(二)
父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第12章「「もの」と「まどひ」を2回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)

論考もくじへ
(下)
 「まどひ」(惑)という語は、国語には、「とまどひ」(戸惑)などの複合詞があるが、奄美方言では、なお、多くの複合詞を構成し、中には、まったく微妙な意味を生じているものもある。
 よく、「・・・・マデシュル」(・・・・まどひする)と熟語動詞を作って用いられ、英語のルーズ(lose)やミス(miss)の意味を思わせるものがある。
 トリマデ(取惑) 分配の品など全部人に取られて残品なく、もう取るものがなくて、心惑うこと。取るべきものがなくて困ること。
 ウチマデ(打惑) せっかく打とうと思っている鳥が飛んで行って、もう打つ対象を失って当惑すること。これと、ウチソコネ(打損い)とは、微妙な意味の差異を生じている。
 次にふつうの名詞との複合詞を掲げてみる。
 ウヤマデ(親惑) 親を失って困ること。孤児のことを、ウヤマデックヮ(親惑子)という。
 ヤ―マデ(家惑) (1)住むべき家を失って、または、住むべき家がなくて当惑すること。(2)夜など、帰るべき、または、たずねるべき家を見失って迷うこと。
 ミチマデ(道惑) 道を見失って当惑すること。道に迷うこと。
 スマデ(巣惑) 鳥が巣を失って、または巣がなくて迷い歩くこと。
 シームンマデ(仕物惑) することがなくて当惑していること。これは比喩的副詞句としてよく用いられる。
 シームンマデシ(仕物惑して)、といえば、「ほかにするものはないかのように、やたら無謀に」の意となる。「シームンマデシ、時計破プタン」(いくらするものがないからといって、時計までもこわすとはひどい)
 イノチマデ(命惑) 命を失って困った事態になること。「アブネ、命惑シュタン」(危なく、命を失って、困ったことになるところであった)
 ショウマデ(性惑) 本性を失って迷うこと。しかし、これは比喩的意味で「ショ―マデシ」(性惑して)として、副詞句にだけ用いられる。「本性を失ったようにあわてて、大急ぎで」の意になる。「ショウマデシ、イジャン」(大急ぎで行った。あわてて行った)
 ドマデ(胴惑) 人のことばかりはかり、自分は損失して当惑すること。「たます打ち果てて、胴や胴惑」(分配し果てて、自分の分は残らずに心惑う)
 この島の方言では、身体とか、自分という意味を表わすのに胴(du)という語を用いる。なお、その複合詞を求めるならば、
 胴カブリ(みずから損失を蒙ること)。胴カベ(みずからをかばうこと、自分で自分のことをすること)。胴モリャ(胴守、子供などが子守りもいらずに自分で遊ぶこと)。胴勝手(自分勝手)などがある。
 シゴトマデ((仕事惑) 仕事がなくて困ること。失業で迷うこと。「シクチ」と「シゴト」は同語であるが、こんなに、音韻の変化によって、意味分化をも生ずるに至ったのである。
 トリマデ(鳥惑) (1)鳥がいなくて、または、鳥を失って困ること。(2)山鳥が戸惑って人家に飛び入るときは、何か不吉なことが、その家に起こる「ものじらせ」(前兆)として、その家中の者が、その家をあかして、二、三日野宿する信仰習俗。
 もう、今日では「トリマデ」の習俗もすたれているが、五〇年前ごろまではまだ行なわれていた。広く南島では、山鳥は、山の神の使者であると信ぜられたらしい。山鳥が飛んできて、人家に迷いこむのは、山の神が、邪悪の通過を先触れするのであるから、家をあかして、通路を作らなければ、そこが「ふさがり」になると、邪悪が、そこに淀み、その家の者に、災厄がふりかかる。それで、そんなときには「鳥惑に出る」といって、一家中の者が家をあかして野宿して、邪悪の通過を待ったのである。
 山鳥が人家に舞いこむといっても、通常桁より上の方に止まる時が問題であったらしい。そんな時には、その山鳥をつかまえて、頭に白い糸をつけて飛ばす。殺してはならない。殺すとかならず家族の者に災厄が起こる。鳥惑に出るのも、すぐ出るのではなくて「モノシリ」(巫者)にはかり、野宿の方角を占わせ、吉日を選んでこれを行なうのである。。また、野宿する場所は、自分の家が見える所であってはいけない。二晩の間、野宿する。今日からするとキャンプみたいなものである。二晩が明けると、誰か酉年の人を頼んで、これを先頭に立てて、一家の者が家帰りをするのである。
 この先導者は、手に小石を三個持ち、家の前に来ると、手を後手にして「赦免のがちたぼれ」(赦免して、のがして下さい)と唱えながら、三つの小石を一つ一つ投げて、三回戸をたたいてから家に入り、家族の者が、これにつづく。
 それから巫者を呼んで「三献」をなし、祓いをする。
 鳥惑に出るときは、地炉の火は、灰をかぶせて、きれいに生けておくのであるが、再度帰って来てみると、この灰の上には、例の山鳥の足跡がかならずついていると信ぜられる。
 ある鳥惑に出ている家に、盗人が忍び入って藍を盗んでいた。そこへ、ひょっこり、その家の主人が帰って来てみると、障子に人影が映っている。誰だというと、その男は逃げ場を失って、藍がめに飛びこみ、猿に化けてしまった。それで、猿は手足が今でも青色をしているとのことである。
 こうした教説は、鳥惑に出た家を、盗難から救うためのものであったろう。こうした習俗もだんだんすたれ、「はらい」だけですますようになり、もう今日では、まったく消失したようである。

(了)

                                                論考もくじへ  

更新日2002年6月15日
                               ホームへ