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(もうひとつの自然?)   (久しぶりに、吉本隆明の本を・・)     (身体という湿気をおびた闇)   (新潟事件への芹沢俊介氏の言が)   (午前4時の妄想)   (均された空間をゆさぶるもの?)   (横山ノック前知事の不快さ)






2000年3月3日 金曜日

ルソーの「孤独な散歩者の夢想」の中に、つぎのような印象的な箇所がある。

ある日、ロベル山の奥深く、木々や草をかきわけかきわけ、植物の採集に夢中になっているうち、人気ない、寂寞とした、野生的な場所に出てくる。鳴く鳥の声。珍しい植物の発見。やがてルソーは、すっかり無人島の発見者にでもなった気分で、心地よい夢想にひたるのだが、ふと、どこからか耳に分け入ってくる、かすかな音。なんだろうと怪しんだ彼は、ほどなく、そこから20歩とはなれていない谷合いの地に、靴下工場が稼動しているのを、発見する。《僕がこれを発見した時の、心に感じた、妙な、こんぐらかった動揺を、どう表現していいか分からない。僕の最初の気持は、自分が完全に1人きりだと信じていたのに、人間の中に自分を再び見出すことの歓喜の情であった!》(第7の散歩)・・・・・と。

文明社会の裏切りと憎悪に満ちた人間関係から<自然>へと遁走したルソーであるが、どこへ逃げようと、<孤独>の内実というのは、いつだって、このようなものではないだろうか。いわば、1種のルソー的破れ目。しかし、<ルソー的人間>にとって、だからといってすぐに<みんなのもと>へかえっていこう、という気にはなれないというのが、問題なのだ。そんなところへかえっても、<ルソー的人間>にとって、いいことなど、なにもないのだ。そんなところで、いやな思いするくらいなら、<孤独>のほうがずっとマシなのだ。というわけで、《僕は森の奥に逃げても無駄だった。うるさい群衆が何処へ行ってもついて来て、一切の自然を僕にかくしてしまう。僕は社会の煩悩と、彼らの浅ましい行列から脱走して、やっと始めて自然を、そのすべての美しさと共に見出したのである》(第8の散歩)、と相成る。これほどの人間忌避、隠遁でなくても、ルソーの時代とはくらべものにならないほどの、自然の公有化、開発の徹底化(自然破壊の内在化)が進んでいる現在では、どこにいっても、<自然にかえる>体験(ま、自然とはなにか、といった厳密なルソー論はぬきにしてね)など、ほんとは、ほとんど不可能に近いだろう。おいでおいでと手招きされては、イヤな思いをしている、現代の<ルソー的人間>にとって、ではどうすればいいのか。どこへ逃げるか。つまりはそのルソー的破れ目の延長線上に、哄笑のバックミュージックとともに遠く見えてくるのが、あのドストエフスキー的に浮遊する、<部屋>なのじゃないだろうか。<もうひとつの自然>としての、<部屋>。<みんな平等でいっしょ>の欺瞞に耐えるより、現代の<ルソー的人間>にとって魅力となるのは、その<部屋>のことを考え、そこから、どう向こう側の未知の闇へとつきぬけるか、かえっていくか? ということになっているのではないだろうか。ん? <ひきこもり>礼賛かって?まあ、現実の病理的な実態というのは、読んだり聞いたりすると、想像を絶する、たいへんな世界みたいだけど、社会的現象として、どこか未来予知的にプラスな要素も、指し示しているのでは? などと思う今日この頃です。

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2000年3月6日 月曜日

久しぶりに、吉本隆明の対談本「夜と女と毛沢東」(文芸春秋刊)と、インタビューを書き起こした「私の戦争論」(ぶんか社刊)を買ってきて読んだ。前者は、もう3年前ぐらいに発行されたものらしいが、僕にとっては、オウム、阪神大震災以来はじめての、というか、日常のすったもんだにとりまぎれて、ありあわせの記事のほか、めったに読書の時間をもってこなかったながーい期間以来、はじめての、吉本隆明の状況についての考えに接することになる。新聞や雑誌の記事などで、オウムについての意見など、うわさでは聞いていたが、やはり、こうして直に?接すると、昔集中的に読んでいた頃の共感が、じわーと心地よく広がっていく感じに、まずほっとする。たとえば彼のようなテレビのコメンテーターがいたとして、この本でいっているような意見を、ワイドショーなどでしゃべっている場面を想像してみる。そんなことがありえるだろうか。「ま、それはそれとしてね、とにかく、オウムのやったことは、絶対にゆるされないわけで、話をそこにもどしましょうか」とでもいった、良識的司会者とゲストのいきおいによる、番組進行という、みえにくい圧力によって、うやむやにされてしまうだろう。にこにこした雰囲気のもとに。そんなこと想像しただけでも、日々流される、テレビ、新聞などの情報だけにたよって、どれだけものの見方の偏向がおこっているかが、思い知らされる。なんというか、言葉を発してくる場所が、どだい違っているのだ。<市役所に戸籍登録された何の何某がすべてである者>と、<この世にうまれてきた私という者>との、心的なひろがりの違いのような。「戦争論」の中での、問題を国民の投票にかけて、みんながそれでいいと決定したら、個人的に反対でも、それには従うつもりだ、といった、面従腹背とはちょっとニュアンスが違うらしい意見に、展望のわかりにくさがあったりしたが、それにしても、保守的になったと批判されてきた吉本隆明の健在ぶりが、うれしい限り。ま、いまごろそんなこと言って、と思っている人には、ご容赦を。どんなことが言われているのかと思う人は、買ってお読みください。損はしないよ。戦争のこと、オウムのこと、性のこと、夜の闇のこと・・・。

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2000年3月11日 土曜日

「経済の観念といかに遠いものであるかが認められる」という、子供にとっての密やかな「宝ものという観念」について、かってロジェ・ カイヨワは、・・・・・「あたりまえのコルク栓よりもはるかによく湿気を閉じこめ、湿気を乾いた空気から遮断することのできる磨りガラスの栓のように、効験あらたかでなければならない。ただこの栓だけが密閉状態を実現できるのだ。そしてこの密閉という言葉にまつわる暗闇の感じが事の重要性をはっきり示しているのである」といい、それは、「窮乏と努力との生活が蓄積しうる資本を無限に超えるものなのだ。それは一挙に華やぎをおび、それを獲得する幼い主人公をお金よりも栄光で包む。彼が宝ものから引き出せるのは、自己の運命を完遂できるという純粋な確信、自分は自然と大人たちとを打ち負かすことができるのだということのしるしだけなのである」と書きつけて、実は「この世界こそは、大人たちだけがそれを享楽していることにかねがね羨望を感じながら、かずかずの屈辱的な禁止事項(火遊びをしてはならないとか、刃物に触ってはならないとか)によって近づくことを禁じられてきたものなのだ」(ロジェ・ カイヨワ「『本能』―その社会学的考察」思索社刊)と述べていた。共感をよせていたこういう記述を、すでにあらゆる禁止事項もなしくづしになり、なんかなにもかもが<あたえられて>しまって、なに不自由ないくらしのように見える現在のなかで、あらためて読みかえすと、感慨深いものがある。それは、こういった論が古くなったということではなく、逆に、どう経済的に豊かになろうと、身体という<湿気をおびた闇>をかかえもつ人間の成長にとって、ほんとに、見過ごすことのできない場所を、この社会は、子供たちに<あたえるようにして、実はとりあげてきた>んじゃないのか、という疑惑が、ふつふつと湧いてくるからだ。それはなにも、禁止事項をもっとなくせとか、いや増やせとかいった問題ではなく、まさにそういうおせっかいな、見えない社会的視線からほっておかれる場所、微妙な場所なのだが、そういう場所の、それこそ、自然破壊こそが、いまの子供の世界を、そとからはうかがいしれないような、窮屈な空間に、日々これ追い込んでいるのではないだろうか、ということだ。僕には、不謹慎を承知でいうのだが、あの神戸の生首事件が象徴しているのも、どこかそういう場所の不在をつきつける、子供たちの暗い場所からの、遠い叫び、のように感じられてもくるのだ。いわば、みえないことで無視されてきた、自然破壊の結果としての。

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2000年3月14日 火曜日

今日の地元南日本新聞短期シリーズもの「展望2000」に、芹沢俊介氏の興味深い論考がのっている。新潟でおきたあの少女監禁事件についてなのだが、その犯罪性という面からでなく、9年あまりの時間を無事いきのびて「生還できた」、女性の女性性?とでもいった側面から、遠い民俗的な「神隠し譚」の水脈を「浮かび上が」らせるように、語っている。「誘拐・ 監禁そのものがとてつもない暴力であることを踏まえたうえで、にもかかわらず犯行者にそれ以上の暴力性がなかったということ、そのことを彼女が生還できたことの最大の要因として認めなくてはなるまい」として、ひたすら暴力的になって<生還>をゆるさない現実的な類似の事件との相異を指摘しつつ、9歳の少女が19歳の女性になって母親に再会し、「お母さん、私だよ」「元気だったよ」という意外や意外の言葉を発したり、それまで住んでいた<部屋>には、幼い日のランドセルも大事に?そのまま残されていたり、等々の事実から、どうしても、例えば柳田国男の「遠野物語」に収録されている<山の異人>にさらわれた娘の話などに、連想がいくというわけだが、そうした世界が成り立つ要素として、氏が挙げているのが、男が「少女に対し夫婦意識に近い気持を抱い」ていただろう、ということと、少女の側に、あたえられた、逃げられない状況を<環境化>して生きてしまう、<男よりも女にすぐれている>とみなされる生の<能力>のことである。それが、「遠野の娘」と同じように、「閉じられたせまい部屋で一生を送ることになる」かもしれない、というやりきれない時間的未来に対して、「投げやりになることなく、自己の生を維持できた根源的な支えであったに違いない」と。もちろん、氏もいっているように、実際の状況がどういうものだったかは、すべて明らかにならなければ、わかりようがないわけだが、この事件の特異な<時間性>から切りこんだ、おもしろい論考だと思う。果たして、それが、女性性?の能力だけなのか、もっと別の時代的要素も考えられないか、異論はあるところだが、僕には、それよりも、ここで、はからずも氏の視線が、異人の跋扈する民俗的な<山>と、現代的な<密室>の世界を、つなげるように語ってしまっていることが、なにより興味深く、イメージをそそられたところだった。こういう視点というのは、ある種、批評的しぐさの常套手段といえばいえないこともないが、実感的な妥当性もあって、犯罪性だけにすぐ反応しがちな単純な僕などの、反省させられる視点でもありますよ、ハイ。

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2000年3月17日 金曜日

ジュ―ル・ ベルヌの確か「謎の神秘島」という邦題のついた冒険小説だったと思うが、気球が壊れて<数人>で無人島に不時着したものたちは、火打ち石で火をおこすことから始まって、コミュニケーションによる社会性を基盤に、次第にまた必要な最小限の文明を作り上げて行くのだが、それに対して、すこし離れた島には、もっと前から<ひとり>で漂着して生きている人間がいて、彼はコミュニケーションの欠乏から、言葉もわすれ、荒廃しながら、動物生にちかいくらしに退化していっていた、という文明=共同体的なメッセージのこめられた作品を読んだことがある。現在の電子情報器機の発達を思う時、昔読んだこの物語世界の図式的な対立項と、島や海のひろがりのイメージが、チラチラと、頭をよぎることがある。いまでも、こうしたまさに二項対立的なものの見方は、倫理的にも、実際的にも、否定できない普遍的法則のようにして、僕達の思考を規制していることだろう。<ひとり>は悪だ。そうでなくても、<ひとり>では生きられっこない、と。誰が考えても、二項対立的な意味では、それは言うまでもなく、あったりまえだのクラッカーなのだが、そういうことをことさらに、倫理的な憤慨をこめていう人間に限って、彼のいう人間関係とか、コミュニケーションの大切さとかいうのが、結局のところ、資本主義的な<お客様>(それは商品の<お客様>ばかりでなく、主義の、正義の、権力、等々の<お客様>)の大切さであり、<お客様の獲得法>の大切さに他ならないんじゃないのか、という底意が透けて見えたりして、それがどうにもいやなのだ。・・・ところで、「謎の神秘島」には、もうひとつ、というか、もうひとり、隠れた主人公がいる。それが、<謎>の所以なのだが、その、海を自由に潜航するもの、ジュ―ル・ ベルヌの作品ではお馴染みの<それ>、が、どうやら僕のはっきりとは認識できないある解放的なイメージをともなって、この作品をチラチラ想い起こさせる原因でもあるらしいのだ。それを端的に、<情報器機の未来>、あるいは、未来的な<他者への見果てぬ通路>、とでもいえば、僕には、ある漠然とした、しかし触感的でもある、キラキラしたイメージがひろがっていく。そこではもう、二項対立的な<ひとり>もくそもない、<数人>で文明を築き上げた社会は争いで自滅し、<ひとり>で小屋にパソコンをかくしもっていたものは、それぞれの島をむすんで、充実した日々を過ごしたとさ、などと、ひっくりかえしただけの皮肉な対抗話もいらない、もうあるがままの島と海の、いまとはずいぶんと異ったひろがりの世界が、僕には肯定的に、妄想されてもくるのである。うさんくさい情報産業とは別に、情報器機には、そういう意味でも、もっともっとすばらしく進化してほしいと、切に願うものであります。ん?なに? なにいってるのか、さっぱりわからないって?まあ、おとぎ話のような未来について、朦朧としたイメージだけでしゃべってるんだけどね。いまは午前4時。おゆるしあれ。

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2000年3月20日 月曜日

このサイトに掲載している「天降り女人」の話と、新潟の事件に関して上の芹沢氏の文章が触れた「神隠し」の話には、よく似た部分がある。いわば、一方は村人にさらわれる天女の話、もう一方は山の異人にさらわれる村の娘の話。村落共同体を中心にして、<女>の流れていく方向をみると、なにか、人間の性的なものがなしさが、そのまま表されているような気がしてくる。加えて、それがどこか<差別>の方向をも指し示しているような。(そういえば、天女がおちぶれると、さらわれるのではなく、すすんで村人を誘惑するという、変形譚もあったっけ)・・・それにしても、こうした話の世界でおもしろいのは、今で言えば確実な<犯罪>かそれに近い行為が、なにやら空間的な境界侵犯による、意識の変容譚になりかわっているように、みえることだ。いろいろな異界をかかえもった、均質でない空間のひろがり。のっぺりと均されてしまった、近代という空間に住まいなれた僕たちには、もううまくは想像できなくなってしまった、そうした世界・・・・。あるいは、遠い記憶の底に眠るそうした世界を、もしかしたら<犯罪>という特異点の発生によって、僕たちは、時として目醒めさせられているのかもしれない。口には出さずとも、僕たちが、ある種の<犯罪>によって、密かに活気づくのも、そうした記憶の触感、そうした空間への欲望、によるものなのかも、・・・などと。

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2000年3月22日 水曜日

横山ノック前知事のわいせつ事件初公判のことが報道されている。いかにも厳格ぶった、犯行否認の姿をみてきた野次馬のひとりとしては、「実は、女子大生のいうとおりです」」という、公判での反転ぶりが、事件そのものより、不快な感じがした。いつだったかのテレビでは、アメリカのクリントン大統領とならべて、同じ公的権力にあるものとしての<ふしだら>と切って捨てる人がいたりしたが、その時は、野次馬のひとりとして、僕も同じような見方をしていた。もちろん、<ふしだら>がなぜわるい、という<善良な市民>とは反対の認識からではあるが。しかし、この公判での事件の詳細をしるにつけ、クリントン大統領の事件が、まったく対等な男女による、事件ともいえない、個人的できごとであるのに対して、ノック氏の場合は、つい魔がさした可能性はあるにしても、まさに公的権力でおどしつけての「暴行」の様相が濃厚である。「ええやろ、ええやろ」のエロじじい的姿はすこしも不快ではないが、「そんなことは、真っ赤なウソであります」「そんなことで、いつまで君達は、大阪府知事の私を困らせたらすむんだ」とかいった、報道にあらわれる、あの居丈高な、真っ赤な顔が、<いまとなっては>いやである。権力欲の絡まったこの世の中は、色々ないやがらせ、、嫉妬、ねたみ、等々にあふれているが、自分だけは、そういう行為の主体からのがれていると、偽善的な顔をして、「社会正義」ばかりを気持ちよく言う<善良な市民>の、ひとかわむけば、の顔のように、それはいやである。・・・・ああ、言ってすっきりした。

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