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(謹賀新年)   (新年の空気が・・・)(茨木のり子の詩集が話題だそうだが・・・)(文字のこと)(詩人についての丸谷才一氏の言)(「沖縄文芸年鑑」の詩の総括で・・・)(仰げば尊し、わが宇宙))






2000年1月1日 土曜日

あけまして、おめでとうございます。
いよいよ、2000年。・・・だからなんだといえば、なんでもないような・・・でも、最大公約数的に人類がよりそい意味づけてきた西暦の、1000年に1度の変わり目、歴史の深層心理のうごめきから、うかがいしれない変容にむかって、また飛躍する第1歩なのかもしれない、とか夢想すると、わくわくしてもきます。とはいっても、僕にとっては、変わりばえのしない、きのうの今日という感じこそが、やはり、もっともしっくりくるわけですが、どちらも、手放さず、今年も、自分なりの<書く>行為をつづけていきたいと、ま、思っています。よろしく、お立ちよりくださいますよう、お願いいたします。写真のコーナーなど、課題は多いですが、すこしでも、充実させなければ、と意欲しています。皆様にも、よいお年でありますように、祈りつつ。

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2000年1月4日 火曜日

去年あたりは、まだ、注連飾りをつけて走る車を、注意しなくても目につく程度には、みかけたものだが、それが今年は、街の中心部あたりを走っていても、この3日間で、やっと、2台、よく注意していて、僕の視野にかろうじてとびこんできたのみである。着飾った着物すがたもめだつことなく、閉まった商店街の、正月独特の、人影まばらな、いつもと異った場所から忍び込んできたような空気の匂いも、年を追うごとに、確実に希薄になり、今年などは、ほんとに、いつもとかわらない人の数、空気の匂い、で、1段とハレの正月いまいずこの気配濃厚となっているのを、肌身で感じてしまった。それでも、というか、やはりというか、1番正月らしさを醸し出しているのは、神社で、老母を連れていったここ鹿児島市内の照国神社も、あいかわらずのにぎわいをみせていたが、でも、やはり総体的な雰囲気は、新年から先へつづく新たな時間にむかって、人々が無言のうちにつくりだす、あのハッシとしたみえない場所への広がりの空気は、今年などとくに、背後にある<閉まった商店街の、正月独特の、人影まばらな、いつもと異った場所から忍び込んできたような空気の匂い>の薄まったのに比例して、どうにも感じられなくなってしまっているように、僕には、思えた。こうした、移りゆきは、おそらく、不況とかなんとかとは、関係ないだろう。進行しているのは、祭りの中心にあった、<異郷へのまなざし>から、とにかく企画された集団的な場所へいって、わいわいやる、<イベントへのまなざし>への、移りゆき、なのだろう。それかあらずか、1番盛り上がっていたのは、やはり、テレビだ。商店街や神社などは、別になくなろうが、どうなろうが、関心はないが、この空気の移りゆきの果てには、どうなっていくのだろうと、僕などは、興味津々である。

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2000年1月7日 金曜日

茨木のり子の「倚りかからず」という詩集が話題になっているそうだが、新聞などでもよく引用される、「もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない」とか、自分の目や耳や足でのみ生きようとして「なに不都合のことやある」とかいう言葉を聞くと、こころざしとしては、分かるとしても、自分とはなにか、自分の目で見るとはなにか、といった、ながーい時代の<思想>の格闘なんか、まるでなかったような、なにか、「もう二度とおなじあやまちはおかしません」式の、安易な原点回帰を聞いているようで、そうした態度自体、うまく見えないこの時代の<できあいの思想>なんじゃないのか、と、僕などは勘ぐってしまう。こうした原点回帰は、かならずまた同じことをくりかえすかもしれない、出発点に私は裸で立ったというだけのことで、立った本人はめずらしいかもしれないが、なんにも語ったことにはならないのじゃないか、というのも、僕たちの見慣れてきた風景ではないのだろうか。また歩き出したとたん、できあいの思想が、どっと神経細胞をかけめぐるだけ、ともいえる。「現代詩手帳」12月年鑑号にのっている茨木のり子の詩「ある1行」では、<絶望の虚妄なること   まさに希望に相同じい>という、あるルーマニアの詩人の、「1950年代/しきりに耳にし   目にし   身に沁みた   ある1行」が引用され、その詩行から受け取った自身の生き方の指針がのべられるのだが、そこまでは、いいとして、なぜそれがすぐに、「今この深い言葉が1番必要なときに/誰も口の端(は)にのせないし/思い出しもしない」と、安易に一般化できるのだろうか。それが<売り>の言葉の強い所といってしまえばそれまでだが、どう一般化しようと、絶望するしかない場所というのはあるわけだし、希望に胸ふくらませる場所というのは、 切実に存在している。こういう詩がとどく場所とは、確かに逸脱した場所でこそ、痛切に。<じぶんの目や足>の限界をみない、おしつけがましさは、こういう思考法の行きつく果てに、かならずまっている風景ではないだろうか。ま、しかし、最近の話題になる詩とか、エッセーとかをとりまく視線というか、意識の嗜好性というか、どうも似ている気がする。奇妙な許容に変わろうとする時の、疲労の場合が、ということでなければいいのだが。

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2000年1月11日 火曜日

笠井さんのHPの(またまた笠井さんと、思わないで、ね。僕は笠井シンパ?でもなんでもないので、たまたま、身近に立ち寄ってみるページで、興味をひくのが、彼のところにある、というだけのことですから、ね)音楽グループ「人間椅子」論のCに、ランボーの母音を色で表した有名な詩についての言及があって、その色というのは実はこれこれのことなんだ、という仮説が紹介されていて、なるほど、そっかそっかと、おもしろかったが、それで、昔、友達と喫茶店でダベリながら、僕がつくった母音仮説?(ま、そんなえらそうなもんじゃないけど) を思い出してしまった。ちょっとパソコンではうまく表示できないが、たとえば、AとU、IとE、そしてOというふうに、僕の母音仮説では、分かれるのであります。Uの弧の部分が口の前方で、開放部分が口蓋。Aは、Uを上下ひっくりかえして、口蓋を閉じる線、の形。Eは、Aを横に倒して、真中に舌の線をひいて、半分を略。。Iは、Aの前方部分にも閉じる線の入った形。そしてOは、AとUを合体させた形、であります。Aは、天空、光明に向かう、呼気。Uは、地上から地下、闇に向かう、呼気。Oは宇宙的な呼気。全体性。EとIは、その中間にあるさまざまな距離的事象をあらわす呼気。などなどであります。ね、なんか、それらしく聞こえてくるでしょ? こない? ばっかばっかしい?色気がない? ま、そ言わないでね。あそびで、おま。喫茶店で相手をしていたYが、「あけ、なんで、当然じゃがね」と、覚えたての名瀬普通語で、わけのわからない納得の言葉を返して、拍子ぬけして、その時は、それっきりになったことではありましたが・・・。それにしても、文字というのは、表音文字にしても、表意文字にしても、ちょっとした拍子に、それ自体、たいへんな、世界に向かってのながいながあーい呼気の歴史を負っているんだなあと、微細に呼吸している感じに、こころ打たれることがあるよね。この暮れだったかのNHKのテレビでは、白川静氏の漢字学についての番組をやっていたが、一本一本の文字の線が、人とこの世界との圧縮された濃密な関係を物語っている様子が、ひしひしと伝わってきて、僕などは、関心するばかりだった。地表にビルや電子機器にあふれた文明を持つ惑星もあれば、地表には、なんの目だった構築物もみあたらないのに、いったん地下に潜ると、ものすごい文明を発達させている惑星もあるのかもしれない、という、そんな空想と、どこか関連するような、感慨をもったりして。すごいもんだなあ・・・と。

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2000年1月16日 日曜日

たとえば、ひとりになるのが好きで、なるべくならひっそりと暮らしていくのがベストと思っているひとと、ゆえなくひとりになっていて、できるなら、この状態から脱したいと望んでいるひととでは、傍からみて同じ孤独とかいう言葉で理解されるにしても、その意識の志向性は、おそらく全然逆のベクトルをのばして、対立していることだろう。それに、半意識的、無意識的な志向性とのズレなどが加わって、「ひとりになるのが好き」とか口ではいっても、からだがわいわい、がやがやをもとめて、折あらばそのなかに融けこみたいとか、いろいろなバリエーションが考えられるが、文学者、とりわけ詩人などという人種は、ひとりになって、共同体的な世界では楽しめない密やかな時空を、好んで降りおろしたがる者のことだと、てっきり思っていた僕などは、「詩人とか歌人とか俳人は共同体的感情を歌いたくて仕方がない、孤独に耐え切れないという側面があるんですね。」(丸谷才一)とか言う言葉を聞くと、あ、そうかあ、そういえば、おべんちゃら好きの宮廷ピエロを祖先にもつ人種でもあるよなあ、と、不意をつかれつつも、うーんと、いなか宮廷ピエロで沸き立つ、目にしてきた現代詩の1面の姿も彷彿とされて、しばし、考えこんでしまった。これは、「文芸春秋」(2月特別号)で特集している「各界著名人」のアンケートによる「20世紀衝撃の1日」のなかの対談部分で、丸谷才一氏が述べている言葉。フランス文学者鹿島茂氏との対談で、「衝撃の1日」に太平洋戦争開戦をあげた映画監督篠田正浩氏の、ラジオから流れてきた高村光太郎の詩によって、皇国少年としての覚悟を固めていった、というコメントから、詩人について触れて、

鹿島 ・・・たとえば壺井繁治という詩人がいますね。民衆派の、ほんとうにいい人だったと誰もが言う詩人なんですが、戦争が始まると、ものすごい聖戦礼賛の詩を書きまくった。そして、戦後になると、今度はスターリン万歳という詩をやはり書きまくる。共同体の感情に共感し、共鳴してしまうんですね。

丸谷 そう。共同体の感情を類型的に歌う詩人は、現在でもたくさんいますよ。・・・・・

と、述べている。民俗学的な知を読みかじって、共同幻想にうまく憑いてみせる時は、それなりの詩を書くのに、そうした幻想ぬきになると、まるでまだるっこしい、くだらない詩しか書けない、という、詩人がいたりするが、こういうのだけを、詩人というのなら、僕には、詩人などとよばれる資格もないし、よばれたくもないが、呼ばれる資格のないものからの、いいたいことは、つのってくる。その一端は、笠井嗣夫さんの「声のあり処」について書いた文章でももらしたが、そういえば、笠井さんの「反=朗読論の試み」というのは、また、すぐれて「反=宮廷ピエロ論」でもあったわけでしたよね。

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2000年1月20日 木曜日

「沖縄文芸年鑑」(沖縄タイムス社刊)が、去年1年間の沖縄・ 奄美関係の文芸活動総括をのせているが、詩の総括は、去年、「クイクイ通信・号外」などで、石川為丸さんたちからその詩時評について問題を指摘された、なつかしのYさんが、担当している。で、その問題が本人も気になってはいるらしくて、詩集などの羅列的紹介のあとで、反省と称する、元気のいい、さっぱりした、「あんたなんかプイッ」節を開陳してくれている。いわく。

   「キジムナー通信」(宮城松隆さん)、「パーマネント・ プレス」(石川為丸さん)で、ともに私の沖縄タイムス詩時評への批判が展開されていた。だらだら書くな、もっと真面目にやれ、ということであったと思う。そう言われると今書いているこの文章も、何だか締まりのないものに思えてきてならない。反省、の意を含んで、花田英三さんの詩集(前年のものだけど)「島」(夢人館)から、「漂着物」の取って置きの一節を書き写し、末尾を飾っておきたい。

              なんでもござれの俺は
              今   街角にたっている小さな国
              一艘の舟
              一つの通じないことば

だそうである。ね、石川さん、たいした反省でしょう。わっはっはっはっは。僕はおもわず、去年の暮れの「TVタックル」という番組で、1999年7の月も過ぎて、あれだけの終末論をあおっていながら、ノストラダムスの予言解読どうなってるんじゃと、やんややんやとヤジられた末の、あの蝶ネクタイの小太りの研究者のとった、こっけいなしぐさが、ふっと目に浮かんでしまった。彼は言葉に窮したのか、やおら机をトンと打って、歌舞伎のみえよろしく、「やりますか!」(けんかを? 相撲を? なんかそのようなものでの決着を?)と、そのかわいらしい(?)体躯で、威嚇して、「引いてしまうような」失笑をかったのだったが、実際の体躯こそ違え、上の文章のしぐさには、どうも似たようなこっけいさがあるのであります。ん?ない?なにもおかしくはない?じゃあ、僕の読みちがいかなあ。それにしても、「だらだら書くな、もっと真面目にやれ、ということであった」というのは、なんか、関係的に、逆なんじゃないのかなあ。逆に、・・・一介の詩評子のくせして、(小さな共同体の?)思惑がらみで、エラそうな態度とるんじゃねえ、・・・ということだったんじゃないの?それが、「なんでもござれの俺は」、だから、りっぱ、りっぱ、としかいえないけどね。まあ、勝手にしてくれたらいいわけだけど。

(註・引用された詩を、自分もそのようになりたい、という願望としてとるなら、問題の経緯からして、一応の反省の形にみえて、こっけいさは消えるようにも思えるけど、ね。でも、そうであるなら、前半のカッコつけただけの文章を否定して、ほんとに反省しているのはこれこれこういうことで、という書かれない文章を補って読まなければならなくなるので、この文章だけをはじめて読む読者にそれを期待することは、ドダイ無理だし、そのこと自体、言った先から、詩の内容を裏切っていることにもなるので、ダーメ、ダーメ。・・…21日付記)

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2000年1月26日水曜日

「Moriの天文ページ」というサイトからリンクして、NASAの最近の天文情報も身近にのぞくことができるが、いま1番わくわくしているのは、やはり、木星の月のひとつである、魅惑の衛星ユーロパの情報である。NASAのページには、カラーのユーロパがいろいろでているが、遠くから、ある角度で写した写真など、ちょっと目には、地球とみまごうほどである。茶色っぽい大陸様の部分と、うすい水色から深い青を湛えた海様の部分の、まさに、生きている星の雰囲気。ただ、接近して撮ったものをみると、それらが、すべて固い複雑に傷ついた氷様の殻に覆われていることが、見て取れる。でも、でも、この1月はじめに探査機「ガリレオ」が接近して撮ったという、氷様の殻を下から不気味な青で輝かせている広大な領域の写真は、非常に感動的であり、もしかしたら、それはリキッドな海かもしれないという予測が、この接近写真の分析によって、確かなものになりつつあるというのだ。厚い氷の殻の下の海というのは、また地球の海とは、いろいろ違った環境ではあるらしいが、地球の水の量の2倍といわれる、その未知の青の世界への、信仰にもにた期待は、いやがうえにも高まるのであります。・・・・いまでは、もう、<水平線のかなた>という幻想には、期待できるものは、なにもありそうもなく、変に科学ぎらいの、その実、内実はといえば、たんにマスコミ向けや、学者向け、文学的愛好者向けに仮構された、パーフォーマンスに過ぎない感じのする、わが南島のネリヤ・カナヤ信仰よりも、たとえば、「気球で反物質を探す」とかいった、「天文ニュース」(「Moriの天文ページ」より)のほうが、どれだけ、時空をひろげてくれることか。死者さえも、もう水平線のかなたから、やって来る必然性は、あるとも思えない。・・・・・・ただ、この科学が照らす信仰世界?というのは、たとえば、「私たちの宇宙が生まれて、150億年」とかいう詩を、読みかじった知で、書いたりすると、「いや、もとい、120億年・・・」「いや、そうじゃなく・・・」と、安定しない<知>に翻弄されてしまうおそれのある、可変世界でもあり、ビッグバン宇宙だけが宇宙だと思っていると、すぐに、「ビッグバンには科学的根拠が何もなかった」(ジャン・ ピエール・ プチ)という有力な異論が、突拍子もない「双子宇宙」をひきつれて、聞きなれたというだけの常識をゆさぶってくれる、多頭世界でもあるので、ご用心、というところでしょうか。

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