父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第2章「「みや」(宮)「あしゃげ(足騰宮)および「とねや」(刀禰屋)」を3回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
(中)
 この「ミャード」という語は、私の最も興味ある語の一つで、その含んでいる概念をつきつめるとこの島の祭事が、どんなに発展してきたかを究明する上に一つの手掛りを与えてくれる。
 今日、「ミャード」と言う語は、一般化し、普通名詞化し、いいかえれば、比喩的意味になって、「部落内部の平地または丘陵ならばどこでも、木ブスが立ち、草などに覆われ、神がかっていて、ここを耕したり、その草木を刈ったりすると、タタリがありそうな感を抱かしめ、タブー化され、または神聖化されている荒所」を「ミャード」といっている。「木ブス立つ」ということは、樹木が下ばえを出して、繁茂することである。
 これからして「ミャード」とは、本来里によって代表さるべき部落の山の手の「ブラレ」の所にあった祭事場で、そこには「アシャゲ」と称する祠が立ち、まわりは樹木で覆われていた所を意味したであろうことが明らかになる。これが部落の発展と共に、村の祭場が、「金久」によって代表さるべき部落の海岸寄りの「ブラレ」へ移されるにつれ、ノロ宗教の独特な発展、その他の事情によって、この「ミャード」の観念にも分化が生じ、一方では、建物で強調され、一方では地所柄が強調されて、今日の「ミャード」の比喩的意味になったものと思われる。
 「ミャード」とは、つまりは、「ミヤドコロ」(宮所)の意味であろう。この「みやどころ」の特色は、「木ブス立つ」という所である。ノロ宗教の独自の発展は、やがて、この特色を忘れさせるようになり、祭場の移動するころは、もう、ただの空地に「アシャゲ宮」を作り、これをアシャゲとかミヤと呼んでいたのが、後には、この二つの語も意味の相違を生じ、「ミヤ」は、もっぱら、この空地を意味するようになったのではあるまいかと思う。
 南島雑話に見える伊須部落の例からして、「ミヤ」が本来祠(ほこら)そのものを意味することは明らかであり、これからして、アシャゲがまたアシャゲミヤ(あしひとつあがりのみや)を下略して呼んだ言葉であろうことも容易にうなずける。
 今日、この空地に対し、ミャーと呼ぶのは、「ミャード」の連想もあったろうが、「ミャード」という語が、前述のように、比喩的に意味が分化したので、これと区別する必要もあったのであろう。いずれにしても、今日のミャーは、固有的意味の本来の「ミャード」と、同義語であるとみることができる。

 今、便宜上日本本来の宗教事象を、神道と呼ぶならば、これは大別して、原始神道と神社神道に区分することができるであろう。
 神社神道は原始神道の再組織化されたものとみることができる。これは一般論で、中間の発展段階層は、しばらくおくことにする。
 この南の島々の原始宗教事象は、この原始神道の領域に入るものであるが、これが近古時代、琉球が独立国の様相をとるに及び、なお尚真王時代に宗教の再組織化が行なわれ、祭政一致の制度につれて、ここに、宗教的新しい発展がみられるにいたった。
 この南島において、再組織化された宗教を仮りに、ここでは「お森神道」と呼んでみることにする。この「お森神道」なるものは、原始神道の域を脱しないもので、まったくシャーマニズム的であり、ノロと称する巫女によって、神事に関しては絶対権を有し、村の政治、個人の経済活動にいたるまで、すべてノロを通じての「神託」によって行なわれた。民衆は、ただ神のタタリを恐れ、ノロを生き神としてあがめた。
 今日部落部落には、「神山」 「オボツ山」 「をがみ山」などと呼ばれる森が部落の脇の山の一角にあり、昔ノロやその下の巫者たちがノロ祭りの際は、ゆらゆらした絹の羽衣をまとい、曲玉をはき、頭には蔓をかざし、諸神に扮して「小袖御袖」をふりふり、この神山から列をなして下りて来て、浜下りをなし、「アシャゲ」に「神つどい」して、「おもり」(神歌)を唱したという。男子禁制の宗教で、一般大衆は、この神の行列の時は、土下座して頭を上げることは許されなかった。もちろん、ノロの祭りは深夜に行なわれた。
 このタブー化され、「神山」とか「をがみ山」とか称する森こそは、一般大衆にとっては、宗教的祈念礼拝の対象であったであろう。なぜならば「拝み山」といっているからである。それで私は、この南島の再組織化宗教を「お森神道」と仮りに呼びたい。
 奄美大島は、西暦一二六六年琉球王国に服属して以来、西暦一六〇九薩摩に所属するまで、約四世紀近く、この「お森神道」の文化圏内におかれた。
 かく原始神道は、日本本土では、神社神道となり、南島においては、お森神道となったが、お森神道はより多く原始神道の要素を含んでいるように思われる。
 奄美大島では、西暦一六〇九年琉球の支配を脱して、薩藩の治下におかれるようになっても、このお森神道は、すたれずに、新しくうち寄せて来た神社神道文化の波に影響されて、これに同化し、その本然の姿は、だんだん失われたが、今日もなお、部落によっては、その命脈を保っている。
 この事実によっても知られることは、「お森神道」なるものが、琉球王国によって創設されたものではなく、この南島に行なわれていた自然発生的な宗教事象を、尚真王の時代に、組織化し、制度化して、行政治安の具に供したまでで、この島に勢力を振るっていた「ノロ」と称する巫女も、このころに始まったものではないだろうということがわかる。
 「ノロ」と称する巫女の名も、この「お森神道」前からあったものではあるまいかと思われる。

 さて、この島の里によって代表さるべき「ブラレ」の中央にあった「ミャード」は、いちじるしく原始神道文化をしのばせるものである。「ミャード」はすなわち「宮所」で、ここには、神の「ヨリシロ」としての草木が茂り、その一角に「アシャゲミヤ」が祭りに応じて立てられたであろう。その近くには、村里の長の屋敷があり、これを「トネヤ」(刀禰屋)といったのであろう。村里の長は、里のとね(里の刀禰)と呼んだのであろう。
 さとの刀禰は、村の政治を行ない、その「をなり」に「アシャゲミヤ」においての祭りを、行なわせたであろう。
 大鏡の「里の刀禰村の行事出で来て、火まつりや何やとわずらはしくせめし事、今は聞えず」とあるのは、興味あることで、奄美本島の南の瀬相という部落で、徳川の末ごろまで、その部落の「ミヤ」の一角に立っている「トネモト」には、火の番人の夫婦が住んでいたとのことである。
 昔マッチのなかった時代は、火を治めるものが、村を治めるものであった。火の用心とは、火事のこともだが、もっと切実なのは、火を消さないで、「ジロ」(地炉)に生けておくことであった。そうすると、翌朝になると、村の各家々から炊事のための火をもらいに来るのである。
 これで想像されることは、昔は、この火をたやさずに継ぐのは、「さとのとね」の大きな仕事であったと思われる。したがって火祭りというのは一番大切な行事であったであろう。
 これが、「お森神道」時代になると、祈念、礼拝の重点が一歩部落の脇の神山の森に移って、神社神道では、山腹高陵の神殿へと移っていった。
 この時代には、「トネヤ」は、部落の「まつりごと」の総元締めであるノロの住居を意味するようになったであろう。アシャゲミヤは、もっぱら「ノロ」の祭場となり、一般大衆の祈念とは、縁遠くなり、やがては、「アシャゲ」と「トネヤ」も混同されるようになったものと思われる。
 かくて、明治維新以後お森神道のすたれた部落では、「アシャゲ」も「トネヤ」も廃され、「ミヤ」と称する空地のみを残し、またこの空地の名も失われるようになった所も多くなった。

 神仏混淆的神社文化の波は、特に慶長ごろより、いちじるしくこの島の岸を洗い、この島に残る平家落ちのびの伝説などに基づいて、平家の公達を祀る神社が、部落の一角の山麓に立てられ、また、いろいろな神を分祀する祠が立てられて、これをすべて「寺」と呼ぶようになった。この寺には、赤い鳥居がいくつも立てられ、「シメ」が張られ、これを礼拝するには、線香を立て、ローソクをとぼし、「かね」を叩くなどといったぐあいで、まったく仏を匂わすものであった。こうした「てら」が、やがては、部落のアシャゲに変わり、氏神祠ともなり発展した。
 この神仏混淆の神社文化は、この島でも、その伝統は古いと思われるが、文献が残っていないので、これを明らかにすることはできない。権現というものが方々にあるが、これなどは、相当古いものらしい。私の知っている「てら」で一番古いのは、古仁屋の近くの清水部落のそれである。これは、どうも、元禄十四年にできたものらしい。明治以後、神社神道も、またその本然の姿で、この島に波及し、こうして、名瀬市と古仁屋の高千穂神社が創立されるに至った。

 次に、この各村々で、最初に人家のできたと思われる、山の手の「ブラレ」すなわち里という名称によって代表される「ブラレ」の中央にあった「ミャード」と名づけられるマーロ(まほろば)について、もう一時代溯って考えてみよう。
 人間が平地に住むようになったのは、どうも「水田」農耕と関係があるらしい。人間がまだ水田農耕を知らず、自然の果物や魚介を拾って、ようやく婦女子の手で、食べられる植物を育てることを知っていた程度の時代には、人間は、竪穴式の住居を構えて、山間に住んでいたのであろう。
 この時代は、大家族的母権時代で、それだけ、女子はすべて、巫女的性質をもっていたものと想像される。この島の表現を用いるならば、彼女たちは、すべて「ノロ」であり、山間の穴住宅の中心部に、空地を設け、ここで、仙女のような、祭りの舞踊を円陣式に行なったものと思われる。
 今日、昔ノロの「あそび場」であったといわれる山上の平地などが残っているのをみると、こんな穴居時代を予想しないわけにはいかない。また今日、奄美嶽の麓あたりに、穴居の跡らしいものが残っているのも興味深いことである。
 水田農耕の流行とともに、人間は、そろそろ山から下りて、はじめ「里」に住み「ミャード」を、ここに作り、祭事は「山幸」、「海幸」の祈念から、「豊作」の祈念へと重点を移して行なったものと想像される。
(つづく)

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                                   ホームへ          更新日/2001年6月5日   

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