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(上)  

父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)
より、第7章「天降り女人」を上中下に分けて全文収録です。(ルビ文字
は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正
ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)


   鹿児島から沖縄にかけて、天降り(あもり)川、天降り井など河川名が、ところどころ見出されるが、これにはたいてい羽衣伝説系統の話がつきもののようである。いま奄美大島をみると、ここにもアモロ(阿室)、アモロゴー(阿室川)などの地名や河川名が見出されるが、これもどうやら、羽衣系統の伝説と縁が浅くないようである。よく注意すると、この伝説は不思議に根強く部落部落の生活と結びついていたものらしく、たいていの部落は、この伝説の名残りを止めているようである。天女の出現は、これを過去における一回的事件として伝える所もあり、これを反復的出来事として伝える所もあり、なお進んでは、現在でも可能性のある事柄と信じている所もあるらしい。これに応じ、出現の場所も特定の河川から漸次随意的となり、人間が神秘感に打たれる山野なら、たいていどこにでも出現するものと伝えられている。説話として精巧なものは、徳之島あたりにあったらしく「天地あもれ」という長い口説式の叙事民謡まで残っていたらしい。(諸国民謡精査中泉芳朗氏執筆「奄美大島の民謡」参照)
    それはしばらくおき、ここでは、この伝説の大島本島における展開ぶりについて、気づいた点をのべてみる。

    さて天女のことを、この島では、部落部落により、
       アモレヲナグ(天降れ女)
       アモロヲナグ(天降女)
       アマヲナグ(天女)
       ハゴロモマンジョ(羽衣美女)
などの呼称にて伝えられ、話の内容も部落により多少の出入りがあるようだが、だいたいにおいて、二つの型に大別することができる。いまこれを若干の実例によって示してみる。
    1型―宇検村阿室の阿室川では天女が時々天から下りて来て、水浴洗髪した。その洗髪の日は、村人は謹慎して、外出しなかった。毛髪の長さは上流から下流までもあったという。(中島吉応氏「郷土調査」)。古仁屋町嘉徳のウックンコー(奥河)では、昔ハゴロモマンジョが水浴洗髪したという。村のある女が河端で洗濯か何かしていると、川上からサバキ(捌櫛)が流れてきたので、これを拾い上げて上流を窺うと、ハゴロモマンジョが雪の素肌を、あらわにして水浴洗髪していた。この女はサバキを持ち帰り、これで自分の髪を捌いたら、たちまち一丈ばかり伸びたという。
    次は鎮西村諸鈍であったという話。アモレヲナグが天から下りて来て、諸鈍のある山の中の美しい泉で笠蓑を片辺の樹枝にかけ、長い髪を竿に打ちかけながら水浴洗髪していた。たまたま通りがかりの百姓がその笠蓑を見つけ、持ち帰ろうとすると、アモレヲナグは駆けつけて、これがなければ天に昇ることができないから、ぜひ返してくれとねだる。百姓は応ぜず、これを盾に、トシノミト(年の三年)自分と暮すなら返すという。アモレヲナグも、今やせんすべなく、本意ならずも、この百姓と暮すことになった。そうこうしているうちに、三人の子供をあげることになる。しかし笠蓑は、まだ天女の手には帰らない。ある日のこと、夫の百姓が畑打ちに出かけた留守であった。たまたま末子の子守をしている長子が、背中の赤児をあやしながら「ヨーファイヨー、ヨーファイヨー、泣くなよへー、阿母(あんま)が飛び笠飛び蓑や父(ぢふ)がヨー、倉ぬ上なん、揚げてあっど、泣くなよへー」となにげなく歌っているのが、母たるアモレヲナグの耳に入った。これによって、今までわからなかった自分の飛笠、飛蓑の所在を知った天女は、早速、三人のわが子を呼びよせて、年長の二人は両脇に抱え、末子の三つになる子は膝の上に乗せ、いろいろとなだめて将来の身のふり方などを訓戒し、末子の三つになる子には、大きくなったら、アジガナシ(阿自加奈志、殿様ほどの意。豊後国風土記に「日下部君等の祖オホアジ(邑阿自)」とあるを参照)になって、天に昇って来るようにといい含め、笠蓑を手にするが早いか天に駆け昇ったのである。天に昇ってから、アモレヲナグは地上に残した三つになる末子のことが忘れられず「ナツグレ〔夏雨)も雨やあらぬ、吾(わ)涙(なだ)ど有(や)ゆる。冬のシグレ(時雨)も雨やあらぬ。吾(わ)涙(なだ)ど有(や)ゆる」と歎きながら、しきりに、末子のことを案じていたとのことである。 (金久ヨシ語る)

        ()この説話は、やや簡略に過ぎ、中断の節が多いようである。この際長子二人は地上に残されたのか否か曖昧であるが、この島には、末子がある事件のため、一人取り残され、それが後には大きくなって、氏族ないし部落の始祖となったといういい伝えが多々あるから、ここでも長子二人は母天女とともに天に昇ったのであろう。「天地あもれ」口説ではそうなっている。

   2型―アモロヲナグ1名アマヲナグ。これは天から下りて来る女で、場所はたいてい、川上や山間の泉、その他どこでも人が暫し足を止める山野の神秘感をそそる佳境に下りて来る。アマヲナグが下りる時は、いかなる晴天の日でも小雨が降り、その雨とともに姿を現すという。このアマヲナグは天から異性を覓(と)めて降りる女で、地上に現れる時は、年のころなら17,8,20くらいに見え、人間の住む下界では見ることのできない、目もさめるような清(きゅ)ら女だという。きれいな衣服を着てはいるが、不思議なことには、どのアマヲナグも、必ず白風呂敷の包物を背負い、着物の左褄を手にとるか、あるいはまくりあげて帯に嵌め、下裳をちらっと覘かせ、まことになまめかしい姿である。なぜそんな姿で現れるかといえば、異性を覓める女であるから、男に会った際、その心を蕩けさせ、誘惑する手段であるという。このアマヲナグは幽霊とは異なって、全身をはっきりと現し、男に逢えばニコニコ笑って近づくので、その愛嬌といい、物腰といい、まったく魅せられるので、用心の悪い男なら一時に参って、抱きつくほどであるが、抱きついたら最後生命は亡くなり、アマヲナグはさも得意らしく、その魂を伴って天へ昇る。これに出逢う時は用心して、その誘惑にかからないように、ニコニコ笑っている相手を睨みつけなければならぬ。そうすれば、根負けして、男のすきを見はからって消え失せるという。
    (イ) これは笠利村節田部落であったという話。ある男が山へ薪取りにいき、薪もたくさん採り、もう帰ろうという時にあまり喉が渇いてしかたがないので、あとで下の谷間へ下って水を飲もうと独言しながら汗を流し流し、うつむいて薪を束ねて、ふと顔を上げた瞬間、数間向こうに、それはいままでみたことのない年のころ17,8の目もさめるばかりの美人がヌブ(柄杓、ひさご)に水を入れ、ニコニコ笑って立っている。だんだん近づいて3,4尺手前まで来て止まり、その方へ水を上げましょうといって、持っている水を差し出した。その男は、まさか人間が、しかも見知らぬ絶世の美人が、一滴の水もない長峰で、水を持ってくるとは不思議、きっとかねて話に聞くアマヲナグに相違ないと思って、それから、にらみつけること約10分ぐらい、相手は消えるには消えられず、どきまぎしているようすだったが、男が腰の手拭を取り顔の汗を拭く瞬間に消失していたという。(栄武二君報)
    アマヲナグが水を柄杓に入れて持って来る時は、手の平を下にして杓の柄を押さえるようにして持っているから、その場合は絶対に飲んではならぬ。そんな場合に飲めば、命は亡くなり、魂は天に連れられていく。手の平を上に向け、杓の柄をささえるようにして持っている場合は、飲んでもさしつかえないが、そんな持ち方はめったにしないという。
    (ロ) これは笠利村赤尾木にてあったという話。24,5歳の1青年が、山に入って建築材を伐り、休憩していると、雲1つない日本晴なのに、少し雨が降ったかと思うと、これに応じ、男の2,3間前に、アマヲナグが忽然として現われ、ニコニコ笑って近より、なまめかしい姿態でいうことには、自分と夫婦になってくれとのこと、独身者のこの男は、たちまち魅せられて、これに応じ、ついにその場で完全な夫婦関係まで結ぶに至った。女のいうには、自分は一緒に村へは行くことはできない。3ヶ月目の10月8日に、ここにまたきてくれとのことで、その日はそれで分かれ、男は所定の日のくるのを千秋の思いで待っていると、やがてその日がきた。未明から起き出で、例の場所へ行くと、女の方は、すでに男よりも早く、その場所にきて待っていた。男はまた要求したが、この時は女は応ぜず、自分は今身が二つになっているから今日は免じてくれとのこと、またの会う日を約して、女は立ち去ったので、男も泣く泣く村へ帰った。次の定められた日に例の場所へ行ってみると、女はまだ来ていない。どうしたのだろうと気をもんでいるうち、小雨が降ると同時に女が現われた。見ればきれいな女児を抱いている。この子はあなたの子だから村へ連れ帰って育てて下さい。しかし自分と夫婦になっていることは絶対に誰にももらしてはなりません。と口止めして、アマヲナグはその子を男に渡して立ち去った。それから何年かを、この場所で次々会う日を定め、同様な夫婦関係を結んでいるうちに、三人の女児をもうけ、男は自分の家に連れ帰って育てていたが、いつしか、あの男は妻もいないのに女児三人も家にいる、という声が村中に広がり、そのわけを村人にねだられるままに、男はうっかりこれを口外した。さあ! こうなると怒ったのはアマヲナグで、口止めを破ったというので、早速その男の一命を奪い去った。三人の残された娘は美人で、現在も達者であるという。(栄武二)
   (ハ) これは大和村大金久部落であったという話。ある高等小学2年生の男―この男は山路を越えて通学していたが、ある日の学校帰り、山中の小川を通りかかると、若い美しい女が丸裸になって、河上で水浴している。よく見ると、女はニコニコ笑っているので、この生徒も面白がって、いろいろと口をきいたりしてつい迷わされたが、どうにかして、ようやく家までたどりついたものの、その晩から大熱を患い、長いあいだ寝こんでいたが、運よく助かったという。(栄武二)
    (二) 大和村大金久部落と隣の戸円部落の間にある峰山という山路には、時々アモレヲナグが出るといい伝えられる。大金久のある男が、ある日の夕刻、戸円から帰る途中、この山路で若い美人に出会った。女がまず口をきいてどちらにいらっしゃいますかとたずねると、男は大金久に帰るのだと答えた。女は自分もその部落に行くのだが、では一緒に参りましょうかといって、先になって歩き出し、だいぶ歩いた先の分かれ路のある所まで来ると、女は他方の道を通って、さっさと、山へ登るので、男があなたは道違いではないですか、大金久へ行く道はこちらですよと注意すると、女は形相を変え、恐ろしい目つきでにらみつけるので、男は恐ろしくなって身ぶるいをし、夢中でわが家に駆け戻ったが、気を病み、2,3日して死んだという。(栄武二)
    天女も、ここまでくると、一種の幽霊に近づいてくる。はたして、主として、大島南部では、アモレヲナグといえば、白風呂敷を背負った女幽霊で、部落間の長根のツヂ峠などに雨曇りの日によく現われるという。


   さらに進んで、この島の部落間の長根などには、アマヲナグとは呼ばれないが、やっぱり白風呂敷を背負う女幽霊が現われると伝えられる所が多く見出されるが、その中でも最も顕著なものは今女(いまじょ)の亡霊である。
   今女(いまじょ)とは、古仁屋町嘉鉄部落のある物持ちの家に抱えられていたヤンチュであった。ヤンチュとは、1にケニン(家人)とも呼ばれ、いわば一種の農奴であり、豪家に抱えられて酷使されたと伝えられ、特に女家人については数数の哀話が残されている。もっともヤンチュなる語は、ヤノヒト>ヤノト(屋人、家人)から転訛した語である。
    家人の今女は、こよない美貌の持ち主で、村の評判者であった。やがて主家の旦那の思い染めるところとなり、これに気づいた家刀自の嫉妬うわなりは火と燃え、ついに家刀自は、奸策を弄して今女をサスィンヤ(差屋、物置倉)に誘いこみ、錠を下して逃げられないよう幽閉し、あとで焼火箸を持ってきて残酷にも、そのホトを突き刺し死に至らしめた。非業の最後をとげた今女の怨霊は、この物持ちの一族をトリ(奪い)根絶やしにし、今も時々現われて、自分のヒキハラ(引原、血筋、縁者、一族)に障りをなすと伝えられる。部落の人々は今でもこれを恐れ、噂をすれば影とやらで、決して今女のことを口にしない。したがって、これを記録にとどめた者もないらしい。筆者もややその環境の中に育ち、今女の話は、子供の時分から聞いているので、かく書きつけることによって「無意識」世界の歴史が、いつかかる仮幻を現出せんとも限らぬが、そこは広く江湖の供養を冀うが故に、かえって今女の霊もさぞかし安泰を得るものと信じる。
    今でも古仁屋と嘉鉄の間の山路では、今女の亡霊に悩まされることが、時々あるといわれている。その亡霊が現われる前には必ず生ぬるい一陣の風が吹く。と同時に白風呂敷を背負うた女が道の向うから姿を現わしてくる。これは今女生前そのままの姿である。たいていは雨曇りの日などによく出会うという。よく酔っ払いなどが、夜この山路で今女に崖から押し落されたという話はちょいちょい噂にのぼる。今女の墓の上か、あるいは側かよくは知らぬが、とにかく笹竹が植えてあって、「イマヂョ、アフェルナヨ」(今女すたれるなよ)といいながら、この笹をゆさぶると、今女はかならず白風呂敷を背負って現われてきたという。今女の霊は鎮まるところなくさ迷い歩くが、向かいの「かけろま島」にも、ある小舟に便乗して渡ったことがあるが、ここにはクチ(口、呪言)を知ったものがいて、うまく帰したという。人の家も訪れることがあるが、その立ち去った後を見ると、さし出した茶うけなどは、口にしたと思いのほか、その座敷にかならず残っているという。古仁屋町に元あった竹之内商店へは、ある女が夜買物にきて、白布か何かを求め立ち去ったが、後で見ると、受け取ったのは札と思いのほか木の枯葉であった。さあ大へんと丁稚は追い駆けたが、女の姿はさらに見えない。気がついてみると、持ち去ったと思った白布もそのままその場に残されていた。これが今女の亡霊だったということで30年近く前、古仁屋では大きな噂の種になったことがある。その他今女譚は、数限りなく撒かれているが、最後に嘉鉄であったという譚2つを掲げておく。
   今女のヒキハラといわれるある女が、河で洗濯して帰る途中、白風呂敷を背負うた女に会った。見れば、水に浸ったらしく腰から下は濡れて、下裳をバタバタいわせている。その女のいうことには、「チキャウチ、ウェヌヤーナンテャ、ソウドウグトヌ、アッド」(近いうち、上の家では、騒動事があるぞ。もと、この島では、部落を上中下に区別し、山の手の方を上、海近くを下と呼んだらしい。上ぬ殿内、中の殿内、下の殿内などの呼称が残っている)とのこと、妙な女もあるものと、行き過ぎた後を見返ると、もうその姿は見えなかった。今女だなと感づいて、気味悪く思って帰り、どういうことになるのだろうと気を病んでいると、はたして数日経って、その家の幼児が、火にくばって大けがをしたという。もう1つは、嘉鉄の青年たちが、ある時ヨアソビ(夜遊び)をして、浜に数人いると、白風呂敷の女が向こうからやって来るようである。はて、今女だなと、一同鳴りを静めていると、近寄って来る。恐怖を知らぬ青年のことであるし、中には、いたずら好きの者がいて、これに石を投げた。とみるみる亡霊は所を得て消失した。やがて一同は、それぞれ自宅に引きあげたが、この石を投げた者の家では1晩中馬屋の駒が騒ぎ、家中の者は、メンスュカブテ(安眠を妨害されて)一睡もできなかったということである。ここまでくると、もう著しくケンモン譚に近づいてくる(拙稿「ケンモン」参照)。いずれにしても、今女が、実在の人物で、家人として、しかも美人ゆえに、人の世のあらゆる辛苦をなめ、苛酷な笞の下に非業の最後をとげたことだけは事実らしい。これもまだ12世紀を出ない前の出来事であったらしく、その亡霊出現の俗信は、今日でもなお生々としている。この今女の幽霊によって代表されるこの島の白風呂敷の幽霊は、たいてい非業の死に方をした若い女性たちの姿らしい。
(つづく)

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初出誌は昭和18年12月「旅と伝説」(萩原正徳編集発行

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