父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第2章「「みや」(宮)「あしゃげ(足騰宮)および「とねや」(刀禰屋)」を3回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)

(上)
 奄美大島は山がちで、海岸線まで山が迫っている箇所が多く、そのあいまあいまを飛び飛びに平地があって、ここに部落ができている。それで部落から部落に行くのには多くの場合、一山を越さねばならぬ。今日の行政区画としては、こんな部落部落は、一つの村の字または小字になっているが、通常語では、こうした部落部落を「ムラ」とよんでいる。これは村の本来の意義に添うものである。そこで、ここでは、こうした部落部落を、その本来の意義に添って村と呼ぶことにする。
 この島の部落すなわち村は、ほぼこれを上・中・下に小区分する習俗があったらしい。村の奥の山手の方の人家の群を「上村」、中間のそれを「中村」、海岸近くのそれを「下村」と呼んだらしい。これは民謡によって想像されるのであるが、これよりも、もっと通俗的な呼称は、「上(うえい)ブラレ」 「中(なは)ブラレ」 「下(しゃ)ブラレ」である。「ブラレ」は「ムラワカレ」(村別れ)のなまりで、村内部の人家の一集団を意味する。
 また村々には、大殿内(うふとのち)、上殿内(ういんとのち)、下殿内(しゃんとのち)などの呼称も残っているが、これは村の主だった人のお屋敷を表わす言葉で、上ブラレにあるのを上殿内(ういんとのち)、下(しゃ)ブラレにあるのを下殿内(しゃんとのち)と呼んだのであろう。「とのち」 「とのぬち」(殿内)という語は、古事記によく用いられてある語である。この村の上、中、下の区分は、ただ地域的なものばかりでなく、そこには、世代的分化発展もうかがわれるのである。

 今日では、この島の村々に足を踏み入れるものが、誰でも気づくことは、どの部落でも必ずその適当な場所に、かねてはミヤー草(宮草)などと称する草などの生えるに任せて、顧みられないといった空地のあることである。部落によっては、この空地の一角に、村の寄合所、または青年会場などが建てられている所もある。この空地は、その部落の年中行事に使用する場所で、そのつどこれを清掃して、この島で盛んな十五夜の日の角力や、八月踊りなどがここで行なわれるのである。
 この空地の名称は、部落によって、ミャー、マー、フンニャなどと呼ばれている。ミャーは、もちろん「みや」(宮)のなまりで、フンニャはウフミヤ(おほみや=大宮)のなまりで、「おほ」は美称であり、マーはミャーの再転音である。
 奄美本島下方では、ほとんど、すべての部落が、この空地をミャーと呼んでいるが、本島上方では、もうこの呼称は忘れられている所が多い。
 上方の戸口部落では、この空地をミチグリ(みすぐり)といい、喜界や徳之島のある部落では、これをウンガ(御所)、ユカリバ(由緒場)などと呼んでおり、この空地の本来の姿を暗示しているのは興味の深いことである。
 ミヤが本来この空地を意味したのではなく、この空地に立てられたほこら(祠)を指したものであることは、徳川の末葉この島に謫居した薩摩の志士、名越左源太のものした南島雑話を見ればすぐわかる。それには奄美本島南部伊須部落に立っていたという、ミヤと称する祠(ほこら)の絵図が書かれ、次の説明が掲げられてある。
 「美彌ミヤ宮也、於頓能呂久米の神を祭る場所一間切に一ヶ所有り。茅を以て作り広さ十数敷の小屋有り、如図卒図場に似たるもの一両本立ち、白木造り文字なし、東間切伊須にて見処如是」。

 部落によっては、今日でも、このミヤと称する空地の一角に、アシャゲと称する「ほこら」の立っているところがある。これも奄美本島下方の部落に多く見出される。
 このアシャゲなる語が、古事記に現われる「あしひとつあがりの宮」の略音転訛語であることは、もう疑いをいれないところである。古事記中巻のはじめに、「神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)の命(みこと)、その同母兄五瀬(いろせいつせ)の命と二柱(ふたばしら)、高千穂の宮にましまして議(はか)リたまはく、『何(いず)れの地(ところ)にまさばか、天(あめ)の下の政(まつりごと)をば平(たいら)けく聞(きこ)しめさむ。猶東(なおひむがし)のかたにこそ、行(い)でまさめ』とのたまひて、即ち日向(ひむか)より発(たた)して、竺紫(つくし)に幸(い)でましき。かれ豊国(とよくに)の宇沙(うさ)に到りませる時に、その土人(くにびと)名は宇佐都比古(うさつひこ)、宇佐都比売(うさつびめ)二人、足一(あしひと)つ騰(あがり)の宮を作りて、大御饗献(おほみあえたてまつ)りき。」
 とある。
 いま、加計呂麻(かけろま)島の東部にある諸数(しょかず)部落のミヤの一角に立っているアシャゲの構造を見ると、二間角の茅葺きの小屋で、西方の真中に戸口があり、また北方の両側に小さい入口があり、締める戸はない。周囲は板壁で、上部は全部明(あ)いている。床(ゆか)は全部板張りになっている。これですぐ思い合わされるのは、古事記に表われる八尋殿(やひろどの)である。一尋を五尺または六尺とすれば、二間四角は八尋になるからである。木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)のお産の様を記した記事をここに引用してみる。
 木花佐久夜比売(このはなのさくやびめ)、参(まい)いでて申し給はく『あれ妊(はら)めるを、今子産むべき時になりぬ。この天神(あまつかみ)の御子(みこ)、わたくしに産み奉るべきにあらず。かれ、申す』と、申し給ひき。
 かれ、詔(の)リ給はく、『佐久夜毘売、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める、そは、吾(あ)が御子(みこ)にあらじ、必らず、国(くに)つ神(かみ)の子にこそあらめ』と詞(の)り給へば、『吾(あ)が妊(はら)める御子(みこ)、若(も)し国神(くにつかみ)の子ならむには、産(う)むこと幸(さき)からじ。若(も)し、天神の御子にまさば、幸(さき)からむ』と申し給ひて、即ち戸無き八尋殿(やひろどの)を作りて、其の殿の内に入りまして、土もて塗(ぬ)り塞(ふた)ぎて、産みます時に方(あた)りて、その殿に火をつけてなむ産みましける。
 とある。
 また部落によっては、このミヤと称する空地にトネヤと称する小屋の立っている所もある。この語源を古典に求めるならば、大鏡に「里の刀禰村の行事出で来て、火まつりや何やとわずらはしくせめし事、今は聞えず」とある。里の刀禰は村里の長のことであろうから、「トネヤ」は村里の長の屋敷ということになる。
 前に掲げた諸数部落では、ミヤと呼ばれる空地には、アシャゲと呼ばれる祠が立っていて、この空地の上にではなく、その近くに、トネヤシキというのがあって、今日では、個人の屋敷になっているが、昔は、ここに神官ノロが住んでいたといわれている。
 加計呂麻島西方の薩川部落では、ミヤと称する空地の上に、アシャゲと称する小屋と、トネヤと称する小屋が二つ並んで立っている。古仁屋の西方にある篠川部落には、ミヤと称する空地に、二つの小屋が立っていて、一つは石台の上に柱をのせて作られた二間四角の小屋であるが、一つは柱を地中に埋めて作られた四方開きの小屋である。前者は、「トネヤ」と呼び、後者には名はない。二つのこの小屋の作り方は、何だか、「あし一つあがりの宮」がどんなものであったかを暗示しているようにも思われる。
 本島上方の名瀬市に入っている大熊部落は、「ノロ」(神官)が今日でも命脈を保っているので有名であるが、この部落では、角力をとったり、村の年中行事をする空地は、もうその名前など忘れられて、ただ集会場などといっているようだが、この部落では「トネヤ」と称する祠が、上述の空地とは別に、部落の上方にあり、今日でもノロの神事が行なわれている。大和村の大和浜でも部落の山手には「上(うい)ントネ」というのがあり、海寄りには「下(しゃ)ントネ」というのがあり、ノロの神事が催されているとのことである。
 上(うい)ントネは山神を祭るところであり、下(しゃ)ントネは海神を祭るところであるといわれている。

 さて、大島本島の大きな部落内部の地名を調べてみると、ほとんど共通するところは、多くの部落が、その奥まった山の手すなわち「上ブラレ」を、さと(里)と呼び、海岸近く、すなわち「下ブラレ」は、かねく(金久)と呼んでいることである。
 こうして、さと(里)という語が固有名詞化していった過程から考えても、ここが、その部落内部では、はじめて人間が平地居住を始めた場所であろうことが想像される。村の人口が増すにつれて漸次海岸地域にまで、人家が立つようになったのであろう。たとえば諸鈍部落を一例としてあげるならば、この部落は西に開け、諸鈍湾に面し、三方が山に囲まれ、山の手は、平地が東より南に少し奥まって、中田川という川が、南の山地に発し、コーチ(河内)から、この川に添って部落の中央までの一帯は田圃で、コーチの近くの山の手に里と称する住宅地があり、西南の海岸寄りに金久と称する住宅地帯がある。部落の北の山寄りには、太田およびその海岸寄りには、クリ(繰)と称する「ブラレ」がある。この金久と称する「ブラレ」は、四、五〇〇年前には、もう十分に開けていたらしく、琉球が大島を征伐したとき、琉兵が駐屯していたという場所が残っている。この諸鈍を見ると、部落の勢力が山の手から海岸地帯に移っていったようすがよくわかる。
 今日では、この部落のミヤと称する空地は、この金久「ブラレ」にある。多くの他の部落でも大同小異で、今日では、このミヤと称する空地は金久で代表される海寄りの地域にあると見てさしつかえない。
 諸鈍部落の今日のミヤには、もう、祠はないが、私の祖母の時代には、ここにアシャゲと称する祠があって、ノロの祭りもあったらしい。ところが面白いことには、この「上ブラレ」の里には、「ミャード」と称する空地が今もあって、ここには、昔「アシャゲ」があった所といい伝えられ、開墾したり、その樹木を切ったりすると、「ものさわり」があるといわれ、今日では、捨てて顧みられない一区画のあることである。もう今時分は、ここも、切り開かれていることと思う。
 これで容易に想像できることは、この「ミヤ」と称する空地は、もともと、里によって代表さるべき山の手「ブラレ」にあったものが、部落の中心が山手から海岸地帯に移るにつれ、「ミヤ」も「金久」によって代表さるべき海岸寄りの地域に移されていったのであろうということである。諸数部落は小さな部落で、もう里などと称する「ブラレ」名はないが、やっぱりミヤは海岸地帯にあり、今日でも、ここに「アシャゲ」と称する祠があり、村の祭りの時には、ここで「大みしゃく」(大御酒)を振舞うが、また山の手には、「ミャード」というものがあり、ここには、その昔、「アシャゲ」があったといい伝えられている。この「ミャード」は「アシャゲ」が立っていた所であるということは、注目すべきことである。
(つづく)

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                                 ホームへ        更新日/2001年6月2日  

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