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(沖縄の石川為丸さんから「クィクィ通信・ 号外」) (東京の詩人・ 青木栄瞳さん・・・) (庭の桜だけが・・・)(<ひとり>をきたえること) (病院体験から・・・)






1999年6月10日 木曜日

沖縄で、詩の新聞「パーマネント・ プレス」を発行している、石川為丸さんから、6月8日付の「クィクィ通信 ・ 号外」なる冊子が送られてきた。題して、「なんだ、これは?」 地元の新聞社の詩時評にたいする、唖然たる、一瞬の驚きののちの、声、と感じられた。一応コピーされた時評を、ここに、書き移してみる。


『沖縄タイムス』5月31日・ 詩時評(県内)
釣りをするわけでも、海水浴をするわけでもないけれど、毎週のように出掛けていく浜がある。やわらかで曖昧(あいまい)な浜の空気が、僕は好きなのだ。/波は、たえ間なく、うすい時間の頁をめくっている。浜辺の景色は、いつ行ってもそれほど変わりばえすることもないが、それでもどんな力が働いたのか砂がゴッソリ動いていたり、海藻がいっせいに丈を伸ばして海の色を変えていたりするー。そんなささいなことに、驚いたり、はしゃいだりしていれば飽きることがない。/「人間の栄光は、風景よりももっとむこうに死をもつことだ」(J・ グルニエ)。ふっと、思い出したそんな言葉とともに砂にまみれて寝ころんでいると、皮膚感覚が丸ごと身体に戻ってくる気がする。/言葉の渚で波の戯れのように詩は生まれる。あるいはだから、そうして生まれたものだけが詩だといっていいのである。意味づけたり、評価を定めたりする批評行為は、わたしたちのくらしが、もはやジャーナリズムと無縁でいられないかぎり、もちろん不可欠なことなのだが、詩の本質では全くない。過去より現在が、現在より未来が、かならずしも新しいわけではないのである。/今月、「キジムナー通信」(宮城松隆さん他)「1/2」 (芝憲子さん他)の、ともに創刊号を読むことができた。それから季刊の詩の新聞「パーマネント・ プレス」(石川為丸さん他)を読んだ。で、ここに何かコメントするべきなのだろうが言葉がでてこない。言葉がでてこないことのいい訳になってしまうが、それぞれ何処か生煮えで半端な一人よがりがつま先立って見える、ということである。/ しめった、暖かい風が吹いている。身体が夏に慣れようとしている。無駄なものや、どうしようもないことが、少しずつ波打際に打ち寄せられ、濡れてはまた乾いている。言葉もまた行き場をなくして、夏をまっている。 (詩人)


言葉の渚で、ふと拾った炎のかけらが・・・・ってか。
みてみて詩人している僕ちゃん、が、くるとむきなおって、手のだしようのない相手に唾をはきかけて、アンタなんかプイッといったと思いきや、またくるとむきなおって、みてみて詩人している僕ちゃん、で終わるという、なにか現代風のいじめっ子の顔をみているような、文章の構成である。詩人ちゃんは、批評行為なんかつまらない、といいながら、いじめっ子の顔で、しっかりと、批評行為しちゃったりなんか、しちゃったりしているわけで、なぜそれが、しっかりした詩評子の顔でなく、いじめっ子の顔なのかは、対談という形を取った冊子での石川さんと蝉丸さんの文章添削談義(?)が語ってくれているが、それにしても、時評子Yよ、と、その昔なつかしい名前に触れながら、感慨ぶかいものが、あったことでした。ひとりよがり、とかいう裁断のしかたは、切って捨てるのに効果的とおもうのか、最近よく耳にするが、僕にとっては、それはむしろ誉め言葉につかってほしいぐらいのものだ。詩が、ひとりよがりになれなくて、どうおもしろいんじゃよ。


為丸: 注目するほどのものではないんだけどさ、こちらではこんな低水準なしろものがまかり通っているということの、まあ、サンプルにでもと思ってさ。・・・・略
蝉丸: 略・・・・こんな水準がまかり通っているのは、仕事の質ではなく、「人脈」で原稿の依頼が決まるからなんだろうね。


時評で、「造成居住区の午後」ごっこやって、どうする。

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1999年6月11日 金曜日

東京の、詩人、青木栄瞳さんのパセリ、いや、セロリ、そう、「野生のセロリ」という詩集のこと、考えていたら、また、ふっと、便りが届く。「Hello!] ふしぎな人だ。なぜ、僕なんかに、と思うほど、いつもいつも、色々な催しのパンフを、送って下さる。同人誌も、飛び渡っておられるようで、「Booby Trap」にいたと思ったら、今日届いたのは、詩誌「ぺらぺら」。巻頭をかざっている青木詩「くじらの耳」は、覚えがある。この春に、「ロシア映画秘宝展」というパンフのお礼を、ファクスで送ると、おりかえしで、電話をいただき、そのあとすぐ、この作品がファクスで流れてきた。僕の「ファクスのおかげも手伝いまして」 「鹿児島県から太平洋の広い海へと思いを走らせ」て、できあがったとあり、社交辞令でも、うれしくなって、すぐに感想を書いたことでした・・・チャンチャン。僕には、めったに、こんなこといってくれる人いないもんね。でも、そんなこととは関係なく、青木詩の詩の空間の解放性は、好みにあっていて、いいものです。どんどん活躍していってほしいと、南の片隅から、応援、祈念、です。青木さんの「野生のセロリ」電脳版は、青空文庫というホームページの作者名検索覧のトップにあり、ダウンロードできます。ちなみに、くじら、といえば、海。詩の感想を書き送った便りの追伸で、北野武の「HANAーBI」をおくればせながら、レンタルビデオで借りてきて、みて、あまり期待していなかったのに、最後の海の一瞬の表情に胸を突かれた旨、書き添えた。ゴダールの「気狂いピエロ」のあの最後のひかりにあふれた海より、よかった、と。北野作品は、はじめてだし、最近は、むかしなつかしのほかは、ほとんど日本映画みないので、僕も、食わず嫌いでなく、もっと、日本映画みなければと、そのときは、思ったことでした。おわり。

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1999年6月12日 土曜日

父の、5月の三回忌までにと思い刈った庭の芝草が、いまの季節は、みるまにまたまた伸びていく。周りの雑草も。青青とした庭の隅で、桜の木だけが、ひからびた肌を晒して、立っている。父が死んだ年から、きっぱり、咲かなくなった。理由があるのだろうが、不思議な符合に、どうしてもひかれていってしまう。葬式を無事済ませた次の日の朝、「ひとーつだけ、ちーさく、ほらあそこ、花が、ひらいてるわよ」と、例年ならいまごろ満開になってるはずの、遅咲きの桜をゆびさして、兄嫁が報せたとき、はじめて桜の木の変化に、気付いたのだった。ほーと、みまもった、小さな花は、次の日には、もう、きれいに、しぼんでしまっていた。奄美大島の習俗では、死んだひとの頭からは、ススのようなハイがおちて、床下から土地にかえっていくということだが、そのハイが、ぽっと一輪花をさかせたのだろうか。そういえば、あの、花咲かじいさんの灰も、そんなもん、だったよねえ。空間の枠組みが、サーっと変わって、・・・・どこに、いったのだろう・・・・父よ。

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1999年6月14日 月曜日

<ひとり>をきたえること。
<ひとり>は、たいていの場合、<ひとり>の破綻、<ひとり>の失敗と混同される。「世間から、この社会から、孤立し、ひとりだけの妄想の世界にのめりこんでいった結果・・・・」しかし、それは、たいていの場合、<ひとり>の破綻、<ひとり>の失敗の結果のことだ。昔、連帯を求めて、孤立を恐れず、という標語があったが、この孤立は<わたしたち>の孤立、少数者である<わたしたち>の孤立のことであり、それはさらに、同時にその孤立の否定としての連帯に支えられることで、もうはじめから、<ひとり>のはいりこむ余地などなかったのだ。そうやって、この社会は、経済的には、発展してきた。連帯を求めて、孤立を恐れない親たちの子供が、どうなったか。とにかく<ひとり>であることが、こわくて、おそろしくて、ふあんでたまらないのじゃないだろうか。あの酒鬼薔薇事件に寄せて書かれた村上龍の「寂しい国の殺人」(文芸春秋1997年9月号)という文章があったが、彼が言う「寂しさ」とは、この<ひとり>をめぐる、動揺、ゆらぎ、であるように、僕には、思えた。「あなたも、ひとりじゃないんだ」という、この社会の、おせっかいで、偽善的な標語が、僕は、だいきらいである。

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1999年6月17日 木曜日

「患者の家族の立場であれば、このセンターで最も腕のいい、脳や呼吸器、免疫などの専門家に集まってもらって、最高の治療をやってほしいと思うのが普通でしょう。/しかし多くの病院では、そのような体制をとっていません。患者に張りつくのはたいてい経験の浅い医者と看護婦で、優秀な先生は朝と夕方だけ、教授は週に1〜2回しかこないといった体制です。患者を治すという原点に立ち返ってみたとき、これでいいはずがありません。それをどうやってクリアするかというのが、ここの診療体制をつくるときのスタートでした。・・・・」(「Newton」1997年9月号所収「脳低体温療法」がひん死の患者を救う 林成之 日本大学医学部救命救急医学教授に聞く、より)
父が死んでしばらくしてから、この記事を読んで、ああそういえばそうだったなあと、苦い思いで、思い返した。父の場合、肺炎で、緊急入院したのだが、主治医だと紹介されたのは、まだ白衣も身につかないような学生風の医師で、それも「はりつく」どころか、人工呼吸器をつけて、監視を要する患者のための部屋であえぎつづけているというのに、やたら、出張にでていて、会議にでていて、と、姿をみせなかった。看護婦は看護婦で、38度、39度と、熱の上がっていく大事な時に、脇からポロリとおちている温度計をみて、熱はないわね、とのたまうので、きらわれるのを承知で、温度計を借りてもう一度はかってみると、39度をこえていた、ということが、2度ならずとあった。週1回の回診先生は、部屋に入ろうともせず、廊下でカルテをみては、あと10日だね、とか、あと1週間だねとか、まわりの若い医師たちにつぶやいては、通り過ぎていった。父は、そう簡単には、死ななかった。それどころか、抗生剤が効いてくれて、呼吸も自分でできるようになり、元気になりかけたのだが・・・・。いまでも、きがかりなのだが、それまで使っていた、抗生剤を止めて、種類をかえてみます、と、主治医がおっしゃるので、でも、あの薬、効いてたんですよね、と問い掛けると、おなじ薬ばかりじゃ、芸がないですからね、といったのだ。幾日もたたないうちに、熱はどんどんあがっていって、どうやってもさがらず、死因は、急性心不全ということだった。とにかく、高齢で、ボケの症状が進行している、「話がつうじない」患者だということでなのか、気のなさそうな雰囲気に、気が気でない毎日だった。
今朝の、地元の新聞のコラムに、「医療過誤」をめぐるシンポのことがでている。2ヶ月足らずの病院体験からしても、おもてにでない、いろいろな「過誤」があるだろうことが、想像できる。

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