父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第4章「「はら」(腹)と「はるち」(腹内)」を6回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
 具良といい、難具母里というのは、屋号すなわち家族名であろう。難具母里の「クモリ」という語は、方言では、穴を意味し、場所的意味を持っているから、これらの屋号は、広狭にかかわらず、その居住地と密接に結ばれていたものであろう。
 この具良原と難具母里原は、当時、村の二大勢力で、その間には封建的な確執怨恨があって、互いに競争していたものと思われる。
 たまたま諸鈍のノロが侍女を伴って、琉球に渡った時、琉球王が、その侍女を見そめたか、または、一按司がノロに心打ち込んだのか、とにかく、そうしたことが起こった。そのため具良原は、いよいよ琉球王府の支援があり、その勢力をのばすようになった。これにたまりかねたのが難具母里原で、いよいよ琉球に反意をいだき、焼内(いまの宇検村)の豪族長柄八丸と共謀し、琉球への年貢を片っ端から押収した。やがて密告され、金武按司尚朝か名護親方か、とにかく、そうした人物を指揮官とし、磨文仁を副将として、大規模な大島下方征伐のために、いくさ舟が派遣された。難具母里原兄弟は、石火の早業で小舟に飛び乗り、無類のイキヨホ(腕)を用いて、離島に快走し、まんまと跡をくらましたのかも知れない。琉球勢は、一月以上も諸鈍に駐屯して、その行方を探知したが、まったくわからない。
 琉球勢の焦燥は募ってきた。この無双の剛力どもを生かしておくと、大島全島も、やがてその支配下に置かれ、大きな力で琉球に反抗することは、火を見るよりも明らかである。琉球王も大いに心を悩ましたであろう。しかし、神出鬼没の早業では、とても正面からこの兄弟を捕らえることはできない。そこで、だまし打ちをするよりほかないと琉球方は考えたのであろう。琉球勢を乗せた八十隻のマーラン船は、数人の看視兵を具良原の間に忍ばせて、一応全軍撤退したであろう。これを知った難具母里原兄弟は安心して、諸鈍に帰り、今度は部落の最奥の波無手(ふぁーむて)という山間の要害地に、七つの高倉を作って豪奢な生活を送った。ほど経て難具母里原兄弟の心もゆるみかかったころ、ある年の大きな行事の日を狙って、この兄弟をおびき出し、だまし打ちにする計画が進められ、琉軍の再来を待って搦手から、これに成功したものと思われる。

 さて、この「はら」と同義語と思われるものに、マキリャ(まき)およびマモラシなる語が残っている。もう、これらの語も耳遠くなって、今日では使用されていない。
 マキリャは、アンマキリャ(あのまき)、クンマキリャ(このまき)、チュマキリャ(ひとつまき、同族の意、チュは一つ、のなまり)などの表現が用いられる。マキリャは「まきら」のなまりであろう。あるいは、「まき」と「はら」が複合詞を作り、「まきはら」となって、それがなまったのかも知れない。
 マモラシもアンマモラシ(あのまもらし)、クンマモラシ(このまもらし)、チュ―マモラシまたはチュモラシ(ひとまもらし、同一族)として用いられる。マモラシの方は、なお意味が発展して、同一村落内部で年齢を同じくする連中の各階層を表わす語となり、さらに、単にツレ(連中)と同じ意味にもなる。アッタマモラシ(あれたちのまもらし)といえば、彼らと同じ年配の一回りの連中、または、個人の意味もあり、また、彼らのような連中という意味にもなる。
 マキおよびマモラシの両方とも、英語のサークル(circle)の意味の変化を思い起こさせる。
 ところで、この「はら」や「まき」にあたる英語のクラン(clan)の語源を思い合わせてみるならば、マキは真木が比喩的意味になったのかも知れない。英語のクランは、ラテン語のプランタ(Planta=stock)からくるものらしく、「まき」の「き」も、そうした根元・地元を表わす語かも知れない。
 なお、マモラシに似た語にマモロなる語がある。アンマモロ、クンマモロ、チュモロ、として用いられる。これは一つの部落内部において、ある一塊(ひとかたまり)の人家の群を指していう語であるが、あの辺、この辺、一所(ひとところ)などの意にもなる。
 この島の部落は、いくつかの小部落に分かれているが、これを、ブラレ(村別れ)と呼んでいる。これを指示するのに、アンブラレ(あのぶられ)、クンブラレ(このぶられ)、といっている。
 マキやマモラシにも、確かにそうした地域的観念が含まれている。
 「はら」に至っては、その含む観念は、複雑で、どれが語源であるか、まったく決し難い。
 以上のことから類推して、「はら」に地域的意味を持たせると、万葉集などに現われる「国原(くにばら)」などの原に解せられる。
 始原的な部落を想像してみると、部落が増大するにつれ、氏族の分化が行なわれ、一区域の平地に「ブラレ」をそれぞれ形成し、この一族を「はら」と呼んだのかも知れない。すなわち、根元・地元となる地所的意味から、その一群の住家、血族団体を意味するようになったものとみられる。原は、すなわち、村と同意であったのではあるまいか。
 アンハラ・クンハラ・(あのはら・このはら)という表現があるならば、そうした観念が出てくるであろうが、今日こうした表現がないので何ともいえない。
 チュバラ(ひとつばら)という表現になると、地域的意味はなく、一人の女の腹から生まれた子供たちを意味する。こうなると、源氏物語などに現われる「皇女腹(みこはら)」などと同じい意味になる。

(つづく)

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                                  ホームへ           更新日/2002年5月19日   
               

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