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エスニック
雑感15

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(山腹に轟音が響いて・・・)   (朗読会のおしらせ)   (詩誌「グッフォー」を水出みどりさんから)   (石原都知事の差別語問題)   (電子本のこと)   (第3回「弦が奏でる心とリズム」のおしらせ)





2000年4月5日 水曜日

ちょうど外野の守備につこうとして歩き出したところだったように思う。背後に迫った山腹に轟音が響いて、ふりむくと、間髪をおかず、どすぐろい巨体が、山頂を覆うようにして顕われ、晴れ渡った夕方の校庭におしかぶさるようにも、不気味な影をひいてゆっくり通過し、手を伸ばせば届くような頭の上を、ふかみどり色の金属のはらわたが威圧して、そのまま港の方へと、飛び去っていく。言葉もなく、操られるようにそのゆくえだけを目線で追う形になった僕たちは、校庭の隅まで走り寄り、野球もそっちのけでその航跡を見守ったのだった。海は凪いでいて、きらきらと夕日が散乱する、静かで輪郭あざやかな亜熱帯の深い入り江を、ゆるやかに左旋回しながら、それは飛んでいく。そして、あんなに真近の、みたこともない低空飛行に子どもらしい興奮を共有しあっていた僕たちは、次の瞬間に起こった事態に、さらに唖然としたのだった。大きな弧を描き終えたそれが、対岸の小高い山の頂上辺りを湾奥の町の方へ向かう態勢になったとたん、ボボッーンと赤黒いおおきな炎でもえあがったのだ。・・・あ、墜落した、・・・と誰ともなくいうのに、どれくらいかかったろう。記憶のなかでは、山腹に転がり落ちた機首が見え、そのなかで坐ったまま燃えている、人影も見えていた。とてもおだやかで、絵のようなゆうぐれの入り江に、一瞬にしてあらわれた、真っ赤な火の柱。・・・・・それで、UFOはどうなったかって?ま、残念ながらUFOじゃなくて、燃え上がったのは、自衛隊の対潜哨戒機なんだけどね。町の病院で不足した、緊急に必要な輸血用の血液を運んできて、それを安全に投下するため、あまりに降下しすぎての惨事だったわけ。山の木の枝に翼をひっかけてね。12名か、13名の搭乗員全員死亡。あと、吹き飛んだエンジンの破片であごを抉り取られたとか、山の下の民家にも、被害が。・・・・しかしそれらは後で知ったことで、その時は、一瞬なにが起こったかわからない僕たちは、言葉にならないささやきをかわしながら立ち尽くして、あとは子どもの頃誰にでも経験のある、好奇心いっぱいの行動が、放課後の野球など忘れさせて、さっそく現場へとかりたてたというわけ、なんだけどね。でも、あの、特撮映画のセットの中にいるような、あの日の港を見晴らす校庭からの光景は、惨事というものの、一瞬ののちの出現、その反転ぶりを、あざやかに刻みつけた事件だったなあ。なんのまえぶれもない、平和な日常から戦争への反転とか、想像しながら。・・・その墜落した「らんかん山」には、殉職した隊員たちのために、「くれないの塔」という、慰霊のモニュメントが立って、いまでも名瀬の港をみおろしているはずだ。昭和37年のできごと。

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2000年4月7日 金曜日

第4回「天国と極楽展」と、その中の「朗読会フェスティバル」について、最終的な予定表を青木栄瞳さんからいただいたので、雑感8にのせたものと、多少異動もあるようなので、再度おしらせしておきます。

第4回天国と極楽展
日時=2000年5月3日(水)〜5月9日(火)、AM11:00〜PM7:00
場所=「もみの木画廊」(世田谷区奥沢6−33−14、もみの木ビル2階、пE 03−3705−6511)
入場無料。

<作品出品者>
駒田克衛、 会場公一、 青木栄瞳、 浜江順子、 渡辺めぐみ、 神谷鮎美、 石田明子、 折原由津季、 かわじまさよ、 Qanta、 児玉恭子、 ヤリタミサコ、 日嘉まり子、 宮下美々、 上口真生、 谷敏行、 山下倫代、 沿道微光、 今泉義久。

朗読会フェスティバル
日時=2000年5月3日、PM2:00〜
場所=天国と極楽展会場にて。
入場料=2000円。             当日の会場の二葉の写真

<朗読詩人>
昼の部・ PM2〜4時
駒田克衛、駿河昌樹、 飯田隆昭、 清水鱗造、 一色真理、 ヤリタミサコ、 浜江順子、 岡島弘子、 鈴木東海子、 野村喜和夫。
夜の部・ PM5〜7時
青木栄瞳、 石川為丸、 日嘉まり子、 森原智子、 萩原健次郎、 会場公一、 長尾高弘、 添田馨、 原成吉、 支倉隆子。司会=宮下美々

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2000年4月9日 日曜日

札幌市で発行されている詩誌「グッフォー」(33号)を、水出みどりさんからいただいた。2000年春の号として、3月31日発行のもの。グッフォーというのは、おおいに笑う意味のguffawからきているのかなとか思ったが、あるいは、なにか土地の方言なのか。松尾真由美さんの名前も見える13名の同人たちの作品が、いたって生真面目な息遣いで、ずらりとならんでいる。男性2人にあとは全部女性。作品は多彩だが、たとえば「行商の苦労話といっしょにおみやげにもらった風鈴」(天野暢子「黄色い耳だし帽の喇不爺」)の音だったり、「どこにもない物語を/語ろうとする」(水木俊子「水の橋の物語」)欲望だったり、あるいは、「耳のほてり」(吉田正代「糸遊び」)だったりの、つまりは「いまここに在るということの/愛しさ」(水出みどり「遡る」)を、それぞれ1個の生の場所で、まずなによりも大事に大事に抱きとめようとしている作品の姿勢が、全体的に感じられて、僕には好ましく思えた。さらには、それらが「たとえなにも結実しない退化の1歩であっても/これには彼方へとむかう愉悦の拡充がある」(松尾真由美「眠らない種子の経路」)という、<いまここ>の実存への積極的な視線のうねりを感じさせる作品が最後にきて、<大事なのは、国のため、社会のため、みんなのため>の連呼の鳴り響くこの時代へ、言葉の<ひっそりとした熱気>をどこまでもさしだしていこうとする、この詩誌の、強い意志さえ感じられてくるところに、共感も染み出てくる。すこしも自明ではない、<いまここ>の、あきることのない掘削こそ、ひとひとり生きることの、大事!なのだと、いうように。それにしても、「選び取ったはずの危うい位相において」(眠らない種子の・・・)、松尾さんの、虚空への言葉の波打ちの迫力が、やはり僕には、1番ぐっとくるものがあったことでした。水出さん、ありがとうございました。

「グッフォー」=発行所・グッフォーの会(札幌市南区澄川 6条4−10−1−204 水出方)
                      頒価・ 600円

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2000年4月13日 木曜日

石原慎太郎都知事の「三国人」発言が批判をあびている。陸上自衛隊の記念式典演説でのことらしいが、「今日の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人、外国人が、非常に凶悪な犯罪を繰り返している。」・・・という問題の箇所を、テレビの映像といっしょに聞いていると、三国人=外国人のことで、つい頭に住み慣れた三国人という言葉を、脳の反射作用ですぐに翻訳するように、「つまり外国人」、といいなおしているようにも聞こえる。しかしまた、そうじゃなくて、三国人や外国人、と区別して別々のイメージで使っているようにも、聞きようによっては聞こえないこともない。どっちにもとれそうな「発言」である。しかも、どっちであったとしても、「不法入国した」という限定詞によって、どうしても差別発言に持っていきたいマスコミの「戦前的三国人=在日植民地外国人」や「戦後的三国人=蔑視的在日朝鮮人、台湾人」の一方的なきめつけは、この発言だけからは、僕にはいまひとつピンとこないものがある。辞書にある第一義的な意味での「外国人」のことをいったんだという、昨日の記者会見での知事自身の釈明に、「蔑称としての差別的意味があることをご存知なかったのですか?」とくいさがる記者がいたりしたが、「どもり」と「言葉の不自由なひと」とのどっちが差別的発言かが、使う人によってどっちともいえないということ以上に、かみあいそうにない追及のように、僕には思えた。もちろん、日本の差別的発言にめくじらたてて反応する国を重視した、国家を背負っての追及だというのなら、別だけどね。ただし、発言批判問題の種は、そうした<差別語の使用>にからんで、もうひとつあるようなのだ。つまり、そんな「不法な外国人」であふれる東京で、いったん大震災でもおこると、<かれら>による大騒擾の可能性もあるので、そんなときは自衛隊が国の軍隊としての自覚のもとに、警察にかわって行動しなければならない、という予測的認識の是非の問題。そうした認識と三国人発言が結びついて、関東大震災時の、三国人=朝鮮人暴動のデマによる悲劇などが思い起こされるわけだが、それが<短絡>なのか、そうでないのか、僕などには、判断のしようがない。記者会見で、「深夜の歌舞伎町や池袋での」外国人の脅威を語る石原都知事の発言には、僕などは、ただただ時代的な変容の実感をひしひしと感じてしまうばかりだ。かって、柄谷行人氏との対談で、「やっぱりアジアをいとおしみ、懐しみ、アジアのために泣いたり喜んだりする意識というのが出てこないとね。・・・・我々はほとんどのものをアジアに負うているんだから」(「変容する様式」すばる1989年9月号)と発言していた石原氏の、あけっぴろげな差別(選択)のことを、思い浮かべたりしながら。

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2000年4月22日 土曜日

エキスパンドブックや縦読みソフトT-timeなどによって、パソコンの読書環境は飛躍的に進歩しつつある。僕なども、いままで読まずに過ごしてきた近代小説の小品や古典物を中心として、はじめてパソコンの画面でじっくり読むということを体験させてもらっている。読みやすさという点では、ある意味で活字本より便利で良好な環境が整えられつつあるように思うし、光を相手にした目のつかれといったことが改善されたりすれば、ほんとに電子本が将来読書の主流になることもありえるだろうなあと、思ったりするが、ただある一点において、やはり気になることがある。それは、本のもっている、<自存性>ということだ。ある1行を読んで瞬間表紙を閉じ、これはどこか自分だけの世界に寝転んでひたるように読もうと場所を探し出す、おそらく読書世代には誰にも経験のある、あの<自存性>。読書のたのしみというのが、そうした行為全体をさしていうとしたら、表紙を閉じる、ページをめくる、といった本の世界のバーチャルな模倣がこれからもどんどん精緻にすすんだとしても、インターネットという言葉に代表されるように、どこか同質の光の偏在によって、<閉じながら開きっぱなし>の、在りようにおいて秘密性(世界への解放性)に致命的な穴のあいているパソコンの世界で、ひとびとが、かってのような<私だけの世界>の充実を感じることができるかどうか、一抹の疑念、なきにしもあらずである。もっとも、これもパソコンの<量的な一般化>によって、雑踏にまぎれるように自然に解消されてくることかもしれないが、いまのところは、どれだけ読みやすいといっても、やはり魅力は、活字本の自存世界にあるように、僕には思える。

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2000年4月27日 木曜日

高級な?詩の朗読会ははずかしいとおっしゃっていた青木栄瞳さんの、クラシック音楽と組んだ詩のリサイタルのおしらせ。今月はお知らせおしらせで、あまり気乗りのしなかった雑感サボれてウレシィ−(キビシーの財津一郎のノリで)。朗読会というのは、聞くほうより、演じるひとの方に力点も、熱気もむんむんしているような気がするが,青木さんの詩を読んでいると、やりようによっては、「詩の朗読」という既成概念をはずれて、なにか聞く方をひきつける「舞台パーフォーマンス」がうまれないでもないなあと、ひそかに思ったりもする。盛況をお祈りします。クラシック音楽のことは、僕はなーんにもわからないので、ハズカシィー(これも財津一郎のノリで)。

第3回「弦が奏でる心とリズム」−青木栄瞳の詩の世界
日時=2000年6月25日(日)PM6:40開場、PM7:00開演。
場所=立川市こぶし会館(JR立川駅のりかえモノレール砂川7番 徒歩1分、西武新宿線玉川上水駅 徒歩5分)
主催=立川アンサンブル(問い合わせ先、此村裕子пE 042−536−4638)
入場料=1000円

<出演者>
詩朗読=青木栄瞳・ ゲスト=御庄博実、清水鱗造・ バレエ=ジャクリーン・ レネ−ジャスティ−ナ・ レスリージェンセン由美・ 弦楽合奏団=立川アンサンブル(指揮・ 宮野谷義傑、ソロ・ 岡田鉄平vn、大貫聖子vn、河村治cello)

<曲目>
コレルリ合奏協奏曲第9番、レスピーギ リュートのための古風な舞曲とアリア、G線上のアリア、など。



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