エスニック
雑感3

雑感もくじへ

(盗聴法について) (問題はみえなくなっているんじゃなくて・・・) (いよいよ7月・・・) (物語空間への思慕) (青木さんの詩) (HPでの朗読会を聞いていて・・・)





1999年6月27日 日曜日

 盗聴法が(正式には、通信傍受法というそうだが)問題になっている。金曜日の「朝まで生テレビ」でもやっていた。録画したのを、今日みていたのだが、見終わって、やっぱりなんか、日本の保守化というのは、相当な程度に進んでいるんだなあと、改めて、こわーい感じがした。議論の中では、兇悪化しているこの社会の治安と秩序を維持するためとは言え、盗聴の仕方がまずい、とか、盗聴する人が信用できないという、盗聴(方)法のことが、もっぱら中心になっていて、盗聴そのものに反対している、たとえば共産党のひととかは、「善良な、何の関係もない市民の人たちのプライバシーが侵される可能性」については、強調するものの、「共産党は、もちろん革命を語る政党だから、盗聴されても当然だけど」とかいって揶揄する司会者の言には、まっとうな反論ができないで、おとなしくしていた。同じく盗聴そのものに反対していると思われる作家の宮崎学氏や田中康夫氏などは、警察の悪について、まくしたてるばかりだった。つまり、議論の全体を通じて、「この社会の治安と秩序」をやぶる人間の力について、奇妙な回避のための沈黙が支配していたように、感じたのだ。でも、と僕は思う。ほんとうにこわいのは、「この社会の治安と秩序」が金科玉条のごとく押し出されてきて、「この社会の治安と秩序をこわすかもしれない」たとえば思想の一つも、口にできにくくなることじゃないのだろうか。(そうした思想だと警察からみなされる恐れからの危険性については、ちょっと、司会者がいいかけたが、それもすぐに立ち消えてしまった。)盗聴法がこわいのは、「この社会の治安と秩序」の絶対化に、みえない拍車がかかるからであり、こうした微妙なニュアンスのもとに語られるべき理念の(理念以外のなにものであろう)絶対化は、必ずたとえば「非国民」といったようなものを、そこまででなくとも、人間に対する、単純な二分法的視線を、「善良な市民」自身が生み出していくことになるんじゃないか、という危惧があるからである。思うんだけど、あの戦争の時代というのは、国民的レベルにおいては、<悪>の一掃された社会に近いものだったんじゃないだろうか。・・・・・・・まっ、どうころんでも、僕などは、おちこぼれの、非国民であることにかわりはないけれどね。どうなっていくんでしょうね。

up

1999年6月29日 火曜日

 まえに、<ひとり>について、触れたが、今の時代のいろいろなコミュニケーション機器の販売競争と、振りまかれるさまざまなコミュニケーション幻想の押し付けがましさとが、どこかで相互補完的な関係としてあるとしたら、もう、そんなこと、PHS、携帯電話、パソコン、新聞、テレビ、等々、売れなくなったら、・・・・問題は、見えなくなっているんじゃなくて、見えすぎるぐらい明らかなところで、ニッチもサッチもいかなくなっているということなんだろうなあ、と思ったりする。距離の創出ということも書いたが、それはなにも、よそよそしさを作り出すということではまったくない。この社会の心理システムでは、いつだって、きれいはきたない、きたないはきれい、いいはわるい、わるいはいい、と反転するメカニズムが働いているということだ。

up

1999年7月1日 木曜日

 いよいよ今日から7月、夏本番。南の暑い島で生まれ育ったせいで、やっぱり、夏が一番好きだ。どんなにおちこんでいても、無理矢理にでも、解放的な気分へと誘い込んでくれる。いつだったかの、詩人の阿賀猥さんからの便りで、僕の詩は、どれも、「全部が夏の詩というわけでもないでしょうに」、みんな夏の魅惑があるという、うれしい言葉をいただいたことがある。阿賀さん、同人誌上(詩誌「JO5」編集人、ロック評などでも活躍。)では、キツイですが、私的な手紙などでは、とても心やさしい、繊細なひとです。「あいつは詩というのがわかっていない」とか、裏では、偉そうな陰口たたいているそうなのに、表面では「そうだね、そうそう、」と善人づら被っていた、どこかの詩誌の主宰者とは大違い。まあ、どだい、容器が違うんだろうが。本当の詩人なんて、ほんと、ひとにぎりなんだろうね。夏とは言え、今は梅雨のまっさかり、湿っぽくならないうちに、今日はおわり。

up

1999年7月2日 金曜日

 今から20数年前に書いた文章をひとつ。20代前半ごろのもの。題して、<物語空間への思慕>。物語というものが、まだ、否定的に語られていた時期で、直感的なひらめきでノートにかいたもの。奄美大島の名瀬で発行されている「奄美の島々」という郷土誌にのせてもらったもののひとつでもある。

 「もう何年も以前になるが、渇を医す水をもとめるように、推理小説を読みあさっていた時期がある。密室殺人の謎解きを志向する、いわゆる「本格物」と称されるジャンルがそのほとんどで、頭脳明晰な超人的探偵の展開する痛快な論理に枠どられながら、無我夢中で、その血生臭く陰気な殺人現場に立会っていたものだ。
  ポーの『モルグ街の殺人』に始まるといわれる推理小説の醍醐味は、事件の怪奇性と犯人の浮動性に加えて、何といっても、名探偵の抜群の推理力による過去の再現の手ぎわにあるのだろうと思う。提供される種々雑多な要素を組み立てていって、事件の全容にようやくひとつの秩序(合理性)を与えるという魅力。それらは、<密室>という限定された空間での作業であることによって、僕にとっては更なる吸引力をもっていたようである。
    <密室>ーそれは具体的な<部屋>であってもいいし、あるいは<物語り空間>という抽象でもいいのだがーその区画され防備された固有の空間における、姿のみえない時間の再現願望こそ、あるいは僕が推理小説に依って医されていたものではないかと、ひとりぎめに納得するのだが、その思いは、僕の推理小説に対する感動の傾向からも諒解できるように思う。僕が最上と考えた推理小説の世界は、故クリスティ女史の短編に登場する「マープル物」の創る世界である。そこでは、<密室>は具体的な殺人現場ではなく、<物語り空間>といったものに設定されている。話好きのマープルおばさんの住むある片田舎の一軒家。そこへ毎夜集う、様々の異なった歴史を負った知人仲間達。かれらはひとりひとり、、自分がそれまでに出会った珍奇な事件を語り出す。すると、編物を手にしてにこやかに聞き入っていたマ−プルおばさんが、暖炉の火にほんわりとした部屋の空気の中へ、さりげない調子で意外な犯人の名をつげ、その推理の過程を披瀝する。まあ、パターンとしてはこんな具合だったと思う。僕はこの<部屋>の雰囲気が好きだった。外国の小説にはこうした<集い>はよく出てくる場面であるが、クリスティはこの<集い>の楽しさを、純粋な形式で僕たちに提供してくれたのだ。僕はかってに納得していた。推理小説がなぜ、いわゆる純文学のジャンルに入るのを異質と目されるのか、それは、推理小説の創り出す世界が、<物語り空間>として、内々の中へ非問題的な直接性として宿るしかない世界だからだと。<問題>をもった私小説作家が<わたし>と書き出しても創り出せない、ある甘美ななつかしさをもった闇をイメージさせる世界を、その背後に意図せずして創り出しているからだ、と。それは僕にとって、子供の頃膝元で父親から聞いていた民話やイソップの物語世界と直結するなつかしさだ。あるいは、夏の夕べの島の空気と馴れあってくるなつかしさだ。
   そう、推理小説のもつ独自の「雰囲気」を語ったら、もうここでは、推理<小説>のことなどどうでもいいのである。僕が今でも魅かれているのは、<物語る>ことへの渇きを医してくれる、ある<親密な空間>であったのかもしれないのだから。
    現実の島の空間が、いつのまにやら、どこの誰やら知らぬ他人の臭気を発散させてきて、常に所有と非所有の観念をめぐらすことに馴れ親しんだ世界へと変貌するのを苦々しく思いながら、<わたしの砂浜>をもとめるように、杳かな視線をあのなつかしい闇の空間へと向ける。それは、今日のある種のひとびとの共通した心的傾向だといったら、僕の僻目だろうか。最近の若い世代のミステリーブームを、怪奇趣味やら、現実逃避の傾向やらで解釈する前に、この親密な<物語り空間>への渇望という一面の在ることも、理解しなくてはならないと思う。同じ若い世代の一人として、僕は<物語る>という親密な心の平面へ降りてゆく場を渇望しているのだから。
     推理小説は、社会的不安の状況のもとに開花すると言われるが、いってみればそのことの内には、拡散して孤立してゆく心たちの、<物語り空間>への思慕がこめられているのではないだろうか。都会のひとが、村の共同体へ熱い視線を向けるように・・・・。民話が村落の生活意識をパターン化するとしたら、推理小説という形式自体は、所有の形づくる一種のパターンであり、現代の民話という一面をもっているともいえる。背後には、共通した空間が控えているのだ。」

以上。拙く、ジャンルの区別があまり意味をもたなくなった今の時代とは、考えもちょっと違うが、基本的なところで共感もしているので、このまま、のこすことにする。

up

1999年7月4日 日曜日

 青木栄瞳さんから、ファクスにて、詩のプレゼント。このところ、書くことも、しゃべることも、めんどくさくなってきて、お礼やら、返事やら、みんな、さぼっている。悪いと思いながら、どうしようもない。青木さんの夏の詩に、元気呼び覚まされる。詩誌「ガレージランド」に掲載予定の詩とか。題は「ドルフィン・ キック」。「チー、チョルル/チー、チョルル」というイルカ語ではじまる。「生きている波を 感じる時」という詩句がでてくるが、ほんと、彼女の詩は、砕ける波のような、いさぎよい言葉の遠心的な存在感がある。今もちまたで量産されている、言葉のねっとりした、行かえ詩と並べて読んでみると、いかに現代にぴったりとしたリズム感、発語感(?)を持っているかが、わかるよ。

up

1999年7月5日 月曜日

 清水鱗造さんのHP、関富士子さんのHPなどで、東京の詩人たちの朗読会の模様を、声や写真で、楽しむことができるが、日本の南の、隔絶された真夜中の部屋で、つまり、情感的にはもっとも敏感な状況でその模様を聞いていても、たとえば、青木さんは、朗読馴れしていて、アナウンサーみたいな声だな、作品でイメージするのとは違って、わりと地味な感じだな、とか、あ、森原智子さんは、無理矢理引っ張り出されたような声で、気の毒だな、とか、最小限の情報としての楽しみ方はできても、朗読そのもので盛り上がるということは、まず期待できない、というのが、淋しいといえば、淋しい気がする。でも考えてみたら、朗読で盛り上がるというのは、なんか、北朝鮮のラジオのアジ放送で盛り上がるようで、こっけいな気もする。とくに、70年代以降の言葉の文化状況というのは、そうした情念の発露というのを、しらけさせるようにしらけさせるように、抑制してきた面があるのだから、朗読がむつかしいのは、無理もないことなのだろう。絶叫なんとかの会というのは、いわば、パンクのようなノリで、詩とは関係のないところから発する情念を、無理矢理詩にむすびつけて、詩の情念を仮構しようとする、くるしまぎれの、パフォーマンスのような気がする。ねじめ正一さんの朗読の仕方が、自然なものとして頭にうかんでくるが、でもあれは、僕の好みではない。白石かずこさんの朗読を一度聞いてみたいなあと思ったりするが、やはり、どこかで、アジ演説が盛り上がる時代でないと、朗読が朗読らしく存在することはむつかしいだろうなあと、あきらめがさきにたってしまう。その点、小説などの朗読というのは、意味を中心にするので、それなりに盛り上がるのではないだろうか。

up



エスニック

雑感もくじへ