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●中本道代さんから詩誌「ユルトラ・バルズ」7号 ●水出みどりさんから詩誌「グッフォー」36号。その他。
●松尾真由美さんから詩誌「00」12号を ●笠井嗣夫さんから詩誌「暗射」2001・秋号
●松尾真由美さん個人誌「ぷあぞん」13号 ●「天秤宮」16号と宮内洋子詩集「陸に向かって」(思潮社)
●笠井嗣夫さんから「暗射」12月特別号 ●中本道代さんから詩誌「ユルトラ・バルズ」 8号
●松尾真由美さんから詩誌「BIDS LIGHT」5号 ●谷口哲郎さんから詩誌「オドラデク」2号
●松尾真由美さんから詩誌「庭園別冊2号 ●石川為丸さんから詩の新聞「パーマネント・プレス」33号
●水出みどりさんから詩誌「グッフォー」37号を ●松尾真由美さんから「ぷあぞん」14号短編集「夜」(驢馬出版)
●笠井嗣夫さんから「暗射」2002・春号 ●「天秤宮」17号を宮内洋子さんから。
●詩誌「孔雀船」など5誌をとり急ぎ ●松尾真由美さん新詩集「揺籃期」と「ぷあぞん」15号
●詩誌「ユルトラ・バルズ」など3誌をとり急ぎ ●松尾真由美さんから詩誌「庭園別冊」3号を
●阿賀猥さん新詩集「ナルココ姫」(思潮社刊) ●笠井嗣夫さんから「暗射」2003・春号
●笠井嗣夫さんから詩誌「あんど」2号を ●笠井嗣夫さん新詩集「ローザ/帰還」(思潮社刊)
●橋場仁奈詩集と関富士子詩集 ●詩誌「部分」22号と、詩誌「BIDS LIGHT]7号
●暗射など詩誌3誌を取り急ぎ。 ●広瀬大志さん詩集「髑髏譜」(思潮社)
●詩誌「野路」72号と「ぺらぺら」9号 ●詩誌6誌やエッセーなど、取り急ぎ。
●青木栄瞳さん詩集「ヘクトパスカル200X」(思潮社) ●松尾真由美詩集「彩管譜ーコンチェルティーノ」(思潮社)
●三井喬子さん「部分」25号、笠井嗣夫さん「暗射」夏号 ●詩誌「分裂機械」14号と「まどえふ」3号
●関富士子詩集「植物地誌」、「グッフォー」42号、など。 ●詩誌「別冊・庭園」4号を松尾真由美さんから。
●松尾真由美さんから詩誌「ぷあぞん」19号 ●三井喬子さん「部分」26号、笠井嗣夫さん「暗射」秋号

          





2001年9月6日 木曜日

「ユルトラ・バルズ」7号

 中本道代さんからいただいた「ユルトラ・バルズ」7号には、「吉岡実の《引用詩》」と題した秋元幸人氏の手になるエッセーがのっていて、ちょうど沖縄の盗作問題のこともあり、おくればせながら(すみません(^^;)興味深く読ませてもらっている。版画家池田満寿夫氏と知り合い、影響しあうことで創造されていった、「他者の文章からの引用をふんだんに嵌め込んだ詩、彼の所謂《引用詩》」、その発生の機微を作品年譜的に詳細に追いかけながら、引用、本歌取り、コラージュ、等々といった色々な見方をからませることで、詩人と他者の言葉とのかかわりについて、とても共感し納得させられる考察が展開されている。僕などは、秋元氏によって分析に付されている吉岡詩をあらためて読みながら、他人の言葉の無断拝借ということだけでいえば、あるいは沖縄の岸本氏作品とどっこいどっこい、もしくはそれ以上(^^;とも言える作品が、そのことがわかったにしても、なぜ一方はまぎれもない盗作、盗み書きの感触しかやってこないのに、片方は、そういうこととは別の何かであり、<生成する言葉の緊張感>とでもいったものにあふれた、別の事態であると、僕なら僕に、感受できるのか、実は盗作問題というのは、そこのところがポイントなんだと、貧しい頭で(^^;思ったりもした。秋元氏は、自らの仮面性について語るエズラ・パウンドを援用しながら、「自我を「探求」しこれを豊かに拡張させる手段として、他者へ投影された自我。しかもあくまでも自らの詩心に忠実であり続けながら、他者へ大きく勢いよく投影された自我。吉岡実の《引用詩》の面目は」・・・「こうした一事に集約され得る」と結論づけているが、要は、他人の言葉が呼び込まれる、主体の言葉の磁場、その形成、こそが問題なのではないだろうか。他人の言葉⇒私の言葉⇒私の表現⇒?、といった<流れ>しか感じられない沖縄の岸本氏の作品では、こうした磁場の形成を、どうしても読みとることができないのだ。・・・と、またまたエラソウに書いてしまいましたけれど(^^;。

 ま、盗作問題はこれくらいにして(^^;、「ユルトラ・バルズ」7号、詩作品も充実している。まず中本さんの2篇の詩は、見ることからも、認識することからも、表現することからも、つまりはすべての<現前>ということから絶えずすりぬけていきながら、すりぬけることで、僕たちの生きていることの実感をなによりもしっかりと支えてくれている事象、現象たち、そうしたものへのまなざしが、独特の簡潔な言葉で描かれていて、いつもながらに、懐かしいような奥行きを味わうことができる。「けっして所有することのできない/たいせつなものを/天使がやもりの形をとって/窓にはりついて守っている」(緑の眼)。「・・・謎のまま埋もれていくもの、腕の中の短い仮死と本当の/死とに、雪が吹き付けています・」(雪の手紙)と。また、中川千春さんの「第一課 ここにいる。 どこにいる?」という意味らしいロシア語で書かれた表題の詩は、ロシア語を専攻していた?亡き親友の霊にささげられた作品だが、「凡庸極まる垂れ流しの回想を、ひらに許せ。/どうひょうげんしたらよいのやら、そないなこと、とうに、わからなくなってんのや」という言葉どおりの、とりとめのない回想の中を漂う友の声や姿をつづっていくだけの言葉が、親しいものの死をまえにしての、「わからなさ」(神山睦美)、不可解な悲しみを、懸命に語ってくれているようで、(ジンとまではこなかったけれど)、わかる、と思った。それから「丘の名前」の江代充さん。「風景の発見」という言い方があるが、この詩人の語り口からあらわれる、すべての意味を消され、寸断されたまま「ひとの歩行が長引くにつれ」てつながっていくだけの、距離のあやうい異様に静謐な風景には、なにか<前風景的な視線の営み>とでもいったものがあって、魅力的だ。もちろん、これもまたひとつの詩の風景の発見である以上、習慣の視線にさらされるのは必定、だろうけど・・・。中本さん、気になりながらも、あっという間の夏で、お礼も申し上げず申し訳ありませんでした。「天秤宮」へのこまやかな感想ともども、この場をかりてお礼申しあげます。


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2001年10月24日 水曜日

「グッフォー」36号
友澤蓉子詩集「微風のくぼみ」(緑鯨社)
「ビズ・ライト」4号

 北海道の詩誌「グッフォー」36号を水出みどりさんから、それとグッフォー同人の友澤蓉子さんの新詩集「微風のくぼみ」(緑鯨社)を、それぞれいただいています。詩誌や詩集の紹介がとどこおりがちですが(^^;、しっかり読んで、、たのしませてもらっていますので、ご了承のほど(^^;、ありがとうございます。友澤さんの詩は21篇。ポエムっぽいあやうさ?がずいぶんあるようにも思うけど、好きだったのは、「うたたね」という作品と、最後に置かれた「こだわり」という作品、。「こだわり」の最終連「真夏日が鈍く笑う/こう暑いと/嘆きの空は何かを手放すようにして/しんきろう//海の向こうに/高層のビルを林立させ/モダンな死角をつくった/なんていいんでしょう//この冷えたマットを踏むと/さらに涼しくガラス戸は閉じた」の詩句まで読んできて、ちょっときまったという感じがしたような気もしました(^^;。活字の大きさも装丁も美しい詩集です。「グッフォー」今号は、独特の語りで特色のあった天野暢子さんの作品が読めなかったことと、わりとすきなのほほんとした世界を動物に託して展開する吉田正代さんの作品がちょっと中途半端なものになっていたのが残念でしたが、北海道という風土から萌え出てくるような言葉の実感には、僕などはつい引かれてしまいます。水出さんの作品「回復期」の中の詩句「わたしの奥ふかくに棲む/名づけられることへの恐れが/白日のなかにこぼれ/生きるのだと/囁く」が、情報=生の支配するこの世界で<生きる>ことの、切実な抵抗線をも感じさせて、「グッフォー」の雰囲気を代表しているようでした。それと、松尾真由美さんのジュッジュッとほのかな炎のありかを予感させながらくりだされてくるあいかわらずの言葉の顕現、出現の事態(^^;には、触れてくる痕跡のような詩の(生の)、つかめそうでつかめない影とののがれがたい関係の熱気が伝わってきて、やはり一番印象にのこってしまうことでした。松尾さんからまえにいただいていた「ビズ・ライト」誌も、「全生活」という詩語をキーワードに、中原中也の詩にあらわれる曖昧な指示代名詞などの象徴語について考察をすすめる、吉田光夫氏の「中原中也の解読1」や、北野映画「BROTHER」における、見た目のはげしい暴力性とはちがった、「人を自他の死にまで至る暴力に駆り立てていく欲望(殺意、あるいは裏返しの生への意志)そのもの」の衰弱を指摘する、日下部正哉氏の「タナトスと、衰弱と」はじめ、充実した論考満載で、なかなかにおもしろく読ませてもらいました。水出さん、友澤さん、松尾さん、ありがとうございました。

・・・からめとられた欲動の渦にとけこみ/不妊の夢でつながる変形の器官を患い/足場のない水の疲労をたくわえつつ/きらめく海の未生の飛沫にどこか惹かれて/溺れる私とまさぐるあなたがいちまいの紙の上で反転し/抱きあうこごえた仕草をうつす鏡の混濁にたかまり/むしろやさしくきびしい密度の間隙をたゆたい/水深をはかる姿にたがいの骨格があらわれる・・・
    (「ビズ・ライト」4号 松尾真由美「生成とひそやかな喪をめぐる綺想曲への」より)

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2001年11月2日 金曜日

「00」
12号

 詩の(朗読の)実験報告書といった感じの分厚な詩誌「00」(芦田みゆき編集)最新号を、ここにも詩作品「風 ひとひらの黙秘の流下」を寄せている松尾真由美さんからいただき、ゆっくり堪能させてもらっている。「00」主催で去年の10月に企画されたという、詩の朗読と詩人たちの展示物による「とぶことば」展の模様や出品詩作品、また特集記事としての「詩という出来事」についてアンケ―トに答えた、詩人をはじめとした多彩な方たちの文章が読みごたえ充分。詩のことばを声によって<ひらく>朗読という行為について、屋内=舞台だけでなく、隅田川周辺のいろいろな場所へ移動しながらの屋外朗読の模様なども、写真や参加詩人たちの文章によって報告されていて、興味深い。ただ、その試みを総括するような「場の理論ー声とは何か」という小林弘明氏の文章も掲載されているが、「朗読は、視線で成り立つものではなく、場の生成と消滅を耳で聞き感じる出来事である。したがって、視線という権力構造があらかじめ要請されることはないわけだし、見る人見られる人という固定された関係を突き崩すように声は作用する。さらに真実と虚偽の対立も意味をなさず、その場の相互の関係が詩を出来事として体験できるかどうかに、朗読会の成否はある」といい、環境と自他の身体性をまきこんだ<場>によって<声の主体>が分裂、変容し、あらたに生成されていく詩語、といった、「理想的」な状態についての語りは、さもありなんと、理解できなくもないが、でもそれがすぐに朗読一般に適用できる理解にはむすびつきそうもないという危惧も、僕などにはすぐにわいてきて、それはたとえば「声の在り処ー反朗読論」を書いた笠井嗣夫さんが批判するような朗読シーンをも包括するには、なにか大きく欠落しているものがあるような気がしてきて、何が朗読されるのか、誰が朗読するのか、ことばの結婚、ことばのレイプ、どんな集まりの朗読なのか、等々、理想的にはいかないのが、大方ではないのだろうか、と思われてもくる。実際、野外朗読の写真をみてみても、他者に向かってことばを<ひらく>というよりも、身内=詩にかかわるわたしたち=<朗読舞台>の移動による、それぞれの詩の異空を掘り当てて行く作業の方に、力点は置かれているようにも感じられるのは、僕の僻目だろうか。ことばが発火する朗読の<現=場>性という「出来事」の困難さ。とはいうものの、アンケートの中での朗読についてのそれぞれの詩人の異論や、詩についての深い思考と試みにあふれたこの詩誌の雰囲気には、やはり圧倒されてしまう。無知な僕などはいろいろ教えられ、気づかされることも多く、まだ全部よんだわけではないものの、すばらしい詩誌のプレゼントに、よろこんでいます。松尾さんありがとうございました。

詩誌「00」=発行所・00企画室(東京都墨田区墨田1-4-2-202)
         定価=1000円

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2001年11月30日 金曜日

「暗射」秋号

 
<わたしたち>の生の様式としてからみつく、宗教とか伝統とか民族のアイデンティティーとかに囚われた思考が結晶させていく、ナショナリズム、あるいはネイティヴィズム。いま、自由の国といわれたアメリカにおもしろいように露呈している国家主義的な結束感情は、報道などでみていても、不気味であり、暗示的だが、「暗射」秋号は笠井さんの連載エッセー<視線で刻む3>が、「対立から対位法へ」と題して、「パレスチナ系アメリカ人」であり「英文学者」であるE・W・サイードの新翻訳本「文化と帝国主義2」(みすず書房)の提出しているという「本質の形而上学」という概念をめぐって、この本が出た直後に発生したというアメリカ・テロ奇襲事件を重ねながら読み解こうとしていて、興味深い。「本書において私がとくに注目したいのは、帝国主義にたいして単純にナショナリズムを対置するのではなく、むしろナショナリズムやネイティヴィズムの根源的な乗り越えをこそ企図していることである。「ナショナリストの意識は、硬直した厳格さにいとも易々と変化しうる」だけでなく、「自己のアイデンティティを祝福する情緒的な陶酔にとらわれる」ものであり、そこを越えなければ未来への可能性は開けない」と。サイードによるそののりこえの処方を紹介しながら、笠井さんの文章は、最後にサイードの結語、「より実りのあるのは―そしてより難しいのは―「わたしたち」についてだけでなく、他者について、具体的、共感をこめて、対位法的にかんがえることなのだ」、を引いて終わっているが、ナショナリズムの罠というのは、身近の色々な場面で僕たちが経験する<わかっちゃいるけどやめられない>(^^;慣性的思考=志向=嗜好の場の中に、生理としてあるように思えて、<わかる>、<わかりあえる>ことだけでは解決つかない、難しさのようにも思えてきて、問題なのは、知的理解ばかりでなく、その場を絶えず相対化していける実存的?な場を、すくなくともひとりひとりの<ワタシ>がどう構築していけるかなのだろう、とも思えてくる。つまりは、いってみれば未来を手にするための、<とてつもなく難しい>課題なのではないだろうか。ところで、サイードが引いているファノンの言説という言葉が笠井さんの文章にみえるが、ファノンといえば沖縄?、と強引にもっていけば(^^;、その難しさの一端が日本において集約的にあらわれているのが、<沖縄>だろう。清水三喜雄さんの<沖縄で考えた⑥>「方言は恥ずかしいか―広津和郎『さまよへる琉球人』(同時代社)」が、のちのちの方言論争へと底流していく感のある大正期の筆禍事件をとりあげて、国家の近代化と方言の問題の中に沖縄を捉えているのが、問題意識自体のなつかしさ(^^;とは別に、やはり今日にも連続する、ナショナリズムの<罠>をみすえているようで、たちどまらせる。・・・・・・・・と、なんかぐじゃぐじゃとまずい紹介になってしまったような気もしますが(^^;、笠井さん、「暗射」紹介おそくなり、書いたら書いたでうまく書けなくて(^^;、どうにもすみません。

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2001年12月7日 金曜日

「ぷあぞん」13号

 松尾真由美さん個人誌「ぷあぞん」13号も、いただいてもう何日がすぎたでしょうか。・・・2篇の詩(「日の閉域 睡りの剥片はなおも遊戯にあふれる」 「たとえば淡い素描にふかまる転生の記録について」)と、1篇のエッセイ(大下さなえ詩集「夢網」についての詩評「夢との蜜月 透きとおるためのいくつかの断章」)、が黒と白のコントラストもあざやかな、美しい装丁の誌面に、しずかに装填されている、といった感じ。「あの/陽ざし/声のない/光源からふりそそぐ/きららかな熱度をまとい」(「日の閉域・・・」)とはじまっていく詩作品と呼応するように、「裏返された重心にひきずられ、個人の世界とのあやふやな靭帯が、ときには逆光として私たちを照らしだす。この逆光を強くもとめて、詩は書かれるのかもしれない」、と、夢に寄り添うように、詩論が展開され、何に向かって、詩の(行為の)照準をあてようとしているのかも、おぼろげながらうかびあがってくる、そんな詩評になっている。引用された大下詩も、松尾さんの読みを充分に裏打ちしてくれるように、とても魅力的だ。詩も夢も、照射するふたつの光のあわいに、溶けていくことの快楽のなかに・・・・。

・・・・だから、みんなもあなたも顔があっても生気がなく、溶けだすことを待機する澄んだ物体のさみしい影を携え、かならず消え去る。みずみずしいまま透明なわたしと合流するように。・・・・
(「夢との蜜月・・・」より)


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2001年12月15日 土曜日

「天秤宮」16号
宮内洋子詩集「陸に向かって」(思潮社)

 いまも吹き荒れている、アフガニスタン大規模予告テロ?ともいうべき、アメリカの報復ヒステリーの嵐は、どう考えたって戦争当時者とはなりえないアフガニスタンの民衆の、いわゆる「誤爆」による大量死をもたらしているが、いろいろ口では言いながらの、容赦のない冷酷さをこれでもかこれでもかと見せつけてくる事態に、立花隆氏が「文藝春秋」に書いていた、実は実はの十字軍の歴史的な残虐きわまりなさを、つい思い出してしまう。わけもわからず殺されていく人々の無念さは、「死んでしまうには まだ/早い時刻」とか、「アフガニスタンの/多くの子どもたちの涙は/天まで昇って/ブッシュさん」とかいった、悠長なものでは、ぜったいにありえないだろう。これは「天秤宮」巻頭にのっている、「空爆の夜に」と副題した池田順子さんの作品「夢の兵隊さん」の詩句。生き死にする輪廻感のような思考の儀式のあとにやってくる諦念のように、「仰向けに横たわったまま/曳かれていく/(わたしは)夢の兵隊さん」という、無力感への居直りとも言えそうな場所での主体化は、言葉にどこかスーパーエゴのくろい影がちらついてきて(^^;、・・・・・どうなんでしょう、ね(^^;、池田さん。「天秤宮」今号は宮沢賢治特集として、宮内さんが加わっている賢治を朗読する会についての報告と、会員の方の賢治への思いが綴られた文章がのっている。賢治を語り出すと、どうしても「夢のいい人さん」みたいに、善なるこころがキラキラしてくる(^^;文章をみせつけられがちだが、予想に違わずで(^^;、ちょっと困ってしまった。いちいち引用しないが、唯一詩人である宮内さんの文章が、「賢治は理想主義を唱えながらも臆病で」とか書きながら、醒めた目を持とうとしている姿勢をみせていて、救われるといった感じだった。その宮内さんの文章に、賢治の物語の主人公が、読んでいると背景から浮き出てきて人物だけ立体的に見えてくるのが不思議、という箇所があるが、おもしろいと思った。つまりは、東北の風土に生きながら、単なる風土を愛する詩人としてではなく、からみつく風土としての<いま、ここ>を、なんとか魔法のように変容させたいと願う、底深い言葉の念力こそ、一見風土詩人とも見紛う、賢治作品群の魅力のひとつになっているのだろうなあと、あまり賢治文学のいい読者ではない僕なども、思ったりしている。宮内さんの感じ方は、そんなところに関係して出てくるイメージのような気がした。今月は、宮内さんの第4詩集「陸に向かって」も、思潮社から発行されている。「天秤宮」や新聞、雑誌に発表してきたこの5年間の集大成45篇。まだパラパラめくっているばかりだが、鹿児島の日置郡という、神話の古里のような地に腰をすえて、意識無意識を総動員しての、文字通りからだを張っての、生活記録、と言った感じだろうか。擦過する思い、情景には、詩を書いていく動力、動因のようなものも、走っていて、こうして纏まってみると、やはり単なる生活詩ではないと感じられてくる。よき評価を得ますように。「天秤宮」今回は僕の作品はサボりました。サボってばかり(^^;。宮内さん、ありがとうございました。

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2002年1月13日 日曜日

「暗射」12月特別号

 このところの詩誌「暗射」誌上では、同じ北海道の詩人・高橋秀明さんと笠井嗣夫さんの間で、七〇年世代思想清算問題?というのが、持ち上がっていたのだが、高橋さんの前回の異議申立てに対する笠井さんの反論「「清算」されたのは「痛み」だけではない―高橋氏の「異議」に向けて」が、こんどの特別号には掲載されて、あわせて、六〇年代末から七〇年代にかけての、世代的思想体験の意義について総括するような文章「私<たち>は今もなお一人の叛徒であるか」を谷口孝男氏が書かれている。それで、読ませてもらいましたけど、しかし、それにしても、論争というにはあまりにもぎくしゃくした(^^;、かみあわないやりとりがつづきそうな気配に、ちょっとコメントするのも躊躇してしまうというのが、僕の率直な感想でありました。ほんとは高橋さんが真意を表明するのを待つしか、僕などにはどんな判断もつきそうにないが、「清算した」というきめつけに不快感をあらわす高橋さんと、「清算」を前提にして、その清算物とは?これこれのことだと提示する笠井さんの論調は、誰が読んでも、ありゃー、ずれていって、しまうう、と感じてしまうのが、ほんとうのところではないだろうか。これは笠井さんが反論するまえに自ら掲示板などで危惧されていたことでもありますが、「暗射」編集者に請われた苦肉の反論とでもいうべき?笠井さんのこんどの文章は、率直ついでに言わせてもらえば、文章の大部分を、これこれのことで私は高橋さんを評価、共鳴していたのに、という粛然としたまっとうな?文章で記述したあとに、なにかとってつけたような、なのにあなたは(^^;、それらを清算したとおっしゃる、「清算されてしまったのは、氏における七〇年世代の思想、「渦動そのものの痛み」のみならず、かっての氏の潔癖でひたむきな姿勢なのだ」ときて、読者は、やはりその早急な笠井さんの糊付けしたような論調が、どうにも不自然と映ってしまうのをのがれがたいのではないだろうか、と思ってしまうのだ。なにか、清算ということと、清算内容とがしっかりパックされているような・・・。うまく言えないですが、笠井さんの側にもちょっと思い込みの問題あり、と、僕はにらんでいます(^^;。門外漢が生意気言ってすみません、ですが。それに、「潔癖でひたむきな姿勢」というのは、見方によっては、これこそ七〇年代的硬直のもと、「清算」されてしかるべき、とも、思えたりして・・・。共同性の死のエロスともいうべき、闘争のなかで、それが作動するとき・・・。それに関しては、谷口氏の「国家解体への闘いもその過渡性を了解しない限り、どれほど開明的な組織でも国家と二重写しとなるという」罠への凝視が、ひととおり言って澄ませられる問題ではなく、未来にむかっても、最大の、中心的凝視になってしかるべき事柄fだと、興味深く読ませてもらいました。といっても、やはり七〇年代的対抗論理の容器から漂ってくる情念の匂いが、谷口氏に対してはどうにもどうにも気になってくることではありましたが。笠井さん、今回は、紹介おくれついでにちょっとイヤミまで言ってしまいましたが(^^;、ありがとうございました。


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2002年3月18日 月曜日

「ユルトラ・バルズ」8号

 中本道代さんからいただいた8号、中本さんの4篇の詩と江代充さんの詩「幼いキリスト」がとくに印象深く、幻肢的空間?から染み出てくる黙=声の、痛いようになつかしい大気への誘いが、いまだ/すでに無い<わたし=たち>へと、身体をほどいていってくれる。

・・・・突き出した石造りの井戸のまわりに水が拡がり/時折り蹲み込んだ子供たちがそこから声をかけ合うと/不用の井戸は深い水のなかを/こまかな起伏のある/その手触りの縁からひくく真下に覗き込むことができた・・・
(江代充「幼いキリスト」より)

・・・・(あなたの知らないあなたに出会おうとして・・・・/わたしたちの盲目の記述が満ちていく/読むことができないものを読むことが/宇宙を沈黙に沈めていく・・・・
(中本道代「残りの声」より)

 たとえばビートたけしや、さんまや、ダウンタウン、爆笑問題といったテレビの笑いの芸にどっぷり浸ったあとでも、どんな心理的柵を仮構することもなく、それらの世界にすりよることもなく、同じこの現在の生の地平において、しっくりと身体に浸透してきて、それらの世界と充分に拮抗できるような詩の言葉の場、そんな詩の言葉の気品と力を持った存在感を感じさせる詩誌、として、詩誌「ユルトラ・バルズ」は、とても魅力的だ。8号はこのほか、中川千春さんの「かくも楽しき詩人たちの最期、或は」と題した、古今東西、ギリシャ詩人から現代詩人までの、まさに詩人が詩人らしくあった時代の?にぎやかな<死にざま>の、群れ舞う卒塔婆のような140人の眺望は、圧巻。たとえば「◆エドガー・アラン・ポオ(一八〇九年~四九、アメリカの詩人)/昔の恋人と婚約し、叔母をその結婚式に出迎える途中で泥酔、街頭で意識不明の状態で発見されたが、錯乱状態のまま永眠。」「◆カール・ユーナス・アルムクヴィスト( 一七九三~一八六六、スウェーデンの詩人)/金貸しの老人を何度も詐欺にかけたうえ、毒殺しようとしたことが露顕したために失踪。その後偽名を使って北米を放浪し、結局ドイツで病死。」といった按配。それから、秋元幸人さんの論考「吉岡実晩年の詩境」も、まだ未読ながら、なかなかに興味深く読ませてもらっています。中本さん、ありがとうございました


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2002年3月24日 日曜日

「BIDS LIGHT」5号

 まずは巻頭を飾るのは松尾真由美さんの詩「めまぐるしい季節の所与と密接な迂回の過渡期」。みつめる無為の空間に、強度として皺寄るように詩の一行がたち上がり、それが次の一行を皺寄せることで始まっていく、エンエン、エンエンした波のしぐさのような松尾さんの詩の世界は、打ちしぶく岩や岸辺の感触さえ禁じられた?茫漠とした海の果ても無さが感じられて、この時代の、詩のおかれた寄るべなさが、ひしひしと伝わってくるような趣を呈していますが、それでも、「これもいきいきとした生体のひとつであ」る(同作品より)亡失された空域への触手、そこに棲む<あなた>へののがれがたい思慕、吸引力があるかぎり、松尾詩の波のしぐさは、これからも「果てしない透過性の消耗」(「同」)に磨きをかけながら、エンエン、エンエンと空間を皺寄せていくのだろうと、僕などは、言うは易し、行なうは難しの、途方もなさに、くらくらしながら(^^:思うばかりであります。こんどのH氏賞受賞決定を機に詩自体の理解そっちのけで増えてくる原稿依頼に、どうにも違和感をつのらせる誠実な松尾さんの声も聞えてはきましたが(^^;、確かにそうしたはれやかさとはベクトルの向きの違った松尾詩だからこそ、詩の再生に向かって、その途方もない言葉の<しぐさ>の刃に、期待できるのではあります。頑張ってください。・・・それから、「BIDS LIGHT」、今号は松尾さんの作品に並んで登場する高橋秀明さんの詩「二〇〇一年、秋」という作品も、読ませると同時に、別の意味で興味をそそられました(^^;。キルケゴールの「反復」からの引用句をちりばめながらの、自らの人生に落とす視線の語りの魅力もさることながら、そのなかにさりげなくいきなり書き込まれた「潔癖でひたむきな姿勢を清算したと言われたわたしなら、「生きることをはじめる前にまず人生の岸辺を周航しなかったものは、けっして生きることにはならないだろう」と言い返せばよいではないか。」という詩句に出会って、なんか、おもわずニンマリしてしまったわけで、つまりこれは、詩誌「暗射」誌上での笠井嗣夫さんとの清算論争?を詩にとりこんでの、高橋さんなりの応答、ということになるのでありましょうか。でも、「暗射」一面をつかっての、笠井さんへの意義申し立てが、こんな自室でのモノローグめいた形で収束するのなら、わざわざめくじらたてての意義申し立てなど、やはりちょっとした感情の誤算だったと、高橋さん自身気まずさも感じているのかなあとか(僕などは、そもそも、なぜそんなに笠井さんの批判的言及に、無視できないほどの執着を示されるのかが、はじめからいまひとつピンとこないところではありましたが(^^;、)、思ったりして・・・・。でも、これこれでは生きたことにはならないだろうと言い返す自信をはじめ、詩句から受取る雰囲気は、やはり「潔癖でひたむきな姿勢」そのものという感じで、たとえば「今ひとらはテロと戦争の不安を厚く着込んでさえ、北風にはだかり、あえかな晴れ間を縫って、それぞれの職場へ向かうのだ」、といった感受などは、どこか「潔癖でひたむきな」左翼的残影のしからしめる、幻想のようにしか、僕には受取れなかったのでありますが・・・。むしろ、現在の文明的様相を象徴するようなどうしようもない現実感の希薄さこそ、こんどのアメリカ本土奇襲テロ事件と<生活>との不気味な関係ではなかったのでしょうか。厚く着込まれた<不安>は、もっと別の、もっと不気味な内実をもったものなのではないでしょうか。このテロのことに関しては、同誌の今村秀雄氏のエッセー「9/11映像への「無感慨」」などがおもしろい感受のしかたを披瀝されていて、興味深く読ませてもらいました。その他吉田光夫氏の「中原中也の解読Ⅱ―死にかかわるイメージ」など、内容盛りだくさんで、これもまだまだ未読ながら、ゆっくり読むのが楽しみであります。松尾さん、ありがとうございました


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2002年4月10日 水曜日

「オドラデク」2号

 一昨年の夏に創刊号の出ている詩誌「オドラデク」の最新号をいただいた。鹿児島出身のまだ30代前半の比較的若い書き手である谷口哲郎さんからのもの。2号出版まで色々の曲折があった様子がうかがえるが、それにしても、創刊号での糸圭秀実氏の特別寄稿文といい、こんどの号の、「日本でいち早くポンジュの詩を訳され、彼と交友のあった阿部弘一氏」(編集後記にかえて)の巻頭を飾る寄稿詩といい、ちょっとした商業詩誌的なレイアウトや造りといい、目指されているのが、同人誌的な自由さなのか、もっと別のものなのか、ちょっと判断にまよってしまうが、内容的な方向性としては、どうやらかの「’68年」に象徴される詩と革命の蜜月の時代、谷口さん言うところの「ラバの火の記憶」として、忘れられつつもいまもどこかで詩の言葉の熱源たりえている現代詩のある系譜への、詩的連帯意識とその<火>の継承を、ということにでもなるだろうか。たのもしくもあり、いま、正面切ってそんなと(^^;、不安もそそり、なかなかにスリリングではあります。

僕たちは似ることを怖れない/その長く迷っていた幾光年かの光を受け止め/火の中で再び目覚めるために/青空からその都度引用する<水の文法>で/なかったことにできない/死者たちの系譜と酷似しながら/東京の路上に降る/見えない雪に撃たれたい/見えない雪と僕たちとの/まだ見ぬ演奏(アクション)を/ひだり手で描きたい (谷口哲郎「(W)INTER PLAY」から(二〇〇二年 INTER4の詩より)の部分)

 稲川方人の詩などをどうしても彷彿とさせるシゴをちりばめながら、長々と書かれていく谷口さんの詩が、はたしてどういう<目覚めかた>をみせてくれるか、ぜひその言葉にひらく確かな空間をみたいと思うが、半面、また再びの<硬直>だけはごめんですよ、とも思ったりして(^^;、ほんと、どういうやりかたがあるんでしょうね。楽しみではあります。谷口さんはたいへんな読書家でもあるらしく、同誌には、長年谷口さんが師と仰いで手紙のやり取りをしてきたという山ヶ城俊一さん(鹿児島在住で(それも住所からすると僕の家のごく近くにお住まいらしい)詩や短歌を書かれている方)のエッセー「書簡文偶感」も掲載されていて、その後半部分で谷口さんの知的生活ぶりの一端を垣間見させてくれている。なかなか読書の習慣をとりもどせないでいる僕などは(^^;、たとえば「サバルタンは語ることができるのか」というスピヴァックという人の著作に触れた箇所など、興味深く、ぜひ読みたいと思ったりした。「フーコーやG・ドゥルーズの批評の限界」としての「認識の暴力」を指摘するスピヴァックについて、谷口さんの手紙は書かれているのだが、ふんふんとか思いながらも、こうした認識であってもやはり、認識の認識の・・・というどこまでも入れ子的になっていく知の罠というのが、いつも気になるところで、それはどう処理されているのだろうかとか、想像がふくらんでくる。知の魅力と表裏の魔・・・・・。

・・・僕はこんな幸福を全く知らなかった。こんな幸福が存在するなんて全く知らなかった。/暗闇の世界が取り除かれ、明るくされたというわけではなかった。けれども/その中の一つ一つが僅かにおおきくなった、そうして見せかけが、/瑠璃(カメオ)に浮き彫りにされた本来の姿になり、ある液体になって、掌の中に/鳥のようにして抱かれた。・・・・

 これは同誌に掲載されているジョン・アシュベリー(「オドラデク」同人の鈴木匠氏訳)の「流れ図式(フローチャート)」という詩から。(詩の)言葉の世界の実在を感じることの至福、その繊細な個別の宇宙とそれぞれの宇宙の交感からひろがるワタシの生。すこし長くなりましたが、今宵、しずかな春の夜に(^^;。谷口さん、ありがとうございました。

詩誌「オドラデク」=発行所・谷口哲郎(東京都日野市栄町1―16-15 清和荘101、202)
            頒価=700円


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2002年4月21日 日曜日

「庭園別冊」2号

 これも新規創刊から久しぶりの発行となっている「庭園 別冊」2号を、ここにも詩作品「あるいは抹消と再生のためのみずみずしい遊戯に紛れる」を載せている、松尾真由美さんから。あわいひかりの静寂につつまれて、洗練された言葉が漂い、集束する、文字どおりの「庭園」といった雰囲気の詩誌なのだが、編集人の異動があったり、やはり詩誌発行の曲折、困難さなど、ひとしれずあるのだろう。「彼らは建築を造るのだ、彼らは、と繰り返す声が、うちに/おくれて来る笑みとともにわきあがると、/彼らもわれわれもすべてうしなわれて時がすすむ」(中村鐵太郎「ブラジルへもえる雲に舫い綱解くヴィ―ン」)といった歴史の大状況を背景にした作品から、「いざないの孔が無数にあいているヘチマに/お湯を含ませ/汚れている食器を洗う/食べて汚れにしたものがついている食器に/ヘチマが洗われるのを/あなたは見ている」(小島数子「透きとおる織物」)といった、反転し、変容する日常の関係の機微を語って、僕などにも視線のとどく(^^;、作品まで、あいかわらず多彩で、読みごたえ充分なものばかり。詩の松尾マシンとでもいうべき?、松尾さんの多作ぶりは(それも結構長い作品ばかりだもんねえ(^^;、)、尋常じゃない!、で今回はすませるとして(^^;、散文語りでゆったりと湯船につかり、湯煙の中に人生を想念する季村敏夫さんの詩「朝湯につかって」(連作「家路」より)が、香港での禿げ頭の垢すり巨人?に一物がちぢみ上がるほどに裸体を翻弄された思い出を語りながら、いきなり「翻って問う。裏切った男を「卑劣な人」と呼ぶことができるだろうかと。湯煙を雪煙に見立てながら、スウと放たれるものに、六月の朝ゆっくりとほどけている。」という結語に飛躍していくのなどは、<翻弄>という言葉を介して暗示されていく、味わい深さがあって、なかなかに読ませることでした。個人的にちょっと楽しんだのは、渡邊十絲子さんの「神無月の花火、二〇〇一」という詩にでてくる「いまやはものよりもつめたい」という詩句。いまやはものって、なんだ、と思いながら、街を潜行する暗殺者のゆびさきの、わけのわからないつめたさを感じたりして(^^;、それが「いまや、刃物」と読めるまでの時間が、楽しかった。それから、つい読み込んでしまう楽しさがあるのが、宮野一世さんのことばあそび詩。今回は、小林一茶の一見虫にちなんだ句とはみえない一行のなかに、ぞろぞろ虫が涌き出てくる感じの作品「虫」がおもしろかったが、どこか小林(一茶ならぬ)旭の自動車ショー歌や恋の山手線のノリを思い起こしてしまう「Fish Stories」という作品は、ちょっと「ここらでやめても、いいコロナああ~」と、僕などは思わないわけでもないことでした(^^;。でもやはり、独特のなつかしいような空間にしらずしらずつれだされている解放感は、いいものです。松尾さんありがとうございました。

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2002年4月26日 金曜日

「パーマネント・プレス」33号

 回文という拘束のなかに、言葉をやりくりして、意味ならぬ意味をもった文脈を浮き上がらせて行くおもしろさ。僕などにはいまひとつそのおもしろさにノレナイさびしさがありますが(^^;、「パー・プレ」今号はことば遊び特集として、この回文詩を中心とした、猥雑でくだけた(くだけすぎた?)ことばの遊びに誌面を開放している。そう言えばまえにも、上の詩誌「庭園別冊」といっしょに紹介した「パープレ」、おもしろいことにことば遊びを特集していたわけですが、まえの上品な遊び?にくらべて、こんどの号は、下品(^^;、下ネタ乱舞の猥雑さで、これが結構笑えてしまうのが、憎いところ。桐田真輔さんの回文詩「コスモス燃す子」は、なかなかに意味深な苦心作といった感じで、拘束ということがかもしだす定型詩の緊張感ににた、いうにいわれない情景のひろがりが、魅力的だ。しかし他の人の作品では、「漫湖」がどうしたこうしたとかのありふれた挑発詩?や、「あなたはぬれる」「わたしはぬらす」とかいった内容がまじめなだけにヤーな感じのする(^^;表現より、僕には、「国定公園」の矢印のうえにかかげられた「いんぶビーチ」というおおきな看板の写真と、それにそえられた「恩納の伊武部」(おんなのいんぶ)という沖縄の地名や、「溺れそう・・・・」という編集者の書き込みが、「作品」としてはおおいに笑えた、ことでした(^^;。神々の笑いならぬ、猥雑なおじさんたちのにぎわい(^^;のなかに、吉沢孝史さんのエッセイ「意味という名の病」がぽつんと場違いにあるのも、絶妙の編集ミスといった感じで(^^;、どこかおかしみをそそる。意味の病というから、どんなことが書かれてあるのだろうと期待したが、「三池斗争の歌」の話。たとえば、「血にまみれて血にまみれて写真が落ちていた/学生帽にランドセルの子供が笑ってる/この子の未来に全て託して働いていた/友の姿が浮ぶ」といった歌詞について、「この歌が、当時の労働者学生に強く支持されたのは、その歌詞の力による。固有名詞に頼らないから、情景よりも心情が浮上した。日常の言葉は、使い方次第で、隣あった抽象的な言葉に、心情という命を与えられるのだ。意味から入っては駄目になる。」と、吉沢さんは書かれている。うーん。そうきますのですか。心情はわかるような気がするけど、でも、この歌じたい、おおいなる意味にあふれた、意味そのもの、意味への共感をせまってくる、といった歌ではないのでしょうか。歌謡曲などがそうだったように、紋切り型で集合意識によりそった抽象性こそ、それぞれの具体的「情景」を密かに仮託できて、そこから心情(おおいなる意味)の共感も「浮上」したのではなかったでしょうか。つまり、言われていることは、あまり意味の病の問題とは関係のないことのように、僕などには思えたのですが、どうなのでしょう。しかし、吉沢さんの見据えている<うた>の在り様、そこへの熱い視線は、僕などにもしんみりと伝わってきます。歌詞に心情を仮託できて、それが同時代的に生きる力になるといった<うた>が、僕なら僕のなかからさっぱり消えて、ほんと、どれくらいになるだろうか、とも思う。それがいいことなのか、どうなのか、わかりようがないけど、さびしい限りではあります。・・・ともあれ、笑いあり、思考ありの詩の新聞、ん?、いやこれ冊子?、いつのまにか、「パープレ」のタブロイドの白い誌面が消えているぞお(^^;。ともあれ、ともあれ、石川さん、ありがとうございました。それから、事情により紹介のタイミングを逸してしまったいくつかの詩誌がありますが、きちんと読ませてもらっていますので、この場を借りて、ご了承のほど、お許しください。

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2002年5月6日 月曜日

「グッフォー」37号
 
 「明るい午後の美容室」で洗髪をしてもらいながら、滴避けのためにかけられた白布の下の自分の顔に、ふと「突然死した義弟の」死に顔を思い浮かべていく、水出さんの詩「触れている」が、いわば生をきわだたせるために無防備に身体をまかせて過ごす、あの(といっても僕は白布はかけない理容室、床屋の雰囲気しかしらないですけど(^^;)「美容室」の独特の空気を描きだして、共感できたし、また、雪の林で親しい死者との邂逅を描く石黒泰助さんの「樹林のさまよい」という作品、句読点の多用による、夏のつぶだつ空気の中を歩いていく感触が、ちょっと好みだったりした、原雅恵さんの「逃げ水」という作品、など、読ませてくれました。でも、全体として、「グッフォー」今号は、少しものたりなかったような感じが、否めない(^^;。「グッフォー」特有の迫力あるなつかしさ、なつかしさの迫力とでもいったものが、あまり味わえなかったことが多分に原因ではありますが(^^;、次号に期待するしかないといったところでしょうか。水出さん、ありがとうござました。

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2002年5月20日 月曜日

「ぷあぞん」14号
短編集「夜」(驢馬出版)

 松尾さんからの「ぷあぞん」14号、今回はいっさいのコメントなしに、掲載された2篇の詩全篇、松尾さんのお許しをいただいて一挙公開・・・と思ったのですが、松尾さんの心配どおり(^^;、書き出したら、ながいながい(^^;、1篇紹介が、量的にも妥当と、あいなりました。でもこれだけでも、松尾詩をはじめて味わう方には、雰囲気をつかみとってもらえるのではないでしょうか。こうした詩行がつまりはエンエンとつづいていくわけです。それから、松尾さん参加の共同短編集(駒田克衛さん企画)の「夜」という本もいただいています。いずれ夢へと貫通していく生の哀感を、デフォルメされた<もの>に託して語っていく感じの、駒田さん作品「桃色の部屋」をはじめ、寓話やファンタジー、どこかル・グィン風の幻想譚の雰囲気があったりする作品など、詩人たちの手になる、なかなか楽しめる掌編作品集です。JO5(そういえば、阿賀猥さんのHP開設のおしらせうけとりながら、リンクの約束何ヶ月も果さないでいる怠惰ぶりですが・・・)同人の方の名前もみえて、なんか変になつかしかったりして。むすびつきというのは、おもしろいものですね。松尾さんの「XYZの幽閉」という作品は、いわば松尾詩の中核にあり、駆動力でもあると思われるもの、つまりは「快楽と親密になればなるほど、空洞の形態が快楽の形式をもとめだし、空洞へと注ぎこまなければならない快楽はより濃密な昏睡を望んで、私たちを引きずっていく」(「XYZの幽閉」より)、という事態を、XYZと割振られた生の空域に棲息する鏡像たちとの幻想的かかわりに具体化?しながら、情景たっぷりに語っているのですが、読みながら、この<語りの艶っぽさ>が、松尾詩自体にもちょっとほしいところだなあ、と思ったりするのは、あるいは僕だけでしょうか(^^;。いずれにしても、松尾さん、ありがとうございました。

《詩「きららかな目覚めをもとめる過密な冬の」全行。》―

すでに/埋もれた/かたわらの皮膜をさぐり/薄ぐらい門をくぐって/ふかい距離にまよい/浮きあがる/混沌をさらう/照度の朝//(忘れかけた骨の残骸をむかえるとき)//(こころぼそい零下の地に複眼の小鳥がうごめくことがある)//きれぎれの/離脱/または/ながい恋着の/無意識の操作によって/あなたへこの断層をさらす/溶けていく雪のような儚い高揚に漂い/どこか否定の錯辞をたずさえながら/浮腫をかさねて睦み合う生体の奇蹟をもとめ/凍えた躯をあたためるため濃密な接触へと/くずれた箱をいくども組み立て/あなたの背に寄りそう仕草の指先の/ありふれた疲労から隆起するものの視野をよぶ/針が蘇生し未熟な痛覚をかかえるほど/ひろやかな場の荒涼とした空隙をわたり/屈折の余剰の行為に/きっと届かない声がある/遺留品をむさぼる貪婪な眼差しで/おだやかに潜行する迷路を請い/かくされた悪意のぶんだけ/あやしい哄笑はひびき/やはり傷口は/不安な菌につつまれ/ちぐはぐで親密な固執から逃れられずに/無造作に反転する情動はつかまえきれない/けれど鮮やかな出血をいまものぞみ/鮮やかであるならば色褪せた景色すら/はなやかな枯渇を分かつから/密度の機能を演じる日録の/あやうい起点がしずむ/みぎわの虹を/想ってみる//波打ち際で/あわい飛沫は/誤差の浪費をたたえている//(またしても焦慮のなかでの不意の光源に惹かれ)//(なつかしく粗暴な吐息がめぐる午後の胸のときめきを追う)//(つねに猥雑な半身)//(崖の散策がおずおずと白熱する)//なおもみえない/濃霧の手記の/わずかな/渦の/旋律を聴く//予感のままに/なだれていくかすかな悲鳴は縺れる//仮定での/部位の転写/ふくらむ異和の網をひろげ/いつか私はけだるい日暮れの加速をまとい/夜になじんだ憎悪の頻度をかぞえつつ/魚の鱗を剥ぐように/いっそう裸体を露出させ/やさしいあなたを体感するため/うつろな落下とその秩序との/晴れやかな段差にたたずみ互いの迷妄にまみれる/ただ肩にもたれただけの灯火にはなにも残らず/うすく瞼の裏を通りすぎる橋の射程であって/からまる私たちの雲の行方でもある/雑駁な棄却をともなう繭の罅/あるいは枝分かれの浸潤にそい/対話のない双子の企てを/まざまざと失策し/ふたたび遠い/夢に赴く//(退行をあらわす要約の絵にくぐもり)//(もろもろの招来に連動するたどたどしい書記の震えのあたり)//(たわいない病理の日常がねじれ新たな拘束をいとなむ)//(凶暴な暗号?)それとも)//《蝕のたやすい塵》//ひしめく冬の湿度にとどまり/火の抑揚にも似た歳月の/無用な記憶を/あしらって/爽やかな硬度は増し/そのようにして/しろい画布の課題が輝く//たゆたうことの/つややかな彩度をねがい//さえざえと星明かりに雪はきらめく/一面のここは砂漠だ/失われた熱度に吊され/およそうるわしい手段として/いくえもの文脈にひるがえる礫の萎縮に関わる/よるべない磁石を弄する屍の性愛につらなり/あなたとのあつい透過を患部がいざない/だからこそ冒涜の方位をさだめ/ゆるやかな切断の澱を飲む/私の手頚をつかんだあなたの掌の/すがすがしい感触に溺れてさえ/中和のない免疫体の/ある種の怖れにまどい/抑圧の中軸を感じるまで/したたかな捕縛をつむいで/仮象の帰路の結び目は/こうして危機の/視線をもち/もっと奥へと/ひときわ/可逆の/襞にゆれ/蜜月を秘す

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2002年5月28日 火曜日

「暗射」2002・春号

 原発や核兵器製造過程で出る放射性核廃棄物としての劣化ウラン、ニュースなどではそのやっかいな原子科学技術の排泄する毒物の処理について、その厳重な保管方法の模索について、誰でも一度ならず耳にしたことがあると思うが、その平時におけるやっかいな排泄物が、いざ戦争となると、肥溜めぶちまけるような豪勢さで、敵とみなされる人々に、砲弾となってぶっかけられているとしたら、その光景は、想像するだに、おぞましいものがあるだろう。しかも、自由と理性を誇るおとなの文明国と目されるアメリカによって、率先して、の光景としたら?。しかしながら、「湾岸症候群」「バルカン症候群」と呼ばれる、アメリカ軍がイラク戦争やユーゴ紛争に介入して使用した膨大な量の劣化ウラン弾によるとみられる、兵士や住民の様々な後遺症(白血病、ガン、腫瘍、奇形、等々)の悲惨な実状が、表だったマスコミにはのらない形で、問題視されてきたのも、パニック映画の中の話ではなく、現実のお話である。後遺症と劣化ウラン弾との因果関係は認められないと主張する当のアメリカ軍さえ、味方兵士への劣化ウラン弾使用時の健康への配慮は、こっそりとやっているようなのだ。そして、「暗射」今号の笠井さん論考(「<視線で刻む5>絶望に逆らう表現者たちの発言―辺見庸+坂本龍一『反定義―新たな想像力へ』(朝日新聞社)」)によれば、こんどのアフガニスタン侵攻に関しても、この劣化ウラン弾、またまた、こりずに「・・・・タリバン殺戮のためミサイルや高性能誘導弾、クラスター爆弾の子弾などで本格的に使用された」、というのだ。クラスタ―爆弾といい、もっと最近ではサーモバリック爆弾といい、ただでさえ通常爆弾の規模をはるかに凌駕する、殺傷力と殺傷範囲を持った新型特殊爆弾についての記事などを読むと、やられる人間は、なす術もなく木っ端微塵に滅消される虫けらや畜生のイメージしか浮かんでこない。これに装甲貫通能力抜群で、ぶちあたったものを超高温で発火溶融させ、放射性核物質が粉塵となって周りの生き物の身体を汚染する要素が加わるとしたら・・・。「劣化ウランは、原発の使用済み核燃料を供給源とするから、コストがかからない。原料そのものは無料なのだ。むしろ兵器に利用すればするほど、核廃棄物を保管するための国家的負担は軽減される。他国で使用しているかぎり、アメリカにとってこれほど好都合なことはあるまい。イラクであれ、コソボであれ、アフガニスタンであれ、この汚い兵器によって殺戮され、被曝するひとびとの苦しみを心のなかに思い描くことさえしなければ。」と笠井さんは書かれている。想像力にも、やはり力学というのがあるのだろうか。テロの犠牲となったニューヨークの市民の悲しみに哀悼を感じることは自然なこととして、なにかそれだけが、世界にあふれる死者の悲しみを代表しているかのような、どうしようもない死者への思いのアンバランスが、こんどのテロ事件報道を通じて、マスコミに色濃くにじみ出ていると感じたのは、おそらく僕だけではないだろう。笠井さんは、「生命価値の極端な差別化という面では、英米両軍もメデイアも同罪でしょうね」と語る辺見氏の言も引用されているが、こんどのテロ応酬戦争?報道を通じて、この資本主義世界に支配された文明の、アンバランスな想像力の力学としての?「生命価値の極端な差別化」ほど、イヤーな感じで滲み出たものは、ないのではないだろうか。笠井さんは、翻って、詩壇ジャーナリズムの状況対応能力についての幻滅なども表明しながら、(悪の枢軸といった?)「国家的な「定義」と対抗しうる反=定義へむかう表現者を(「現代詩オタクの評論家や趣味の詩人たちから」)分かつものは何か」と問うて、<死>や<暴力>を否定しない、身体を張った表現や、反国家としての、人間の広さと奥深さをもっともっとみつめることの大事を、辺見氏の言説を引用しながら書きつけていくようなのが、ほんと、びしっとした<状況への発言>に貧したような詩の世間の?現状においては、読者として、なによりこころづよいことではありました。「暗射」今号は、この他、清水三喜雄さんの論考「<沖縄で考えた⑧>寄らば斬るぞの殺気(2)―目取真俊『魚群記』」もおもしろくなりそうで、たのしみですが、今回はこれにて(^^;。笠井さんありがとうございました。


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2002年8月18日 日曜日

「天秤宮」17号

 「・・・生きていると/目と耳と/頭ばかりが大きくなって/触る手は不足してくる/臓器として分離された人体に触り/探りあるいは手ずから引き裂き/死を追及することで/はじめて見出される/生の尊厳があるというのに・・・」―なにやら猟奇殺人者の手記めいても読めるが(^^;、そうではなく、これは皮膚科の医者でもある宇宿一成さん「死体に触る」という詩から。「遺族の了解もなしに行なわれる」「胃や心臓の展示」に対する地元マスコミの批判によって、「医学祭恒例の/病理展・解剖展」が行なわれなくなったことへの抗議の詩(「中止やむなしのきっかけを作った地元新聞社はこのことにどう責任をとるのか」とまでつめよっている(^^;)なのだが、「人は物質である」とか、「切り離された臓器に尊厳は無い」とかの割りきり方や、いささかの説教口調が、やはりどうにも安直な唯物(タダモノ)論じみて感じられて、抗議自体はわかるとしても、<関係>からこそ生まれてくる尊厳ということを、自分はそうであっても他の人はそうでないかもしれない、という緊張感もなしに一方の視線でまくしたててくる論調(詩なのですが(^^;)の理由には、どうかねえ、と考えこんでしまうワタクシメでありました。人は愛するひとの髪の切れ端を大事にするかもしれないし、骨だって、爪だって、臓器だって、おんなじ。「これは観念」かもしれないが、こうした観念ぬきの、人の生なんて、どんなひろがりがあるっていうんだ(^^;。そのことと、物質としての臓器に触れて、生命の畏敬を感じ取ることとは、問題の次元が別だろう、と。・・・。宮内洋子さんの詩「牛小屋から牛の声」は、のどかな農村の「朝もや」からひびいてくる「モホウ モホウ」という牛の鳴き声につつまれた日常を描きながら、やがて牛との人類の出会いの時間にまでさかのぼっていこうとする、雄大なひろがりをみせる作品。でも最後にきて、「牛小屋からの牛の声/飼い主が/この世を去る日は/一声吼えて モホウ/牛の眼がうるんでいた/共に生きてきたのです」という詩行に収斂していくのが、宮内さんらしいといえばそうなのだが、そんなの人間の一方的な共感?とちがうんかいと(^^;、ギラッと血走る牛の目の不穏な熱気をこそ密かに感じる僕などには、詩の(空間の)充実度としても、すこし不満が残ってしまうのが、残念といえば残念なのでした。それから「天秤宮」今号には、詩誌「オドラデク」を発行されている、鹿児島出身の詩人谷口哲郎さんが、三篇の詩を寄稿して巻頭をかざっている。「雪の中を彷徨って」くる、もうひとつの目」(詩「所属」)を絶えず追認しながら、「誰でもないものの影」の方へと歩みよっていく「きみ」(わたし(たち)?)の姿を、木と洞の交錯のイメージとして描いていく詩「時の木」が、なかなかの手応えだが、そしてその安定した語り口、洗練されたメタファーなど、読ませてくれるが、ただこれは同時に逆にも言えて、その安定、その洗練が、詩の(空間の)それこそ不穏なおもしろみを、どこか無表情に抑圧しているようにも感じられるのが、僕としては、これもすこし不満になることではありました。「身の回りの物 すべてを知っていく/ということは/自分の思いの時間を/全部使ったとしても/おわりそうにない」(中園靖子「身の回りのもの」)、こんな詩句も妙に余韻したりしながら・・・。宮内さんありがとうございました。

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2002年11月4日 月曜日

「孔雀船」60号

 平敏功さんからいただいた「孔雀船」、平さんの「しろ(白/城/死路)」や岩佐なおさん「シオヒカリ」、望月苑巳さん「定家、感光するの巻」はじめ、20数人の詩人たちの作品が、それぞれに洗練された言葉を紡いでいて、号数を数えた詩誌らしく、貫禄十分。詩作品ばかりか、美術、映画、音楽に関するエッセーなども盛りだくさんで、小柳玲子さんの「絵に住む日々」という連載ものはじめ、これもつい読み込んでしまうものが多かった、です。平さんの詩については、詩人の傷痕のような闇に浮かびあがってくる、<しろ>という日本語の連想風景がイメージをそそるのですが、肝心のところで、いつも言葉のぼけとつっこみの哲学的隠語劇?にソラされていってしまうようなのが、読者としては、恣意的すぎるのではと、ちょっと不消化な感じになってしまうのが、気になるところではありました(^^;。

「暗射」2002夏号

 笠井嗣夫さんの連載エッセー「<視線で刻む6>陽光が存在する/あるいは存在しない」は、ジャック・リヴェット監督「恋ごころ」という映画について。スクリーンのむこう、<そこ>に幽影するひかりの肉体、生にまつわる時間性としての相貌をもったひかりの印象深さを語っていて、それが詩のことばのあり処をも指し示しているようで、やはり、笠井さんの映画語りは、熱い!という感じ(^^;。「ささやかで孤独な饗宴として、私たちの視線にさらされすべての映画はある。カメラの創り出す虚構の光だけが。あるいはまた、ついに何も存在しないものとして。」と。映画の闇に浸っていれば、もうなにもいらないと思ってしまう僕などは、共感すること、大。

「パーマネント・プレス」34号

 石川為丸さんの「現代詩の捉えがたい評価理由―第25回山之口貘 その不透明な選考過程ー」は、沖縄の詩の賞をめぐる疑問から、ひいては現代詩についての評価のとらえがたさへの執拗な視線がのびていて、おもしろい。いちいち正面きってそう大仰に騒がなくてもという向きも当然でてくるのが予想できるにしても・・・。でも選者のひとりである吉増剛造氏の評価の神話的語り口?などに果敢につっこみいれている石川さんの姿勢は、たのもしいかぎり(^^;。読んでいて、確かに必要な、ある種の解体作業のようにも、僕には思えてきたりしました。「パープレ」はこの他坂井信夫さん「<日常>からー10」、笠井嗣夫さん「刺青にて」、石毛拓郎さん「芭蕉の一件」などの読み応えある詩が、前号の冊子形式からもとのタブロイド白面にもどった誌面裏表をいっぱいに飾っている。

「グッフォー」38号

 原雅恵さん「雲の螺旋」、木本葉さん「カデンツァ」、吉田正代さん「ラビス・ラズリ」、水出みどりさん「切断」、桂本千里さん「寡黙」、中村千代子さん「めぐり ⅩⅣ」など、北の大地に染み通りながら頭髪振っていることばのしぐさがあって、しんみり読ませてもらいました。水出さんいつもありがとうございます。

「BIDS LIGHT」6号

 松尾真由美さんからいただいています。松尾さんの長篇詩「夏の手前の翼の彩度」はなんども読み味わっているところ。それから、連合赤軍事件をあつかった立松和平原作の映画「光の雨」(高橋伴明監督)をそのもとの小説とともに、<陥没点としての現在>へと召還されないノスタルジックなものとして批判しながら、大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」の諸論考があざやかに挿入されていく、日下部正哉さんの「陥没点としての「現在」について―試みの『光の雨』批判」という論考がとてもおもしろかった、です。なんか僕などにもなじみの思考が展開されているようで、大塚英志氏の本も読んでみたくなりました(^^;。今村秀雄さんの村上春樹論「新しい夫婦小説『ねじまき鳥クロニクル』」や、吉田光夫さん「子どもの未知(「中原中也の解説」別稿)など、充実した論考も。

皆さんありがとうございました。
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2002年12月2日 月曜日

松尾真由美詩集「揺籃期―メッザ・ヴォ―チェ」(思潮社)
「ぷあぞん」15号


 松尾さんの最新詩集「揺籃期」。海を望む秘された岩場に横たわる、美しい溺死者のような少女の人形(ひとがた)、それを照らす奇妙になつかしい柔らかいあかるさの陽光、といった表紙装丁が、松尾さんの詩の言葉の漂流していく方位をも暗示しているようで、魅力的だ。納められているのは、「ふるえる花片の伸びやかな秘儀の在処」から始まるこの紹介コーナーでもおなじみの作品たち9篇。前詩集よりもパワーアップし(^^;、長々と壮大な地形を移動していく感じの言葉のしぐさも、あくまで<そこ>、詩の虚空のヒカリという1行をめぐるものであり、ねじれ、畳み込まれた<そこ>に揺動し、遠心分離されて、震えるように姿をあらわす詩語たちの、スリリングな立ち顕れ方に、松尾詩の(生の)全行が賭けられている、といった趣きだろうか。「ちぎれるまでの/花芯の迷路/つねに壊れる/鏡の情実/映しだされた/偽装の腕は/私の瞳が決めている/相似ではない/視覚をたずさえ/養うものの像の移動を/きしきしと体温で感じていくのだ」(詩「瓦解への晴れやかな夜の註記」より)と。知の通路や、性愛の呼気、人生という地形などが詩語の点滅と絡み合いながら、それらが、あくまで、美しい溺死者として横たわる一行の、<そこ>から<そこ>までの漂流として、広大無辺に展開されていくのである。なにゆえの遍歴?前詩集同様、頻出する<退行=退化>という言葉の、解毒にご注意、というところか(^^;。
 松尾さんの個人詩誌「ぷあぞん」15号もまた、ほんのり色香漂う今号の表紙のせいばかりでなく、作品自体どこかひときわなまめかしさの増したような変容の気配が感じられて、詩集発行後のさらなる展開にも、読者として期待は深まるばかり。松尾さん、ありがとうございました。

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2003年4月2日 水曜日

「ユルトラ・バルズ」9号

詩作品・國峰照子「タロットカード」  江代 充「母と子」  阿部日奈子「ほろ苦い紅茶」  中本道代「甲州街道」 「色彩の溶暗」 「時間の影」
エッセー・秋元幸人「森茉莉三都物語」第一章

「ぷあぞん」16号

松尾真由美詩2篇 「幻聴に抱かれる不安な耳の」 「冬の櫂への果てない輝度」

「グッフォー」39号

詩作品・土屋一彦「屍体に係る生理的妄想」  石黒泰助「川霧に浮かぶ絵は」  桂本千里「路面電車」  原雅恵「蠅」 清藤英子「五月」  佐野マサエ「タイム・リミット」  友澤蓉子「春のコサージ」  水出みどり「ゆらぎながら」  木本葉「転がる」  岡巴里「ふりむく風」  金子啓子「風払い・・風払う」  吉田正代「雪あられ」  水木俊子「凍る耳」  古根真知子「闇の舌」  中村千代子「めぐりⅩⅤ」  伊藤智香子「代役」  橋場仁奈「朝、私は花のように」

 去年から紹介しそびれたものがまたいくつかありますが、申し訳ありません。それに今回は目次的紹介ということで、執筆者全員の名前をあげさせてもらいました。。いただいた、中本道代さん、松尾真由美さん、水出みどりさんの作品など、ああいいなあと思うものがいくつもあって、ゆっくり楽しませてもらっています。ありがとうございました。

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2003年4月9日 水曜日

「庭園別冊」3号

詩作品・みつ山すず江「湧き水物語」  白鳥信也「「シャワータイム」  細見和之「スキヤキ・ソング(あるいは、騙し絵の世界)」  川口晴美「夜の欠片」  小島数子「いないがいた」  季村敏夫「ナキウサギのようす」  北川有里「無明長夜」  松尾真由美「聖なるあやうい夜の方途」  淺山泰美「ミセスエリザベスグリーンの庭に」  中村鐵太郎「最大の演壇にも、おとなう者は語るのをやめない」  田代芙美子「未完であることに」  渡邊十絲子「摸打(mo-da)」  渡辺洋「メイド・イン・ジャパン」  萩原健次郎「半端の草木」

 性=意識としての生き物であるワタシタチの、「チョークの粉」のようにこびりつく「悲しみ」を感受することで、夜の底に眠る他者へと空間的に触れていくような、川口さんの散文詩はじめ、読み応えのある作品がずらり。松尾さんありがとうございました。

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2003年4月24日 木曜日

阿賀 猥詩集「ナルココ姫」(思潮社)

 「小型犬、ダックスフント」のナルココが、その家をねらう姿のみえない何かにむかって吼えつづける。得体のしれない、家を取り囲む大気にひそんだ、黒い塊。やがてその塊の及ぼす不幸の種子が次々と家族の精神を変調させ、とりわけ、病を押して企業戦士として走りつづけるその家の主の体と精神を、ほどこしようのない病の悪化と狂乱におとしいれて、家族を翻弄していく。そして、「その地が、その地の大気が、人々の心を狂わせ、体をむしばんでいくのを」くいとめるように、<シ>が、<シ>のことばが発動され、きりむすばれていく・・・。僕たちを取り囲む大気の邪悪な魔力にむけての、阿賀詩渾身の、<シ>小説とも読めて、興味深く拝読させてもらいました。ついに死者となった夫を皮膜1枚むこうの世界に感じながら、「雨に濡れて寒がっているのではないか?」(雨)、「お父さんは首をたれ、泣きながら歩いているのでした」(雪)、「しんしんと降る雪の中を、/私はお父さんを探して歩きました」(同)、最愛であればこその、ある種普遍的な対幻想の世界が、なりふりかまわぬ詩の行為として、彫られていく。そういえば、1998年早々に発行された阿賀さん編集の詩誌「JO5」24号に、僕は前の年に逝った父に関する詩を載せてもらっているが、その折の「JO5」独特に併載される作品相互批評コメントは、阿賀さんの次のような言葉で終わっていた。「・・・私の場合、長期間、12年間を死と近接してきたのだが、いざ実際に体験してみると自分が予想もつかなかった異質の空間にはいりこんでいる。これはまずは人には伝えられない気がする。伝えたいとも思わず、今回の私の詩はそれに直接材をとったものはないと思う。だが海坂詩を読んで、良かれあしかれ、ともあれこの今の時点を記録しておきたい気がしてきた」と。そしてこの号の「あとがき」には、最愛の夫に「1984年致命的な肝臓疾患が発覚」して以来の、「死と近接してきた」阿賀さんの闘いがどのようなものだったのかが、なにか堰を切ったように、縷々として綴られていて、僕などは「JO5」でみせる阿賀さんの元気のいい言葉のアクションの背景をはじめてかいまみる思いだったのだが、そうした背景に近年はさらに「電磁波障害」という新たな要素が浮上してきていて、本詩集はこの大気と家族との闘いという、興味深い詩的「記録」の実践となっている。「電磁波障害」については、HP阿賀猥にくわしい。詩より、まず詩の行為(大気の奪取)のほうが大事とばかりに、詩集は訴えてくる。阿賀さん、ごぶさたばかりで恐縮です。ありがとうございました。

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2003年5月15日 木曜日

「暗射」2003・春号

 
 笠井さんのシリーズ<視線で刻む>も9回目。今回は中国映画、「ダイ・シージェがみずからの小説をもとに撮った『小さな中国のお針子』」という作品の紹介。題して「水の歓び ことばの力」。中国映画と水のイメージといえば、僕などは、たゆとう水の時間とでもいった、記憶の色彩濃厚な自然の懐での人のいとなみそのものを思い起こしてしまいますが、(そして、それがなぜか昭和30年代の日本の空気をも彷彿とさせて、自由とか、豊かさとか、その奥行きに希望のようなものも感じたりしてしまいますが)、この映画は、聖なる労働という観念に執着した?非情で理不尽な文革前後の時代を背景に、文字どおり水の中で男女が出会い、あまやかな日々、目覚めることと目覚めさせられること、その転倒の動きによって、やがてその記憶も「メランコリックなセピア色の水の」映像のなかにとけていくという、文字どおり水のイメージにあふれた作品であるらしい。あるらしいので(僕は観ていないので(^^;)、詳しく書く気力はないが、笠井さんの文章はとても鑑賞欲をそそる、映画好きならではの細部に密着した視線でたどられていて、やはり魅力的だ。ブルジョア根性を叩き直すために「未開」の山村に送り込まれた若い男ふたりに、読み書きのできない村の少女ひとりの、あまやかな日々。若い頃に僕などもいくらか経験のある、そんな組み合わせの日々を思い起こしたりしながら(^^;、色々と未鑑賞の空想をそそられました(^^;。中国映画では、フセインや金正日にかぎらないあの人神さまのゆくえ?なども、なつかしさのなかで、内面から考えさせられますよね。「暗射」はこの他、清水三喜雄さんの<沖縄で考えた>の11回目、「寄らば斬るぞの殺気(5)―目取真俊『平和通りと名付けられた街を歩いて』」が、すこし論の運びが大ぶりに感じられて、僕などにはしっくりはいってこない難点はあるものの、「寡黙の衝動と、しかも言葉でしか表現できないことの間の「緊張」を持続しえている希有な作家の一人」という視点から、沖縄の現実を描く目取真文学の「新鮮な憎悪」をみすえようとしていて、さらなる展開が楽しみ。笠井さんありがとうございました。

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2003年6月28日 土曜日

「あんど」2号

 森川雅美さん編集の詩誌「あんど」2号を笠井嗣夫さんからいただきました。
 特集として詩人支倉隆子の世界をめぐって、野村喜和夫(「支倉隆子に詩の言葉の特性を学ぶ」)、笠井嗣夫(「支倉隆子の詩―詩集『酸素31』」)、中本道代(「身空Xのために」)各氏はじめ、8人の詩人たちが、それぞれの支倉詩への熱い思い入れを語っていて、詩はなにより<ことばの生>ということを強烈に堪能させてくれる支倉詩への、興味深く、充実した視線を共有できる号となっている。巻頭には、支倉隆子詩作品「宇宙の兎/書斎人」が、「シルル紀の口ごもるる暗海の海藻する海藻する海藻する/迷走群から/わあーーーーーーーっ。。。/熱の沙蚕(ゴカイ)が湧きあがり湧きあふふふれ」、僕たちのこのことばの「寒い川」をしばし回想と誤読、誤解、瓦解のうちしぶく「滝」のなかで、文字どおり、「変温」させてくれている。渡辺めぐみさん「神々は眠る」、森川雅美さん「くるぶしのふかい湖」、山口哲夫さん「雪窟幻想」などの詩作品も。

詩誌「あんど」=発行所・あんど出版(東京都杉並区永福4-24-9 森川方)
          定価・500円
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2003年7月17日 木曜日

笠井嗣夫詩集「ローザ/帰還」(思潮社)

 ・・・「流された血を受けてはじめて開きはじめる未/生の花々 私たちの行為と幻とは いつだって位置を変/える かたちを変える すべてを休みなく粉砕し解体し/移行させつづけるはげしい運動 それは一瞬のあいだも/休むことがない ただその形態その範囲とその作用を変えるだけだ ともあなたは書いた すべては互いに入り/みだれ併行し浸透しあっているから 眠る花首も血を流す 夕闇の彼方に見えるひとすじの暗赤色 閉じること/がない多様な傷口として」・・・(「Rosa」より)

 どこまでもひとりの女性として、組織の虜にならない社会の変革を目指しながら、社会主義国家実現へと収斂していくロシア革命の最中に、同志によって(だったか?)暗殺され、夜の運河に漂うことになる、ポーランド生まれの女性革命家・ローザ・ルクセンブルク、詩集は、時間を超えて彼女の(死者の)変幻する意思の幻に触れようとするかのような「Rosa」という詩篇にはじまり、「粉砕し解体し」といった語句に彷彿とされる?自らのあの六〇年代闘争の季節の「傷口」を押し開くように、押し開くように、「あなたの」(死者の)触感をまさぐるしぐさで、その触感の可能性だけが何事かであるかのように、作品は重ねられていく。「嘘、嘘!みんな嘘!」(「棒杙」)とあの時代をきれいさっぱり流し去ろうとする現在という時間に抗して。「すべては互いに入り/みだれ併行し浸透しあっているから 」と。詩が極私的生の支柱として発生するとしたら、一見アナクロな感じがしないでもないこの詩集全体がみつめているのは、笠井さんのいわゆる「声の在り処」そのもの、であろうか。

 ・・・「昨日から見つめられた/きみの柔らかい裂け目だけが/たしかにいまも呼吸しているよ」・・・(「刺青(しせい)にて」より)

と。うまくいえない情念の引き絞りの気配にたじろぎながら、紹介遅れてしまいましたが、笠井さん、ほんとはもっとゆっくり、味読してからにしたかったです(^^;。ありがとうございました。

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2003年8月6日 水曜日

橋場仁奈詩集「姉さんの美しい、死体」(荊冠舎刊)

 橋場さんは詩誌「グッフォー」の同人で、前に「夏のあと」という作品について感想を書かせてもらったことがあるが、その作品も含む22篇が、家の闇にからまる死者や自然やいきものの呼気と朦朧と混態して、どこか遠い黒田喜夫の語調などところどころで思い起こさせながら、切迫したリズムで息づいている。「朝はどこから かえって/きたところなのだろう/枝々のふるえがとまらない/そのふるえが/シダや/イノコズチをゆらし/森がうごく/森が ずれる/光る沼に空はめぐり/渦巻く火芯を抱きしめる/水底の/いま、ぬけ出ていったもの/いま、飛びこんできたもの/森のまぶた引き裂いて/いっぽんのみちがしらじらとあける」(「青い馬」より)・・・こうしたナイーブな動態の視線があらゆる事象心象に張り巡らされていて、アル場合はステキだったり、アル場合はツラカッたり(^^;するのだが、ただ、頻繁に見られる独特の変則的な読点のつかいかたが、僕にはすこし邪魔くさいわずらわしさになって(^^;、「夏のあと」の時の印象とは逆に、効果的に感じられないことが多いように思えるのが、ちょっと不満ではありました。

関富士子詩集「女・友・達」(開扇堂刊)

 「熱い尿が腰にまわる/たえまなくけいれんし/さらにながながと笑い泣く/全身がしびれて疲労におおわれ/骨と筋肉がぐったりとつぶれたとき/くすぐる者は急に指を引き/わたしから立ち去る」(「くすぐる者」から)・・・「定期バスに乗って」という作品にはじまり、人生というバスに乗り降りしていく少女期の私、少女期の同性の友達や女である私の、友たち、あるいはまわりから静かに降りていった女(たち)、そして女である私、私の鏡のような家族や肉親たち、のすがたが女性ならではの生理的感触で想起され、思い描かれる関係の機微が、読みやすくも厳しく選ばれた詩語によって、誰にもあったようななつかしくこわい妖しい思い出話にひきこみながら、確かな詩的感興を余韻させて、とても充実した読後感を味わえる19篇である。「今こうして夢からさめて/バスに揺られて/・・・・」(最後に置かれた詩「バスに揺られて」から)行くにしても、それもまた、さらにさらにつづく人生という夢のなか・・・。ある日、予期せぬところでぷっつりと、ひとりしずかにバスを降りてしまうまでの・・・。

橋場さん、関さん、ありがとうございました。

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2003年8月8日 金曜日

詩誌「部分」22号

 金沢の三井喬子さんの個人誌。「部分」12号については前に紹介させてもらったことがあるが、こんどはじめてご本人からいただきました。毎回ひとりの詩人をゲストにむかえるという形式をとっておられて、今回は細見和之さんの連作詩「ホッチキス」からの1篇「ホッチキスを愛さないおんな」が、三井さんの3篇の詩「来る者」 「そこには光があり、風が吹く。―「アキ」へ」 「図書館にて」の作品たちと、質の高いここちいい不協和音を奏でていて、いとよろし、である。。赤とんぼがそれぞれの空間を過ぎっていく三井さんの3つの作品では、やはり「来る者」が出色。
民俗的なマレビトのイメージを、三井さん独特の詩語に変換して語(うた)っているようでもあり、来訪するものと定住するものの身ふたつに引き裂かれつつ存在する「父」「知のもの」の内的緊張関係が、なにか新鮮な詩的直感を呼び込もうとするようで、ひいてはそれは民俗的解釈に限定されない、ある<現生的な緊張関係>ともいうべき認識が、感覚として秋の夕空にひろがっていくようでもあり、安定したリズムのいい語り口とともに、なかなかに魅力的でありました。「おお 足は/足は 暗闇のものだ (返しておくれ。/故郷への想いはすでにして反逆なのだ (返しておくれ。/―閉じられよ 海/―閉じられよ 空/日の沈むあたり ふるふると水平線が壊れていく。」三井さん、ありがとうございました。

詩誌「BIDS LIGHT」7号

 松尾真由美さんからいただいてまもない「ビズ・ライト」最新号。この詩誌は詩作品も松尾さん(「なお狂おしい補遺の紙片を」)はじめ充実しているが、なんといっても吉田光夫や日下部正哉、今村秀雄、高橋秀明各氏などの論考の充実ぶりが、読者としてはなによりの楽しみ(^^;。今号も吉田光夫氏の松尾真由美詩論「エロス的表現について―松尾真由美の詩から学んだこと」、同氏の「中原中也の解読Ⅲ―自然・喩・「歌」のつながり」、ああ、もう全部書きますね(^^;、日下部正哉「損なわれてあることにおいて創まる愛へ―北野武「Dools」の余白に」でしょ、そして高橋秀明さんの「詩作品の公開をめぐるいくつかの問題について」がきて、今村秀雄「「くっすん大黒」風景の消滅論―(私の遠近法1917年~97年)」、そして最後に高本茂氏の「愛と孤独の果て~中島みゆきの現在」、とずらり。「長距離トラックの運転手」を「社会の下隅に生きる人々・・・」とか認識するあたり、ちょっと今の時代どうなのかなあとか思いつつも、「戦後日本社会に対してこれほど強い否認を突きつけ続けたのは、<全共闘>でもなく、新左翼諸派でもなく、中島みゆきただ一人だ」と、思い入れのたけをぶちまけている(^^;、高本氏のみゆき論から読み始めて、すっかり松尾さんへのお礼メールするのも期を逸してしまいましたが(^^;、松尾さんほんとに、お忙しいなか、ありがとうございました。ちなみに、編集後記には「私(吉田)は、「BIDS」に関わる一個人としての根拠に基づき小浜逸郎と、雑誌「樹が陣営」の発行者である佐藤幹夫が、同雑誌と、洋泉社新書などで行なってきた芹沢俊介への攻撃を容認しない・・・」ではじまる、野次馬根性をそそる(^^;、文章もながながと付録されていて、これまたおもしろい、です。


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2003年9月12日 金曜日

「暗射」夏号

 ある共通の問題を違った角度でそれぞれ見つめているような、暗射この夏の号は、僕などにもなかなかに読み応えあるエッセイの陣容となっている。いろいろ言葉を費やしてみたくなるが、取り急ぎ今回は、笠井嗣夫さん<視線で刻む10>「今、「花炎忌」のむこうに―小嵐九八郎『蜂起には至らず―新左翼死人列伝』(講談社)」・・・「リンチ、粛清、内ゲバでの死は、いうまでもなく悲惨あるいは無意味な死だ。しかしながら、のうのうとここまで生き延びてしまった私たちが、死者たちより悲惨あるいは無意味な存在でないと誰が確言できるか」・・・よりも、・・・清水三喜雄さん<沖縄で考えた⑫>「寄らば斬るぞの殺気(6)―目取真俊『水滴』」・・・「内田の言説に欠けているのは、ことばを支えるこの「弓をもつ」ということである」・・・よりも、前島俊一さん<みみずのたはむれ1>「ひたすら貧しくなっていく」が、抜群におもしろかったことを記しておきたいとおもいます(^^;。清水さんの言葉を借りるなら、エポケーの鉄の弓、といったところでしょうか(!?)

「ぷあぞん」17号

 いつものように、律儀に2篇の長篇詩(「そして微熱のかぐわしい混沌へと」 「初夏、その他の辺地」)が装填された黒づくめの詩誌。ページをひらくと物質のような律儀さで、表情を消したようなことばのリズムと語調が延々と横たわって<そこに在る>のだが、読むことによってそれが次々にじわじわと(^^;、物質内部のうかがいしれない自由度の世界を開陳していくような、そんな解放感が、いわば松尾詩の醍醐味なんだなあと、思ったりしています。「生理的な梱包につつまれた私の裸体を/あなたにあずけ放散し投身しいずれ外傷を刻印され/このいとなみのまぎれもない快楽の楔について/語ることができない愉悦の増幅について/ただあなたの感度だけが横切るだけの/収斂の審判をひめやかに綴じ/狭間から狭間へひとすじの/風のあやうい脊髄がある」・・・(詩篇「そして微熱の・・・」より)

「まどえふ」創刊号

 これは、詩誌「グッフォー」改めということでしょうか、新しい詩誌「まどえふ」創刊号を水出みどりさんから。橋場仁奈さん「星/呼び」、友澤蓉子さん「熱帯夜回線」など、8人のひとが作品を寄せている。水出みどりさん「「ひとつの声が」から、

 ・・・しだいに あなたの言葉は/毀れた玩具にも似て/組み立てられなくなった/バラバラになった言葉の/なんと鮮やかだったことだろう/ひたすら耳を開いて/あなたは/散乱する記憶を聴いていた//ひとつの声が消えた//真昼を/音のない川が流れる・・・

詩誌「まどえふ」=発行所・「まどえふ」の会(札幌市南区澄川6条4―10―1―204 水出方)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 奄美復帰50周年のおこぼれで(^^;、ある月刊誌の特集号にめずらしい頼まれ原稿など書くはめになり、その他の雑用つづきもあって、なかなか更新思うようにいかないこと、お詫びします。詩誌、詩集の紹介まだあとに控えていますが、取り急ぎ3誌を。笠井さん、松尾さん、水出さん、ほんとにいつもありがとうございます。


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2003年9月24日 水曜日

広瀬大志詩集「髑髏譜」(思潮社)

 おどろおどろとした表題といい、ページをひらくと、「髑髏王」と「幽霊興行」の大きく2章にわかれた目次には、・・・「剥製師」「ヒュドラ」「諸世紀」「ゴシック」・・・「髑髏期」「髑髏譜」「髑髏王<風の周期>」「髑髏王<火の周期>」「宇宙のワイルドカード」等々と、いかにもゴシック物語風の、面妖で非現実的な題名が並んでいて、一見すると美麗な修辞やことばあそびなどを駆使した、いまではそれほどめずらしくもない物語詩風の展開を予期してしまうが、読み始めるとすぐに、うれしくもその予想はきっぱりと裏切られる。これは、まさにこうしたおどろおどろとした作品名の迷宮感が、ひとが生きて在ることの現実、死にむかって在ることのリアルをみつめる視線の深さとぴったり同伴しつつ進行する、詩の(ことばの)ドキュメントととでもいうべき(作品には「ドキュマン」なる詩篇もあるが)、たいへんにスリリングで、ことばの身体感覚全開を心地よく強いてくる、類を呼ばない視想詩?の力作ではないだろうか。巻頭に、亡くなった母の袱紗さばきについての(それだけで1篇の詩のような)魅力的な註の付いた詩篇「袱紗捌き」が置かれているように、僕の感じでは、身近なひとの死と、その現実を日々生きる詩人の、特異な挌闘劇の過程が透けて視えてくるようにも、思われる。つまりは、死の静寂という遺棄から、、しんしんとした死の賑わいへ。「視野という賭けをとどめよ/風景は奇跡の規範であるから/なぜ水は光り得るのか/薄青い茎の先は銃口であるかもしれぬ/滅びの身の軌跡のうちに」(詩篇「髑髏王」) 「見よ/その視野のたてる音の色彩はまるで/私という湿原でできている/(土偶は縛られた形をして)/私は粒子(じかん)という隙間(りつぞう)だ」(詩篇「宇宙のワイルドカード」)・・・。死がまた詩の根拠であるとすれば、第2章の「幽霊興行」とは、また詩のしぐさでもあり、そのレーゾン・デ-トルについての、視想であるようにも、僕には読まれてくる。第2章の詩篇「血まみれ砦」は、身体感覚全開で詩を読み視想することの快感を、存分に味わわせてくれる。

・・・吊るされ続け/   (吊るし続け)/行方不明の/   (真夜中に)/居場所を探す/   (悲しみの)/この砦に/   (「はじめまして、」)/笑顔を返す囲い/   (胴体と切り離して歩かせてみろ)/獲物は遍歴の中身だ/   (本当に持っているのか)/死は心を持っている /   (蹂躙された泉のように)/我々は歩くたびに/   (厄災をくべながら)/心に近づいていくだけだ/   (砦の入口に)/ゆっくりと忍びよって/   (心の気配を)/獰猛な犬のような概念を/   (嗅がせてくれ)・・・

 これから何度もひらいて、またあらたなことばの視想がわきあがってきそうな予感に、わくわくしてしまう(^^;。広瀬さん、ほんとにありがとうございました。


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2003年10月13日 月曜日

「野路」72号

 鹿児島で発行されている詩誌ながら、おそらく僕にはお初にお目にかかります、といった感じで、そこに寄稿されている谷口哲郎さんからいただいたもの。それにしても、表紙を飾る「盆地の村里」と説明のついた小高い山から見下ろした家並みのモノクロームの風景写真は、確かに説明の通りだとしても、そこがもうあのなつかしく閉じた時間の壷にまどろむ、かっての村落とは似ても似つかないものであることを、僕たちは知っている。ロングショットでもチラチラと感触される近代的な家々では、ここにいてここにあらずの時間が程度の差こそあれ気ぜわしく支配的に渦巻いていることも。しかしながらこの詩誌の雰囲気はそうした事態を極力ロングショットにカバ-して、詩の言葉であえて対峙するのではなく、まだどこかにのこっている「村里」の時間を懸命に探し求めてはそこにもぐりこみ、そこで貪欲に生きようとしているひとの姿をどうしても思い起こさせてしまう。主宰者の蔵薗治巳さんが得意とする方言詩は、地元の時々の紙媒体などで拝見して、僕なども読むのは好きな方なのだが、はたしてそれを詩として楽しんでいるかというと、ちょっと違う気がしてくる。そのあたりをどう感じるかで、この詩誌への好みもあるいは別れてくるのではないだろうか。やわらかな生活詩、くらしの風景のなかの幻想的抒情詩たちのなかで、谷口さんの2篇の詩「燕たちの囀りを翻訳せよ!」 「川のなかで引き裂かれた姉たちの声を鏡に映せ、四月!」の、硬質な、詩についての詩、詩のことばについての詩が、どうにも浮いてみえるのが、気になるところだ(^^;。しかしながら、また同時に、妙に「野路」の時間の中に溶けこんでいるようにみえるのも・・・。かっての「封印」(稲川方人)的言葉の状況を現在へとぎこちなく追認しているような谷口さんの詩の語り口なのだが、その力量には魅かれつつも、どうしても観念的な知の匂いが詩の身体性を希薄にさせていくようで、僕などはそれがさらに詩としてどう魅力的に転換していくのか、黙してさらに期待するしかないような、・・・うまくいえないですが、僕自身の読みの力量のなさかも(^^;、ですかねえ、谷口さん。

詩誌「野路」=発行所・野路社(鹿児島県揖宿郡山川町成川1418-5)

「ぺらぺら」9号

 この足立和夫さんの個人誌は、まえに8号を紹介させてもらっているが、そのあと、足立さんにはたいへん失礼をしたことがあって(^^;、気になっていたところでした。せっかくいただいた足立さんの詩集「空気のなかの永遠は」(編集工房向う河原)の感想を一度UPしておきながら、(僕としてはこんな暗めの感想足立さんに悪いと思ってやったことなのですが(^^;)、すぐに削除してしまったというわけで、目ざとくみつけた(^^;ご本人がそれを惜しまれたものの、あとの祭り、完全削除してしまっていたので、そのままになってしまったというわけでした。「会社員の孤独、とかいうと、ある程度この社会において暗黙に共通了解された共同体内部的な心的場所、というイメージがあって、それほど悲惨な感じはでてこないが、では、孤独な会社員、といったらどうだろうか。もともと共同体になじめないひとりの人間と、いまでは先端的な共同体ともいうべき会社との組み合わせが、暗く、ぎくしゃくとした軋みを予感させ、どうにも悲惨なイメージが、涌き出てくるのではないだろうか。明るさ(生産効率)重視へとなにがなんでも押しやろうとするこの社会が、暗さもなにもかも<わたしたち>の場所で骨抜きにし、<回収>していくシステムを鍛えあげつつ、そんな人種などまるでいないかのようにふるまおうとすればするほど、あちこちで軋み音は頻発し、この社会の在り様について、重く鋭い問いを発してくるようにも」・・・とかなんとかで(^^;、はじまる文章でしたが。それがどのように足立さんの作品世界につながっていったかは、いまとなっては記憶にございません(^^;。―こんど久しぶりにいただいた「ぺらぺら」9号(03・10月)は、金井雄二(覗きのおじさんに題材を取った詩篇「夜がまばたきしている」)、田中宏輔(メールによるゲイ同士の出会いのやりとりについ引きづりこまれてしまう?詩篇「(163・67・21)×(179・93・42)」など)、桐田真輔(「極彩色の鎧」と「長い槍」をもって、「二十年も前」にであった「闇の中に身をひそめ」るひとが、色々とイメージをそそる「地下の人」という詩篇)各氏をむかえて、中でも足立さんの「「まがる夜に」 「奇妙な空のなか」の2篇が、ぽつんと世界に意味もなく投げ出されたもの思う生き物としての「ぼく」の、「草のように/世界を喰っている」孤独の寄る辺なさが、迫真の空間をひろげている、と感じられました。

谷口さん、足立さん、ありがとうございました。

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2004年4月18日 日曜日

昨年11月から現在までの、いただいた詩誌、エッセー集など取り急ぎまとめて。

「グッフォー」40号
「グッフォー」41号

 中村千代子「めぐり ⅩⅥ」(40号) 原雅恵「傾いてゆく夏の道」(40号) 青山誉支江「仄暗く、のびあがる水底」(41号) 桶谷真季子「夕凪の惑い」(41号) 土屋一彦「納豆問答」(41号)など、それぞれ10人、12人の書き手が名前を連ねている。どうやら「グッフォー」存続ということで、水出みどりさんなど新しく創刊された詩誌「まどえふ」に流れていった同人たちとの関係は? など、気になるところ、です(^^;。巻末に添えられた31号~39号までの「作品リスト」には、水出さんなどの名前がきれいに消えてしまっているのも・・・。今回は土屋一彦さんからいただきました。

「部分」23号
「部分』24号

 
三井喬子さんの個人誌。23号は、宗清友宏(「白色矮星」 「鉄の輪廻」)、福田拓也(「memories」 「帝国論」)両氏を迎えての、交響するような三井さんの作品「悲の南面」 「盲目の歌」が、散乱する時代の視線と、その統覚への哀しい強迫観念がはからずも作り出してしまうような、意識の<くぼみ>を浮き上がらせていて、(僕には22号の「来る人」の余韻がまだ強烈とはいうものの(^^;)しんみり言葉が吹き寄せてくる詩篇となっている。また24号でのゲスト川端隆之氏の散文詩「告別」をめぐってのもう一人のゲスト橋本薫氏とくりひろげるリミックス詩のこころみも、その内容とともに興味深く読ませてもらっています。それとは別に、巻末に添えられた三井さんの詩「ナミノウエ」は、連れ添う<祖>の文字が蛆にみえてきてしまう程に(^^;、沸きいずる記憶の哀切さが染み通る佳品。かって南島航路をむすぶ波之上丸という船があって、その停泊する名瀬の港の風景をつい思い浮かべてしまいましたが、作品は違和感なくその南の風景の粒子にも溶けこんでいくような・・・。

「ユルトラ・バルズ」10号
中本道代エッセー集「空き家の夢」(ダニエル社)

 廃屋、草いきれむす、その<のちの、声>に満ちた空間。中本さんの詩人としての資質が電子のように飛び交う舞台を、散文語りで丁寧に語り起こしたようなエッセー集「空き家の夢」を読んでいると、ふと<いのち>とは<い・のち>(斎・後?)のことかと、その触知する力のことかと、僕の妄想癖もいたく刺激されるほどに(^^;、腑に落ちる言葉で、静かに思念していく確かな歩みが、ここちよかった、です。折に触れての新聞や雑誌、同人誌に書き接がれてきた文章で構成されているが、中里介山「大菩薩峠」について書かれたいくつかのエッセーなど、読み応え充分。また同じく中本さんからいただいた「ユルトラバルズ」10号も、詩の言葉の存在感以外ではない迫力ある不思議な語りの風景を現前させ続ける江白充さんの「小柄な人」という作品を巻頭に、中本さんの4篇の詩(「わたしたちがどんなに幸福であったか」 「奥の想い」 「夢の家」 「変奏」)や、國峰照子さん「Card」 「から」、阿部日奈子さん「縮みゆく言語野」、そして杉本徹さんの「黒鍵のカラーラ」や「銅版の疵」など、なんというか、現代詩に食傷しているなどという紋切り型の枕ではじまる、ここ鹿児島の文学賞選考委員詩人先生の、わかりやすい<意味>に感動するだけのような視線に食傷している身にも(^^;、心強い滋養となる作品に満ちている。「ユルトラバルズ」はまた、詩ばかりでなく、エッセーや論考も充実していて、「坐禅の階梯』を表わした「十枚の水墨画」を興味深く読み解いていく國峰照子さんの「十牛図を読む」をはじめ、秋元幸人さん「森茉莉三都物語 第二章」、中川千春さん「詩の永遠について」など、知らぬ間に読み浸っていました。

「暗射」2004・冬号
「elan」15号からのコピー
 笠井さんの連載<視線で刻む>も12回目。今回は「戦中の上海と戦後の東京をつなぐもの」と題して、「東京ブギウギ」などの作曲で知られる服部良一氏の、戦前から戦後にかけての活動の軌跡を追うことで、「服部良一が戦後すぐ笠置シヅ子でブギウギのリズムをヒットさせた経過、『青い山脈』『お染め久松』などの映画音楽で戦後の解放感をいち早くメロデイに乗せえた要因など、戦中から戦後にかけてのポピュラー音楽や歌謡曲、映画音楽の原点をたどるため」に教えられたという、上田賢一著『上海ブギウギ1945』という本を取りあげていて、政治的背景など、興味深い文章となっている。笠井さんがビデオでみているという戦前のいろいろな映画の題名をみていると、僕もどこかのライブラリーで見つけてきたくなりました。そのほか「暗射」には、好調連載の前島俊一さんの<みみずのたはむれ3>「痴漢書評・なめまわす」や清水三喜雄さん<沖縄で考えた⑭>「寄らば斬るぞの殺気(8)ー目取真俊『魂込め』(承前)もおもしろく読ませてもらっています。それから、笠井さんからはいただいて間もない
「elan」15号掲載の「この腐敗した世界のなかで・・・あるいは「少女A」の肖像」というエッセーのコピーが、共感するところ多々、でした。どれがどの事件だったかもこんぐらがってきてしまうほどに頻発する、この時代の少年少女の猟奇的事件のひとつに、お互いの家族の皆殺し、心中までのしばしの同棲の計画、などグレードアップしたコンテンツで?加担した16才の少女が、「禁忌の接吻」というウェブサイトをもち、桃寿というハンドルネームで自身のリストカット写真や「狂気の唄」と題した一連の詩を公開していたというので、去年話題を呼んだが、笠井さんの掲示版でも色々その詩についてのやり取りがあって、僕も笠井さんに次のようなメールを送ったりしたのを覚えている。「…僕の印象では、この少女個人について批判的に云々する気はどうしても起きてきません。それなりに時代に正直に反応している、ある意味まっとうな症例の少女?、ではないでしょうか。才能を感じさせるのにどこか生気のないじっとり視線の詩のような記述に、何が欠けているのかといったら、やっぱり、浮遊する<たましい>のようなものじゃないでしょうか。<たましい>(なんかおおげさに響きますが)がみつめる視線のようなもの・・・。そしてその欠落を本人も痛いように、感知しているような・・・。批判するより、なんか、ものがなしくなります。ガンバッテ、突破してほしいと思います、ですね…」などと(^^;。どのような詩か、詳しく言及することはしないが、長くなることを覚悟で,ここは笠井さんの文章から結語的な部分の引用だけをして、読者の判断にまかせたいと思います。・・・「ここにあるのは、異常であることを至上の価値としつつも、表現としてはあくまで仮構された少女像、仮構された世界である。そのことを確認した上で、けれども「ゲラゲラケタケタ哂う民衆は/歪んだ青空に光を見ています」(「刻」)といった少女の表現は私たちの生きるこの世界の現実と重なる。アメリカの民衆はイラクの人々に無数の劣化ウラン弾を打ち込み、日本の民衆は米軍の非道に従属する日本政府を支持する。これが世界の腐敗している証でなくて何だろう。世界は醜悪な檻であり、非道と狂気に満ち満ちている。それを少女Aは感受していた。少女Aは、20篇の最後近くにはっきりと書き残している。「ここは居るべき場所ではない」(同)と。少女Aを批判するまえに私たちがすべきなのは、民衆たちの腐敗の根源をまず凝視することだ。可能な道はその果てにしかない。」・・・

「まどえふ」2号
 
友澤蓉子「な行も雫も」、水木俊子「失われた虹」、古根真知子「深い場所」、橋場仁奈「十二月の海月」、水出みどり「ゆらゆら揺れる」、石黒泰助「荒廃」各氏の作品。石黒さんのイラクの「荒廃』を思わせる作品は、その怒りの感性があまりに劇画的にすっきりしすぎて、僕にはいつも異和であるような視線に感じられましたが・・・古根さんの言葉と唇のはざまに向けた視線などが、ちょっとおもしろかった、です。

「ぷあぞん」18号
 「さざめき、漂流のための秘めやかな足許を」 「せめて隘路のひそかな火」の、いつものようにうねる波のような詩行が延々とつづいている長篇詩二篇ですが、いただいてから日にちばかりが過ぎて行ってしまい、これはまだまだちゃんと読み込んでいないということで(松尾さん、すみません)、これからの楽しみにとっておきます(^^;。それにしても、なんか緊張の糸が切れたように、パソコンに文字を打ち込むことができなくなってしまっていますが、いただいたお礼もしないまま、皆々様、ほんとにながい間失礼の程、ありがとうございました。それから、こんど新詩集をだされた青木栄瞳さんの最新作が、来月発行の「文学界」6月号に掲載とのこと、ご本人から情報戴いています。これもたのしみ。

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2004年5月31日 月曜日

青木栄瞳詩集「ヘクトパスカル200X」(思潮社)

・・・「ガリレオ・ガリレイ・ガリレオ・ガリレイ/ガレリオ・ガレリイ、/――ガレリオ、//レオ。/――銀座5丁目では、/携帯電話の私用は、御遠慮ねがいます。//レオ・レオ・レオ、リレイ、リレイ、//――璃麗の恋人は、/レオレかしら? レオレは、今、幸せ?/――昨晩は、ご馳走様でした。//ガリレオ・ガリレイ/――ガレリオ、//レオ。/――ガリレ君が、レオレ君にお会いしたいそうよ、/――レオレ、直球には、弱いんだ、/ガリレオ・ガリレイ、ガリレオ//レオ。/――ガレリオ君の、レオって、/璃麗君のこと?/――きのうのこと、レオレ、「夕立猫」を、轢いちゃった、らしいの、・・・」(「ガリレオ・ガリレイ『天空にもピアス』」より)

 大気に浮遊する時代の雑多なメデイアのことばを、貪欲に取り込みながら、その言葉の感度をまるで台風一過の青空のような開放的な異空形成へと変容させることで、詩的(ステキ(^^;)なワクワク感を僕などにも与えてくれているエ-メ詩集の第6弾12篇。「瞬間密度120%の生命(エロス)の輝きのことらしい」第1詩集「カパ」にはじまって、マグニチュード、ボリューム、ヘクトパスカルなど、青木さんの詩世界は、生命エネルギーのあふれる現実への、乱暴なと見紛うほどに肯定的なイメージに満ち満ちているが、ただ、それは時として、生命エネルギーのぶつかりあう<関係の暗さ>への視線を消去するようにして、たとえばこんどの文学界6月号掲載の、紙おむつ履いてお年寄りも恋をしてね、といったそれ自体は楽しい青木さんの詩作品も、どこかメデイアそのものと化したような、物足りなさとなって映ってきてしまうのが、ここにきて僕には青木詩のスリリングなあやうさ?でもあるかなあと、思われてもくる今日この頃ではありました(^^;。おなじ文学界6月号には、偶然なのか、「介護入門」という(僕などには気恥ずかしさが何度も反転しながら深まっていくような)文学界新人賞小説も紹介されていて、これが<関係の暗さ>に密着したような明るさで、過激な介護ゲリラと化したような迫力で迫ってきたのが、青木詩との対比で、おもしろかった、です。・・・なんて、紹介遅れついでにわかったふうなことほざいていますが(^^;、青木さん、ありがとうございました。

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2004年7月16日 金曜日

松尾真由美詩集「彩管譜―コンチェルティ-ノ」(思潮社)

 松尾さんの第4詩集。こんどの詩集は、46版というコンパクトな造本に加えて、それぞれ「翔」 「揚」 「溺」と漢字一文字の題名が付された35の詩篇が、見開き2ページにきれいに1篇づつ納まっている、というつくりになっているのも、これまでの山脈をまたぐようなエンエンとした言葉のうねりが1篇の作品をなす松尾詩の世界を見慣れた読者には、一見して様変わりしていて(僕などには読みやすそうでもあるし(^^;)、面白い・・・と思いきや、読みすすめるにつれて、すぐにあの松尾詩の言葉のエンエンぶりは頭をもたげてきて(^^;、「半月の日/硬骨がふるえ/ようやく受胎がはじまる/辺境の出来事のささやかな触手にうもれ/この徘徊はつねに背後に耳を感じて/遠く近く密約をのぞむ/追跡と追認・・・」(「翔」)にはじまり、「そうして/あの朝をむかえ/未分化の蝶のまま/ひりひりと点景へ帰す・・・」最後に置かれた作品「解」まで、これはまさに分割されてそれぞれがさらに壮大に交響してくる、詩集自体がかろうじて1篇となった、終わり様のない作品としても、しだいに感受されてくるようになっているのだ。松尾詩については、「長々と壮大な地形を移動していく感じの言葉のしぐさも、あくまで<そこ>、詩の虚空のヒカリという1行をめぐるものであり、ねじれ、畳み込まれた<そこ>に揺動し、遠心分離されて、震えるように姿をあらわす詩語たちの、スリリングな立ち顕れ方に、松尾詩の(生の)全行が賭けられている」とか、「みえないものがみえないままに、僕(たち)をさわだたせ、僕(たち)をつなぎ、僕(たち)を懐かしく引きはなしていたもの。チリチリと粒子状に充満し、うごめく、いまだ/けっして、容(かたち)をなさない<鏡面>」といった身体ー空間への凝視について、あるいは<退行>について、等々、これまで雑感コーナーやここのコーナーにおいて、僕なりに抱いている感想を述べさせてもらっているが、より魅力的になっていく情景描写とともに、僕にはこれまでの感想をよりいっそう強めるようにして、詩の言葉が奪取しようとしている場所についての思いを、さらに深めてくれる一冊となっているように、思われました。・・・といいながらも、これもずいぶんと紹介遅れて(さぼって?)しまいましたが(^^;、松尾さん、ありがとうございました。


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2004年8月25日 水曜日

「部分」25号

 毎回実力あるゲスト寄稿者を得ての、発行者三井喬子さんの緊張感ある競作の熱が伝わってくる個人誌であるが、今回は、三井さんの、これはたぶん雨の中を走り回るひとの情景から発想したと思われる、濡れながら追いかけ、逃げる、介在する家族の、無意識の心理線のデッサンといった趣の「犯人」という詩など2篇に対して、「さすらいの口笛」という、僕などにはある時代のある種の匂いさえすぐに漂ってくるなつかしい題名をひっさげての、広瀬大志さんが登場。「逝くのか?/狼煙が黒いから」という鮮明に抽象化された問いと理由にはじまる、詩の、荒れ野の、都市の、<わたし>の、重層化された擬物語風の語りと展開が、「その火の黒さが狼煙である」ような時代にむかっての、(言葉の)体験の思考を促していくような作品を提出している。

「暗射」2004・夏号

 笠井嗣夫さんの<視線で刻む14>は、「「剛操の志」を知らないものたちの悲喜劇―デイヴィッド・ブロック『ネオコンの陰謀』(朝日新聞社)」となっていて、こういう本を書いたにしても、「情緒的な転向」によって政治思想的な魂=「義とする志」を喪失したようなジャーナリスト・ブロックの遍歴について、笠井さんはある種の好感を寄せながらも断罪しているのだが、読みながら、僕にはどうも笠井さんの文章の力点は、ブロック批判というよりは、むしろ転向一般についての批判、嫌悪の表明の方に置かれているようで(^^;、いわばブロックをダシにした「剛操の志」を知らないものたち」批判となっているように読めてしまうのが、気になるところではありました(^^;。「一般的にいえば、転向するものは状況認識に鋭敏であり、いつも思考力をフルに動員している。だからあえて転向を決断するのだ」、との転向者認知が、つまりはいきなり「状況の損得勘定を鋭敏に嗅ぎわける転向者の心理は測りがたい」との内実になっていく笠井さんの文章の構成は、「拷問のない時代のわが転向者とその追随者たちは、何に怯え、何に屈し、大切な羞恥心を何処に置き忘れてきたのか」と、<外部的な圧力と「義とする志」との関係>に主眼を置いた感慨から、後半の「情緒的な転向」、つまりは文章読ませてもらった限りでは、思想的変節=世渡り上手?のブロック問題につなげていく通路となっているわけですが、物理的拷問などなくても、たとえば<義>そのものの認識的関係の変容によって、転向(というか、笠井さんのきらいな?かの吉本隆明はどこかで、転向ではなく転入だといいたいと(^^;、つまりは世界の方向を単に転ずるのではなく、世界へ入る入り方が不可避的に変ってくるんだという意味かと、僕などは理解しますが・・そんなこといっていたと記憶します)、そんな転向もありえるのではないでしょうか。・・・これ以上エラそうなこというのはやめますが(^^;、どうもこの種の問題になると、僕は笠井さんのものの考え方についていけなくなるので、困ってしまいます(^^;。笠井さんの文章と並んで、同じような問題を扱った清水三喜雄さんの「遠藤周作『沈黙』再読(下)が、笠井文を相対化するようで、興味深かったです。また前島俊一さんの<みみずのたはむれ5>や付録になっている別刷りの「悶熱閑話」の独断怪調ぶりは、今回も読者としておおいに楽しませてもらいました。


 それにしても、イラク、沖縄の守るべき者を守らない、軍事的秘密のやりたい放題にささえられた民主主義国家なんて、いったいどこがいいんだと思う、毎日ですが、笠井さん、三井さん、ありがとうございました。


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2004年9月13日 月曜日

「分裂機械」14号

 粕谷栄市「田螺村」 「へろへろ」、 辻元よしふみ「マリー・アントワネット」 「ハンニバルの橋」、 青木栄瞳「マジョリカ「解離録」」、 田中宏輔「WE NEED THE POOH。」、 小笠原鳥類「グラフ」、 阿部裕一「逝く夏に」 「四人の友人」、 大杉卓二「ある冬の日の妄想」 「力なき野性」 「頭脳列車」、 島津玲子「真夏の手紙」、 遠所秀樹「夕の斜面」、 井原秀治「ある男の瑣末な物語」 「みんな死んじまった」、 エッセー=ヤリタミサコ「ギンズバーグはどうしてホイットマンが好きだったか(4)」

「まどえふ」3号


 水出みどり「物語」、 橋場仁奈「犇めく五月の」、 かがひろこ「出来事ーCircumstance」、 水木俊子「すれちがって」、 古根真知子「あちら」、 石黒泰助「切り株」、 友澤蓉子「ふりつづくきりさめ」

 「分裂機械」ははじめての紹介ですが、青木栄瞳さんからいただきました。青木さんや、粕谷栄市さん、小笠原鳥類さんなどの独得の詩法を持った作品がずらりならんでいて、、じっくり読むのが楽しみですが、今回は都合により目次紹介を取り急ぎ。「まどえふ」も、介助する老いた母親との関係の機微を、母親の一瞬のまなざしに象徴させて描く、水出さんの作品はじめ、なつかしげな北の空気に飛び交う言葉を味わうのが楽しみですが、取り急ぎ。青木さん、水出さん、ありがとうございました


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2004年10月16日 土曜日

関富士子詩集「植物地誌」(七月堂)

「あなたの寝室の柱に巻きつく、鑑賞用の蔓/植物。巻きひげを葉腋から出して、いつも同/じ場面をめぐりながらよじ登る。     / テラスにたたずんで待っているあなた。そ/の胸の高さほどのテーブルがある。椅子は5/脚で、背もたれの先端近くにとげがあり近寄/れない。皿は5枚で内面の色は白か淡紅。お/茶は注がれていない。はげしいのどの渇き。/ナフキンも5枚で淡紅色(ときに淡青色)で/いつもたたまれている。家族は5人か。ナイ/フも5本で柄が花糸で結ばれている。   / 葉には2、3の傷があるが、鮮明でくりか/えし巻きもどる。黄熟した液果をたらした、/うがい用の水のわずかな香りがある。副花冠/の記憶は糸状で多数。」(「トケイソウ」)

 「カバノキ」 「マクワウリ」 「ヤマグワ」などの題名で、総数31種類の植物を点在させての、植物図鑑的な生態説明の文体で展開される詩集からは、植物の呼気にあふれた、生き生きと停止したような時間が流れてきて、つい夢ごこちの気分にひたってしまう。この生き生きと停止したような時間からふくらんでいく幻想世界に、もうすこーし展開が加わったらとか、贅沢な望みなども抱きながら、でもさまざまな詩の場所をさぐりあてていく、こうした試みは、たのしくて、とても勇気づけられます、ですね。

「グッフォー」42号

 食物を、思いを、愛しいひとを、頬ばる、噛み砕く、飲み込むといった、生きることの反復する営みを、ことばのくり返しのリズムで感慨深く浮き上がらせる清藤英子さんの「かみしめる」という作品はじめ、桂本千里「やわらかい不在」 中村千代子「めぐり ⅩⅧ」 土屋一彦「Zoo」 岡巴里「Blue」 福島董子「壊れる原型」 金子啓子「めぐり・めぐりの春」 青山誉支江「召還」 木本葉「エチュード」 原雅恵「鍵穴」の10作品。

山中 六詩集「天の河―一行詩の試み」(南方新社)

 この安直なふざけた詩集については、ほんとは別のところで「飛んで火にいる夏の虫斬り!」でもやらかしたいが(^^;、いまはその理由とともに静観することにする。とにかく、まわりの誰も言わないようだから、僕がいうけど、むっちゃん、甘やかされすぎ(^^;。これ以上はいいません。

ともあれ、皆さんありがとうございました。

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2004年11月3日 水曜日

別冊・庭園」4号

 白い外装の巻き箱と表紙が合体したようなつくりの、洒落た静謐さの漂う詩面に、中村鐵太郎「一性工場と同時大福」 たなかあきみつ「闇の線」 支倉隆子「宇宙の兎/風景論」 外山功男「ハッピSARSデイ通有」 渡邊十絲子「緑豆苑」 松尾真由美「さらにただよう塵の孵化から」 淺山泰美「ミセス エリザベスグリーンの庭に」 小池田薫「黒光りの真昼」 白鳥信也「微水」 遠藤志野「朝食」「回転花」 田代芙美子「記憶」 みつ山すず江「ひらひら、ひらひら」 細見和之「喜望峰まで」 広瀬大志「ホット スタッフ」 北川有里「つなわたり」 萩原健次郎「果実の失踪」 と、たっぷりとした言葉の海のひろがる、16名の詩群が波打っている。たなかあきみつさん、支倉隆子さん、渡邊・・・いやもう魅力ある作品がおおくて、黙って味わうほかありません(^^;。松尾真由美さんからいただきました。ありがとうございました。

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2004年11月12日 金曜日

「ぷあぞん」19号

 松尾真由美さんの個人誌。こんどの号は、詩ではなく詩に関するエッセー「旅の記憶もしくは越境の硬度について」の1本が、上下2段組み10頁にわたって、しかしながらこれもどこかほとんど詩のような語り口で、びょうびょうとしたことばの原(砂漠?)をひろげている。これは後の註にあるように、入沢康夫の詩集「遐い宴楽」所収の「旅するわたし―四谷シモン展に寄せて」という作品に「触発されて」書かれたものだそうだが、その作品からの数行づつの引用にからまるように、しかしながらけっして入沢詩論ではなく、その共感することばの感度をひきうけるように、さらにそのむこうの世界をおしひろげていくようなしぐさで、つまりは松尾詩のことばの欲望する指先の、エロスの秘密をかたっているように、読まれてくる。

「……それは、ただ、そこにある。気化に耐えるための放置の儀式のように天を仰いで、この地平のかすかなところで、かすかなひかりを放っている。あとでない組成の、紙の上の言葉の、あやうい強度の、生も死もひそませた気まぐれな源泉なのだ。いつまでもひそやかに貪婪に眠っていて、あなたのくちづけで目覚めるのだろう。それほどに、来たるべきときをつねに待ち、横たわり、横にすべって、救済を求めている。どこでもない場所のこのささやかな可能性は、永続的に空間をただよって、署名がなくともだれかがいて、だから、虚構の断片がきらめきつつ、ひらひらと宙に遊ぶ。宙に遊んで……」

 「それ」とはなにか(どこか)。「あなた」とはなに(誰)か。いつまで引用してもしたりないように(^^;、しかも、そのエンエンとした語りだけが意味をもつような、僕たちの生に関わり、関わることでつねに「遅滞であることが自明」であるような、とてもだいじな場所について、硬質ながら、なつかしく喚起してくるように、思われました。松尾さんありがとうございました。


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2005年1月17日 月曜日

「部分」26号

 三井喬子さんの個人誌。ゲストに、今回は北海道の詩人笠井嗣夫さんをむかえて、笠井さんの、痕跡と化してなお疼く傷をなぞるような、凄惨なあまやかさともいうべき旋律で「かすれた歌声」に身を傾けつづける作品、「歌うひと」に対して、言葉の軽重、一見対照をなすような、ほんわかと軽やかな北国のおとぎ草子のような世界を描いた、三井さんの2作品「紅葉の宿」、「越前府中丁稚羊羹伝来異説」が、読後妙に異和感なく、同質の空気に溶けこんでいくようなのが、僕のあさはかな感性のなせる業かもしれず、でも、おもしろかったです。
 
「暗射」秋号

 笠井嗣夫さんのシリーズ<視線で刻む>も15回目。「私たちという映画は、妄想で息をする」と題して、今回はキム・ジウン監督の韓国映画「箪笥」について。笠井さんが「ホラーとして宣伝されたが、私は心理サスペンスだと思う」と書かれているこの映画は、僕も暗射をいただいてしばらくしてのこの暮れに、新作ビデオで入ったところを1度だけおもいきって(?)借りてきて観たのだが、確かに、人間関係からつくりだされる心理的妄想劇のリアルさが、ゾッとする恐怖を呼び込むしかけになっているものの、まさにこの妄想の実体化が、効果音と叫び声の強制的な脅しつけで無理矢理恐怖を投げつけてくるこの種の映画は、僕にとっては、まずなによりも、まぎれもないホラー映画以外のなにものでもなかったですよお、笠井さん(^^;。ぶるぶる、。なにしろこわがりが夜中ひとりでみるので、心理サスペンスとして、1度観ただけではわからないと笠井さんも書かれているこの映画の色々な謎については、確かめようにも、もう1度観る勇気がなかなかでてこない、というのがナンギなところではありますが(^^;。この種の映画は、映画コーナーに以前書いた「アザ―ズ」以来でも、和洋あわせての「リング」映画とか、あといくつくらいか、観たい作品はほんとにたくさんあるのに、数えるくらいしか観れていない、というのが現状なのであります。とほほ。―ま、それはそれとして、笠井さんの文章は、作品を語りながらその作品を観た映画館のことから、体にのこる映画の時間的匂いのようなものにまで言及していって、それが回りまわって「大きなジグソーパズルのように複雑に入り組ん」だ、人間の視線の「主観と客観」のモンタージュで成り立ったような恐怖をみせつける、この映画の核心へとつなげていくあたり、さすがに読み応え充分でありました。


 いずれも去年の秋にいただいた詩誌ですが、三井さん、笠井さん、ありがとうございました。

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