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雑感16

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(「天秤宮」13号の校正で・・・)   (「年少者による殺人」について)   (詩誌「えきまえ」と「暗射」を笠井さんから)  (ヤポネシアの<海>)






2000年5月7日 日曜日

宮内洋子さんの「天秤宮」13号に、「インターネットな夜に触れながら―日々の雑感(2)」と題して、こんどもこの「雑感」コーナーの抜粋集をのせてもらうことになっているが、一通り赤字で誤字を訂正された校正刷りをみていて、自分の原稿自体の誤字の多さに、赤面することしきりである。感心を関心としたり、欄を覧、はまだキーボード変換のミスといいのがれ?ができるとして、遮断を処断としているのなどは、あきらかに僕自身の、音読みの習慣からきている、はずかしい誤字である。遮を<しゃ>ではなく、<しょ>と読んでしまって、挙句のはて、処断と遮断の変換ミスに気づかない、はずかしさ。こういったことは、僕にはたくさんある。身近な例では、携帯電話の<けいたい>を、ちょっと油断するとすぐに<ていたい>と読んでしまうことなどが、それである。ま、ちょっとした習慣の死角によって、多かれ少なかれ誰にでもあることでは、あるでしょうが、ね。そういえばいつだったか、僕などより学校の成績も優秀で、、本などもよく読んでいた、東京で教師をしている姉が、凡例を<ぼんれい>とよんだのには、得意げに笑ってしまった。ずっと習慣的にそう読んできて、はじめてきづいたような顔をしていたけどね。まあ、正確な文字、正しいことば使いも大事とは思うけど、やはりそんなことは、二の次、という思いがないと、なにも書けなくなる、という居直りが1番大事(^^;。遮断を処断といいふくめるのは言語道断、だけど(^^;。・・・・ま、ま、それはそれとして、去年創刊された「イリプス」やその他の詩誌にも精力的に作品発表しつつ、この連休、イタリア旅行をしてきた宮内さん、13号発行に張りきっているご様子なので、請うご期待、といったところです。やっと夏の気配が増してきている今日この頃、イタリアおみやげのおいしいお菓子ほおばりながら、僕も、校正作業に精出しているところであります。やっぱり、暑い季節がいちばん!

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2000年5月14日 日曜日

まさか、流行りというだけで人殺しできるわけもないだろうから(あるいは、流行りというだけで、人殺しできるわけだから?)これは、いよいよなにかがおかしくなっていると、新聞テレビにおどっている、「年少者による殺人」の言葉に、不安になってくる。理由なき殺人とか、いう言われ方もされるが、むなしさ、息苦しさ、かったるさ、等々、それらも、理由と言えば十分に理由である。愉快犯には愉快犯なりの<理由>が、やはりあるのだ。なにしろ、飛び道具一発で、事故のように相手が(あるいは、自分が)倒れるわけじゃないんだから、ね。そんな事件もあるにはあるだろうが、このところの高校生を中心にした事件の陰鬱な凄惨さは、ひととひととの<関係>についての、なにか、はっきりと、大切な<理由>を、この社会につきつけているような気がしてならない。意識的な確信犯とよぶには、あまりにもどろどろと、無意識からの触手がのびてきて、かれらが<やらされてしまって>、いるような。この種の事件については、これまでこの雑感コーナーで述べてきた感想に、僕の場合いまのところつきているが、それにしても、僕たちの十代の頃のいわゆる<不良>も真っ青の、見た目<優等生づらした>猟奇犯罪者の増加は、なんといっても、この時代の、明記すべき特徴だろうか。加えて、中学の先生をしている姉の話などを聞くと、普通の、ごくごく普通の生徒に蔓延している、精神的な不安定さ、異常さは、想像を絶するものがあるようなのだ。たやすく、僕などの世代が、昔を振り返って、類推、憶測することは、できそうもない。すべてが逆転してしまった感じだ。いつだったかのテレビで、作家の阿部譲二さんが、いまの時代は、市民がやくざみたいになっているからなあ、ともらしていた言葉が、元やくざの彼の発言だけに、実感がこもっていて、いまも印象にのこっている。経済の動向に絶対的普遍的な価値観をもとめて、それに翻弄されながら、どんどんどんどんくだらなく、悪くなっていく感じが、僕には濃厚だ。もっとも、こんなこといくらいっても、この世の明るみを支配している経済社会の自己防衛反応は、わかりきっているけれどもね。

「堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただみずからに頼る以外に術のない宿命を帯びている。」(「続・堕落論」角川文庫)

かって戦後の廃墟のなかで、坂口安吾はこう書きつけて、日本国民よ、もっともっと堕落せよ、と逆説的に呼びかけたが、経済社会的な<関係>に脳髄までからめとられたような現在の社会状況では、堕落しても、みんなといっしょ、こうした<孤独>の領野がひらける場所も保障もない、というのが、ナンギでアブナイところなのでございますよ。

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2000年5月19日 金曜日

詩誌「えきまえ」38号(富山県、田中勲さん発行)と、「暗射」春号(北海道、佐々木美帆さん発行)を笠井嗣夫さんからいただいた。このところどうもパソコンにむかうのがおっくうで、更新さぼりがちになってきているのだが、笠井さんもご自身のサイトの掲示板で、春はどうもきらいだ、白一色の世界から、生命の芽吹き、土のにおいにいきなりさらされていく北の春が、いやだみたいなこと書かれているのをみて、怠惰なだけの僕とはまた違うものの、なんとなくわかる気になったりして、微苦笑?していた矢先なのであります。鹿児島の春はといえば、いきなり夏を孕んでしまううきうき感はあるものの、やはり現世が蒸気するほどの?暑さはなく、かったるさのなかで、ごろーんと、現実のふてぶてしい意味ありげな顔つきに直面しなければならないような、不毛な緊張感があって、僕はにがてである。もっとも、たえず夏の暑い闇の予兆をあびつつではあるので、北国とは違い、元気はでてくるわけだけども。でも、南にはないその大きな落差が、北のひとたちの深みを生み出すのかもしれないなあとか、ちょっと、うらやましかったりもして。・・・それはともあれ、いただいた詩誌、まず詩誌「えきまえ」では、倉田良成さんの詩「川の南へ下る」が、川という多相化する幻想の時間に浮かび、地球的な規模で流れくだりながら<語ら>れる、とても上品な男の感傷に触れる感じで、(ジャズ的な語り口、といったらいいのだろうか)、すこしまえまでは素直に体にはいってこなかったこういう詩が、すこし酩酊するようにも、イメージをひろげてくれるのに、僕自身いぶかり、得した気になったりした。それから田中勲さんの「霧のひと」という作品、ある同窓生についての思い出のメモのような詩をきっかけとして、詩の手前で、とりあえず手応えある詩の空間をひきよせようとする、楽屋行為的な詩なのだが、そのとりあえずの志向性に、ひそかに共感するものがあった。この2篇に、笠井さんの「最近の詩集から」という、実力ある若い詩人の詩集をとりあげながらの、言葉が言葉へと開き拓いていく<虚の実質>世界をあくまでみすえていこうとする、詩集評の3本立てで、こじんまりと充実した号になっている。あとがきに言及されていた、「やはり要職にある者の発言としては」とかいった、例の石原都知事の発言批判の言葉に、ちょっと、ひっかかるものがないわけではなかったわけだけど・・・。ま、それはおくとして、次に「暗射」春号、日記のコーナーをかの「だめ連」の人が書いているのも、興味深い。「テレビ朝日「たけしのTVタックル」に出演(笑)、だめ連の初のゴールデンタイム進出(笑)&スタジオ参加。ぺぺ、西尾幹二をギャフンと言わせるも、放送ではカットされる」などの記事も。また前号につづいて、笠井さんの映画監督論「三隅研治の描き出す光まばゆい闇(中)―剣」がおもしろかった。そうか、あの三島由紀夫の「剣」という映画は、この監督の作品だったのか、と、うろ覚えのかって見た三島映画を思い出しながら、興味深く読ませてもらいました。<夭折願望>という三島由紀夫のキーワードを論じながら、「自作自演の自殺映画『憂国』(66年)の背景には、墨痕も鮮やかに「至誠」と大書された軸が掛けられていた。この言葉には、当時の観客が読み取ってしまった政治的意味などはすこしもない。「至誠」なる観念の虚妄性は、なによりも三島自身がよく知っていたはずだ。」と言い、「おそらく彼はスクリーンの闇のなかで、みずからの死の行為を予行し、反復したのだ。」と推断する、三島由紀夫と政治の<関係>についての言及に、おおいに同感したりしながら。映画の「剣」も、また見たくなってしまったので、さがしてみようっと。それから、それから、「暗射」にはそのほか、なつかしい、ケイテツソウコウ、「経済学・哲学草稿」の言葉にであったりして、今回も、十分に楽しむことのできた、感謝感謝号でありました。笠井さん、苦手な春のなか、お気使いいただき、どうもありがとうございました。

「えきまえ」=発行所・田中勲(富山県下新川郡入善町駅前)
                   頒価・500円

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2000年5月24日 水曜日

たとえば、いまはなき作家島尾敏雄の提唱した直感的概念に、ヤポネシアというのがある。島と島とをつなぐ、あるいは隔てる海というもの、それを生活環境として深く抱えこんだ日本列島の在り様を、太平洋という巨大な海へと弓なりにしなった、大陸よりむしろミクロネシアやポリネシアへと浸透していくような、太平洋島嶼文化圏の隅っことして、あらたに捉えなおすというもの。そこから浮上してくる、縄文文化的な日本の古層によって、複層的な日本文化の根っこにひろがる、ある解放的な世界へと視線を届かせようとするものだけどね。僕は、このヤポネシアについて、若い頃のつたない文章で、「いわゆる南島ブームを先誘する核となってきた<ヤポネシア>という孤島弧の多様性の発想やら、その内なる琉球弧の独自性の主張も、それに底流する強靭な問いかけに視線を透射させない限り、知的形骸化は必死であろう。>(島尾敏雄の残照)と、なまいきにも書いたことがあるが、昨今のスピルバーグの宇宙人映画にも似た呆けた視線でにぎわう縄文ブームや、海は隔てるものではなく、つなぐもの、といった、文化的連帯意識を強調する議論が支配的ななかにあって、やはり、島尾敏雄の直感がとらえたヤポネシアのイメージにひろがる<海>、それをどうとらえるかによって、ずいぶんヤポネシアの概念もちがってくるんじゃないかなあと、知ったかぶりは少々薄れた頭で、若い頃同様その「知的形骸化」について危惧したりしている。島尾敏雄自身、その文化論的な価値については多言するものの、そもそもの発想の底にあったと思われる広大な<海>のもつ意味については、ほとんど語っていないわけだけどね。でも、僕には、ヤポネシアという概念が生きるためには、この<海>をどうイメージするかは、とても大事なことのように思える。僕としては、断絶とか、虚無とか、の否定的イメージではなく、同時に、連帯とか、海の道とかいった、地続き的イメージでもなく、位相的な可変世界、広大にうごめく<余白>、として、<島>をとりまく関係世界に浸透しているのじゃないだろうか、と、想像したりしている。すこしも予断できない、予定調和的でありえない、<余白>というここちよい緊張に<あらわれる>、関係世界・・・。それでなければ、そもそも、太平洋へと視線をふりむけた意味がない、とか思いながら。まもなく沖縄サミットが開催されるそうだけど、連帯、つながり、ばかり強調していると、ヤポネシアという概念だって、いつ政治的に利用されるかわからないわけで、ね。

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