父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第4章「「はら」(腹)と「はるち」(腹内)」を6回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
 国語には、「はらから」、「わかとのばら」などの語があり、この「はら」は、肉親の兄弟、同胞などの意味から一味徒党といった意味にまで発展しているようである。まさに英語のブレスレン(brethren)を思い起こさせる語である。
 奄美方言では、この語が、また原義をより多く保存して残っているところに興味がひかれる。今日では、「はら」という語は、単独では用いられないが、複合詞としては「ヒキハラ」(引原)などがある。同じ祖先から出て、血筋を同じうする者、または者たち、あるいはそう信じられている者、または者たちをヒキハラといっている。
 ところで古くは、「はら」は単独で使用されたらしく、その理解の便宜のために、奄美本島南部加計呂痲島東端の諸鈍部落に残っていた伝説を、ここに述べてみることにする。
 奄美大島は、西暦一二六六琉球王国に帰属し、それから三世紀有半琉球王の行政下にあり、西暦一六〇九年(慶長一四年)以後、薩摩行政下におかれたのであるから、この伝説によって知られる事件の起こったのは、今から四〇〇年を下らないであろう。
 この伝説は実は奄美史解明の上で、重要な示唆に富んでいるので、これを述べる前に、まず当時の一般的社会情勢を知っておく必要がある。
 奄美大島本島は、琉球王の治下におかれてからは、あんじ(按司)一人を奄美本島北部の赤木名に置き、いわば島主として、全島の統治に当たらしめ、その下に七人の大親を置いて、この島各七間切(村)の長とした。特に尚真王以後は、祭政一致政策を確立し、以上の行政機関に呼応して、神官制を打ち立て、行政の中心たる赤木名には、また「親ノロ」を置き、各間切に「ノロ」を置いて、治世の具としたのである。ノロに就任するには、まず琉球に渡り、首里王府の最高神官たる「聞間内君(きこえまうちぎみ)」の御印(一種の免許状)をもらわなければならなかった。これは「御印加那志」といって神格化されている。
 以上は古記録による行政の大要である。
 実際問題として、その行政大要には、いろいろの疑点がある。今日も奄美本島を二大別して上方・下方と呼ぶ呼称が残っているが、この区分は琉球治下においては、行政的にどんな意義をもっていたのかちょっとわからない。あるいは、この二大区分は琉球服属以前からの区分かもしれない。いま奄美本島を、この区分に従って二大別してみると、そこには地形や地質の自然的対照ばかりでなく、方言などのような文化的対照が認められる。
 この後者の対照を生じたのは、あるいは琉球服属前から、この奄美本島に二つの大きな政治的ブロックがあったためではあるまいかと思われる。もっと根本にさかのぼれば、二つの大氏族が、この島を二分して治めていたものであろう。
 琉球治下においての下方というのは、今日の瀬戸内町に宇検村、大和村までが加えられるらしく、また宗教的行政においても、この島は二つの大きな縄張りがあって、この大和村・宇検村および瀬戸内町と合わせた地域、すなわち当時の下方地域の「ノロ」全体を「真須知(ますじ)組」といい、その他の上方の「ノロ」全体を「須田(すだ)組」と呼んだらしい。この「須田組」というのは、傍系という意味だと通説にはいわれている。いわばノロ宗教における新教である。真筋組というのは、ノロ宗教の正統を引いたものでいわばノロ宗教の旧教である。
 ところで琉球時代における、この上方、下方の区分は、方言の対象をなす地域とは少しずれている。下方方言は宇検村の一部分までで、湯湾部落から以北、大和村全部は、もう上方方言に入っているのである。
 この島の上方・下方の文化的相違は、その伝統が古く、琉球時代には、これを踏襲して、行政的にも利用したに違いない。あるいは大島下方にも、例えば伊須か清水あたりに、あんじ(按司)代理とでもいうべきものを置き、奄美本島下方の行政を総覧させたのではあるまいか。
 さて、このあんじ(按司)とか大親というのは、再組織された琉球法制下の身分官職名であり、この島の島民は無差別に、その本来の呼称に従って、「あじ」または「あじがなし」と呼んでいたであろう。神官にもいろいろの位名があったろうが、各部落の神職の長を概して「ノロ」と呼んだものと思われる。
 なお、この伝説にあらわれる事件の起こった時代は、日本本土においては、室町戦国時代にあたり、地方には豪族が蜂起し、海上は和寇の栄える時代であったであろう。この時代的動きは、この島においても、これに気脈を合わせたに違いない。それも琉球の手のうすい奄美本島下方においてそうであったであろう。
 ところで伝説の概要は、次の通りである。
 「琉球治世には、ノロは三年に一回(一生に一回ともいう)は必ず沖縄島に渡り、琉球王に伺候する慣例であった。ある年のこと、諸鈍のノロが首里王府に赴き王に伺候した際、王側近の一按司が、このノロの美貌に深く心打たれ、結婚を申し出た。あまりに突然のことなので、ノロも返事に困り、一応郷里に引返し、用意万端整えて出直して来ましょうというと、按司は激昂し、それはまかりならぬ、自分をだます手だ、今ここで即座に結婚しなければこれだ、と刀の束に手を当てた。こうなると、ノロも施す術を知らず、按司の要求に応ずるほかはなかった。そこで、このノロは、首里に止まることになり、その代わりに、伴部のサツナム(秘書役)を郷里に帰し、自分は、これこれの事情で帰省できなくなったから、後のことはよろしく頼む、といった旨を次位の神官の勢頭(すぃど)に伝えさせた。この伝言の要旨は、作米の三分のニは受領し、三分の一は百姓に残し、あまりに苛酷な誅求は、しないようにとのことであった。
 ところで、この勢頭(すぃど)の「なんぐもりばら」(難具母里原)は、ノロの不在を、もっけの幸いとばかりに苛斂誅求を事とし、今日、岸道(きしみち)と称する道路に面する山麓に七つ倉を立て、立派な邸宅を構えて、豪奢な生活を行なうようになった。これに業を煮やしたのが、かねて難具母里原に遺讐をもっていた具良原(ぐりやばら)である。この両原の間には烈しい闘争が行なわれ、両屋敷の間には弓矢の交わされる日がつづいた。具良原の屋敷は、海岸沿いの金久と称する小字にあった。ところで、難具母里原の勢力があまりに強く、とても単独では抗し難いとみてとった具良原は琉球に密使を送り事の急を知らせた。琉球からは早速、名護親方を大将として援軍が来た。これを知った難具母里原は、一歩退却し、こんどは、その背後の尾崎と称する丘上に陣取り、反抗を試みた。それでも琉兵に圧倒され、二度退却のやむなきに迫られた。そして遠く落ちのびて、ずっと奥の波無手(ふぁーむて)と称する山間の平地に居城を構えた。ここは背後は絶壁で、すぐ海が迫り、三方は山が重畳して、まさに自然の要害地である。とてもこれ以上攻め入る術なし、とみてとった名護親方は、一応軍を琉球に引っ返し、その機をねらった。この間に難具母里原は、波無手に七つ倉を立て、豪邸を構え、また豪奢な生活をつづけた。
 (この間に琉兵の一部は具良原勢に紛れて、駐屯していたものと思われる。)
 それからほど経て具良原は、再び琉球に密使を送った。また名護親方の率いる一軍が繰り出された。こんどは、尋常の攻撃では勝算なしとみてとった名護親方は、奇計をめぐらした。ちょうど旧暦四月みづのえの日に行なうノロのオーホイ(お送り)と称する大祭の迫っているころだったので、琉球勢は夜闇に乗じて、諸鈍と一山隔てて背中合わせになっている渡連という部落に、こっそり上陸した。やがて大祭の日が来た。それとは知らぬ難具母里原は祭りに大童である。下手に平伏しているのが一般大衆で、頭に絹の衣を巻いているのが、上位神官である勢頭の難具母里原であるとの、かねての目星はわかっていたので、この祭りのどさくさに紛れて、琉兵は搦手から諸鈍になだれ込み、難具母里原の一味を一網打尽に皆殺しにしたのである。
 ところで、この際、名護親方の子、麿文仁も、父に付いて従軍した。(あるいは副将格であったのかも知れない)磨文仁は難具母里原討伐の後、渡連に踏み止まり、対岸の地、清水(せいすい)から女を娶り、派手な生活をした。その邸宅は部落の奥の山手に設けられ、上殿地と称され、海岸よりこの邸宅までは、一条の真直ぐな道路が通じていた。後には、ついに思い上がって、餅米、作米、ヂコ米の稲穂の付いたままの稲藁で綾取って家を葺き、すべて雀に食われ、天罰立ちどころに表われて家運が傾いたといわれている。今日渡連に残る古墳は磨文仁の墓であると伝えられている。
 この伝説は約三十年ほど前、当時八十六歳の繰池直という古老から私が聞いて記録しておいたものである。この古老は明快な記憶力を有し、諸鈍しばやをも復興した人であるが、この伝説も、こんなに詳細に覚えているのは、またおそらく、この人が最後であったであろう。

(つづく)

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