エスニック
雑感5

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 (テクストの快楽) (なつかしい人の名前は・・・) (Jo5中本道代さんの詩から・・・) (マレーシアのある州で・・・) (バランスということ) (絶対的沈黙からの・・・) (いつのまにか台風5号が・・・)





1999年7月16日 金曜日

 「愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮ぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テクストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も頭を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持に私がなればいいのだ。私は必ずしも快楽のテクストに捉えられている訳ではない。それは、移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことをきいている鳥の動きのような。」(ロラン・ バルト「テクストの快楽」沢崎浩平訳・ みすず書房)

 わかるなあ、と思ってしまう。人間にとっての<幸福>な空間というものは、正対して、わかりやすく得られるもんじゃないよね。本でも、何ページか読んで、もうその後を読むのを、できるだけ長引かせたくて、そわそわ、いそいそ、ページを閉じて、表紙をなでたり、頭に手を組んで、次の展開を<自分ではじめだす>ことを、促すような、ある確かな時間と空間のひろがり、ふかまり、を身内に触感させてくれるような、そんな本、にであったとき、それはその人にとっての快楽を保証してくれる、テクストということになるのだろう。

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1999年7月17日 土曜日

なつかしい、ひとの名前は、この世のユニバース。ちいさな、ちいさな、ユニバース。
なつかしい、ひとの名前は、この世のブラックホール。ちいさな、ちいさな、ブラックホール。

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1999年7月19日 月曜日

 詩誌JO5(26号)に載っている、中本道代さんの「海<否定形>」という詩、「海の中には/深い深い海の底には/奇怪なものどもが棲息して/蠢いている・・・・」という詩を読みながら、ふと、はじめて貸しボートにのって夜の港に漕ぎ出した昔のことが、からだに、よみがえった。夏の夕涼みついでにだったろうか、目のみえない父を家にのこして、母と姉と三人で、僕はいくつだったろうか、もう泳ぐことはできたんじゃないかと思うのだが、ゆらゆら不安定にゆれるボートにすわって、姉が漕ぎ出して、岸を離れていった時、港のあかりを反映して、腰の下からテラテラと黒光りする海の、なんともいえない、<いやーな深み>が、一挙に僕をパニックにおちいらせた。母も中学生くらいだったかの姉も、たのしそうにしているのに、僕だけが、わんわん泣き出してしまったのだ。いまでも思いだすことができるが、単に海がこわいというのじゃなくて、いままでからだに蓄積された不安感、様々な感情を、底の底からゆさぶりだすような、亜熱帯の夜の海だった。

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1999年7月21日 水曜日

 マレーシアのある州で、公務員には美人の女の人を採用しないように、という通達がだされたそうだ。今日の新聞の記事にでていた。「美人がいると男性職員の心が乱される。神から美しい外見を与えられなかった人にもチャンスをあげるべきだ」とのこと。記事によれば、イスラム教のマレーシアでも最も宗教色の強い州だそうで、女性公務員の「口紅の塗りすぎを禁じ」たり、最近では、いっそ女性の外での労働を禁止することを検討中とか。時代に逆行した、もう、げらげら笑うしかない記事のようにも思えるが、でも、ほんとにそうだろうか。逆行どころか、むしろ、永遠に古くて新しい問題のようにも、僕には思える。日本での、最近の、官僚から、先生から、なにからなにまでの職種のひとが犯している<性>的な事件の異常発生を見ても、よそごとではないのだ。ただ、対処の仕方が、安易なだけ。僕などは、こういう問題をまえにすると、抑圧する方向ではなく、たとえば、ブコウスキーの小説から、マイケルクライトンの初期の映画「ウェスト・ ワールド」、遺伝子操作、クローン人間、とつきつめていき、それでも立ち現われてくる、<他者>としての、女性、つまり、<女>性と、女<性>の関係における質的違いについて、延々と考えだすだろう。もう、未来の革命の課題があるとしたら、きっと、そのあたりだろうと、妄想してしまうほどに。・・・・でも、と、また、気を取り直して、どうしても、笑ってしまうよね、なんか、こっけいで。

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1999年7月23日 金曜日

 右の眼球と、左の眼球。いっぽうの耳殻ともういっぽうの耳殻。においですら二つの鼻腔をもっている。そこを通ってくる、そこから通っていく、ふたつの世界がある。きらめく夏の陽射しの下で、トランプのように薄くなる、僕の身体を軸として。人間にとっての、バランスということ。

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1999年7月24日 土曜日

 沈黙という観念は、僕にとって、とても重要だ。それは、あらゆる事物、あらゆる存在をつつみこんで、源初的な初発のものとして、絶えず<いま>を存在するピカード的沈黙ばかりでなく、<それぞれの沈黙>の空間のかなたに、存在するかしないかもわからない、ある<絶対的な沈黙>というものに、僕らは、絶えずテレパシーを感じつづけて生きているからだ。

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1999年7月26日 月曜日

 いつのまにか、台風5号が、側にきていた。いつもなら、テレビでちゃんと情報をいれておくのだが、このところ、テレビも見ずに、新聞の天気覧も無視してすごしていたら、梅雨もあけたというのにこのひどい雨、風はなんだ、となって、テレビのニュースをつけると、台風だった。規模や進路予想図で、たいしたことはないとわかったが、こんなときは、テレビさまさまだ。僕の意向などとはおかまいなく、台風は着々とある進路をやってきていて、それをしらせる情報も着々と流されてきていて、僕はそれをはじめて知ったというわけだ。情報から、処断されてあることの、幸福感と不安感がなつかしくからだをつつむ。いまでも、たとえば、テレビひとつなくなったとしたら、ずいぶんと生活空間の雰囲気がかわることだろう。いい意味でも悪い意味でも。ソニーのトランジスターラジオを耳のあたりにささえて、昔父がじっと聞き入っていた姿が、ふっと、まぶたに浮ぶ。

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