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雑感27

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(「天秤宮」15号) (絵のようにみごとなオレンジ色の火のかたまりが・・・) (「暗射8月臨時増刊号を高橋秀明さんから) (「暗射」臨時増刊号、もう一言だけ) (岸本マチ子氏と公開質問状)






2001年7月17日 火曜日

 「天秤宮」15号ができあがってきた。今回も「インターネットな夜に触れながら」と題した、この雑感コーナーからの抜粋集をのせてもらっているが、このところ量的にでしゃばっているのが〔^^;気になっていたのを、案の定主宰者の宮内さんから、半分くらいに量をへらしてくれとの要請があり、つい、今回で最終回にしますから、半分よりすこし多目でお願い、と頼み込んで、どうにか無理矢理今回はのせてもらったしだいであります。ま、そういったわけで、つまりは4回目になる今号で、「天秤宮」転載はおしまい、ということになり、ましょうか? いや、それにしても、むしろ4回にもわたって、あっちいったり、こっちいったりの長々としただけの雑感、寛大にも掲載していただき、宮内さんには、感謝感謝であります。詩作品では、「右も左もない形で/いまも呼び残されている<軍手>」ではじまる、九馬菁子さんの「抒情派」が、ん?と興味をひいたが、読んでいくと、普通の軍手のことのようで、すこしがっかりした。もってまわった不思議な(^^;語り口は、独特なものがあるようではありますが。宮内さんの、生活情景の丹念な詩的記録をつづけている感じの作品は、ときどきドキッとする言葉が空間を妖しく揺らめかせたりするものの、作品の熱度にムラのあるのが、このひとの気がかり。詩的な言葉の曲球と、言葉にはりついた生活意識の平凡さが、アンバランスな妙(場合によっては、シラケ)をいつもみせているのが、池田順子さんの作品。もうすこーし、迫力がないのだ。詩のお勉強しすぎ、と、いつかこのひとには冗談まじりでしゃべったことがあったっけが・・・。でも、ひとのこといっている場合か!(^^;。僕自身、こんどからは詩作品にもっと力いれる旨、メールで、宮内さんに書き送ったばかりではありました(^^;。

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2001年7月22日 日曜日

 遊びにきていた近所の幼友達が帰るというので、靴の置いてある戸口までいって、腰をかがめた彼の背後からなにげなく空を見上げた途端、4、5メートル先に黒々と横たわった隣家の屋根の上あたりを、シュルシュルと音をたてるようにも、きれいに細まった尾っぽを波打たせながら、絵のようにみごとなオレンジ色の火のかたまりが、コレハウツツデショウカマボロシデショウカととっさに一新した空気のなかを、悠々然と、過ぎっていったのだった。おれ!(おい、ほら、あれ!の訛?)と幼友達ムノウちゃん(無能ちゃん、ではなく、宗雄ちゃんの訛)にも足でしらせて、見てはいけないものをみてしまったような、不吉な感じをふたり共有して、しばし立ちすくみ、ムノウちゃんは、帰ることもできず、その夜はずいぶんおそくまで、家で遊んでいったのだったが、その火の玉、それから何日かして町に発生した、その町の歴史にのこる大火のまえぶれだったと、のちのちまで、ささやかれていたりしたものだった。つまりは、目撃したひとも、多かったことになる。小学校2、3年のころだったかの、夏のできごとだ。あとにもさきにも、火の玉をみたのは、それ1回きりだが、よく映画や科学実験などで出てくるチロチロとした青白いチャチな炎ではなく、あんなでっかい、それもすっ飛ぶのでもなく、浮遊するのでもなく、泳ぎ渡って行くような動きの、たっぷりとしたオレンジ色の塊を思い出すたび、なんともしれず、いまでも元気がでてくる。僕は、うさんくさい超能力者や霊能者にはしきりに濃い眉につばつけながらも、なにをかくそう、UFO大好き人間であるし、不思議としかいいようのない、予知夢など、それなりに、ひとしれず(^^;、体験して、関心をよせている。やっぱり、いつだって、つまらないのは、科学的というよりは、科学主義的な人間ではないだろうか。ノストラダムスの大予言研究なんて、ほんと、科学主義的の典型だよね。

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2001年8月19日 日曜日

 「暗射」8月臨時増刊号というのを、これはいつもの笠井嗣夫さんではなく、おもいがけなくも、[言葉の河」(小野十三郎賞受賞)の詩人・高橋秀明さんからいただいて、ん?、と、ちょっと驚いている。内容は、前にこの雑感コーナーでも触れさせてもらった「暗射」春の号の笠井さん文章(新しく始まったばかりのシリーズ「視線で刻む1」の「現在をはげしく打つ思想」。そのなかで笠井さんは、菱川善夫という短歌批評家の講演集「素手でつかむ火」という本についての、熱い共感と冷静な評価をのべているのだが、その菱川氏の前衛歌人・福島泰樹に触れての、<怒りの倫理>性とでもいうべきものの持続と発展という指摘が、「何よりも痛烈に私たちの現在を打つだろう。」と書きつけて、そのすぐあとに、とりようによっては唐突と言えないこともない調子で、次のようにつづけていた。「というのも、最近、「高橋秀明が詩的出発をして生きた七〇年{世}代の思想については全部清算できているという自負にも感銘する」(工藤正広「道内文学ー詩」 『北海道新聞』01・2・28)といった批評を目にしたからだ。詩集『言葉の河』で小野十三郎賞を受賞した高橋秀明が、記念シンポジウム(大阪文学学校刊『樹林』四三三号)で語った内容だという。一読して目を疑った。「七〇年代(これは七〇年世代の「暗射」印刷におけるミスだそうです。これだけでも、また、思想のニュアンスが違ってくるようにおもうのだが。―註・海坂)の思想については全部清算できている」という自負にまずおどろく。『樹林』そのものを手にすることができなかったので、詳細はわからない。高橋は、七〇年代半ばにおいて「死者への倫理を時代の過渡性を越えるものへと、つらぬく」と述べ、主体を<死者>との対話という痛苦に晒す重い批評性によって私を震駭させた。だが時評での紹介を読む限り、こうした思想もある時点でそのすべてを清算できるレベルのものにすぎなかったようだ。時評者がわけもなく感銘していることにもおどろかされる。思想の清算が、それほど誇らしいことなのか。」云々と。)、そのことへの高橋さんの意義申立て。高橋さんはそれを三つの点にしぼって、提出している。その一。「私の発言について真実でない内容を流布している」こと。その二。「ひとがある思想を生きるとはどういうことかについて、笠井氏は何も考えて来なかったのではないかということ」。その三。「私的感情を晴らすための策謀的な「批評」」ではないかということ。文章読ませてもらって、僕なりに直感した全体的な印象を記せば、つまりは、<なんで私のことをもっと知ろうと努力せずに私のことを批判するのか>ということに尽きている気がする。論の組み立て、流れとして、「清算できている」という間違いようのない言葉を伝えている新聞記事を問題にした笠井さんと、そのことで歪められた自己像に我慢のならない感情を問題にした高橋さんでは、力点の行き違いは当然ではないだろうか。なんで、新聞記事をうのみにして、本当の私の発言を確認もしないで、「清算」したなどと、批判するのか。思想一般ではなく、なんで私の思想性について、ちゃんと理解しないで、思想のレベルが語れるのか。納得できる部分と、でも無理もないよなあ、アリガチだよという気持ちがいっしょになって、僕などは、だいたい、そもそもお二人の齟齬?を媒介する形になっている、「高橋秀明の志に感銘」なる文章(増刊号には、高橋さんの実際の発言や、「暗射」編集者による新聞記事が掲載されているが)を「北海道新聞」にのせている詩評子こそ、いいかげんな物言い(高橋さんの詩をほめて、「北の文化とでもいうか、決まっている」、とか、その志の在り様について「冬の<北海道>らしくみえてくる」とかいった、なんか、北海道、デッカイドウという下手なギャグめいた、隠語めいた、仲間内の合図みたいなのは、なんじゃろかい(^^;)で、ワルイ、高橋さんは、笠井さんの新聞記事伝聞にもとづく確信犯的言い切りの論調?(^^;(これには、僕もちょっと気になって、雑感では、あえて高橋さんの名前は出さずに、論旨だけを紹介するにとどめたのでしたが・・・。福島泰樹的情念が、ニガテなこともあり、さっと(^^;。)が「不快」(添え書きより)というのであれば、同時にそうした言い切りをついやらせてしまった程に、高橋さんの発言趣旨を単純化して、高橋さんの発言にある微妙な<くぐもり>の部分を理解せずに「感銘」しているこの人への抗議も、当然あってしかるべきでは、とか、やつあたりぎみに(^^;、決めこんでしまったことでした。それにしても、地元の詩評というのは、なんか、北海道も同じようなものなんだなと、妙に安心したりなんかして(^^;。鹿児島でも、この夏から、恐ろしいほど観念的な、ゲージュツ嗜好詩人の、雲を歩くような詩時評がはじまっている。これなら、まだまえの人の方がマシだったのにィ、と、異様に暑い夏に加えて、ウンザリ、している。ところで、ぶしつけですが、笠井さんと高橋さんは仲が悪いのでしょうか(^^;。メールかなんかで、<まず>直接抗議したら、どうなっていたのでしょうか。沖縄といい、北海道といい、色々あって、僕のような傍観者としては、興味津々であります(^^;。

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2001年8月26日 日曜日

 笠井さんサイトの掲示板で、高橋さんの反論の「「場」を引き受けた「暗射」のスタンスが一番わからなかったです」との書き込みと、それに同調する笠井さんの言葉をみつけて、これまた、ん?、と、ちょっと驚いている。批判の文章を載せた同誌が、批判の相手である高橋さんから、反論の場を要請されて(その経緯は高橋さんの文章にはっきり書かれているが)、それを提供するというのが、なぜ「わからない」のだろうか。こんな文章のせやがって、という党派的感情でないかぎり、むしろまっとうすぎるくらいまっとうな、編集者のスタンスではないのだろうか。公平を期すための新聞記事もきちんと掲載していることだし・・・。この書きこみをされている広瀬大志さんという方の文章には、「高橋さんは「なぜ思想を清算するのがいけないのか」という観点から」・・・「自らの清算の仕方と正当性を言い切らねばならないと思います」という言い方もみえるが、そういう反発から、はたして高橋さんは反論をしてまで、意志表示したかったのだろうか。それが、反論の中にもあった「不快」という感情の、中身なのだろうか。清算できているか、できていないか、というのは、なによりも、彼の作品世界が、示していると思う僕などは、逆にそんなことを簡単に割りきっていってほしくないという、異和=コンプレックスこそ、反論の一番の動機なのでは、と密かに思ったりしているのですが・・・。「清算できている」とか「清算できていない」とか、簡単にいってくれるな、と。そして、それなら、その反論は、笠井さんだけにむけるのはお門違いでは、と、まあ、僕は考えたわけでありました。付け加えれば、僕の雑感読んでくれた笠井さんからの最初のメールと、このところ笠井さんの掲示板にあらわれる、笠井さんの見方は、ちょっとちがうぞという感じもあって(^^;、こういう問題は、やはり一方だけのそれらしい意見をうのみにしていては、見えなくなるぞと、警戒したりしている、今日このごろです(^^;。せっかく高橋さんからいただいた手前、これだけは申し述べて、僕などはさっさと引っ込みます、です、はい。

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2001年8月31日 金曜日

 「外から{沖縄へ}入ってきたわたしに取って岡本太郎の「忘れられた日本」はバイブルでした。何度も読んですり込まれ、その言葉でなければと思い込んだ所もあります。ですからわたしの意識ではあくまでも引用なのです。充分に自分の方に引き寄せ咀嚼したものであれば引用だと思うのですが、何故なら日本の文学も文化もそうやって丸飲みし咀嚼し太って来たのではありませんか。」({}内は文章補完)

 沖縄の石川為丸さんサイト「クィクィ」にUPされてきている、件の盗作問題当事者岸本マチ子氏の、盗作に関して最近出されたある公開質問状への答えなるものから引いてみた。「クィクィ」の掲示板で答えの公示が予告されて、果してどんな弁明が聞かれるか興味をもっていたのだが、さていよいよ読んでみると、予想に反して予想通りとでもいうか、どうにもげっそりしてしまう代物でしかなかった。盗作に関するいくつかの質問を前にして、そんなことよりあなた、そのことではたいへんだったのよわたし、「土下座しろ」だの「死ね」だのいわれながら、どんなにがんばってきたことか。そこんとこよろしくね。とでもいった(^^;、ずるがしこいおばさんの、いけしゃあしゃあぶりではじまる、煮ても焼いても食えない<答え>なるものには、なにか感想をもつ気力さえ失せてしまうのだ。十分にうしろめたさはもっているらしいのに、それを周りの人からの「はりのむしろ」だの「袋だたき」だのの、いささか滑稽ともいえる被害者意識にすりかえることで、懸命にバランスをとろうとする、どこかでおなじみの(^^;心理作用に満ち満ちた文章。そんななかで唯一、答えらしい答えとなってやっと吐き出されるのが、上記の箇所である。質問状で出されているのは、岡本太郎の沖縄文化論「忘れられた日本」というエッセーからの盗作如何を問われている、岸本氏の詩作品「祈り」(もちろん、盗作視されているのは、これに限らない)。「クィクィ」でも詳しく対照されているこの二つの作品を<読み>くらべてみるなら、「咀嚼」されて、自分のものになった<引用関係>?、などとはとてもいえたものではないのだが、それでなくとも、たとえば沖縄理解、詩が詩であることの中核において、岸本氏の作品には欠けていて、岡本太郎のエッセーに厳然と在るもの、それは決定的ではないだろうか。つまりは、<死の感受性>ということ。岡本太郎のエッセーが、この<死の感受性>という大木に実った豊かな果実とすれば、岸本氏のそれは、その果実だけをもぎ取ってむさぼり食っている、通俗的な官能美の世界、とでもいった違いがあるのだ。律動のあまやかさに流されずに、よく読んでほしいと思う。岸本氏の詩作品において、「全身全霊をもって神に呼びかける」とか、「極限まで登りつめた緊張の祈りの姿が」とかいった、エッセーから借用して切り貼りしたと思われる詩句の、なんという空疎な響きか。それは、岡本太郎が原理的に?まずつかみとり、みつめつづけた、もっとも前提となる視線が、岸本氏には欠落してしまっているからでは、ないのだろうか。言い回し、言葉だけを「丸飲み」する、そうした作品行為によって、「太る」文化とは、いったいどのようなものでありましょうか(^^;。

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