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(下)

父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)
より、第7章「天降り女人」を上中下に分けて全文収録です。(ルビ文字
は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校
正ミスと思われるところは、文意を整えて示しました。)


    最後にアモレなる語についてのべることにする。方言にアモレユル(あもれる)なる動詞があったが、その意味は、「仕事はせずに懐手をして、方々をぶらぶらとさ迷い歩く」ことだったように記憶する。アモレテアッキュル(あもれて歩く)という表現もあったようである。じっと落ちつくところなく、魂が抜けたように、さすらい歩く意もあった。アモレムン(あもれもの)といえば、病気か何かで蒼白い顔をして、ぶらぶらと回わり歩いて、仕事をしない人間、天性遊惰で仕事を嫌い、方々をさすらい歩く人間を意味した。
    すなわち、アモレは、流浪、浮浪の意義を生じた。これには、語の混態(コンタミネイション)もあろうが、それにしても前掲天女伝説の推移をみれば、うなずかれることである。すなわち第1型のアモレ女は、確かに「天降り女」であるが、第2型アモレヲナグは、ついに下界に降りて堕落し、もはや地上をさすらうところのズレ風情の幽霊と化し去ったのである。
    徳之島の山(さん)あたりでは、現実に、アモレ女といえば、たいてい裕福な家庭の女で、仕事がないか、あるいは仕事がきらいでアソビに浮かれ歩き、男をこしらえるていの有閑婦人を意味するらしい。(重野堅君 報)
     しかしおもしろいことには、天女を意味するアモレヲナグ、すなわち天降り女と、地上に堕落した現実の、のらくら者の出回りの好きなアモレ女(浮浪性の女)との間には、語のアクセントに相違があるようである。
    まず、この島の方言では、2つの同音異義語がある場合は、ほぼアクセントにより、これを区別しているようである。
    奄美大島本島上方の方言では感ぜられないが、同下方方言では、確かに、2つのアクセントの型がある。1つは上昇調であり、他は下降調である。上昇調は(1)~ の符号で示し、下降調は(2)^ の符号で示し、単音節語からなる実例を示してみる。〔海坂註―符号は、入力の都合上、原文とは違いますので、とにかく、上昇音と、下降音のイメージを補ってお読みください。また、厳密な音声記号も単純なアルファベット表記で統一しました。〕
    上昇調の例
         コー(皮・ ko~)、チ(乳・ chi~)
         ナ(菜・ na~)、フ(穂・ fu~)
    下降調の例
          コー(河・ ko^)、チ(血・ chi^)
          ナ(名・ na^)、フ(帆・ fu^)
    2音節以上からなる語の場合は、アクセントのある音節が上昇調の場合は、他の音節もこれにならって上昇調であり、アクセントのある音節が下降調の場合は、他の音節もこれにならって下降調となる。
    上昇調―アシブ(あせぼ・ a-shi~p またはa-si~p)
                 アキ(飽・ a~-ki)
    下降調―アスビ(遊び・a-sibi>a-si^P)
                 アキ(空・ a^-ki)
    いま「アモレヲナグ」という語は、アクセントが第2音節の「モ」にあるから、奄美本島下方方言では、これを上昇調に発音すると、天女の意味に解され、これを下降調に発音すると、前述のような、尾羽打ち枯らして、ぶらぶらさすらい歩く女に解されてくる。後者の場合は、ふつうは「アモレヲナグ」とはいわずに「アモレムン」という。
    このアクセントの相違からしても、これは本来別語が混態していったものであることは明らかである。
    上昇調の「アモレヲナグ」(a-mo~-re-wunagu)は、もちろん「あもりをなご」(天降り女)のなまりで、天女を意味する。「天降り」という語は、古事記に出てくる言葉である。
    下降調の「アモレヲナグ」(a-mo^re-wunagu)は、「アモレムン」が本来的なもので、上昇調の「アモレヲナグ」と意味が近似化するにつれて、特に女に適用するために用いられるようになったものであろう。「アモレムン」は、あるいは古語の「あぶれもの」(a-bu-re-mono>a-mu-re-mun>a-mo-re-mun)から転化したのかも知れない。奄美方言は特に三音節以上の語においては、アクセントが前方へ移る傾向がある。これがある時代に広範囲にわたって行なわれたのではないかと思われる。今日の動詞を調べると、だいたいアクセントの異なった別様の名詞形(連用形)を備えていて、著しく国語に発音が近い。あるいは古くはそのアクセントで活用していたのであろう。
    「あぶれ」(溢)も今日の動詞の活用からすればアプレ(ab-re>ap-re)であるが、古い動詞音の名詞形からはアブレ(a-bu-re)となる道理である。(21章   子音の同化   参照)。
    「野茶坊節」という民謡の囃子歌に、
           「どーちば止まらぬ白香麝馬
            余りをなぐ(女)ぬ、止めなりゅめ
    (白香麝色のさかり雌馬は、1度駆け出すと「どー」といっても止まらない。それと同じく余り女が一旦「さかり」出すと、もう「ながれ、ながれて」、そのさすらい心は、止めるにも止めようがない)
というのがある。この「あまりをなご」(余女)というのは、俗でいう「売れ残り」というのと同じ意味である。いろいろな事情で結婚することができない、または、みずから高い所を見つめて、結婚することをいやがり、その機会を失った女である。「アモレヲナグ」を下降調に発音するならば、この「余り女」とほとんど同じ意味になる。ただし前者には「モーリュル」(まわる>もうる)という観念が含まれ「ゆらゆら」した舞衣をつけて、果てしなく、さすらい歩くといった観念が勝っているようである。
    かくて下降調の「アモレヲナグ」は、また「ヅレ」(巡礼・ jun-rei>ju(n)-re>ju-re>du-re)と同義語にもなる。
    この「ヅレ」という語自体が本来「神さかし」の巡礼から転落して、この島では「男さかし」の遊女の意味に変わっている。
    「アモレヲナグ」という語が、いろいろ観念の混同を生じ、ただアクセントの相違だけで、別様の意味を生じているところにも、社会の一階級の転落流離の姿の反映が読まれる。
     ただ、これを一貫するものは「美の流離」といおうか、または「流離の美」といおうか、とにかく、そうした言葉で表現することができるであろう。
    方言で「神ヌ生レシュル」(神の生まれをしている)といえば、侵し難い美を備えた女人を評する言葉である。「美」は、とりもなおさず巫女になる第1の資格であった。
    方言で美人のことを「キュラムン」(清ら者)という。それは、つまりは、清く流れる美であった。よどみなく流れ流れ、「神さかしにさかす」美であった。
     「でっしょ(手書)節」という民謡に、
             でっしょ(手書)始めたんが、誰(た)が始めたんが、
              やまと清らお刀自が始めさだめ。
   (文字の手習いの手ほどきして下さった方は誰であろうか。それは本土から下った来られた水の流れるように美しいご婦人の方が始めたのです)
とある。こうした、さすらいの巫女たちは、また教養の持ち主ででもあった。今日の韓国の「キーサン」などを思い合わすと、多々ますます弁ずるものがあるだろう。
     こうした巫女たちが社会機構の進展につれて「ヅレ」(遊女)へと変転して行く。まさに美の流離である。(了)



(付記)
    本稿は昭和18年に廃刊となった民俗関係の雑誌「旅と伝説」の最終号に掲載したものである。
    日本民俗学の父柳田国男先生は、この雑誌の廃刊に因み、民俗雑誌「民間伝承」(昭和19年3月号)の月曜日会便りに、わざわざ一文を掲げられ、この拙稿に触れられた。これは、この問題の今後の展開ばかりでなく、奄美の島々に今もなお、秘められている古い文化の開発の上に、この島の人たちの関心を呼び起こし、日常さりげなく看過されているちょっとした伝承の中にも、遠い遠い昔と連なり、また世界に連なる文化史的深い意義のあることをわかってもらい、この方面へ協力を促進する指針となるべき大家の言なので、ここにあえて全文を引用させてもらうことにする。

              『旅と伝説』について
   この雑誌の如く、初号から終刊まで16ヵ年以上、1月も抜かさずに読み通したものは私にも他にはない。もう4、5年も前から、編集者の萩原君に向かって、君も1人前は十分働いている。もういつ中止しても、薄志弱行と言わないよと、言っていたのも私であるが、さていよいよ罷めたとなると、何か手の物を失ったように寂しい。
   改めてもう1度、初めから読み返して見たい気がする。公平に批判してどの部分が、1番世に役立つ仕事だったかを、考えかつ説いて見たくもなる。私のところにはもう主要記事の索引も出来ているのだが、この判定は実はそう容易な業ではない。しかし、まず大まかに考えて、婚礼誕生葬祭その他の特集号を出し、また昔話号を2度までも出したころなどが、全盛期だったとは言えるかも知れない。こんなにまで多数の同志があったかと、驚くほどの人々が全国の各地から、いずれも好意づくだけでよい原稿を寄せ、いわゆる陣容を輝かしてくれたのみならず、この時を境に、それぞれの問題に対する理解常識が、目に見えて躍進したので、これを読んでいない人の言うことが、あれから以後は何だか頼りないもののように感じられるようになった。つまりは民俗資料というものは、集めて比較をして見なければ価値がないということを、実地に証明してくれたのである。
    その以外に今1つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の為に、この雑誌を通して、なかなかよく働いている。それには同郷知友の共鳴、支援ということも条件ではあったが、とにかく全16巻を通じて、奄美大島に関する報告は多く、また清新な第1次の資料が多かったということは争えない。その1つの例として手近に私の心づいたことを挙げると、第1巻の確か2号か3号に、島の先輩の露西亜文学者昇曙夢さんが、アモレヲナグすなわち天降女人の事を書いて、われわれに大きな印象を与え、また、より多くを知りたがらせていたのだが、それが約16年を隔てて最終号の中に、今度は金久正君という若い同志が、それを詳しく書いて、われわれの渇望を癒している。もう「旅と伝説」さえ大切に保存して置けば、この世界的興味のある1問題は、永久に学問の領分からは消えないのである。あるいは、それほどまで大きな問題だと思わぬであろう人たちのために、できるだけ簡単に前後2箇所に出ている天降女人の事を書き伝え、出来るならば、この上にも、もっと豊富な資料の集まって来る機縁を促したい。
   人も知る如くアモリは古語であって、天より美しい女性が降って人の妻となったという話は、日本の本土にも沖縄の島にも、また遠近の諸外国にも広く分布している。私たちの仲間では、これに天人女房という名を付与し、主として昔話すなわち民間口承の文芸として、これを記憶しているのだが、稀にはまだ伝説、すなわちかって大昔にあった事跡として、信じ伝えたものもあるのである。
   奄美大島の方にも、これを昔話とし、また伝説としてもっていることは他と同じだが、珍しいことにはそれを実在の恠異、今でも、そういう名の女性がどこかにいるものとして、おりおりは世間話の中に現われてくる。すなわちその女に出逢って誘惑せられ、ひどい目を見たという若者があるということを、夙く昇曙夢さんが語っておられるのである。この点は西洋で昔話の別名にもなっているフェアリイという者がややこれに近い。すなわち盛んに昔話や土地の口碑中に、大昔あったこととして伝えられる一方に、今なお辺隅の古風な男女の中には、これに出逢った、またはいじめられたということを、まじめに風聴する者が多いことは、これも1つだが、ただその方は話をまに受けて聴く人の癖、それに基づく一種の幻覚の類と、今までは簡単に片づけられて、第2、第3の原因までは、考えようとする者がなかったのである。
    ところが大島の天降女人のみは、なるほどと心づくようなことが別に見つかった。その実例を金久正君が幾つも挙げている。若い男たちが淋しい山路などで出逢って、だまされ誘惑されたというアモレヲナグには、大体に思い当たるような共通の型があるのだそうである。むろん目の醒めるような美しい女で、それが白い風呂敷の包みを背に負い着物の左褄を手に取り、または帯に挟み、下裳をちらつかせた、なまめかしい姿で、多くは村と村の堺の長根の辻などでたった1人行き逢う。あるいは谷間に下り清水のあるところに近寄ると、そこにヌブ(柄杓)を手に持って水を汲み上げている女がいて、それが裸形の水を浴びる姿であり、または髪を洗うところであったりする。この2つは大島の人たちに、深い説明がなくてもおよそ分かる人体で、1つは近い世まで島中を歩いていた遊女の姿、他の1つは巫女の始めて成道する時の行事であったという。
    遊女と巫女とは近世では2つ異なる職業であったけれども、前者をサカシとも言っていた1事が、系統のもと1つであったことを考えさせる。そうして本土の中世の遊女も同じように、ここでも人に近寄る表の芸は歌と語りものであったのである。巫女の普通の人から畏れ気味悪がられていることは、島の方でも変わりはないのだが彼らも年功を経て、1派の頭となるものには、やはり久しい修行時代があり、それがまた少なくとも歌舞の生活と因みがあった。すなわちこの山中の女性を、またハゴロモマンジョとも言う名があるように、もと、この昔語りを説く役は右にいう2種の職業婦人に限られ、それもおそらくは、甲から乙を受け継がれて、近世に達したのかと思われる。これが説話の主人公の品性をまで、かように零落させた例は他では聞かぬが、前から我々の注意していた小野小町や和泉式部、大磯の虎御前や八百歳の比丘尼などの、諸国数十の場所に遺跡をとどめ、もしくは実際に語りものの中に語るような事跡を、その行く先々の土地でしたように信じられていたのは、やはり伝承者と語らるる人との混同であり、それもかっては1人称をもって、語っていたことの名残リらしく考えられるのである。
    奄美大島という所は、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豊かな島であった。書いた記録というものは僅かしか残らぬが、近い百年二百年のあいだにも避ければ避けたかった実にいろいろな経験をしている。そうして全体に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機会を利用し、すぐれた人物が輩出しているのである。住民自身としては忘れた方がよいような、外の者からはぜひ参考のために聞いて置きたいような、無数の思いでをかかえて、まだその処理をつけずにいるという感じがある。このためからいうと、萩原君の如き人がもっと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出そうとする知友を糾合していてくれたらと思わずにはいられぬのだが、それはもう言って見ても仕方がない。それよりも雑誌をその時々の慰みなどとは考えずに、いつまでも、これを精読する者の、これから日本にも多くなるように、我々もどうかして残るような雑誌を作って行きたい。

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初出誌は昭和18年12月「旅と伝説」(萩原正徳編集発行)

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