エスニック
雑感2

雑感もくじへ
(言葉の緊張感ということ・・・) (死にかけたことが二度ある) (スティ−ブン・ キング・・・) (岩下志麻さんとみつめあう・・・) (幸福な人の世界は・・・) (盗作問題への反論が・・・)





1999年6月18日 金曜日

  たとえば、阪神大震災を経験した詩人たちによって、いろいろな詩が書かれ、そのがれきの山から、ふりしぼるようにして発せられる、経験への問いかけを、重くうけとめながらも、その重さのなかに、僕たちは、いかに、言葉というものが、生々しければ生々しいだけ、他人には、伝わりにくいものであるか、といういらだち、あきらめ、が、才能ある詩人たちを、二重の戦いに駆り立てているなという、感触を、密かに含ませてきたのではないだろうか。どれだけ、言葉をつみかさねても、他人には、伝わらない、どれだけの、言葉を受け取っても、他人のことは、よくわからない、という、言葉の側の緊張感、をである。それなのに、どうして、あいかわらず、オウム事件、酒鬼薔薇事件といった、社会的に重大な事件がおこるたびに、それを、ほとんどワイドショー的正義感や、「自分のなかにもある・・・的要素」といった、安易な自己回収的理解で、<経験化>しようとする詩人が、あとをたたないのだろうか。なぜ彼らは、すぐに、<わかって>しまうのだろうか。

up

1999年6月20日 日曜日

   静かに、ものもいわず、すうーっと、死にかけたことが、二度ある。いずれも海で。一度は、5つか、6つの時、同い年の近所の友達とその妹3人で、亜熱帯の夏の真昼の、人工4万あまりの街が、シーンとしているなかを、影を濃くして、数人の釣り人が、糸をたれている突堤へ、見物にいったときのこと。誰かの糸がひいて、3人はそこへかけてゆき、水面に引き寄せられる魚をみようとして、真っ先に膝を突いて身をのりだした僕が、そのまま頭から海へ、落ちてしまったのだ。目をみひらいたまま、はじめてみる海の中だったろう、しこたま塩水を飲みながら、あがくこともせず、しばらくのあいだ、その、音の無い、透き通った青の世界を、みつめていたように思う。すると、また、すうーっと、からだが浮き上がっていき、一瞬はらわれた水の膜のむこうに、友達とその妹が、無言でこちらをのぞきこんでいるのが、夢のような距離感で、見えたのだった。まわりには、ひとのかたまりも黒々とあったように思うが、おおげさでなく、この時の光景、この時の僕と<彼ら>との関係の構図が、僕の人生において、なにか啓示的な意味をもっているかのように、くりかえし、くりかえし、思いおこされてくるのである。ふたたび沈んでいく僕は、とてもしずかで、こわかったと、その直後に飛び込んで運よく助けてくれた見知らぬおじさんが、おしえてくれた。名前も聞かず去ってしまった、僕の命の恩人である。もう一度は、小学校1年か、2年の時、七つ違いの兄と、その近所の友達について、近くの浜に泳ぎにいったときのこと。まだ泳げなかった僕を、拾ってきた丸太ン棒につかまらせて、足のたたないすこし沖の方まで、二人で、ひっぱっていって、おそらく、なにか景色にでも気をとられていたのだろう、ふっと丸太を見ると、僕の姿が無い。あまりに音もなく、消えてしまったのに、驚いたふたりは、必死でもぐってさがしたとのこと。「ちょっとは、あばれたりせんばあ」と、兄たちは、ヒヤヒヤのあとの安堵感から、冗談まじりで、いっていた。車の事故、オートバイの事故、けんかなどで、怪我したことはあるが、僕が自分の死を考える時、まず最初に思い浮かべるのは、このふたつの出来事、である。

up

1999年6月21日 月曜日

 作家のスティ−ブン・ キングが、車にはねられ、重傷との記事が、今日の新聞にでている。命には別状ない模様。まだ51歳なのか、と改めて感心したりして。なにか年少者による猟奇的事件が起きると、彼の原作のホラービデオなどは、真っ先にビデオ店の奥のほうに、AVビデオをかこむようにして置かれたりする日本だが、全くの逆効果だということが、なぜわからないのだろうかねえ。それに、誰でも、本当は、わかっていることなのだろうが、映像が原因、映像の影響、とかいうのは、本末転倒もはなはだしい、ということ。本の読み方、映像の見方、空想の働かせ方、等々、それらに最も基本的な距離の取り方を、無化しよう無化しようと働きかけてくる、抗しがたい現実の(コマーシャリズムの)ことは、棚にあげておいて(通りいっぺんの、良識的意見として表明されるだけで)、本来、距離としてあるべきはずの、そうしたメディアに、批判の目が集中するというのは、まあ、なんだか、巨大な、自作自演劇を見ているような、感触だ。それはともかくとして、いろいろなところに目のとどいている彼の文章は、すばらしい、よ。といっても、僕は、日本語訳でしかよめないけど、ね。

up

1999年6月22日 火曜日

 小学5年生くらいのころ、奄美大島は名瀬市の、小さな映画館裏手の、板塀越しに、夜の闇の中で、僕は若い日の女優岩下志麻さんと、一対一でみつめあったことがある。

おまえだいじょうぶかと言われそうだが、状況を説明すれば、なんのことはない、奄美ロケを盛り込んだ松竹映画のあいさつかなんかで、特別来島し、その小さな映画館の裏手にしつらえられた狭い控え室に、彼女は出番を待って待機していたのだったろう。会場に入れないファンが、高い板塀の隙間から、一目みようと、くろぐろとした一団をなしていたが、いっしょにきていた近所の芸能好きの高校生の兄さんが、「肩車したらみえるかもね」といって、小学生の僕を夜の闇の中に高々と持ち上げたのだ。目の高さが、塀を越えた途端、光り輝く若く美しい女優のすがたが、いすに座って、真っ正面にあり、何人かのスタッフとおぼしいひとたちは、彼女のほうを向いて、背中だけをみせており、つまり、一瞬間、僕は彼女を、彼女は僕を、たった二人だけの世界で、みつめあったというわけさ、はははは。もちろん、いきなりむこうは川の流れる闇の中に、ぬっと子供の顔があらわれたのだから、はっとしたような、きつい視線が過ぎったのが、わかったけどね。ものすごい、という形容がぴったりの、うつくしさだったなあ。・・・・・・

(ヤッパリ、オマエ、ダイジョウブカ?)

up

1999年6月23日 水曜日

 「幸福な人の世界は、不幸な人の世界とは別の世界である」という、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のなかの言葉がいつも頭にある。これは、不幸、幸福という言葉でなくても、要するに、量的質的な違いではなく、位相の違ってしまうほどの世界が、ひととひととのあいだにはありうるのだ、ということであろう。「わかりあえる社会」を気持ちよく言う前に、このわかりがたさ、理解のとどきにくさの、緊張感を、よりよく深めることのほうが、大事なことなのじゃないだろうか。人と人との、距離を安直に縮めることよりも、人と人との距離をどう創出するかが、現在とても大事なように。

up

1999年6月26日 土曜日

 今日とどいた「詩学」7月号に、沖縄の石川さんたちが追求している「盗作問題」(「詩学」4月号などに掲載)についての、雑貨屋のオヤジ的な反論(?)がのっている。題して、「モチーフの転用」。そうじゃないから、と石川さんの文章にはなんども書いてあるはずでしょう?文章まるごとの(僕は現場みたわけじゃないから、石川さんの文章信じるしかないけどね)盗み書き、いわば、人の家の家具を勝手にもってきて、自分の部屋を飾っているから、そりゃナインじゃないの、といっているわけで、人の家の家具が気にいったので、自分も同じようなものをつくってみた、ということじゃ、ないんだから。「文学として」大事なことというのを、「理論的な整理のこと?」とかいって、わかった風なウゲンを弄して、(これを、よんでいると、先日、詩を書いている女性から、すばらしい詩集だからといって、ある詩人の詩集が送られてきた時のことを思い出した。僕は、はっきりいて、こうこういう理由で、こういう詩は、好きじゃありません、もちろん、それは、僕の好みの問題ですから、とかいた。もちろん、こんな冷たい言い方じゃないけどね。僕としては、自分からわざわざ思い入れてすすめたものなら、それをけなされて、すこしはムッとしてほしかったのだが、しばらくしてもらった返事には、自分も感動したというほどの詩集ではなかったのですが、とかあり、加えて、詩集を好みでないところで話すとすると、「やはり批評の言葉でないと、・・・・言葉の定義みたいなものの確認作業といいますか、認識の確認をおこなわなければ・・・」等々、と始め出して、なんじゃこりゃ、なにを急に硬くお成りあそばしているのかと、思ったことでしたが。この女性が、こらえきれずに、「でも、なんだかんだいいながら、自分の中で、風が吹けばそれでいいかな・・・」ともらしているように、)なんやかんや言いながら、結局のところ、この人の「実話に戻れば」(なんのこっちゃ)、「○○さん(盗作問題の渦中のひとりー筆者註)の場合は少なくとも詩集などを印刷発行する自分の商売にとって、または文化人としての引き上げ(地方社会における認知)の動機となり、あのH氏賞受賞詩集は、大きな効果を上げたはずだと私は推測している。そのささやかな「成功」を過大に「褒めそやし」て売り込みみたいなことをするのや、しつこく「こずき回したり」するみたいな感じのことを私は心から嫌う一人である。詩人の殆どは洗練された紳士や淑女には程遠い人士であろう。けっこうなゴタクを並べているのもこっっけいだし、かと言ってケツを捲くって開きなおられても吐き気がする。」・・・・・・ということにつきている。なにをかいわんやの文章だが、これだけ、開き直られたら、ほんと、でも、吐き気まではしないよね。おおげさな。石川さん、しつこく、がんばってください。だって、「文学として」大事なのは、書く側の問題でしょ。作品の善し悪し以前の問題じゃよ。(僕なんか、少しもいいとは、思わんけどね)問題の所在がはっきりしているのに、ちゃんとした釈明がないのはどうしたもんかいな、といっているだけなのに、あれじゃないかな、もしかしたら、ことを荒立てると、作品を評価し、賞など与えた人の責任と能力も問われてくるとか、ああーつかれる。

up



エスニック

雑感もくじへ