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雑感22

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(石川為丸さんから「パーマネント・プレス」30号を)  (いよいよ今年もあと半月あまり)  (「天秤宮」14号と「ほっと、POEM」のおしらせ) (からくり屋敷はスリルと謎に満ちてはいますが・・・))






2000年12月5日 火曜日

 先月の雑感で、沖縄戦戦没者の数だけの石を積みあげるという運動について述べた感想に、沖縄の詩人・石川為丸さんから、[石積みへの違和、まさに同感です。こういうのって,むしろ,沖縄戦の死者への冒涜と言った気がします」という、心強しはげましのメールいただいていたのだが、沖縄に住みついて、沖縄の戦後史をみつめつづける石川さんにとって、それは、「まるで抜け殻のような、現在の「明るく元気でほがらかな言葉たち」のなかに、私たちは死者とその表現をディスカウントさせないようにしていきたい」という思いにつながっていくからだろう。これは、昨日送られてきた、「パーマネント・プレス」30号掲載の書評のなかの言葉。おいつめられた日本軍の「棄民」政策によって、満州をさまよい、兄弟たちを次々に亡くしていった日々を綴る、岩渕欽哉著「何処へ」に沖縄の民衆を重ね合わせて読みこみながら、ひとそれぞれのなかにある「語られることを待っているマテリアル」(語りの材料というだけでなく、なにかボルヘスのあのアレフを連想させる、キラキラした生のかたまり、といった感じで、この言い方が気にいったのでありますが(^^;)の固有性の大事について書かれていて、石川さんの熱い思いが伝わってくる文章である。「パーマネント・プレス」、今回は連載中の「逆転写」は休稿となっているものの、笠井嗣夫さんの、鋭角にぎらつくかっての自らの政治の季節を<嘘、嘘、みんな嘘、嘘にしたいか、みんな嘘にすれば、気がすむのか>といった葛藤とともに語る「棒杙」、しなやかでスマートな合金の時代に押しやられる、剛直で無骨なやさしさ、さびしさを秘めた「鉄」に仮託して、プロレスラー・ジャイアント馬場賛歌をうたう、石毛拓郎さん「鉄の哀しみ」はじめ、福原恒雄さん「疎開のムラでも軽妙キュウリ」、倉田良成さんの「横濱ジャズ祭」、石川為丸さん「剥落」と、読みごたえある詩作品がずらっとならんでいて、充実した誌面になっている。多彩に、それぞれが自分の場所に視線をおとして、言葉をふみすすんでいく姿が、印象的でもありました。石川さんありがとうございました。

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2000年12月12日 火曜日

 ほんとにはやいもので、いよいよ今年もあと半月あまり。思うにまかせないままに、今年も一挙に時間が飛び去ったという感じが強い。去年は1000年紀のおわりということで、僕などはつい2000年紀と21世紀のはじまりをいっしょに考えたりしていたのだが、どうやらそうではないらしくて、大方の国では、2001年を21世紀のはじまりとするらしいことがわかったりして(つまりは、年数を数えるときのゼロ、インド起源の記数法としての0(ゼロ)の観念が、当時まだ西洋には伝わっていなかったため、西暦をつくったひとたちには、数をゼロから数えはじめるという観念がなかったから、ということらしいけどね)、とまどいながらも新鮮な知識だった。ま、歴史の偶然がもたらしたゼロに関わる問題が、1000年紀を飛び越えるにあたっての、コンピューターの2000年問題として、象徴的にクローズアップされたようなのが、なかなか興味深いことではありましたが、でも、いってみれば、歴史のきまぐれから由来したゼロか一かの数字の問題というのは、2000年紀への移行の壮大な時間の感触からくらべれば、どうでもいいことではあるわけで、だいたいは今年からもう21世紀ははじまっているといっても、別におかしくはないのだろう。事実そう数えている国も世界にはあると聞いた。もっとも、世界には、来年が決して2001年などではない、さまざまな年号、暦をもった国が存在していることも確かだ。21世紀21世紀といっても、ほんとはとりたててどうという意味もないのだろうとは思う。だけれども、やはり体に染み込むように数え上げてきた、慣れ親しんだ年号。今年はじめの雑感にも書いたように、「最大公約数的に人類がよりそい意味づけてきた西暦の、1000年に1度の変わり目、歴史の深層心理のうごめきから、うかがいしれない変容にむかって、また飛躍する第1歩なのかもしれない、とか夢想すると、わくわくしてもきます」という感慨は、やはり来年に向っても、ひとしお湧いて来たりするのではあります。

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2000年12月19日 火曜日

 宮内洋子さん「天秤宮」14号が、できあがってきた。この詩誌の表紙をかざるあざやかな浮世絵が毎回たのしみなのだが、今回は、昇亭北寿の「東叡山麓不忍池弁才天図」。「まぎれもなく江戸の風景でありながら、時空を超えた不思議な感覚をあたえる絵だ。宇宙的な感覚と言ってもよいかもしれない。この不思議な感覚はどこから生まれているのだろうか」として、その構図の分析から絵の魅力をのべていく、木佐敬久氏の解説文もいい。さて、詩誌の作品のできばえは、というと、そこはまあ、読者におまかせしたいと思います(^^:。もくじはここ。宮内さんのお許しがあれば、作品などUPしたいとはおもうのですが・・・。それから、先月の青木栄瞳さんからの詩の朗読会、会場移転のおしらせと、決定プログラムが届きましたので、下に書いておきます。

第1回「ほっと、POEM」展

日時=2001年5月3日
場所=日本近代文学館3Fホール
目黒区駒場4−3−55、пE03・3468・4181 京王井の頭線・駒場東大前駅西口から5分))
入場料=2000円

司会・賀川紅子

開場(12:00)
オープニング演奏(アフリカン・パーカッション=パラフォン・ソロ) わきたに じゅんじ

第一部(12:30〜)山本陽子を読み、語る

ギター=中村ヨシミツ
山本陽子詩篇朗読=支倉隆子、青木栄瞳
基調講演=新井豊美、坂井信夫
(休憩)

第二部(2:00〜)座談会「山本陽子」を語る

フルート=矢島京子
座談会(司会・清水鱗造)=新井豊美、坂井信夫、一色真理、支倉隆子、駒田克衛、添田肇、岡島弘子、青木栄瞳、渡辺めぐみ、田中庸介、須永紀子、望月苑巳、山岡広幸
(休憩)

第三部(3:30〜)ポエトリー・リーディング

原成吉、支倉隆子、須永紀子、青木栄瞳、ヤリタミサコ、川江一二三、一色真理、岡島弘子、新井豊美
(5:00終了予定)

主催、企画、事務局は青木栄瞳(п≠O426−64−0606、
E-mail=htm01179@m04.htmnet.ne.jp)
で、チケットは出入り自由のフリー切符だそうです。

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2000年12月26日 火曜日

 これはある程度僕の勘ぐりなのかもしれないが、最近のテレビをはじめとした電気製品というのは、昔のそれにくらべて、どうも耐久年数が短くなっているような気がする。たたいたり、振ったりしてだましだまししながら(^^;、けっこう長く使えた昔のものにくらべて、ある時期がくるとプチッと、致命的な故障をおこして、あとは修理にだしても、長持ちせず、すぐに壊れてしまうようになっている製品が多くなっているように思えるのだ。あくまで僕の勘ぐりなのかもしれないが、でも次から次にあらわれてくるちょっとした差異(!)を売り物にした同種の新製品の需要が、この社会の経済的循環と安定を保証していることを考えると、そういつまでも長持ちしてもらってはこまる、もう絶対にこまるというのは、誰もが気づいているこの社会の進化する動力源としての、<からくり>のひとつなのではないだろうか。高度消費社会と呼ばれるこの社会には、こうした<からくり>がたくさんあるように思える。<からくり>屋敷は、なんにつけスリルと謎に満ちていて、おもしろいものだが、それは必ず、しばらくすればその屋敷からでていけるという前提のもとでの、たのしいスリルと謎にすぎない。<外>もなく、その<からくり>に気づきながら、どうしようもなく、死ぬまでその<からくり>に翻弄されていくというイメージは、やはりツライ。電気製品ぐらいなら、あるいは、苦笑いしてすませられるかもしれないが、たとえば地球規模で起こっている色々なこと、飢えや戦争や環境被害、人類ひとりひとりの責任とかなんとかいって、僕などにはどうにもピンとはこない、一般的すぎる責任の転嫁の陰で、国や政治家や資本家がほんとにやろうと思えば解決できないこともない暗い現実が、<このままでは滅亡する地球>とかいう美辞麗句?のもとに、どうにもこの<からくり>の隠蔽に巧妙に使われているという感じが、してならない時があるのだ。21世紀寸前の年の瀬、地球にやさしいなんとかとか、戦争のない平和な世界とか、ひとそれぞれの(差異の?)多様な生き方を認め合う社会とかいった、重い言葉をいとも商品の投売りのように垂れ流すまえに、こうした<からくり>の未来に視線をとどかせようとする思考の場を、僕たちが絶えず持ちつづけていくことこそ、さらにたいせつになっていくんじゃないだろうか。

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