の方は、誰が産んだ子なればあんなに目鼻打ち揃うて、神の生まれして美しいことだろう)
             大和清らウトジョや、如何しゃる生れしてが、
                出(いぢ)る名ぬ数に、口のさげほ
(大和から下島して来られた清楚な御婦人はどういう神の生まれしたればか、その名が出るたびごとに人々が、口をきわめてほめそやすことであるよ)
    この讃美の表現は、この島の伝説の美人で、しかも巫女的性格を有するカドクナベ加奈を歌ったと思われる民謡と同一なところから推測すれば、大和からも、この島に巫女階級の往来した時代があったのではあるまいか。
    左に文潮光氏の採集せられた巫女に関する面白い伝説を引用しておく。
  「ノロ(祝女)のはじまりは、ヘンジャ親ノロといわれており、この親ノロは、またヅレであったという。ある時、ヘンジャ親ノロは、歌アソビ(遊)か、男アソビに浮かれて、大切な神事の準備を怠り、神仕度(身装)はできたが、さて何より大切なチマキカヅラ(千巻葛)を山から採って来るのを忘れて当惑していた。それと見たトモ〔伴)の7歳になるウマダルという小娘(尸童)は、けなげにも山に入って、チマキカヅラを捜したのだが、どうしても見つからずに泣いていると、白髯の老人現われ、チマキカヅラを採って与えながら、これをヘンジャ親祝女(のろ)にコソ(逆手、後手)にてやれと命じた。小娘がいわれた通りにすると、親祝女はその場で死んだということである。
(つづく)

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初出誌は昭和18年12月「旅と伝説」(萩原正徳編集発行)

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