エスニック
雑感6

雑感もくじへ
(詩人中本道代さんからの詩集・・・) (今日的ハイジャックが・・・) (沖縄の詩人石川為丸さんの詩集・・・) (吉本隆明の対照表) (日の丸=君が代法について) (赤マント氏のこと)





1999年7月27日 火曜日

 思いがけないプレゼント。詩人の中本道代さんから、すばらしい詩集「黄道と蛹」(思潮社)をいただいた。物や事象との官能的な連関(「接吻と抱擁」(親和力))という原生的な生を生々しく生きる中本詩の本領は、こんどもいかんなく発揮されているように思えた。きらめく結晶、きらめく細胞、虫や苔や、花粉、草いきれする地上の、いきとしいけるものたちから、月や、雲や、大気圏をつらぬいて、宇宙のはてまで、「裏側の宇宙」(Paradise)まで、生きて在ることの連関をもとめて、のびていく言葉、のびてくる言葉、「在るものをすべて/夢みてい」る、ある緊張した視線の言葉が、詩集全体にうごめいている。ひとひとり生きることの全体性、「その人けなく解放的な厠所」(上海)で。その消えかかった、危うい場所で。中本さん、ありがとうございました。もっと、じっくり、ゆっくり、読もうっと。

up

1999年7月29日 木曜日

 全日空札幌行きの飛行機を乗っ取って、機長を刺し殺ろすという事件が最近あったが、犯人は、シュミレーション・ ゲームマニアで、実際に飛行機を自分の手で操縦してみたかったからと、動機を語っているそうだが、今日のテレビで、犯人が行けと命じた飛行コースとおんなじ場所のシュミレーション・ ゲームの画面が、チラッとでていた。なるほど、ほとんど、実際の飛行体験に近い疑似体験ができそうな、たいした出来栄えである。電子機器に疎い僕などは、すごいとしかいいようのない、ゲームソフトの進化ぶりである。実を言うと、僕も、自分のパソコンに、ボートレースのシュミレーション・ ゲームの体験版なるものを、ひとつ、いれてある。あの飛行機ほどの精密さはないのだろうが、それでも、最初はじめて動かした時は、その臨場感、波をきって、ものすごいスピードで走り抜け、競争相手のボートにぶちあたったり、コースを外れても、海の上ならどこへでも突っ走っていける、現実の体感に近い自由度をもった世界に、こりゃすごい、といいながら、歳を忘れて、真夜中まで夢中になった経験がある。まして、あれだけ、よくできたゲームをやっている人間なら、もしかしたら、自分も実際に飛行機を操縦できるんじゃないか、という気になったとしても不思議ではないだろう、と思う。しかし、ここまでは、すべて疑似体験のうちである。いろいろな専門用語を使って、犯人は、機長に要求をだしていたそうだが、また、今日のニュースによれば、飛行場の手荷物検査システムの不備などについて、全日空のホームページなどに詳しい指摘をしたメールを送りつけているそうだが、そこから感じ取れる<知>というものへの偏愛、<知>というものの優越感、それが、どうしても、僕などには、引っかかってくるところである。それが、たとえば、犯人なら犯人の疑似体験を、疑似体験としてとどまらせない、原動力なのではないだろうか。どこか、人を見下したような、最近のガキの顔と、まだみぬ犯人の顔が、僕にはダブってきて、どうしょうもないのだが、それはまた、この時代を覆う暗黙に許容された空気として、頭の悪い僕を暗くさせる種でもある。

up

1999年8月3日 火曜日

「海風   この先に   行ったことのない廃虚があって   遭ったことのない死者がゐて   聞いたことのない死語が紡がれてゐるのだ    浦添ようどれ   わたしのうちに   深くそれらを埋め終へると    わたしは静かに   ひとつの折り目をつけてゐた。   このさきへ」(海風)

 沖縄の詩人、石川為丸さんの、これは第一詩集になるのだろうか、「海風    その先」(おりおん舎)が発行された。あの60年代末をいろどる学園闘争の生き残り兵として、あの「熱いものは何だったのか    何のためのたたかひだったのか   いまでも問ひ返してゐる」(海風)ひとりの人間の声を、響かせている。警官にぶちのめされ、「鮮やかな、赤い、柘榴の粒」(空欄)のようにふきこぼれている「歯」を凝視しながら、すべては、エイプリル・ フール、エイプリル・フール、と自嘲し、懐疑しながら。生き残り兵とか書くと、小野田さんとか思い浮かべてしまうが、僕のかってな思い込みでは、本当の意味であの大東亜戦争というものが、日本で終わったのは、あの60年代闘争の終焉によって、ではないだろうかと感じているからだ。明確な理由を示せとかいわれると、困ってしまうが、あの闘争を主力としてになったと思われる、終戦直前直後の昭和17,8年生まれから、昭和22,3年生まれの人たち、それより数年後の僕たちの世代すら、直接体験がないだけに、亡霊のように、戦争という魔力に、その生活次元で深くおかされていたフシが、いまから考えると、たぶんにあるからだ。いやよいやよも好きのうち、を本当に否定できていただろうか、と。戦争という<観念>の両価性を生きようとしたのではなかったのか、と。もちろん、闘争の意味を、これだけに単純化することなどできるわけないけれど。その辺への問いかけも含めて、沖縄で、いまも基地闘争にかかわりながら、詩の新聞「パーマネント・ プレス」などで、あらゆる権威にたいして、軽く重くジャブをくりだしている、石川さんの、今後の詩的深まりに、期待すること大である。(ありゃ、こんな言い方、石川さんに、やじられそう、どっかで聞いたセリフどおー、って。)

up

1999年8月8日 日曜日

 吉本隆明の、なんという文章だったか忘れたが、「自立の思想的拠点」が書かれた時期のもので、論敵、政敵などから、現実的行為において「昼寝」をしていると責められていることへの、反論だったと思うが、ひとりの人間が生きていることの内実を対照表にして、いつの、これこれの時間、誰それが政治集会にでているとき、誰それは失恋に打ちひしがれて、固有の悩みに沈んでいた。また、これこれの時間、誰それはこれこれの他者と会って、これこれの交渉をしている時、誰それは、部屋にとじこもって、これこれの思いに、全身をひそませていた。等々。内容は、失念して、ぜんぜんこのとおりではないが、つまり、ひとひとり、この世に、生きて、あるかぎり、なにもしていないということはありえない、ある不可避的な場所において、それぞれの<生>を、ひとは生きるのであり、それに、本質において、優劣などない。意訳的にいえば、そんなことではなかったかと、記憶している。見た目の、カッコだけの<生>がもてはやされがちな、今日のマスメディア文化では、こういう視点は、ともすると無視されがちだが、それだけに、ますます重要な視点になっていくのではないだろうか。

up

1999年8月11日 水曜日

 国旗国歌法、というより、日の丸君が代法、が成立した。別に国が国歌を持とうが、国旗をもとうが、それはそれで、いいんでないのと思ってしまうが、問題は、日の丸=君が代という、歴史的連続性をねらってセットになって提出されていることであり、それが、どうやら、国民ひとりひとりに対してというより、国旗国歌の掲揚、斉唱がもっとも頻繁に行われる現場の指導者を主眼においた、いってみれば、これも一種の組織対策法になっている感じがするところに、僕はあると思う。これもすぐにも成立しそうな組織犯罪対策三法案とならんで、「国民の皆さんはあんぜんですよ。」とか、「皆さんに強制はしませんよ。」とかいいながら、都合の悪い組織と、国民との、乖離作戦、いわば、そんな組織のいうことを聞いては行けませんよ、そんな組織と付き合っていると疑われてはいけませんよ、という、国民ひとりひとりに対するやわらかな脅し効果、あてつけ、が、明文化することの、かくれた欲求なのじゃないだろうか、というのが、ま、非国民の僕なんかの直感だけどね。犯罪捜査での盗聴なんて、わざわざ法文化しなくても、「やられてるよ、ひどいよ」と、警察勤めの先日会った同級生が苦笑いしていた。太平洋戦争が終わった時、それまで熱心に皇民教育をしてきた学校の教師から、一転して「今日から日本は民主主義の世の中になりました」といわれてビックリ仰天、愕然としたという話は、よく聞かされてきたが、もしかして、僕たちも、「国を愛し、ゆたかな郷土を愛する皆さんは、日の丸に敬意をもち、君が代をたからかにうたいましょう」とかなんとかいいだす先生を目撃できる、かもよ。・・・・ま、そんなわけ、ないか。ぜーんぜん政治家に魅力というものがないもんねえ。おわり。

up

1999年8月15日 日曜日

 折襟のくたびれた国民服に、ゲートル、帽子、ズック靴、それらすべてをことごとく赤く染め抜いて、目には、濃い目のサングラス。面長の、彫りのふかいとても理知的な顔をしていたそのひとを、僕たち子供は、「赤マント」と呼び慣らして、通りで出会ったりすると、逃げる準備をしながら、はやしたてた。たいていは、地面と顔の間あたりの何かにむかって、ぶつぶつぶつぶつ野太い声で、抗議のような口調を発しながら、通り過ぎていくのだが、ふとした拍子に、えらい剣幕でこちらを向き、追っかけてくることがあった。そのスリルを味わいたいために、僕たち子供は、はやしたてるのだが、いまからよくよく思い出しても、とくにそのひとをことさら馬鹿にするとか、蔑むとかいう気持は、まったくなかったといっていい。亜熱帯は奄美大島の主邑名瀬の町で、当時はほんとに、いろいろな<片隅のひと>が、ぎらぎらした陽のしたで、にぎやかに、生きていたのだ。(ちょうどあの作家の島尾敏雄氏が、心の病者を病院から解放するようにして書いた作品「島へ」も、この頃この地を舞台にしてできている。)「赤マント」氏も、そうした風景を織り成す一員として、ぶつぶつぶつぶつつぶやきながら、町の通りを過ぎっていったに過ぎない、感じだった。その特異な赤づくめ(?)スタイルのユニークさの裏にある、戦争という凄惨な傷、閉じてしまったモノローグをやぶって飛び出してくる、畏怖のようなもの、僕たち子供も、うすうすそれを感じとりながら、しらずしらずに、はやし立てては、逃げ惑っていた気がする。一度、ある暑い夏の真昼、港近くの海上保安部のビルの屋上に、僕たち2,3人の仲間が、彼に追いつめられたことがあった。逃げ場をなくして、手すりの角に固まった僕たちは、てっきりなぐられるものと覚悟して、じっと彼を見据えて、待ったが、「赤マント」氏は、途中で何かくぐもった声をだしながら、やさしい顔(といっても目の表情はわからないが)になって、しばらく僕らをみつめ、くるりと向き直って、また、うつむきかげんに去っていった。・・・・あの理知的な顔をした人の人生、と、僕らは、大きくなってからも、時々話題にすることがあった。町が経済的に豊かになりはじめたころだったろう、町から、彼の姿は消え、うわさでは、保護措置として、精神病院に強制入院させられたということだった。「赤マント」氏が消えて、、町はどんどん豊かになり、どんどん、つまらなくなっていった。

up


エスニック

雑感もくじへ