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雑感26

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(政治にヒーロー、ヒロインはいらない)   (笠井嗣夫さんから「暗射2001年春号を)  (石川為丸さん「パーマネント・プレス」32号について)  (大阪の小学校乱入大量殺傷事件・・・)






2001年5月20日 日曜日

 何だかむなしい小泉内閣フィーバーが巷には吹き荒れているみたいだが、政治にヒーロー、ヒロインはいらない、と思う僕などは、その政策能力がどうあれ(それも未定のままの、カッコ見だけの拍手喝さいだもんねえ、―今日の地元南日本新聞・「はやと海道」という特集記事では、「父純也の子である自分は、生粋の薩摩隼人」という小泉首相の言葉からはじまる、「まつろわぬ民」という文章がのっていて、「鋭い眼光に引き締まった体。いかにも薩摩隼人的な雰囲気を漂わす小泉純一郎首相」とのキャプションのついた大きな写真までついていたりするが、世間の小泉人気を象徴するものだろう―いつものとおり、いつまでつづくことやら(^^;)、とにかく政治を<祭りあげる>ことの共同体強化的動向の行き着く先には、ロクなものは待っていないと、危惧するばかりだ。発言の明解率直さ、断固たる信念、自分の言葉で語る信頼感など、小泉首相への賞賛の言葉は、それを文字通り政治(政党政治)の世界で断固維持していくとしたら、裏腹として、果してどういう姿が待ちうけているか、もうわかりすぎるくらいわかっているはずなのに? なぜまた飽きもせず、マスコミを先頭とした、こういう<政治の信頼回復キャンペーン>的なお祭りムードが、にわかに沸き起こっているのか、僕などには理解にくるしむばかりだ。直前の首相の、あまりのテイタラクにうんざりして? その反動形成? しかし、あの<見事なまでの>、小泉首相との対照的印象(イメージ)を刻み付けた、森前首相の姿こそは、なかなかにくわせものの、謎(^^;、ではないだろうか、と勘ぐられてもくるわけであります。同じ森派だし(^^;。もちろん勘ぐりだけど(^^;。明解率直な政治の世界というのは、それ自体形容矛盾なのじゃないだろうか。わかりやすい政治なんて、これだけ専門化してしまった概念の網目社会では、もう望むべくもない。ありうるのは、せいぜい、わかりやすいいいまわしの政治、だけだ。それが視線の単純化ではなく、ほんとにわかりやすいのならば、政治家なんていらなくなるだろう。もちろん、そうなればいいのに、こしたことはないのだけれど・・・。

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2001年6月1日 金曜日

 笠井嗣夫さんからいただいた「暗射」2001年春号には、「「NAM全国集会」に参加して」と題する、「だめ連」神長恒一さんの報告がのっていて、おもしろい。NAMというのは、「文芸批評家柄谷行人氏が最近起こした資本と国家に対抗する運動」のことらしいが、「資本制の生産物を買うな」、「労働力を売るな=賃労働をするな」等々の運動の内容が(具体的なイメージが湧きにくいが(^^;)、「「意外にも(?)だめ連に似ているところが多いんだな」という感想をのべながら、それでも、NAMの運動は「なんらかの技術のあるひと」 「手に職ある人」の集まりにしていきたいという、柄谷氏たちの講演のたびの強調に、どうやら「だめ連」に接した柄谷氏たちのほうで、「自分のイメージにない」 「イケてない」彼らを敬遠しているらしい動向を感じとり(^^;、「運動やなにか活動をすると必ず起こるのがこの問題で、・・略・・そもそもそういう排除される目にあいがちな人が集まってるのがだめ連なのだが、そのだめ連でもこういうことは不断に起きてしまう」 「・・・多分NAMは、個人の自意識の問題やこころ的な問題、人生相談的な問題にはつき合わないよということだと思う。」として、それはそれでいいのではないか、いろんな運動がでてくるのがむしろいいことで、「個人的な問題も社会的な問題も一つのグループだけで「解決」するということはない」と、理解を示している。僕には、運動より、反運動、徹底した散乱をこそ、という妄想のほうが、親しいが、それにしても、とても柔軟なふところの深さを、文章から感じてしまって、共感してしまったことでした。・・・「暗射」、今号から新企画として、<視線で刻む>という笠井さんの連載がはじまっている。1回目は、「現在をはげしく打つ思想―菱川善夫講演集『素手でつかむ火』(ながらみ書房)」と題して、単純に「清算」などできない「七〇年代思想」を持続させるように、前衛短歌のもっている<怒りの倫理><悪の倫理>を抉りだし、熱く語りつづける菱川善夫という批評家への、共感と冷静な評価がのべられている。七〇年代思想とかいうと、その硬直した思考が死角となった抑圧性、みたいなことが、まず否定的な要素として、僕などには思い浮かんでくるのだが、だからといって、「清算」できるようなものではないだろう、とも思う。短歌のことは、よくわからないけど(^^;。清水三喜雄さんの<沖縄で考えたC>は、沖縄の識名園という庭園の話。沖縄に庭園は必要ないというより、「御殿」があれば、沖縄であろうとなかろうと、「庭園」は必要なのだろうけど、でも、もともと沖縄、南島では、「囲われていな」い、ニワをもっていたような気がするよね。囲い込み、は、いつだって、権力のにおいぷんぷん。「円として閉じる間際」という佐々木美帆さん詩作品も、うまく感想のべられないままに、きちんと読ませてもらっています。遅くなりましたが、笠井さん、ありがとうございました。

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2001年6月14日 木曜日

 石川為丸さん「パーマネント・プレス」32号もはやくでいただいています。こんどの号は詩作品特集号となっていて、高橋秀明さん、福原恒雄さん、坂井信夫さん、石毛拓郎さん、吉沢孝史さん、倉田良成さんの、それぞれの作品が、誌面裏表いっぱいに掲載されています。このところの「パー・プレ」は、詩が充実してきている感じがする(^^;。高橋秀明さん散文詩「小樽運河」の、「運河沿いに軒を連ねる倉庫群の石壁にはかって小鬼が数人住んでいた」という隠喩で浮かびあがる、住みなれた町の決定的な<大気>の変容と、それをみつめる運河の水のしずかなひろがり。その語り口の魅力。うつりゆく、もののあわれの、酔いたくなるような不思議な苦さは、僕たちの<死>の感受と限りなく似ている。そういえば、こんどの号は、福原さんの詩、夏の陽射しの中で庭の植木を剪定する義足の男の、<大気>に染み出てくるような戦争体験の日々の記憶をつづった作品や、四季のめぐりのように変容していった<人生>を、もうこの世にはいない母親のまなざしとの黙語りでふりかえりながら、しずかで、孤独な<今>をひろげる、倉田さん作品など、できばえや語り口は違っても、その<死>の感受において、一体となったトーンのようなものを感じてしまったことでした。高橋さんの作品は、石川さんのHP「クィクィ」にはやくから予告掲載?されていたものですが、やはりこうして活字になって読むほうが、魅力は増してくるように思う。電子文字は、いまのところどうしても、ぶざま?な感じが、して、詩のイメージを半減しているように思える。(半減は、ちょっと、いいすぎとしても(^^;)。ちょっとでも文字のぶざまさを補おうと、僕などは、無駄な〔センスのない?)抵抗しては、すったもんだして疲れていますが(^^;。・・・・・「パー・プレ」には、この他、詩に邪魔にならないようにといった配慮で?、石川さんの「おかしな「人事」」という、これまたHP「クィクィ」で先にUPされていた文章がのっていて、例の盗作問題当事者の、地元の詩の賞にまつわる会の副会長就任が、「どんな「緊急」があったのかはわからない」緊急理事会で決定したことの「おかしさ」が、追求されている。「盗作をした人が「副会長」になるのがおかしいというわけではない。「盗作」の事実を「なかったこと」としてやり過ごす「やり口」がおかしいのだ」と。正論、である。僕などは、そういう地位につくこと自体、たいした面の皮の厚さを感じてしまうが、しかし、「卑怯な奴はどこまでいったって卑怯なんだぜ」という(^^;、日活アクション映画のセリフでもつぶやきながら、面の皮の厚い、やりての、「世間人」に、ため息つくばかりだ。石川さん、もう、いくところまで、しつこく、いくしか、ないのでしょう、ね。がんばってください。ありがとうございました。

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2001年6月16日 土曜日

 性と暴力。これはいうまでもなく、密接な関係をもっている。飽きもせずマスコミをにぎわせている性的な事件のこの時代の顕れ様と、殺人を基調とする、この時代の暴力の顕れ様とは、やはり、連動しているのだろう。事件の陰には、<女>あり? ま、それとはちょっと違うけれども(^^;。ま、比喩的にいうとしたら、そういうことでもあるけれども(^^;。殺人のあらわれとしての異常さ(新しさ?)は、性的な事件のあらわれとしての異常さ(あたらしさ?)と、合わせて考えなければ、片手落ちになってしまう気がする。その意味でも、こんどの大阪で起きた、小学校乱入大量殺傷事件は、犯人の家庭環境などからくる個人的動機がどうあれ、自衛隊、精神病や地位の擬装、航空パイロットへの憧れ、等々のキーワード?とも合わせて、なんか、時代の象徴的な事件のように思われてきて、僕には興味深かった。いわば、伝言ダイヤル、であい系ネット、等々が、時代のあたらしい形での<従軍慰安所>(まさに、バーチャルな時代にふさわしい、それ)めいて感じられるように、殺人は、いわばこの社会の経済原理をささえる、一種の戦争状態(大義もなく、ちりぢりに分裂し、純粋培養されつつある、それ)、そうした人間関係を、ネガの形で浮き彫りにしているように、どうしても感じられてきてしまうのだ。精神病かどうか、ということがこんどの事件でも、問題になっているが、だから<私とはカンケイない>異常者の、しょうがない犯行、というわけにはいかないだろう。精神の病とは、なにより、時代をうつす鏡、という側面をもっているのだから。経済の悪化がとりざたされて、景気回復への論議がにぎやかだが、死活を争う経営者にとっては重大事だとしても、バブル期のおもいっきりの中流上流バカぶりを見せつけられてきた僕たちに、<回復>したあかつきの、どんなすばらしい社会イメージが、今描けるのだろうか。こころもとない、かぎりであります。

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