父を送る三篇


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 まえに、詩人の阿賀猥さんからいただいた、詩誌「樹が陣営」9号を、最近、ぺらぺらめくっていると、神山睦美氏の巻頭時評「気遣いという場所から」に、瀬尾育生氏の「寓意」という概念、「寓意的な形象とは、それ自体としては脱け殻となることによって外から与えられる意味の連関をただ受け取るだけの容器となるものをさしているのだが、このとき同時に、寓意という言語の形式自体が、それ自体が語っていることの意味を、その言説の直接の意味の外にもっていることで言説の脱け殻になり、このような言語の形式によって形づくられる寓話はその中で死体としての世界、脱け殻としての世界を提示していることになる。」(「言葉と死について」樹が陣営8号)、を引用しながら、次のように書いているのが、とても<腑に落ちる>ことだったので、ここに書き記しておきたいと思います。

・・・・それがまとってみせるいかなる意味や解釈の連関も、あまりにステレオタイプ
すぎてどんな「意味」をも指し示さない。むしろ、そのことによって、意味や解釈の連関から成る世界が、何の「意味」ももたない脱け殻にすぎないことを明らかにしてしまう。それが「死」が私たちにもたらす不意の欠落に耐えるということ、その「わからなさ」のこちら側にとどまるということだ。   
          (神山睦美「気遣いという場所から」1992年5月樹が陣営9号)




              透明な草たちがゆれていた・・・・

              I am losing my eye-sight

              蝉しぐれに溺れながら・・・・


 
                      

                        

詩誌「JO5」24号1998年1月
詩誌「天秤宮」9号1998年3月