エスニック
雑感25

雑感もくじへ

(松尾真由美さんの新詩集「密約−オブリガート」(思潮社刊)を読みながら)  (石川為丸さんHP「クィクィ」の「盗作問題」記事について)  (水出みどりさんから詩誌「部分」と「グッフォー」のおくりもの)  (「現代詩手帖」5月号での<ひとり>をめぐる論議)  (おくればせながら、松尾真由美さん個人誌「ぷあぞん」12号)






2001年4月8日 日曜日

 詩の行為として、かってよく耳にしていた常套句に、みえないものをみるという言い方があった。あるいはその反動のようにして、詩は、みえるものをちゃんとみることだと、これまたさもありなんという言い方がされたりもした。そして、詩とは、という問いかけがややこしくなった現在、さすがにこういう表明は積極的な形ではされなくなったものの、あいかわらず書かれている詩の多くは、このいずれかを根拠にして、自分の詩の行為の矜持を語ろうと身をのりだしてくるものばかりのような気がする。それらが結果し、さらに進行させていく詩の=言葉の=像の優劣、<像>と<像>の(資本主義的?)差異の競争がいくら熾烈になっても、僕たちの現在を襲っている詩のことばの、無力感、むなしさは、(あちこちであがる花火のあざやかさに一瞬の喚声は聞こえてくるものの)、それによってかえって、いや増すだけのような気がする。<像>が、僕たちを解放させず、かえって抑圧してくるかのように?・・・。なぜだろうか。それは、詩の本体、<像>を<像>として生きさせている<大気>が、変質(消滅?)してしまっているからだ、と僕には思われる。生のあらゆる局面での、相対化につぐ相対化のあらしの吹き荒れるなかで、散乱してしまった僕たちの身体(としての大気)。それを、多様性とかいって、<それぞれの像>に結晶させれば済む問題ではないのだ。詩の(生の)、切実な現在の問題とは、緻密化し細密化していく<像>をさらにどう提示するかではなく、この<大気>を、詩の(生の)<時空>として、まず、どう見据え、どうふたたび作動させるか、という以外ではないのではないだろうか。みえないものがみえないままに、僕(たち)をさわだたせ、僕(たち)をつなぎ、僕(たち)を懐かしく引きはなしていたもの。チリチリと粒子状に充満し、うごめく、いまだ/けっして、容(かたち)をなさない<鏡面>。それを、<まず>見据え、現在において、どう作動させていくか。・・・・北海道の詩人・松尾真由美さんから届けられた新詩集「密約オブリガート(思潮社)に納められたこの雑感コーナーでもなじみのある作品たち(全10篇)を改めて読ませてもらいながら、松尾さんのことばとの格闘の意味について、こんなふうなことを考えたことでありました。松尾さん、すばらしい詩集ほんとにありがとうございました。願わくば、この詩集で積極的な凶器=狂気性を秘めて頻出する<退行=退化>という言葉が、良識的詩心によって、解毒されたりしませんように(^^;。

 剥脱された夢想を取りもどすため私たちは柔らかく重なる/重なり後退し血腥い訂正をく
 りかえし/なお恋慕をつづける闇の未知なる発情を/ひたすらあなたに渡していく
 ・・・・・・・・・・・・
 辺境のあらあらしい焦慮において/はかない充溢の気配を孕む/あなたと私は誰と誰?
                               (「いまだ咲かない零度の粒子」より)

up

2001年4月22日 日曜日

 沖縄の石川為丸さん開設のHP「クィクィ」には、「沖縄問題」や、おなじみの「盗作問題」についての記事がUPされてきていて、いよいよ「クィクィ」本領発揮の感がつよい(^^;。書きつける<ワタシ>の緊張した言葉の磁場によってはじめて生きる「引用」という詩の戦略があるとして、それとは似ても似つかない、どうにも弁解のしようのない、件の盗作の内容にはあらためておどろいてしまう。また、「琉球新報」紙上でそれを指摘した石川さん発言を受けるかのようにして決定された?恒例だった渦中の詩人作品の地元の教科書副読本への掲載拒否の動きなども、こんどはじめて知ることができて、おもしろかった。興味のある方はぜひお読みください。ところで、石川さんがいちはやく「盗作問題」の記事を事あらたなようにしてUPしてきた背景には、地元での別の動きがからんでいるようで、それも「琉球新報」主催だったか後援だったかの地元の詩の賞(Y賞)の分配にかかわる動き?のようで(^^;、この賞については僕も第一詩集発行のおり、どうにもいやな、こそこそと裏で根回ししているような、姑息な動きに接することができて(^^;以来、選び選ばれることの威厳も信頼もへったくれもない、ばかばかしい感じしかもつことができないでいるのだが、ほんと、親しんだ人間関係べったりでやっていると、自分が小さな権力をもって動いていることなど、どうにもみえなくなってくるんじゃないだろうか、ね。そんな賞の選考委員に、・・・いや、まだ確定した情報ではなさそうなので(^^;、それに、賞とは無縁の僕などは、かってにやってくれたらと思うばかりでもあるので、これ以上は言及しません(^^;。もしかして、「あったこともなかったことにして」という、昔話を逆でいく詩のタレントぶりの?世渡りのうまさは、現代的? いずれにしても、「クィクィ」がんばれ、石川さんがんばれ、です。

up

2001年4月25日 水曜日

 詩誌「部分」15号((金沢市、三井喬子さん個人誌)を北海道の水出みどりさんからはやくでいただいていたのですが、お礼も紹介も申しあげずにぐずぐずしているうちに(それに、ゴメンナサイ、「部分」、このサイトの詩誌紹介用にスキャンしたあと、紛失してしまい、さがしているのですが、みつからない、「ふかくさいろ」の場所を希求する松岡さんでしたかの作品の感傷性など、僕は好きだったんですが・・・)、添え書きで予告されていた水出さん編集の詩誌「グッフォー」35号が、これまた予定通り送りとどけられて、恐縮するやら、申し訳ないやらで、あせっています(^^;。それにしても、「グッフォー」の全体に漂っているなんともいえない朦朧としたなつかしさは、僕は大好きで、こんどの号も期待に違わず、でした。なにかふとことばの常同症的なすごみ?すら感じる、松尾真由美さん作品「出立にこごえる素足の方途」を筆頭に、心象と事象が融けいるような、独特の風景と語りの雰囲気をもった天野暢子さん作品「ゆきのかげから」、孕み、生む、性と大地の混態した生理の、しずかな息づきとひろがりを感じさせる、中村千代子さん「めぐり ]」、それに水出さん作品「夜のいちばん深いところで」の、「かたちを捨てたものたちの/はるかな声の密度を/まさぐっている」、北の暮らしの夜の、玲瓏たるしずけさ、など、印象にのこる作品が多かったです。あとがきには「記録的な寒い長い冬だった。マイナス10度の雪の道をあるくと・・・」とある。南国の冬でも苦手な僕など、マイナス10度のくらしなど、たーえられない(^^;。いつも、いい刺激になっています(^^;。水出さん、おくればせながら、ありがとうございました。「部分」そのうちでてくるとはおもいますが、すみませんでした。

up

2001年5月1日 火曜日

 カッコ付きの<ひとり>というぶっきらぼうで、思い入れたっぷりのような言葉を投げ出して、なにか言ったような気になっているのは、恥ずかしくも僕だけかと思っていたのに(^^;、今月号の「現代詩手帖」をひらくと、「詩論の現在形」という特集のインタビュー記事のなかで、北川透氏がそれを戦争詩と詩の欲望をめぐっての議論のキーワードのようにして、緻密に分析的に語っているのに出くわして、妙にどきどき、わくわくしてしまった。というのも、そこで示唆されている<ひとり>という言葉の内容が、僕の漠然とイメージしている妄想と?、とてもよく共鳴したからであります(^^;。<ひとり>の複数性ということ、戦争に反対することも、戦争を欲望することも、、その他もろもろのこの世界に満ちる欲望も、分裂する欲望として、<ひとり>が<ひとり>であるかぎり、すべて負わざるをえないということ。そして、「愛国詩や戦争を謳歌するような詩は、むしろ「ひとり」が無数に分裂している戦争への欲望を、全体主義や聖戦の理念が消しているわけです。」という認識。これには、あらためて<ひとり>の場所の鮮明な輪郭をみせられたような気さえしたことでした。興味のある方はお読みください。また、この<ひとり>という概念については、同じ特集記事での瀬尾育生氏の反論の文章「詩をどのように汚れのなかへ自由にするか」も載っていて、僕などには<ひとり>と<ひとり>の破綻が混同された理解じゃないかと思われる箇所があったりするものの、目配りのとどいた(とどきすぎた?)論の運びになっていて、これまたスリリングでした(^^;

up

2001年5月13日 日曜日

 松尾真由美さんから個人誌「ぷあぞん」12号を、これもはやくでいただいていたのですが、こんどはすこしゆっくり紹介させてもらおうと思って、寝かせてありました(^^;。このところ、なんか失語症的になってきていて、どうにも言葉がつづれない、物言うのがおっくうな感じがつづいているせいもあるのですが、こんなときは、とにかくとりとめもないことをしゃべって、弾みをつけていくのが一番とはわかっていても、それすらもけだるい感じで、どーしようもない(^^;。だからといって、僕自身が元気がないのかといわれれば、逆で、あれこれと黙語りの生を満喫しながら、言葉なんかわすれてしまえ、とか居直ったりして、はしゃいでいる(^^;。・・・ま、そんなこんなで、おくれてしまいましたが、「ぷあぞん」こんどの号は、かわらぬ力作詩2篇「そして彼方を迎えるための隘路にまみえる」と「せめて刹那の扉をみちびく」(「ここにあるのは零の放置の過剰である」の詩句が照射する・・・)のほかに、「引き裂かれたものの躍動と定着」と題した、「松本圭二著「詩篇アマータイム」によせて」の(松尾さんご自身の詩論を垣間見させる)文章がのっていて、興味深く、おもしろかった。僕はこの「アマ―タイム」という詩集読んではいないのだが、松尾さんが引用されている断片からだけでも、僕好みの、魅力的な作品であることがすぐにわかる。<一元的な思い>だけでは詩情にすらなりえない、進化した?この僕たちの時代の「ひきさかれ」て、散乱する主体のリアルを掬い取るために、「時間軸に支配されない空間の並置によって/  現時を立体化する」(「アマ―タイム」栞ページ)という方法的意図を実践した詩集らしいが、その実践の固有性をこそと、しっとりといった感じで、松尾さん、浮かび上がらせている。さすがであります。引用された詩片を読みながら、僕などがすぐに連想するのは、たとえば熱っぽく疲れたような体を横にしているときなど、時として体験する、あのさだまりなく、せかせかと動き回る<もうひとりのワタシ>の、懐かしいような確かな実在の気配の感触のことだ。高野豆腐のようなものが詰まる鼻腔のおくあたり、というか、眉間のあたりというか、ひどいスローモーションでゆっくり、ゆっくりと、と同時にまったく矛盾するのだが、せかせか、せかせかと、なにやらせつない切迫感でしゃべり、行動している、気配だけのワタシ。夢の主体とかいえば、はっきり分離しすぎるが、もっと微妙な身近で、生きていることの主体の内実を、からだの制約に乗じてあらわしてくれているような、<そいつ>。松尾さんが呼び出しているレヴィナスの言葉でいえば、「それ自体としては本質的に匿名的なままでありつづける<実存すること>」の内実のようなもの、とでもいえばいえるだろうか。あるいは、<ひとり>、とでも(^^;。詩の主体の移りゆき。いまでも、ある種の詩人たちからすれば、こういう詩は、生の切実さから遠い、観念的な、難解なたわごと、とかいってすませられるようなものだろうが、いい詩であればあるほど、難解さには、やはり難解さの理由があるのだ(^^;。松尾さん、ありがとうございました。

up



エスニック

雑感もくじへ