エスニック
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(よろしく、と、ありがとうございました) (ありがとうございました、そのA)) (そんな時、ハルのことが・・・) (石川為丸さんから「パーマネント・プレス」29号を) (敬老の会にでかけていく母をみながら) (高橋秀明さんから「BIDS」誌を)






2000年8月7日 月曜日

 ほんとは今月は、すべての更新お休みしますと、なるはずだったのですが、迷いに迷って、7月31日の夜11時ごろになって、ちょうど沖縄の石川為丸さんの「パーマネント・プレス」へ送るための詩を書き上げた勢いもあって、映画のコーナーにせめてひとつでも、記事をのせたくなってしまい、急いで書いて、UPしてしまったのが、どうにも、中途半端な姿勢になって、「更新お休み」の断り書きを、表紙に書き逃してしまいました。それでも、とにかく、今月は、なるべくぼうーっとして、更新のこと、気にかけずに過ごそうと、思い決めたわけですので、よろしく、です(^^;。石川さん、8月中旬頃お送りしますので、よろしくお願いします。

 それはさておき、1昨日いただいた、札幌の水出みどりさんのお葉書から、前につたない紹介をさせてもらった、彼女たちの詩誌「グッフォー」とは、イタリア語で「ふくろう」のことだと、教えていただき、おもしろかったです。というのも、わが南島、奄美大島の言葉では、ふくろうは、ツクホ>テイコホ、というので、たぶんどちらも擬声語で、音韻的にも類縁のある言葉のように思えたから。テイコホー、テイコホー、と、夏のいなかの深い闇から聞こえてくる、ふくろうの声は、いまでも、その雰囲気とともに、思い出すことができる。ちなみに、みみづくは、奄美では、ミンッコホ>ミャッコホ、というそうだ。水出さん、こころのこもったお便りありがとうございました。「天秤宮」への過分なお言葉も、胸に染みました。

 それから、これも1昨日いただいたのですが、中本道代さんからの読みごたえある詩誌「ユルトラ・バルズ」(5号、6号)。詩はもちろん、エッセー、評論も充実していて、秋元幸人さんの「吉岡実と『死児』という絵」、「吉岡実のエロティシズム」など、とても興味深くよませていただきました。「荘子にふれて」色々な思考をひろげていく國峰照子さんのエッセー、ウイットにとんだ新鮮な視界を提出する、中川千春さんの随想など、まだパラパラめくっただけですが、おもしろそう。消えゆくものとしての、この現象世界のあやうく、謎に満ちた奥行きと欲望の美をみつめつづける、中本道代さんの詩作品は、こんども、とても魅力的です。僕はとくに、「摩天楼の林の中で//  コノ花ヲ見ルタメニ/  コノ二ツノ黒曜石ノ瞳ハ生マレタ//電磁波の交錯する空の下で//   コノ花二触レルタメ/  コノ五ツノ指ガ細ク勁ク裂ケタ//「私は死んでしまうの?」//掠れた声が答えもなく響く」の句を含む、「metropolis」という詩が、うまいなあと、ジンときた。中本さん、「天秤宮」へのうれしい感想ともども、ありがとうございました。

「Ultra BARDS」=編集はメンバー交代制?6号編集・國峰照子(高崎市双葉町15−10
              定価=800円

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2000年8月17日 木曜日

 4、5日前の同じ日に、笠井嗣夫さんから「暗射」夏号と、青木栄瞳さんから「絵に描いた餅」ならぬ、「絵に描いた桃」詩誌のお礼にアゲル(^^;のお葉書いただきました。この夏は、桃とパイナップルを中心の手づくりジュース、飽きもせず飲んでいるので、バレタかな、とか思ったりして(^^;。「太く、おおきく、ご健筆を」の青木さんのはげましのお言葉、肝にめいじます。まあ、才能も体力もないのが、あがいても、仕方はありませんが。ありがとうございました。「暗射」は、笠井さんの映画論「暗闇のフラッシュバック」を毎回読むのがたのしみですが、今回は、「三隅研治の描き出す光まばゆい闇」の最終回として、映画監督三隅研治の作品から、「剣鬼」「新撰組始末記」「座頭市血笑旅」がとりあげられている。日本映画全盛期の大量生産される娯楽作品の作り手として活躍した監督ながら、その映像に秘められた独特の宿命観をみつめるとき、そこに日本映画における「希有なる悲劇作家」を認めることになるとして、数奇な出自をもち、「不幸な宿命から脱出するために技を磨くことによって、むしろみずからの不幸の根源へと吸いよせられていく」三隅映画の主人公たちを語りながら、笠井さんは、次のように敷衍している。「ひとがみずからの存在の根源へと限りなく還帰していくということは、悲劇であっても不幸とは少し違う。いやたとえそれが不幸なことであったとしても、私たちはみずからの存在の根源へと還帰する以外に、自己との分離を感じないで生きるどのような方法があるだろうか」と。これは、現在においても(いや、現在においてこそ)、ひとつの、生を語るときのポイントである。いってみれば、なんどもなんども確認すべき、生の原則のようなものではないだろうか。僕は、そう思う。笠井さんの文章は、日本娯楽映画?への熱いこだわりが、なつかしくも、鋭い現実反射力となって、僕をここちいいもの思いにふけさせてくれるので、好きだ。「暗射」はこのほか、今回からの新シリーズ《沖縄で考えた@琉歌考ー宮里政充『吉屋鶴幻想』(菁柿堂)》が、清水三喜雄氏によって、始まっている。言葉のリズムの問題、習い覚えたことばの問題、など、単に抑圧、圧制の面からだけ語るには、複雑すぎて、むつかしいが、これからの展開がたのしみ。詩作品「雨脚の色」(佐々木美帆)も、神長恒一氏の日記も、しっかり読ませてもらいました。

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2000年9月6日 水曜日

 一ヶ月なんてまたたくまに過ぎてしまう。もう夏のおわりで、僕はといえば、まださぼりたりない(^^;。もうこのままずっと、沈黙して、ぼうーっと、うつらうつら、埒もない思いに沈んだまま、時をやりすごしたい気持ちでいっぱいだ。じゃー、そうすれば、の声。ま、そうはいかないところが、渡世人のつらいところよ、とかいえる立場でもないが、せっかく始めた自分自身の空白を埋める仕事、義務でも責任でもない、この<せっかく>に押されて、またつづける気になっている。はじめてしまえば、また別の楽しみと快感がまっているのも、わかっているから、ね。・・・ん?なにをくだくだと、つまらない口上ならべているのかって?はは、いわば、一種の車のアイドリングでおます。しばらく、ぼうーっとしていて、なにも秩序だった言葉が頭に浮かばない(^^;。自分でいままで書いたものを読んでも、よくあんなこと書けたなとか、アホみたいに感心したりして。このままいくと、確実に、痴呆状態になるかも、とか、うれしそうに?危ぶんだり。僕はといえば、いつもこんな状態から状態への移行のくりかえしですが、そんな時はかなくも思ってしまうことは、なぜかあの映画『2001年宇宙の旅』のハルというコンピューターの、プラグを抜かれるたびに消え入っていく知識や思考の、かなしい声のこと。ま、僕などは、つまらない頭しかもたないですが、例えば長年複雑な知識や思考と関わって、入り組んだ神経回路を発火させてきたようなひとでも、年をとっていくにつれて、なんとなくのっぺりとした、そのひとの人生のはじまりの時期へと、不可避的に溶けいっていくような、そして最後にのこるのは、知識や思考の痕跡ではなく、無機的なコンピューターとは違った、そのひと独特の性格的な何かであるような、そんな姿の、はかなくも希望のようなものに、僕などは、どうしても思いが行ってしまう。性の幻想をぬきにしても、ひとがひとにいつまでもひかれるのは、結局のところ、お金とか知識とかなんとかではなく、<そんな姿>への、汲み尽くせない愛おしさ、からではないのだろうか、とか、思ったりしながら。

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2000年9月10日 日曜日

 今回は僕のつたない作品も載せてもらっている、沖縄の石川為丸さん発行の詩の新聞、「パーマネント・プレス」29号が、早々と刷り上って、「クィクィ通信」6号といっしょに送られてきた。タブロイド版の表と裏の白い面に、びっしり批評文と詩作品のつまった、硬派の季刊誌.。ヤワな僕の作品が恥ずかしい(^^;。火種のつきない、危険極まりない、異国の巨大な軍事基地が居座る小さな南の島沖縄で、その政治状況、文化状況と正面からむきあいながら、詩について、文学について、自力の考察をつづけている感じの石川さんが、もういちど、その自分の思考の底にある時間と空間の実質について、確認の作業をしてみたい、とでも思いきめたような、「逆転写」という連載批評の第2回目が、表の白面いっぱいを埋めている。まだ連載がはじまったばかりで、確定的なことはいえないが、歴史に翻弄されながら、理不尽な姿をさらす<沖縄>を、単に政治や経済の問題としてではなく、ひとひとりの生の場所として、どこへ奪いかえすか、という細く長い問いかけの道筋が、、ほのかに浮かび上がってきているようには思えた。石川さんにとってそれは、どんな「「既成組織」への復帰でも「市民の生活圏」への復帰でもない、「自分たちの挫折」に荷担する途」として、はじまっていくのだが、おもしろいと思ったのは、かっての熱い基地闘争の中から、日本復帰にも、沖縄独立にも希望を見出せず、詩という「虚の中に」、「空白の中に」言葉を獲得していったという<清田政信>という詩人と、「どこにも帰属しないたった一人の自治区を心の中に持ち続けようとした」という<佐々木薫>という詩人を、ともに自己仮託的にとりあげながらも、<沖縄>を、この「たった一人の自治区」のほうへ、そうしたひろがりの可能性のほうへ、なんとか寄り添わせるように語り出していく、石川さんの論調だった。まだほんの示唆的で、どう展開していくか、わかりようはないが、先取りしていえば、そこからは僕には、とても共感できるおもしろい視点がみえてくるようにも思えたのだ。つまりはそれは、例えば清田氏が書きつける「自らがこの日常の生を許す分だけ詩は堕落し、日常への批判の深さの度合だけ言葉の宇宙を豊かにする。日常を肯定しているところからは詩は創れないし、また日常から想像力を非日常の領域へ突入させ得ない思想は、・・・・」云々にある、「日常」「非日常」という言葉を、文字通り逆転して、今日的にとらえかえすことに、つながっていくのじゃないだろうか。<日常>こそ、可変であり、ほりすすむべき、なにかであり、「市民の生活圏」へと奪われ、固定させないように、死守すべき、詩なら詩の、根拠、さわだつリアルな空間、なのではないだろうか、と。そして、むしろ「市民の生活圏」こそ、現在では、絶えず<日常>を<非日常の領域>へと奪い取っていく、理不尽な力そのものになっているのではないのだろうか、と。石川さんは、どこにもそんなこと書いているわけではないが、僕には、チラッチラッと、そうした視点を彷彿とさせる論の運びになっていて、期待感が高まった。表題の「逆転写」とは、そうした<空間いれかえ>の意味かと、想像したほどに。次の論考がたのしみである。石川さん、ありがとうございました。こんどは、いろいろとおせわになり、重ねて御礼申しあげます。ほんとは、「クィクィ通信」にのっている詩、現代の教室でとりのこされたように、ひっそりひもじい思いをしているひとりの子どもと、その教師の関わりについての詩のこと、色々同感や反発しながら、多くしゃべりたかったのですが、長くなりそうなので、やめます。でも、やはり、なにはともあれ、詩はいいものだと、思いました。

 「パーマネント・プレス」=発行所・おりおん舎(那覇市牧志3−20−5−308 石川為丸事務所
                  頒価=200円(送料別)、1年購読料=1000円(送料共)

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2000年9月18日 月曜日

 ひところまで、夜中にトイレに降りていくと、ビクっとするような明かりが、客間からもれていて、反射的に投影してしまう霊気と、またかと、気力の抜けていくうんざり感、どうなっていくのかという不安感で、父の介護に加えて、それ以上に神経をすりへらす日々がつづいた時期があった。客間にはいると、テーブルのうえにきちんと三人分、お茶とお菓子が出されていて、誰もいない。台所にいくと、暗がりの中に母が立っていて、「きているでしょ? ○○(母の男親の名前)と○○(男親のめかけ?のなまえ)よ。もうひとり、誰か、しらん人まで連れてきて。」とおこっている。うっかり話しに乗ると、妙にこじれてきて、ばかばかしいくらいややこしくなって、諍ってくるので、「ゲンチョウ、ゲンチョウ、ゲンカク、ゲンカク・・・」と唱えながら、台所の電気をつけ、茶碗を片付ける。「置いとけちよ、お茶でも飲まして帰さんと、この家に居さしてくれち、言ってるから。」と、変わりばえのしない、同じようなセリフを吐いて抵抗するのを、振り払いながら。ある日など、午前3時か4時ごろになって、「きている」から、そこのバス停までむかえてくる、といって、寝静まった道路にでていこうとするので、おしころした声で、ひともんちゃくしたこともあった。またある日には、やはり午前2時か3時頃トイレに降りて、どうも様子がおかしいので、母の部屋をのぞくと、庭に面したガラス戸が大きく開いていて、カーテンが風にふくらんでいる。母はいない。家の隅々、庭の植木の陰など、懐中電灯で照らしてみても、影も形もない。これは、いよいよ徘徊が始まったかとドキドキしながら、門をでて、道路をひとまわりさがしてみても、まったくひとけはない。どうしたものかといったん家に帰って台所の椅子にすわっていると、玄関に音がして、妙なそれこそ微苦笑を浮かべた母が、両手には細身の包丁と懐中電灯をもち、「帰ったでしょ?」と言って、入り込んでくる。「どこにいたの!」と手品のような出現におどろいてたずねると、庭から家の裏っかわにまわって、塀と壁の狭い暗がりに身をかくしていたとのこと。「あれなんかが、おそろしくてね」と。・・・こうしたことをくりかえしながら、親ばかりではなく、いまな亡き、あるいは遠く離れて会えない友人知人の声などとの、傍目には一人芝居としか思えない、会話交流(^^;が生まれだし、僕には、父とはまた全然違った、母とのすったもんだが始まっていったのだが、薬づけ、肺炎の併発、等々で、もうすこしで父より先に死ぬんじゃないかというところまでいきながら、色々の経過を経て、おそらくこれからずっと呑みつづけなければいけませんよといわれた、病院の薬も今では呑まずに、時々あやしくはなるものの、たいしたゲンチョウもゲンカクもおこらず、一昨日の敬老の日には、町内のお祝いの会になんとか元気にひとりで出かけていくまでになった姿をみながら、あれらはなんだったんだという思いと同時に、なんだかわからないオンナの生命力に、ほとほと感心してしまっている。もっとも、母には、父とは違って東京の姉の強力な協力があったにしても(^^;。僕には、このヒステリー持ちの傲慢な年よりが、大の苦手ではあるにしても(^^;。父と母の、もう笑うしかない天下一品の仲の悪さは、父の死後もつづいていて、父はいないのに、僕はといえば、仲裁の気分にせかせか反応することが多い(^^;。でも、あーあ、これらすべてが、この世での、僕の家族なのだと、いまは、なんだか、感慨深く、しずかに思うばかりなのだ。ぐしゅん。

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2000年9月24日 日曜日

 去年「言葉の河」というすばらしい詩集を出版した詩人の高橋秀明さんから、どっさりとした、内容盛りだくさんの同人誌「BIDS](6号、7号)をいただいた。6号が1998年11月発行で、7号が2000年8月30日となっている。間があいているものの、別冊として、「BIDS LIGHT」という詩誌も発行しながらの、旺盛な批評活動をおこなっている同人たちのようだ。松尾真由美さん(「いっそう眠りの薄片を」(7号)が読ませる)などの詩作品からはじまり、高橋さんはじめ今村秀雄氏や吉田光夫氏、垣口朋久氏などの興味深い、本格的な論考や小説がずらっとならんでいて、まだまだ読み飛ばした感じの印象しか記せないが、全体として残ってくる、主題のようなものを浮かばせるとするなら、やはり〈対幻想〉領域への関心、ということになるだろうか。「もしも戦後民主主義と呼ばれるものの実体が、この女と子供や家族やのエロス的領域の成立のことだとすれば、この具体的な中間領域の言葉は、抽象的な「私」という内面性や、あるいは「日本国民」というような均一の共同主体には、後戻りしないし、吸収されないのである。/だから、私(たち)がこだわるべき言葉の主戦場とは、この女や子供たちとの民主主義的な対立の領野においてであると思われる。加藤が望むようには、憲法や国家との関係を「生き生きとした緊張感のあるもの」に作り直してゆくという方向には、向かうべきでないし、またそうならないだろうと考える」として、いろいろの論議を呼んだ加藤典洋著「敗戦後論]を批判していく、今村氏の文章はいうまでもなく、引用された震災詩自体にひきこまれてしまう、同じく今村氏の「たかぎたかよしの地震詩『雨状八編』」(「・・・一個のたぶん陶器製の便器が、死に逝くほかない母とこれを見続けるしかない息子という、二人の視線の交錯点の関係においてこそ濡れ濡れと不安に光っているのである。・・・」)や、まだまだどうにも謎の多いあの神戸の事件をドストエフスキーの作品の主人公と重ね読みするようにして論じた、高本茂氏の「暗喩としての「酒鬼薔薇聖斗」」(「・・・対関係の構築の失敗の結果だと私は思う。・・・」)、これはまだ読んでないのだが、吉田光夫氏の「「『智恵子抄』の現在ー「樹下の二人」と「山麓の二人」」などなど。そして、なによりも、その題名もそのまま「対幻想の物語のゆくえ」という、高橋秀明さんの〈家〉への熱い思いをつづった論考が、それを理想的な対象としてみすえていこうとする形になっているわけだが、さて、と、せっかく本人からいただきながら、頭の悪い僕は、この高橋さんの文章を読みながら、どうにも異和がでてくるのに、困った(^^;。もちろんここでは、かくある〈対幻想〉というより、かくありたい、見果てぬ夢としての、高橋さんの言葉をかりるなら、「何の取り柄もない屑みたいな人間同士でも、傍からは窺い知れない理由によって相互に深く敬愛し合う生涯を分かち持つことができるはずだ、というようなたわいない幸せが予定された」〈対幻想の物語〉のゆくえが、追われているわけだが、たとえば、〈屑〉と、〈ゴミ〉(「ひとりの孤独な人間として生き死にするということは、「ゴミ」のように自己の存在を扱われることを覚悟するということなのだ。」)、は、どう違うのだろうか、といった、(^^;なんか、文章の揚げ足とりみたいな箇所に、僕などはひっかかってしまって、そこから、また最初の方にもどって、理路をたどりなおす、というようなことをやって、ほんと、頭の悪いせいか、うまく、すっきりしたイメージが結ばなくて、困った。〈ゴミ〉のようにその死体を放置された、孤独な詩人?コーネリアスだって、濃密な〈対幻想〉の世界を、あるいはそこへの希求を支えとして、ひっそり生きていたのかもしれないわけで、その死体にかかわり、それを放置する具体的な人間の〈対幻想〉の在り様は問わずに、共同体はそれをゴミとしてあつかうわけだから、〈そうならないように〉屑のような私は、孤独を慰撫してくれる〈家の光〉を追い求めていく、という方向ばかりを諾ってしまうと、〈対幻想〉は深まるかもしれないが、広がっていかない(力をもたない)、という感じがどうしてもしてしまう。それに、直感的に言うわけだけど、〈家の光〉?だけでは、高橋さんが統合したがっている、和辻的〈愛する相手〉とバタイユ的〈愛する相手〉の、そもそも立っている〈幻想領域〉が、違うのでは、とか、色々。もちろん、家族解体論的とはまったく別の場所からの、共感を交えた、素朴な疑問として。まったくの見当ちがいで、笑われるかもしれませんが・・・(^^;。まだまだ、何回も読み直してみます。それにしても、ほんとに盛りだくさんの本、おいそがしいなか、ありがとうございました。

 「BIDS」=発行所・吉田光夫(宝塚市逆瀬台1−8 D棟704)
        定価=1000円

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