父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第4章「「はら」(腹)と「はるち」(腹内)」を6回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
 ところで篠川部落に芝家という旧家があり「芝代々記」というのが残っているが、その中にまた同じ事件を述べた記事があるので、次に掲げてみよう。
 「諸鈍に美女があった。ある年ノロに随従して琉球に渡り、琉球王に伺候した際、王は深く、この美女に心引かれ、これを側近に侍らさしめ、この美女の郷里の一族には禄を賜わった。そのため、この美女の一族は栄え、大きな勢力を得るようになった(この一族というのが、すなわち前掲の具良原であろう)。これに業を煮やしたのが、伊喜与穂兵屋(いきよほのへうや)と由美之知鬼与(ゆみのちきよ)という兄弟である(これは明らかに前掲の難具母里原の主魁であろう)。当時長柄(ながら)(いまの宇検村長柄)には、長柄八丸という剛の者がいて、同じく琉球王に対し反意を抱いていたので、この双方が結託し瀬戸内水道を中心に海上を荒し始め、琉球王の年貢船その他を襲い略奪を行ない、琉球への貢納がとだえるに至った。これをみかねた篠川の為宗なる者が、これを琉球王に密告した(諸鈍からは、おそらく、これと呼応して、具良原からの密使があったであろう)。
 そこで琉球からは、金武按司尚朝を大将とし、磨文仁なる者を副将として、軍を派遣し、相当大規模な大島征伐を開始したのである。
 為宗の一党も、この琉軍に加わって奮戦し、まもなく暴徒を鎮圧して首脳を誅し、長柄八丸は為宗の手にかかって倒れた。戦勝に酔うた琉軍は、しばらく、ここに止まり、大将の金武按司尚朝は、島の娘に通じて子を産ませた。副将の磨文仁は渡連のノロ真名足(まなだる)を愛し、これを娶り、ここに居残った。為宗は、この功により、琉球王に重く用いられ、これが芝家の祖となったのである。」
 金武按司尚朝の産ませた子が、清水の清原家の祖である。これは後に大島全島を治める大按司となった(これは私が前に想像したように、大島下方のいわば按司代理とでもいうものではなかったかと思われる)。
 次に、もう一つ、この事件に関する伝説をのべてみる。
 これは奄美民謡歌手としては、ナンバー・ワンである福島幸義君が、その祖母から聞いたというもので、諸数部落に残っていたものである。これは、どうやら、芝家代々記の影響を受けているらしく、特に、その前半は、ほとんど同じ筋であるが、この代々記に明確でない部分を補い、それがまた諸鈍に残る伝説にも近づいてきて、この事件の史実性を高めてくれるのは興味のあることである。
 「諸鈍の難具母里原に伊喜与穂之兵屋と由美之智鬼与という強力な兄弟がいて、長柄の長柄八丸という者と共謀し、貢納は、すべて自分たちが摂取して、琉球に送らないようにした。為宗なる者が、これを琉球王に密告した。琉球からは、金武按司尚朝を大将とし、磨文仁を副将とし、マーラン船(琉球のジャンク船をそう呼ぶ)八十隻を浮かべて大掛りな大島征伐に乗り出して来た。これを知ると、難具母里原の兄弟は、まんまと姿を暗まし、長柄八丸だけは、為宗のために殺された。琉球勢は反軍を打ち鎮めても、一方の旗頭が逃亡とあっては、あとが物騒で、諸鈍に一カ月余りも駐屯して捜査の手を広げた。しかし何の手掛りも得られない。これでは一応引き揚げて、次の機会を待った方がよかろうというので、少数の兵士を残して、全軍引き揚げることとなった。この少数の兵士というのは、敵側にわからないように、民家に忍ばせておいたという(この説話には現われないが、この兵士を忍ばせる世話役が具良原であっただろうと思われる)。伊喜与穂之兵屋と由美之智鬼与の兄弟は、琉球勢が、すべて引き揚げたと聞くと再び、諸鈍に帰って来て、また豪勢を極めた(諸鈍伝説にある通り、次々にその居所を後退させ、一番奥地の波無手(ふぁーむて)と称する山間の平地に、居城を構えていたので、海岸近くの具良原の縄張りのことはわかっていなかったものと思われる)。
 ところで、それは旧暦八月十五日すなわち十五夜の日のことであった。村の行事の角力で、あたりは、お祭り気分でみなぎっている時である。難具母里原の兄弟は、村の権勢家なので、わざわざ招待され、見物席の上座に坐らせられ、馳走に囲まれ。ほろ酔い気分で、角力見物に余念ないころであった。かねて潜伏していた琉兵は、この時とばかりと突然背後から現われて、この兄弟を刺し殺した。(この琉球の残兵の間には、副将の磨文仁も混っていたのであろう)、磨文仁は、この後、渡連(とれん)に行き、途中渡連の小勝(こかち)と称する作場の小川の上流で一人のノロが雪の真肌を露(あらわ)にして、水浴洗髪しているのを見て、情が高ぶり、これに抱きつき、その後、このノロを娶って渡連に暮すようになった。このノロの名はマナダル(真名足)というのであった。
 (諸鈍の伝説では、対岸の清水の女を娶ったとあるが、昔は、この渡連の小勝と称する農耕所は、清水部落の所有地であり、小舟で渡って、ここで農作をする習いであったというからには、このノロというのも実は清水のノロであったろう)。
 今日の渡連や安脚場の磨姓は、この磨文仁の後裔であり、諸鈍にも難具母里原のヒキハラ(血筋)が残っているとのことである。」
 以上は同じ事件に関して、古文書や伝説に残っている三つの筋書であるが、これをよく調べてみるならば、人物などについて、多少のくい違いはあっても、全体として矛盾するところはない。
 それぞれ真実性を含み、またぼやけているところがあり、この三つを補足し合って、かえってますます事の真相が明確となり、その背景をなす時代相が、クローズ・アップされてくるように思われる。
 これは奄美史の上では、相当大掛りな事件であったらしく、したがって、これに関する伝説も深く民心に印象づけられていたものであろう。また諸鈍部落の海寄りの金久と呼ばれる「ブラレ」には、具良原の屋敷跡という所があり、その、すぐ隣りには、琉球兵の屯所の跡という所も残っていて、今日では、個人の住宅地になっている。この際、琉球兵は相当の期間諸鈍に駐屯したらしく、その間に、諸鈍娘と色々なロマンスの花を咲かせた。この時に生まれたのが、有名な諸鈍長浜節という民謡である。
 諸鈍長浜に打上げ(うちゃげ)引く波や
  諸鈍女童ぬ目笑れ(めわれ)歯口(はぐち)
 (諸鈍の長浜に、寄せては、返す白波は、諸鈍の可愛い乙女が、微笑む時に現われる真白い歯並を思い起こさせるよ)。
 さて、ここで取り上げなければならない問題は、ナングモリバラ(難具母里原)およびグリヤバラ(具良原)という呼称である。
 この前に、まず、ノロの制度について一考する必要がある。これは、まだ明瞭にされない点が多いが、今日命脈を保っているノロの位階をみると、ノロの下にウッカムというのがいて、その下にセドワキ(勢頭脇)が数人おり、その外にグジまたはグジャ(宮司)がおり、財政一切を司る。宮司は男がこれにあてられ、ノロ宗教の一切の物的取りさばきをする。古記録には各間切にノロ一人を置いたとあるが、事実は各部落にノロの住んでいた形跡があり、今日ノロ屋敷跡などといって、人々から敬遠されている場所をのこしている部落が多い。思うに、時代の推移と共に、お森神道が発展するにつれ、各部落にもノロが置かれ、各間切(村にあたる)のノロを、親ノロと称するようになり、大島全体を総覧するノロを大親ノロと呼ぶようになったのであろう。
 部落においては、ノロはただ祭事ばかりでなく「政事」にも大きな勢力を持っていた。なにぶんにも、首里王府からの「御印」をいただいていて、村落においては、琉球王の息気(いき)が通っているのはノロだけであったろうから、その鼻息気は、また荒かったに違いない。
 琉球王への年貢の割振りなどのような、大きい問題から、山野の伐採、土地の開墾、境界争いなどの問題等、すべては、ノロの口一つで決められた。
 民謡に
    浜ながて行くば、シュクぬ子(くゎ)ぬ寄ゆり
      網さでぬねだな、事どかきゅり
     網借てちすかば、さで借てちすかば
       網や網だます、さでやさでだます
     ノロやノロだます、宮司(くじゃ)や宮司だます
       たます打ち果てて、胴(ど)や胴まで
 (浜沿いに歩いて行くと、シュクという小魚の大群が寄せてくる。網もさでもなくて、事を欠くのは残念である。網を借りてきて取るならば、さでを借りてきて取るならば、網は網の分け前、さではさでの分け前、ノロはノロの分け前、宮司は宮司の分け前、分配をし果てると自分の分け前は一つも残らない。 ―たます=分け前。この「す」は、「もの」に同じ、例えば、私の「もの」は、「わす」、あなたのものは、「なす」ともいう。たますはしたがって「たまもの」(賜物)と同じい語であろう。タマスウチュル(たますうつ)は、分け前を分ける。分配する。配当する。)
 この民謡には、当時の庶民の生活が、よくうかがわれ、村での山幸や海幸の分配の際は、必ず、そのハツ(初、最初の分け前量)をノロや、宮司にあげるのが習いであったであろう。したがってノロの生活というのも、村では派手なものであったろう。
 いま、この同じ事件に関する三つの異なった説話を相補足して考えるならば、事件の発端として、琉球に渡ったノロおよびその侍女は、具良原の出身であったろうということが推断される。
 次に諸鈍伝説には現われないが、第二の芝家代々記と、第三の諸数の伝説に現われる伊喜与穂之兵屋および由美之知鬼与は、この第三の説話によって、難具母里原の主流となる「はらから」であることが明らかである。
 この伊喜与穂といい、由美というのは、明らかに、あだ名である。方言で、「ヨホ」というのは、この島在来の小舟(大型はコバヤ<小早>という)を漕ぐ櫂のことである。イキヨホというのは、生きている櫂の意味で、生き辞引などと同じ表現であろう。すなわち、大の剛力で、腕力がとても強く、小早舟などは、櫂も要らずに、両腕で、どんどん漕いで走らす男であったので、世間でこうあだ名したのであろう。
 由美は、弓のことであろう。この弟の方は、また剛力で、腕ききで、飛ぶ鳥も射落すといった弓の名人であり、このあだ名を持っていたのであろう。
 これから推して、この兄弟がどんなに豪傑であったかということが想定される。彼らが時代の風雲に乗じたであろうことは、容易に想像がつく。
 なお、諸鈍伝説に、勢頭の難具母里原とあるが、つまりは次位の神官である。この勢頭は、難具母里原出身のものであったであろう。
 ここで、「はら」(原・腹)は、要するに平家や平氏の「家(け)」や「氏」にあたる言葉で、一血族を表わす語であることが、明らかになってくる。

(つづく)

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