父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第2章「「みや」(宮)「あしゃげ(足騰宮)および「とねや」(刀禰屋)」を3回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
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 最後に、この「アシャゲ」という語が、南島文化の緩衝圏とみるべき瀬戸内地方に、根強く残っていることは興味のあることである。私の直感からすると総じて奄美文化は、九州南部よりも、九州北部と類似するところが多いような気がする。これは、精しく調査したのではないから、反証があればそれまでだが、方言の上からみると、どうも、そうとしか思えない。何よりも不思議なことは、薩摩に三百年も服属しながら、方言はもちろん、すべての文化面において、ほとんど何らの感化も受けていないことである。
 「アシャゲ」などという語が、この島に生命を保ったことなどから考えて、古代に、「宇佐文化」とでも名づけるべき神道文化が、勢力を張った時代があったのではあるまいか。奄美大島は、西暦九世紀の初頭までは、大宰府の管下にあったらしく、また今日の大分県の地名にも海部郡などという地名があり、また、その沖には、海見という小島があって、その名前が奄美と類似しているのは、何かの因縁を示すものではあるまいか。また、魏志によれば、昔九州の北部には、邪馬台という国があって、その女王に巫女の卑彌呼という者がおり「鬼道を事として衆を惑し、年長大にして夫婿なし。男弟有りて助けて国を治む」とあるが、この南島の「ノロ」には、この卑彌呼の反映がみられることも興味の深いことである。

 (追記)
 ここで、この島の「むら」(村)または部落におけるミヤ(御屋・宮)の沿革をもっと考え、それによって神社神道とお森神道の形態的発展の主なる相違点を想定してみたい。
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 例えば、ギリシャ神話に、ギリシャの一王子ゼイソンが、ギリシャの英雄たちの協力を得て、東の国の樹枝に懸っている「金の羊毛」を取りに行く話があるが、この際ゼイソンは、「物をいう木」の生えている所に行き、ジュノーの女神の加護を祈り、その託宣によって、松の船を造り、その舳先(へさき)には、物をいう木の枝を切って似顔の形に刻んだものをつけ、この船に乗ってジュノーの女神の加護あらたかに、無事「金の羊毛」を取って帰国する、とあるが、これによっても暗示されることは、「神は樹木に懸るもの」という信仰が、古く一般にあったのであろう。またこの神話は、羽衣神話をも思わせるものである。
 特に原始神道では、奥山の山上や、清泉のほとりの「もり」(杜・森)は、神の降臨する所、神の「こもる」所との信仰があったらしい。
 この島の表現をもってすれば、神は「木に懸る」といい、物(特に邪霊)は「木に憑(つ)く」というが、森の中でも、神は素性のよい木に「懸る」ものと信じられたであろう。それには一般に「さかき」(榊)がよろこばれたであろう。この島に「神さかし」という言葉があるが、「さかき」は本当に神を咲かす木であったと思われる。
 この信仰はまた「ひもろぎ」という言葉がよく暗示してくれる。「ひ」(日・火)は神の象徴であり、「もろ」は「もり」(杜・森)および「むろ」(室)に通ずる語であり、「神のこもる所」という意味を表わすのであろう。
 「ひもろぎるを立てる」とは奥山の特に榊または榊の枝を取り、これを立て、玉や鏡や神衣をこれに飾り、神の用具を備え、神の降臨加護を「こひのむ」呪術であったであろう。ここで「立てる」とか「さす」とかいう言葉に強調が置かれなければならぬ。それは神を「いわう」ものの「まこと」の宣誓であったであろうからである
 万葉集巻三に、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)がその氏の祖先を祭る歌に、「久方の、天の原より、生(あ)れ来たる、神の命、奥山の賢木が枝に白香(しらか)つけ、木綿(ゆふ)とり付けて、斎瓮(いはひべ)を、いはひ掘り居(す)ゑ、竹(たか)玉を、繁(しじ)に貫(ぬ)き垂れ、鹿(しし)じもの、膝(ひざ)折り伏せて、手弱女(たおやめ)の、おすひとりかけ、かくだにも、吾は乞ひのむ、君にあはじかも、木綿だたみ、手に取り持ちて、かくだにも、吾は乞ひのむ、君にあはじかも」とあるのは、この辺の事情をよく知らせてくれる。
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 いま、この島の各部落にある、一般に「ミヤ」という名で呼ばれている空地の起源を考えてみると、これはおそらく山間の穴居時代からあるもので、それはその「はら」(氏族)の祭事の場所であり、深山幽谷の「もり」(杜)より神を迎えて斎いを行なう場所であったであろう。これが水田農耕に入り、人々が平地居住を始めるようになり、この島の部落では、里と呼ばれる聚落で代表される部落の山の手に住居が集まり、ここにまたこうした広場が設けられたのであろう。
 民族ないし部落社会の発展は、やがて、部落の近在の山に聖域を設けて、これを、氏族または部落の神の「もり」(杜・森)としたであろう。
 年紀の大祭、すなわち一年の稲の収穫が終わって次の稲作にとりかかる折目の大祭には、この神山からこの「里」の広場に神を招じ、特に豊作についての感謝祈念の大斎いが行なわれたであろう。この年紀を、この島では「アラセチ」(新節)と呼んだであろう。「八月踊り」の起源もここに求めなければならないと私は思っている。この大祭の斎主はもちろん、「里のとね」(村里の長)の
主として姉妹にあたる神官巫女によって行なわれたであろう。「ノロ」という語がいつごろから用いられたのか明らかでないが、これはもちろん「のり」(宣・典・刑)の転訛であり、国語の「のり」という語の展開を考察すればするほど意味深長であり、シャーマニズムのかおり高いものがある。それで、こうした古い時代の巫女も一括して、「ノロ」と呼ぶのが便利であるから、本書ではそう呼ぶことにしている。
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 次に、神を招ずる形式であるが、はじめは、神山の神木を取って来て「ひもろぎ」としてこれを立てるだけであったが、後になって、「アシャゲ」宮をも立てるようになったものであろう。この「アシャゲ」宮は、神山の椎の木を取って来て作られ、茅(すすき葉)葺きで、大祭がすめば、焼き払われるかどうかして、年紀ごとに作り替えられるものであったと想像される。もっと想像をたくましくすれば、この「アシャゲ」宮には、七つの鳥居がつけられたのではあるまいか。「アシャゲ」宮が立てられるようになってから、この里部落の空地を「ミャード」(みやどころ)すなわち「アシャゲ」宮を立てる場所と呼びなすようになったのであろう。
 ついでに、古典には「ひもろぎ」の他に、玉串、いぐひ(斎杭)などという語があり、ともに神の憑代としての意味を含んでいるので、これは同義語とみるべきものであろう。神代紀には、「すすき」葉などが玉串として用いられたことが見えているが、この島では、祭りの際「すすき」(薄)を立てることがよく行なわれている。また「いぐひ」(斎杭)という語は今日も残っているが、意義が転化し、神事に関係のあることはまったく忘れられてしまうようになっている。
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 さて、村の人口が殖えるにつれ、村の発展とともに、この村の行事場である広場も、漸次里より金久という名で代表される海寄りの聚落へと移されていった。その間に、「アシャゲ」宮も、毎年造り替えたのが、もうこのころは、恒久的な施設として、この広場の一角に立てられるようになっていたものと想像される。この「アシャゲミヤ」を下略して「アシャゲ」とか上略して「ミヤ」とか呼んでいたのが、後には、「アシャゲ」は建物を意味するようになり、「ミヤ」は「ミャード」の連想もあって、もっぱらこの海寄りの空地を意味するようになったものと思われる。
 奄美の島々が琉球に服属してから、特に尚真王(西暦一四七七年―一五二六年)時代、南島神道の再組織化が行なわれ、「アシャゲ」は、神官ノロ(巫女)の独祭場となり、神山の神厳が加えられるようになった。
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 今、長崎のお諏訪神社の九日祭の行事を一例としてみるならば、この際海寄りにお旅所を設け、ここに神社から神を迎える形式になっており、これを「御下り」と称している。この行列の際の「かさぼこ」は神の憑代としての意義を持つのである。三日目に神は神社に帰られるのであるが、これを「御上り」と称している。高千穂神社などではこれを浜下りと称し、御旅所のことを仮宮と称している。
 いま、神社神道とお森神道とを比べてみると、神社神道においては、例えば、万葉集に「神奈備に、紐呂寸(ひもろぎ)立てて斎へども、人の心は、守りあへぬもの」(神なびは神の森の意)などと歌われているところから想像されるように、神の森にひもろぎ立てていわう習俗から発展して、やがてこれに社殿が設けられるようになり、後には、神の「こもり」所としての「もり」は影がうすくなり、この社殿が神の「こもり」所として恒久施設化されるようになったものと思われる。ところが、お森神道では、社殿を建てる習俗とともにやがては、この神社神道における仮宮または御旅所に相当する「アシャゲ」宮が恒久施設化されたのであろう。したがってお森神道では、神の森は、そのままの姿を保持し、その神聖が加えられ、神社神道における神社と同じく一般大衆にとっては、遠くから俯し拝む祈念の対象であり、「ヲガミ山」(拝み山)の名もそこから生まれたものと思う。私がこの島の再組織化された神道をお森神道と名づける理由もここにある。なお、お森神道のお祭りで、神を神山からアシャゲに迎えるのを「オムケ」(お迎い)といい、神山に送るのを「オホリ」(お送り)と呼んでいたらしい。
 ついでに、「ノロ」の神歌は、この島では「おもり」といっていたらしいが、琉球では「おもろ」という。琉球では、古事記万葉集に比すべき、古くからの「おもろ」を集めた「おもろさうし」なるもののあることは周知のことである。これは長い歌の形式で、本来「ノロ」たちが「お杜」で歌ったからこの名のあることは、故伊波普猷氏も述べているところである。
(了)

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                                    ホームへ          更新日/2001年6月9日   

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